哲学・倫理講義コメント応答集

大学で教職哲学・教職倫理学、哲学入門、倫理学入門、哲学と現代などを担当しています。そこでコメントを書いてもらっていますが、そこから気になるものを紹介していくことにします。

カント『純粋理性批判』について


問「ないと言い切れないものは可想界にある。では可想界にも現象界にもないことが「存在しない」ということですか?
答 客観的実在として「存在する」とか「存在しない」ことは理性が判断できません。「現象しているかどうか」は判断できます。

問 カントでは事物(客観)が意識(主観)の集合体であるとするならば、事物も主観と捉えてもよいのではありませんか?
答 事物が現象(=意識現象)でしかないということは、意識を主観と考えれば事物を主観に現象している存在として捉えているということです。

問 事物が感覚の束なら人間も感覚の束ですか?
答 事物としての人間身体は感覚の束です。カントは不滅の魂を信じていますが、魂は感覚で構成されないので、これは感覚の束ではありません。理性(魂)なしでは人間と認められませんので、人間は感覚の束でしかないことはないということです。

問 客観的な事物の存在を客観的実在としての物自体の現われだという意味で現象にしたというところが良く分かりません。
答 事物が客観的だという場合、身体から空間的に離れているからですね。この空間も主観の空間感覚ですから、客観的な事物も人間の意識現象だということです。この意識現象は、主観の意志ではどうにもならないので、外部の物自体によって制約されて現われているわけです。物自体は認識できないので、意識現象とどのように相関しているかわかりませんが、物自体があって現象が生じるということが考えられるわけで、事物は感覚の束にすぎなくても、外部の物自体という客観的実在が存在すると考えることができるということです。

問 カントの考えからすると、主観的な意識によって事物を構成するようですが、この主張に立つと、自己の主観が超越的な存在で、絶対的なものになるのではないでしょうか?
答 手前勝手には認識できないので、意識の外部が物自体としてあり、それは認識できないと理性の限界を指摘しています。これをカントの「不可知論」といいます。だから主観は絶対的なものではないのです。


問 我々が感覚し、認識するものは我々が生きていくのに必要だからでしょうか。たとえば星は、我々が生きていくためには必ずしも必要ではないと思われますが、何のために認識するのですか?
答 動物は生理的に反応して自己保存をしているわけですから、その種が保つのに必要な感覚をもっていて、その種を保つに必要なように感覚を統合しているわけです。蚤には蚤的事物しか存在せず、ダニにはダニ的事物しか存在しません。人間は、自己保存のために、星を頼りに位置を確認したり、時刻や時間の流れを知ったりできたので、星は大切な生命活動なのです。文明の進捗や変容によって、星が天という天井の穴から洩れる光として認識されたり、巨大な火の塊りがはるかかなたにあると認識されたりして変化していますが、星を科学的に認識することで、科学技術が発達して、我々の生活を豊かに便利にしているわけですね。

問 デカルト反映論、カント構成説で認識論が逆の立場ですが、両者に共通性はあるのですか?
答 認識主体としての理性は、不滅の霊魂として捉えられているところは共通しているようです。

問 デカルト反映論とカント構成説はどちらももっともなところがありますが、どちらが正しいのですか?
答 事物が先ず存在しなければ、それを認識できないというのも真理ですから、その意味ではデカルトが正しい。しかし、事物が意識された存在でしかないというのも否定できないので、その意味ではカントが正しいわけです。
物事は両面から捉えておく必要があるのではないでしょうか。
 

 

カント『実践理性批判』について


問 生きるのが辛くて殺して欲しいと頼まれたので、その人を、その苦しみから救うために良かれと思って殺した場合、道徳的でしょうか。その場合、それは殺人行為として罰せられるような悪い行為であるかも知れず、そのリスクを犯しているので、悪い人と思われたくない傾向性を抑制して義務にしたがっているので道徳的といえるでしょうか。
答 カントの定義では道徳的です。カントは「無条件に善なのは善意志だけである」という立場です。殺人という行為自体の道徳性は問えないのです。傾向性にしたがって人を殺せば道徳的では有りませんが、「傾向性を抑制して義務に従って」いれば、殺人でも道徳的なのです。

問 「人のために良い行いをする」のが「道徳性」ではないのですか?
答 それは行為の内容で道徳性を判断する道徳性の定義です。カントは動機が名誉欲や打算にあれば、行為の内容が良い行為であっても、自分のための行いなので道徳性はないとみるわけです。イエスがトーラー(律法)を己が神の国に入るために遵守しても、神の国には入れないとしたのと同じです。

問 同じチャリティ行為であっても、人によって傾向性による行為であって、道徳性がない場合もあれば、傾向性を抑制して義務にしたがっている道徳的行為の場合もあるということですか?
答 その通りです。売名や人を救うのが喜びでしている人は道徳性はないわけで、困った人を救うのは人間として当然なすべき行いなので、傾向性に従った行為をするのを我慢して、人のために奉仕すれば道徳的なのです。

問 善意志を持つだけで、何もしないのは道徳性があるのですか?
答 善意志があれば、それに基づいて道徳的行為をするはずです。善意志を持っていると言っても、それだけで持っているかどうかは分かりませんね。意志は行為に導くので意志と言えるので、何もしなかったら、善意志が本物か疑われてしまいます。本当に善意志を持っていても、何らかの事情で実行できなかつた場合は、善意志を持ったこと自体は道徳性があると言えるでしょう。

問 カントによると道徳性とは「傾向性を抑制して義務に従う」ところにあると言っています。ですが私は人間は自分の欲望や利害に向かう生物だと考えました。なぜならもし道徳的な人間しか存在しないのなら、戦争や犯罪などの悪事は発生しないと思うのです。以上のことからカントの『実践理性批判』の道徳性に関する考えには限界があるように思うのですが、どうでしょう。
答 カントは道徳的な人間しか存在しないとは言ってません。動物は傾向性でしか行動できないけれど、人間は道徳的にも行動できるので、そこが人間の尊厳だとしているのです。だから道徳的に行動できないとせっかく人間として生まれてきても、人格として自己を確立できていないということなのです。それではいけないので、道徳性を涵養するために互いの人格を尊重しあいましょうということですね。

問 『実践理性批判』の「批判」は何をどう批判しているのですか?
答 実践理性は道徳性について、「何をなすべきか」「何をなすべきでないか」を判断する理性です。「批判」とはやはり「限界づけ」と言う意味です。彼は道徳の範囲を「傾向性を抑制して義務に従う」ことに限定すべきだという立場です。義務とは「人間としてだれもが行なうべき人間として恥ずかしくない行為」ですね。行為の動機に限定しているのです。ですからそれ以外にまで広げて、行為の内容がどれだけ公共のためになったか、他人のためになったかで道徳性を判断してはいけないということです。

問 傾向性によらず義務に従い行動したかどうかの判断基準は何なのですか?自分が主観的にそう判断したら道徳性が有ると認められるのですか?  
答 主体の動機だけが基準ですから、その行為の道徳性は本人しか判断できません。たとえ殺人を犯しても、殺人犯の汚名を被っても、世のため人のために人殺しをする場合もありますから、道徳性はあるわけです。

問 常に道徳的に生きると言うことは凡人にもできますか?カントが想定した自己犠牲的に行動しなければならない事態とはいったい何だったのですか?
答 傾向性に従うことで自己保存ができるので、普段は道徳的に行動しなくてもいいのです。でも公共性を優先しなければならない場面に出くわせば、いつでも道徳性を発揮できる必要がありますから、その意味では常に道徳的に生きる必要があります。しかしそれは決して大げさなことだけではありません。腹がすいたら授業中でも食事をしだす人がいますが、それは公共性から考えてどうでしょう。ちょっと我慢して、授業が終わってから食べるというのも道徳性です。他人に親切にするのも、なかなか面倒な場合がありますが、そこは我慢して親切にしてあげるのも道徳的ですね。他人をいじめるのに快感を感じる人が、その快感を我慢して、いじめるのを辛抱しても道徳的です。

問 傾向性が含まれていたら善いことをしても道徳性がないというのはひねくれているのではないでしょうか?
答 傾向性が含まれている分だけ道徳性がないということです。傾向性が含まれていても、傾向性を抑制して義務に従っている分は道徳的なわけです。実際の人間の善い行為は百パーセント道徳的ではありませんが、いくらかは道徳的です。

問 時代や社会によって公共性は違ってくると思うので、一般意志も変化すると思っていいですか。
答 「一般意志」というのは、ルソーの用語で国民の総意のことです。法律は国民の総意に基づいていなければならないということです。なにが道徳的かの内容が変化するのではないかということが質問の主旨だと思いますが、カントの立場では内容は問えないということです。ある行為が道徳的かどうかは、内容で決まるのではなく、傾向性を抑制して、公共性を優先したかどうか、義務に従って人間として恥ずかしくないと思えることをするかどうか、ですから全く動機次第なのです。その意味では時代や社会によって異なるという事は有り得ません。

問 SPのように自己犠牲を職業にしている人は、道徳性はあるのですか?
答 職業にしているかどうかは無関係です。あくまで動機が、自らの傾向性を抑制して、世のため人のために危険な自己犠牲的な仕事をしていれば道徳的です。もっとも職業で食べる目的のために自己犠牲的に行なっている分は道徳性はありません。少しでも利己心が混じっていれば道徳性がゼロというのではなく、利己心が混じっている分だけ道徳性がないということですね。

問 他人の眼にはどう映っているか分からないのに、そもそも行動を傾向性、道徳性に区別する意味はどこにあるのですか?
答 他人の眼などどうでもいい!主体性の問題なのです。
近代は商品経済の時代で私的利害で行動しているので、主体的に人間としてなすべきことを決断して行なうことが難しい時代なのです。だから傾向性を抑制して義務に従うことはとても立派なことで、大いに尊敬に値します。傾向性にだけながされるのでは実践理性のない動物と変わりがないということです。

問 上司に残業を押し付けられた部下がいやいやながらも残業をした場合は道徳的でしょうか?
答 道徳的行為というのは実践理性の意志で行なう自発的な行為に限られます。だから、強制されていやいや従っている分は道徳性ゼロですね。ただしその仕事の意義を理性的に理解していて、義務として我慢して自発的にやっている心が少しでもあれば、その分だけは道徳的です。

問 傾向性を抑制して義務に従うことで初めて道徳性が生じるというのなら、傾向性に流されそうになるのを抑制する以前は道徳性がなかったことになり、人間には元々道徳性が備わっていないことになりませんか?
答 それは読み込み過ぎですね。人間の理性にはそれが何であるかを認識する純粋理性(理論理性)の他に、何をなすべきかを判断する実践理性が備わっていて、それが道徳的判断を行なうのですから、道徳性はあるわけです。

問 もし善い行為を行なうのが傾向性である人が、その傾向性を抑えて悪い行為をした場合は、傾向性を抑えている分は道徳性が有ることになりますか?
答 傾向性という意味を自己の欲望や利害に従って行動してしまう性質と言うように定義していますので、「善い行為を行なうのが傾向性」というようにはなりまん。

問 仏教でいう利自即利他というのは道徳性がないということですか?
答 以下のサイトの61頁以降を参照してください。
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/shoin/bukkyoushi.pdf
阿弥陀仏の慈悲と完全に一体化してしまえば、道徳性は必要ありません。でも煩悩に苦しんでいる衆生は極めて傾向性に流されやすいので、それを抑制して自分を仏にしようとすることは大変道徳的ですね。ともかく利自というのは自己の利害を追求するということではなく、仏に成るということです。

問 適法性という場合、法が悪法である場合でも守らなくてはならないのですか?
答 ドイツ語で法はレヒトつまり正しさですから、悪法まで法とは認めていないでしょう。特にカントはルソーが好きで、法はみんなが私的利害を棚上げにして話し合った結果の総意ということですから、悪法は予定していません。

問 家族を幸福にしようと自分の幸福を犠牲にして頑張っている人は、一見道徳的ですが、家族の幸福は本人の幸福でも有るので、この人の行為は本当は道徳的ではないのですか。
答 家族の幸福が自分の幸福だと覚って、その自分の幸福のために頑張っている場合は道徳性はないのですが、この人は自分の個人的な傾向性を抑制して、家族という自分以外の人間のために頑張っているのですから道徳的です。

問 カントの恒久平和論ですが、個人間の関係を国家間の関係に適用するのは無理があります。一定の文化的価値を共有しているから平和的に暮らせますが、イスラム諸国のような全く文化価値の異なる諸国と互いに目的にしあうことは困難ではないでしょうか。
答 近代西欧社会は価値多元論で様々な異質の文化価値を持つ諸個人が平和的に共存することを前提に考えられているのです。その原理を国際社会にも適用しようということです。一国内で治安に不安があるからといってそれぞれが武装していますと、かえって危険が増大します。それが西部劇の世界ですね。武器を持たない方が安全なのです。日本とアメリカだと武器を持たない人が多い日本の方が犯罪が少ないわけですね。国際社会も武器を持ってにらみ合った上で仲良くしようとしてもどうしても国際紛争が生じがちです。軍備を撤廃しますと、武力でかたをつけることができないので、取引や交渉で妥協や共存共栄をはかりやすいということですね。それに武力で圧倒して平和維持や国益維持を図ろうとしますと、武器開発競争になり結果としてミニ核爆弾や化学兵器が小型化・低廉化して、国際テロ組織や宗教カルトですら全世界にハルマゲドン(最終戦争)を挑めるようになってきているわけです。それを踏まえれば、カントの議論を空理空論やユートピアだと決め付けていてはいけないわけで、未来を担うべき若者はカントの理念をしっかり胸に刻んで行動しなければならないという時代ではないでしょうか?

