教職倫理学講義コメント応答集

                           201112年度版                

 

説明: 説明: 説明: C:\Users\yutaka\Documents\homepage\yasuiyutaka\dot03.gif

ミクシィ冒頭文

 私は、大学で哲学と倫理学についての講義を担当しています。そこで毎回コメントを書いてもらっていますが、その中に疑問や質問があり、応答したりしていますが、その内容を他の学生やこのコミュニティの会員にも読んでいただければ、おおいに役に立つのではないかと思います。

 プライバシィの保護の観点から、クラス名や個人名は伏せておきます。また必要な箇所だけ書き抜きますから、前後の文脈がはしょられていたり、多少分かりやすくするための書き換えがあるかもしれません。また主旨が同じものは一つだけに応答します。コメント用紙に応答がない場合でもこちらに書き込んでいるかもしれませんのでご注意ください。

 自分では気付かなかった疑問点などもあるでしょうから、他の人の質問に対する応答もしっかり読んでおいてください。

 直接、このトピックに哲学や倫理についての質問を書き込んでいただいても結構です。ただし公序良俗に反する書き方をしている場合は削除します。

 

倫理学について

 倫理は人間関係を成り立たせる論理だということですが、私たちの生活の中でどのような場面で倫理的な思考が生まれ、どのような局面、場面、事件によって変化するのでしょうか。

 もちろん総ての生活の場面ですね。人や物や環境の配慮、おもいやりがなければ何事もできません。たとえ金儲けなどの私的利害の追及においても、自分と取引する事によって、損害を与えられるという評判が立てば、だれも相手にしてもらえなくなりますから、常に倫理的な思考を伴うことが必要です。

 自然災害や大事故、戦争など今までの生活が一挙に根こそぎになるような事態に直面すれば、生きる事の意味、幸せの意味とか根底から揺らぎますね。ですから他人事とは考えずに、ボランティアとか参加して、自分自身の生き方を見直す事も大切でしょうね。

 それに今は大失業時代で、その上、学力低下で日本の将来も一人ひとりの学生の将来もピンチですから、自分自身の現状を厳しく見直して、危機感を持つ必要があるのではないでしょうか。

問 「人間到る所青山あり」の青山は普通の山の事でしょうか、それとも特別の意味があるのでしょうか?
答 青山は木々が茂っているイメージを与えますね。そういうところは人が棲めますし、墓を作っても洪水で流されることはないというこ含意されているかもしれません。私の個人的解釈ですが。

問 戸坂潤『日本イデオロギー論』では和辻倫理学を日本主義との親和性から批判しています。マルクス主義と倫理学は本質的に相容れないものでしょうか?
答 戸坂が倫理学自体を批判していたでしょうか?和辻哲郎は日本精神史を尊皇思想を中心に展開していて、そのことはマルクス主義者だけでなく、梅原猛も戦後厳しく批判しています。倫理学というのは人としての正しい生き方を探求するものなので、そういう「人間一般」の立場に立って発想すること自体、超階級的で反革命だと決めつけると、本質的に相容れないということになります。しかしそういう過激なマルクス主義者はほとんどいません。「マルクス主義倫理学」という立場の人も少なからずいるようですよ。

ネオヒューマニズムについて

 問 古典古代の人間の限界に挑戦するというのが、大昔に行なわれた第一回オリンピックがそれに当てはまるのかなと気になりました。 

 紀元前9世紀から紀元後4世紀にかけて行われたものですから、古代ギリシアの精神としては第一回ではどうだったかはわかりませんが、人間の限界に挑戦していたといえるでしょう。 

 ネオヒューマニズムについて、人間が生み出した人間環境、社会的事物をも人間の一部として捉えるというのならば、「生まれたての赤ちゃん」や「無理やり拉致などで知らないところにつれてこられた人」は、対人環境や言葉や文化や経済等を知らないので、捉えようがないという意味では、人間存在のおおきさは同じとなるように思いますが。 

 ネオヒューマニズムは、人間を身体的な諸個人に限定しないで、社会的諸事物や自然環境も人間に含めて、広い意味での人間を捉えようとする立場ですから、赤ちゃんと拉致された人の人間存在のおおきさを比較する立場ではありません。赤ちゃんを理解しようとすれば、そのお母さんや家族の状態や育てられる環境についても知る必要があります。拉致された人は、どういう状態に置かれるのか、その複雑怪奇な拉致した国の情況を知らなければ、拉致された人の立場や情況を理解する事はできないということです。 

問 核兵器や地球温暖化については、それを惹き起こしたのは人間自身だと分かるのですが、自然災害はネオヒューマニズムからはどう捉えるのですか?
答 ネオヒューマニズムは、必要に応じて人間の範囲を社会的諸事物や環境的自然に拡大して捉えるという発想です。核兵器は人間自身の自分に敵対する存在を絶滅させようとする意志の物質化したものとして捉えられます。地球温暖化は、産業活動によって自分で自分の首を絞めた人間の姿として捉えられます。津波など原因が全く外因で避けようにも想定外で避けえない場合、津波という人間の他者に圧倒されたことになると思います。ただし災害という受難はそれ自身人間の状態であるので、その意味では人間に含まれます。

 人間が生み出した社会的諸事物や人間環境も含めて人間と捉えるのはやはり無理があると思いますが。 

答 社会的諸事物や人間環境も含めないで、身体的諸個人だけで人間を解釈するのも無理があるわけです。

たとえば、ビーバーの体だけでビーバーの何たるかはわかりません。ビーバーダムや水中家屋などビーバーのテリトリー全体でビーバーを理解するわけで、ビーバーのテリトリー全体をビーバーと見る見方も必要なのです。

貝の身体には貝殻が含まれませんが、我々は巻貝や二枚貝という場合に主に貝殻で貝を捉えているわけで、貝殻も含めて貝を捉えることも必要です。

特に人間の場合は、巨大な文明を抜きに語っても人間のなんたるかは理解できないでしょう。もちろん身体的諸個人に焦点を合わせて人間を理解する捉え方も有効ですが、経済や文明や人間の実践活動などを理解するには人間観を転換することも必要ではないでしょうか。 

 現代人の倫理観は、エコやロハス(Lifestyles Of Health And Sustainability (健康と持続可能性の/健康と持続可能性を重視するライフスタイル)の略)という言葉にみられるように人間中心から環境空間への配慮という方向に向かっていると思いますが、それはネオヒューマニズムとはどう関連するのでしょうか。 

 ネオヒューマニズムでは身体的な諸個人が人間で、人間の環境は非人間的存在とは捉えないのです。むしろ器官としてはつながっていないけれど、人間の広い意味の身体を構成しているものとして環境を捉えるのです。これを若きマルクスの用語で〈「非有機的身体」としての自然〉としてあるいは「人間的自然」として捉えます。ですから自然や環境に配慮するという「貫徹されたナチュラリズム」こそが「貫徹されたヒューマニズム」なのだという立場です。

 原発問題を見ていますと、私たちは未だに物の支配を受けており、現代ヒューマニズムから脱却できているように思えません。物、自然、動物との共存ができていないので、ネオヒューマニズムの段階に到っていないのではないでしょうか。 

 思想ですから状態ではないのです。原発を人間ではない物として捉え、人間でない物が人間を支配しているという現代ヒューマニズム的な捉え方では、原発問題を自己自身の問題として捉えきれないのじゃないかというのが、ネオヒューマニズムの立場からの批判です。
 つまりたとえネオヒューマニズム的に捉えたからと言ってすぐさま原発問題がなくなるわけではないのです。でも原発も含めて人間を捉える事によって、人間は自己自身をより深く捉える事ができます。

原発は人間がたとえどんな恐ろしいリスクを犯しても、無限のエネルギーを自然から引き出して、文明を物質的に発展させ続けようという欲望の物質化された姿なのです。己の姿を原発として直視して初めて、じゃあそういう自己のあさましさから脱却すべきか、あるいはその浅ましさとあくまでも付き合うしかないので、どうすればリスクを最小限にとどめられるか考える事になりますね。それは原発を人間の他者と見なしていることから、一歩も二歩も前進しているのです。

問 単純な疑問ですが、自己意識と魂は別ものと考えていいのでしょうか?
答 自己意識は自覚とも表現されます。他者に対して自分を意識して、どう自分を守り、自己を実現するか考える主体的な意識が自己意識です。高等動物も自己意識を持っていると見なす人がいますが、あくまでも条件反射の枠内で、生理的に反応して自己保存を図っているのが動物的な段階です。
 魂というのは自己意識をひとつの物体のように実体化してとらえたものです。ただしデカルトによると魂は物質ではないので精神的実体だとされます。物質は質量や姿形や色や匂いなどがありますが、精神には感覚に訴えるものがないのです。そういう魂が入っているとデカルトなどは考えたのです。ホッブズは魂を物質である身体の働きとして説明すべきたでという立場でした。そうでないと科学とは言えない、宗教になってしまうということですね。

問 人間は動植物を素材にした食物を食べていますが、ロボットは電気エネルギーを充電して活動していますね、そこから意識の差が生じるのは避けられないのではないでしょうか?
答 自己意識あるロボットは、人間と心が通う合うようにということで作られますので、ロボットとして強力なパワーを発揮するため充電するのですが、日常生活としては人間と同じ食事を摂り、消化排泄するようにも作られています。そうやって意識の差を埋める工夫も行われるということです。もちろん未来社会の話ですよ。

問 自己意識あるロボットに常識を植え込むにはどうしたらいいのでしょう。
答 百科全書や世界文学全集、世界思想全集などはみんなインプットされていますが、人格を構成する自己意識自体はインプットできません。それは生活活動を通して、出来ていくもので、その点は人と同じですね。

問 自己意識ある人工機械人間=国家は成立するのでしょうか?前者は一つのものと捉えられますが、後者の国家は一人でなくて、沢山の人が集まることによって国家が成立するのではないでしょうか?
答 もちろんです。だから「国家=自己意識ある人工機械人間」だとホッブズは言っているのです。ただし国家は多数の人間から構成されていますが、国家自体が意思決定する中枢機能を持ち、国家の自己保存や発展を図っているので、国家も一人の人格を持った人間だという議論です。ホッブズは、個人だけでなく、国家も人間だとしているのです。この論理でいくと企業などの組織体も人間だということになりますね。

問 人間が機械であるというのは少し無理があるように感じる。人間作っている成分を混ぜ合わせたところで人間は作り出せない。それを決めるのは魂なのかと思う。しかしその魂は具体的にどんなものなのか、どうやって人間の中で作り出されるのか分かっていない。だから人間を作り出すことはできないし、ロボットには人間のような感情を持たせることができないのではと思う。そこさえ分かれば、私は自己意識を持つロボットは作れると思う。
答 デカルトのように目に見えない認識できない魂を前提に置きますと、確かめようがありません。魂を身体の働きとして説明できないと自己意識あるロボットは作れないのです。身体機械の働きとして自己意識の形成を説明できれば、感情を持ち自己意識を持つロボットは作れることになりますので、その原理を説明しているのが、『長編哲学ファンタジー 鉄腕アトムは人間か?』です。

問 自己意識を持つ存在が人間であれば、脳死状態である人間は、もはやヒトであって人間ではないのですか?脳死状態の人間はもはやモノであって、人間ではないのでしょうか?
答 人間として本質を発揮できなければ人間でないと定義すればその通りです。しかし人間は労働するのが本質だと言いますが、働かない人もいるわけで、その人が人間でないとは言いませんね。脳死状態にある人は、もはや人間である条件の自己意識が回復する見込みが非常に少ない人間だと言えるでしょう。
 
 モノというと無機的な物体を意味するように捉えられがちですが、元々日本人は、ものと魂を区別していませんでした。もの自体が霊的な存在だったのです。食物自体が神なので、手を合わせて「いだきます」と言って食べます。太陽も水も雲も風も木々も山も海もみんな霊的な存在で、それ自体が神なのです。物を無価値な幾何学的な無機質の塊のイメージで捉えるのは、近代西洋科学の悪弊です。

キリスト教について

問 先生は「天国はない」といわれましたが、「平和を実現する人は幸いである」等と続いた後に「神の国はその人たちのものである」と聖書には書いてあったと記憶しています。「神の国」と「天国」は違うのですか。 

 私が言ったのは聖書で天国に昇った人はエリヤとイエスだけだということです。聖書の超越神論によると、コスモス(宇宙)を作った神はコスモスの外にいるわけで、神のおられるところを天国と言いまして、そこに天使たちと住んでいるとされています。

 人間は死んだら土だか土に還るということが書いてありまして、天に昇ったのはエリヤとイエスのみということです。では「神の国」は?それは、歴史が終末を迎えてからだとされます。神が天使たちと共に地上に降りられて、地上が天国つまり神の国になるのです。その際に、歴史が総括され、義に生きた人は復活させられて神の国に入るということです。それはそうなって欲しいという願望なのです。

 ただし、神の国は、何時来るか知れない終末にではなく、我々が愛に生きれば、今、此処が神の国になるとも解釈できるのです。何故なら「神は愛である」からなのです。平和を実現する人も無心の中の神の国に生きているわけです。 

 キリスト教について、聖なる食事、聖餐とはキリストを食べる事だと先生はおっしゃいました、私はそういう意味があるとは全く知りませんでした。欧米のキリスト教徒たちはみんな知っているのでしょうか、「パンを与えて下さって感謝します」という意味で「アーメン」と言っているのではないかなあと思いました。 

 キリスト教会の礼拝をミサとか聖餐式と呼びます。その中心はパンとワインの聖餐です。もちろん「イエスの肉である」「イエスの血である」と言って与えますから、ミサに参加するキリスト教徒は皆知っているのです。まあ大都会などでは、教会に行かない人々が多くて、キリスト教など信じていない人も多いようですね。

「パンを与えて下さって感謝します」という意味で「アーメン」と言っているのは、教会での聖餐ではなく、家庭での一般の食事です。そこではパンはイエスの肉ではなく、ワインは血ではありません。全く聖餐とは区別されているのです。

それに対して日本の食事は三度三度手を合わせます。日常の食事が神を食べる聖餐なのです。ご飯や魚や肉や野菜がそのまま命を与えてくれる神なのです。 

 私は食事の度に手を合わせ「いただきます」と言いますが、それは作ってくれた人に感謝して言っているので、食べ物を神様と思っているわけではありません。人それぞれではないのですか。

 確かに人それぞれですね。でも日本の神道というものがあり、稲荷神とか正月神は穀物神なのです。穀物神というのは、穀物の神と思われるかもしれませんが、元々は穀物が神だったのです。ですからご神体に穀物を飾るのです。命をくれる動植物を神として祀ってこそ、自然との命の循環や共生ができるということですね。そういう日本的な霊性を知るということは大切なことではないでしょうか。 

問 先生の解説では、パンとワインをキリストと見なし、それを食べた人が一種の幻覚症状を起こした。キリストの弟も同じ症状を起こし、自分自身がキリストであると考えた。その考え方ではキリストの復活も納得できましたが、聴き間違えはないですか。 

 まさかパンやワインをイエスの肉や血と思い込めますか。たとえイエスが言っても、それではパンをイエスの肉、ワインをイエスの血とする偶像崇拝になってしまいます。それにパンやワインで幻覚症状まで起こる筈はないでしょう。絶対してはならないとされている人の肉を食べ、血を飲むカニバリズムタブーに抵触しているからこそ、起こった幻覚症状なのです。イエスを神と信じていたからこそ、その肉を食べ血を飲むというタブーを犯しても、聖霊引継ぎの聖なる行為だから許されるのだと言う確信のもとでやったということですね。 

 イエスの神格化はかなり後になってからで、弟子たちが神として聖餐する意味があったのか疑問です。

 それは聖霊の引継ぎという問題を中心においていないからそう考えるのです。イエスは自分に聖霊が宿っていると信じていて、律法ではなく聖霊の力で救われるのだという教義を打ち出し、聖霊の力で、悪霊を追放するパフォーマンスでブームを引き起こしていたのです。その聖霊をどうして弟子に引き継がせるかという方法として聖餐による聖霊の移転が考えつかれたと言うことです。

 だから聖書学者の中でも福音書を全く偽書扱いしかしないので、イエスの信仰が分からなくなっているのです。 

 イエスの肉を食べた弟子の体の中でイエスの聖霊が生きるというのは、ありうるのでしょうか。
 

 聖霊を物質とは対極の精神的な実体として捉え、それが身体に入ったり、身体から出て行くという「つきもの信仰」にイエスとその弟子たちは嵌っていたのです。その信仰の立場からは、聖霊はイエスの肉や血の中に宿っているので、イエスの肉を食べると、肉は消化され排泄されるけれど聖霊だけは体内に残り、聖霊が継承できるという解釈になるのです。

 でも実際に起こった復活現象は弟子の中で聖霊が活動して、弟子たちが復活のキリストとして活躍するということではなく、弟子たちの前に生身のイエスが復活したと見えたという仰天すべき復活だったのです。
 どうしてそういう復活を弟子たちが体験できたのかを聖餐による全能幻想として説明したのが私の「聖餐による復活仮説」です。 

 キリスト教は宗教ですから、宗教で説かれている復活について心理学から科学的に説明したり、理を持ち込むのは難しいでしょう。イエスの人肉を食べたと言えば、信者は怒るでしょうし。

 宗教現象というのは、大変人間特有の重要な現象ですから、どういうものか、科学が無関心というわけにはいきません。特に宗教対立から戦争やテロが起こっているのですから、宗教的対話がどうしたら可能かを考える必要があります。私の「聖餐による復活」はキリスト教がインチキ宗教ではないことを証明して、宗教的対話を促進しようとするものです。

 イエスの肉を食べ、血を飲んだことをキリスト教徒が怒るのは筋違いですね。だってパンをイエスの肉として食べたり、ワインをイエスの血として飲むのはいいけれど、本物のイエスの肉を食べ、血を飲むのはいけないというのは矛盾しすぎです。イエス自身が「私は命のパンである」と言っているのですから。決して猟奇的な人食いではなく、神聖な聖霊の引継ぎのためですから忌まわしいことではないのです。

仏教について

問 「心に極楽があれば、そこが極楽になるし、心が地獄ならそこが地獄になる」というのは日蓮の話ですか。 

 話にでたのは浄土真宗のことを言っていたのです。浄土教は、阿弥陀仏が生きとし生ける者(衆生)をすべて阿弥陀浄土に救いとることができなければ、覚って仏になることはないという願をかけられて、それで覚られたので、みんな阿弥陀浄土に救いとってもらえるという他力本願の信仰です。

ですから浄土真宗の僧侶は死後阿弥陀浄土に往生できることを信じている筈なのに、実際には、そうではないのです。そんなの死んでみなければ分からないみたいなことですね。つまり阿弥陀仏も阿弥陀浄土も仏の慈悲によって救われたいという衆生の願いによって生まれた意識なのです。

唯識論という総ては仏の意識で還元できるという難しい理論がありまして、それを研究していた僧侶たちが、自力では到底、仏の意識に達する事ができないので、覚ってしまった阿弥陀仏を思い描き、その阿弥陀仏に救ってもらおうとしたので、唯識論に浄土教を取り込んだのです。それが現代では唯識論系の浄土教解釈をする人が浄土真宗には多くなってしまったのです。

 日蓮は、天台宗の僧侶でして、法華一乗の思想を唱えた天台智の教えを引き継いでいます。その教えに「五時八教」「一念三千」「三諦円融」があります。そのうちの「一念三千」の思想は、一つの想念の中に三千世界が入っているというもので、これも仏の意識にすべて還元する発想です。だから地獄の中にも極楽から地獄まであるし、極楽の中にも極楽から地獄まであるということで、どんな情況にいても、それを地獄とも極楽とも捉える事ができるということになります。

アダム・スミスについて

問 学問はエンターテイメントでなければならないという考えがアダム・スミスの時代からあったとは驚いた。

答 「これを知る者はこれを好む者に如かず  これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」と『論語』にあります。学問は楽しんでするのが一番身につくわけです。あまり思想的なことでこんな昔からこんな現代人と同じような考えがあるということで、驚かないでください。同じ人間ですから。文明の発達に伴って、同じような問題をずっと抱えているのです。

問 利己心を原理とした経済学が、利己心を重視するように社会的に機能して、利己心を原理にする人が増えるのではないでしょうか。もし利他心を原理にした経済学を構築して、それを実社会で活用すれば、利他心を大切にする人が増えて、利他を大切にする社会が実現するのではないでしょうか。

答 社会主義や共産主義の理論にはそういう傾向が見られますね。まず利己心基づく行動を規制し、利他心に基づく行動を奨励し、それによって名誉や地位を与えるわけです。そして経済の仕組みも、共同で生産し、共同で消費するようにすればそうなるかもしれません。ただ現状では利他心を原理に行動する人は多くなくて、数量化も難しいので、学問にするのはなかなか難しいでしょう。

「最大多数の最大幸福」について

問 「最大多数の最大幸福」の原理は少数派つまり社会的弱者を切り捨てるための論理ではなく、特権階級が快楽や幸福を独り占めすることを批判する論理だと説明されましたが、現代においては弱者切り捨てに利用されているのではないでしょうか。ロールズやサンデルは、功利主義では弱者切り捨てになることを指摘していますね。

答 その通りですね。功利主義は快楽が最大になればいいのですから、たとえば漂流ボートに四人乗っていて、食糧が尽きてきたら、一人を犠牲にして三人助かった方が、四人全滅するよりも最大多数の最大幸福だといえるわけで、そのように弱者切り捨てに、悪用される恐れもあります。
しかしベンサムがいいたいのは、人間の価値に貴族もルンペンも変わりないから、少数の特権者が富や幸福を独占するのはよくない、立法の原理は人間平等の立場を前提すべきだということです。
ある思想を悪用できるから間違っていると批判するのは正しいかという問題があります。パーフェクトな理論はないわけで、善意に解釈して不十分なところは補うのがいいのではないでしょうか、その見本がベンサムの原理は変えないで修正、補完したJ.S.ミルです。

問 「最大多数の最大幸福」は少数切り捨てでないということですが、その原理を採用している日本社会では、国会議員は世襲化されて、一部の特権や富を持った人たちはそれを利用してさらに特権や富を増やし続けています。世間はそちらに流れて少数意見はことごとく無視されています。民主主義の「最大多数の最大幸福」が少数切り捨ての原理として機能していないとは言えないのではないですか。

答 最大多数の最大幸福を目指して作られた現実の政治制度が、少数の特権者である国会議員や独占資本家、大資産家などの利益に奉仕して、最大多数の最大幸福になっていないという問題ですね。
それではどうすれば目的どおり機能できるようにできるのかですが、その場合に「最大多数の最大幸福」を掲げない方がいいということにはなりませんね。あくまで「最大多数の最大幸福」を掲げてその実現のための改革に取り組むべきです。
 つぎに少数意見の無視の問題ですが、これは「最大多数の最大幸福」という原理が、少数の弱者切り捨てに機能しかねないという問題です。
ベンサムは人間の価値に変わりないということで、浮浪者も障害者も幸福になる権利があるということですが、大部分が中流化して、困窮者などの社会的弱者が少数派になれば、「最大多数の最大幸福」の論理を切り捨てに悪用されかねません。
 その場合に反論としては、交通事故や病気や不況などでだれもが弱者にならない保証はないわけですね。今度の東北大震災でよくわかりましたね。
決して少数者切り捨ては、多数者にとっては他人事ではないということです。明日は我が身と思って、少数の弱者が健康で文化的な最低限度の生活が送れるように保障することが、みんなが安心して暮らせるためには不可欠であり、結局「最大多数の最大幸福」になるのだということです。
 だから手続き的に多数決で少数弱者を切り捨てるのは民主主義のルールには反しないかもしれないけれど、中身においては「最大多数の最大幸福」に反しているということですね。
ただ「最大多数の最大幸福」という原理が直接少数切捨て、特に弱者切捨てを含むとは言えないということですね。

問 アダム・スミスやベンサムは18世紀の後半に活躍しますが、それは産業革命でイギリス資本主義が確立した時期ですね。社会が変わったからそういう思想が生まれたのか思想が変わったから社会が変わったのでしょうか。

答 最小の努力で最大の効果を上げようとするのは、市場での利潤獲得競争が激しく、できるだけ功利的な効率のよい行動をとらなければ生き残れない現実があったからです。だから経済的な土台が思想という上部構造を規定するといえます。もちろん新しい思想が社会を変革するわけですが、それは古い社会の矛盾が、その新しい思想によって解決できるような場合ですね。直接その思想では解決できなくても、新しい有力な思想を生み出すきっかけになれば、思想が社会変革に役割を果たしたといえるでしょう。

問 平等の原理と関連して最近気になったのが、有名人が被災者にプレゼントを送るという行為です。一部の人にしか渡せないのならこの行為は「不平等」を生んでしまっているのではないでしょうか。

答 プレゼントを送るのが不平等といわれて、炊き出しにしても相手は一部ですからやはり不平等ですね。皆に平等にいきわたるようにするのは、政府・自治体・各種NGO・チャリティ活動家が連携をとり、調整することですね。あまり具体的な個々の善意の行動を問題視するより。調整の問題として取り上げたほうがいいと思います。

功利の原理

問 ベンサムの人間は「快と苦の支配」を受けているという考え方は、幸福というものがそれより劣った状態つまり不幸があって初めて実感できるので、幸福と不幸の二つが世の中に存在している、このような考え方と同様だと捉えていのでしょうか。

答 全く違います。ベンサムは、人間は快楽を求め、苦痛を避けようすると考えます。快楽が多ければ多いほど幸福で、苦痛が多ければ多いほど不幸です。苦痛がなければ快楽も感じられないというようなデリケートな問題には触れないのです。

問 古代においてはストア派が禁欲主義を唱え、近代ではベンサムが快を原理に快楽主義を唱えている。現代はまた現代に即した思想が原理になる。時代に即して何が一番適切なのか見抜くことが必要ではないでしょうか。

答 古代でもエピクロス派の快楽主義があって、ストア派の禁欲主義があるわけです。近代のイギリス功利主義はドイツの傾向性を抑制して義務に従えというカントの道徳論と対立しているのです。快楽主義対禁欲主義、効果重視対動機重視というのはどの時代にもある対立ですから、時代に即して最適なのがあるという問題でもないということです。こういう対立を踏まえて、人間の有り方、社会のあり方を見直して、両者の議論をうまく統合できるような考え方を構築する必要があるでしょう。

J.S.ミルの質的功利主義

問 人間を平等に捉え、自分のことと他人のことを同じような重さで、厳正中立で捉え、世の中の幸福を一番に捉えなければならないという考え方は当時の時代背景にあまり合っていなかったようですが、時代背景とマッチしていれば、もっと広がり、多くの人に受け入れられたのかと思います。先生はどう思われますか?

