経済哲学論集

「疎外された労働」と 「物神性」の関連
―「物象化論」者への反証―
やすい ゆたか

                   一. 根拠薄弱な払拭論

『経済学批判要綱(グルントリッセ)』 から 『資本論(ダス・カピタル)』までの時期を経済学批判期と言います。この時期におけるマルクスの経済学批判の核心を成すものの見方捉え方を「疎外 Entfremdung」概念との関わりで明らかにしようと思います。といいますのは、『フォイェルバッハ・テーゼ』 を切断点にして、マルクスはヒューマニズム的な疎外論の立場を払拭し、科学的な「物象化論」の立場に移行していたという解釈がまだ残っているからです。

この問題の検討に当たっては、あくまで「疎外」というタームの使われ方をよく調べておくことが前提です。その際、予めマルクスの立場をどちらかに固定しておいて、その上で都合よく解釈しようとするのではなく、テクストに沿った無理のない解釈を目指すべきです。

特に「物象化」や「物神性」の論理に迫ろうとするのなら、「疎外」概念とそれらの言葉の連関に焦点を合わせて解読する必要があります。「疎外」というタームの使用例の検討をおろそかにしたまま、「物象化」や「物神性」のみを取り上げ、そこから独特の「物象化」論や「物神性」論を作り出しても、決してそれはマルクス自身の議論だとは言えないでしょう。

我々がマルクス研究を行う際、現代的な問題関心を投影させて、マルクスからその解答や示唆を学びとろうとしがちです。そのこと自体は大いに結構なのですが、その際警戒すべきなのはマルクスの限界や誤りについて無頓着になり、我田引水に陥る傾向です。マルクスについての正確な限界付け、慎重なマルクス・クリティークなしに正しいマルクス継承もまた不可能であると言わざるを得ません。 

さて、マルクスは実際にはこの経済学批判期に何回程「疎外」というタームを使ったのでしょうか。参考までに数え上げてみますと、『グルントリッセ 』では十一回、『剰余価値学説史(メア・ヴェルト)』 で二十四回、『ダス・カピタル 』で十一回使っています。
 疎外論に心酔している人から見れば 『グルントリッセ』でもっと使われている筈だと思われるかも知れません。たしかに『グルントリッセ』では疎外論の展開と思われる叙述が数ページにわたるところが何度も出てきます。そういうところでも「疎外」という用語の使用を避けているのです。それで意外に少ないのです。

次に「疎外」の使用例を分類して表示しましょう。(4)(5)(6) (8)は『経済学・哲学手稿』の四つの疎外と同じです。( l ) () () (7)は経済学批判期の特色を示すもので、  頻度も多い用法です。とは言え『経・哲』期の疎外論と矛盾しているとはとても思われません。

( l )労働から疎外された客観的実在としての資本〕は、労働が疎外されているので、その結果として、労働の産物としての労働条件や資本が労働と無縁なように現われたり、労働に対立したりする事態です。

2)は(1)の結果、労働によって成り立っている筈の資本の諸形態が、その同一性を見失って、互いに疎遠になる事態です。

3)も本質としての労働から乖離して、一見、労働とは無縁に事態が進行したりすることです。これらは〔労働の疎外〕が土台にあると思われていたからこそ「疎外」というタームで表現されたと解するのが一番相応しいでしょう。

ですから、疎外論の払拭という議論はそれ程、資料的な根拠があって提起されているとはとても言えません。イデオロギー性の濃厚な議論だったのです。

かと言って、経済学批判期の疎外論には、『経・哲』期のような、労働の疎外された状態を告発し、疎外を克服するための疎外革命論は影を潜めています。むしろ、労働を疎外することによって、資本主義体制や資本家階級とそのイデオローグ達が、価値の全源泉てある労働から疎外され、事態の本質を見失うことに対する批判てす。

マルクスはその上にそれに止まらず、資本主義経済の運動自体が労働から疎外されて倒錯的な事態として展開されるので、労働から乖離したことによるツケを総体としては払わされて、没落せざるを得なくなることを付け加えています。