イエスの律法主義批判について
問 イエスは律法主義を批判しましたが、イエスは傾向性によって道徳的に振舞うことを全面的に批判していたのですか?
答 イエスは「心を尽くし、思いを尽してあなたの父なる神を愛しなさい。あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい、この二つの律法にすべての律法とすべての預言がかかっている。」と言われたのです。この二つの愛に生きることが、結局律法の成就である神の国に入ることなのですから、二つの愛に生きていれば、そこは神の国だけれど、たくさんの律法を守っても神の国は保障されないということです。その言葉の意味するところを汲みますと、神の国に入るために律法を守っても、偽善でしかないということになります。

 

フィヒテ・シェリング・ヘーゲル

問 ヘーゲル弁証法は、(肯定ー否定)-否定の否定 ですが、種(肯定)に内在する生命の芽吹き(肯定)を養って、より高みの芽にするというように否定としなくてもよいというのではダメでしょうか。
答 ヘーゲルは現実の自然や社会には様々な対立・矛盾があり、問題がいっぱいあるわけですね。それですぐに悲観的な議論や、高踏的な批判がなされるわけですが、そういう対立・矛盾、山積する問題こそが発展の原動力だということが言いたいのです。互いに否定し合い、攻撃し合っている中で、より現実的なもの、レベルの高いものが生まれ発展していく、そういうダイナミズムを捉まえることが学問だということです。


問 フィヒテの絶対我と自我の関係が分かりません。
答 フィヒテは純粋理性と実践理性に分けないで、実践理性の優位の元に理性を統一的に捉えたわけです。つまり純粋理性によって構成された事物も実践的に自我によって構成されていると考えたわけですね。ただ理性を個人的に捉えていますと、様々な事象は説明し切れませんから、個人的な自我は絶対我という人類や全存在を包括するような自我の現われと考える必要があるわけです。そうすれば、絶対我が自己を世界として展開する際の、絶対我の現われとして、個人は絶対我が自己を実現する一つの具体的な姿であり、階梯として捉えられます。

問 非我は自我が自己を実現し、成長するために構成したものだとありますが、それならナポレオンのドイツ侵攻は、ドイツ国民が成長するために自ら作り出したということになりますが、ナポレオンのドイツ侵攻を決定したのは、ドイツ国民ではないでしょう。
答 構成説では自我が自己の感覚を素材に対象を構成するわけですね。だからナポレオン侵攻をドイツ国民は自らの五感で構成して、自分たちの現実として受け止めているわけです。それはドイツ国民の感覚なのですね。侵攻するのをドイツ国民が決定したわけではありませんが、ドイツ国民はナポレオン軍がイエナの町を行進する姿を自ら構成しつつ、自分たちの課題を見出しているわけです。もし猫が見ていてもドイツ侵攻には見えませんし、政治的知識がゼロならば、その歴史的意味を感じ取れないわけです。

フィヒテの絶対我について
問 その時代時代に使命が与えられていて、それが非我を克服して絶対我を自己の中で実現するといういのがフィヒテの考え方でしょうか?
答 使命を果たすことで絶対我がはじめて実現するのではありません。我々は生活の様々な課題と取り組んでいますが、それらは個人的な自我の傾向性を満たすためにだけあるのではなく、その時代に解決しなければならない大きな課題にぶつかりますね。その場合に主体としての自我は、社会関係を背負い、歴史を背負っている共同の自我の現われになっています。さらに大きな目で見れば宇宙的課題を背負った絶対我の現われであるわけです。たとえば環境問題などでも人類のエゴを超えた立場に立脚しなければなりません。だから自我は絶対我の現われであるということです。その自我がその時代の課題を非我として構成するということです。

問 絶対我としての使命は人間が自らに課すのでしょうか?それとも神などが各々の人間に使命を与えるのでしょうか?
答 「絶対我としての使命」というのは間違った表現ですね。絶対我は主体ですから「使命」ではありません。もちろん構成説ですから、絶対我がそれぞれの時代現われて、それぞれの時代の課題を自我の成熟段階に応じて自ら構成するわけです。地球環境問題や経済政治のグローバル統合、IT革命などの課題は、現在の人類が絶対我の現われとして自ら構成している解決すべき課題です。

シェリングの絶対者
問 知的直観によって対象の中に絶対者を認識できるというのはどういう意味でしよう。「絶対者」とは何かもよく分かりません。
答 全くの他者であるかに思われる対象は、実は主観の意識でしかないわけですから、この他者性というのは、他者性を克服して自己の現われでしかないことを自覚するための契機なのです。ところが対象を他者としか見ない主観の狭い立場に囚われていますと、その事が見えてきませんね。そのことが見えるためには主観と対象を包括する絶対者の現われを対象の中に感じ取り、それと一体性を感じることで可能になるのです。たとえば水滴が雨上がりに射し込んだ陽光にきらめいた刹那に永遠を感じたり、無垢な赤ん坊の笑顔に、つい自分も微笑んだ時などに、あらゆる雑念が消え去って、絶対者を感じることがあるかもしれません。絶対者はあらゆる相対的な存在の中に、それら姿をとっている相対的なものを超えた絶対的な存在のことです。相対者と別にあるのではなく、相対者の真理としてあるような存在ですね。


問 シェリングは断絶を知的直観で乗り越えられるとしたようですが、それがどうして絶対者の現われや、同一哲学になるのかよく分かりません。
答 主体と対象は一見絶望的に断絶しているわけですが、構成説では、対象は主観が感覚を素材に構成しているわけですから、それは自己自身の姿であるわけで、だから思惟と存在は同一だということです。カントの場合は、対象的な事物は現象でしかなかったのですが、物自体を取り払いますと、現象がそのまま存在の自己展開ということになりますね。つまり現象である主観の意識が存在そのものの現われだということになります。こうして主観も客観もそれらを包括する存在の現われだということになり、この包括者を絶対者と名づけたということです。

問 シェリングは主観と客観が断続していると考えたのでしょうか?
答 「断続」ではなくて「断絶」ですね。主観と客観が断絶している、つまり完全に切れているように見えるのを断絶というわけです。どうしたら絶望的な主観と客観の断絶を克服できるかという問題です。人間と神、人間と自然、男と女、我と汝なども同様に断絶しているわけで、それをパトス(情熱)によって乗り越えようというのがロマン主義です。シェリングは知的直観で乗り越えようとしたので、ロマン主義の哲学版だと言われたのです。

問 断絶としている両極の断絶を乗り越えるということは、両極の間に調和を生むということですか。
答 ドイツ観念論は「思惟と存在の同一」を説く立場ですから、客観を主観の有り方として捉え返すということですね。つまり全くの他者と思われている客観は、実は主観の意識に過ぎないわけです。ですから神も有限な自己の中にある無限性、相対的な事物の中の絶対性ですね。断絶している対象を自己の契機として捉え返すことで、自己は身体的な枠から解放されて対象も包括しているわけですから、そこに当然調和が生まれます。

問 その調和の考え方は仏教とも共通する点があるのでしょうか?
答 対象の中にエターナルなもの、絶対者を感じ取って、それと一体化するわけです。仏教も塵の中にさえ仏性を見出すので、その点は共通していますね。
 
問 客観的事物を認識するのは主観であると言われるが、そうすると厳密な意味での客観は存在しないのですか?
答 ですからカントは、そういう厳密な客観的実在は物自体であって認識ではない、認識できないということは存在しないという意味ではないとしたのです。フィヒテ以降は「物自体」を退けますから、主観的な客観が実在として展開し、認識できないものはなくなります。ということは認識することと存在することを分けて考えないということですね。それで認識がそのまま絶対我や絶対者あるいは絶対精神の自己展開ということになるわけです。それが「知の体系としての学」すなわち「哲学」だということです。

問 ヘーゲルのいう国家は市民社会の利害を調整できれば体制は専制国家でも民主国家でもいいのですか?
答 人倫の段階は、家族・市民社会・国家ですね。人倫の最高形態である国家に達しますと、客観的精神は世界精神に高まりまして、国家の諸形態を世界史として展開するとされます。世界史は自由の発展史です。最初は東洋専制国家です。そこでは皇帝だけが自由なのです。そして古代ギリシア・ローマはポリスで、貴族や自由市民が自由なのです。そしてゲルマンの封建社会を経て、万人が自由な近代市民社会では、代議制民主主義へと近づいていきます。つまりそれぞれの社会の歴史的発達段階に応じた体制が相応しいということです。

問 ヘーゲル弁証法の植物の例がありますが、種は種でなくなる否定要素があって、芽になってたねでなくなるのですが、それは芽になるための肯定的要素ともいえますね?
答 現状を否定して次の段階に発展していく論理を展開しているわけです。ですから現状を否定する否定的要素が、次の段階をもたらす次の段階からみれば肯定的要素だということになりますね。ですから現状のあなたを克服する現状否定は、将来のあなたにとっては肯定的要素だから、現状を打開して未来を切り開きなさいということです。

問 近代西欧は万人の自由だといわれますが、さらに万人の自由からの発展はありますか?
答 ヘーゲルの時代はまだ制限選挙でした、普通選挙になったのは二十世紀には入ってからです。万人の自由と言っても自由を行使できる環境整備が大切でして、自由の発展はまだまだ必要です。

問 悟性の意味がよく分かりません。
答 ヤフー智恵袋より引用します。
【悟性】 〔(ドイツ) Verstand; 英 understanding〕〔哲〕
(1)広義には、論理的な思考を行う能力・知力を指していう語。知性。
(2)カント・ヘーゲルでは、さらに理性とも区別される。
(ア)カントでは、理念の能力である理性と異なって、感性に受容された感覚内容に基づいて対象を構成する概念の能力、判断の能力をいう。
(イ)ヘーゲルでは、具体的普遍の認識に至る理性に対して、物を個別的・固定的にのみ見て統合しえない思考の能力、非弁証法的な反省的・抽象的認識能力をいう。

問 弁証法の「否定の否定」が肯定というのは、マイナスかけるマイナスがプラスになるみたいなものでしょうか?
答 それも一例ですね。次の段階に発展していく論理を説明しているので、螺旋階段でより高い段階の肯定になっているわけです。