答 当時は、一部の貴族や大富豪が特権階級で富を独り占めにしていて、それに対して浮浪者がたくさんいるような貧富の格差が残っていたわけです。そして産業革命の進展で、新興の商工業者も活躍し、市民革命が起こって、平等の人権が叫ばれていたわけですね。そこから特権廃止という考え方は多くの人々の共感を得ました。
 労働者階級の困窮や浮浪者の問題を考えますと、皆が幸せになれる社会、利己主義を克服し、厳正中立を強調するような倫理観が共鳴されます。
でも新興市民の原理は利潤追求であり、私利私益の追求ですから、社会改良の主張は中産階級ではあまりひろがらなかったでしょう。でもその弊害が深刻になっているのででて来たのですから、時代に相応しい考え方です。

問 ミルの考えだと、他人のために富を放出した方が効果が高い場合には、積極的に投資が行なわれてもいいはずですが、最近不況が深刻なのに、金融資本は利己主義で自分に利益が戻ってくることが実証されない限り投資しようとしません。まだまだビジネスモデルとしては成功例は少ないようですが。

答 ミルはビジネスの原理を説いているのではありません。資本の原理は資本自身の自己増殖ですから、利潤が自己に還元される見込みがない限り動かないのは、ある意味当然ですね。資本の利己主義を克服しろと資本に要求しても無駄です。それより、公共の福祉からみて重要な産業に資本が投資されるような環境を政府や社会が整備して、資本を誘導するしかないのです。

問 ベンサムの主張時とミルの主張時と、どちらの時期の方が人の心をより捉えたのですか?

答 快も苦も感覚的な経験で、実際に確かめられる経験に基づいて考える発想はイギリス人の体質的なものです。ですから両方ともイギリス人には受け入れられやすかったでしょう。でも十九世紀になって社会矛盾が激しくなると、単純な快楽主義では世の中が悪くなるというので、ミルのようなキリスト教こそ功利主義の真髄だという解釈をして修正したわけです。ミルは当時世界で一番尊敬された学者ですから、良識として支持されたでしょう。

問 ミルの厳正中立の考えだと、一番幸福を受ける人だけが得をして、他の人が得をしなくて、それは本当の幸せに果たしてなるのでしょうか?

答 パンが一個しかない場合、ちぎって分けられないとしますと、誰が食べるのが最も望ましいかということですから、一番腹が減っている人だとか、一番パンが好きな人が食べれば一番社会全体の快楽量が大になるわけです。予め幸福は快楽量によって測られることになっていますから、それでいいわけです。
 ただ実際問題としては、だれが最も空腹かとか、パン好きかは計れませんから、食べた人はあつかましいと思われ、皆不快になって幸せではないということになることは大いに考えられますね。

問 ベンサムやミルの功利主義についておすすめ本を紹介してください。

答 中央公論社『世界の名著38 ベンサム JSミル』です。「道徳および律法の諸原理序説」と「功利主義」が入っています。残念ながら中古で3,045円します。

問 「満足せる豚よりも不満足な人間である方がよく、満足せる愚者よりも不満足なソクラテスの方がよい」とありますが何故ソクラテスなのですか?

答 量より質を求めよということですね。豚は食欲の量的充足をひたすら求めてブクブクに肥えてしまっています。あれでは健康にも悪いですね。人間なら、腹八分目ぐらいにして、量よりも質のグルメな食事で質的な満足感を求めるべきです。
知識においてもどんな知識でも愚か者なら、すごい真理だと思い込んでしまいますが、ソクラテスなら少々の知識では満足しません。かれは賢者や哲学者の代名詞なのです。ソクラテスそれが独断ではなく、誰もが納得いく普遍妥当的真理であるとか、疑いきれない真理であるものを求めるわけです。

コントについて

問 コントの人間教によって、社会学は克服されたのですか、また人間教は確立したのですか?

答 そのあたりの知識は残念ながらあまり詳しくないので、以下WEBより引用します。

 コントは、市民革命によって「新しい社会」が誕生したものの、暴行、殺戮、盗奪、詐欺、乱倫、逸脱等の絶えない社会的病理に直面して、社会の秩序がなにによって維持され、また、人間精神がどのような形で進歩していくのかを深く考究したのである。これが実証主義哲学であり、社会学であった。また、晩年のコントは、科学者から宗教家に変貌し宗教的になっていき、人類教とよばれる宗教を創始した。一名コント教とよばれる、この宗教が海を渡って、ブラジルに根づくことになる。ブラジルには、このコント教の教会である「ブラジル実証主義教会」あるいは「人類教会」がある。コントと因縁浅からぬブラジルが、このコントのスローガンであった「秩序と進歩」を国是として国旗に刻みこんだのは、このような事情があったからである。

kotobank >
人類教とは
コントが晩年に提唱した倫理的新宗教。愛情を基本とし、人類の幸福のために奉仕することを人道と規定し、人類を社会的実在の最高表現であると主張した。人道教。

 晩年に至り、彼は困苦の生活と愛する人の死にうちひしがれて、知のみでは人間は幸福にはなれないことを悟り、かの《実証主義》は、〈秩序〉を基礎とし、〈進歩〉を目的とすることに加えて、〈愛〉を原理とするようになり、人類貢献者を崇拝する宗教へと変様し、その社会学は《人間教》へと様変わりする。

自然法

問 自然法の話で自然法の反対が実定法だということは知っているが、自然法は原理であって「文章化されていない不文法である」と理解していいのか疑問に思った。

答 自然法は、誰もが共有している理性から判断してナチュラルなつまり当然な決まりということです。ですから文章化されているかいないかに関わりません。『日本国憲法』にはたくさんの基本的人権が確認されて実定法化されていますが、自然法でなくなったわけではありません。

自然法は万人が同じ理性をもっていることが前提です。例えば「子どもには優しく、お年寄りには親切にする」のは誰が考えても当然だとしますと、これは自然法だということになります。中には、「子どもは厳しくしつけ、年寄りには辛く当たるべきだ」と考える人がいますと、自然法ではないということになります。ただしそういう人は例外で、アブノーマルとみなされますと、やはり自然法だという常識が成立します。
 19世紀には、民族により、歴史的条件、階級的立場などによって人間の理性はかなり違うのではないかという見解が有力になり、自然法はフィクションだといわれるようになったのです。

神の名

問 一神教に関連して、キリスト教の信仰の対象はイエスですか?ヤハウェですか?カトリック系になるとマリアも出てきて良く分かりません。

答 父なる全能の神ヤハウェと子なる神救い主イエスと聖霊なる神は、三位一体であるというのが正式の教義です。つまり別のペルソナ(神格)で現われるけれど一体なのだということです。何故別のペルソナなのに一体と言えるかは、説明できないようです。何もかも人間が神のことを説明できるはずはないだろうということですね。マリアは神の母ということで、大地母神と習合されて信仰されています。

問 イスラム教の神の名「アッラー(正式にはアッラーフ)」は普通名詞の「GOD(神)」ではないのですか。エホバは間違いですか。

答 元々は多神教だったときの最高神を「アッラーフ」と呼んでいたのですが、イスラム教になって、ヤハウェを「アッラーフ」と呼ぶようになったのです。逆にキリスト教徒がイスラム教の支配地域によっては、ヤハウェを「アッラーフ」と呼んだりして、イスラム国家から禁止されたりしています。たしかにイスラム教徒はアッラーと言う言葉を平気で叫んでいます。これは固有名詞だと「神の名をみだりに言うなかれ」という『十戒』に反しますから、普通名詞のつもりでしょう。
神聖四文字YHWHに「アドナイ」の母音符号をつけると、エホウァやエホバ(YeHoVaH)となるのでそのように読まれることもある。しかしヘブライ語ではそういう言い方はできないということで、ほとんど現在のキリスト教ではエホバは使いません。

疎外論について

問 マルクスは私的所有をなくせば疎外がなくなると述べていますが、実際に旧ソ連や中国でも矛盾が起こっていますし、下層では平等でも、上層は特権階級を形成していました。何故このようなことが起こったのでしょうか。

答 ソ連などの社会主義というのは生産手段を国有化しただけです。生活手段は私的所有のままです。しかも共産党の一党独裁体制にし、労働者に自由な議論を一切認めませんでした。マルクスが考えていたような、商品生産や市場経済を止揚した自由人の新しい共同体ではなかったのです。
 ただマルクスがいうような私有財産をなくした共同体経済に変革することが現実的に可能かどうかは問題ですね。

問 マルクスの疎外論は自己疎外論で自分で自分の首を絞めているということですね。労働が自己実現ではなく、自己喪失活動になり、類的本質からの疎外となるのは、労働者が悪いのではなく、周囲の環境に問題があるからではないのですか、つまり利害が対立したりして、労働が手段になってしまうからではないのですか。

答 ええ、マルクスも労働者の味方ですから、労働者が悪いと言っているのではないのです。善悪の問題ではありません。毎日生きるために労働者は、自分の労働力を売って働かなければ生きていけないので、働いているのですが、そのことによって、労働の生産物は社会の富となって積みあがり、労働者に手に負えない疎遠な力となって労働者自身を苦しめているわけですね。他ならない労働者自身が作り出している富によって自己喪失しているわけです。そういう状態をしっかり見つめ直し、自分自身の生命活動が自分自身を苦しめているという状態をしっかり自覚すべきだというのです。自分がしている事だから、自分たちがしなくてもすむ方法があるはずだということですね。先ず、労働力を売ることを止めればいいわけですが、やむを得ず売っているのでなかなかやめられません。そこで労働者同士で団結して、そういう仕組みをひっくりかえす方法を考えようということになるわけです。

問 フォイエルバッハの理論では神は人間の一部分であるということなのでしょうか?『聖書』は全くの物語ということになりませんか?マルクスやフォイエルバッハはどのような信仰を持っていたのですか?

答 フォイエルバッハは人間やコスモス(宇宙)から超越した全知全能の創造主としての神を否定し、それは人間の類的能力の疎外だとしたわけです。だから信仰すべきなのは、人間の類的本質です。つまりそれは個々人の中にあるのだけれど、自分個人ばかり見ていても見つけられません。人類的な共同関係を対自化して初めて認識できますね。皆で人類は凄い文明を作り出しているのですから。そしてそれは自然との感性的な交流、生命の循環として為されているわけですから、大いなる生命を自己自身として感じるということによって、つまり自然と一体化して初めて類的本質を感じることが出来るということです。ですから人間主義つまりヒューマにニズムの貫徹が、自然主義の貫徹でもあるということです。マルクスはフォイエルバッハの立場をそう解釈して継承しようとしていました。

問 「疎外」とは、自己の能力を外在化したものに支配されるようになることですね?自己が作り上げたものによって支配されても、悪いものならともかく、良いものなら別に問題ではないのではないですか?

答 疎外というのは主体に対して主体が生み出したものが疎ましいものとして迫ってくるということなのです。自分で自分の首を絞めているようなもので、苦しい状態をいうわけですから、問題があるもないもなく、苦しくてたまらないという意味を含んでいるわけです。「支配」されてもよいというのは、その支配が苦痛じゃない場合にいいわけで、善い指導者や善い統治者によって良い暮らしをしている場合に別に問題がないということになります。だから質問者はきっと恵まれていて「支配」によって苦しめられていないということではないでしょうか?
フランス革命の時代の人民は戦争や重税で苦しめられていましたし、マルクスの時代の労働者階級は、長時間労働・重労働、児童労働、低賃金、首切りなどで喘いでいたわけです。現代でも様々な生活の苦しみで喘いでいる人もたくさんいるわけですね。「支配」という言葉はそういう抑圧的な支配を連想してつかっているわけです。

問 生産物や労働などから疎外されているのは、人間が人間に対して愛が足りないからなのですね。愛さえあれば人間は疎外感を感じないということなのでしょうか?

答 愛という感情は、人間関係が疎外されることによってスポイルされるわけです。マルクスは疎外を私有財産(私的所有)の運動として捉え、私的所有をなくして人間的な関係を取り戻すことによって、克服すべきだとしているのです。もちろん愛の心が大切ですが。

問 ヘーゲルからフォイエルバッハ、マルクスと疎外論の展開を分かり易くむ文章化して説明願います。

答 それでは最近ラボール学園で講演しました「マルクスの疎外論」から「10疎外論成立の経緯」を引用しておきましょう。講演全体を読んだ方が良く分かると思います。下のサイトを参照してください。
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/sogaironokangaeru.htm

  
疎外論は、ヘーゲル哲学から由来しているのです。ヘーゲル哲学体系においては、哲学の主体は絶対精神なのです。つまり全存在をわがものとしているような精神ですね。それになったつもりで哲学をすれば、カントの物自体のような、原理的に不可知なものを予め仮定しなくてもすむわけです。

  
そうしますと総ての存在は、絶対精神が自己を自分の前に対象化して、展開したものであるということになります。そのためには絶対精神は、自己を自己の外に外化し、何らかの事物や事象として対象的に表現することになります。これが外化です。しかし自己を外化するといっても一挙にできるわけではありませんから、最初はただ無規定な有ですが、何ものでもないので、無と変わりません。

 
こうして絶対精神は、己とかけ離れたものとして混沌たる自然からその中に精神的な秩序を見出していくという形で自己を、外にある事物や事象の中で展開していくわけです。それらは主体からは疎ましいものであり、だから否定されて、否定の論理に導かれて、より発展した精神的なものになっていくわけです。

 
このように絶対精神は自己を事物として外化し、それを自己疎外として受け止めます。つまり主体が生み出したものだけれど、主体にとっては疎ましいものなのです。この疎外を止揚してより発展したより精神的なものとして、新たに自己を対象化するわけです。

 
このようなヘーゲル哲学の疎外構造に対して、フォイエルバッハは、文句をつけたのです。といいますのが、絶対精神というのは、結局神のことでしょう。神だから全存在を生み出し展開できるということです。しかし、よく考えますと、その神はだれが考えたのか、人間が生み出したのではないかということですね。

 
といいますのは、ドイツ観念論から言いますと、すべての現象は人間の意識が構成しているわけですね。宇宙という意識や神という意識もそうです。しかし個々の人間は、紙切れ一枚作ることは出来ません。分業体制の中で一つの作業しかできていませんから、何もかも生み出すような絶対精神は、全くの他者であり、超越者であるわけです。

 
でも人間は、類的存在としては何でもできるのです。数学苦手な人は自分は微積分なんか絶対に理解できないと思い込んでいるでしょうが、決してそんなことはありません。一つ一つ積み上げていけば人の十倍かければ解けるようになるのです。

 
そんなわけで、それぞれの人がチェンジして一から料理を習ったり、パソコンを習ったりすれば、できるようになります。それで絶対精神はそれぞれの人の中にある類的本質を、自分のものと感じられないので、自分の外に出して、絶対精神として疎外したものにすぎないというのです。

 
だからフォイエルバッハに言わせれば、人間は自分から類的本質を疎外しないで、自分自身の類的本質を信仰すべきだというのです。でもどうしたらそう感じることができるのでしょう。

 
そこで注目したのが感性です。感性を通して人間同士は出会い会話をし、ふれあいます。それで子供もできますし、動植物を殺して食べることも出来ますし、原材料を製品に加工することも出来ますね。

  
頭の中で理性であれこれ思っているだけではとても個人の中にそうした人々や自然とのつながりを実感できませんが、感性を通して、風や星や花やそして様々な匠の技もわがものとして感じられるようになるということです。それで彼はヘーゲルの理性主義、観念論に対して、感性主義、人間学的唯物論を対置したわけです。

  
このフォイエルバッハの哲学革命で、若きヘーゲル学徒たちは、巨大なヘーゲル哲学の檻から解放された気持になったわけです。それでマルクスもすっかりフォイエルバッハ主義者になって疎外論に取り組んだということです。

 
フォイエルバッハのヘーゲル批判は、神は人間の類的本質の自己疎外だということで、神が人間の外に出て、超越的に総てを生み出し、支配するという構造を批判したわけです。だから神の名のもとに教会権力が絶対的な権力を振るったり、地上の権力の圧制を聖化してやったりすることを真っ向から批判できるわけですね。また同じ論理を応用すれば、国民の類的本質の疎外にすぎない国家権力が、国民から遊離して、圧制を行なうことも批判できるわけです。

  
マルクスは当時、資本主義の産業革命がイギリスからフランスに移ってきて、労働者が悲惨な疎外状態にあることをパリで見ていましたから、この疎外論で労働者の疎外を告発し、労働者自身がこれを自己疎外として捉えられるようにすべきだと感じたわけです。

  
それでフォイエルバッハに手紙を書きまして、宗教の疎外については良く納得できたので、是非労働者の陥っている自己疎外について議論してくださいみたいな手紙を書いたらしいのですが、返事がなかったようですね。それてなんだフォイエルバッハも結局頭の中で疎外を論じているだけじゃないかということで、それが翌年の『フォイエルバッハ・テーゼ』になっていくということです。

格差社会と社会変革

問 格差社会について、ますます格差が拡大しているようなところがありますね。青森のリンゴを一個八千円で買う中国の富裕層もいれば、路上生活者もいます。こういう格差をなくすために社会を根本から変革するのは難しいのでしょうか。

答 福祉国家建設が戦後の日本社会の目標だったのですが、少子高齢化により福祉水準が維持できなくなってきています。そして経済のグローバル化で、政府・日銀などの財政金融政策がなかなか効果が上がらなくなっています。そうしたなかでの格差是正は相当な困難を伴うようです。

 それにしてもホームレスがたくさんいるような社会は、国家が国民の共同体としての機能を果たしていないということですから、大問題ですね。健康で文化的な最低限度の生活を保障するのが大前提で、ホームレスは施設に収容して職業訓練を行い、定職につけて、住む場所が定まるまではきちんと管理する体制をとるべきでしょう。もちろん民生委員を拡充して生活困窮者にきちんと生活保護が支給され、不正に受給する者がないようにする体制をとるべきです。

 そして法外な重税や社会保険料で未納者が急増するようではだめです。要するに、子供を安心して産めるような児童手当の拡充や、日本に来て働きたいと思えるような、留学や労働開国政策を推進し、少子高齢化を解消するようにしなければなりません。

 もちろん学力低下や日本の技術水準の劣悪化などは一番困るわけで、国民一人ひとりがもっと日本国民としての誇りを持って現状の危機を打開していく必要があるでしょう。 

労働力商品の価値について

問 労働力商品についてですが、労働力商品の価値は、他の商品と同様に、生産費によって規定されます。つまり商品の価値はコストによって決まるのだから、作った商品の価値がその生産者の価値になるのですか。でもそうすると家で子供の世話をする主婦は価値がなくなってしまいます。

答 労働力を再生産するには、家庭などで消費する労働者の生活資料を賃金で購入できなければなりませんね。要するに本人と家族の最低限度の生活費が賃金として支払われないと、生きていけないので、それが労働力商品の価値になるのです。もしその価値が労働者作り出した商品の価値と等しければ、資本家の下には何も残りませんから、それでは資本主義は成り立ちません。労働者が生み出した価値から、労働者の最低限度の生活費としての賃金を差し引いたのこりが剰余価値であり、資本家の利潤になるわけです。

 主婦は賃金をもらいませんから、労働者が働いて得た賃金で生活費を賄っています。つまり主婦の労働は価値を生みません。価値を生む労働は商品が交換可能であったり、労働者も交換可能なのです。主婦の場合は取替えがきかないわけですから、対価も支払われません。無償のサービスですね。だからそこに尊さがあるともいえますし、それでは納得できない人は、夫の賃金は、夫の労働に対する対価だけでなく、主婦労働に対する対価も含まれていると見なす人もいます。

福島原発事故は自然災害か人災か

問 福島の原発事故も、原発側のミスで放射能がでたわけではないですよね?自然災害、人間が逆らえない力によって起きた現象でしょう?

答 それは認識が甘いですね。福島原発の人も想定外だったけれど、想定外のことも考慮しておかなければならなかったので、今回の事故は人災だと認める発言をしています。

  
マグニチュート7程度までしか想定していなかったわけです。ところが明治時代に大津波があり、奈良時代に30メートル級の津波があったらしいですね。それが千年に一度の大津波ということで、もう千年たっているので、何時大津波がきてもおかしくないから、それを想定した対策を立てるように専門家から指摘されていたのに、そこまでするととても採算が合わなくなると言って、対策を立てなかったので、今回のような大事故になってしまったのです。つまり原発は安全確保が現在の技術では出来ないということなので、実用化はもっと先にすべきだったということですね。

対象を実践として捉える

問 「フォイエルバッハ・テーゼ」の最初のテーゼ
「これまであったあらゆる唯物論、それにはフォイエルバッハのものも含まれます。その主要な欠点は、対象(事物)や現実や感性が客体あるいは直観という形式のもとでしか捉えられていなかったことです。つまり感性的人間的活動、すなわち実践として、主体的には捉えられていないということです。」
は、はっとさせられましたが、このテーゼは現在ではあまり浸透していないのではないでしょうか?

答 要するに物事を自分自身の問題として、自分自身の実践として主体的に捉え返すべきだと言う事です。これは戦後主体性論争というのがありまして、1950年前後ですね、その時期には論じられていたようです。そして実存主義が日本でも流行した1960年代でも論じられていたとは思いますが、1960年代末の五月革命の挫折以降は、主体としての人間があまり語られなくなってしまったということです。それで疎外論も衰退してしまったのです。でも21世紀を迎え、時代も大きく転換して、あらためて人間とは何かが問い直され、主体性や疎外についても新たな視点から語られるようになってきています。

教育者が教育されなければならない

問 生徒に与える教師の影響の重大さを考えると教師は、しっかりした知識を身につけていなければならないので「教育者は教育されなければならない」というのですか?

答 そういう教師の再教育のことではありません。教師は教育環境や教育内容を常に変革して、実践的に教育しなければなりません。教師は教育するという実践を通して、環境や生徒から様々な事を学び取り、自分自身を変革しなければならないという意味です。

問 「教育者が教育されなければならない」という言葉が「フォイエルバッハ・テーゼ」にあるそうですが、それを紹介してください。

答 テーゼ3です「環境と教育との変化にかんする唯物論的学説(人間は環境と教育が作り出したものなので、環境を変え教育を改めれば、人間を作りかえることができるという唯物論的な教説)がありますが、その教説は、次のことを見忘れているのです。それは、環境こそが人間によってこそ変えられること、そして教育者自身が教育されなければならないことです。だから、社会を二つの部分に分けるしかなかったのです。そのうちの一方の部分は社会を超えたところにおかれます。(※教育する側とされる側、教育する側は社会の上から啓蒙するという意味か−訳者)
 環境を変えることと人間的活動あるいは自己変革は、ただ革命的実践として合致するのだと捉えられますし、合理的に理解されるのです。」


 このテーゼは読む人によって様々に解釈されているようですが、私は次のように解釈しています。

 人間は環境によって影響されるけれど、環境自身が人間によって変革されてきたものだということをふまえるべきたいうことが先ずあります。そして環境や教育によって人間は規定され作られますが、教育者も教育を通して、生徒からも教育されるので、そういうように自らが教育すると共に教育されるという自覚を持って、生徒と共に学びなおし、変革される必要があるわけです。そうすることで環境と教育をともに変革するという革命的実践として教育が捉えられるわけです。

マルクスは世界を変革したか

問 「肝心なのは世界を変革することである」とマルクスは言ったそうですが、マルクス自身世界を変革したといえるのでしょうか。

答 例えば『資本論』で循環的恐慌が周期的に起こるメカニズムを解明し、労働者階級が窮乏化して革命を起こすしかなくなることを明らかにしたので、政府は景気対策や社会政策を行なうことによって対応するようになったわけです。その結果、マルクスの想定していた革命は、西ヨーロッパやアメリカでは起こらなかったのですが、マルクスの学説が世界に大きな影響を与えたとはいえるでしょう。

哲学とは何か

問 「世界を解釈していただけだと哲学者を批判することもまた哲学だ」と先生はおっしゃいましたが、よく分かりませんでした。哲学とは何なのでしょうか?

