第一節 人間記号論の文脈

              一、人間=思考、思考=記号、人間=記号

 「人間と記号は『ひと』と『人』が同じであるという意味において同じなのである」(166頁)。これは字面は違うけれど内容は同じだという意味です。「人間」は「記号」と全く同じ意味だと言うのですから、「人間は言語をつかう者である」とか「人間はシンボルをつかう者である」というような、ただ「記号をつかう」という意味で人間と記号が等しいのではありません。人間は記号それ自体だという意味なのです。このような表現の仕方に近いのは私の「人間商品論」です。

 どうしてそうなるのか、引用文の前後を詳しく検討しましょう。「実際すべての思考が記号であるという命題と、人間の生活は思考の連続であるという命題から、人間が記号であるということが証明できる。つまり人間と記号は『ひと』と『人』が同じであるという意味において同じなのである。こうして私の自我とは私の言語体系以外の何ものでもないということになる。何故なら人間は思考に他ならないからである」(166頁〜167頁)。For, as the fact that every thought is a sign, taken in conjunction with the fact that life is a train of thought, proves that man is a sign; so, that every thought is an external sign, proves that man is an external sign. That is to say, the man and the external sign are identical, in the same sense in which the words homo and man are identical. Thus my language is the sum total of myself; for the man is the thought.

 わかり易く書き換えてみましょう。「人間は思考に他ならず、人間の生活は思考の連続である。だから私とは私の述べた言語の集大成のようなものである。ところですべての思考は記号なのだから、人間は記号に他ならない」

 「人間が思考である」という人間定義は、パスカルの「人間は考える葦である」を連想させます。あるいはデカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」を思い浮かべられた読者も多いことでしょう。ところがパースの考えは実はデカルト批判に出発点があるのです。デカルトやパスカルの立場では「人間は考える主体である」ということにこそ人間の本領、人間の尊厳が主張されています。パースの場合は「人間は記号である」というのですから、思考の主体というより思考過程、思考活動それ自体が人間だという捉え方なのです。第四章でデカルトとホッブズを比較しましたね。デカルトは言語をつかう高等な思考活動まで機械である身体ができる筈がないことを理由に、精神的実体である魂が身体に入って思考活動をしていると確信していました。ホッブズは身体とは別の実体を精神活動について仮定する必要を全く認めなかったのです。脳髄の中の生理的活動であるイマジネーションの運動として、動物のアニマル(意志的)な活動だけでなく人間の言語活動も説明してしまったのです。思考活動、思考過程とは別に思考主体を実体として想定しない、この点がホッブズとパースの重要な共通点です。

     二、人間の本質としての思考の整合性は、事物の知的性質である

 では私が身体主義的限界を破っているのではないかと注目している下りを紹介しておきましょう。先の引用文に引き続いて引用しておきます。「以上のことを納得するのは難しいことかもしれない。しかしそれが難しいのは、人が自分の意志、つまり『肉体に対する統制力』といった非理性的なものを自分自身だと思っているからである。しかしそういったものは、思考を助ける一つの手段にすぎない。人間の本質は、人間が整合的に行動し、整合的に思考するということのなかに存する。そしてこの整合性とは、事物の知的性質、言い換れば、ある事物が他の事物を表示するという性質に他ならないのである」(167頁)。It is hard for man to understand this, because he persists in identifying himself with his will, his power over the animal organism, with brute force. Now the organism is only an instrument of thought. But the identity of a man consists in the consistency of what he does and thinks, and consistency is the intellectual character of a thing; that is, is its expressing something.

 「人間が思考である」という見解に対しては、意志や感情によって行動する面を強調し、そこにこそ人格や人間性を見出す見解が対置されてきました。カントの道徳論や本居宣長の主情主義的人間論は、その典型です。ところがパースにすればそういった非理性的なものも「思考を助ける手段にすぎない」というのです。

 パースの考えでは、意志や感情に基づく行動というものが事物の指し示している真理に従っているのでしたら、それは理性に基づく行動と区別する必要はないわけです。ところが真理というものが事物の側になく、主観が予め持っていて、それに合わせて事物を解釈しようとするのでしたら、それが真理であるかどうか確かめる術がありません。このような形而上学的な机上の真理は科学的真理ではありませんから、それによって事物の中に真理を示すことはできません。それを真理だと主張すること自体パースにはおよそ意味のないことなのです。

 「非理性的なものが思考を助ける」というのは、パースに従えば次のような意味です。人間は事物の示している整合的な関係を思考にもたらそうとしますが、完全な情報が得られていない以上、それが得られるまでは、完全な真理は認識できないことになります。不完全なデータによる不完全な思考に甘んじているわけです。しかし人間は思考の連続ですから、考えることを放棄できません。そこで根拠が明確でない断定を判断に加味せざるを得ないわけです。ですから情感も事物の述語にすぎないことになります。小林秀雄は、本居宣長の「もののあはれ」論を評して「情感による認識論」と述べていますが、これはパースの議論に通じるところがあります。でもパースの場合とは違って理性的認識より低く見ているわけではありません。

 ともかく事物の示す関係を記号として読み取ることが思考なのです。ただし「整合的に行動し、整合的に思考する」場合の「整合性」は、「事物の知的性質」であり、それは「ある事物が他の事物を表示するという性質」だと述べています。「ある事物が他の事物を表示するという性質」は事物が記号だという意味ですから、この事物の知的性質こそ思考そのものであり、人間に他ならないという帰結になります。

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