問 否定の否定がより高い段階に昇っていくということでしたら、資本制社会で否定的要素である労働者階級は、否定的要素である労働者階級を否定することによってより高い共産主義社会が実現するということになりませんか?
答 これは階級闘争によって歴史が発展するという説明ですから、資本主義というシステムの下で資本家階級に搾取され苦しめられているという、そういう否定された境遇である労働者階級が、自分の置かれた境遇を否定して、自分を搾取する資本家階級の支配を否定して闘うことで、こうした「否定の否定」の闘いで新しい社会が生まれることを説明しているわけです。一体何を説明しているのかを考えて解釈してください。

問 弁証法はよくなるものばかりですか、否定により悪くなるものはないのですか?
答 世の中には様々な現象がありますね。やみくもに否定してしまっては元も子もなくなるものも数多くあります。ただヘーゲルの哲学体系は低い段階から高い段階に発達していく論理を展開しているので、勢いよくなるもの、発展するものが注目されているわけです

主にヘーゲル弁証法について

問 「主観的精神→客観的精神→絶対精神」は主観と客観が逆ではないですか?社会や歴史の中で展開する精神から個々人の精神へと展開していくことはないのですか?
答 もちろんそういう場合もあります。ヘーゲルは「即自→対自→即且対自」と展開するのを体系的な順序として捉えたということです。精神の即自である主観的精神が、ただ頭の中で考えているだけでは駄目で、自らの精神を実現しようと社会や歴史の中に自己を外化して対自的な客観的精神になるという論理を捉えたわけです。

問 ヘーゲル弁証法の例示で、種がいつまでも種だと種じゃないということが理解できません。
答 種がいつまでも種だったら、種じゃないかという疑問を持たれたのでしょうか?もちろん本当に種のままだったら、種ですよね。でもいつまでも芽が出なかったら、この種は種としての本質を発揮できなかったので、本当に種かどうか怪しいでしょう。種は芽が出てこそ、種であったことを証明できたわけです。だからいつまでも種のままの種は種じゃないという表現もできるわけです。

問 種から芽になることをヘーゲルは発展と捉えているようですが、私は変化と捉えます。物事が矛盾によって発展するという論理は分かりやすいのですが、中には発展せずに堂々巡りになってしまうものもあるのではないかと思いました。
また存在はプラスに向かうものもあればマイナスに向かうものもあります。存在を発展的な立場でしか捉えないのは少々問題ではないでしょうか?
答 ヘーゲルは、物事は内在する矛盾によって発展することを強調しましたが、堂々巡りになって発展しないものはないとか、衰退しないものはないとか言ったわけではありません。
 ヘーゲルは、発展的な近代という時代にあって、発展の論理を捉えようとしたわけです。物事が矛盾によってダイナミックに発展する論理を捉えないと、近代という時代を生き抜いていく論理を身につけることができないのです。ただ近代の終焉という転換期に現在はあるわけですから、発展的な捉え方だけでは不十分だという反省は重要ですね。

問 『論理学』で展開された論理を疎外して『自然哲学』になり、さらにそれを還帰すると『精神哲学』になるという流れの意味があまりよく分かりません。
答 学問つまり哲学においては論理が通っているということが大切ですね。それで論理学を構築するのですが、それは具体的に自然や社会の中で貫いてこその論理ですから、その論理は自然哲学として展開されるべく、外化するわけです。そして自然の中で論理を見極め、その発展として自己保存する生命を発見し、最終的に、自己自身を自由として展開する精神に到達するわけです。これは論理学を展開した精神に還帰しているわけですから、絶対精神まで発展していくということに成ります。

問 マルクスは弁証法を用いて、資本家階級を労働者階級が打倒して、共産主義社会になるとのことですが、どの弁証法を用いているのですか。
答 資本主義社会は、資本の論理、価値増殖していく貨幣商品の論理で発展しますから、資本家が最もその論理を体現しているので、資本家階級は「肯定」にあたります。その反対に労働者階級は資本主義社会で窮乏化していくので「否定」にあたります。この両者の対立が非和解的な矛盾として対立が激化しますと、危機に陥り、労働者階級は生き残るためには団結して革命を起こすことになります。そこでできるのが「否定の否定」として新しい労働者だけの共同体である共産主義です。「肯定ー否定ー否定の否定」になっていますね。

問 毛沢東は「即自ー対自」で「即且対自」なかったといういうことですが、それで哲学的レベルが低いというのは失礼な言い方ではないでしょうか?
答 「即自→対自→即且対自」はヘーゲル哲学の体系的な論理展開の方法ですから、「即自ー対自」という用語を使う限り、「即且対自」を使うのが当然です。あえて使わない方がいいというのなら、その根拠を示さなければ成らないはずです。毛沢東は即自を無自覚的な意味で使い、対自を自覚的な意味で使っています。感性的な認識から理性的法則的認識に高まるのを即自から対自へという意味で、いずれも階級闘争で使っているのです。それなら即自を無自覚な反抗や抵抗として、対自を戦術的な工夫をこらした闘争として、即且対自を戦略を踏まえた戦いとして捉えるべきです。認識も即自は感性的認識、対自は悟性的認識、即且対自は理性的認識として展開すればよかったわけです。

問 ヘーゲルのいう否定の否定の中には肯定も含まれるという考え方はできないのでしょうか?
答 種は種であるというのは肯定ですね。これは種でなくなるという否定を否定していますから、肯定は否定の否定です。だから仰るとおりです。ただヘーゲルは発展の論理を捉えようとしたわけですから、否定の契機が強くなって既成の肯定が維持できなくなったときに、単なる否定を否定して次の段階に発展するわけで、「否定の否定」が元の肯定ではなくなるわけです。

問 理性的と現実的はイコールで結べるものですか?
答 理性的なものには現実性があり、現実的なものには合理性があるということを指摘しているわけです。決して理性的なものには非現実性がないとか、現実的なものはすべて合理的だというわけではありません。
 

主にマルクスについて

問 フォイエルバッハの理論では神は人間の一部分であるということなのでしょうか?『聖書』は全くの物語ということになりませんか?マルクスやフォイエルバッハはどのような信仰を持っていたのですか?
答 フォイエルバッハは人間やコスモス(宇宙)から超越した全知全能の創造主としての神を否定し、それは人間の類的能力の疎外だとしたわけです。だから信仰すべきなのは、人間の類的本質です。つまりそれは個々人の中にあるのだけれど、自分個人ばかり見ていても見つけられません。人類的な共同関係を対自化して初めて認識できますね。皆で人類は凄い文明を作り出しているのですから。そしてそれは自然との感性的な交流、生命の循環として為されているわけですから、大いなる生命を自己自身として感じるということによって、つまり自然と一体化して初めて類的本質を感じることが出来るということです。ですから人間主義つまりヒューマにニズムの貫徹が、自然主義の貫徹でもあるということです。マルクスはフォイエルバッハの立場をそう解釈して継承しようとしていました。

ヘーゲル哲学体系と疎外
問 ヘーゲル哲学は、絶対精神が先ず自己を論理学として展開しておいてから、自然や社会の中で自己を展開して最後に絶対精神に還るということが疎外なら、疎外は即且対自の状態として捉えられるので、自己疎外を感じているのはそれほど悪いことではないのではないでしょうか?

答 スピノザは唯一実体は神だと考えまして、それで物質も精神も神の表れであるという汎神論を展開したわけです。ヘーゲルは哲学を絶対精神の自己展開としますから、すべては絶対精神なのですが、自然にしても低い段階の精神にしてもなかなか精神性や合理性が見出せないわけですね。だから疎遠なものとして精神の外にあるから疎外なのです。疎遠なものとして外に出し、そこで自己を見つけられないという苦しみが疎外ですから、この苦しみを克服しなければならないということです。それは自然や社会の中で法則性や合理性や精神性を見出していき、自己を感じるということですね。そのことで自己に還っているわけです。それは疎外の苦悩と戦い、疎外を克服する喜びですね。そうなればいい状態になるのですが、疎外状態は苦しい悪い状態だということです。ただ疎外が有るから、その克服もできるという意味で、疎外には消極的、否定的な意義だけでなく、積極的、肯定的な意義もあるということです。

疎外について
問 「疎外」とは、自己の能力を外在化したものに支配されるようになることですね?自己が作り上げたものによって支配されても、悪いものならともかく、良いものなら別に問題ではないのではないですか?

答 疎外というのは主体に対して主体が生み出したものが疎ましいものとして迫ってくるということなのです。自分で自分の首を絞めているようなもので、苦しい状態をいうわけですから、問題があるもないもなく、苦しくてたまらないという意味を含んでいるわけです。「支配」されてもよいというのは、その支配が苦痛じゃない場合にいいわけで、善い指導者や善い統治者によって良い暮らしをしている場合に別に問題がないということになります。だから質問者はきっと恵まれていて「支配」によって苦しめられていないということではないでしょうか?
フランス革命の時代の人民は戦争や重税で苦しめられていましたし、マルクスの時代の労働者階級は、長時間労働・重労働、児童労働、低賃金、首切りなどで喘いでいたわけです。現代でも様々な生活の苦しみで喘いでいる人もたくさんいるわけですね。「支配」という言葉はそういう抑圧的な支配を連想してつかっているわけです。

問 生産物や労働などから疎外されているのは、人間が人間に対して愛が足りないからなのですね。愛さえあれば人間は疎外感を感じないということなのでしょうか?
答 愛という感情は、人間関係が疎外されることによってスポイルされるわけです。マルクスは疎外を私有財産(私的所有)の運動として捉え、私的所有をなくして人間的な関係を取り戻すことによって、克服すべきだとしているのです。もちろん愛の心が大切ですが。

問 フォイエルバッハによると、個人ではできないことを人間の類的本質に求めようとしたことによって疎外論が生まれたのですか?
答 質問の文章の趣旨が分かりかねます。フォイエルバッハはヘーゲル哲学を批判しているわけです。ヘーゲル哲学では、絶対精神が自己を疎外して自然や社会の中で精神の展開を見出すわけです。この絶対精神である絶対者は神のことであり、神は実は人間の類的本質の疎外ではないかという批判です。全知全能ですべてを生み出す神というのは、人間の中にある様々なものを作り出す能力が、個人のレベルでは自分の中になかなか見出せないので、自分の外に超越的な神という他者の姿で何でも生み出す能力を持つ存在を幻想的に作り上げたわけです。そのことによって、すべてを生み出した神は絶対的な支配権を持つことになって、人間は神の奴隷になってしまいます。それでは駄目だから、フォイエルバッハは、人間自身の中に類的本質を見出して、それを大切にすべきだというのです。それは人と人の愛や共同というつながりを通して見出せますし、自然との循環や働きかけの中で見出せるとしたのです。

問 ヘーゲルは神が自然や社会、人間精神を作ったと言うが、自然科学や歴史などを勉強していなかったのでしょうか?
答 ヘーゲルの神をユダヤ教、キリスト教的な超越神と同一視してはいけません。ヘーゲル哲学は絶対精神の自己展開だと言いますね。その中で自然や社会や人間が生まれ、精神が展開していくわけです。ですから哲学の中にコスモスや世界史も総括されているということができます。ということはヘーゲルの神はコスモスや世界史や人間社会や自然と離れて別のものとして存在しているのではなく、それらの姿で現われ、それらを貫く精神として、自然や社会、人間精神を作っているわけですから、それは自然や社会や人間がそれらを作っていることと別のことではないのです。つまり神は、人間と別に存在するのではなく、自然や社会や人間の精神として自己を展開しているのです。

問 「類的本質=社会的諸関係の総和」ではないのでしょうか?
答 類的本質は、人類という類の特色を表す性質ですので、言語使用、思考、労働、社会生活などがあげられます。社会的諸関係の総和は、人間を捉える場合に、抽象的な理念で規定してしまうのではなくて、それぞれの諸個人が取り結んでいる現実的な社会的諸関係の重ね着として、それぞれの諸個人を捉えようという規定です。