答 哲学とは物事を根源的に捉え返し、一貫した原理に基づいて展開しようとすることです。

 これまでの既成の哲学者たちが様々に世界を解釈ばかりして、どんなに労働者が悲惨な目に遭っていようが、一向に変革しようとしないのを見て、哲学者というものを解釈ばかりして、動かない連中と原理的に捉え返したのですから、この批判は哲学的ですね。そしてそういう哲学者ではだめだと考えているわけですね。解釈だけして、その理論の正しさを実践を通して証明しようとしないのですから、その正しさは主観的で独善的でしかありません。その理論が世界を変革に役立って初めて、実践を通して正しさは証明できるということです。そういう実践的な原理を説いているので、マルクスの理論も原理的なものであって哲学だといえるのです。

第2テーゼ「人間の思考が対象の真実と合致しているかどうかという問題は理論の問題ではなくて、実践の問題なのです。実践において、人間は自分の思考が真実であり、すなわち現実で力があるということを、彼の思考が現世のものであることを証明しなければならないのです。実践から切り離して思考が現実的か非現実的かについての論争なんて、純粋にスコラ的な問題にすぎません。」

土台は経済だけか?

問 唯物史観について、上部構造にはいろんなものがあるのに、下の土台には経済しかないのが疑問に思いました。

答 経済的なものが人間社会の土台だという捉え方をしているわけです。結局人間は毎日生きていかなければならず、そのためには先ず以て衣食住をなんとかしなければなりませんね。そのための営みが経済なので、それが土台になるということです。

唯物史観=史的唯物論?

問 唯物史観と史的唯物論は同義語と考えていいのですか?

答 ええ、同義語ですね。ただ用法としては、経済的土台と上部構造の関係を論じる時は、唯物史観によれば、上部構造は経済的土台によって決定されるといいます。「原始共同体→古代奴隷制→中世封建制→近代資本制→共産主義社会」という発展段階論は、「史的唯物論の公式」ということになっています。誰が決めたということはないのでしょうが。

いつも少数の支配者、多数の被支配者

問 史的唯物論の公式によると生産様式は変わっても、どの時代も支配する者と支配される者に分かれていた、いつも少数の者が多数の者を支配していたということで、その点は同じなのですね。それで共産主義になっても一部の党の指導者、政府の官僚、企業幹部、高級技術者などが特権階級になって、大多数の労働者を支配するわけでしょう。

答 マルクスが言いたいのは、各時代によって支配の仕方が違うわけで、どうすればその時代を変革して次の時代に進めるかは、その時代の矛盾をしっかり具体的に分析しなければならないと言う事です。

 マルクスが考えていた共産主義は「自由人の連合」ということで一部の特権階級の独裁ではありません。

古代奴隷制の奴隷反乱はあったか?

問 古代奴隷制では奴隷は人としては扱われず物として扱われました。奴隷の数が圧倒的に多かったのに、その奴隷たちが叛乱を起こさなかったのはどうしてですか?

答 奴隷の比率はポリスによって違います。アテネは人口の三分の一の約8万人が奴隷でした。市民が債務奴隷に転落するのを防ぐために、公共事業をしていました。あまり奴隷が増えると、兵士になる人が減り弱体化するからです。
 スパルタは、被征服民をまるごと奴隷にしたので市民の10倍、20倍の奴隷がいたようです。それを押さえつけるために軍国主義体制をとっていました。大規模な奴隷反乱も起こっています。前685年メッセニア戦争など。
 ローマ時代の奴隷反乱は、スパルタクス団の叛乱など大規模なものがあります。

貧しい大衆は変革主体になり得るか?

問 哲学で世界を変革するのは難しいのではないでしょうか?貧しい人々はその日暮らすのが精一杯で社会の変革など考える余裕がないでしょうから?

答 マルクスは、労働者階級はどんどん窮乏化していっているので、革命に起ち上がらざるを得ないと捉えていたのです。今は何も持たないけれど、革命によって労働者が失うのは、自分たちを縛り付けるくびきだけであり、獲得するものは総てだと、労働者に希望を与えたのです。

 唯物論と対象の主体的把握

問 「フォイエルバッハ・テーゼ」は理解しずらいのですが、唯物論といっても、そこに物があるというのは、そこにいる人間が、そのもの自体を認識して、はじめて、そこに物があると言えるということをいいたいのかなと感じましたが、そのように考えてもいいのですか。

答 唯物論は、物質と精神では物質の方が根源的だという考え方です。それを認識について当てはめますと、先ず物質があるから、それを感覚を通して精神が認識できると考えるわけです。だから、客観的な実在としての事物があって、それを意識が反映するということになりますね。その段階に止まっているのがこれまでの唯物論の欠陥だと、既成の唯物論を批判しているのです。それだと対象としての事物は主体の外部にある、主体とは別物の事物でしかないことになり、自分自身とは捉えられなくなってしまっているわけですね。だから実践的、主体的に成ることができないわけです。

 東北で大震災が起こり、福島原発が大事故を起こした、これまでの捉え方では、全部自分の外部の出来事で自分自身のことではないわけです。たとえそれに巻き込まれても、外部に襲われたとしか考えないわけですね。それではだめだということです。それは自己を予め身体の枠に閉じ込めていて、それで世界を自己の外部としか捉えていないということなのです。

 主体的、実践的にみるのなら、総ての事象は自己の感覚を通して意識として現われます。自己の意識でない事象などないのです。その意識は自己が取り結ぶ自然や社会との関係から生じていて、それが自己の状態なわけですね。それを自己自身の克服すべき変革すべき実践的課題として主体的に捉え返さないと、どんどん破滅的な情況に追い詰められていくぞというのです。

 質問されたような、自分が意識したから物があると言えるかどうかということには直接答えていませんね。

 

マルクスについて 

問 経済学者のアダム・スミスやマルクスが哲学や倫理についても述べている事に関して少し不思議に思いました。彼らは哲学者でもあるのでしょうか。

 スミスは道徳哲学から経済学に入っています。というよりアダム・スミスによってはじめて経済現象の科学的考察が体系的に仕上がって、経済学が誕生したのです。マルクスは学生時代に法学部の学生だったのにギリシア哲学を研究して哲学博士の学位をとっています。 

問 資本家による剰余価値の取得をマルクスは『資本論』で「不当な搾取」としているようですが、あくまで8時間で8千円という労賃の契約をしたうえで、たとえ8千円分の価値を4時間で生み出せたとしても、8時間働く契約をした以上は、4時間で帰ってしまうのは契約違反です。契約通りなのですから何も不当な搾取ではないのではないですか。  

 ええ、マルクスも契約通りであって、法的には「不当」ではないことは認めているわけです。しかし4時間分を搾取されるような契約を結ばなければならない立場に置かれているのが不当だということですね。 

 労働者は資産を一切持っていなくて、仕事をしようと思っても、機械も原材料も燃料も調達できません。だから労働力の使用権を資本家に売って、最低限度の生活費を賃金として稼ぐ他に生きていくことができないわけです。

 それじゃあ貯蓄して資本家になればいいと思うかもしれませんが、労働者は相対的に余剰人口を抱えていて、常に最低限度の生活費に賃金を抑えられる状態なので、それは無理なのです。

 資本家の資本が機械などを調達したので、資本家が利潤を得るのは当然だというのが資本家の言い分ですが、マルクスに言わせれば、その資本は労働者が生み出した剰余価値が元になっているので、総て労働者の労働の成果なのだということになります。 

問 総ての労働者が剰余価値を生み出すとは限らないと思います。要領の悪い人は8時間で8千円という賃金分の価値しか生み出せないこともあるでしょう。その場合は剰余価値説はあてはまりませんね。それとも資本家が剰余価値を生み出す労働者しか雇わなかった場合だけをマルクスは想定しているのですか。  

 経済学は大数の法則を用います。個々に当てはまらない場合があっても、全体として当てはまればいいわけです。もし全体として当てはまらなければ資本家は利潤を得られないので、資本主義は成り立ちません。

 それに労働者は管理されていて、労働効率はチェックされていますから、要領が悪ければ、賃金を下げられたり、解雇されたりします。  

問 「不当な搾取」というのはあまりピンとこないのですが、現代の雇用形態ではあまりに当たり前に成りすぎているからでしょうか。 

 支配者階級としての資本家と労働者が、面と向き合って対立している場合は、資本家の豪邸やハイクラスな生活と労働者の窮乏化した暮らしが対比されて良く分かると思いますが、今では具体的な人格としての資本家はあまり見えなくて、法人格化した会社に支配されているので、そう感じるのかもしれません。  

問 マルクスが批判的に捉えている「労働力が商品化され、物として売買される人間の物化、商品化」に対し私もこの考えは良いと思えない。なぜならば、労働力には一人ひとりによって体力の持続性や特殊性が違うからである。その時代において「人権」というものが前に出てくることはないと思うが、今では人権侵害になると思う。

 マルクスの時代に物象化がなされていなければ、今の時代も遅れており、おおきく変化していたと感じ、あらためてマルクスの偉大さを感じた。

 「物化、物象化、商品化」というのは現実であって、考えではありません。マルクスは人間は人格存在なので物として扱われてはならないという立場で、労働力が商品化されたり、人間関係が商品関係、貨幣関係、資本関係になってしまっているのを批判しているのです。  

 もちろんこういう関係は資本主義である限り現在も続いており、発展しているのです。あなたは、何か現在では人間は人格として尊重されていると考えておられるようですが、経済関係ではそれはどうでしょう。いざ商品・貨幣・資本の関係になればやはり資本の論理が支配し、貫徹します。もちろん労働者にやる気を起こさせるために職場環境をよくし、人間関係を配慮しようという経営努力がなされますが、それも効率よく利潤を生み出してもらうためで、物化、物象化の枠内で行われているわけです。 

問 「不当な搾取」を打開することは不可能なのでしょうか。革命レベルの策しかない気がします。  

 19世紀の搾取は非常に過酷だったようですが、あまり搾取が酷すぎますとかえって、窮乏化した労働者が多くなって、国内需要が落ち込み、恐慌の原因になり、ひいては革命の原因になりますので、20世紀の国家独占資本主義は、搾取を緩和するように、国家の財政や金融政策を活用した修正資本主義になっています。  

問 8時間で8千円しかもらえなくても、それで最低限の生活が成り立つのなら、たとえ8時間で1万6千円分の価値を生んでいても、それでいいと思います。だって働く場所を与えてくれ、賃金をくれるのですから。  

 それは鵜飼の鵜で満足と言っているのと同じです。確かに働く場所がなくては生きていけないので、みんな必死で就職活動をしているので、そういう考えになるのも同情できますが、たとえ職にありつけても、またいつ路頭に迷うかもわかりません。 

 マルクスの考えは、働く者が、きちんと安定した職場と生活が確保されるようにするためには、資本家が利潤を獲得するために作られた企業で搾取される体制を克服して、労働者が自分たちで職場を運営、管理できる体制にしたほうがいいし、またそれが可能だという考え方なのです。 

問 もし皆に均等に賃金を配ることができたら、見本になる社会主義国家ができるであろう。ただ中国、北朝鮮などに見られるように、社会主義国家であろうと、必ず貧富の差は生まれてしまう。マルクスのように労働者の立場に立って社会をみたら、不当な搾取は問題ではあるが、だからといって社会主義になっても、決して良い社会は築くことはできないと思う。  

 賃金を均等に配ると怠けた方が得という不心得者がでるので、その対策を考えなければなりません。中国は資本主義的な経済運営を行なっていますし、北朝鮮は党国家官僚や高級技術者など特権階級などに高給を与え格差を作っています。それは社会主義的ではありません。看板だけの社会主義です。 

 マルクスは、あくまで共産主義をめざしたのであり、市場経済を廃止してしまうことを理想の実現だと考えていましたから、マルクスの構想していた社会には、私有財産は一切存在しないので、貧富の格差も起こりません。  

問 マルクスは物神崇拝を批判しているが、物と物とが人間に代わって社会関係を取り結ぶ事で、経済が動くのだから、新たな市場経済を作るに当たって物神崇拝は必要不可欠ではないか。

 マルクスは私有財産制や商品経済それ自体を克服しようという考えです。新しい共同体ではしたがって商品も貨幣もないので、人々が必要に応じて物資を生産、流通、分配するということです。だから物と物の関係に置き換えないと考えたわけです。 

 しかしそれは決して物資抜きの関係ではありえませんから、どのように物資を含む人間関係にするかというの問題があります。つまり物と物の関係としての人間関係は物神崇拝ではないけれど、きちんと取り結ばなければならないということで、その点マルクスのつめは甘いというのが私のマルクス批判です。

問 なぜマルクスが物神崇拝を否定するにいたったか。人間性の破壊という意味で捉えたとしたら、シンプルすぎる考察ではないだろうか。なぜなら、人間性を表面に現すときに物質化することは、一番わかりやすい表現方法である。つまり音楽、建築、絵画は、人間性を物質化し、表象している。すなわち人間性の表れである文化の形成は、あくまで物質化することで成り立っているから、物神崇拝を否定することは、人々がクリエートする「物」を否定しているのではないか。経済的側面でのみの捉え方であるとして、その意味で理解することができるが、表現はコミュニケーションであるから、それを否定してしまうと、文化の形成に著しい支障を与えると考える。  

 マルクスは物に人間性を表現することの意義を否定しているつもりは毛頭ありません。商品が価値関係を取り結んで、人間の労働関係を商品自身が取り結んでいるとみなしていることを物神崇拝だと批判しているのです。つまり上着とリンネルが交換されることで、商品が人間の社会関係を形成していることになっているのを、物に人間関係を置き換え、物を人間とみなしている物神崇拝だと批判しているだけです。  

 ところがあなたは、マルクスは物に人間性を表現し、物質化することを批判していると受け止めているわけですね。それはマルクスにしたら、全くの誤解です。  

 しかしそう誤解されるのは、それなりのもっともな理由があると私は思います。人間は物に自己を表現し、その物に自分を代表させて、経済的な関係を取り結んでいるのですから、物は既に人間とは別物とは言えなくなっている筈ですね。にもかかわらずマルクスは物なのに社会関係を取り結ぶのは、物と人間を混同する倒錯ではないかと批判しているわけです。つまりマルクスは物と人との区別に固執し過ぎているのではないかと言えますね。

問 剰余価値理論の意味がよく理解できなかった。自分のために働いて賃金を得るために働くのではなく、資本家のために働くということなのですか?  

 労働者が働く目的が資本家のためということはないでしょう。もしあなたが労働者になったら、資本家のために働きますか?労働者は生きていくために生活費を稼がないと、生きていけないのです。労働者は生産手段を購入するだけの資産を持っていないので、生活費を稼ぐためには自分の労働力の使用権を資本家に売らなければなりません。つまり労働力商品になってしまうのです。その価格が賃金にあたります。労働者は常に相対的余剰人口を抱えていて、ぎりぎりの最低限度の生活費まで、買い叩かれるということです。  

 一定の労働時間を働きますとその分の価値が生まれます。それを全部賃金に回しますと、資本家の取り分がなくなり、利潤が得られませんから、その全労働時間を二つに分けて考えます。労働者は自分自身と家族の最低限度の生活費が得られれば働きますので、その分の価値を生み出すのに必要な労働時間を必要労働時間と呼び、残りを剰余労働時間と呼びます。  

〈全労働時間=必要労働時間+剰余労働時間〉

(総価値=賃金分の価値+剰余価値)

〈賃金=必要労働時間で生み出された価値、剰余価値=剰余労働で生み出された価値〉  

 つまり8時間労働の賃金が8千円としますと、その人は剰余価値率5割だと一日で 16000円分の価値を生み出しているということです。これはただで4時間働いているわけでは有りません。8時間を8千円で働いているということで、ただ働きではないわけです。剰余価値分の8千円は資本家の所得になり、利潤の源泉になります。  

 この人が1時間残業しますと超過勤務手当ては1200円つきますが、それをもらえないとサービス残業で、1200円は強奪されているわけです。

問 剰余価値が資本家に搾取されていることは分かりましたが、我々学生が行なっているアルバイトは大半が時給であり、働いたら働いた分だけ給料がもらえます。そのようなアルバイトでも剰余価値が生まれるのでしょうか。また年俸をもらっているプロ野球の選手であっても剰余価値の搾取にあっているのでしょうか。 

 アルバイトを雇うのも資本家が利潤を得るためです。賃金が時給か月給か年俸とかとは関係ありませんし、仕事の種類とも関係ありません。 

 一日8時間労働の賃金が8千円としたら、その8千円分の価値は4時間で生み出せるので、8時間労働すると16000円分の価値を生んでいるので、剰余価値は8千円でしたね。それと同じ理窟で、1時間千円の賃金だと、30分で千円分の価値を生み出していて、1時間2千円の価値を生むので、1時間千円の剰余価値を資本家は搾取できるのです。 

 もしアルバイトからは搾取できず、労働者からだけ搾取しているとしたら、どうして労働者を増やして、アルバイトを減らさないのですか?最近は常勤の正規従業員を減らして、臨時雇いやアルバイトを増やす業者が多いのは、その方が搾取率が高いからかもしれません。 

問 マルクスは株式会社では、経営者はかならずしも資本家でなくてもいいので、経営担当の労働者でもいいから、資本家は会社の経営者としても必要ないということを指摘したそうですが、それでは、資本家をなくして、労働者が一人ひとりがお金を出し合って、皆で経営することにしますと、どうでしょう。労働者の家庭では家族構成などで、出せる資本に差ができますし、労働の内容質的にも量的にも違いが出て、剰余価値を均等に労働者に渡せるということは必ずしも言えないのではないでしょうか。 

 社会主義の段階では、賃金を労働の質や量によって差をつけるのは当然ですね。それは働いただけ賃金が出るということで、搾取ではありません。労働者が投資額に応じて配当をもらうとなると、これは利潤の配分であって、剰余価値の搾取ですね。ですから労働者の投資額を利子つきで企業が返済した後は、従業員は同じ権利で企業の運営に参加できなければなりません。職場会議とか、全体会議などでは平等の議決権を保障されなければならないでしょう。 

 ちなみにソ連・東欧や中国などの現存社会主義では、そういう企業の運営についての平等の議決権や企業情報の開示も受けていなかったので、社会主義は看板だけでした。

問 史的唯物論の公式のような歴史に必然性を持たせ、各社会に発展段階に応じて「野蛮な未開社会」とか「文明的なヨーロッパ社会」などと優劣をつける進歩史観的な考え方は現在においては支配的ではないですよね?ウォーラスティンの世界システム論や、それこそ今日出てきた実存主義に引導を渡したレヴィ=ストロースをはじめとした構造主義によってこういった歴史観は否定されたのではないですか?  

答 今や近代の終焉ですからね、近代を象徴した「進歩」「発展」という捉え方が深刻な反省に直面していることは確かです。また中国からはじまった世界システムの中心が地球を一巡してアメリカの覇権が終焉しつつある現在、どこかを中心に置いたり、単線型の発展段階説も破綻しつつありますね。  

 ウォーラスティンと唯物史観との関係は論者によって解釈はさまざまで、私はそこまで手が回りません。構造主義はある社会をさまざまな社会構造の複合体とみるわけですが、だからと言って、歴史がその社会が抱える矛盾対立によって展開していくことを否定しているとは言えないでしょう。

 歴史を見る眼ですが、偶然性・必然性という視点を封じ手にしてしまうのはどうでしょう。機械的な必然論は困るけれど、やはりこうなる必然性はこういうところにあったということを見出していくというのは必要です。  

 進歩・発展というのも、近代の終焉によって評判が悪くなっているけれど、常にその時代の課題と格闘して次の時代へと、歩を進め、前進していくというのは人間の知の構造自身に内包されていて、一時的に評判は落ちても必ず復権してくる欠かせない観点ではないでしょうか。  

 近代の終焉は近代的な思惟の相対化ですが、やはり近代のもつ普遍的意義というものがあって、近代の相対化を相対化するというメタ思考が求められる気もします。

 

やすいゆたかのマルクス関係の著作
第一巻 『資本論』の人間観の限界http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/shoin/genkai.pdf
第四巻『二十一世紀の人間観の新地平http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/shoin/chihei.pdf
第二十巻『ファンタジー人間論の大冒険』より
青年マルクスの人間論1−労働疎外論の人間観
青年マルクスの人間論2−フォイエルバッハ・テーゼ
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/shoin/daibouken.pdf 
哲学者マルクスの人間観
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/ningenron/tetsugakushamarx.htm
改訂疎外論再考ノート
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/kaitei.htm

 

 

デカルトについて

問 デカルトに人間のように言語を状況に応じて使い分けるインコやオウムを見せたら、それは人間だとするでしょうか?

答 ある食事や挨拶についての慣用語が生活習慣的に使えても、それだけで主観・客観的な事物認識ができるようになったとは言えないのではないでしょうか。

問 言語を操れない人間も世界には存在しますが、その人たちは人間ではないとするのでしょうか?

答 例えば赤ちゃんは人間へと成長する可能性としては人間ですが、まだ人間としての働きをできていないという意味では人間未満でしょう。もちろん尊厳としては一個の人間として尊重されるべきですか。

問 デカルトは、神は存在し、自動機械として動物を造ったと捉えていますが、その神自体は自動機械とは何か違うところがあるのかなと疑問に思います。デカルトがいっている神は体がないしろ、何かの欲求を充たすために人間を作り、言語を操ったり、イマジネーションも持っているようにとれるのですが、神は誰に造られ、何時の時点から存在する事になっているのかが気になります。

答 神は精神的実体ですから、延長的に捉える事はできません。つまり物質ではないので、機械的メカニズムで説明できないという事です。もちろん人間は神の存在を論理的に類推することは出来ても、知覚に基づいて物質的・機械的に認識はできないのです。ですから神の欲望やイマジネーションがどういうものかも、人間の身体的な欲望やイマジネーションから類推することはできません。もちろん機械を作るように誰かが作れるものでもありませんし、時間概念で生成、消滅を論じる対象ではありません。時間を超越しているとされています。だから教会では神のことを「初めにあり、今あり、世々限りなくあるなり、アーメン」と唱えます。

問 デカルトの心身二元論の理論からすれば人間の霊魂は神ガ与えたという事になるのですか? 

答 言語を自由に操る能力は機械がどんなに発達してももつことはできないだろうから、人間の魂だけは、神が特別に誂えて予め置き入れたに違いないとデカルトは考えていました。

問 物質は延長的実体だということですが、物質は精神的なものの延長だから延長的実体なのでしょうか?

答 全く違います。延長は空間的な長さや広がり体積を持つのが延長なのです。野球で延長戦と言えば、10回からですが、一回から長さがありますのでデカルト的には最初から延長です。デカルト的には、物質と精神は全く異なる実体ですから、物質は精神の延長ではありません。

問 デカルトの主観・客観認識図式では、主観は見る側で、見えないものである。だから主観は認識できないということですね。認識できないものは認識できないでおいといていいということでしょうか。

答 そうですね。主観である私は考えているということによって存在することは絶対確実なのですが、対象として認識することはできないということです。この認識できない我を出発点に置いて哲学体系を目指そうというのがデカルトです。 

問 神は先天的な完全者であるということですが、後に誕生した人間と神が同じ姿なのはどうしてですか?

答 『バイブル』には神は人間を自分に似せて作ったと書いてありますので、人間の姿で神をイメージするのです。

問 神観念が後天的なものなら、幽霊や心霊現象と同じく根拠のない人間の妄想ではないのですか?

