やすいゆたかのくすのき塾講演集

200884日と18日

平城天皇の哀しみ


 

やすい ゆたか

 

1.人麿は平城の帝に身を合わせ

 人麿は平城の帝に身を合わせ、和歌を文化の華とはなせり

人麿「吾妹子のぬくたれ髪を猿沢の池の玉藻とみるぞかなしき」
平城天皇「猿沢の池もつらしな吾妹子が玉藻かづかば水も干なまし」

 

猿沢の池

 この歌は『大和物語』に出てきます。平城(なら)の帝つまり平城天皇の御幸(みゆき)が途絶えてしまったのを悲観して、猿沢の池に身を投げた采女(うねめ)を悲しんで一緒に詠んでいるのです。人麿の歌は「私のいとしい人の寝乱れた髪を猿沢の池の玉藻のようだと見てしまうのはなんとかなしいことだろう」と平城天皇の気持になって詠んでいます。平城天皇は「猿沢の池もつらいだろう、私のいとしい人が玉藻となって沈んでいるのだから、水も涸れてほしいものだ」と嘆いています。
 
 帝にとってはこの采女が愛らしくて、慈しんだ気持に不純なものはなかったでしょう。でもそれは束の間の真実にすぎません。帝は謀略と愛憎の渦巻く朝廷での生活に戻れば、ひととき愛した女性のことなど忘れてしまうのです。でも采女にとったら、そのひとときの幸せこそが自分の生きる意味であり、人生の唯一の輝きだったのです。帝の御幸に預かれないのなら、池の玉藻となった方がいいということですね。愛を裏切られた采女は怨霊となっ て帝を悩ませるのです。

 柿本人麿が亡くなったのは、諸説あるようですが、梅原猛は708年説をとっています。 ところがこの人麿が平城天皇と歌について語らっているのです。平城天皇といえば、平安京に遷都した桓武天皇の皇子で、在位は806年からの三年間でした。ですからこの語らいは有り得ないことのように思われます。このことは紀貫之の『古今和歌集』の「仮名序」に記されています。905年4月18日に書かれたようですから、平城天皇即位から約百年後ですね。百年たったら人麿の生きていた時代が分からなくなったのでしょうか。「仮名序」から引用してみましょう。

いにしへよりかく伝はるうちにも奈良の御時よりぞ広まりにける
かの御代や歌の心を知ろしめしたりけむ

かの御時に 正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける
これは君も人も身をあはせたりといふなるべし
秋の夕べ龍田川に流るるもみぢをば 帝の御目に錦と見たまひ
春のあした吉野の山のさくらは人麿が
心には雲かとのみなむおぼえける


 
現代語訳をしてみましょう。「
いにしえからこのように伝わる中でも、平城天皇の時代から歌が広まりました。その時代には帝も歌の心をごぞんじだったのでしょう。この時代に、正三位柿本人麿という人が歌の聖でありました。これは君主も臣下も身をあわせたということでしょう。秋の夕には龍田川に流れる紅葉が帝の目に錦と見え、春の朝には吉野の山の桜が人麿の心に雲かと思われたのです。

 「奈良の御時」とは奈良時代の意味ではないかという誤解が起こりそうですが、「御時」や「御世」という場合は特定の天皇を指しています。それに「田川に流るるもみぢをば 帝の御目に錦と見たまひ」となっていますので、この帝は「龍田川もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ」(古今和歌集)と詠んだ平城天皇のことと特定されます。実際奈良の帝という呼び方もされていますから。

 この歌については『大和物語』で人麿と平城天皇との掛け合いで出てきます。人麿が「立田川紅葉ばながる神なびのみむろの山にしぐれふるらし」と詠みますと、帝が「立田川もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ」と詠んだという話です。つまり平城天皇は『万葉集』の世界にのめりこみ、人麿と共に歌を詠んでいる気持になっていたということでしょう。

 この平城天皇の歌は龍田川の紅葉を錦に例えたところが見事な美意識ですが、この歌が感銘を呼ぶのは、自然は自然のままだから美しいので、その美を我がものにしようと人為的に分け入って介入しようとすると、錦は壊れてしまうという認識ですね。人為を退けた老荘思想の影響があるのです。同じテーマで平城天皇はこうも詠っています。

萩の露

「萩の露玉にぬかむととればけぬよし見む人は枝ながら見よ」(古今和歌集)