問 土台と上部構造についてですが、政治や法律は経済活動が土台に成っていると思いますが、思想や文化は経済が土台というより、思想や文化が土台になって経済活動起きているように思えるのですが?
答 思想や文化に基づくということは広い意味で情報に基づいて経済活動しているのではないかということでしょう。ではその思想や文化はどうして生じたのか、その時代の生産力や生産関係という土台があって、その時代の思想や文化が生じます。現代は高度情報社会ですが、それにはハイテク産業の発達という経済的な土台があり、それに基づいた考え方や文化が生じています。

問 唯物論というのは物質以外の霊魂・精神・意識のことを認めないという考えなのですか?
答 決して認めないのではなく、霊魂・精神・意識を身体や社会関係や自然との関係の中から生じてくるものだという捉え方をしているのです。つまり霊魂や精神や意識が、身体や社会や自然とは別個にそれ自体で存在しているのではなく、身体や社会や自然の働きから生じる物質の働きだととらえているわけです。  

問 対象を実践として主体的に捉えるということは、対象を通して自己を振り返れということですか?
答 反省の論理としてはそうですが、マルクスの場合は、事物をつい他者として自分とは別物と見なしてしまう、その上で客観的にだけ認識しようとしてしまう、そういう傾向が科学的な唯物論には多かったので、そういう態度を批判しているわけです。つまり対象を自己自身として捉えなければ、自分の問題として対象を捉えられないということなのです。
 ドイツ観念論では存在と思惟の同一ということでしたら、対象は主体が実践的に構成したわけですから、その意味では対象が自己の実践だということは容易に判断できますね。フォイエルバッハも「人間は、人間が食べるものである」としています。食べるという感性的活動においては、対象との合一が体験されますから、牛を食べるとしますと、人間は牛を食べる活動において人間として捉えられます。

問 経済的土台の変革は上部構造からの働きかけによって行なわれるのですか?
答 土台が上部構造を規定するのですが、土台を変革するのは、上部構造である思想ですね。ただし、その思想は土台の矛盾と発展方向をを正しく認識してこそ有効なわけですから、土台が上部構造を決定した上で、上部構造の思想が土台を変革するということですね。

問 労働者のみの新しい共同体では、物ごとを取り決める指導層は存在しないのですか?意見が分かれた場合、多数決で決めるのですか?
答 新しい共同体の体制について、それが出来る前に前もって決めておいて縛ってしまうのはまずいとマルクスは考えていたようです。余り語っていません。しかし自由人の連合を想定していましたので、大いに議論して出来るだけ全員一致を目指すけれど、やはり最後までまとまらなければ多数決で決めるでしょう。

問 マルクスの剰余価値説で、剰余労働時間分の価値が搾取されるということは、その分サービス残業させられるということとどう違うのですか?
答 サービス残業はただ働きです。働いても賃金が支払われないということですね。これは明らかに労働に対する報酬の支払い義務を無視した不法行為です。それに対して剰余労働分の価値の搾取は、ただ働きの論理ではないのです。一定の労働時間を働きますとその分の価値が生まれます。それを全部賃金に回しますと、資本家の取り分がなくなり、利潤が得られませんから、その全労働時間を二つに分けて考えます。労働者は自分自身と家族の最低限度の生活費が得られれば働きますので、その分の価値を生み出すのに必要な労働時間を必要労働時間と呼び、残りを剰余労働時間と呼びます。
〈全労働時間=必要労働時間+剰余労働時間〉
(総価値=賃金分の価値+剰余価値)
〈賃金=必要労働時間で生み出された価値、剰余価値=剰余労働で生み出された価値〉
ところでサービス労働は超過勤務分の労働に対価が支払われないということですね。超過労働分も労働ですから当然賃金は支払われるべきです。
〈超過労働時間=必要労働時間+剰余労働時間〉
労働基準法では超過労働時間分の賃金は通常の2割増と規定されています。その分が支払われないとサービス残業ということになります。
つまり8時間労働の賃金が8千円としますと、その人は剰余価値率5割だと
16000円分の価値を生み出しているということです。これはただで8時間働いているわけでは有りません。8時間を8千円で働いているということで、ただ働きではないわけです。この人が1時間残業しますと超過勤務手当ては1200円つきますが、それをもらえないとサービス残業で、1200円は強奪されているわけです。
 
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問 剰余価値理論は、安い賃金で長時間働かせている状況は中国を表しているように思いますがどうでしょう?
答 剰余労働時間で生み出した価値は搾取されるわけですから、それは中国に限りません。資本主義である限り、欧米や日本も剰余価値理論に当てはまります。ただ中国は労働力を再生産する費用つまり最低限の生活費が日本など先進国に比べて非常に低いので、必要労働時間の割合が低くなり、高い搾取率を保てて、利潤が大きくなるわけですね。ただ先進資本主義では労働力より、生産手段の割合が大きくなり、この部分は剰余価値を生まないとされていますので、高度化すればするほど利潤率は低下すると言われます。実際先進資本主義国の利子率は随分低くなっており、利潤率が低下した証拠だと言われ、資本主義も終焉しつつあると言う声も聴かれます。

問 ヘーゲルは人倫の即自を家族とし、その上に市民社会、国家を考えたわけですが、人倫の基礎である家族がこのところ、晩婚化や離婚の増加で解体しつつあるように見えますが、家族が成り立たなくなったら一体どうなるのでしょう?
答 孤立した個人では生きられないので、家族が解体したら、新しい家族的共同体が模索されます。老人福祉施設にもそういう働きが求められますし、宗教団体が共同生活を始めたり、同じ仕事仲間や、趣味を同じにする人や、思想信条で同志的に結合した人が一緒に住んだりしてもいいわけですね。その場合に夫婦という単位は解消されてしまっているので、性的に独占し合おうとはしないフリーセックスの時代になるかもしれませんね。

問 ヘーゲルの、主と奴の弁証法ですが、社長・重役が主で、従業員は奴としますと、従業員のストライキなど労働争議は主と奴の逆転にあてはまりますか?
答 絶対服従していないということですから、主と奴の逆転の可能性をはらんでいます。しかし単に待遇改善を要求するだけでは、主と奴の関係のままですから逆転まではいきません。従業員は自分たちの労働を通して、その企業の実態を理解し、どのように改革すれば企業が発展して、従業員の生活も豊かにすることが出来るか示すことが出来るようになり、実質的に知的なヘゲモニーを握れるようになって逆転と言えるわけです。

問 主と奴が逆転して独立した自由な人格の相互関係になったのが国家ではないのですか?フランス革命の自由・平等・博愛などという理念からはそのように理解できるような気がしますが。
答 独立した自由な人格の相互関係は、先ずは経済関係として現われます。それぞれが人格として自己を示すのは、経済的に富を所有したり、生み出したりして自分の価値を示すことが出来るからです。ところがそこではそれぞれが富をより多く家族のために得ようとするので、私的利害が対立して、人倫が破壊されますので、利害を調整する国家が必要になるということです。

問 市民社会では私的利害が対立して、富を奪い合うので人倫の喪失態に見えるということですが、そう見えるけれど人倫は喪失していないということですか?どうして喪失していないと言えるのですが?
答 競争や闘争はあっても、市場が成立して互いに社会的に分業し、補い合っているのですから、人の輪、人のつながりとしての人倫は成立しているということです。
 
問 人倫の最小単位は家族で、最大単位は国家ですが、例えばEUのような国家以上の共同体はヘーゲル時代には考えられなかったのでしょうか?
答 カントは国際平和機構を構想しています。ヘーゲルの時代にはドイツやイタリアでは連邦国家形成の動きがあったわけですね。アメリカの合衆国というのは大きな刺激だったでしょう。日本の江戸時代は、藩は国家として捉えられていたので、幕藩体制は連合体ですね。徳川氏の覇権の下での連合ですが。

問 主と奴の対立は自由な独立した人格の関係になるとされますが、そこからまた対立、矛盾が生まれ、階級が形成されて、主と奴の対立が繰り返されるようなことがありますね。自立性と非自立性の克服の仕方は哲学的に何かあるのですか?
答 相互に自由で独立した主体の関係を保つには、連帯や連合の論理が考えられます。マルクスの目指したのは「自由人の連合(アソシエーション)」です。

問 現代の日本国家は新自由主義で弱者を切り捨て、サポートが少ないので、もはや日本国家は人倫としての体を為していないのではないですか?
答 何とか暮らしていけているには国家の大きな支えがあるのです。もっとも少子高齢化がすすみ、官僚機構が肥大化しすぎて、重税化しつつあるので、日に日に人倫の喪失がひどくなっていっている傾向はありますね。

問 主と奴の弁証法で、死の恐怖を克服したものが勝者となるといいますが、北朝鮮の砲撃事件はそれにあたりますか?核の脅迫をかけながら着実に利益を集めようとしているのも勝者だといえますか?
答 あれは「ならず者」の論理ですね。ある程度までは危険なので、手がつけられませんが、やりすぎて国際秩序が保てなくなりますと、国連など国際社会がどのように規制し、コントロールすべきか考えるでしょう。ですから命知らず、怖いもの知らずが勝者に成るなんて、現代の国際社会では通用しませんし、通用させてはいけないでしょう。

問 マルクスのように字が汚くて雇ってもらえない人間が、どうしてドイツでは新聞社の編集長に成れ、また博士論文を書けて評価されたのですか?
答 さて、自分で活字を拾っていたりして?謎ですね。博士論文は丁寧に清書したか、代筆してもらったか分かりません。ちなみに私は卒論を代筆してもらいました。それで「文章は下手だけれど、字はうまい」と言われました。梅原猛先生の字は極めて悪筆です。新潮社などでは担当者が悪戦苦闘して解読していたのです。
『ドイツ・イデオロギー』の草稿写真を見てください。右の悪筆がマルクスでましなのがエンゲルスです。



 

問 マルクスは「人間の本質は労働だ」としていたのに、途中で本質は解釈しだいでなんとでもいえるから一つじゃないというように変化させたということですか?
答 それは違います。「人間の本質は労働だ」と言っても、「人間の本質は労働以外のものではない」と考えていたことにはならないのです。マルクスは労働者の労働の疎外の状況を見て、労働という類的本質の一つが悲惨な状況にあることを告発したわけです。その後、フォイエルバッハを批判するさいに、人間の本質を抽象的に労働や言語や社会性などによって抽象的に規定して論じても、現実の諸個人は理解できないと感じたので、現実的には社会的諸関係の総和として理解すべきだとしたわけです。人間の本質でどれを最も重視すべきかは、どういう場面での人間を論じるかによるわけですね。

問 「哲学者たちはこれまでいろいろに解釈してきたに過ぎない、肝心なのは変革することであ。」という言葉は、革命を支持し哲学を批判していることにならないのですか? 
答 既成の哲学者たちを批判して、哲学が解釈に終わってはならないことを指摘し、肝心なのは矛盾に満ちた現実を変革することだとしているのです。確かに文章だけをみますと哲学者たち全体を解釈家として批判しているので、哲学を解釈学だと見なしているともとれますが、哲学は物事を根源的に捉え返して、原理を見出し、それを誰もが納得できるように一貫して展開するわけです。マルクスは私的所有の運動として疎外を原理的に捉え返して現実を批判し、私的所有をなくそうとしているわけですね。それこそ哲学的なわけです。それに自らを愛知者としてソクラテスは、肝心なのはただ生きることではなく、善く生きることだとして、ただ解釈のための哲学ではなく、善く生きるための哲学をしていたわけですね。

問 ヘーゲルはキリスト教的に神がすべてを作ったというように考えて、フォイエルバッハは人間の中に神を見た、作ったということでしょうか。
答 フォイエルバッハのヘーゲル解釈には誤解があるようですね。ヘーゲルは、自然や人間や社会から超越した神が存在して、そういう超越的な神がすべてを創造したとは考えません。ヘーゲルの考えている神は絶対精神です。絶対精神は、自然や人間や社会として自己を展開し、その中に自己を見出していく精神なのです。ですから自然の摂理や人間の精神が神である絶対精神の現われであり、一段階だということです。その意味ではヘーゲルも人間の中に神を見ているわけです。ただ絶対精神は、絶対精神に戻ったときに、各階梯の自己を突き放して、捉え返していますから、神にとって、自然や人間や社会は他者でもあるわけですね。これを他在にあって自己のもとにあると言います。 

 問 マルクスはフォイエルバッハテーゼで「教育者が教育されなければならない」と言ったそうですが、そのくだりを紹介してください。
答 テキストに入れておくべきでしたね。第三テーゼです。
Die materialistische Lehre von der Veränderung der Umstände und der Erziehung vergißt, daß die Umstände von den Menschen verändert und der Erzieher selbst erzogen werden muß. Sie muß daher die Gesellschaft in zwei Teile - von denen der eine über ihr erhaben ist - sondieren.