このような展開は、『資本論』第一部の蓄積論の展開、第三部の生産価格論から利潤率の傾向的低下論の展開等ではっきり示されています。ですから〔労働からの疎外〕論は、経済学批判の核心を成すとともに、『資本論』体系を導く方法論でもあるのです。


                  二、労働の二重性と物神性

〔労働からの疎外〕を代表とする経済学批判期の疎外概念が、物神性論と深く結び付くのは、実は労働の二重性を踏まえているからです。労働の二重性と言いますのは、商品を形成する労働には、具体的有用性を形成する具体的有用労働という面と、もう一つは価値に凝結する抽象的人間労働という面があるということです。この両面を峻別しなければならないとマルクスは強く主張しているのです。

商品の価値といいましても、マルクスの場合は我々の常識とは違って、生産物の属性(性質、Eigenschaht)ではないのです。マルクスは生産物と使用価値を混同しており、「生産物=使用価値」に対して価値を対置しているのです。

価値と使用価値の峻別の立場に立つマルクスは、そこで価値と生産物を峻別する立場に立たざるを得ません。ですから、価値を生産物の抽象的な社会的性格と見なすことがとりもなおさず物神崇拝だというのがマルクス物神性論の特色になっているのです。

我々の常識では、生産物がそれ自体商品です。生産物は商品として現存する以上、有用性と価値を持っていると考えています。労働の二重性も生産物の属性としての有用性と価値にそれぞれ対象化される労働の二重性として捉えています。そしてマルクス自身がそのように展開していると解釈している人もまだ多いかも知れません。これはとんでもない誤解です。

価値は労働の社会的な性格の結晶であって、生産物とは関わりの無い面なのだとマルクスは言いたいのです。つまり、ある生産物を取って、服なら服を取って、この服には有用性が属しているというのは倒錯的ではないのですが、この服自体が価値があると捉えるのは倒錯的だというのです。

マルクスはこの服にではなく、この服に含まれている労働の方に価値があると言いたいのです。生産物に含まれた労働が価値なら、生産物は労働を含むことによってそれ自身価値に成っていると考えるのが普通でしょうが、使用価値と生産物を混同し、それらと価値を峻別するので、そう考えることは出来ないのです。

労働を二重化しないで、労働の具体性が生産物の有用性を産み出し、同じ労働の一般性が価値を産み出すとしますと、同じ労働である以上、その凝結したものはやはり同じ生産物だということになります。そうだとしますと、価値は労働の固まりとしての生産物の抽象的な性格だと見なされるでしょう。それでは生産物を価値として捉えることは全然倒錯ではなくなってしまいます。

マルクス物神性論は、厳密には、労働一般の凝結が価値だという捉え方では成立しないのです。では労働一般とも区別され、生産物の属性としての価値を作るのでもない抽象的人間労働は一体何を形成しているのでしょうか。マルクスは、価値を抽象的人間労働のガレルテ (Gallerte 膠質物)として規定しているのです。この「ガレルテ」は生産物とは区別された抽象的人間労働それ自体の固まりという意味で使っているのです。

価値は投下された労働の総労働に対する割合としては、労働の社会関係に他なりません。、マルクスはこれをガレルテとして実体的に捉え、商品に客観的に内在させて、価値法則の展開を可能にしたのです。今日の「物象化論者」のごとく、関係を実体的に捉えること自体を物神的倒錯と見なした訳ではないのてす。そうではなくて、関係としての価値が実体的に生産物に付着、謬着して、その結果、価値が生産物の対象的属性として現象することを物神的倒錯と見なしているのです。

物象化論者もマルクスが関係を実体的に表現している事実を認めます。しかし、彼ら自身の物象化論が〔関係を実体的に捉えることが物象化的倒錯だ〕という内容なので、マルクスの表現を単なる比喩だとか、叙述の便法だとか見なさざるを得ないのです。本稿の展開で明らかになるのてすが、マルクスは価値をガレルテとして実体的に捉え、これを『資本論』の全展開の基礎にしたのです。物象化論者の解釈はこの点かなり無理をしています。マルクスによって正当化する時代は既に過去になっているのですから、物象化論者には精神的自立による正確な距離測定をお願いしたいものです。