答 コスモス(宇宙)を創造された神が存在するというのは、人間の類推ですから、それを実証することは人間には不可能で、信仰の対象ですね。それに神観念は様々ですから、それぞれについて検討する必要があります。

問 鉄腕アトムは、言語を話せ、欲望もあり、コミュニケーションもできますが、私は機械は機械であって、人間ではないと思います。

答 ヒトは動物の一種ですが、人間は生物学的概念ではありません。人間を言語を話せ、欲望もあり、コミュニケーションができる存在と定義すれば、鉄腕アトムも人間だと言えますね。詳しくは以下のファンタジーを読んでみてください。
『長篇哲学ファンタジー 鉄腕アトムは人間か?
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/shoin/atom.pdf

 

 

キルケゴールについて

問 そもそも神を信じるか否かの選択も主体的な真理によるものではないでしょうか?だから神への信仰を前提としているキルケゴールの論理には理解はできても同意はできないのですが。 

 それは無理はないですね。ただ倫理学として捉える場合は、神を普遍性に置き換えてみてください。個体の主体的真理に固執してしまいますと、普遍性とは断絶し、普遍性とつながることによる救いは絶望せざるを得ません。しかし近代の客観的真理というのは、科学的な合理的理性であって、客観的な真理体系に過ぎないわけで、それは神とは断絶した自然法則に過ぎず、魂を救うような、本当の普遍性ではないわけです。ですから神に近づこうとすれば、あえて非合理性や個体的真理に固執し、絶望の道を選んで、もがき苦しむ中で、神を求める以外にないのではないかということかもしれません。 

問 神を信じることができないことが苦しみとキルケゴールは言っていますが、宗教というのは、神を信じることができないから、その絶望から立ち直るために、もがき苦しみお経を唱えたり、修行をしていくところから生まれたのですか? 

 

答 宗教一般の起源はそうではありません。雨が降ってほしいとか、獲物が取れますようにとかの願いを唱えて、それが叶えられたりしたら、感謝の印にお供えをしたりとかするようになって宗教が生まれたのでしょう。超越的な唯一神だと目に見えるわけではないので、願いどおりいかなかったら、疑いが生じますね。でも疑うと願いが叶えられないので苦しむわけです。 

 特に現代人の場合は科学信仰、理性信仰が優勢で、超越的な神からは心が離れがちになりなります。 

問 先生は「人は死の順を待つ死刑囚のようなもの」とおっしゃいましたが、死刑囚は他人の手で殺されますが、人が死ぬのは普通は他人に殺されるわけではありません。ですから人を死刑囚に喩えるのは納得いきませんでした。 

 確かに違いますね。人に殺されるのは嫌だけれど、病気で死ぬのは嫌ではないという人もいますから。でも自分の意に反して死ぬことには違いないという意味では皆死刑囚だというのは言えると思います。 

問 キルケゴールの宗教的実存までいった後、どうして絶望から絶望によって救われるのか良く分からなかった。 絶望したから神にすがって絶望から立ち直るというのではありませんね。

 キルケゴールは絶望の最中にあって死んだわけですから、救われるとは彼自身思えなかったでしょう。絶望でもがき苦しむことで神の前に立つという実存にアイデンティティを見出したとしか言えませんね。  

 絶望しているということは、神と断絶していて、神から救われる望みがないということですから、それぐらい罪深い存在だと自覚しているわけです。 
問 美的実存、倫理的実存と絶望を繰り返した末、宗教的実存の中でも絶望した場合は、いったい人はどうなるのでしょう。疑問は絶えません。 

 もがき苦しむでしょう。だからもがき苦しみなさいということですね。もがき苦しむという体験から何が生まれるか分からないけれど、もがき苦しまない青春ではだめな気がします。 

問 有名人でもないのに、何によって私の生きた証がずっと残っていくのでしょうか?  

 有名人だって、そのうち忘れ去られます。墓だって朽ちてしまいます。だから永遠というのは時間的に続くという形では無理があります。今、この時を精一杯輝いているということで、時を弾き飛ばして、時間意識を超越した形で納得を感じることが永遠なのです。もっともキルケゴールではどうなるのか、微妙ですね。

問 肉体的な死は精神的な滅びでないと『死に至る病』でいわれているが、ならばいったい精神はどういった形で残ると考えられていたのか、幽霊的な物なのか、他人の記憶に残るという事なのか、それこそ天国にいくということなのか? 

 精神が個体の精神でしかなければ、肉体の消滅と共に滅んでしまうことになりますね。ただキリスト教では、個体の精神も神からはなれていなければ、終わりの日に甦るということです。イエスは、私は命のパンであり、このパンを食べれば、復活させると約束しています。それでキリスト教会では礼拝をミサつまり聖なる食事と呼び、パンをイエスの肉として食べ、ワインをイエスの血として飲んでいます。これが大いなる生命との合一の儀礼です。

 しかしそれは宗教的な説明ですから、キリスト教徒以外には通じません。神への愛と隣人への愛に生きれば、そのときに過去も未来も弾け飛んで永遠の今が実感されるのです。肉体だけで生きていると、時間的に有限で朽ち果てるわけですが、二つの愛に生きれば、命が輝いて、そこに時間を超越した永遠の自己を感じるということでしょう。 

 なお終わりの日の復活ですが、キリスト教では、その日まで精神は残っているということではありません。肉体も精神も一緒に復活するということです。

問 キルケゴールはその人生の中で何度も絶望に直面してきました。その中でどうして彼は最後まで神を信じられたのでしょうか。 

 神を本当に信じることが出来るのなら、絶望しないでしょう。最後まで神を信じることができなかったということです。でも百パーセント信じないのではなく、信じ切れないということで、そりゃあある程度信じているからこそですね。だから神の救いを求めていたわけですね。だってキルケゴールは単独者としての実存を生きているのですから、他に救ってくれるものはないわけですから。もちろん信じることが出来ないで苦しむという形が彼の信仰の形だと言えますね。現代人の信仰はそうならざるを得ないのです。

問 神から離れている事が「絶望」という事であれば、現在世界中で起こっている「ジハード(聖戦)」「スーサイドボム(自爆)」は、神とのつながりの中からうまれ、精神的意義をもち、その意味は、時間枠を超えて不滅であるから、その人の人生は充実し、「絶望」はないということになるのでしょうか?そしてそれは自己幸福の完結であって、それは他者に幸せを生むと考えるのであれば、それによって巻き添えを喰らった人々はどう捉えるべきなのでしょうか?  

 だから宗教的盲信は怖いのです。イスラム教がユダヤ教、キリスト教よりも盲信になりやすいのは、客観的な時間としては何千年かかるかも分からないけれど、主観的には三日三晩寝ただけで歴史の終りがくるという終末理論です。 

 つまり『バイブル』では死後の世界は「塵から生まれたので塵にかえる」という虚無的なものです。エリヤとイエス以外天に昇った者はいないわけです。ですからたとえ、終末になったら神の審判で、義に生きた人々は甦り「神の御国」に入れるといわれても、それはそういう願いでしかないわけです。 

 ところがムハンマドは終末・復活・審判を遠い未来の夢から三日三晩後の現実へと引き寄せて、俄然自分たちの選択の問題にしてしまったのです。パラダイスに入りたかったら、「六信五行」を守りなさい、ジハードに身を捧げなさいということですね。そのパラダイスは一週間もたたないうちにあなたの現実ですよということですね。 

もちろんこれはムハンマドの宗教的天才のアイデアに過ぎません。しかしムハンマドを盲信している人にそんな説得は通じませんね。

だからキルケゴールのような不信仰を意味するような絶望によって神の前に立つような現代人の信仰と、ジハード理論とは全く対極ですね。

自爆はイスラムの敵に対する攻撃であると同時に自己の中の不信仰への攻撃でもあるわけです。

問 「自己が精神である」という意味が良く分かりません。 

 そうですね。私もキルケゴールの専門家ではないので、うまく説明できません。

次のWEBページから引用しましょう。HP『思想の世界』の主幹者である小副川幸孝先生の文章だと思われます。ただこういう類の文章は、読めば余計に謎が深まるかもしれません。

http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard17.html

「人間は精神である。精神とは何であるのか。精神とは自己である。自己とは何であるか。自己とは自己自身に関わる一つの関係である。」 

 彼は、人間は精神であると規定する。あるいは、断言するといった方が良いかもしれない。この場合の「精神」というのは、単に、人間を精神と肉体に分けて二元論的に考える場合のような人間の部分としての精神ではない。この場合の「精神」は、人間の全体を意味する。人間の肉体と精神は密接に関連し、人間は原子の集合体の一つであり、人間の意識は原子間のエネルギーの交換である。にもかかわらず、人間は精神である。われわれが自らをさして「人間」という場合、それは、われわれの「精神」を指している。「人間」は全体として「精神」なのである。

 よく、「人間の精神性」とか「精神としての人間」とかいう人間の概念が用いられたりする。その場合に対置されているのは、人間の肉体性である。しかし、「人間は精神である」というこの宣言は、その肉体性をも含めた上での全体としての人間を「精神」そのものとして位置づける、という意味である。

 それ故、精神とは自己そのものである。では、自己とは何か。アンチ・クリマクス=キルケゴールは、この自己を自己の関係性において捉えようとする。 

「自己自身に関わる関係、すなわち自己は、自分で自分を置いたものであるか、それとも他者によって置かれたのであるか、そのいずれかでなければならない。」と彼は言う。 

 人間は自己自身として単独に存在するのではない。もし、自己自身として単独にそれだけで存在しているものがあるとすれば、それは、「自己」という意識を持つことはないし、そのような自己意識を持つことは不可能である。人間は、本質的に関係存在であり、関係の中を生きている生物である。それ故、「自己」というものは、その人間が持つ関係から生まれてくるし、その関係によって明瞭になるのである。そして、人間が本質的に持つ関係は、常に二重である。第一に、人間は自己自身と関係をもつ。内省や意識というレベル以外に、人間の精神は、あたかも自分自身の外に立っているかのようにして、自分自身を眺めることも可能である。

 このようにして、人間は「自己」を獲得する。

 人間が本質的に持つ関係の第二は、第三者との関係である。 

 「自己自身に関わるこの関係が、他者によって置かれたものであるとすれば、それは自己自身に関わる関係であるばかりか、さらにこの関係そのものを置いた第三者に対する関係である。」 

 人間は第三者との関係において、自分がどのようなものであるかを知る。自分と関わる第三者が、自分をどのような人間と見なし、どのように扱うかを知ることによって、自己自身について認識する。

 このように派生的に置かれた関係が人間の自己である。それは自己自身に関わるとともに、この自己自身への関係において他者に関わる関係である。そして、絶望とは、この人間が持つ関係における究極的な負の気分である。

ニーチェについて

 問 人間は超人を目指し、その過渡で没落するくらいの生き方をしなければならない。没落しなかったらその人は安全な道を歩んできた事になり、堕落していることになるとのことですが、これはあまりにも偏った考えのように思えるのですが…。

答 確かに偏っているともとれますね。没落を恐れてばかりでは何も出来ないという事をそのように表現しているというように、レトリックとして捉えてみてはどうでしょう。

問 永劫回帰の意味がよくわかりませんでした。

答 人格的な神が存在して、神の意志によってコスモスが支配されているのなら、コスモスは神の意志通り動くが、神は存在しないので、コスモスは究極的には機械的必然性によって動く事になるので、永劫に同じ事が繰り返されるということです。

問 ルサンチマンとはどういう意味ですか?

答 主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情をいいます。キリスト教や社会主義は、庶民の強者に対するルサンチマンから平等を要求し、自分たちより強い者、優れた者が力を発揮し、自己実現するのを阻もうとする傾向があるとニーチェは指摘しています。

問 人間は超人を目指し、その過渡で没落するくらいの生き方をしなければならない。没落しなかったらその人は安全な道を歩んできた事になり、堕落していることになるとのことですが、これはあまりにも偏った考えのように思えるのですが…。  

答 確かに偏っているともとれますね。没落を恐れてばかりでは何も出来ないという事をそのように表現しているというように、レトリックとして捉えてみてはどうでしょう。 

問 永劫回帰の意味がよくわかりませんでした。 

答 人格的な神が存在して、神の意志によってコスモスが支配されているのなら、コスモスは神の意志通り動くが、神は存在しないので、コスモスは究極的には機械的必然性によって動く事になるので、永劫に同じ事が繰り返されるということです。  

問 民衆の生のエネルギーは十年に一度周期的に大きなうねりがあるとありますが、どうして十年に一度なのですか。

 十年に一度程ということできっちりではありません。手元に『悲劇の誕生』がないので、また調べておきます。  

問 ヒトラーはニーチェを一番尊敬していたということでしたが、ヒトラーは超人をめざしていたのでしょうか?  

 偉大な指導者として世界に冠たる第三帝国を築こうとしていたわけですから、超人を目指していたといえるでしょう。

問 人間は自らの限界に挑戦し続けることによって、超人になれると言っていたが、人それぞれで才能を持っている人や持っていない人がいるので、超人になるための努力は人によって必要な量が違うのか?また生きた証を残した者のみが超人といえるのか?  

 ツァラトゥストラもまだ超人には成れていないわけです。ニーチェだって超人とは言えないでしょう。ですから人によって努力の量が違うというようなレベルの話ではなく、どんなすごい人が目一杯頑張ってもなかなか超人にはなれないのです。それが分かっていても超人を目指せということですね。生きた証を遺してもそれだけでは超人とは言えません。  

問 超人の話で、人は過渡であり、没落するからこそ生きた証があるとあったが、どれくらいの行為をさしているのでしょうか?先生は教員になるのも超人の一種と言われていましたが、世の中には教員はたくさんいるのでそれが超人というのは納得いきません。没落する直前で調節して行為を止める事はできないのてすか?  

 何しろ人間の限界を超えるというのですから、大変ですよ、目一杯のさらに上を行かないと駄目ですね。だからリスキィで常に没落と紙一重なので綱渡りに喩えられているのです。教員の仕事も本気で取り組みますと、大変しんどくて切りがありません。わざわざコメントにこうして応答を書き込んだりしていますと、すぐに一日潰してしまいますね。でも講義で喋ってそれでおしまいでは、なかなか心にまで残らないだろうと考えると、貴重な時間を費やすことになります。採算とか報酬のことを考えていたら絶対できないのが教員の仕事です。中学や高校では問題行動を起こす生徒もいます。生活指導が大変です。それに雑用も一杯あるわけですね。そういうことを考えると、教員は超人ではなくても、超人的な仕事だと心得ておくべきでしょう。

問 ニーチェによる没落が極限、限界に挑戦し、生きた証だという論証には危険がある。なぜなら没落した人の総てが限界に挑戦した結果だとは限らないからである。何もせずに怠惰を極めて行き着いた先が没落というパターンもあるではないか。ならば没落は生きた証というよりは、ただの自己満足、自己完結ではないのか。  

 それはそうですが、そういう類は末人として別に論じています。「没落を願う」というのは人間の限界に挑戦する生き方の覚悟を示す言葉なのです。  

問 ニーチェの考えだと、没落するために人間は生きている者とも捉えられますね。生物的にはわざわざ不幸になるために行動しないはずなのにおかしいような気がします。  

答 彼は不治の病を宣告されていたこともあり、幸福や不幸に対して鈍感なのかもしれませんね。そんなことより、あくなき挑戦に生きがいを感じるタイプなのでしょう。

問 キリスト教の懺悔というものは、悪いことをして神に許しを乞うという単純なものではなくて、懺悔をすることによって自分の悪い心と正面から向き合い、自分の生き方を神様に語りかけることで、考えるという行為なのではないかと思います。その中て神は人間が進むべき道を示す道標になっているのではないでしょうか?  

 倫理学的にはそう捉えて懺悔すべきでしょうね。ただ宗教ですから、懺悔をすれば神は許してくださるということが、売りになってしまっているわけです。それに絶対的な超越神の場合は、神との断絶が大きくて道標になりにくい、それで人間の姿になってイエスとして現われたとも解釈できます。

問 ナチスドイツは本当に恐怖独裁原理だったでしょうか?ナチスは選挙という正当な民主的手続きを踏んで、ドイツの政権の座に着いたのではなかったのですか。その後全権委任法などでヒトラーに権力を集中していくのですが、ドイツ国民はその様子を熱狂して支持しました。つまりナチスドイツは民主主義とは地続き、延長線上にあったわけで、テキストのように民主主義の対極に置くような記述はミスリード(誤読)を招くと思います。ナチスドイツは民主主義の行き着く先、衆愚政治の果てであり、小泉首相に熱狂したように、現在の我々にも通じる教訓として、自戒を込めた反省として捉えるべきではないでしょうか。ビンラディン殺害の知らせに「ジャスティス(正義)」を叫び喜ぶアメリカの姿には「普遍的な正義(普遍妥当的価値)」への信仰を思わせるものがありました。  

答 とても鋭い批評ですね。ただ近代民主主義の原理には多数決だけではなく、基本的人権があります。基本的人権を尊重した上で、議論をつくして互いよいところを学びあい、間違いを修正し合って、最終的に多数決で決するのが民主主義です。そしてたとえ多数決であっても基本的人権を侵害する事は憲法上許されない事になっています。  

 たしかにナチスは多数決で政権について、国民の圧倒的な支持で独裁権を手に入れたのですが、その結果人権を奪ってしまい、民主主義を否定し去ったわけです。その時点で民主主義とは地続きではありません。  

 つまりナチスと民主主義を地続きだとしますと、あらゆる人権を奪っても投票権だけ与えれば民主主義だということになります。しかし言論や思想の自由を抑圧し特高警察や秘密警察で拉致拘禁される時代でも、翼賛選挙で高投票率、圧倒的支持、熱狂的な支持を得れるわけで、それでも民主主義だということになります。 

しかし近代民主主義の立場から言いますと、人権のない多数決体制の下では、人民は自由な独立した人格とは言えず、いくら指導者に心酔していても民主政治ではないということなのです。 

 基本的人権の尊重は、普遍妥当的価値に含まれますが、これを守るという普遍的正義への信仰は大切です。ナチスは第三帝国を世界に冠たるものにするために、ユダヤ人を人種主義的に差別し根絶するという政策を取りました。もしナチス的価値の方が基本的人権よりも重要で、基本的人権はそのために犠牲になってもいいという事なら、ユダヤ人抹殺も選択肢として正当化されうるわけです。しかし我々は一人ひとりの人間の人格的価値は神聖不可侵であるという信仰を持っています。だからナチスのユダヤ人抹殺は人類史上最大の犯罪行為だと言えるわけです。  

 ですから逆にユダヤ人も自らカナン侵攻の際に侵したホロコーストを反省しない限り、ナチスを咎める権利はありません。ユダヤ人は被害者であるだけでなく、加害者でもあるわけです。  

 ビンラディンを国際法や基本的人権を無視して殺害したアメリカ政府のやり方は、決して許されるべきではありませんが、それは基本的人権を無視したという普遍的正義に反したからであって、普遍的正義を信仰しているからではないのです。 

 普遍的正義を信仰すれば、それに反する者は抹殺すべきだという事になり、ファシズムになるという心配をされておられるのでしょうが、普遍的正義への信仰は人権を尊重して、「法の支配」を実現するということですから、人権の抹殺の上に立つファシズムと対極の原理なのです。最近、基本的人権の尊重に基づく近代民主主義の原理を忘却した評論家や政治学者が増えてきて、ジャーナリズムでもてはやされるようになっているので、気をつける必要があります。 

問 超人が生まれることは有り得ず、ベクトルを上向きにするために造られた到達し得ない虚像として超人を置いているのでしょうか?超人とは人を上向きにするためのブラフ(はったり)なのではないでしょうか?  

 そういう解釈も成り立ちますね。ただニーチェ自身は超人を信仰しているのでしょうから、到達し得ないとは思っていないでしょう。

問 『悲劇の誕生』のアポロン的とディオニソス的についてよくわかりません。

 ウィキペディアを参照してみます。

 『悲劇の誕生』が打ち出した決定的な新機軸は「ディオニソス的」なものにあるが、ニーチェによれば、ギリシア悲劇の根底にある芸術衝動には、過剰、陶酔、激情に向かうものと、秩序、明晰、静観、夢想の方向に進むものとの2種類があり、前者は酒神ディオニソスにちなんで「ディオニソス的」と称され、後者は太陽神アポロンにちなんで「アポロン的」とよばれる。 

音楽や舞踊はディオニソス的であり、造形芸術や叙事詩はアポロン的であるが、これら二つの衝動はギリシア悲劇においてはみごとに結合している。しかし『悲劇の誕生』は、ディオニソス的とアポロン的という2概念を駆使したギリシア悲劇成立に関する文献学上の学術論文であるという以上に、ニーチェ自身の芸術論的な形而上学、存在論の表明でもあった。 

本書の根本意図は、「叙情詩人の“自己”はザイン(存在)の深淵から響いてくるのだ。近代の美学者がいう意味でのその“主観性”は思いこみである」といわれているように、芸術の根源を主観に置く人間中心主義に逆らい、「ディオニソス的」と尊称される始原の一者、根源のザインに求めるところにある。「始原の一者」「根源の存在」「世界の心臓」は時間空間および因果のうちにある経験的事実ではないから、当然それは「現象の機関およびシンボルとしての言語」によって語るべきものではなく、本来はむしろ沈黙すべきもの、あるいは一転して「歌う」べきものである。 

経験的事実=現象の形式である個体化の原理(時間空間および因果)が越えられるとき、人間の内奥より、また世界そのものの内奥より湧(わ)き出てくる喜悦と恍惚(こうこつ)という性格が「ディオニソス的」なものには付きまとっていたが、過剰ゆえの苦痛であると同時に、「現象のあらゆる転変にもかかわらず不壊なる力をもち、愉悦に満ちたもの」、あらゆる文明の背後にあって不滅なるものという性格を「歌い」上げた根源の生への賛歌が後年の代表作『ツァラトゥストラはこう語った』である。

スピノザについて

   スピノザの展開した汎神論、神を必然的法則によって所産的自然を産出する能産的自然だというのはどういうことをいうのでしょうか?

答 汎神論は総ては神だということですね。まず本当に存在するものは、他のものに依存せずにそれ自身で存在しているものだと考えます。スピノザはそのような存在を神と名付けました。としますと、それは無限で完全な存在だということになり、総ての存在は神の現われに過ぎない事になります。

 さてこれまで神は万物の創造主として捉えられていたのですが、そのような神は宇宙の外にいて、自分の外に宇宙を作り出したことになっていましたが、スピノザの神は、宇宙自身として現われる神ですから、創造も自然自身の産み出す働きなのです。産み出す働きが能産的自然で、産み出されたものが所産的自然です。創造する神は、所産的自然に他ならないということです。

 さて自然それ自体が神だとしたら、自然の外に人格を持って恣意的に創造したり、奇蹟を起こしたりする神は存在する余地はないわけです。神は自然法則に従って総てを創造する自然の働きですから、科学的な必然的法則に従っているということになります。それでは無神論と同じだということでユダヤ教会から破門されたのです。 

問 宇宙自体が神の属性というのも良く分かりません。 

 神は全く他者に依存せず、それ自体で存在していますから、完全無欠です。ですからあらゆる存在は神に包括されてしまい、神に属している事になり、神の一面を表すという意味で神の属性だということになります。 

問 神への知的愛の「知的」とはどういうものなのでしょうか? 

 総ての物質的、精神的存在を神の現われとして永遠の相の下に認識することが、神が神自身を完全な存在として知る事ですから、それは喜びを伴った自己自身への愛ですね。これは認識でもあるわけですから知的愛です。この知的愛は人間の行為として現われますので、人間の神に対する愛ですが、同時に神の人間に対する愛でもあるということです。 

問 スピノザによれば、偶然を細かく見ればそれは必然であるとありましたが、私は偶然というものは偶然でしかないと思います。なぜなら、知人とどこかでばったり会ったりすることはお互い示し合わせていたことではないので、必然ではないと思います。 

 示し合わせずにばったり会えば偶然ですが、それは示し合わせるという行為をしていないのに会ったので偶然だと感じるということですね。

 しかしそこで偶然に出会うには、それぞれがその時刻にそこに行く事情があったからで、その事情も勘定に入れますと、そこで会うべくして会っているので、必然だとも言えるわけです。ですから偶然というのは、そう感じる人の主観的な立場からいえることであって、すべてを見通すような全体的な立場から見れば総て必然だという事になります。 

問 スピノザの汎神論では、総てが神の現われということなので、偉い者と悪い者をどう区別するのでしょうか? 