 「萩の葉に露が陽光に宝玉のごとくきらめくので、それを真珠の珠のように紐を通して首飾りにしようとすれば消えてしまいます。よく見て楽しもうと思っているのなら、枝についた葉のままで観賞しなさい」という意味です。こうした感性は自然を人間の勝手な欲望で支配しようとすれば、自然は破壊されてしまって、元々手に入れたかった自然の美しさもなくなってしまうということですから、環境問題にも大いに通じる現代的意義の高い歌です。

 「我が宿の、尾花が上の、白露を、消たずて玉に、貫くものにもがこれは家持の歌ですが、平城天皇の「萩の露」の歌と共通していますね。というより、深読みすれば、家持の場合は、露を消さないで玉に抜けたらいいのにと思っているのに対して、そういう自分勝手な思いをたしなめているのが、平城天皇の歌だといえます。 この家持の歌から天皇権力を我がものにして天下を動かそうとする気持ちを嗅ぎ取って、それを「萩の露」の歌でたしなめているとも解釈できますね。

 ところで吉野の山の桜を雲と見た人麿の歌は何でしょう。それは古田武彦によりますと次の歌ではないかということです。

「み吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに」(万葉集巻三244番)

 これは雲が桜の比喩だとは書いていませんが、吉野だから桜の比喩で雲と表現したのだろうという解釈なのです。残念ながら人麿の時代には吉野の桜は雲とみまがうようなものではなかったようです。でも他にそれに当たる歌はないのですから、やはりこの歌でしょう。ということはこの平城天皇と柿本人麿の対話の人麿は、作者紀貫之の妄想ではないとしたら、あくまでも平城天皇にとっての人麿であって、実体として人麿の霊があって、それが呼び出されたわけではないということになります。もし人麿の本物の霊だったら、吉野の桜を雲に比喩することはできなかった筈ですから。

 それではどうして平城天皇は人麿の霊と語らうことができたのでしょう。柿本人麿といえば「万葉集」の代表的歌人ですね。歌聖と呼ばれているのはこの人だけです。その「万葉集」の成立と平城天皇は深いつながりがあるのです。『万葉集』の編者は大伴家持ですが、まだ完成していなかったようです。それに家持は、延暦四(785)年9月の藤原種継暗殺事件の黒幕として死後流刑にされています。それで彼の編纂した『万葉集』は世に流布していなかったのです。 晩年家持は自分が心血をそそいで編纂してきた『万葉集』を早良皇太弟が即位される時に奉呈したいと考えていたのですが、それができなかったのが心残りだったのではないかと思われます。

2.桓武帝への怨みを背負って安殿皇子は
 

桓武天皇関係系図

 安殿皇子、父への怨みを身に受けて、闇を恐れて安寝しかねつ

 種継事件の黒幕とされた早良親王が、無実を主張して、淡路に流刑される途中で憤死しました。 その後、桓武天皇の身辺に不幸が相次ぎまして、占ってもらったら、早良親王の怨霊のせいだというのです。

 具体的にあげていきましょう。延暦5年(786)には、桓武天皇の妻旅子(たびこ)の母が亡くなりました。延暦7年5月には旅子も亡くなります、29歳でした。さらに、延暦8年には天皇の母高野新笠(たかのにいがき)が病死、延暦9年には皇后乙牟漏(おとむろ)も突然死しました、まだ30歳の若さでした。彼女が安殿(あて)親王の生母です。

 安殿皇太子(のちの平城天皇)も 延暦9(790)年9月(満でいえば16歳)に病気が回復しないので長岡京の九つの寺で誦経(ずきょう)してもらっています。この年は夏は旱の害、秋冬には天然痘の流行が京・畿内に起こり、 また飢饉に苦しむ民衆が多かったようです。

 皇太子がこの時何の病気だったのかは『続日本紀』には記載されていません。もし天然痘だったら腺病質だったのでもたなかったでしょう。翌年10月にやっと病気が治ったので伊勢神宮に、報告に皇太子自ら参詣しています。しかし延暦11(792)年6月に「皇太子久病。卜之、崇道天皇為祟」と『日本紀略』にあります。病が続くので占ったら早良親王の祟りだったということです。 

 それで桓武天皇は早良皇子にわびまして、魂鎮めを行っています。そしてとうとう怨霊から逃れるために延暦12(793)年に遷都を決意して、延暦13(794)年に完成間近の長岡京を放棄して平安京へと遷都したわけです。