ところでガレルテが実体的だという場合の「実体」という表現は、抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)が、特定の社会関係の中で実際に存在しているとマルクスが捉えていたことを示しています。決して、形而上学的な「実体」でもなければ、価値の場合は「物体」でもありません。それで、幽霊のようなとか、掴まえられない非感性的な存在だというわけです。

マルクスは、そんな価値が実際には存在していないのに、存在しているように捉えることを倒錯だとしているのではなくて、眼に見えない価値が眼に見える生産物に付着して、生産物の属性のごとく捉えられることを倒錯としているのです。

価値実体が抽象的人間労働であるにもかかわらず、価値は生産物にガレルテ(膠=にかわ)として付着し、生産物の属性だと倒錯される、言い換れば、価値が生産物の属性として妥当する(gelten)ということに「労働からの疎外」に基づく物神性的倒錯の一般的性格が見られます。このエレメンタルフォルムが商品の等価形態です。

 

                三、価値形態論と物神性論

「商品論」では、先ず交換から使用価値の捨象によって価値を取り出し、これを価値に凝固した抽象的人間労働それ自体のガレルテだと規定します。その上で、価値が商品間の論理でいかに現象するのかを価値形態論として追求したわけです。

相対的価値形態にあるリンネル商品は、自分の価値を自分で示すことができないので、等価形態にある上着商品との関係において自分の価値を見出そうとします。つまり、上着を価値と認めることで、自分の価値を上着に写し出すのです。リンネルにとっては上着が価値だということになるのですが、マルクスにすれば、上着という使用価値(マルクスは生産物とその使用価値を混同する傾向があります)が価値と認められるのは倒錯です。ですから、商品間の関係、交換比として相対的に価値を規定したべイリーは、はじめて価値形態を扱ったと称賛されながら、正真正銘の物神崇拝だと非難されます。

マルクスは、この価値関係の基礎に、抽象的人間労働がガレルテとなって、等価形態である上着商品の体としての使用価値と膠着している事態を指摘しています。そうして、上着という使用価値(=生産物自体)が価値と倒錯されている謂れを説いたわけです。

このような倒錯に陥っていたのでべイリーは価値実体を見失ったのだとされたのです。価値実体の見失いを前提にした価値形態論の展開は、マルクスが「労働からの疎外」によって物神崇拝に陥ると考えていたことを明瞭に示しているのです。今日の物象化論者たちは、投下労働価値説を否定し、〔抽象的人間労働のガレルテ〕という表現を比喩としてしか扱いません。ですから価値と生産物の膠着的表現も事実認識としてでなく、倒錯的な表現と見なすことになります。つまり生産物に価値があたかも膠着しているように倒錯されると、マルクスが価値の実体的な把握を批判しているかに解釈するのです。

しかし、このような解釈は自己矛盾に陥ります。なぜなら、物象化論者は、マルクスが価値を生産物の属性でないと指摘していると強調しているからです。べイリーはもちろんリカード派も価値は生産物の属性と見なしていることでは同じ穴のムジナだというのが、マルクスの両刀批判でした。彼らは価値は生産物の属性だと考えているのてすから、今更、生産物に価値が付着するかに倒錯することは出来ない相談です。そうしますと価値と生産物を二元的に捉えて両者を膠着させて捉えているなどという批判は、全く的外れだということになります。そうではなくて、マルクス自身が価値と事物を二元的に捉え、両者の膠着による物神性的倒錯の発生を解明していると理解すべきなのです。

ですから、今日の物象化論者は、本気で抽象的人間労働のガレルテとしての実体的な価値理解を関係の物象化的倒錯として批判し、価値と事物の二元論と両者の膠着という理解をも物神崇拝として批判するならば、生産物の属性として価値を捉える物神崇拝と区別して、もう一つの物神崇拝としてマルクス自身の理論を位置付け、この両方の物神崇拝を排却するというように整理すべきです。