 総ては神の現われですから、悪い者も全体の相からみれば、それなりのよいものを引き立てる役目を担っているという事でしょうね。

 

イギリス経験論について

問 「事物は感覚の束」であるというようなバークリーの唯心論では、経験や体験する前に「既に存在している事」を忘れているのではないかというのが私の疑問です。 

 その疑問はもっともなところがありますね。存在するからこそ経験できるのだという立場だとデカルト的な反映論でいいわけです。しかし事物の存在というものは経験を総括することによって観念が形成されて、その観念に対応する事物があったことになるということですので、感覚の束としてしか事物は存在しないといえる訳です。例えばボールは白い丸い球形の布の塊りですが、それらは要素的には皆感覚なのですから。

ホッブズについて

問 ホッブズの国家は生きた巨人と考えるのは面白いと思いました。確かにたくさんの人が支えあって成り立っているからです。独裁者が独りで主権を握っていたら、もはや国家ではありませんね。 

 それは誤解しています。ホッブズによれば、たくさんの人が支えていても、主権者の人数は一人の場合と少数の場合と多数の場合があるのです。主権者が独りを王政、少数を貴族政、多数を民主制と呼んでいます。どれを選ぶかは、それぞれの国の成立した事情によります。いったん成立したら国家の体制は変えてはいけないというのがホッブズの考えです。 

問 人間の欲望で人を殺したり犯罪が生まれる。原始状態の頃はお互いに助け合っていたが、現在は人間のした事で不幸にもなる。みにくい争い(戦争)が無くなる日は来るのだろうか

答 現に日本は第二次世界大戦後65年間戦争をしていません。ごく一部の国で戦争があっただけです。科学技術の発達が目覚しいので、人類を滅亡させかねない核兵器、化学兵器などが発達して、国家間で本格的な戦争をすると世界中が大変なことになるので、そうやすやすとは出来なくなっているのです。国家単位で武装して国家間戦争が起こると大変なので、国家を自治体化して国連が警察軍を組織し、各国は軍隊を持たないようにすべきでしょうね。 

問 神の存在自体がファンタジーなので、その神が実在するという前提の社会契約説やリヴァイアサンも私の中では創作物語のようにしか聞こえませんでした。

 国家が生きた巨人、生きた人間の一種といわれてもこれが比喩だと言われれば、なんとなく言わんとしている事が理解できるような気がします。でも比喩じゃないとなるとオカルトチックに感じてしまいます。 

 社会契約説は神の存在を前提にしていません。ホッブズもロックもイギリス経験論者ですから、実験観察の結果確かめられたもののみを根拠に展開するわけです。ですから社会契約も独立した諸個人が生きていこうとすれば、トラブルや戦争を防ぐために契約して統治者に主権を委ねたというのは、御伽噺と思っていないわけです。

 ホッブズは人間は欲望を充足することによって動く欲望機械だと捉えましたが、これも実際の個人の体の仕組みを観察して言っているわけです。それで理性は欲望の自己制御装置に過ぎないから、放っておくと、万人の万人に対する戦争状態になるだろう、だからよほど強大な権力をもつ怪獣的な国家が国民を統治すべきだということで、『リヴァイアサン』という国家を人工機械人間として捉える大著を著したのです。

 人体や動物の体は食物を燃料として燃やして、そこからエネルギーをとり出して動く機械だというのは、当時の科学的な捉え方だったわけです。生物体と機械を対極のように見なすのは、19世紀の進化論の影響です。つまり機械は人間が作った装置だが、動物は自然が進化してできてきたものなので、全く違うという捉え方が進化論です。

 国家は機械である諸個人が部品に成って構成しているので、巨大な人工の機械なのです。しかもそれは主権者がいて意思決定をし、それを体全体で実行することで、自己保存や発展を遂げているので、頭脳の決定した意思に体全体が従うことで自己保存している個人と同じなので、国家も一種の人間だと考えたわけです。だから比喩でもなんでもないわけです。そのことを示したのが表紙の絵だということです。 

問 自然状態というのは無秩序のことをいうのでしょうか

 社会契約によって社会=国家ができます。つまり社会状態に入ったのです。社会契約がなされる以前の状態が自然状態です。自然状態が無秩序だったかどうかは論者によって見解が分かれます。

 ホッブズは人間は欲望で動く機械なので、欲望に従って行動し、理性は欲望の自己制御装置に過ぎません。ですから強大な国家権力がなければ、何時敵に襲われるかもしれない戦争状態になってしまっていたとしたのです。

 ロックは人間の特性は理性にあると考えていました。ですから社会契約以前の自然状態でも人々は互いの人格と財産を尊重しあっていたのです。ですから無秩序ではありません。 

問 自己保存権を守るために契約を交わすということですが、自分で自己保存できるから社会契約に参加しない人もいるのではないでしょうか

答 ですから、そういう人が多い間は社会契約がなされないので、国家も出来なかったのです。そういう人がごく少数になり、あくまで契約に参加しないとなると、社会契約をする人々から排除されてしまいます。それが困るので、しぶしぶ国家権力の統治を黙認することになります。そうして法律に従い、税も納めていれば、それで十分社会契約に参加していることになるわけです。 

問 ホッブズの場合、人々は永久代理契約を主権者と結んでいることになるので、人民は主権者に絶対服従なのでしょう。主権者が人民にとっていい政治をしてくれればいいけれど、とんでもない人が主権者になったら、たまったものではないですね。 

 ええ、だから社会契約をやり直そうと革命が起きるのですが、ホッブズは主権者という首の取替えは国家の死であり、万人の万人に対する戦争状態である自然状態に戻ることになるというのです。だから誰が主権者でも、主権者は国家全体が強大でないと、強い権力は振るえないので、国民全体が豊かになるように努力するだろうというのです。だから専制君主でも、国民のための政治をするのだということらしいです。

社会契約説ーロックについて

問 ロックの考え方は普通選挙権を認めないので、完全な民主主義ではなく、間接民主主義なのでしょうか?

 間接民主主義は、国民の代表が立法権を持っている議会制民主主義(代議制民主主義)のことを言います。民主主義である限り基本的に全ての成人が選挙権を持っていることが前提です。ロックの普通選挙権の導入には反対していましたから、間接民主主義でもありません。財産と教養のある名望家による議会中心の政治を目指していたのです。ロックのような議会主権の考え方をパーラメンタリ・アリストクラシィ(議会貴族政)と呼ぶのです。  

 ただし普通選挙制があれば民主主義と言えるかと言いますとこれも間違いです。思想信条・言論表現出版・集会結社の自由などの基本的人権が認められていないと民主主義ではなく、全体主義になってしまいます。 

問 ロックの考え方から貧富の格差が起き、争いが起きるようになったという話を聞いて、まさに現代社会そのものだと思いました。  

 だれかの考え方から貧富の格差が起こるということはないでしょう。まだ自然状態だった未開時代に、貨幣の発明によって、交換が盛んになり、私有財産が発達したので貧富の格差が大きくなったとロックは説明したのです。

社会契約説ールソーについて

 問 ルソーは「立法権は譲渡できない」といい、全員参加の人民集会で法律を決めるべきだと主張しました。その際、私的利害を棚上げにして、皆が幸福になるために情報や意見を出し合うのが原則だということですが、それはあまりに理想論ではないでしょうか?人間はどうしても自分の欲望や利害に立って発言してしまいますし、自分の欲望や利害が社会全体のものと一致していると思い込みがちですから。  

 ええ、その通りですね。自分は、私的利害を棚上げにして、みんなのために話しているのに、論敵は私的利害をむき出しにして話しているように思ってしまうもので、それでけしからんとなって、議場は紛糾し、大混乱に陥って、機能を麻痺することになりかねません。しかし心構えとしては、会議をまとめるためには単なる利害調整や妥協の場ではなく、あくまで国民全体の公共の福祉のために話し合うという建前が大切です。私的利害を棚上げにするという原理は、道徳的義務として守ることが大切です。それは全員参加の人民集会でなくても、代議制の国会でもいえることで、日本国憲法では「国民代表の原理」と呼んでいます。

観念論について

問 プラトンのイデア論の場合、存在する物質が人によって捉えられ方が違う場合は、別の物質になってしまいませんか。バラをバラという人とチューリップという人がいるとどちらが正しいか判別がつかないことになりませんか。 

 プラトンはバラにはバラのイデアが含まれていると考えました。人々は元々バラのイデアを生まれる前にイデア界にいて知っていますから、バラのイデアを含んでいるものを見ると思い出して、バラだと言います。ただ曖昧にしか思い出せない人がいて、チューリップだといいますが、対話を通して互いにその観念を思い出して、その事物と照合しますと、バラのイデアを含んでいるのにチューリップだと思った人も間違いに気付くのです。 

問 プラトンのイデア論とデカルトの物心二元論の違いが分かりません。 

 イデア論だと、バラは物体としての要素とその物体をバラにするバラのイデアが合体して、バラという事物を構成しているのです。それでバラのイデアを憶えていれば、バラを見たらバラと認識できるわけです。

 物心二元論だと、認識する主観があって、理性を持っていて物事を色や形などで区別できるわけですね。そして客観的な事物があって、例えばそれをバラだと認識するわけです。精神も物質も両方が実体として存在しているので認識が成り立つという考えです。 

問 ドイツ観念論は存在と思惟が同一だということはどういう意味ですか、思惟も意識のひとつなのですか

 事物と意識は対極のように扱われてきましたが、事物の性質は実は感覚諸要素の束として認識されるわけです。ですから事物も感覚以外のなにものでもないということです。ところで実際は感覚だけではそれが何であるかはいえないので、高度な思考が加わって認識しているわけです。だから事物は感覚から高度な思考までも含めた意識によって構成されるということです。それでドイツ観念論がいう思惟には感覚から高度な思考までが含まれているということになります。

 つまり事物は感覚諸要素を高度な思考によって統合した意識であるということであり、これを存在と思惟の同一と表現したのです。

デカルトとカントの理性の限界

問 理性の限界についてデカルトとカントの違いが良く分かりませんでした。

答 デカルトは考える我を絶対確実として捉え、そこから全ての存在を演繹しようとしたのです。疑う事しかできない不完全な我から完全者である神を演繹するなど、強引な論理展開でしたね。デカルトは精神的実体である考える我は、物事を認識する理性を有しているのですが、あくまで主観ですから、認識する側であって認識される側ではないので、存在する事は絶対確実でも、延長概念を当てはめる事が出来ないので、認識される対象ではないとしました。認識できないものだとしていたわけです。

 カントも主観である純粋理性は、存在する事は確実だけれど、認識できないとします。カントは物事が何であるかを認識する能力である純粋理性は、自らの意識に現われる意識現象は認識できるけれど、意識に現われない存在は認識できないとしたのです。

 原理的に意識に現われないけれど存在すると考えられるものの世界を可想界といいます。その世界に属しているのは、理性などの精神的実体ですね。そして神です。神は世界が存在する以上世界を作った神は存在するはずですが、原理的に感覚に現われることは出来ないので、認識対象ではないのです。

 また現象界に現われる事物には、現われる以上その存在の根拠として元の存在があるはずだが、そういう物自体は人間の感覚で捉えられないので原理的に認識不可能であるとしたのです。

 

反映論と構成説

問 反映論では、事物を主観で意識し、その意識した像が一致したら認識が正しいとされるが、意識の像と事物の一致を認識する事も意識によって行なわれるのですか

 そうなれば、それはまた意識に反映された像になってしまって、それが客観的事物と一致するかどうか確かめなくてはいけなくなって切りがなくなるということですね。たしかにそういう欠陥がありますね。でも反映論では、実践的に正しさは証明されると考えます。つまり反映された実在についての認識に基づく実践がうまくいけば正しさは確証されたことになります。 

問 同じ木を同時にAさんが見たら木の実がなっていて、Bさんが見たら、見落として木の実がなっていなかったとしますと、反映論ではBさんの認識は事物と一致していないので間違いですが、構成説ではAさんの場合は木の実があるのが客観的な事物で、Bさんの場合は木の実がないのが客観的な事物だということになるのですか? 

答 反映説でもBさんだけでは、Bさんに木の実が見えない木が客観的な事物としてあったわけですね。対話によって木の実があったということがBさんにもわかるのです。構成説でもBさんの構成が不十分だと対話によって分かるので、構成しなおして一致するわけです、反映説でも構成説でも主観の対話によって認識主体は広がります。一人で認識するのではないわけです。

カントの「物自体」

 問 カントは、認識できるのは現象だけで、物自体は認識できないとしていますが、「物自体」というのがどういう意味か分かりません。例えば個々の机は現象なので認識できるけれど、机自体は認識できないという意味でしょうか

 そのように誤解され易いので要注意です。机というのは平板に脚がついていて、それを台にして作業する事務用の家具ですね。ですから平板とか脚とかという感覚される要素の組み合わせなので、机自体も現象なのです。物自体は原理的に意識に現われない存在なので、板とか脚とか四角とか丸とかではないわけです。

 では何故そんな意識で全く規定できない存在を仮定するのでしょう。それは現象界の事物は意識が構成しているという構成説をとっているからです。もし意識が自分で勝手に事物を構成するのだったら、我々は見たいものを見れるはずですが、実際には、外界から与えられる刺激によって何を構成するのかが制約されてしまっています。ですから事物は意識が構成しているけれど、意識の外部からの物自体の現われを構成しているのだという言い方になっているわけです。 

問 現象が物自体ではないという理由が、事物の性質が主観の感覚に属していないからだという事ですが、良く分かりません。 

 事物の性質というのは形、色、体積、質量、感触、匂い、音その他感覚的な諸要素で表現します。そしてその事物がどのような作用や変化を示すかですが、それらも感覚を通して認識されます。つまり客観的な事物なのだけれど、それがどういうものかという諸性質となると主観が感覚によって表現するしかないわけです。感覚は主観の身体の生理状態ですので、感覚諸要素から構成されている事物も所詮は、感覚に属していて、感覚を離れた、物それ自体ではないということです。そして物それ自体は感覚に現われないわけですから認識する事は不可能だということで、これを不可知論といいます。

問 カントは物自体の存在を前提しているとしますと、そういう外部からの刺激の違いによって現象が異なってくるということになります。この外部からの刺激というのは視覚的には光ですね。光はでも感覚とも言えますね。 

 光は感覚なので、外部からの刺激ではないとします、光を感じさせるものが外部の物自体からの刺激ですね、それは感覚されないので原理的に不可知です。

 

カント『純粋理性批判』続き

問 神や魂は認識できないけれど、存在しないとは言い切れないとありますが、それでは世の中の超常現象や宇宙人などのSFチックなものも可想界に入るのですか?   

 可想界の存在は、あるとは考えられても感覚できない存在です。神・魂・物自体などがそうです。宇宙人はまだあっていないだけで、実際に遭遇すれば感覚的に捉えられるものなので現象界に将来現れるわけです。SFの世界も意識で想像できますから、可想界ではありません。

カント『実践理性批判』

問 カントの考えでは、いやいや善い事をすれば道徳性があるとの事ですが、道徳性があると判断されるには、
@公共性のある行い、善い行い
A我慢して行なう
B自分の欲、私的利害に関わらない

等の条件があげられると思います。

Bはどの程度まで問われるのでしょうか?

ある人が自分の住む地域を美化するためにゴミ拾いを行なったとすると「地域の人を喜ばせる公共性のある行い」であると同時に「自分の住む地域が美化され自分が気持がよい」という状態になると思います。だとすればこの行為は道徳性があるのでしょうか?

 

 「@公共性のある行い、善い行い」を行なっても自分の傾向性を抑制して、つまり何かを我慢して行なっていなければ、道徳性はありません。

「A我慢して行なう」我慢しているだけでは道徳性はありません。自分の自発的意思で人としてなすべき義務を行なってはじめて道徳性があるのです。

「B自分の欲、私的利害に関わらない」これは誤解です。自分の欲や私的利害を結果的に満足させても道徳性がないとは限りません。ただし動機が自分の欲や私的利害に基づいていれば道徳性はないわけです。つまりたとえ自分の利益になっても、それを行なう行為が人としてなすべき義務に叶っていることであり、しかもそれを行なうために何か自分の欲望や利害を我慢したり、犠牲にしても行なった場合に道徳性があるというのです。

 それでは地域の清掃ですが、そのために時間を犠牲にして自分のしたいことを我慢してしたとすれば、我慢してした分は道徳性があります。

 結果として自分も利益を得たり、気持がよかったりしてもそれは道徳性に関わりません。道徳性はあくまで動機が問題なのです。動機に自分も美化によって気持ちよくなりたいというのが入っていれば、その動機は道徳性とは言えないのです。

問 公共性を優先するのであれば、やはり人のためになることをするのが最も道徳的だと私は考えているので、カントの理論は理解できません。

 人のためになることをしても、その人の狙いがそれで人気を集めて権力を握るところにあったり、金儲けの手段としてそうしたのなら、その人の行為は偽善であって道徳的とは言えません。 

問 現代の日本人の多くは世間体を気にするがために道徳性を重視して行動し、傾向性を軽く見ています。なのでもうちょっと傾向性を重視して生きた方がストレスがたまらないと思うのですが、どうでしょう。 

 世間体のために公徳心を発揮しても、カントの道徳説では道徳的とは認められません。世間体を気にする事自体が傾向性だからです。あくまで自発的に自分の意志で人間としてなすべき義務に従ってこそ道徳性が認められるのです。

傾向性にしたがって生きるというのは当然のことで、これは奨励しなくても、傾向性なのでそれぞれが行なうわけです。質問者は日本人は傾向性を我慢して、義務に従いすぎ、つまりカントの道徳性を発揮しすぎて、無理してストレスが溜まっているのではないかという指摘ですね。

私は傾向性を我慢して義務に従うところは日本人は、他国人より多いと思いますが、肝心の自発性はあまり強くないのではないかと、自分自身の性格からも感じています。そこが欠陥ではないのでしょうか。自発性がないのでストレスになるのではと思うのですが。

 

フィヒテについて

問 フィヒテの理論で言うと、我々人間の自我は絶対我の一部のようなものと捉えることが出来るのでしょう?その絶対我というのは人間に対してしか存在しないのでしょうか?宇宙のあらゆる存在に、絶対我の現われが存在すると考えた方がいいのでしょう? 

答 おそらくスピノザの汎神論の影響を受けているので、自我も非我(自然的・社会的諸事物)も絶対我が根底にあって、はたらいているのです。

 ただダイナミックな精神である自我が己の課題の実現のために自らの課題として構成しているのが、精神の実現を阻んでいるかに見える非我です。この非我と格闘して見事に自我が自己実現することが、結局自我も非我も絶対我が自己を実現していく姿だという形で、絶対我に包摂されるわけです。 

問 自己を実現しようとする欲求のレベルとして最高の位置にあるものを絶対我の現われと考えればよいのでしょうか?もしくは自己実現の欲求は、個人だけが思うものではなく、人間全体の自我の現われと捉えるべきなのでしょうか?  

答 その両方でしょう。カントは、理性の限界を置いて、理性は意識現象しか認識できないので、意識現象に現われないものは認識できないとしました。それで物自体や神や魂は不可知だということになったのです。この不可知論を突破するには、人間理性をより大なる精神の表れとして、類精神の現われや、絶対我の現われとして、その一段階として捉える必要があります。そうするとその精神が発展すれば絶対我に到達するということです。

 

シェリングについて

問 私は、ロマン主義が情熱によって断絶を乗り越える事だという事の意味が理解できません。情熱で不可能を可能にするとはどういうことなのでしょうか?情熱という気持で断絶を乗り越えられるという根拠があるのか疑問です。

答 シェリングの場合も、自然も人間もすべて絶対者の現われなのです。ですから全ては絶対者を含んでいるわけでして、だから人間はありふれた自然の中にも神秘的な神の意志を感じたりすることも出来るわけです。

 しかし現実にはありふれたものにありふれた姿でしか目に付きませんし、なかなかそこに聖なるものを感得するのは難しい事があります。

 その場合に先ず、対象にも自分にも絶対者が宿っているので、そのことを確信して我を忘れて対象の美を感得しようとするパッションさえあれば、自己や対象のつまらない事は忘れて、対象の輝きだけが見えてくるはずだということですね。

 つまり情熱は感覚を変えるのです。情熱があるという状態はテンションが高くなっていて、ハイになっているので、それ自体幸福な状態なので、この状態を維持しようと感覚が働き、ある程度「なせばなる」というような発想が強くなるという事でしょう。 

問 ロマン主義の考え方は、知的直観で主観と客観、精神と自然、有限者と絶対者の断絶を乗り越えると書いてありますが、それは当時流行した一時的な思潮ではないでしょうか?それを今の時代でも適用できるのか少し気にかかります。絵空事のような精神論に近いような印象を受けたので、個人的には現代には会わない考え方なのかと思いました。

 哲学は現代や未来まで語り継がれるべきものですから一時的な思潮まで受け継ぐべきではないでしょう。不可能を可能にするなんて発想は無理があると思います。 

答 当時でも絵空事だと醒めていた人も多かったと思います。逆に現代人でも夢に挑戦したり、ファンタジーが好きな人も多いですね。時代はグローバルな統合の時代に入りつつあり、どんどん新しい変化が起こっていて、夢を追う時代だと思うので、ロマン主義は大いに現代的意義があると思いますよ。

 夢を追い、今まで不可能だったものを可能のしてきて、それが驚異的な人間文明を作り上げてきたのではなかったでしょうか。ロマン主義には大いに普遍性、現実性があるのです。ロマン主義は永遠です。どの時代でもロマンチストはいるし、それぞれの時代に相応しいロマン主義があるのです。

 

ヘーゲルについて

 問 ヘーゲルの『精神現象学』とは哲学の発展の過程、それとも哲学の体系を書いたものなのでしょうか?絶対精神が宗教・芸術・哲学として展開するということは、すべて宗教的な物は絶対精神から生まれてくるということでしょうか?

答 『精神現象学』は感覚から悟性さらに理性へと意識が高度になっていき、最終的に絶対知となって絶対精神にまで到達する発展を論理展開したものです。それ自身哲学的な体系ですが、ヘーゲルの意図としては、哲学の主体は絶対精神だということなので、哲学にいたる予備門という位置づけです。哲学体系は『論理学』⇒『自然哲学』⇒『精神哲学』として展開されます。

 哲学体系の全体が絶対精神の自己展開、自己認識になっていますが、特に『精神哲学』の最終は絶対精神で、この段階になって宗教・芸術・哲学が論じられます。つまり即自且対自的に精神となった絶対精神において、相対と絶対、有限者と絶対者の断絶が解かれるので、宗教が展開できるということですね。

問 『論理学』の説明で、「限界があるからこそ他者がある」と言われましたが、それはどういう意味なのですか?

答 絶対的なものだと全てを包括してしまいますが、限界的なもの、有限なものは自分の外かあり、従って他の有限なものと他者として向かい合います。

問 主観的精神⇒客観的精神⇒絶対精神の考えは、まず自分に即して考える段階から、社会や法の中で生きていくにつけ、自分の意識の外に対自する。即自と対自の中で自分の価値観や生き方を作っていくことで絶対精神ができあがる、そういう成長していく考えなのでしょうか。

答 主観の中で論理を展開しているのが主観的精神です。その段階では各自の意識として精神が活動している即自なのです。それに対して客観的精神は社会の現実として客観的に展開される精神です。それが対自といわれるのは、精神が個々人にとっては対象的に展開されているからです。

この段階が、法⇒道徳⇒人倫として展開されます。

絶対精神は、人倫で家族⇒市民社会⇒国家として展開したので、精神は、世界精神にまで到達しており、世界を貫く理念として自己を展開できるというわけで、即且対自的な精神になっているということですね。

 その絶対精神の主観的なつまり即自的な形が宗教で、対自的な対象化された形が芸術で、絶対精神そのものとして自己を展開する即且対自的な形が哲学だということです。

問 ヘーゲルの言う「自由は必然性の洞察である」というイメージがいまいち分かりません。必然性にそうというからには、それは不自由ではないにしろ、自由でもなく、全く別のものだと考えるべきでしょう。 

答 物事は道理に従って動いているので、その道理を知る事によって、どのようにすれば物事を望む方向に動かす事ができるか分かり、はじめて思い通りになる、つまりそういう意味で自由になるという事です。

問 「生は死という否定を含んでいる」とは「他者の死があるから自分は生きている」ということでしょうか?そこにはどのような矛盾の解決があるでしょうか?  

答 命を維持するためには栄養源を摂取しなければなりませんね。動植物を殺して、その命を燃やして生きているわけで、他者の死があるから自分が生きているのです。だから「いただきます」というのは正式は「命をいただきます」というべきで、元々はそういう意味だったのが忘れられているようです。その場合に、解決は、食べるだけでなく、食べられることによって生命の連鎖、生命循環に生きるということです。生態系が全体として維持されることで、大いなる生命は生き続けるわけですね。

 それに生きていることによって、消耗し、老化して個体としての生命力を磨滅させていきますから、生きることは同時に死につつあることなのです。その矛盾の解決として、有限な命を精一杯輝かして有意義に生きるべきだともいえますし、個体的に有限なので、生殖によって子に命を引き継ぎ、種的生命において悠久を生きるというのも解決ですね。

 問 ヘーゲルの弁証法の話の中で種のことに対し「否定の否定」というのは、言い換えれば事物や事柄について、反する存在を言いまわすことによって、ある正とする事実を強調することが本心からの目的なのでしょうか? それとも反する事実を肯定的にするための方法ともとらえることができるのでしょうか?