 Das Zusammenfallen des Änderns der Umstände und der menschlichen Tätigkeit oder Selbstveränderung kann nur als revolutionäre Praxis gefaßt und rationell verstanden werden.

 環境と教育との変化にかんする唯物論的学説(人間は環境と教育が作り出したものなので、環境を変え教育を改めれば、人間を作りかえることができるという唯物論的な教説)がありますが、その教説は、次のことを見忘れているのです。それは、環境こそが人間によってこそ変えられること、そして教育者自身が教育されなければならないことです。だから、社会を二つの部分に分けるしかなかったのです。そのうちの一方の部分は社会を超えたところにおかれます。(※教育する側とされる側、教育する側は社会の上から啓蒙するという意味か−訳者)
 環境を変えることと人間的活動あるいは自己変革は、ただ革命的実践として合致するのだと捉えられますし、合理的に理解されるのです。


問 高度に成っていく生産物の疎外から逃れるためには、人類全体がさらに高度であり続けることが必要なのか、あるいは低レベルな生産を行なうべきなのでしょうか?
答 マルクスも発展の時代である近代の寵児ですから、生産力の発展には肯定的です。疎外の原因は私有財産(私的所有)であり、生産力の発展それ自体とは受け止めていません。作り出した物が主体のものにならず、他者化して主体に対して疎遠になって主体を圧迫するという問題ですから。私的所有をなくせば生産物は他者化せず、互いに身内同士の関係である共同体で共同で生産され消費されるのです。とはいえ疎外体制のもとで生産力が発展すれば疎外が深刻化しますね。そこで起こってしまった環境破壊やその他の深刻な事態を解決するには、高度な科学技術や生産力が必要に成ります。核兵器の解体も高度の技術が必要で、ロシアはそれが出来ずに結局核軍縮も徹底しなかったわけですね。

問 先生は恐怖独裁などにつながらなければ、資本主義・社会主義どちらが人間にとって幸せな制度だとお考えですか?現在の日本の共産党はマルクスの考えを実現しようと考えているのでしょうか?
答 「自由人の連合(アソシエーション)としての共産主義」がマルクスの理想です。人権が尊重され自由で民主的な関係が保障されるのなら、お金のことに煩わされない共産主義の方がいいと考えるのは当然ではないでしょうか?現在の日本の共産党は、マルクスが考えたような私有財産の全面的な揚棄までは掲げていません。また企業を全面的に国有化や共同所有にすることも求めていないでしょう。ただ国民の立場に立って、資本主義の弊害を抑制し、福祉を充実させて社会を前進させようということですね。そういう現実の矛盾を踏まえて、現在の課題と取り組み、解決していくという立場がマルクスの考えの実現だと捉えているようです。

問 私有財産を廃止して共産主義にすべきだとマルクスは主張しましたが、共産主義ですべて平等に富が得られるようになるとだれも労働しなくなるのではないでしょうか?  
答 人間は無理してまで働かなくてもと思いがちで、生活が保障されるのだったら、できるだけサボろうとするものですね。実際二十世紀の社会主義の実験でもそういう弊害が出来て、ノルマを達成させるのに相当強引な強制力を使わざるをえなかったようです。マルクスは労働が自己実現であり、第一の欲求だということで、強制労働でなくなることで自由な労働となり喜んで働くだろうと考えたわけです。だったらやはり私有財産による疎外や資本主義による搾取体制が必要だというように後ろ向きに考えるのではなく、皆がやる気が出て楽しく働ける社会システムのあり方を一からデザインし直す発想も必要ではないでしょうか。

問 疎外論は、例えばボランティア活動にはあてはまらないのでしょうか ?
答 強制されていない自発的な活動という意味ではボランティア活動にはあてはまりません。でも実際のボランティア活動は、組織的に規律をもってやらなければうまくいきません。そのためにはコミュニケーションや意思統一ができなければならないのですが、それぞれの動機や思惑もすれ違っていることが多いので、組織内の調整に神経をすり減らして、疲れ果てることが多々あるので、疎外だらけではないでしょうか?


問 人間の本質は一つではないということは、つまり答は常に一つであるとは限らないということでしょうか?そう考えると、マルクスの哲学に対する姿勢は、哲学自体を批判した物化、哲学の本来のあり方を説こうとしたものなのか、どちらも言えるとは考えられませんか?
答 問の性質が違います。人間の本質は何かという問に対しては、本質が複数有れば複数の答がありますが、哲学が物事を解釈するだけの学問かどうかは、イエスかノーの返答を求めるものなのです。

 とはいえ、哲学の定義次第で後者の受け止め方も違ってきますね。哲学を解釈学だと捉えていれば、マルクスは哲学の外にでたことになりますし、哲学は物事を根源的に捉え返して、原理的に一貫した論理で展開する学と定義すれば、マルクスは哲学の中に留まっていることになります。相矛盾する両方の定義を念頭において、様々な反応を見ていたと受け止めることもできるかもしれませんね。

問 フォイエルバッハ・テーゼの第一テーゼで、対象である事物を主体的なものとして捉え返すと、すべての対象になる事物に自己の認識が入り込み、自己に都合よく解釈してしまいがちなのではないでしょうか? つまり現在までの自分の考えや認識を超えられないのではないでしょうか?
答 主体的に捉えすぎて、客観性を忘れたら駄目だということですね。ごもっともです。マルクスはこれまでの唯物論は、客観的になりすぎて、すべて他所事、他人事として捉えすぎている、もっと実践的になれ、自分自身の問題として受け止めよと言っているのです。その指摘は素晴らしいのではないでしょうか。我々はすぐ問題を評論家的に論じて、こきおろしたらそれで自分自身はなにも関わりないが如く、その問題に主体的に関わろうとしないものですね、それではただ解釈だけして変革しない哲学者と同じじゃないかということです。

問 上の例として社会主義者の多くの歴史学者が唯物史観の二段階革命説に囚われて歴史学を論じようとし、それに当てはまらない歴史的事実を切り捨てて歴史を論じて、歴史学をやや縛り付けているように思われますが、どうでしょう。
答 唯物史観でいくと二段階革命説になるということは全く限りません。唯物史観でも一段階革命説もありますし、何段階でもいいわけです。その社会の現実に照らしてどのような革命戦略が立てられるかということですね。ただ一気に社会主義を実現するのは難しいので、ワンステップ置いてからというのは極めて現実的です。もちろん先入観で決め付けるべき問題ではないので、既成の学説に囚われるべきではありませんね。要するに三ニテーゼとかありますとついそれが縛りに成るということで、ベーコンの劇場のイドラですね、これは警戒すべきです。

 実存主義について
問 自由を根底に考えるとなると、確実に社会主義などとは合いませんね。ということは実存主義者たちはマルキシズムを批判的に捉えていたのでしょうか?
答 キルケゴールは社会主義については論じていないでしょう。ニーチェはキリスト教と社会主義の平等主義を妬みからくる怨恨として否定しました。ヤスパースは自由と民主主義を保障した社会民主主義的な社会主義には肯定的でしたが、全体主義的な形でのロシア的な共産主義は否定しました。サルトルは資本主義の矛盾のもとでは、マルクス主義は乗り越え不能としましたが、主体性の契機が見落とされているとして、実存主義でマルクス主義を補完しようとしたわけです。

マルクスについて
問 マルクスは物には価値が無いものだとの考えであれば交換する場合にはどのような基準を考えていたのだろうか?
答 『資本論』は商品論から始まっていまして、先ず商品には使用価値と交換価値があるとします。使用価値は物の有用性なので物に属しています。しかしそれで交換価値が決まるのではないわけですね。ご存知のように需要と供給のバランスで決まるわけです。マルクスは生産面からアプローチしています。自分の一時間の生産物で他人の30分の生産物しか交換できないとしたら他人の倍働かなくてはならないのは辛いので、そういう物は作る人が少なくなり、供給が減って価格が上がります。その理窟で労働時間と交換価値は正比例するように市場で調整されるわけですね。だからこれは物の関係ではなくて物を作る労働者の労働の関係であるということです。だから労働者の労働の配置を消費財や生産財の必要にあわせて計画的に調整すればよいということになります。
 なお共産主義では商品という形式がなくなるので、交換ではなく分配原理になります。それは誰でもがなんでも手に入れられるというのではなくて、皆で話し合って生産量や配分量を決定していくということですね。

問 私的所有をなくそうというのであれば、私的所有を離れた財はどこへ行くのですか?誰かが財を管理するのなら、その管理者に権力が集まり、平等の形にならないのではないですか?
答 もちろん財は共有となり、共同管理されます。そうすると企業ごとに管理されると、企業が所有者のようになり、それぞれの企業が有利なようにと考えるので、生産物の商品性がなくなりません。そこで国家全体での調整が必要なので、どうしても国家的管理つまり国有化ということになり、かえって国家権力が強大になる恐れがあります。個人、企業、国家がうまく調整し合って、能力に応じて働き、必要に応じて受け取るシステムをどう構築するかが模索されるわけですね。

 問 マルクスは物化・商品化が人間や社会を支配していくことを批判しているのですか?それとも物化・商品化自体を批判しているのですか?
答 それらは区別されていないでしょう。物化・商品化は一緒に働いて、その成果を分かち合うという原理ではなく、労働を物という形で排他的に独占して、その上で物と物として関係し、物として支配しあうということです。

  つまり人格は消されてしまっているということですね。それで互いの人格は目的にされ尊重されあうことはなくなってしまうのです。そういう私有財産の関係を止揚しようというのがマルクスの思想です。

 カントと比較すればよくわかりますね。カントは互いに物として道具・手段としあう社会として市民社会を「手段の王国」と捉えました。一応その関係で生きていることを前提にしたのです。でもそれだけで終わってはならない、同時に目的としあわなければならないとしたのです。

   マルクスは手段にし合っている以上、目的には出来ないだろうということで、物化・商品化自体を克服すべきだと、より根源的に批判したわけです。

問 物化・物象化・物神崇拝については、私は良いものだと考えています。日本にも伝統工芸品や国宝があって、それを作った人々の思いが入っています。仏像・神像に至っては、目に見えない神を具体的にしてくれて崇拝しやすくしてくれています。ですからマルクスのようにそれらを批判的に捉える理由がイマイチ理解できませんでした。

答 たしかにユダヤ教・キリスト教・イスラム教のような超越神信仰の文化からは、物化・物象化・物神崇拝を肯定的に捉える発想は理解しにくでしょうし、逆に自然神信仰の立場からは、超越神論の偶像崇拝否定は理解しにくいかもしれません。

   超越神信仰では、唯一絶対の神は、自然・宇宙から超越していて、自然物が持つような一切の規定性をもたない、見えざる神なのです。その神を土や金属の塊りに具体化することは、神を限定してしまい、神の絶対性を冒涜する最大の罪に当たるわけです。

 マルクスは無神論者ですが、人間労働を物として捉え、物として相互に支配し合うことを物化・物神崇拝として批判するという発想にはやはりユダヤ教・キリスト教的な捉え方が影響しているといえるでしょう。