より正確には、マルクスの場合は、偶像崇拝(=物神崇拝)を批判した超越神信仰が、必然的に霊と物の二元論に基づく憑きもの信仰に陥ったように、価値を物の属性とみなすことを物神崇拝として批判したために、必然的に価値と物の二元論による憑きもの信仰に陥ったのです。

とはいえ、マルクスの場合は、価値を労働の社会関係としても捉えているため、形而上学的な実体化は避けているといえます。それでも労働の社会関係が価値法則として客観的に貫徹するためには、商品に内在的でなければならないので、関係の実体化を図ったのです。

マルクスの論理では、関係の実体化は必ずしも関係を物や事として捉える物象化ではないのてす。といいますのは、価値と事物の二元論の立場では価値自体がザッへ(事柄)やディング(物)に対置される実体ですから、関係を実体として捉えても物象化とは言えないのです。

マルクスが物象化として批判するのは、人間の社会関係、労働関係をザッヘ間やディング間の関係に置き換え(Quidproquo)て、ザッヘやディングがそれ自身で社会関係を取り結んでいるように現象することです。

そのことによって、社会関係を取り結んでいるように見えるザッへやディングに社会的規定が帰属させられ、価値が事物の属性であるかの物神性的倒錯も生じることになるとマルクスは考えたのです。

 

             四、価値生産と〔労働からの疎外〕

  『資本論』でマルクスが「疎外」というタームをはじめて使用したのは、「相対的剰余価値の生産」の機械を論じる際です。それ以前の「労働過程」「価値増殖過程」「不変資本と可変資木」「絶対的剰余価値の生産」などを扱う際には〔疎外〕という夕ームは一切使用していないのです。マルクスが疎外論を堅持しているのならどうして使わなかったのかという疑問を抱いて当然です。

 〔疎外〕は何といっても労働における疎外、つまり疎外された労働が中心的な問題の筈です。労働者が自己実現、自己対象化としての本来の労働から疎外された、自己喪失としての強制された、犠牲としての労働に陥っており、この疎外を克服して人間の自己回復を計るべきだというのが疎外論の立場です。

生産過程で労働者が剰余価値を搾取されていることを論じながら「疎外」というタームを使わないのは、疎外論の立場と矛盾するようにも思われます。そこで、〔労働からの疎外〕 というタームは、実は旧来の疎外論の疎外概念とは縁が薄く、労働から隔離して、本質としての労働が見えなくなる事態を指しているだけではないかという解釈も生じます。

しかし、『資本論』 第一部の「疎外」は、労働者の疎外、労働者が疎外されている意味で使用されているものばかりです。確認のために引用しておきましょう。

第十一二章
「およそ資本主義生産様式は、労働条件と労働生産物とに、労働者に対して独立化され疎外された姿を与えるのであるが、この姿はこうして、機械の使用とともに完全な対立に発展するのである。」

第二十一章
「彼がこの過程(生産過程)に入る前に、彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家の ものとされ、資本に合体されているのだから、その労働はこの過程の中で絶えず他人の生産物に対象化されるのである。」

第二十二章

「生きている労働過程で生産手段の形で協力する過去の労働の重みが益々大きくなるということは、この労働を過去の不払い労働として行った労働者自身から疎外されたその姿、すなわち資本というその姿のおかげだといわれるのである。」

第二十三章「資本主義的体制のもとでは労働の社会的生産力を高めるための方法はすべ て個々の労働者の犠牲において行われるということ、生産力の発展のための手段は、すべて、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具にして部分人間となし、彼を機械の付属物に引き下げ、彼の労働の苦痛で彼の労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程に合体されるにつれて、労働過程の精神的な諸力を彼から疎外するということ、これらの手段は彼が労働するための諸条件を歪め、労働過程では狭量陰険きわまる専制に服従させ、彼の生活時間を労働時間にしてしまい、彼の妻子を資本のジャガノート車の下に投げ込むということ」 