 怨霊というのはむしろ祟られる側の意識としてリアリティがあるわけですね。実体として祟る側が恨みのあまり異界へ行けないで、この世で恨みをはらし続けるというのは、恐らく迷信でしょう。祟られる側が、祟る側の気持ちになって考えれば、まだまだ怨みが晴らされていないと思っている以上、いつまででも祟られます。ですから平安京に遷都したところで、根本的な解決にはならないわけです。

 案の定、延暦16(797)年5月、平安京でも怪異があり、早良親王の魂鎮めが行われました。つまり何か不思議なことがあったと報告されると、それは早良親王の祟りだと思われてしまうのです。延暦19(800)年7月、桓武天皇は、怨霊鎮魂のために、早良親王を崇道天皇、井上内親王(光仁天皇を呪詛した嫌疑で廃皇后になり、他戸廃太子とともに幽閉されて毒殺されたらしい のです。藤原百川ら式家の策謀らしいのですが、山部皇子は自分が祟られると考えていました。こちらの方が古い怨霊)を皇后として完全に名誉回復したのです。 つまりとうとう死者に崇道天皇という天皇位まで追贈しているのです。

  早良親王が種継暗殺事件に絡んでいたかどうか真相は分かりません。当時は桓武天皇や藤原種継ら遷都強硬派と早良親王や大伴家持らの遷都反対派が厳しく対立していました。そして長岡京を桓武天皇が留守をしている間に主要な建物を竣工してしまおうと、種継の指示で突貫工事が続いていたということです。この工事を阻止しないととんでもないことになると遷都反対派は考えていたようです。それで種継を殺してもということですね。

 道鏡を天皇にしようとした孝謙上皇の企みを和気清麻呂らの努力でなんとか食い止めたのですが、都の中に巨大寺院がありますと、それが政治勢力にならないとも限りません。寺院勢力を退けるために、平城京からの遷都を図った わけです。

 奈良時代の仏教は鎮護国家の仏教と言いますが、政教一致的な傾向が強かったわけですね。聖武天皇は、聖徳太子の理想は仏教が支配する仏国土の建設だというように解釈していたようです。それで国毎に国分寺・国分尼寺を建設し、山の上に 聖都紫香楽宮を建設し、大仏殿を築いて、そこから統治するか、それができなければ、その近くの平地恭仁京に政治的都を造って、天子は時々聖都で修行するというような、仏教のユートピアを描いていました。それでは財政的にももたないうえ、官僚的な国家機構が麻痺してしまうので、貴族官僚が猛反対して挫折したわけです。

 父の志を継ごうとした孝謙上皇は、天皇の位を血統ではなく、最も徳の高い仏教の僧に継がせることによって仏国土を実現しようとしたわけです。これは天皇自ら天皇制の自己否定を孕んだものでした。これらの危ない天皇たちを経験したことによって、政教分離を藤原百川らの貴族官僚が担ぎ出した桓武天皇は目指そうとしたわけです。

 遷都反対派は早良皇子に期待をかけていました。彼は元々寺に預けられていましたので、僧になろうと考えていたのですが、父が光仁天皇になったので、還俗し、兄の桓武天皇が即位してからは皇太弟になっていました。仏教勢力とはつながりが深かったのです。 父光仁天皇の遺志を尊重して早良皇太弟を認めたものの、桓武天皇の戦略的な国家構想からいけば、早良皇太弟をいずれは廃太子しようと機会を窺っていたのです。ですから種継暗殺事件を利用して、早良皇子の関与を断定して、排除してしまうというのは、全く当然の帰結だったのです。

 もちろん山部皇子(桓武天皇)にとっては早良皇子は同じ母高野新笠から生まれた弟ですから、決して殺す気はなかったですし、淡路に流して廃太子すれば目的は達したわけです。それが絶食による憤死は、想定外でした。それでもはじめは、帝に嫌疑を抱かせるようなことをする方が悪いのに、絶食で抵抗して憤死するなんて、了見ちがいもはなはだしいと思っていたでしょうね。 それが怨霊の祟りと思われても仕方がない、天変地異、むごたらしい天然痘の猛威、近親の相次ぐ若死になどで、さすがの桓武天皇も怨霊の祟りを痛感せざるを得なかったということです。

 もっともハンガーストライキによる憤死は眉唾だという解釈もあります。七日七夜水分を与えないで衰弱死させたという西本昌弘「早良親王薨去の周辺」という研究もあるようです。 帝は早良を殺す気は全くなかっても、帝の近臣は、早良を消したいと思っていて、断食させたこともあり得ますね。