 それから物は命の対極に置かれますので、人間の活動を物として捉え、物と物の関係に置き換えるということは、人間を物扱いし、命の営みとしての労働を石ころのように命のないものとしてないがしろにすることだと捉えているわけです。実際大量生産・大量消費の時代になりますと、使い捨て文化になり、みるみるゴミの山が出来上がっていきますね。 


問 物を人間として扱うのは未開時代のフェティシズム(物神崇拝)のようなものだと言われましたが、それは具体的にはアニミズムのようなものでしょうか?
答 アニミズムはアニマ(霊)が万物に宿っているという信仰です。一応、物とそこに宿っている霊の二元論になっているのがアニミズムです。それに対してフェティシズムは、物(自然物や人工物)が、人間によって選ばれて神に指定され、崇拝される信仰です。それに供え物を捧げて、お願いをし、聞き入れてもらえればもっと供え物をし、聞き入れてもらえなければフェティシュ(物神)を暴力的に攻撃したりします。フェティシズムの方が古いですが、後に融合します。

詳しくは、石塚正英・やすいゆたか共著『フェティシズム論のブティック』参照
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/shoin/fetibutic.pdf


問 剰余価値は資本主義の根本的な原理ですね。その剰余価値をマルクスはいけないと考えたということですね。人の分も必死で働いて、人間が物化していくことがいけないというのならば、産業革命以前に戻ろうという考えになってしまうのではないかと気になりました。それに人間労働を商品化して物として取引するということは富の配分を合理的にするためには是非とも必要なことなのに、フェティシズム(物神崇拝)になってしまうという批判の仕方がよくわかりません。マルクスにとって、人間とは神のように気高いという考えのためにフェティシズムという考えが生まれたのでしょうか?
答 もし生産力が低くて、自分たちの家族が生きていける最小限しか富を生み出せなければ、剰余生産物や剰余価値は生み出せません。剰余生産物を生み出せるということは、結構なことですね。資本主義の場合は、それを資本家が搾取してしまうのが問題で、労働者はいつまでも貧しいままだし、余計に窮乏化していくと考えて、資本主義ではだめだとしたのです。ですから産業革命以前に戻るのではなく、労働者が皆で相談して、剰余生産物を労働者が自分たちの生活を豊かにするためにつかったり、より生産力を上げるための元手にするのに使ったりしようということですね。そうする仕組みを共産主義だと考えたのです。

 マルクスは、価格の元になる価値は、商品の効用(使用価値)ではなく労働量だと捉えました。価値法則が分かっていないとその事は隠れていて、商品の効用が価値だと見なされてしまうわけです。つまり物が労働という人間の活動と取り違得られていると考えたのです。この物の人間視を、物を神と取り違えるフェティシズムと同様なので、フェティシズムと呼んだのです。

 じゃあ人と神の取り違えにならないかということですが、フォイエルバッハは神を人間の類的本質の自己疎外だとしていましたね。

問 マルクスの物化・物象化・物神崇拝のところで、物が人を支配しているという意味が分かりません。生産物には人の労働が含まれているので、それも物とみなすというのなら分かります。そう考えれば人が物を支配しているのではないでしょうか?人が物だけによって動いているわけではないし、生産物を商品として売るか売らないか、買うか買わないかも個人の自由な意志によって決めています。ですから人が物を支配しているように私には思えるのですが。
答 もちろんマルクスも商品取引が自由な意思によって行なわれていることを前提しています。しかしどのように取引するのかは、市場の価値法則によって決められますから、取引する人は物に支配されるということです。でも価値法則は労働によって決まるから、結局人が物を支配しているのではないかという質問でしょうか?価値法則なるものはその実体を追求すれば人間労働だと分かるかもしれないけれど、物の価格として現われて、個々人からは自立した経済機構の中で、個々人の力が及ばない形で、決まってしまうわけです。つまり人格的に話し合って、相談できまるのではなく、無機的な物となったシステムの中で決まっていくわけです。それをマルクスは物化とか物象化として捉えているわけです。

 

キルケゴールとニーチェについて

キルケゴールについて
問 キルケゴールの「実存の三段階」説ですが、美的実存の段階は、神から離れているから、「あれもこれも」享楽しようとして挫折するわけですね。これを「絶望を知らない絶望」というらしいですが、絶望が「神から離れている」ことだというのなら、絶望を知っていたはずですね。
答 確かに誤解されやすいですが、神から離れているので即自的には絶望しているのですが、そのことをきちんと対自化して自覚できていなかったということでしょう。

問 もがき苦しむ中で自分が信仰する相手(絶対者)は必ずしも超越的な神でなくてもいいのではないでしょうか?例えばオウム真理教のようにヒゲのおじさんを絶対者として信仰することも主体的に生きることになるのでしょうか? 
答 もちろんキルケゴールはユダヤ教やキリスト教の文化つまりヘブライズムの伝統の中で見えざる神、超越的な万物の創造主を神として信仰しているわけで、ヒゲの伯父さんを信仰してもいいことにはなりません。ただそういう超越神ですら信仰できなくなってきているなかで、決断して主体的に信仰しているわけです。その意味では、風采のあがらないように見えるヒゲの伯父さんを絶対的な存在として崇拝するオウム真理教の信徒は、「麻原尊師」を主体的に決断して信仰しているわけです。だから「主体的に決断して信仰」することは大切ですが、相手が全人類を滅ぼそうとするようなとんでもない相手の場合もあり得るわけですから、騙されないだけの主体性を持つことも大切ですね。

問 『死に至る病』でラザロの死について「これは死に至る病ではない」とイエスは言ったそうですが、それはどういう意味ですか?
答 肉体的に死んでも、大いなる生命である神の中にある以上は、永遠に生きているということでしょう。つまりたとえイエスがラザロを生き返らせても、いずれ遅かれ早かれ死んでしまいますね。しかし、神への信仰に生きた人ならば神の体である大いなる生命につながれていて、永遠に死なないということです。個人としては何時から何時まででその後は無いのですが、それが大いなる命の部分を構成しているとすれば、永遠であるわけです。ところが神という大いなる命から切り離されてしまうと、それは絶望であって、忘れ去られてしまい、永遠に死んでしまうということです。それがキルケゴールのいう精神的な死ということでしょう。

 問 マックス・ウェーバーのマルクス批判についてですが、先生はウエーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、マルクスの経済決定論を批判するのに、プロテスタンティズムの致富を通して神に選ばれていることを実感しようとした精神が資本主義を生み出したことを論じたとされましたが、プロテスタンティズムが意図的に資本主義を生み出したのではなく、多元的な要因のひとつとして資本主義を促進したということではないのですか?
答 私の説明が不十分だったかもしれませんね。別に主要であったというのではなく、経済決定論に還元するマルクスの議論に反発していたということだろうと思います。ただマルクスは上部構造である文化やイデオロギーは、経済的土台から生み出されることを踏まえておくべきであり、土台を無視してイデオロギーを作って経済的土台を変革しようという議論のたてかたは現実的ではないという議論をしているのですから、その意味ではウエーバー的なマルクス批判は噛み合っていないといえるのではないでしょうか。

ニーチェについて
問 既成の人間の限界を超えても、なかなか世間は評価しないと言われましたが、評価しないと言うよりも、評価できないのではないでしょうか? なぜならそれは当然既成の人間の評価できる対象の範囲を超えてしまっているでしょうから。
答 それは大いにあるでしょうね。そしてねたみが評価をできなくすることもあるでしょう。またキルケゴールやニーチェの生き方は、既成の価値や道徳観に挑戦し、揺るがすものですから、認めてしまうと、己の生き方まで変えなくてはならなくなりますから。キルケゴールは父親の遺産を彼の著作の出版で使い果たしたそうです。デンマークではあまり売れなかったけれど、ドイツ人がドイツ語で出版するとドイツで彼の死後評判になったようです。ニーチェの代表作『ツァラツゥストラはかく語りき』は、すばらしい叙事詩で哲学史で金星のごとく煌いていますが、生前はたいした評判にはならなかったようです。

問 現代ヒューマニズムとしてマルクスの物化・物象化・物神崇拝論が重要な影響力を保っているという具体例をあげてください。
答 実存主義者たちは、人間が主体性のない物に成ってしまっていることを嘆きます。ヤスパースは機械と大衆の時代として流行に合わせるだけの主体性のない部品化した人間を告発し、限界状況から逃避してはならないと説きます。ハイデッガーも、人間は用在として役割を果たすだけの主体性のないダス・マンに頽落している人間を嘆き、有限性を自覚し、死を意識して、歴史的使命を担う主体性を取り戻すように訴えています。サルトルも事物存在として本質づけられる状況に対して否定の叫びをあげ、状況変革にアンガージュマン(参与)せよと迫ります。

 フランクフルト学派もホルクハイマーとアドルノーの共著である『啓蒙の弁証法』を出発点にしているのですが、この題名は、『資本論』のフェティシズム(物神崇拝)論を継承していることを表しています。つまりマルクスは文明が発達した到達点であるはずの近代資本主義において、未開人の信仰であるフェティシズムが全盛を極めていることを喝破したわけです。それは商品崇拝、貨幣崇拝、資本崇拝という形をとって、そういう物に価値があるという原理に支配されてしまっているということですね。だから人間相互の自由人としての連合である人格的な社会が形成できないのです。

問 ニーチェの思想には古代ギリシア、ローマの影響もあるのでしょうか?
答 元々古代ギリシアの古典を研究する学者でした。ギリシア悲劇の誕生を論じた『悲劇の誕生』で学者として認められたのです。彼は「永劫回帰」の思想を打ち出しますが、これは時の流れを直線的に捉えた、ユダヤ教、キリスト教的ナヘブライズムの時間観念の対極を成す、古代ギリシアの循環的なヘレニズムの時間観念に由来します。

問 ニーチェは反キリスト教ですから、クリスチャンには人気がないのですか?
答 そりゃあ、そうですね。でもニーチェの批判を受け止めて、キリスト教をルサンチマンの宗教から脱皮させようとしている人もいるのではないでしょうか。

問 超人説と永劫回帰説はどうつながるのですか?超人を目指して頑張っても殆どの人は途中で、綱から落ちて没落するわけですね。それでもまた永劫回帰でそれを繰り返すのですから、できるところまでやればそれでいいということになり、向上心がなくなるのでは。
答 超人説と永劫回帰説の関連ははっきりしません。たとえ永劫にこの人生を繰り返すことになろうとも、何度でも生きようとするのが超人の資格の一つだと語っているだけです。それは超人のことですから、途中で失敗して没落する人々のことではありません。もちろん超人になろうとする人は危険に挑戦するのですから、敢えて途中で没落する危険があろうとも超人を目指すということです。できないところまでやろうとするから限界を突破できるのです。だからニーチェの考えは向上心のかたまりのようなものです。

問 ニーチェの思想を具体化するとナチズムやファシズムになるのですか?
答 ただ人間の限界に挑戦して超人を目指せというだけならなりません。晩年の原稿を妹が編集しまして『権力への意志』として出しました。これがナチズムの思想的なバックボーンになったといわれます

 生命力というのは力への権力への意志だというのです。木が大地や空間を占めて支配するように、超人は多くの人々を導き統合して偉大なる事業を成し遂げますから、超人に協力することこそが、人々の存在意義だということになりますね。この考え方をヒトラーは指導者原理として活用したのです。

 ヒトラーはニーチェに最も心酔し、キリスト教も否定しました。ただナチズムは、人種政策があります。ゲルマン民族を優秀だとして世界支配を唱え、ユダヤ人を排斥したわけです。ニーチェにはそういう民族的偏見はありません。

問 ニーチェは普遍妥当的価値はないととの考えだが、男女のことわりは、例外はあるにせよ世界共通ではないのか、また子供が生まれれば喜ばしいと思うのも、状況によるかもしれないが世界共通だろうと思われます。どういう意味で普遍妥当的価値を否定するのですか。
答 「真理は人それぞれ」という普遍妥当的真理や普遍妥当的価値を否定する考え方は、プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉で表されます。この場合は、人間は各個人を意味していまして、この部屋が暑いか寒いかは、そう感じる個人しだいだという意味です。しかしその場合でもやはり部屋の温度が上昇すれば、みんなが暑いと感じるようになるわけですね。