これらは 『経・哲』の四つの疎外のうち、生産物からの疎外、疎外された労働、類からの疎外などに該当します。その意味では払拭論は成り立ちません。それでも、物象化論者は、疎外論の払拭とは、へーゲル、フォイエルバッハから継承した自己疎外論のパラダイムからそれを超克した物象化論のパラダイムへの転換のことであり、「疎外」のタームを一切使用しないことではないと反論するでしょう。

ところが、自己疎外論の前提であり、自己疎外論に相即しているとされている主体・客体図式の超克が物象化論者の期待通りに行われているとはとても言えないのです。

 『資本論』体系は、労働主体を先ず労働者に固定します。その上で、労働者が労働によって形成した価値が、労働者から疎外された姿をとり、「労働から疎外された資本」として自己運動する事で、労働からますます乖離して、自己矛盾を深めて没落するように展開されています。

ですから、労働から疎外されているので資本が主体の体系であるように見えるけども、実は、真の主体である労働者階級の自己疎外の体系なのだというのがマルクスの趣旨です。こう解釈するのが最もテクストに即した素直な解釈です。つまり、主・客図式に基づく自己疎外の体系になっているのです。

『資本論』が労働価値説の体系的な展開であることは常識ですが、近頃この常識に挑戦し、『資本論』 を労働価値説を克服するための試みとして読み直そうとする人々が出現しているようです。それはさておき、マルクスは価値生産の主体を労働者の労働力に限定しています。それを根拠に生産手段が価値を産み出すことはないことを論証しようと一貫して努力しています。

『資本論』体系に関する限り、価値は「抽象的人間労働のガレルテ」として規定されているので、予め、生産手段が価値生産の主体となる可能性は塞がれているのです。それで、もし生産手段が価値を生むように現象すれば、それは倒錯的な事態だということで切り抜けることができるのです。マルクス独特の物神性論が、その際、労働価値説の貫徹を支える方法論の役割を果たしているのです。
 先ず、「労働過程論」は、労働主体を労働者の労働力に限定し、労働者が労働手段を使って、労働対象に働き掛ける営みが「労働」だと定義してしまいます。これと先程の価値定義が結び付きますと、「価値増殖過程論」では生産手段が自分の価値を自分の働きによって生産物に対象化するという論理化は不可能になります。

そこでマルクスは、生きた労働が生産手段に対象化された労働と、両者の価値形成という抽象的な同一性によって融合して生産物に対象化するとしています。ところで、マルクスはこれではまだ不安だったのです。といいますのは、生きた労働の側からは主観的に労働に還元できても、生産手段の方からはそれ自身の役立ちに応じて労働力と共同して価値を生み出していると誤解される虞れがあるからです。

そこでマルクスは「不変資本と可変資本」という章を設けて、この問題を解決しようとしています。生産手段の価値は、生産手段が価値形成過程でその価値をそれ自身の働きに応じて対象化することはありえないとマルクスは考えます。なぜなら、マルクスにすれば価値は生産手段の属性ではないのですから、それを対象化することは出来ないことになるのです。そこでマルクスは、生産手段に付着している価値を労働者が労働過程で、具体的有用労働によって生産物に移転するといいます。

価値を移転するのですから、抽象的人間労働の受け持ちの筈ですが、マルクスはわざわざ具体的有用労働が移転すると断っているのです。というのは生産手段から生産物に価値を移すための労働は、生産手段を生産物に変革する労働に他ならないからです。

生産手段を生産物に変えれば、生産物に付着していた価値はその付着する相手を生産物に乗り換えざるを得なくなるという理屈です。つまり、抽象的人間労働はそれ自身が固まって価値になるだけで、労働過程で生産手段を生産物に変革しているのは具体的有用労働でしかないとマルクスは考えたのです。

マルクスは価値移転論の前提として、価値は抽象的人間労働のガレルテだから生産物の属性ではなく付着しているだけだと二元的に捉えていたのです。付着しているのなら離れて見せなければなりません。離れられないのなら属性になってしまうからです。そこで、価値移転論は価値と事物の二元性を上演して見せたのです。ですからこれはマルクス物神性論の展開なのです。