 おそらく安殿皇太子の病というのはノイローゼ(神経症)でしょう。皇族の相次ぐ死、特に生母の死が引き金になって怨霊への恐怖心が募っていたからだと思われます。

崇道天皇陵

3.大伴氏は桓武帝の挑発に乗ったのか
 大伴は何故に種継射殺すや鎧の紐も結ばぬうちに

 種継暗殺事件では、実行犯とされたのは大伴氏の一族でした。大伴氏はどうして遷都に反対していたのでしょう。 大伴氏は藤原氏に対抗しようとすれば、貴族勢力だけでは無理で、寺院勢力とも連携しようと考えていたのかもしれません。それには平城京から離れるのは得策ではありません。それに造都や蝦夷征伐などに出費が嵩みますと、国家の衰退を招きます。それを覚悟で立派な平城京を捨てるメリットがあるようには思えなかったのでしょう。

 遷都については聖武天皇の時にも、平城京を捨てて、恭仁京、紫香楽宮、難波宮などへ遷都しようとされたので、山火事まで起こして抵抗した結果、平城京に戻ったという経緯があります。この時に大伴家持は二十歳代前半の青年でしたが、強引な遷都が国家財政の乱費を招き、国力を衰退させ、蝦夷や熊襲の離反、国内の騒乱や飢饉を招くことを危惧しただろうと思われます。それに聖武天皇の場合は、新都は辺鄙なところを選び小さな規模を考えていたようですが、桓武天皇の構想は大きな平城京なみの都造りを考えていたのです。

  桓武天皇にすれば新都を平城京なみの都にすることで国家の隆盛を図ろうということでしょうが、すでに口分田は重税に苦しんで、衰退しつつあり、逃散などが起こっていたのです。造都や蝦夷征伐などが続けば国家財政の破綻は明らかだったわけです。国の衰退を防ぐためには、身命を賭してでも反対しようと考えていたことは十分考えられます。それで長岡京の造都使藤原種継を殺して、工事を中断させようとした可能性は大いにありますね。

 ただ種継暗殺の下手人が大伴継人と竹良とされ、彼らの自白から大伴家持の生前の指令に基づくだとか、黒幕は早良皇子だという自白がありますが、これは拷問の結果ですから、もちろん信用できません。彼らの逮捕も対立関係からの憶測に基づくものでしょうから、大伴継人と竹良が本当に主犯であった のかは分かりません。と言いますのは、桓武天皇は早良皇子だけではなく、大伴家持や継人、竹良まで元の位に復させ、名誉回復を図っています。 ということは、桓武天皇の側にも継人、竹良の自白は拷問によるものなので、ひょっとして冤罪もありうると考えていた可能性も否定しきれません。

 研究者の間では、種継暗殺が大伴氏によるものということには、異論がないようですが、本当に継人と竹良が犯人だと分かっているのなら、それを怨霊を恐れるあまり名誉回復してしまうのは、あまりに原則がなさすぎますね。

 桓武は『続日本紀』から種継事件を抹消してしまっています。これはおかしいと平城天皇は記述を復活させたそうです。というのは平城天皇の腹心である藤原仲成と薬子は種継の遺児だったので、彼らの強い要請もあったでしょうから。それを嵯峨天皇はまた抹消します。それは何故か?810年の「薬子の変」があったので、その首謀者である仲成と薬子の父のことだからかもしれません。

 怨霊が恐ろしいのは、祟られる側に落ち度があるからでしょう。もし種継暗殺が大伴氏によるものなら、大伴氏に対する断固たる措置は当然であり、これを取り消せば法的正義に反します。いかに早良皇子の怨霊が恐ろしくとも、それは早良皇子が冤罪であったからの筈ですね。それに便乗して、種継暗殺の罪をチャラにすることなどできる筈はありません。

 松本清張は、種継暗殺の時期に桓武天皇が長岡京を留守にしたのは、藤原種継側と大伴一族との緊張が高まっていたので、自分が留守にすれば、何か騒動が起きて、それをきっかけに反対派を一掃できることをねらっていたのではないかと推理しているようです。何かそういう桓武天皇の側に良心の呵責や、罪の意識がなければ、実行犯まで元の位に復させて名誉回復するのは筋が通りません。