□時代によって、社会によって独自の文化が形成されていますし、それぞれの境遇によって、価値観が異なることは避けられません。その意味では真理は人それぞれとする相対主義が一定の真理性をもっていることは否定できません。しかし時代を超え、社会を超え、歴史や伝統の違いを超えて共通する人間性も確認されます。「他人にされたくないことを、他人にするな」とか、いじめや不当な差別はいけないとか、など共感し合えるものはあるわけですね。
□ニーチェは普遍妥当的価値という名目で、民衆がルサンチマンから既成の価値観や隣人愛の道徳で、人間の限界に挑戦してより成長し強くなろうとする人をつばりつけ、駄目にしようとすることを批判しているのです。
□フランス革命の挫折以降普遍妥当的価値に対する疑問が大きくなり、ディルタイやニーチェが普遍妥当的価値なんてギリシア人のでっち上げと決め付けたのです。しかし東西冷戦終焉に際してゴルバチョフ大統領は、「人類的価値の優先」を打ち出しまして、人類共通の価値の確認が行なわれたわけです。

 問 だれでも永劫回帰を受け入れれば、運命愛を手にすることや、超人の資格を得ることができるのですか?
答 永劫回帰を覚ったとき、そういう無限の繰り返しでしかないと分かっても、あくまでも超人を目指して頑張ろうと自己を愛することが出来る人に限ります。永劫回帰かとうんざりするようじゃだめだということですね。それにニーチェは超人の資格はこれだけだと言ったわけじゃありません。

問 限界状況は乗り越えられないもの、ということですね。ということでヤスパースが言いたいのは、生きることの土台に死があり、人は死ぬことを前提に生きるのだということを教えているのですか?それともその壁を乗り越えた超越者(神)の存在に気づいて欲しいことを目的にしているのですか?それともどちらにも比重をおいているという捉え方でいいのですか?
答 どう捉えるかは、それぞれの主体性の問題かもしれません。ただ文脈(context)的には、機械と大衆の時代にながされて、気晴らしや逃避ばかりしていてはだめで、自分自身の根本的な生死のことや、抱え込んでいる苦しみや、背負い込んでいる罪業とかを正面から見つめ直して、真剣に取り組まないと、本当に生きることの手ごたえはないでしょうということですね。そういう限界状況と取り組むこともしないで、安易に神に頼ったり、また自分の力だけで生きているようなつもりになって、簡単に神なんかいないよと否定してしまったりするのはよくないということでしょうね。もちろん超越者は人間存在が有限だということを自覚するから、自己を超えた存在としての超越者に気づくということでしょう。 

 問 有神論的実存主義と関連して、『バイブル』の神について初歩的質問をしてもいいですか?
@アダムとエバは禁断の木の実を食べて審判を受けたそうですが、どのような判決でしたか?
Aアダムとエバの間には子供はいなかったのでしょうか?
B天地、万物、アダムとエバを創造した神は、いったいだれに創造されたのですか?
C限界状況と真摯に立ち向かうことによって、乗り越えられない壁の向こうに超越者を感じるとありますが、それは死を乗り越えた存在の超越者は死なないということでしょうか?人は時々死にたくなる時がありますが、神はそのようなことを感じないということなのでしょうか?
答 @エバは先に木の実を取ったので産みの苦しみを重くする。そして男に従わなければならない。アダムは、土からできたので土が呪われ、作物がなかなか実を結ばないので、汗水たらしてきつい労働をしなければ生きていけない。そして土から生まれたので土に帰る、つまり死ななければならない。

Aエデンの東に追放されてから生まれます。兄カインと弟アベル、神が弟の方を気に入られたので嫉妬して石を投げたら当たって殺してしまいます。そのほかにも数百歳生きたのでたくさん子供が出来ました。

B神は万物の創造主ですから、神を創造する者はいません。つまり神は最初から存在したということです。「初めにあり、今あり、世々限りなくあるなり、アーメン」という祈祷文があります。つまり初めとか今とかという時間的カテゴリーでは捉えられない存在であるということですね。

C不死というのがギリシア神話でも神の定義です。ヘブライの神は完全者ですから死は存在しませんし、死への衝動もありません。アジアでは神話的には神の死はあるのですが、神話的に死んでも、それは物語的な死であって、神としての働きでは生きています。イザナミの神は火の神を生んでホトが焼けて死にますが、イザナギ・イザナミという夫婦神の働きは今も続いているので、子供が生まれ、作物が実り、島が生まれているわけですね。

問 ニーチェは「神は死んだ」とキリスト教を否定したのですが、当時はキリスト教の価値観が絶対だったヨーロッパではそうとう反感を買ったでしょうね?
答 西ヨーロッパはキリスト教徒が多いので、キリスト教の価値観が絶対だったというのは言い過ぎです。中世ではキリスト教会の権威は絶対で、法皇の力が強かったのですが、近代では信教の自由が定着して、カトリックをとるかプロテスタントをとるかは自由ですし、神を信じていない無神論者もたくさんいたわけです。フランス革命の過程では一時キリスト教を廃止して、理性を神にする理性信仰にしようとさえしました。19世紀後半はマルクスたちがはじめた科学的社会主義が広がり労働運動が大きな社会勢力になってきましたが、無神論を唱えていた人々が多かったのです。それに19世紀ダーウィンの世紀と呼ばれた進化論の時代ですから、殆どの人が一応キリスト教を信じていたものの、キリスト教の価値観や教義は大きく動揺していたといえるでしょう。
 

 

ヤスパースとハイデッガーについて


問 ハイデッガーの世界・内・存在は、「廊下に居る私」ではなく、「私の居る廊下」というふうに考え、私が居るからこそ廊下という世界は、私との関係において成り立っていると言えるのでしょうか?
答 実存主義が取り組んでいるのは、「現に、今、ここにある」という「現存在」ですね。これは人間の有り方を問うているのです。つまり廊下とか、教室とか、荒野とかを開明しようというのではないのです。だから私との関係で廊下や世界が成り立つということで、いいたいのは現存在としての私は今どのように存在しているかということについてです。そういう現存在である私は今廊下いるというあり方をしているということです。ですから廊下は、私が居るから成り立っているかどうかというのは実存的な問題ではないのです。

問 ハイデッガーは用在としてあり方に合わせてしまっていると、それは楽な生き方だが、個性を喪失して、道具的な存在に頽落してしまうといいますが、彼は自己の定められた役割を超えた生き方をしろと言っているのでしょう。つまりこれは超越者を目指しているということではないのですか?
答 ニーチェの綱渡りの話がありましたが、ニーチェは綱渡り人が綱渡りを止めてしまうことを求めているのではありません。綱渡りで人間の限界に挑戦しろということですね。もちろん自分の現状に飽き足らなくなれば、別の仕事に移るのも一つの選択ですね。同じ仕事で自己の限界に挑戦してもいいわけです。ハイデッガーが言いたいのは、たんなる用在として与えられた役割に満足していれば、必然的に繰り返しになって、単なる道具や機械に堕してしまうということです。それでは駄目で、有限性に目覚め一回きりの人生ならば、自分の仕事を自分の生きた証として自分の命の輝きを感じられる仕事をしてみろということです。そういう意味で自己の限界を超えた人や人間の限界を超えた人は、ヤスパースのいう意味での超越者(神)ではありません。 

 問 ヤスパースは全意識・全存在を包み込む包括者を考え、その包括者を超越者だとしたようですが、見られるものは、見るものの存在を必要とし、見るものは自分自身ですから、見るものも見られるものも自分の意識内の存在ので、包括者は超越者ではなく、自己そのものではないでしょうか?
答 超越者つまり神が自己自身に他ならないと分かるのは、神の御胸に抱かれて神と一体化したときですね。ですから現存在としては己が最初から包括者とわかっているのではありません。現存在も超越者もみんな包括者のあり方だと覚るのは、実存的な苦悩の果てであるのです。自己の有限性、つまり死を見据えながらその中で主体的に生きてはじめて、生きることの充実感を得るということですね。自己の有限性を自覚してはじめて、自己の命を部分として構成する自己の有限性を超えた超越者、大いなる命というべき神が感じられるわけです。その意味で神を構成する部分としては、超越者は他者ではないのですが、死という乗り越えられない壁の向こうの存在としては超越者でもあるという構造なのです。

問 ヤスパースによれば現代は機械と大衆の時代であり、人間が歯車として画一的な部品化、事物化しているということ納得できました。それで死という限界状況に立ち向かうために生きるということには、生の意味を見いだせなさそうです。でも私自身は人間が生きる意味というのは、「自分らしく生きる」ことだと思います。そしてそれは社会の歯車であるという側面に回収されない、自分らしさを感じられる側面を保って生きるということだと思います。それを理想とする自分に近づけていくということが、「回生」ということではないでしょうか?
答 誤読がありますね。限界状況に立ち向かって生きないと生の意味を見出せないというのが、ヤスパースの立場です。つまり機械と大衆の時代には、人間は限界状況に立ち向かうことから逃避しようとし、流行にあわせ、惰性的に生きようとします。それでは充実して生きることは出来ません。だれでも「死・苦しみ・罪」からは逃れることは出来ず、乗り越えることも出来ないわけです。またそれと真摯に立ち向かわなければ、本当の自分の存在の意味も確かめることが出来ません。「自分らしく」生きるためにも、限界状況を見据え、限界状況から逃げないで立ち向かわなければ、「回生」できないということなのです。

 問 ニーチェは、気の遠くなるほど大きなサイクルの「永劫回帰」は認めているようですが、輪廻転生は認めていませんね。私は、輪廻転生はあると思います。子供から老人になり、それがまた赤ちゃんへとサイクルする。人間だけでなくメダカやニワトリなどの生物でも同じことが言えるのではないでしょうか?
答 それは、輪廻転生を広い意味で解釈しているわけです。狭い意味では輪廻転生というのは、生き物には不死の魂があって、それが様々な境涯に生まれ変わることを意味するのです。ですから老人が赤ちゃんにサイクルするという場合は、老人の魂が、生きていて、赤ちゃんになって生まれ変わっているということですね。そういうことはないというのがニーチェの立場です。もちろん老人が死んで、赤ちゃんが生まれ、命がバトンタッチされていくというのは、皆認めているわけです。輪廻転生は、魂は死なないで、永遠に生き続けるということが前提です。

問 ニーチェのいうニヒリズム(虚無主義)や能動的ニヒリズムの意味が良く理解できませんでした。
答 唯一絶対の神が存在すれば、総ては神によって存在意義や価値が与えられ、それに基づいて生きていればいいわけですね。ところが資本主義社会はご承知のように、各個人が私的利害を自由に追求することによって、市場の原理で均衡がとれるようにできていますから、与えられた普遍妥当的真理や普遍妥当的価値など無視して欲望原理で行動しているわけです。ですから「既に神は死んだ、人間が神を殺したのだ」とニーチェは宣告したのです。つまり虚無とは普遍的な価値や意義は存在しないということで、ニヒリズムはそういう考え方のことです。ですから選択の基準は、価値や真理ではなく、快・不快でしかないわけですね。別に信念に基づいていないわけです。
 能動的ニヒリズムは、普遍妥当的な価値や真理が既に崩壊しているのだったら、その上にたって、自分たちで新しい価値や真理の表をつくろうじゃないかという立場です。その場合にニーチェは、天上の価値つまり形而上学的な価値ではなく、大地の意義つまり生命の原理に基づくべきだということです。それは欲望原理ということではなく、「力への意志」に基づくべきだというのです。つまり大木が空と地面を支配するように、自らの能力の限界に挑戦して、より偉大な存在として力を示そうとするわけですね。そういうように自らも努力し、また人がそうするのを皆が支え、賛美するというようなイメージをニーチェは抱いているようです。