価値移転論は、価値と事物の二元性を論証するとともに、生産手段が価値を生むのではないことも論証しているつもりなのです。生産手段が価値を生むと考えること自体、生産手段と労働者の混同、擬人的倒錯に当たるとマルクスは考えています。これは生産手段に対する物神崇拝になるとマルクスは了解していたと思われます。

ところで、この「倒錯」は、充分生産過程に根拠を持っているのです。生産過程において価値が生成しているのですが、その際、労働者の労働だけが価値を形成するのだというのは、予め、労働や価値の定義をそうなるように定めたからに過ぎないのです。

価値を生産物が商品経済において示す交換力と規定し、それが生産過程や消費過程で新生産物や労働力に、消耗分だけ対象化されるように見なすことも可能です。その上で、生産階級以外の階級を養うための価値や価値増殖分が、労働者の労働力が対象化した価値から差し引かれて、労働力の価値が最低限の生活費に限定されてしまうと論理化しても良かった筈です。

実際、生産過程で労働者だけが主体的だとは必ずしも言えないのです。それぞれの生産要素がそれぞれの特性や性能を発揮し、相互に働き掛け合って、共同で生産物を作り出しているのですから。その際、それぞれがそれぞれの価値を消耗した分だけ生産物に対象化すると考えてもよい筈です。そう考えれば価値移転などを想定する必要は全くないのです。
 マルクスはマカロックなどが生産に果たす生産手段の役割を強調し、それを生産手段の所有者である資本家の取り分の正当化に使っているのに対抗して、労働者の労働のみが価値を生むとする労働価値説を対置したのです。

マルクスにすれば、生産手段が価値を生むとする議論は、価値の全源泉である労働が労働者から疎外され、そのため労働者が形成した価値が労働から疎外された姿で現われざるを得ないから生じたと思われたのでしょう。

そして、労働から疎外された資本は、それ自身価値としては抽象的人間労働のガレルテに他ならないのに、それが膠着している生産手段の姿と見誤られ、その結果、生産手段が価値を生むかに思われているのだと、物神性論に基づいてマルクスは事態を解釈したのだと思われます。

ところで、特別剰余価値の源泉問題は、日本のマルクス経済学者の間で、随分長く論争が続けられていますが、この問題は労働価値説の鼎の軽重が問われている間題だとされているのです。その理由は、特別剰余価値の形成が機械の改良による場合は、一見、機械が価値を形成したと思われる典型的な例だからです。

マルクスは生産条件が飛び抜けて優位な場合には、それによって強められた労働が特別剰余価値を形成するとしています。しかし、一方でその場合でも、労働の複雑度は変わらない場合を仮定しているのですから、説明に矛盾があるということになり、様々に論じられてきました。

例えば、生産過程の問題を市場価値に移しかえて論じたり、あるいは、生産性向上のための社会的費用として説明したり、どれも、多かれ少なかれ機能的な説明に終わっていて、あくまで生産過程で価値生産を論じるというマルクス自身の問題意識に内在できていないのです。

マルクスは、特別剰余価値は機械の改良によって生じたので、機械が特別剰余価値を生んだと思われるだろうが、そのように捉えるのは物神崇拝だと考えたのです。マルクスにすれば、機械が価値を生む主体でないことは自明なのです。先ず、労働過程論で労働の主体は労働者の労働力でしかなく、機械は労働手段でしかないわけですから、機械は決して労働しないことになっています。

その上、価値形成過程論では労働者の労働のみが価値を形成するのであり、そのことは価値移転論で念押しされていました。ですから機械の改良で特別に労働の価値形成力が強められたとしても、それは手段が優位だったから生産性が高まったことを意味するだけで、決して手段が労働したことにはならない、従って、価値を形成したことにもならないというわけです。