 それにしても 大伴家持と言えば「海ゆかば」で知られる特別に天皇への忠誠心の強い人物だと思われていますね。

海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ

 それなのに桓武天皇に対しては謀反を企んでいたというのは解せない人もいるかもしれません。大伴氏は古来から大王直属の伴造としての誇りが強い氏です。「海ゆかば」は、聖武天皇への忠誠を説いたもので749年に平城京に戻ってからのことでして、当時聖武天皇は遷都の失敗で、政治への関わりに意欲を喪失しており、藤原仲麻呂が紫微中台の長官となり、実権を握りつつあるころです。大伴氏としては仲麻呂独裁になることを警戒して、天皇への忠誠を強調して、牽制しようとしたのでしょう。

 聖武天皇は東大寺大仏造立にのみ専念しようと、この年に帝位を娘の孝謙天皇に譲るわけですが、陸奥で金がでたということでそれを寿ぐともに、あらためて大伴、佐伯氏に忠誠を求める詔の中に「海ゆかば」の伝承の言葉を入れたのです。それを大伴家持が感激して、織り込んだ長歌を作っただけで、「海ゆかば」の部分は家持のオリジナルではありません。

 それに大伴家持は早良皇太弟の春宮侍従だったこともあり、直接には早良皇子に臣従していたわけです。その関係もあり、桓武天皇の腹心になった藤原種継との対抗上からも、長岡京遷都反対派の急先鋒にならざるをえなかったのでしょう。

 しかし本当に家持の生前の指令で事を起こしたのなら、もっと綿密な計画の下に内乱に発展していたはずですね。簡単に犯人が捕まえられ、自白して家持や早良親王のことまで告げ口するのはどうも信用できません。 三木一郎作『薬子繚乱』(新風舎2007年)という歴史小説では、大伴氏の手下に種継を弓矢で射殺すように命じられた狙撃犯土麻呂(はにまろ)が証拠を消すために殺されかかって、知らずに逃げ込んだのが種継の妻真従(まより)の家で、そこから露見したという設定になっています。

 種継は当時かなり朝廷内で実権を持っていたようですから、種継を殺せば、ただちに犯人は緊張関係にあった大伴氏だと決め付けられ、一網打尽にされることぐらいは大伴氏も分かっていたはずですから、十分内乱の準備をしないで挑発行動にでたのは、あまりに不自然ですね。 まあ家持が任地でなくなって、求心力が欠けていたので、統率が緩んだために起こった暴走だったかもしれませんね。 

大伴家持像

 

4.大同元年の『万葉集』

 家持がいにしえびとの言霊を万集めし永久に伝へや

 『万葉集』は全二十巻のうち第十七巻以降は大伴家持の歌日記になっており、天平宝字三(759)の正月元旦の家持の歌で閉じられています。ですから大伴家持を編者とみて間違いないわけですが、『古今和歌集』の延喜五(905)年紀淑望が書いた「真名序」や、紀貫之が書いた「仮名序」によりますと平城天皇の時代に編集されたことになっています。

 「昔平城天子詔侍臣。令撰萬葉集。自爾来。時十代。数過百年」(真名序)

 これよりさきの歌を集めてなむ 万葉集と名づけられたりける
ここにいにしへのことをも歌の心をもしれる人わづかに一人二人なりき
しかあれど これかれ得たるところ得ぬところたがひになむある
かの御時よりこの方 年は百年あまり 世は十継になむなりにける」(仮名序)

905年ですから大同元(
806)年にほぼ一致しますね。平城天皇在位の三年間に編纂されたとしたら、ほぼ記述通りと言えるでしょう。十代というのも平城天皇でぴったりです。梅原猛は平城天皇の時代に編纂されたという立場です。

 大森亮尚著『日本の怨霊』(平凡社2007年)では、平城天皇よりも桓武天皇が注目されています。それは『万葉集』を出す目的が大伴家持の鎮魂にあるとすれば、平城天皇の即位に間に合わせようとしたのではないかという理由からです。種継暗殺事件で連座して二十年近く伊予国に流罪になっていた早良親王の甥五百枝王(いおえのおう)が延暦二十四(805)年に許されて入京し、怨霊鎮魂を桓武天皇に直々に頼まれたというのです。それは3月15日ですから、桓武天皇崩御の二日前です。そしてまず翌日五百枝王が復位し、桓武天皇の遺言で大伴家持を含む継人、竹良も帝の死の当日に復位しています。

大森亮尚著『日本の怨霊』

 主犯格まで罪をなかったことにするということは、本来あり得ないことですが、桓武天皇にすれば、自分は祟りで死んでいくのは仕方がないけれど、このままだと安殿皇太子も殺されてしまうということで、復位に踏み切ったのでしょう。年齢的には69歳でしたから当時としては長生きの方でしたが、怨霊に寿命を縮められたと本人は思っているわけです。それだけ夢でも魘され、幽霊なんかも見たかもしれませんね。つまりそれだけ祟られて当然と思われることをしたという罪の意識があったわけです。そこは良心的でしたね。