答 もちろんその両方なのです。そして一番言いたいのは、そういう矛盾対立によってダイナミック(力動的)に物事が変化し、発展するのだということを示したいわけです。つまり物事の対立や矛盾をただ否定的に捉えるのではなく、発展の原動力として捉えかえし、より良いものを生み出したり、よりよい社会に変革したりする契機にすべきだということですね。 

問 たしかに花は種の否定によって成り立ちますが、それは長期的に事物を観察した場合に限るのではないでしょうか?短期的に種を見たとき、種は花になるために自らを否定しながらも種であり続けています。それは例えば、デジタル時計は1から2に変わる時を観察することができますが、アナログ時計では1から2に変わる瞬間を確認できないことと同じだと思います。 

答 「種は花になるために自らを否定しながらも種であり続けています」これも「否定の否定」ですね。発展で次の段階に行く場合に「否定の否定」と言われますが、内在的な矛盾を抱えつつ、自己を保つことも「否定の否定」であり、弁証法的に存在しているのです。

 そういう否定を否定して自己を保つということができなくなって、種が種でなくなって芽という次の段階に発展するわけです。その場合に種に対する否定が勝利したとも言えますが、同時に否定は種に変わる芽という発展したものを生み出したことによって、もはやただ否定しているだけではないわけです。つまり否定を否定しているということですね。

 質問者の趣旨がわかりませんが、短期的には弁証法的ではないということですか?時計の比喩もわかりません。要するにヘーゲルは発展の論理を弁証法的に展開しているわけで、それが短期的には目に見えなかってもいいのです。 

問 主観的精神の即自・対自・即且対自はないのですか

答 もちろんあります。 『エンチュクロペディ』目次をあげておきます。

☆「論理学」
有論・・・・A質   B量   C度量
本質論・・・A本質  B現象  C現実
概念論・・・A主観的概念 B客観 C理念       ☆「自然哲学」
力学・A空間と時間B物質と運動 C絶対的力学
物理学・A普遍的個体B特殊的個体C総体的個体
有機体学・・A地質 B植物 C動物       ☆「精神哲学」
主観的精神・A人間学 B精神現象学 C心理学
客観的精神・A法 B道徳性 C人倫
 C人倫・・・a家族 b市民社会 c国家
絶対的精神・・A芸術 B啓示宗教 C哲学

絶対的精神の即自・対自・即且対自について以下webから引用して訂正しておきます。

「芸術、宗教、哲学という3つの次元において分析する。

芸術は絶対者を物質的形態においてとらえ、美の感覚的形態をとおして理性的思想を解釈する。概念の発展において芸術にとってかわる宗教は、絶対者をイメージやシンボルによってとらえる。ヘーゲルにとって最高の宗教はキリスト教である。キリスト教は、絶対者が有限なもののうちにあらわれるという真理を、受肉の思想のうちに象徴的に表現している。

 だが、概念的に最高のものは哲学である。というのも、哲学は絶対者を理性的にとらえるからである。哲学が実現されるとき、絶対者も自己認識に到達しており、宇宙のドラマはその目標に達している。この地点においてのみ、絶対者は神と同一視されてよい。「神は、おのれを知るかぎりでのみ神である」

問 国家は法という主権者の意志が通ることなので、自由の実現だと書いてあるが、どういうことでしょう。法によって国家は成り立つと思いますが、それは自由の実現とは考えにくいのですが。

答 普通自由と言えば、個人の市民としての自由であり、人権が尊重されることだと解釈されますね。法は人民の自由を拘束する禁令の形をとることが多いので、自由の否定のように見なされがちですが、禁止されることで、それ以外は自由になるわけです。法が制定されていないと、主権者のその場の判断で処罰すべきだとなると、何で処罰されるかわかりませんから、全く自由はなくなってしまいます。その意味でも法は自由をもたらします。また主権者は法を制定することで、主権者の意志を示し、それを守らせることで、意志を実現できるので、主権者の自由です。国家を人格的な意志主体とすれば、国家の自由です。

問 国家とは自由の実現であり、世界史は国家の発展史であり、世界史の精神である世界精神は、自由の発展史として自己を展開するとありましたが、世界史の精神というものはどのようなものであるのか、気になりました。世界のこれまでの歴史的なものの精神のことをいうのでしょうか?自己を展開するというのも気になりました。自己というものが何か分かりませんでした。個体的なものなのでしょうか。

答 世界史の精神とは世界の歴史的発展を貫いている方向性のようなもので、ヘーゲルは精神の本質を自由とみているので、自由が東洋専制国家では専制君主一人の自由、古代ギリシア・ローマでは貴族・市民などの少数の自由、近代西欧社会では万人の自由というように、自由が拡大発展していくところに世界史の精神を見出しています。
 「自己」というのは「世界精神が自己を展開する」のですから、「世界精神」のことです。従って世界精神は、それぞれの時代のそれぞれの社会で自由が発展していくことですね。グローバル化の現代では、グローバルに情報を受け取り、グローバルに全世界に発信できるということが現在の世界精神にふさわしいわけです。

 

全体主義は民主主義の鬼子か?

問 「基本的人権の尊重こそが民主主義の原理だ」という先生のお考えにはあまり納得できません。もちろん基本的人権は尊重されるべきですが、それとは別に民主主義の文脈でそれが語られるとき、どうも建前のように聞こえるのです。それは近代民主主義の成立過程を見ても、民主主義とは自由主義生存のための妥協、つまり階級闘争が熾烈になる中でソ連のような社会主義革命を恐れてブルジョワジーが労働者への譲歩として普通選挙権が認められたのではないでしょうか。その根拠として各国で普通選挙権が認められたのは多くが1920年代でソ連の革命直後です。逆に言えば、それ以前は多くの国では一部の特権階級だけによる制限選挙だったわけで、フランスの人権宣言やアメリカの独立宣言ばかりが世界史ではことさら言われますが、民主主義成立の実態は、選挙権を与える事で武力による体制転覆を図る「革命」を抑えることを目的としたものであり、その点で基本的人権を持ち出すのはうさんくさく感じるのです。だからこそ全体主義は民主主義の鬼子と言えるのではないかと思うのですが

 国家を階級支配の道具という観点だけで捉えるとそういう議論になるかもしれませんね。基本的人権の尊重は、支配階級にとっては妥協で認めたことかもしれませんが、一般国民にとっては自由獲得の成果として粘り強く勝ち取ってきた成果です。普通選挙権は、帝国主義間戦争の時代では、戦争を国家総動員でやらなければならないので、選挙権に所得税による制限をつけられなくなったわけですね。つまり国家総動員のために与えられるのであり、たんなる支配者の妥協ではなく、全体主義の道具ともなることができるものです。

 そればかりかイタリアでもドイツでも日本でも、全体主義は反資本主義や国家社会主義、革新派の仮面を被って、財閥や官僚政治家をテロの血祭りにあげて登場してきて、民衆の正義感に訴えるわけです。

 もちろんファシストたちの主張はデマゴギーが多くて、言論表現結社の自由などが確立していれば多数派にはなり得ないのですが、恐怖政治で白色テロが荒れ狂うなかで、権力基盤を強化したわけです。

 つまり20世紀の全体主義は、普通選挙権+基本的人権の欠如であり、民主主義は、普通選挙権+基本的人権の尊重なのです。基本的人権が損なわれると民主主義は全体主義という反対物に転化します。ナチスドイツはワイマール共和国から反対物に転化したものです。その意味で民主主義が生んだ子であり、親に似ていない子という意味で民主主義の鬼子です。ただ質問者は民主主義の原理として基本的人権の尊重を認めることを胡散臭いと言っているので、その点は大きな誤解をしています。

 民主主義をブルジョワジーが革命を押さえ込む道具と見なしているわけですね。それは国家が特権階級の支配の道具でしかないという一面的な見方からきているのです。実際は国家には公共性があり、国民生活の安定と人権を保障を与える体制として、全国民が作り出したものでもあるわけです。両面を捉え、その矛盾を捉えなければ、政治的な課題を正しく導く事はできないのです。

ヤスパースについて

問 ヤスパースのいう「限界状況」ですが、逃れる事も乗り越える事もできない壁だと言っているのに、その壁から逃避するために娯楽や流行に生きる事ができるのであれば、それは逃れる事ができる壁であり、つまりは限界状況ではないということになはならないのですか?  

 死・苦しみ・罪業・争いというような限界状況を人間はだれも、逃れる事も乗り越える事も出来ない壁として抱えているわけです。でも四六時中立ち向かう事はできないので、気晴らしや逃避として娯楽や流行に浸って、できるだけ考えないようにすることもあるわけです。  

 ヤスパースがいいたいのは、自分が抱えている限界状況に真摯に立ち向かってこそ、その人の生き様が示せるし、その人の存在を輝かせる事もできるのだが、流行や娯楽に気を紛らわせるだけでは、自分の問題に正面から取り組んでいないので、その人の生きた証が示せないまま、結局限界状況によって身を滅ぼすだけだということです。  

問 限界状況に対して「絶望・決断・回生」し、超越者の存在を感じるといいますが、なぜ絶望してまでの苦行を積んでまで超越者の存在を感じなければならないのですか。

 超越者を感じることは目的ではありません。実存的に生きることによって超越者を感じるのは結果なのです。実存主義者にとっては、現に今ここに生きていることであって、常に自己を主体的に決断して選びとっているという生き様なのです。  

問 自分やものがどのような存在であることを知る事で何か得る者があるでしょうか?

 存在の意味を知る事で、主体的に生きる事ができます。自分が何であるか分からなければ、行き当たりばったりになり、主体的な決断もできません。  

問 世界中には様々な神々がいると思いますが、全てがヤスパースのいうような実存の苦悩を救済する神なのでしょうか。  

 実存の苦悩は、限界状況の場合は乗り越えられないので、たとえ神でも救済できる保証はないでしょう。実存と真摯に向き合う中で神を感じるということは、彼自身の実存の在り様ですから、その神の名は何か特定の宗教の神の名ではないでしょう。  

問 限界状況に立ち向かっていたら、当たり前の事が奇跡の様に感じる、そして全ての物が輝いて見えると仰いましたが、先生はそう感じた経験がありますか? それはずっと続くものなのか、一時的なものなのかどちらなのでしょうか?  

 ええ、こうしてこの問に答えているということも倫理学の教師として当たり前ですが、生きているからできるので、それは奇跡ですね。しかもWEBを通して全世界に答えているというのも奇跡です。それはごく最近できるようになったわけですが、おそらくいちいちWEBにまで書き込んでいる教師は少ないでしょう。これも奇跡かもしれません。そう思いますと、今、この問と答は輝いていますよね。もう私の人生も残り少ないので、おそらく死ぬまで続くでしょう。  

問 限界状況は人間である以上超えられないのですが、イエスや仏陀やムハンマドなど宗教の開祖などは人間ですが、神あるいは超人のようなもので、壁を越えているような気がします。またオウム真理教の麻原彰晃も壁を越えているのではないでしょうか。また宗教的にすごいことを成し遂げるような人は、壁を越えられない人と同じなのでしょうか。  

 開祖とか宗教指導者や修行者で、人間技とは思えないような事をする人にとっては、限界状況は超えられるのではないかということですね。それは宗教的なことですね。実存のことではありません。その宗教を信じていますと、開祖や聖者たちの超人的な行いが信仰されます。イエスは死に打ち克って甦ったとか、ムハンマドの霊は昇天したとされます。麻原を信仰している人にとっては彼の空中浮揚はトリックではないでしょう。そういう信仰と、人間にとって不可避で、乗り越えられない壁として限界状況が厳然と存在する事は別問題です。  

問 包括者について良く分かりません。主観も客観も合わせ、自分に関係するすべてをのものを合わせて自分として認識するというのでいいのでしょうか?そして自己の意識は世界の一部であるのでしょうか?ヤスパースの包括者の思想とウパニシャッド哲学はどう異なるのですか?  

 自己と世界が断絶して捉えられるのが、科学的認識ですが、ヤスパースは、自己も世界も包括者の現れとして捉えようとしたのです。自己も意識なら、世界も意識として現われているわけで、同じ意識の両面とも言えるわけです。ただ時間、空間などの延長的な概念で捉えて、自己を身体内の人格に限定すると、断絶してしまうということです。  

 ウパニシャッド哲学は、個物の実体である不滅のアートマンと宇宙の本体であるブラフマンが同一だという理論ですから、包括者の現れとしてアートマンとブラフマンを捉えていたとも解釈できますね。ただ包括者という概念を明確に打ち出さなかった限界はあるようです。

問 今、就職が決まらずとても苦しい思いをしている私も「限界状況」の中にいるのでしょうか?とすればそれを成功に導いてくれる答はどこにあるのでしょうか?  

 限界状況は乗り越えられない壁ですから、就職問題には直接はあてはまりません。もちろん職探しなど生活に色々苦しみはついてまわるということ自体は超えられない壁であり、限界状況ですが、個々の就職自体はいつかは職は見つかりますので、限界状況と考える事はありません。ともかく逃げないで真摯に向き合うしかありません。ただ相手のあることですから、自分の現在の能力なり資質が相手のレベルに達していないとだめですから、己を磨き知識やスキルをつけ、その元になる教養をつけることですね。本当に真剣になれば、きちんと胸を張って歩いているかまで気をつけて、緊張感を持てば印象がよくなるかもしれません。 

問 ヤスパースの包括者とは、見るものと見られるものが一緒ということで、自分の主体的な意識ではなく、全ての意識される側のものだけがあって、意識と意識されるものの合同が存在である。その存在というものが神であるという解釈であっているでしょうか? もしそうならば、人間は存在であり、神であるということなのでしょうか?

 意識は、私という主体の意識であると同時に、対象が現われているのが意識なのです。つまり意識一般というのが存在であって、それを事物として対象として捉えたら客観的な意識になりますが、それは主体的には主観の側の意識でもあるわけです。だから事物とそれについての意識は、実は別物ではなく、存在としての包括者の両面だということです。事物は意識としては人間の感覚ですから人間を構成していると言えますね。そしてそれが存在として捉えられたら、意識と世界を包括している包括者ですから、神でもあるという事になるでしょう。 

問 ヤスパースは全意識と全存在が包括者であると唱えたということですが、何故そのような捉え方をしたのですか。見るものと見られるもの、つまり主観・客観の統一ですが、このようなことをしなくても理解できると思うのですが、包括者とすることで分かりにくくなってしまった気がします。  

 包括者を置かないと、見る者の意識と見られる対象が別個の存在で、見られる対象が刺激や情報として見る側に事物ではないイメージとして現われているのが意識だということになります。包括者を置くと、同じ包括者の両面として意識と事物が捉えられるのです。  

問 実存主義の弱点は何でしょうか、私は「個性と主体性」を持ちなさいと言われて育ってきたので、実存主義を万能と考え、弱点が分からないのですが。  

 個性や主体性を強調しすぎますと、物事の本質を理解して、また自分に与えられた職務や役割を理解して行動するということを軽視しがちになります。つまり、やりたいようにやってしまうと言う傾向に陥りがちですね。それでは期待された役割を果たせずに、孤立したり排除されることになりかねません。実存主義と本質主義のバランスを取る事も大切です。  

問 ヤスパースは実存的交わりを「愛しながらの戦い」と表現したようですが、実際に愛しながらの戦いというのは存在するのですか?  

 家族や友人の間では、真剣に愛すれば愛するほど、自分自身ときっちり向き合い、輝いて生きて欲しいので、きつく生き様を問題にし、激しく本音でぶつかり合うこともあるものです。それがなかなか言えなくなっているということは、実存主義者から見れば、愛情が希薄になっているからだということでしょうか。  

問 限界状況を壁としてそれを乗り越えたら、自己の「実存」に目覚めるということであるが、これらを乗り越えて乗り越えて、自己として自分を見つめなおすことができると解釈してよいのでしょうか?  

 その解釈は全く駄目です。何故なら限界状況とは、避けることも乗り越える事もできない壁だという意味だからです。乗り越えられないけれど、真摯に立ち向かう事で、はじめて存在を実感できるということなのです。生きてる手ごたえですね、それが実存です。 

問 限界状況の中で「死」や「罪」はスパッときれいに乗り越えられないということは納得できたのですが、「争い」や「苦しみ」は逃れたり、乗り越えられたりするのではないでしょうか?  

 それは個々のケースで考えているからです。確かに個々の争いは避けられますが、人生が争いの連続だということは避けられません。もちろん四苦八苦というように人生は「一切皆苦」と仏教でも言いますね。個々の苦は避けたり、乗り越えたり出来ますが、人生が苦しみの連続ということは避け難いことです。私も六十五年間生きてきて、それは感じますね。  

問 主観と客観の統一ということがいまいち想像できないのですが?  

 木を意識する場合を考えてください。木は客観的事物として体の外に十メートル先に立っているとします。主観的意識としての木は、頭の中にあるでしょうか?デカルト的な反映論では頭の中に像があって、それを頭の中で意識していると見なしますね。しかし見えているのは体の外の事物ですね。その体の外の事物は果たして意識ではないのでしょうか?形・色・香り・質量などどれも人間の意識である感覚の束として事物は構成されているわけですから、事物は実は意識にすぎないというのが、主観・客観の統一ということです。その意識は頭の中にあるというより、体の外十メートル先の空間に構成された意識の束だと言う事ですね。それが客観的事物なのだという認識です。

ハイデッガーについて

問 人間以外の存在も現に今ここにあるわけだあるが、問題にしないといわれています。問題とはどのようなものを指すのですか?現存在は「世界・内・存在」という在り方をしているから、この中に存在しないものを示すのでしょうか

 人間は現に今ここにあるということを問題にしますね。何故私は、立命館大学に来ているのだろう、何故哲学なんか学ばなければならないのだろう、今こうしている事の意味が問われます。何故私は人間として生まれてきたのだろう、何か意味があるのだろうかと問い返すのです。ところが事物存在は自分が現に今ここに存在することを問題にするどころか意識すらしないわけです。 

問 「死の先駆的決意性」に関連してですが、死を決意する事によって、歴史的運命に身を投じることであることの意味を確かめるという主旨だと思いますが、人間は自分で命を絶つ事もできますね。自殺も運命なのでしょうか?  

 死ななくてもいいのに自ら死を選ぶとしたら、運命ではないですね。でも普通自殺する人は死ななければならないよっぽどの事情があるようです。もう死ぬしかないという境地に到ったら、それも運命ではないでしょうか。 

問 実存とは「存在の明るみに立つ」という意味だそうですが、曖昧すぎてどういうことなのか分かりません。具体的に説明してください。 

 比較的分かりやすい説明を探してみました。http://blogs.yahoo.co.jp/masatakahamazaki/11368255.html vernunftというハンドルネームです。濱崎雅孝さんでしょう。
実存existenceの語源は、「〜から外に出て立つ」という意味であるが、人間的実存は本質や概念による限定をうちやぶって外に出るばかりでなく、何よりもまず、自己から外に脱出する存在である。実存のこのありかたを、サルトルは「脱自ek-stase」と呼んでいる。脱自的に存在すること、自己から超出すること、自己を超え出ること、これが人間の実存するときのありかたであり、人間が自由であることの根拠である。
 ところが、同じくExistenzExを強調してこれをEk-sistenzと言い換えてはいるものの、ハイデガーの場合には、脱出していく目標が異なっている。脱出の際の「かなた」は、いまだあらぬ自己の将来ではなく、あらゆる存在者の根源ともいうべき「存在の光」「存在の明るみ」であるとされる。
 ハイデガーの存在論の根本思想は、存在Seinが人間に関わることによって、現に存在するものSeiendeとしてみずからを開示する、というところにある。このような存在の開示性を、ハイデガーは「存在の真理」とも呼んでいる。
 人間という存在者は、存在それみずからに対して、つねにあれこれの態度をとっているわけであり、その場合の「存在それみずから」が、ハイデガーのいうExistenzである。これは存在それみずからの側から言われることであり、同じことを人間の側から言うならば、人間が脱自的にekstatisch存在の明るみのうちに立つことが、すなわち実存Existenzなのである。言い換えれば、存在のあらわれに向かったあらわに立つときの人間という存在者の存在のしかたが、実存と呼ばれる。〉

 うんと砕いて、大胆に解釈しますと、歴史的運命に投企することによって、自我への執着から解放され、脱自状態になります。つまりエクスタシー(忘我状態)ですね。そのときに存在の光に包まれるということではないでしょうか。それは言葉では表現できませんが、自分が生まれ、生き、死んでいくことがそれで納得できるのだということでしょう。 

問 存在者と存在の区別ですが、いまひとつ意味が分かりません。存在者という言葉には実存の苦悩が含まれていなかったということですか

 存在者には、事物存在、用在(道具的存在)、現存在(人間存在)が含まれます。現存在である人間は、現に今、ここにあるという存在の意味を問います。なぜ自分は今ここにいるのか、何処より来たりて何処へいくのかと。存在者一般は己の存在の意味を求めないのです。

 存在者と存在の区別ですが、存在者は様々な属性で存在しますが、存在は存在者を存在たらしめているはたらきのようなもので、存在者が存在する時、存在は隠れると言われます。

 つまり存在とはこうであるという形で存在しないということです。ただ現存在が自己の有限性に目覚めて、死を決意して、存在を投げ出す時に、現存在は自らあれこれであるという存在者の規定から解き放たれて、存在の光に輝くのです。 

問 サルトルはハイデッガーを実存主義に分類したのに、ハイデッガー自身は自分は実存主義者ではないと言ったそうですが、どうしてですか

 実存主義は現存在である人間の立場に立った哲学です。ハイデッガーも現存在が存在の意味を問い、存在の明るみに立つ実存だとしたのですが、むしろハイデッガーは、現存在の立場に立つ事より、存在の意味を存在の住処である言葉を通して解明することを重視したのです。サルトルは「実存主義はヒューマニズムである」という立場でしたが、ハイデッガーは人間主義より存在主義だということですね。

サルトルについて

問 サルトルの存在とハイデッガーの存在は全く違うという意味が分かりません。 

 サルトルの第二次世界大戦中の著作『存在と無』の存在と、ハイデッガーの「存在者と存在の区別の存在」とはまるで違うという意味です。『存在と無』では存在は事物存在と意識存在に分かれますが、事物存在は本質を持っています。本質が事物に対象化されて現われたのが事物存在です。それに対して現存在である人間は、事物存在である前に意識存在であり、本質的に規定されていない自由な存在であるとします。事物存在が規定されているのに対して本質存在としますが、人間は自由な主体的決断によって己を選び取らなければならない存在なのです。それで意識存在である人間存在は本質規定がないという意味で「無」なのです。それで『存在と無』の存在は事物的な存在者の意味になってしまいますね。これではハイデッガーの存在者と存在の区別を踏まえていないということになります。 

問 「人間は無であり意識存在である」という場合の「無」は人間が、自分の存在を消したり、何も考えないでボーとしたくなるときの気分と関していませんか

 ボーとしているのは実存と対極ですから関係していません。「無」というのは主体としての人間が規定されてないという意味であり、「自由」だということなのです。 

問 意識は無だというのは納得できません。だって意識している人は存在しているわけでしょう。意識を無とするのだったら、その意識はだれにも属さないという事になってしまいませんか?  

 デカルトは「我思う故に我あり」といいまして、考えている我は考えているという事実から直接でてくるので、頭脳とか身体とかの事物が考えているのではなく、我という非物質的な精神的実体が事物である脳や身体を使って考えているとしたのです。だから考える我は、事物存在を有とすると、意識存在なので無だという理窟です。
 ですから究極的には身体にだって囚われずに、絶対自由意志として決断できるわけですね。 

問 人間はまず意識存在であり、自由意志で自己の本質をいくらでも変えられるという事でしょうか。

 サルトルはデカルトの影響が強くて、事物存在は対象として本質規定できますが、意識存在として主体の方は、事物でないので本質規定はできないようです。ですから、決定する自由意志それ自体は自由でしかないわけです。ところが存在被拘束的に状況から枠を嵌められ、事物存在のように本質づけられようとするので、事物存在に頽落している自分を見て嘔吐するわけです。自分は自由でしかありえないとして本質規定される自分を自己否定し、状況変革するということです。 

問 サルトルは人間は本質規定されてしまうと窮屈になって嘔吐するという話が出てきましたが、役目が与えられた方が自分の存在意義を確認できて安心できる人も多いのではないでしょうか

答 そうなんです。だからそういう主体性のない生き方では、単なる事物に頽落してしまうので駄目だと言うのです。戦前のファシズムや軍国主義の体制のもとで、完全に飼いならされて、家族が戦争にとられて、出征するときも、万歳としか言えなかったわけです。 

問 サルトルは「実存が本質に先立つ」と言いましたがその意味が良く分かりません。

答 一般の事物ならば、最初から本質が決まっていますね。ペーパーナイフは作られた時からペーパーナイフという本質なのです。ですから一般の事物は「本質が実存に先立つ」わけです。それに対して人間は意識存在ですから、生物学的な存在としてはヒトとしての本質は決まっていますが、どんな人間としてどう生きるのか、その人の人間としての生き方、在り方は、自分で責任を持って決定しなければなりません。先ず、その社会やその時代に投げ出され、現に今ここにあるという現存在として実存していることが、その人の社会的な本質に先立っているということなのです。 

問 サルトルは『存在と無』で意識の対象を存在として捉えていますが、それなら、意識する側も存在になるのではないでしょうか。つまり事物を意識するというのなら、意識する側も身体を備え、感覚器官があるので、意識対象を事物として意識できるわけです。意識する側を意識としてだけ捉え、対象を意識によって構成しますと、意識だけで世界が構成されてしまいますね。身体性を欠いた観念だけの世界では、人間の意志や思想がどう実現できるか疑問です。やはり身体が在り、道具を使って社会的自然的な諸事物に働きかけるから、世界を獲得したり、変革したりできるのではないでしょうか?  

