第二節 事物の活動としての思考

                ジェイムスとの相違、「科学の方法」

 事物が他の事物を指し示す事物の記号活動が思考であり、取りも直さず人間だということは、人間の生活が思考の連続だという命題と関連させますと、どうも人間の思考過程と事物の指示過程とを全く同じ事態として把握しているように推測されます。これはジェイムスの根本的経験論と同様な主観・客観図式の超克論なのでしょうか。

 ジェイムスは、純粋経験を反省すれば、経験の主体としての主観と対象としての事物に分かれるとしました。ですから純粋経験の機能的なあくまで便宜的説明概念として主観・客観図式を了解したのです。ところがパースの場合はまず事物があって、それが意識に思考としてもたらされる構造になっています。しかも思考は、事物が事物を指し示して記号となり、更に他の事物を指し示すという形で発展し、認識が深まっていく形をとります。客体としての実在は一挙にもたらされるのではなく、人類の無限的な進化を通して真理に無限接近する構図なのです。一見紛らわしいのですが、ジェイムスはパースの事物実在論を切り捨てることによって、根本的経験論を確立したと言えるのかも知れません。パースにすればジェイムスの論理は「科学の方法」を否定する論理であり、到底納得できませんでした。

 ジェイムスとパースの違いを明確にすることがパース解釈の鍵だと思われますから、「探究の方法(原題The Fixation of Belief)」から引用しておきましょう。

「『外的な永遠のもの』が天来の霊感のように特定の個人に作用を及ぽすに過ぎない場合には、私たちのいう意味の『外的』なものではない。『外的な永遠のもの』は、すべての人に作用を及ぼすものでなければならない。その作用は作用を受ける個人の側の条件に応じて、当然種々相を示すが、新しい方法においては、すべての人の究極の結論が同じものにならなければならない。こうした方法こそ『科学の方法』に他ならない。この方法が前提としている根本的な仮説を分かり易い形に書き直してみると、次のようになる。『実在の事物があり、その性質は私たちの意見に全く依存しない。その実在物は、規則正しい法則に従って私たちの感覚器官に作用を及ぽす。その結果生じる感覚は、私たちと対象との関係に応じて異なるが、私たちは知覚の法則を用いて、事物の本当の姿はどうであるかということを推論によって確かめることができる。そして誰でもその事物について充分な経験をもち、またそれについて充分に考えを練るならば、ひとつの真なる結論に到達するだろう』」(70頁〜71頁)。Our external permanency would not be external, in our sense, if it was restricted in its influence to one individual. It must be something which affects, or might affect, every man. And, though these affections are necessarily as various as are individual conditions, yet the method must be such that the ultimate conclusion of every man shall be the same. Such is the method of science. Its fundamental hypothesis, restated in more familiar language, is this: There are Real things, whose characters are entirely independent of our opinions about them; those Reals affect our senses according to regular laws, and, though our sensations are as different as are our relations to the objects, yet, by taking advantage of the laws of perception, we can ascertain by reasoning how things really and truly are; and any man, if he have sufficient experience and he reason enough about it, will be led to the one True conclusion.

                   二、事物の思考を否定する固定観念

 事物が他の事物を指し示す記号活動は、人間の思考活動として展開するのですから、事物自身が思考していることには間違いありません。つまり事物が他の事物を指し示して、その後で人間がそれを見て思考で後づけるのではないのです。その意味では反映論ではありません。「指し示す」過程が人間の思考なのです。これは難解な話をしているのではありません。きわめて単純な事実なのです。難解にさせているのは実は読者の固定観念なのです。その固定観念は認識を主観の営みとしてのみ捉えているのです。

 物事を認識するのは認識主観であって、感覚器官と脳髄の営みだとほとんどすべての人が確信しています。もちろんその通りです。しかしそれは事の一面です。認識というのは認識対象が認識主観に自己を定立する活動でもあるのです。そんなことを言うと、認識される対象が認識するのは論理矛盾だと叱られそうです。しかし論理矛盾と感じるのは、認識を専ら認識主観の営みとしてのみ受け止めているからなのです。

 例えば富士五湖は富士山の姿を映していますが、湖が鏡になって富士山を映しているというのも真理なら、富士山が光を反射させて虚像を結んでいるのも真理だし、陽光を主体として捉えるのも間違いではないでしょう。ところがいざ人間の認識になると、対象自身の主観への働きかけでもあるという面を無視してしまうのです。

                      三、認識の主観性への固執

 その原因を私は、自我の排他的独占欲にあるのじゃないかと推測しています。交換の発生によって本格的に人格的な自他関係が生じたという私の推論が間違いじゃなければ、私有観念が強くて、自分の経験や思考内容を自分だけの営みと思い込んでしまう性癖を、自我は本性として持っていると考えられます。自分が経験したこと、自分が考えたこと、自分の記憶を自分の私有物のごとく見なすことによって、元々捉え所のない自我を充実させたい願望を強く抱いているんだと思われます。

 それに認識活動が感覚器官や中枢神経という大変精巧な器官の高度な機能を通して行われているものですから、認識に関しては何の自覚も関心も持たない筈の認識対象の営みと見なすのは、いかにも不当に思えるのかも知れません。そして事物は認識機能に外的な刺激を与えるだけで、認識過程には対象の事物は存在しないのだから、認識が事物の営みと考えるのはとんでもない倒錯だとの反駁も予想されます。

 小石を池に投げ込みますと波紋が出来ます。石の大きさと波紋の大きさは他の条件が同一だとしますと正の相関関係が認められる筈です。石の大きさは波紋の大きさで区別できます。波紋で石を区別したのは池の水でしょうか、それとも石が池の水を使って自分の大きさを波紋に表現したのでしょうか。認識対象の結ぶ像がより複雑か単純かの差は大いにあるとしても、人間の認識装置も知覚レベルでは、この池と原理的には同じです。

 確かに対象の事物は生理過程には入りません。センス・データ自体が感覚内容という生理現象に他ならないのですから。この事実に固執しますと、経験批判論や純粋経験論、フッサールの現象学に繋がっていきます。では感覚内容がすべて生理的な内的世界だとして、どうして人間には客観的な事物認識が可能になり、外部世界が開かれたのでしょうか。それは私の見解では人間だけが商品交換を媒介にして、お互いに対他的な関係を取り結び、生理的な表象をも他者としての外的事物の顕現と了解しているからです。そしてこの了解に基づく客観的な事物認識が主語・述語構造を持つ言語の完成に貢献し、物事の認識が飛躍的に発展し、それが文明をもたらしたのです。

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