 大森は桓武天皇が五百枝王に、特に家持が早良親王の即位に際して奉呈しようとしていた歌集を完成させて、それを安殿の即位に奉呈することで慰霊をするようにと頼んだと推理しています。早良の身代わりに安殿をあてるということですね。でも相手が安殿ならそれこそ当てが外れたことになるのではないでしょうか。だって安殿を皇太子にするために早良を罪に落としたという図式でしょう。それで怨んでいるわけですから。

 平城天皇の即位は5月⒙日ですから、『万葉集』の編纂はこの日には間に合っていないと思います。家持の慰霊のためというのなら、桓武天皇の頼みで五百枝王が二月で仕上げたとするよりも、平城天皇自身も深く関わった形で、編纂作業が進んだと考えるのが自然ですね。それで『古今和歌集』「仮名序」や『大和物語』に、柿本人麿と平城天皇が身を合わせて対話する場面が伝承されたわけです。

 

5.親子の断絶

 怨霊の祟りを呼びし遷都策平城京とて花は咲きしを

 安殿皇子は父桓武天皇に対してかなり反発があったようです。即位後大胆な緊縮財政を実行して、令制官司を大幅に整理しました。そして地方の民情視察の為に観察使を創設するなど政治の刷新に努めたのです。でも仕事をなくした役人たちに大反発を買っています。『薬子繚乱』では、辞めさせた役人たちを慰労するのに伊予親王が自宅を提供したのですが、その際に部下がいずれ皇位継承のときがくれば、この恩顧に報いるためにはせ参じるように檄を飛ばしたという設定になっています。

 伊予親王が神野親王が皇太弟になったことに反発する動きがあったのか、謀反の嫌疑がかけられ、母藤原吉子と共に毒殺されてしまいます。あるいは毒を飲んで抗議の自殺だったとも言われています。この母子の怨霊に安殿親王は相当悩まされて、三年で皇位を投げ出すことになるわけです。

 早良皇子の怨霊にもずっと悩まされ続けた上に、伊予親王母子の怨霊ですからたまりませんよね。元はといえば父桓武天皇の遷都と蝦夷征伐という、巨大な出費と軋轢を伴う律令国家建て直し策に起因しているわけです。それで皇族までもが分裂した結果が、種継暗殺事件になり、早良皇子を憤死させ、怨霊にしたわけです。

 もし父が自分の戦略の正当性を確信し、怨霊となって祟る方がけしからんと断固たる態度をとっていれば、たとえ祟られて殺されることになっても、正義を貫いて死ぬのですから、言い訳は立ちます。ところが桓武帝はひたすら早良皇子の怨霊を恐れ、詫びて、崇道天皇と天皇位まで授けます。しかも死の直前には種継暗殺の主犯まで位を回復するわけです。そうなれば、かえって種継暗殺は桓武天皇の謀略がらみではなかったという疑問を呼びますね。

 実際、種継の娘薬子と不純な関係をいぶかった桓武天皇は薬子を春宮坊から追い出しました。延暦十三(794年)に薬子の娘珠子(『薬子繚乱』での名前、他の資料では名前がない)が春宮に参内したので、それに付き添い人として来ていたわけです。春宮宣旨といって春宮の女官の身分です。大変英邁で美人でもあったので、皇太子は娘珠子より、薬子に気があったらしいのです。

 でも『薬子繚乱』の作者三木一郎はこの段階での不倫は単なるゴシップとしています。一応皇太子は珠子と配偶関係にあったのですから、その母と肉体関係を持つことは母子相姦の一種として、大変あさましい犯罪に当たります。たとえゴシップでも薬子を退けたのは当然だったかもしれません。ただ薬子は種継暗殺事件に関して、帝の謀略を疑っていたのではないかと三木一郎は考えています。薬子とあまりに親密になると、安殿親王は自分が怨霊に祟られるのは父親の謀略のせいだと父を恨んだかもしれませんね。



三木一郎著『薬子繚乱』

 平城天皇の改革は、父桓武帝の新都建設と蝦夷征伐という積極財政から緊縮財政への転換です。これは考え方の転換というより、国力が衰えて、やむを得ず選択せざるを得なかったものかもしれません。実際桓武帝も延暦24(805)年7月12月、藤原緒継の建都中止と蝦夷征伐の中止の提言を呑まざるをなかったのです。