問 人生が一回限りて、有限であればこそ、そこに意義を見出したとありますが、では浄土真宗はどうなるのでしょう。当時の日本人は死ぬと天国に行き救われる?から、今の人生を生きたというように学んだことを憶えていますが、それも一種の死の先駆的決意性になるのでしょうか。
答 六道輪廻説で「天」といえば、天人になっていろんな摂理を司る境涯で、これは俗にいう神々の境涯ですね。「天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄」の六つの境涯を無限に生まれ変わるというのが輪廻転生の考え方です。浄土真宗では、この輪廻の苦しみから阿弥陀如来が救ってくだっさって、阿弥陀浄土へ解脱させてくださるという教えです。ですから「天国」に行って救われるのではありません。遅かれ早かれ阿弥陀浄土に行って救われるのだったら、人生の苦しみも限りがって、やがて浄土にいけるのだから、辛くてもこの人生を勤め上げようということになりますね。死を楽しみに生きる苦しみを耐えるのですから、「死の先駆的決意性ではありません。死後があるのが前提になってしまいますと、有限性の自覚ではないからです。
 実際に浄土真宗の僧侶の多くが、浄土も地獄も生きている人間の心の有り様だと捉えているようで、心に阿弥陀の慈悲を持って生きれば、この穢れた世界が阿弥陀浄土になるのだという考えの僧侶が多いようですよ。

問 「汝自身を知れ」は、高校倫理ではソクラテスのところで勉強しましたが、彼は「無知の知」ということで、死を恐れずに、最後死にましたよね。何か矛盾していませんか。死に有限性があるなら、その限界を自分で決めることも諭されるのですか?
答 ソクラテスはデモクリトスのところで自然哲学について学んでいたことがあったようです。ところが当時の自然観では自然の原理について、それぞれ独断的に論じていて、どれが正しいのか、検証しようがなかったのです。それでソクラテスはまだ本当に知っているとは言えないと覚り、「無知の知」に達したわけです。それでアポロン神殿の「汝自身を知れ」という標語を見まして、自然のことばかり論じていても駄目だ、肝心な魂の徳について論じようということになったわけです。自然哲学から人間哲学へ関心の移行を「魂への配慮」といいます。
 ソクラテスが最後に死んだことを、有限性を自分で決めたというように解釈するのは正しくありません。彼はあくまでも対話を通して、一緒に真理に近づいていく彼の哲学が有罪だといわれたので、それなら哲学の死であり、ソクラテスの死を意味するから死刑にすべきだと要請して、その判決に従ったまでです。もしこの判決に反して哲学が死んでも生きようとしたら、それはかえって生の限界を自分で決めたことになるでしょう。

問 ヤスパースの人の壁は個性的で単独的であるという考え方には共感できました。一人に一つそれぞれの命がある限り、同じ一生はありえません。しかしその後に書いてあった「人間は孤独で、励まし合い逃避しないように」という部分が理解できませんでした。これは一人ひとりが自分の力で頑張るべきだということですか、仲間と共に行動すること、協力し合いながらはすべきではないという考えなのでしょうか。
答 ええ、実存的な問題は、「一人生まれて、一人死ぬ」というようにそれぞれ単独的な問題ですから、手伝ってもらうことは出来ません。自分で自分の実存と格闘するしかないわけです。ただその人を愛している人ができることは、人が限界状況から逃避して、流行や気晴らしにばかり耽っているいたり、自暴自棄になって破滅的になることに対して、きちんと実存に向き合えば、たとえ限界状況は乗り越えられなくても、限界状況に立ち向かって生きたことによる確かな存在の手ごたえが得れることを自分自身の行動を通して示すことですね。

問 ハイデッガーは自分の歴史的運命を自覚するあまり、ナチスに入党するという倫理的罪を犯しましたが、彼を責めることはできないのではないでしょうか?なぜなら人間はその時代ごとの社会に生きていて、そこで自分の存在意義を見出すためには、その時代の風潮を無視することは出来ないからです。
答 それは納得できかねます。人間は時代の風潮に流されやすいからこそ、自分の行為が、世間の風潮に流されて事の善悪を見る目を曇らせられてしまっているのではないかと常に反省する必要があるのです。クラスでいじめがはやれば、つい一緒にいじめてしまいそうになるでしょうが、いけないことはいけない、犯罪は犯罪です。ナチスが犯した人類に対する罪を、入党したことによってハイデッガーも少なからず背負わなければなりません。
 とはいえ「死の先駆的決意性」の哲学そのものには普遍性があり、哲学に戦争責任や犯罪性はありません。


問 「死の先駆的決意性」のところで人生は一回限りだからこそ、勉強したり、仕事したり、恋愛したりするということは分かるのですが、主体的に決断するということが分かりません。死を意識しなくても、主体的に決断して人生を決めていくのではないかと思います。
答 将来、医学や医療技術が進歩して、数百年、数千年と寿命が延びたらどうなるかということは、確定的なことは言えませんね。主体的決断というのは、自分意志を持って、何をするのか決めるということですが、死の恐れが無意識的にもなくなってしまうと、生きるために何かをしようとする意欲が減退して、意志が薄弱になるのではないかと心理学的には想像できます。

 問 「用在」の意味を教えてください。
答 手元にある存在ということから、道具的存在という意味です。世界・内・存在にとっては、その構造によってその世界を構成している事物は、なんらかの意味や役割を担っている道具的存在であるということです。「用具的存在」を約めて「用在」というタームにしたのでしょう。

問 「頽落」の意味を教えてください。
答 「崩れ落ちる」というのが字句どおりの意味です。人間が主体性を喪失してただ用在として事物的にしか存在していない状態に堕ちたのを「頽落」というのです。

問 「存在者」と「存在」の区別の説明がよく分かりません。また同じことかもしれませんが、現存在である人間は単なる存在者ではなく、存在の開示であるという意味も分かりません。そして存在者があって、存在するのか、存在の現われが存在者なのか、どちらが先に在るのかという問題とこの区別がどう関わっているのか知りたいのですが。
答 個々の存在は存在者ですね。このパソコンだとかゆりの花だとか、北極星だとかは存在者です。存在者が存在するということを前提にして、これまでの哲学は、存在者の存在を語ってきました。ハイデッガーはそれを存在忘却だと批判しています。「存在者の存在」として語られてしまいますと、それは存在者について語っていることにしかならないということですね。たとえば「ゆりの花」の存在について語る場合は、ゆりの花について語っているわけです。だから「ゆりの花」が「ある」とはなにか、「北極星」が「ある」とは何かというように、「存在者」と「存在」を区別しないと「ある」ということがどういうことか分からないではないかというのです。

 個々の事物の場合は、「ある」ということを主体的に問いかけ、問題にするわけではありません。でも人間だけは「現存在」つまり「今、ここに、ある」ということの意味が問われるのです。自己の有限性を自覚したときに、どうしてすぐに滅び去るのに生じてきたのか、何処より着たりて、何処に還るのか、自分があるということはどんな意味があるのか、が改めて問い返されるわけですね。その意味で現存在である人間は、単なる存在者であるだけでなく、存在の開示であるということになります。

 ハイデッガーは存在者と存在を区別しているわけですから、存在者の根拠として存在を位置づけ、存在の海から存在者のしずくが生じて、そしてやがて存在の海に還るように捉えているようです。ですから存在が先だということですね。

 では存在とは何かということになりますが、存在者と区別された存在というのは、ただ「ある」ということですから、存在者が「Aは〜である」みたいに規定できないわけで、規定してしまうと存在者の規定になってしまいます。ですからあらゆる存在者の根拠としては神学者はこれを「神」と呼びますし、「道(タオ)」とか「空」とか「絶対無」と呼んでもいいのかもしれません。ハイデッガーは「存在」と呼んでいるわけですが。


問 ハイデッガーは無神論なので、存在=神とは捉えないけれど、存在を神だと解釈する神学的立場もあるということですが、分かりやすく説明してください。
答 モーセは、神の山ホレブ(シナイ山のこと)で神からイスラエルをエジプトから脱出させるように指令されます。その際に、モーセは神に神の名を訊ねたのです。モーセはエジプトの王女に赤子の時に拾われて育てられていたので、イスラエルの神についてはほとんど知らなかったのです。

□そのときの答が「神はモーセに言われた。『YHWH ・asher ・YHWH』。また言われた。『イスラエルの人々にこう言いなさい。「YHWH」というかたが、わたしをあなたがたのところへ遣わされました』と。」です。

□モーセの十戒に「みだりに神の名を称えるなかれ」とありますので、神の名は読めないように聖四文字で記されています。これは「エヘイエー・エシャ・エヘイエー」の略ではないかと言われ、「ある」の半過去形だというのです。それで「ありてある」が神の名ということですね。名は体を表すとしますと、神は存在であるという解釈が生じるわけです。

□しかし、この解釈ですと「あるものは一者」とした古代ギリシアのエレア学派と同じですから、超越神でなくなってしまいますね。ヘブライズムの超越的な唯一絶対の創造主という神観念と離れてしまいます。

□それに文脈(コンテクスト)から言いますと、「ありてある」という名前は、三百年以上前にエジプトに入る際に、そこから連れ出す約束をした神は確かに存在したし、今も存在しているということを示すための「ありてある」という名前だと解釈するのが一番自然です。
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/baiburu/kaminonawa.htm


 問 先生は「政府は電気自動車以外は禁止したらいい!」と言われましたが、これはたくさんの企業に対してそれなりの補償をしなくていけないので、現段階、まだ技術が確立していない段階では、無茶ではないでしょうか。
答 禁止といっても、期限を切って後五年で製造禁止とかですよ。走行は禁止できません。でもガソリン需要が急速に減少するので、そのうちに不便になって使えなくなるでしょう。すでに電気自動車は走っていて、後は量産体制を作ってコスト削減していくという段階まできているのでしょう。そして環境問題ではかなり大胆なCO2削減案が必要なわけですね。それに将来は電気自動車に移行するのは分かっているわけですから、いち早くコスト削減に成功した企業、国家が世界の自動車産業をリードできるわけです。いつまでも中途半端な車を作らせていると電気自動車に切り替えるのに手間取ってしまいますね。

 損害のでる企業に補償する必要ですが、優遇税制で移行期は電気自動車への課税を控えたり、政府系の金融機関から融資するようにすればいいわけです。それでも経営危機になりそうだったら、GMみたいに一時的に国有化してもいいわけです。ともかく自動車産業で立ち遅れるわけにはいかないので、大胆な電気自動車への転換を政府主導でやることですね。そうすればそれのインフラ整備もあって、国内需要も膨らむし、輸出も増えるということで、もうあ菅内閣から景気浮揚の菅フル内閣と呼ばれるようになるかも。


問 ハイデッガーの用在のところで役割をこなすというはなしがありましたが、今の自分の役割は何か分かりません。これから探していきたいと思います。
答 おやおや、あなたは大阪経済大学の学生でしょう。すごい役割があるじゃないですか。しっかり教養を身に着け、能力を高めるというのが当面の役割です。そして人間性を磨いて、自分の可能性を伸ばしていくことです。人間として大きくなるために大学に来ているわけですから、問題意識を持ち、テーマを見つけてとことん追求するような学び方が必要でしょう。能力が高まれば、あなたを必要とする場所も見つかるでしょう。

問 戦争を始めるのが「命より大切なものがある」という哲学的な考えなら、戦争を終わらせるのも「命より大切なものはない」という哲学的な考えです。ですから哲学の戦争責任は差し引きゼロではないでしょうか?
答 その場合に、はじめる哲学と終わらせる哲学は別の哲学なので、始める哲学の方の戦争責任は減りません。それに戦争が終わっても、戦争をしたことによる悲惨や喪失感は残ります。みんなボロボロになってしまうわけですね。だれがこんな戦争をやらせたのだということになるのは戦後です。