 唯物論からはそのように批判できます。ただ、事物は意識によって構成されても事物でなくなるわけではないのです。意識を観念や思考に限定しないで、感覚から高度な思考まで含めたものとして捉えますと、問題ありません。身体性にしても、それを対象的な事物として捉え返しますと意識によって構成されます。

 じゃあサルトルは何が言いたいかと言いますと、主体を自由な意識として確立すべきだということです。そうすることによって、あらゆる選択肢が手に入り、決断できるわけです。 

問 実存主義が1950年代に流行したと言っておられましたが、実存主義が流行すること自体がとてもパラドキシカルなことに思えます。実存主義が主体性を喪失して受け入れられていくつまり流行していく、そうした批判は当時起こらなかったのですか

 キルケゴールやニーチェも当時の世相を個性の喪失、主体性の喪失として激しく批判しています。実存主義は大衆社会現象に対する反発として受け入れられるので、戦後の大衆社会化と平行していてもむしろ当然なのです。それに冷戦が在り、核戦争の危険や革命の可能性などが意識されていたので、実存が熱く語られる空間はあったということでしょうか

問 状況変革=自己変革というのは、状況を変えるためには、まず自分が変わらなくてはいけないということですか

 状況というのは自己の意識状態なのです。たとえば、震災処理が進まず、福島原発の汚染拡大も収束していないのに、菅内閣が追い詰められてしまったというのも、あなた自身の意識状況なのですね。それが何を意味するのか、大連立の動きは、脱原発にならないようにする原発推進固守派の動きではないかとか考えて、日本の安全やエネルギー政策についてあなたがどう考え、どう行動するかを迫っているわけですね。だからこういう状況を変革するには、あなた自身が原発問題を真剣に学び、自分自身を主体に変革していかなければならないということです。状況変革は自己自身の変革だというのは、状況と自己は別ではないという立場からの発想なのです。 

問 状況変革というのは、自分が良くなりたい、こうなりたいという理想を追い求める意識からくるのでしょうか?それで自分の今の状況が嫌になって自分を否定してしまうのではないでしょうか

 実存主義の状況は、危機的状況を指していう場合が多いのです。追い詰められている状況をいかに打開するかということですね。だから理想を追い求めるというのではないですよ。

 実際、日本の今の状況は原発に限らず、全般的に知識創造力が枯渇して、どんどん追い抜かれていっています。ソニーがサムスンに遅れをとるだけでなく、吸収されてしまうという話もあるようですよ。教育に目をやれば学力低下問題は極めて深刻です。いまこそ危機意識をもって、事態を打開すべき時です。

 

パースについて


問 「信念を固めるための四つの方法」の「固執の方法」の考え方からすると、繰り返し思い、考えることで信じ込むとあります。しかしこれでは死後の世界が虚構であると知った上で立てた論理のように感じますが?

答 死後の世界という例示は、パース自身の例示ではありません。とはいえ死後の世界が虚構でないという信念を固めるには、繰り返し思い信じ込むしかありませんね。だって死後の世界の存在は、科学的に実証できるようなものではないのですから。

問 聖餐式でパンをイエスの肉、ワインをイエスの血として食べるという儀礼はどうして行なわれるようになったのですか?

答 イエスが十字架で処刑されたのは金曜日ですが、金曜日の晩餐が最後の晩餐になりました。一日は夕方からつまり晩餐から始まっていたのです。その時にイエスはパンをちぎって「これが私の肉である、これを食べなさい」と言い。ワインを注いで「これが私の血であるこれを飲みなさい」と言って飲ませました。  晩餐の後暫くして、イエスは拉致されて裁判にかけられ、十字架刑に決まったのです。夜が明けて、午前から釘付けにされ、午後三時ごろ絶命したのです。この最後の晩餐を記念して、教会ではパンがイエスの肉、ワインがイエスの血として食される儀礼が行なわれるようになりました。

問 イエスは人の姿になって現われた神だとすると、人とは次元が異なるはずで、そのイエスを食べて同等になろうとするのは神を冒涜することになりませんか?それとも食べる事で身近な存在に感じたい、一体化したいということでしょうか。

答 たしかに神と人間を絶対的に断絶していて、神を超越神として信仰していれば、神を食べるというのは冒涜と言えます。ユダヤ教、イスラム教では行なっていません。でもキリスト教は、イエスとして神が人間の姿に身を貶されたわけですね。感覚できる対象になったわけです。そしてその聖霊をどうしたら引き継げるかということがイエスの処刑では問題になります。イエスは、元々次のように言っていたのです。「私は命のパンである」とか「人の子(メシア=救い主の意味)の肉を食べ、血を飲んだ人を私は終わりの日に甦らせる」。イエスの肉や血の中に混ざっている聖霊を引き継がせようとしたのかもしれませんね。パンやワインはリハーサルで見立てているので、実際は土曜日の晩餐にイエスの聖餐があったというのが私の推理です。もっとも実際にイエスの肉を食べ、血を飲んだと推理しているのは私の精神分析の結果ですから、キリスト教会の教義ではありません。

第七巻下「聖餐による復活」仮説下―イエスは食べられて復活した
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/shoin/seisanniyoruhukkatsu
kasetsu2.pdf

問 イエスをパンやワインに見立てているとしても、神を食べるというのは恐ろしい発想のような気がします。日本でも神を食べるという発想はあるのでしょうか。

答 日本では神は身近な存在で、人間の命や暮らしを支えてくれている大切なものを神として崇拝しています。また災害をもたらす恐ろしいものも神とされます。太陽は天照大神です。嵐はスサノオの命です。疫病神や死神信仰もあります。日々の食事も神です。穀物もお稲荷様として信仰されています。毎日三度「いただきます」と言って食事をしますが、あれは食事を神としてその「命をいただきます」という意味なのです。つまり日本人はごく普通に神を食べているのです。
 

問 聖餐には人間が神を食べる場合と、神が人間を食べる場合があるそうですが、神が人間を食べるのはどういう意味があるのですか?

答 神の恵みで人間は生きていますので、そのお礼に人間も神に何かを捧げなければなりません。その中で一番大切なものは命ですから、一番大切な命を捧げるのです。これが生贄ですね。ユダヤ教でもアブラハムは独り子イサクを神に生贄としてささげようとしたのです。人間の命をささげますと神はそのパワーを吸収してさらに強力になるということです。生命の循環の思想にもとづいているかもしれません。

問 パースはプラクティッシュ(実践的)な考えより、プラグマーティッシュ(実用的)な考え方を重視したようですが、パース自身は道徳的な人間であったというのは矛盾しませんか?

答 イギリスの功利主義が快楽を求め苦を斥けるという快楽主義を原理にしていたのに対して、快を得、苦を避けていればいいのではなくて、人類や社会が抱えている共通の課題を解決することが大切だという考えだったわけです。実用というのは、そういう時代の課題を解決するに有効なことです。そこでどんな行動をすればどんな効果があるのかをはっきり論じて、最大限に効果的な方法を採用すべきだと説いたのです。カントのように動機を問題にしても、人の内面までは分からないということですね。

問 プラグマティズムの格率で、概念は対象がどんな効果を発揮するかのみんなの意見が一致することで決まるということですが、一人でも反対したら決まらないということですか。

答 みんなの意見が一致したら概念として定着したということになります。一人でも反対すれば、完全には定着しなかったということです。

問 犬と狼は、日本人が日本語として「犬」と「狼」を区別しているに過ぎないわけですね。言語というのは差異のシステムでしかないということですね。その判別の根拠になる「客観的な実在」というものは普遍的なものではないのですね。

答 「普遍的なもの」という意味をどう理解するかによって答は違ってきます。パースの場合は、神の創造を認めていますので、客観的な実在は、知の共同体が拡大してやがて明らかになる考えました。なぜなら神は人間が原理的に認識できないものを創造することに意味を見出せないからです。全て人間のために作ってくださったのですから、人間が認識できないものをつくってもプラグマティズムからいって全く無駄になってしまいます。

問 パース「人間記号論」がよく分かりません。

答 『世界の名著』のパース篇から引用してみますよ。

「実際すべての思考が記号であるという命題と、人間の生活は思考の連続であるという命題から、人間が記号であるということが証明できる。つまり人間と記号は『ひと』と『人』が同じであるという意味において同じなのである。こうして私の自我とは私の言語体系以外の何ものでもないということになる。何故なら人間は思考に他ならないからである」(166頁〜167)
For, as the fact that every thought is a sign, taken in conjunction with the fact that life is a train of thought, proves that man is a sign; so, that every thought is an external sign, proves that man is an external sign. That is to say, the man and the external sign are identical, in the same sense in which the words homo and man are identical. Thus my language is the sum total of myself; for the man is the thought.

 わかり易く書き換えてみましょう。「人間は思考に他ならず、人間の生活は思考の連続である。だから私とは私の述べた言語の集大成のようなものである。ところですべての思考は記号なのだから、人間は記号に他ならない」

「以上のことを納得するのは難しいことかもしれない。しかしそれが難しいのは、人が自分の意志、つまり『肉体に対する統制力』といった非理性的なものを自分自身だと思っているからである。しかしそういったものは、思考を助ける一つの手段にすぎない。人間の本質は、人間が整合的に行動し、整合的に思考するということのなかに存する。そしてこの整合性とは、事物の知的性質、言い換れば、ある事物が他の事物を表示するという性質に他ならないのである」(167)It is hard for man to understand this, because he persists in identifying himself with his will, his power over the animal organism, with brute force. Now the organism is only an instrument of thought. But the identity of a man consists in the consistency of what he does and thinks, and consistency is the intellectual character of a thing; that is, is its expressing something.

 要するに記号というものは、事物が他の事物を指し示すことだということですね。赤信号は「危険だから横断禁止」を指し示しています。それぞれの事物は意味を担っていて、何らかのより大なる事物を構成していたり、他の事物の関わり次第で、様々な社会関係を構成します。そういう意味で記号なのです。事物がそういう知的性質を示しているという事は、それを人間が読み解いているという事でもあるのです。この二つのプロセスはコインの両面みたいなもので、事物と人間が別々に存在しているのではないということです。だから事物の知的性質が人間だという事になるわけです。

問 パースの「人間=記号」論ですが、事物が知的性質をもち、その記号を発することで、人が反応するならば、それをも人間に含めるということでしょうか?しかし事物が持っているはずの知的性質とは人間が生活の利便化をはかる上で、人間が植え付けてきたものでしょう?人間自体とは無関係ではないでしょうか。

答 生物学的な人と、人間とは違います。人間は元々は人の間で人の住むところを指し、世間の意味でつかわれていたのですが、明治時代から人の意味でもつかわれるようになりました。人間は、諸個人と社会の両方の意味に使われていて、そういう意味で人間関係や社会関係に包摂されている社会的諸事物の存在のあり方としても捉え返せるということなのです。
 だから木の台が机として存在していますと、それは人間の事務や学習活動を事物の性質として構成しているわけですから、人間を人間の活動として捉えていますと、机も人間を構成しているということになります。そういう事務や学習などを差し引いて人間自体を捉えるから、身体やそこにやどる人格だけを人間だということになるのです。

問 なぜ人間は思考活動の連続であることによって、人間は記号になるのですか?

答 思考とは何かですが、「ABである」というように、ある事柄で別の事柄を示すのが思考です。つまりある事柄は別の事柄の記号になっているわけです。人間は目覚めている時は常に思考活動を続けているので、人間は思考であり、記号であるといえるとパースは考えていたのです。

問 パースの「人間記号論」は世間で理解されたのですか、それまでの常識を覆すようなものはなかなか理解してもらえないでしょう。

答 ええ、パース自身もこの人間観の大転換を強調し、広げようとはしなかったようです。元々論文はデカルト批判を意識したもので、「四個の能力の否定から生じる若干の帰結」というもので訳者が便宜的につけたもので、そのお陰で私の眼に止りまして、人間観のコペルニクス的転換を含んでいると再発見されているようなわけなのです。だからパースは記号論としては有名ですが、彼の人間観の転換はあまり注目されていなかったようです。

ジェームズの純粋経験について

 問 私たちが生活していく中で「純粋経験」がどうしても存在しない場合というのはないのでしょうか?純粋経験は必ず存在するのでしょうか? 

答 反省して主観や客観に分かれる前があるから反省できるので、純粋経験こそ生の経験であり、第一次的な実在だという発想ですから、純粋経験は必ず存在します。 

問 自分は純粋経験している感覚がありません。しかしよく考えて見ますと、純粋経験を反省した時点でそれは純粋経験ではないものと認識されているのだし、反省することがないのなら、無意識のうちの行動ですので、結局は意識しないうちに過ぎ去ってしまう。それで純粋経験をしたという認識をすることは出来ないのかな?と感じました。 

答 無反省と無意識は違います。純粋経験は生の意識なのです。だから今ありありと見えていたり思い浮かんでいる事、それは純粋経験です。その純粋経験が記憶に残っているので、後から反省することも出来るわけです。もし純粋経験が意識でなければ、後から反省することもできません。

 純粋経験について必死で考えている時も、我を忘れて夢中で考えていますと、これも純粋経験ですね。

 問 ジェームズによりますと「神」は純粋経験ができず、だから神は実存しないというのがジェームズの考えですね。ところが講義では「純粋経験こそが神である」と聞きました。ジェームズは神の存在を否定しているのかしていないのかよく分かりません。

 また純粋経験が神だという場合は純粋経験という概念が神なのか、純粋経験の内容たとえば「恋をした」などが神だということなのかどちらでしょう? 

答 欧米人はキリスト教徒が多いですね。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は唯一絶対の超越神を信仰していることになっています。つまり、神は人間や自然からはなれて、宇宙の外にいて、天地万物を創造されたことになっています。ですから、天地万物とは違い感覚の対象ではないので、見えざる神と呼ばれ、神を経験することはできないわけです。でも神が作られた世界がある限り、神は存在しているとも考えられますね。ですから神は感覚的には経験できないし、人間の実存としては存在できないけれど、信仰の対象とはなり得るということです。

 純粋経験こそが神であるというのは、まったくユダヤ教やキリスト教的な神観念とは違って、純粋経験で魂が縦揺れを起こしたような場合に、神秘的な感情に見舞われることがあることを指していうのです。客観的な実在としてでなく、自身の経験として神を感じるということがあるわけです。

 ですから純粋経験という概念が神なのではなく、神秘的な純粋経験が神体験だということですね。

 神は存在するか存在しないかの二者択一と思われがちですが、日本人は自然や食物をそのまま神だとして手を合わせ拝みますが、それを見て欧米人は神を信仰しているとは見なしません。だってそれは神ではないというのが超越的な神観念ですから。ですから見方によって存在するともしないとも言える場合があるのです。 

問 スーフィズムつまり神秘主義は、純粋経験として神を感じるという事ですね。サイケデリックカルチャーはLSD等をつかい幻覚作用から生まれる感覚をチベット仏教の聖典「死者の書」に見出しました。すなわちそうすることで世界を純粋経験として得ようとしたと見なすことができるのでしょうか? 

答 ジェームズの純粋経験論を宗教体験に適用すればそういう解釈も可能でしょう。 

問 ジェームズの経験主義は、恋愛においてこの考え方をする方が正しいと思いますが、他の事物については、反省してから理解したのでは、遅いのではないかと思いました。恋愛は計画してできるものではなく、人の経験が男と女を引き寄せあうと思うからです。しかし事故の場合は、事故を経験してから反省する、死者が出なければいいですが、死者がでてからでは遅いでしょう。たとえ反省したとしても許される事ではないですから、全ての事象が経験してから反省するのでは、過ちを犯してから後悔するのと同じです。経験主義も大切な場面もあるが、それを過信しすぎるのは危ないと思いますが、どうでしょう。 

答 「反省」という言葉を道徳的な意味で、悪い事をしたり、失敗したときのことと受け止めていますね。ここではそういう意味は全くありません。

 質問者は、まずやってみて後から反省したらいいという考え方を経験主義と捉え、よく自他の関係や事物間の関係などを吟味してから計画的に行動すべきだという考え方の対極として受け止めているのですね。

 プラグマティズムはどういう行動がどういう結果をもたらすかをよく見定めて、効果的な方法を選ぶという考え方ですから、質問者の考えている経験主義ではありません。

 ジェームズの場合は根本的経験論といいまして、根源的な存在は経験であるという立場です。つまり事物や観念は、経験を総括することによって、いいかえれば経験を振り返って、つまり反省(道徳的な意味ではなく)によって生じたという立場なのです。

 

デューイについて

 問 ナチズムのアウシュビッツのホロコーストこそ道具主義的理性の典型だというデューイ批判があるようですが、デューイが道具主義を考えた理由や目的を踏まえた上での批判でないと建設的な議論になりませんね。 

答 全く同感です。デューイは資本主義社会の問題点を踏まえ、どのように失業や貧困をなくすか、社会を改良すべきかに取り組んでいたわけです。そのために有効で合理的な方法を見出さなければならないというので、現代の矛盾を解決するのに必要な新しい知識や理論や方法を模索するのかで道具主義を唱えていたわけですね。 

問 人間が他の人間のために尽くし、支え合うことが「善」であると私は今まで思っていたけれど、デューイの定義づけた「善」は人間性を成長させ続けることというのに疑問を感じました。人それぞれ異なる困難さえ乗り越え、創造的知性を身につければ、なぜ「善」になるのですか?またそもそも「創造的知性」とは具体的に何なのですか?

 そしてデューイの「学校は人間性を創造させる場」とする定義はつまり「学校は人を善へと導く場」ということですか? 

答 難局を創意工夫で乗り切っていく知性が創造的知性です。既成のやりかたではトラブルが生じているので、新しい知識・概念・理論を創造して対処しなければならないということで、道具として有効な知識・概念・理論を生み出せるように知性を磨いておく必要があります。ですから人のために誠心誠意真心から行なえばいいというのではないのです。

 たとえば自分の勤めている企業が倒産の危機にあるとき、それでは誠心誠意真面目に働けばいいではすみませんね。企業の危機を救う新しい知識・概念・理論を作って、新しい製品開発や組織改革などを通して役に立たなければ、倒産してしまいますね。道徳的に善であればいいのではなく、創造的知性でなければならないというのはそういう意味です。

 ですから学校もただ善人を育てればいいのではなく、創造的知性を育てなければ成らないということです。それが結局、本人にとっても、社会にとってもよいことであるという意味で善なのです。だから善を目的にしているのではありません。創造的知性の育成が目標なのです。

問 集団主義教育をデューイは説いたそうですが、戦後教育の民主化にデューイの教育理論が大きな役割を果たしたそうですね。中学や高校での整列行進などもデューイの集団主義教育の影響ですか? 

答 戦前の日本は教育勅語に基づいて国家に有為な臣民を育て、国家の危機に当たっては天皇陛下のために命を捧げる事を誇りにするような人材にしようとしました。それで軍隊を見本にした軍国主義教育が行われたわけです。軍隊式の整列行進もその一環でして、これはデューイの集団主義とは無縁です。

 軍隊の行進には全体主義はありますが、自主的な個人が共通の課題にそれぞれ個性を生かしながら取り組むということはなく、機械的に一体化して、組織の一部になるという原理です。もちろんそういう行進の訓練は必要だとは思いますが、デューイの発想ではありません。

 デューイの価値多元論に基づいてそれぞれ個人は価値観が異なるので、それぞれの目的のために学ぶのはいいのだが、抱えている問題は地域や国家や人類に共通なので、そういう共通の問題や課題を一緒に学び解決していくなかで創造的知性を養っていくというのが集団主義的な問題学習法でした。 

問 集団主義教育には軍隊と行進とかがあげられていましたが、戦争というものが大きく関連しているのですか? 

答 それは誤解でしょう。デューイの集団主義教育は、地域社会の共同生活のなかで一緒に問題に取り組んでいかなければならないというところから生じたわけです。ですから「地方自治は民主主義の学校である」と言われるように、学校を集団的な問題学習の場にすることによって、民主主義を育てようとしたわけです。

 軍隊や行進が集団主義の典型のようにいうのは全くの誤解です。そのようにみなされがちだということでふれたつもりなのですが。

 もちろん集団主義を広い意味で捉えますと、全体主義やファシズムも入るかもしれませんが、デューイたちの考えていたのは共同で問題学習に取り組むという意味での集団主義教育です。 

問 デューイの習慣⇒衝動⇒知性⇒新しい習慣

という活動の流れで、教育では教師がこの衝動という部分を如何に与えるかが大切なのだろうと感じました。この部分の与え方の工夫が子供の成長につながるだろうし、授業の運営もうまくいく秘訣ではないでしょうか? 

答 教師が問題を与えるという上から目線では失敗するのではないでしょうか?生徒たちが自分たちで問題を見出せるように体験させ、討論させることです。 

問 ソ連がアメリカの思想を学んだことには驚きました。ソ連は社会主義、アメリカは民主主義という真逆の立場にあるためです。しかしフォードのようなベルトコンベアと集団での分業という点を例にあげていたので合点がいきました。 

答 ソ連は国有企業の中央管理の計画経済に対して、アメリカは資本主義です。民主主義というのは経営概念ではありません。資本主義企業は民主主義で企業経営をしているわけではありません。トップ・ダウン方式ですから。

 ユクスキュルの環境世界論

問 蚤的事物、蚤的世界のところで蚤には蚤の世界しかないとありましたが、私は地球上にいるものは、食物連鎖で成り立っているため、その生物が固有の世界をもっているとは思えません。 

 食物連鎖でつながっていることは確かですが、蚤には蚤の感覚しかないことも確かです。その感覚は、蚤独特のもので、蚤の身体的な特徴が変化しますと、別の感覚に変わります。そういう意味で、蚤には蚤特有の世界があるということなのです。蚤にとっては人間の皮膚とか血とかは、温度や色や匂いや独特の味覚などで構成されていて、人間が見ているような人間の皮膚や血のイメージとは全く違う感覚ですし、それは蚤の他者ではなく、一種の生理状態であるわけです。 

問 動物は客観的実在としての事物の意識が存在しないという意味がわかりません。 

 動物は経験に対して反射や条件反射の蓄積によって、反応します。ですから、その経験を意識とは別の客観的な実在としての事物として「〜は……である。」というように実体・属性として認識しているわけではないのです。ある生理状態に対してはどう反応するか、体が覚えていて、うまくいった反応の仕方を繰り返すことで、個体と種を維持しているわけです。

 たとえばシマウマはライオンにとって、満腹の時は風景に溶け込んで、特段意識されていませんが、空腹時にはシマウマは強烈な刺激として体の筋肉を緊張させぐんぐん近づいてくるように反応してしまうそういう生理状態として鮮明に感覚されるわけです。それを「シマウマは私の大好物である」というように主語・述語で考えて、それから「ではひとつつかまえてやろう」と意志を固めて、それから走り出すというようなわけではありません。

 人間が行動する場合は、シマウマとは何かを考えて、あれを捕まえてもいいのかどうか判断して、その方法を選んで、客観的な事物認識をしてから行動するわけです。 

問 人間の場合は、あまりにも他の動植物とのかかわりが多くて閉じられた世界とは考えることはできませんね。 

 ええ、確かに人間は多くの動植物と多様な関わりをしていますから、生理的な反射や条件反射だけでは対応できなくなっており、事物認識に基づいて行動しています。主語・述語的な認識では、「〜は走る」だと〜に走るモノをいくらでも当てはめられますし、「ウサギは……する」だと……にいくらでも観察内容を入れ替えられますね。このように言語を使った客観的な事物認識は、原理的に開かれていますから、知識を無限に蓄積できるという構造になっているわけです。そのことで体で覚えきれないことを言語で整理して、いくらでも認識できるようになったので、人間だけが文明を持てるようになったということです。

 

フッサールの現象学について

 問 イギリス経験論の「経験」の変わりに「現象」を置くとはどういう意味ですか

答 イギリス経験論は実験と観察という「意識経験」で確かめたことだけを根拠に論じるべきだという考え方です。この「意識経験」は「意識現象」と言い直してもいいのです。だから同じ意味でつかっているのです。 

問 意識現象は「雲」みたいなものだと思いました。自分が「あの雲○○に似てる」と思っても、他の人が「いや、××の方が似ているよ」と言えばそれは○○じゃなくなる。事物を本当にただしく認識するには、客観的意識が必要だと思いました。 

 「客観的意識」とはどういう意味ですか?意識である限り意識現象に過ぎないわけです。それじゃあ意識でない、事物についての認識は可能かということ、人間は意識によってしか認識できないわけでして、それは事物を言い当てているとは限らないというのが、フッサールの現象学の立場です。 

問 色や形や匂いや感触としてのバラは意識現象に過ぎなくて、客観的実在としてのバラがなければいけないという。でも私は色や形、匂いや感触で確かめられれば十分じゃないかと思うし、客観的実在を認識するためには何が必要なのかわからない。 

 「色や形や匂いや感触としてのバラは意識現象に過ぎな」いわけですが、「客観的実在としてのバラがなければいけないという。」わけではありません。現象学は我々は意識現象しか経験していないから、そこから「客観的実在」が認識できるわけではないと言っているのです。ですから「色や形、匂いや感触で確かめられれば十分」というのは、それは自分の確かめに過ぎなくて、それが正しいというのは主観的な思い込みですよということですね。

 確かに意識される前の客観的実在を認識する方法はありませんから、各自がどう意識したかを出し合って、互いの認識を相対化し合うことで、認識を革め合うということでしょう。 

問 バラという意識現象は背後にバラという事物がなくても生じるかもしれないとあるが、それではまずはじめてバラというものを認識するためにはどのようにするのですか?