 平城天皇は「龍田川」と「萩の露」の歌で、人為を否定し、無為自然の立場を強調していますから、桓武天皇の律令体制の建て直し政策を人為として批判していたのかもしれません。無理に遷都しようとしたり、武力で蝦夷を討とうとする姿勢が権力闘争や皇位継承をめぐる暗闘を生み、怨霊を生み出したという批判ですね。

 平城天皇即位直後の伊予親王の謀反の動きに対する処断で、母子の怨霊を生み出した張本人だと言われていますが、三木は幽閉したのは殺すためではなかったと解釈しています。「日本紀略」によりますと、

「親王ならびに母夫人藤原吉子を川原寺に従(うつ)し、之の一室に幽し、飲食を通せず。」(紀略)

とありますので、薬子が食料や水分を断ったという解釈の人もいますが、これは取り調べの役人が罪を認めないために、拷問を加えているわけです。この措置を薬子が命じたというのは憶測ですね。

 伊予親王は9日後、解任され親王号を廃されて、その翌日母子共に毒を仰いで死んでいます。三木は鳥兜による毒殺で、その毒は征夷大将軍の坂上田村麻呂が陸奥で手に入れたもので、藤原北家の策謀とみているのです。でも怨霊は平城天皇に祟るわけですね。

 もっとも怨霊に祟られるのは罪の意識の表れですから、何らかの後ろめたいところがあるわけです。伊予親王に対する帝の怒りは相当なものであったらしく、親王廃位について、帝の剣幕を見て誰も諫言できなかったのが、安倍兄雄だけは言葉を尽くして諫言したと『日本後紀』に記されています。この帝の態度が食料や水を断つという拷問を誘引したとも考えられます。

 とはいえ、安殿皇子は桓武帝崩御に際して「皇太子哀号、擗踊、迷而不起」と表現されています。森田悌の現代語訳では「皇太子は悲しみ泣き叫び、手足をかきむしり、臥し転び、立つことができなかった」と表現しています。「擗踊」というのは舞いとは違って飛びながら踊ることで、ようするにかなしみのあまりじっと立ってられなくて、飛び跳ねて踊っているようだったということですね。儒教では父の死に対しては「哀を致す」ことが求められていますから、それが礼儀ともいえます。ただそれだけではなく、怨霊の祟りが父の死で自分に集中するようになるのではと不安があって余計に哀しみが極まったのでしょう。

6.平城還都

 青丹よし奈良の都にかえらばや心ゆかしき万葉の故 地

  平城天皇は即位後、『万葉集』の世界にのめりこんで行きます。つまり和歌の世界を通して、飛鳥や平城京への郷愁を懐くことになるのです。元々早良親王怨霊が原因とおもわれるノイローゼで苦しんでいたわけですが、即位後は伊予親王の怨霊にも悩まされてきました。ついに大同4年には帝位を皇太弟神野親王に譲りました。嵯峨天皇の誕生でした。

 
「朕は体が弱く、天皇としての事業に耐えられないといつも思ってきた。それだけではなく風病に苦しめられ身体が安泰でなく、日月を重ねて、天皇としての政務を怠るようになってしまった。 」

とその理由を明かしています。風病というのは、神経系の病気や中風・リューマチス系疾患・感冒性疾患などです。

 天皇には最終決定権があるだけに、処分に納得していない者たちの怨霊たちはどうしても帝に復讐しようとします。平城天皇のような元々病弱な人にはとても撥ね返せないわけです。それでいわば無理やりに涙を流して固辞している神野皇子に天皇位を押し付けたのです。

            森田悌現代語訳『日本後紀』

 神野皇子は何度も断りますが、平城上皇はしまいに皇居を出て行く形で譲位してしまったのです。日本の天皇制の場合、譲位の後で、天皇権限を全面的に引き継げるのではないのです。譲位した天皇は太上天皇と呼ばれ、天皇とは別に詔勅を出せるのです。ですから平城上皇の病状が収まってきますと、二所朝廷といわれるような二重権力が出現してしまいます。

 平城上皇は、怨霊のターゲットになりやすい天皇を辞めたかっただけで、権力には執着心が強かったのです。孝謙上皇が淳仁天皇に道鏡との関係に干渉されて、頭に来て、淳仁天皇から実権を奪い取ってしまいました。これに対して、当時独裁者だったはずの藤原仲麻呂は反乱を起こそうとしますが、失敗してしまいます。その例があるので、譲位後も平城上皇は権力を振るおうとしたのです。

 桓武天皇から春宮坊から追い出された薬子は、平城天皇が即位されてから尚侍(ないしのかみ)として招聘されます。帝の意向を伺ってそれを伝える重要な役職です。帝はすべて薬子と話し合った上で事を決していたのです。それだけ、薬子は状況判断がテキパキと、筋を通してできたのでしょうね。帝の信頼は絶大でした。

 その時には『薬子繚乱』では、長女の珠子は平城天皇の女子を出産し、産後に体調を崩して亡くなっていました。夫縄主(ただぬし)は随分前から大原野の薬子のところへ通わないようになっていました。その意味では誰憚ることもなくなったので、帝との肉体関係を深めていたという解釈になっています。それは藤原氏にとっては困りますね。自分たちが出している娘が相手にされないわけですから、藤原薬子、兄仲成以外は、権力主体から外されていかざるを得なくなりますから。

 平城の故地に平城上皇は引っ越します。そこに上皇のための宮を建てようとします。これでは「二所朝廷」ということになるので、嵯峨天皇としては上皇側の妨害で、太政官から布令が出せなくなることを警戒して、蔵人所を設置してその頭に藤原北家の冬嗣を任命します。つまり法令などの重要書類を管理して、天皇直属の機関から通達を出せるようにしたわけです。

 この嵯峨天皇の動きに対して、平城上皇は平城京への遷都や蔵人所の解散、冬嗣の左遷などを要求したと思われます。ただし冬嗣自身が撰者である『日本後紀』では、平城京への遷都は薬子の図ったことだが、平城上皇の本心ではなかったとしています。

 平城京の故地に上皇の宮を建てようとしたことは事実ですから、これは上皇自身が、天皇と一緒にいてはぶつかるので、距離を置こうとしたことでもあると思われます。しかし距離を置けば余計に関係はこじれるわけですね。

 上皇の気持には『万葉集』の世界が平城京や大和にはあるわけですから、その世界に浸りたいという気持もあったのでしょう。それに平城京に行けばどうしてこんな素晴らしい地を捨ててわざわさ平安京などに都を作らなければならないのか、つくづく実感したのでしょう。その気持を薬子に手紙で託し て、嵯峨天皇に伝えたら、それを平城京遷都の命令と曲解して、逆手にとって遷都にみせかけ、平城京に押しかけて、潰してしまおうという動きにでたのではないかと、三木一郎は推測しています。

 ともかく嵯峨天皇側が臨戦態勢に出て、薬子の解任に踏み切ったので、平城上皇は東海に抜けて態勢を整えようとして進軍しますが、既に各道の関は塞がれており、途中で兵士が次々脱落したのでやむを得ず戻り落髪して僧になったということです。

 薬子は兄仲成が殺されたことを知って、潔く自害したということです。これを「薬子の変」と呼んでいましたが、やはり乱の主体は平城上皇だろうということで、最近の教科書では「平城上皇の変」と呼ぶようになっています。

 ところで薬子が平城京への遷都にこだわったのは、たんなる平城天皇の返り咲きを狙っていたからだけではありません。長岡京を捨てて平安京に遷ったことは、父 種継への裏切りと捉えていたのでしょう。長岡京が無理なら元に戻せということです。平城上皇の場合は、万葉の世界への憧れと共に、平城京に戻さない限り、怨霊の祟りから逃れることはできないのではないかという思いがあったのではないでしょうか。

 嵯峨天皇は空海の真言密教の力で怨霊を封じようとします。かくして政教分離は奈良のに南都六宗からの分離は果たすものの、比叡山延暦寺の天台宗や高野山金剛峰寺や東寺の真言宗などの力を借りたのです。ですから天台宗も法華経だけではダメで、密教を取り入れたわけですね。呪いで怨霊を封じないといけないので。

 もちろん呪いぐらいで怨霊は封じられません。だって王朝のすさまじい権力争いには謀略による多くの犠牲者を生み、激しい怨みを生み出すわけで、それが民衆の反権力志向と結びついて怨霊信仰が広範な民衆の支持を得るからです。それに祟られる権力者自身の中にある良心の疼きが、自ら怨霊信仰を生み出してしまうわけですね。

 怨霊を生み出しているのは権力者自身であり、自分で自分の首を絞めているのですが、その権力構造で生きる限り、一生呪われる苦しみからは抜けられないわけです。
 


『薬子繚乱』より



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