  バラというものを知らなければ「赤い花」という捉え方をするだけに止まりますね。しかしそれをバラだというためには客観的実在としてのバラが必要なのではないですか

答 その客観的実在としてのバラは、バラについての意識ではないのですか?つまりバラの姿や色や匂いという意識を統一したものでしょう。ですから仮に人間の意識とは別に客観的事物が存在するとしても、それを意識しているときには意識でしかないので、認識内容は人間の意識でしかないことをしっかり踏まえていなければならないということなのです。つまり人間の意識である以上、それぞれの主観性を離れられないので、人によってずれがあり、どれが正しいかについて客観的な判断は無理な面がありますね。そのことを言っているわけです。

 もちろん意識にバラが生じている以上、それを惹き起こした客観的実在としてのバラがあると推理することはできます。ただ見間違いやバーチャルリアリティや夢の場合もあり得るので、断定はできないということです。 

問 ノエシスの感覚の束によって意識ができるというのは、自分では分かるが、人に伝えるのは難しいものであり、国が違えば文化が違うために変わってくると思います。たとえば日本では、「太陽は赤い」という意識があり、子供の絵には絶対に太陽は赤く描かれます。しかしヨーロッパでは「太陽は黄色い」という意識があり、ヨーロッパの人と日本の私たちではノエシスを人に伝えるのは難しいと考えた。これは本質直観がずれているからであり、人によって変わってくると思います。

答 「ノエシスを人に伝える」というのはどういう意味ですか?ノエシスもノエマも意識の両面です。ノエシスは意識が一つに統合して対象の像を構成する働きです。つまり丸と赤い明るいが統合

して太陽を構成します。そういう構成する働きがノエシスです。それに対してノエマは構成された太陽という対象の意識です。それはやはり意識であって、事物そのものとは言えないとフッサールはいうわけです。直接伝えられるのは、「太陽は赤い」ということで、伝えられますし、赤い太陽の絵を描いても伝えられますね。それを欧米人が見ますと、日本人は「太陽は黄色い」と意識しないで「太陽は赤い」と意識していると分かりますね。そのようにノエシスが働いた事も伝えられます。

 おそらく質問者は日本人のように太陽を赤いと欧米人に感じさせるのは難しいと言いたいのでしょう。そういう本質直観のずれも交流が深まれば埋まってくるかもしれません。太陽は朝日や夕日では赤く見えますし、日中の太陽は黄色くみえますから、対話によってそれぞれの一面的な認識は改まるでしょう。 

問 リンゴという赤い丸々とした物体が、我々人間が名付けた物体であるから、それは人間の中では「リンゴ」だけれども、人間界の外の世界ではリンゴとは限らない……みたいな考えとはノエシス、ノエマの考えは異なりますか

答 「人間の中ではリンゴだけれど」というと、誤解が生じかねません。人間の中では意識現象ではなくて客観的事物であるというわけではないのですから、正確には「人間の中ではリンゴと意識されているけれど」と表現してください。つまりそれはあくまでノエマに過ぎず、意識の対象面なのです。だから「人間界の外の世界ではリンゴと意識されるとは限らない」ということですね。 

問 現象とは「意識現象」であり、先生がおっしゃられていたように、りんごの味がするものを食べると、それがリンゴの形をしていなくても、リンゴであると認識するような状態であるということから、意識次第で自分の思い通りにできることを現象と呼ぶのかと思いました。どうなんでしょうか

答 この頃、奥歯が抜けてしまっているせいか、滑舌が悪くて、聞き取りにくいのかもしれませんね。私が言ったのは、「リンゴの形をしていても、実はリンゴ型の貯金箱かもしれないし、それを食べてみてたとえリンゴの味がしても、味というのも意識現象だから、リンゴの色や形をしていて、リンゴの味がする意識現象でしかない」ということです。つまりリンゴの味がすれば客観的事物を認識した決定打ではないということですね。

現象とは意識次第で思い通りになるということではありません。「意識次第」というのは捉え方次第ということですか?フッサールの「現象」は「意識現象」の言い換えです。それらは感覚から高度な思考までを含む意識活動を指しているのです。「意識」は意識でしかないという意味で「意識現象」と呼ばれているわけです。 

問 ノエシスーノエマの関係がイマイチ分かりませんでした。ノエマは信憑性のないものとされるのでしょうか?それを信憑して行為することが本質直観ですか

答 デカルトのように意識主体と意識内容を分けて捉えては理解できなくなります。意識しているのはだれかということを確定して、その主体が、意識を統合したり、構成したりしているというのが、デカルト的な捉え方です。それに対して意識自身に集まって対象を構成する働きが在り、その意識の作用面をノエシスと呼び、構成された意識のまとまりを意識の対象面ノエマと呼んでいるのです。ノエマは意識にすぎないのですが、それが事物の本質を直観している意識だと信憑されているのです。ですからそれは意識でしかないと分かっていても、事物だと信憑して行為しているわけです。信憑されているノエマも実は意識現象にすぎないとフッサールは指摘しているのです。だから信憑は裏切られる事もあるので注意しましょうということですね。 

問 「白地に赤丸=日の丸」と信じ込んでいるのはよくないことですが、ある意識現象をノエシスーノエマの関係で捉えたら、ノエマを信憑して行為するしかない。結局信じ込むことになるのですか?  

 白地に赤が見えますと、つい日の丸に意識統一してしまいますね。日常生活というのは、感覚を瞬時に統一して意味統一を与えて、それを本質直観だと信憑して行為しているということです。するしかないというより、してしまっているということを確認しているわけです。それでトラブルになっていなければ、問題ないのですが、あくまで意識現象なので各自意識にずれがありますから、意味統一の仕方だって違っていて、ついには意見の相違が表面化し、信念がぶつかり合うことになりかねません。その場合、ノエマを本質直観として信憑しているに過ぎないことが分かっていれば、自分の観念や確信を相対化して冷静に対話できるようになるのです。 

問 意識現象を理念や概念で無理に説明しようとしがちで、こうした態度を制止(エポケー)しなければならないということですが、どうすればできるのですか?

白地の布に赤い○が中央あれば、日本の国旗だと思い込むのは無意識の内に行なわれているのでしょう。そうした動作をしないように踏みとどまれというのはかなり難しい気がするのですが?

日の丸でも、白地に赤い丸で止めてしまったら、日の丸でもないし、その他のものでもない、では、それは何なのかと思いました。

 そうですね。事前にできなくて失敗したあとからでもいいですから、「白地に赤い○のある布を見れば、日の丸に見えるのは自分が日本文化に馴染んでいるからだ」と反省すればいいのです。

 「白地に赤い丸」で止めてしまったら、それはやはり「白地に赤い丸」でしょうね。

問 ノエシスとノエマが寸分違わず一致している事が本来望ましいのかなと考えました。リンゴの色や形や味がしていてもリンゴという事物でないことがまれにありますね。 

 それは大きな誤解です。質問者はノエマと事物が一致とないことをノエシスーノエマのずれと解釈しています。ノエシスとノエマは同じ意識の両面ということです。つまりノエシスとは色や形や匂いや味や感触といった意識がひとつに統一する意識自身の働きを指しています。ノエマとは統一されて対象として捉えられた意識の対象面を指しています。両方とも同じ意識の両面です。

そのノエマとしての意識は、意識現象にすぎないので、客観的な実在である事物の本質を言い当てているかどうか分からないというのです。 

問 現象学における意識現象とは個人が今までに持っていた概念のことを言っているのですか?  

答 それはプラトンのイデアですね。予め概念をもっているから、例えば表面が赤い薄皮でハート形の果物、シャキィとした歯ごたえ、甘くて少しすっぱい味がするとリンゴと予めリンゴの概念知っているので、それに当てはまる感覚の統一がリンゴと認識されます。その場合にプラトンだと、リンゴという対象的事物にリンゴのイデア(観念)が入っていたので、そう感じることが出来たと認識するわけです。

ところがフッサールの現象学では、リンゴの味も含めてすべて人間の意識現象にすぎないから、客観的実在である事物の本質を言い当てているかどうかは分からないと言って、そこであくまで意識現象の説明でしかないことを強調するわけです。 

問 もし霊が見えるA、見えないBがいるとする。見えることも、みえないことも事実であるとすると、私から見て実在していないものも、他人にとっては実在しているものがあるかもしれないということですか

 霊の場合は、もし霊は精神的実体に含まれるなら、それは物質とは対極ですから、感覚されるものではなく、原理的に見えません。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」といいますように、枯尾花を見間違えているわけです。ただ日本的霊性では、霊は物質の対極ではないですから、千の風になったり、雲や霧になったりして目に見えますし、命や心を支えてくれる大切なものはみんな霊性をもっています。

 「実在」という言葉も哲学者によって意味がちがうので、ややこしいですが、私の意識に現われないものも、他人の意識現われるという事はありえますね、人によって意識のあり方が違いますから。実在は個々人の意識に左右されない存在という定義をする人もいるので、そういう定義をすれば、実在とはいえませんが。

フッサール続き

問 朱熹の時代には北金に対して南宋は貢物を捧げるという屈辱的な立場にあり、これは中華思想から言えば耐え難いもので、そこから身を慎んで、節約に励み、国力や武力を増強しようという朱子学が生まれたということですが、前漢の時代にも、確か匈奴に対して貢物を献じるという屈辱を味わった筈です。では前漢の時代にも朱子学的な宗教は誕生したのでしょうか?  

 劉邦が項羽との戦いで勝利して、前漢による統一がなったばかりです。秦代と内乱期が長引いたので、食糧不足が深刻で、とても匈奴相手に戦える状況ではなかったわけです。税の徴収を緩めざるを得ないわけですね。そういう時期ですから、屈辱的な外交も非常時の措置として、納得できたので、そういう屈辱から新たな思想が誕生するような状況ではなかったのです。  

問 朱子学はどのような学問だったのですか?  

 経世済民とか民本主義的な孟子を見本にする王安石の改革政治がありまして、儒学も漢代の統治者の行いを天が見ていて、善い行いをすれば天が助けるみたいな発想が退けられていました。そういう天意や自然の摂理を除外しては学問にはならないと考えたのが朱子学などの道学の立場です。

朱子学では、陰陽五行説なども活用して、形而上学的なものを含んだ学として儒学の体系化を計ったわけですね。しかも孟子的な民本主義も継承し、危機の時代に相応しく居敬窮理(身を慎んで理を極める)を強調し、倹約に努め富国強兵を図ったのです。  

問 現象学についての講義で、自己の意識が意識をしているといわれましたが、その前提になる自己の意識はどのように形成されるのでしょうか?  

 それは説明の仕方が舌足らずだったですね。「自己」を意識するというのは、自我というのがあって、その自我を意識するということですね。現象学の場合は、自我のことを言っているのではなくて、人間が認識している知識というのは、すべて自分が意識している意識現象から由来しているのだということです。つまりいろんな事象を経験する意識の流れから、知識が生じているということですね。ですから「自己についての意識」は全く問題にされていません。自我の形成についてはフロイトの精神分析学で触れます。  

問 軍国主義的な考え方でないと非国民と言われていたのが、戦争に負けると軍国主義は反動として排斥されて公職追放されたりしました。これは状況が変わると、考え方、生き方も変化させなければ対応できなかったり、生活が行き詰ったりとこれまでの思想を抑圧しなければならなくなったわけですね。このように簡単に考え方が変わってしまうのは、価値判断に関係するのでしょうか?  

 どういう意味で「価値判断に関係するのでしょうか?」と問われているのかよく分かりません。  

 戦前は国家権力が恐ろしかったので、それに逆らうのは命懸けだったのです。それで逆に日本の大陸での利権擁護や居留民の安全確保のための関東軍などの行動を正義として断固支持するみたいな方がやりやすかった。フロイトの用語では「合理化」ですね。戦後は、自由に考えて行動してもたいして弾圧されないので、堂々と戦争反対を表明できるわけです。  

 フッサールの現象学でいうと、「関東軍の居留民保護の軍事行動は自衛的なもので正義である」というのは、事実のように報道されていたけれど、かなり報道管制と恣意的な選択による造られた事実ついての現象であって、ノエマに過ぎないわけです。だから戦後になって、軍国主義的な報道統制の事実が分かると、露骨な侵略行為であったというように評価が逆転します。

 もっともそれもノエマにすぎないところがあるので、「南京大虐殺」などはその規模をめぐって大きく評価が分かれていますね。 

問 戦争と革命の時代であった20世紀には五月革命のようにスチューデント・パワーが荒れ狂っていましたが、現代では民主主義が定着しつつあり、デモを起こすこと、学生が物申すことも少なくなっています。でも私は、ソーシャル・ネットワークを利用したデモがエジプトで起こったように、世の中に対して若者が行動を起こすことにはなお可能性が秘められていると思います。これから社会を担っていく当事者である若者が、声をあげる必要があるのではないでしょうか? 元気な日本にするためにも年功序列的な発想から脱却して、新たな客観的世界におけるイデオロギー体系が生まれても良いのではないでしょうか?   

 若者が行動を起こしたのは、民主主義の定着によるのであり、定着しなかったからではありません。戦前軍国主義の下で学徒出陣に追いやられていたわけですが、戦後、再びペンを銃に持ち替えてはならないということで、平和と民主主義を守ろうという事で、平和運動、反安保闘争、原水禁運動などが起こったわけです。  

 五月革命に象徴される60年代末の世界的な学生叛乱は、戦後民主主義が硬直化し、形骸化したことに対する抗議の意味が強かったのです。しかし現状を改革するプランがあったわけではなく、異議申し立てに終わってしまいました。  

 その後学生は、無収入の学生にも国民年金を払わせようという改悪にも抵抗しないで、パワーを失っていますが、それは民主主義が定着したからではありません。民主的な要求をきちんと民主的に討論して集約して、組織し、大学や文部省と交渉するなどの民主主義的なパワーを喪失しているから起ち上がれないのです。そういう基礎的な能力もないのに、あらたなイデオロギー体系を生み出せるでしょうか?心許無い話ですが、「隗から始めよ」の精神で大いに頑張ってください。 

問 戦争や革命の結果、時代が変わると支配的な考えも変わるということですが、それがフッサールの現象学ではどう捉え返されるのですか?その説明がはっきりしなかったように思います。  

答 「リンゴは健康によい」という考えも、真理のように思われていますが、それは限られた意識現象の総括でしかないので、ノエマ的なもので、客観的実在としての真理ではないわけです。同様にその時代の支配的思想は、その時代の中では正しさが実証された客観的な真理のように思われていますが、ノエマでしかないという限界がありますから、時代が変わり、前の時代には大前提であったものがなくなってしまいますと、途端にノエマでしかなかったことが分かり、事実ともかなりずれていた事も分かりますね。それで支配的な思想の地位から引き摺り下ろされてしまうのです。

フロイトの精神分析学について

 問 スーパー・エゴに関して、もし幼少期に十分なしつけがなされなかった場合、スーパー・エゴは身につくのですか?ある程度大きくなってからでも補えるのですか?  

答 しつけは、全くなされないという事はありません。親はなくても子は育つといいますが、生きていこうとすれば現実原則と妥協せざるを得ません。そういう形でしつけられているわけです。とはいえいわゆる自由放任の捨て育ちみたいにされて、自我の確立がなかなかできなかった場合には、他人の何倍も痛い目に合わない限り、スーパー・エゴは身につかないでしょう。 

問 エゴをノエシスーノエマのノエマに当たると説明されたと思いますが、その意味が理解できませんでした。  

答 エゴ(自我)は、生まれつき置きいれられた精神的実体としてつまり魂として捉えられがちです。デカルトは「我思う故に我あり」というように考えている以上、考える主体が存在するのは自明だと考えたのです。しかし、そういう物質とは全く次元の異なる実体としての魂というのは、実験・観察できるわけではありませんから、実験・観察の結果確かめられたもののみを根拠に展開するというイギリス経験論の伝統からは根拠にすることはできないわけです。つまりエゴは意識現象から直接存在すると言えるのではないのです。意識活動によってどのように形成されたのかを説明されなければならないということです。  

 エゴという物質ではないので、それ自身意識現象から構成された意識あり方にすぎないわけです。しかも、エゴが存在しますと、それが様々な感覚や思考を統合する主体として実体的に存在するかに振舞うわけですから、まるで事物のように対象として捉えられます。だから意識の対象面であるノエマだということになるわけです。  

 ではそれはどのように形成されるかと言いますと、欲望原則に従って暴走しようとするエスと、法や両親のしつけや教育を通して意識に内面化された理念的な在り方としてのスーパー・エゴ(超自我)の綱引きから、次第に各個体の行動基準として形成されるわけです。 

 一旦、エゴが確立しますと、それがなければ自分自身どうすればいいのか途方にくれるので、あたかも先天的にエゴが存在して、それが感覚や思考を統合してきたかに思い込むわけです。それでデカルトのように神が魂を置きいれただとか、輪廻転生説のように不滅の魂があって、それが六道を輪廻していると解釈されているわけです。

 でも本当には、エゴは意識自身が、エスとスーパー・エゴとして引き合っている結果生じた、意識自身の判断基準、行為の基準にすぎないわけです。つまり意識とは別にある存在ではなく、意識自身の自己基準にすぎないということです。 

問 エディプス・コンプレックスを辞書で調べると、男児の母への愛着とありました。ハンス坊やの例では、直接母と接しているから、そのコンプレックスは分かりますが、オイディプス王は捨てられて、実母と分からず結婚した。前者と後者が同様であるとは思えません。  

答 その通り。だから戯曲『オイディプス王』は運命悲劇なのです。ただ両者は知っていたのと知らなかったの違いはあっても、父殺し、母子相姦という共通性があります。それにこの衝動は潜在的な衝動ですから、意識下に抑圧されていて、誰しも気付かずに懐いているわけですから、その点でも戯曲は象徴的な意義を持つ事になるのです。  

問 催眠療法という言葉に似た言葉で催眠術がありますが、これは学問でもなんでもない、ただの催眠をかける方法なのですか?  

 「催眠法は、心理的な悩みを改善する目的で行われる催眠療法 (ヒプノセラピー) と娯楽を目的に行われる舞台催眠 (ショウ催眠) とに大別される。」とウィキペディアにはあります。 

メスメルの動物磁気実験から発祥したので、メスメリズムという呼び方があり、これが日本で催眠術と訳されたです。今では催眠術はショー催眠を指す場合が多いようです。  

問 100円玉が落ちているとすると、欲しいと思うのがエスで、警察に届けなきゃと思うのがスーパー・エゴということですか。  

答 その通りです。  

問 エスを抑制するのはエゴなのですか、スーパー・エゴなのですか、両方あって混乱してしまいました。  

答 初めからエゴはないわけです。エスとスーパー・エゴの綱引きで、次第に行動基準が出来ていくわけです。その基準が自我としてノエマ化されるのです。自我がいったん確立しますと、その基準に基づいて行動しますから、エゴがエスを抑制するということになります。

問 エスは衝動的だし、スーパー・エゴは抗い難い理念として働くわけで、両者が綱引きしているのをエゴが均衡をとれるでしょうか?

答 ですからエゴはエスとスーパー・エゴの綱引きとして次第に形成されていくもので、なかなか、自覚的にこういうエゴを造ろうとして作れるものではないでしょうね。しかしともかく毎日基準が変わるようでは、精神が不安定になり、生き苦しくなるので、その人なりの生きやすいところで、つまりその人なりのエスとスーパー・エゴの均衡として基準が固まってきます。これがエゴです。いったんエゴが出来上がると、壊れるのが怖くなります。それで無意識に自我を守ろうとするのが自我防衛機制です。なぜ無意識に働くかですが、エスやスーパー・エゴもある程度、無意識に働くからでしょう。  

問 現代はストレス社会といわれ、精神病に罹りやすいといわれますが、先生はそのようなアブノーマルな現代社会についてどう思われますか。  

答 歴史を勉強しますと現代だけがアブノーマルだったようには思えませんね。私の65年間の人生を振り返っても、特に異常性が増しているとは感じません。ただ昔のように極端に精神が崩壊するような重症の精神病が減少した反面、軽症の精神病は増えていて、薬物で症状を抑えながら、なんとか社会に適応して生活している人は多くなり、どの家庭でも一人はいてもおかしくなくなっています。

 やはり民主主義や和の精神で、社会を少しでも和やかにしていく工夫をしたり、不安を取り除く事に力点を置くようにすべきでしょうね。それはあらゆる場所でおこなわれるべきです。家庭・職場・学校・地域・国家・国際社会などでも。 

問 ホモやゲイやレスビアンというのは、生まれつきそういう傾向があってそうなるので、フロイトのいうような人格形成期のトラウマに由来するというのはあまり関係ないのではないでしょうか?  

答 性同一性障害という捉え方だと、肉体的な性別と性自認が異なる場合がある原因を、本来、性を二分法で捉える事がおかしいというように言いますね。それでいくと幼児期の性的トラウマで説明されるのは嫌でしょうね。ただ幼児期の性的トラウマが成人後の性的異常に影響することはないとは言えないでしょう。まあフロイト理論だけで同性愛を論じるのは一面的でしょうが。

問 性欲に関して「正常」「異常」について先生がアプリオリなものとして話されるのを聞いて、フーコーの『狂気の誕生』を思い出した。「正常」に対しての「異常」=「狂気」という概念は本質的で普遍的なものではなく、社会規範から外れた者に貼り付けるレッテルのようなものであって、時代や文化が異なれば社会規範も異なり、また異常の内容も変化するだろう。にもかかわらず、「正常」「異常」はその社会ごとに普遍的なものとして先験的なものとしてふるまう。そこに社会規範の持つ権力性を感じる。  

答 フロイトの場合、異性愛と同性愛は弁証法的な関係にありまして、男は女の興奮に興奮し、女も男の興奮に興奮します。つまり男は女の気持になって女の悦びに感じるわけで、女もそういうことがいえるので、それで同性愛的な性格を内在しています。だから同性愛になりやすいのはだれしも持っている性向なのです。それで幼児期の欲求不満がトラウマになって同性愛を惹き起こすという論理ですね。トラウマによって惹き起こされる病状みたいにいわれる意味では、同性愛はアブノーマルとして捉えられているわけです。  

 自然的にいって男性・女性があって生殖があるので、その限りでは、異性性愛がノーマルで同性愛がアブノーマルであって当然です。もし同性愛が主流になれば、少子化してしまい、衰退するでしょう。それで同性愛を規制したり、異常視するような社会慣習ができるわけです。 

 とはいえ、社会が高度化しますと、同性愛を許容できる余地が生まれ、また必要とする領域もできます。そこで同性愛をアブノーマル視しない文化も生まれるわけで、そういう意味では時代により社会により正常・異常は違ってくるわけです。でもその現象を捉えて、正常・異常の区別自体を否定的にのみ捉え、権力性に還元してしまうと、本来の自然的な性愛や生殖から離れてしまい、自然な社会形成ができず、混乱に陥ってしまいます。  

 性同一性障害というのもあり、必ずしも同性愛が悪いわけではありませんし、ましてや人権的に同性愛者を差別するのはもっての他ですが、そういう人が多数の社会を形成するのは避けた方がいいのです。

 

 

 

 

説明: 説明: 説明: C:\Users\yutaka\Documents\homepage\yasuiyutaka\index.gifIndex

2に進む