つまり、手段が価値を生むのは論理矛盾だから、手段によって強められた、それ自身では単純な労働が特別剰余価値を生むと考えなければならないとしているのです。この問題ではマルクスも機械の価値生産を認めているかに思われる表現にぶつかり、当惑させられる程です。だからこそ、マルクスは機械が主人公で労働者がその補助役に過ぎないような事態の倒錯を批判しようとしたのでしょう。

マルクスにすれば、機械は本来は人間の非有機体的身体として人間の一部分であり、その生産力は人間自身のものなのです。それが労働者から生産条件が疎外されて、労働者にとって外的な自立した力として労働者に対立することによって、あたかも機械が生産の主体であり、価値を生むかに現象すると捉えているのです。ここでも 〔労働からの疎外〕に根拠を持つ物神崇拝がみられます。

マルクスはあくまで、人間の環境世界としての人間的自然において、身体と非有機的身体としての社会的な事物の関係を身体中心主義的に捉えているのです。社会的な事物が相互に働き掛け合うように捉えることができないのです。

それは人間的な意識を身体に宿っている「エゴ」の産物としか見なさないからです。意識なき物に主体性はないから、いかに価値形成に貢献しても機械が価値を産んだことにはならないというのです。人間的意識をエゴの孤独な営みと考えることに対して、マルクスは個人の意識は同時に社会の意識でもあるという立場から批判しています。

しかしマルクスは社会の実体を現実的諸個人の活動に還元してしまいます。ですからマルクスは社会的経済的な諸関係、人間・自然の質料代謝のための社会関係を取り結んでいるのは、あくまで現実的諸個人てあると考え、社会的な諸事物を媒介、あるいは手段としてしか認めませんでした。

結局、身体中心主義に止まっていたのです。フランス「現代思想」には、個々人の意識が社会の言語コードの物象化によって汲み尽されてしまっていることを「人間の死、言語の支配」(フーコー)と表現し、意識の身体中心主義的解釈を克服しようとする傾向がみられます。

たとえ、第一番目に身体が主体的であっても、社会的事物によって我々の生活や意識は規定されます。意識は意識された存在によって惹き起こされるしかないという意味では、身体の主体性のみに固執するのは一面的なのです。社会的諸事物も身体に働き掛けて意識はを形成し、そのことによって自己の再生産を実現しているのです。ですから安易に身体的感性的立場からの主体性ばかり強調しても主観的偏向に陥ることになります。

だって、そもそも、身体や感性は、社会的な諸事物の連関の中て形成され性格づけられているのですから。それに身体や感性の再生産は社会的な諸連関の立場から行われているのですから。バースは人間は記号に他ならないとし、記号は事物が他の事物を指し示すことであるとしました。彼は、絶対的観念論の立場からそう述べたのですが、我々はそこから、人間的意識が身体を含む社会的諸事物の連関から生産されること、人間を身体に限定して捉えることは出来ないということを学び取るべきです。

 

           五、「労働からの疎外」と資本の物神性  

資本論 について、べーム・バヴェルグ以来ずっと間題にされてきたのが、第三部の生産価格論に至って、価格の基準が投下労働量に基づく価値から、[投資額+平均利潤〕 にあたる生産価格に転形したという問題です。価値法則を梯子にして第三部まで登ってきたのに、その梯子をはずしてしまっているという問題です。

そんな事をするなら、最初から価値を価格の標準として論じることはなかったということになり、「近代経済学」では事物に内在する労働量としての「価値」を論じないのです。

マルクス自身は、価値を抽象的人間労働のガレルテとして規定し、これが商品の使用価値や、貨幣、資本の使用価値と膠着して、事物の属性として現象するために価値実体としての労働が隠蔽されることを説いてきたわけです。

「蓄積過程論」では、本来、価値の唯一の源泉である筈の可変資本の割合を減らし、不変資本の割合を増すことによって、つまり、資本構成を高度化することによって、不況を克服する資本蓄積の傾向を説いています。

その場合でも〔労働からの疎外〕に基づく資本の物神性、機械の価値生産の「倒錯」の観点があるのです。生産価格論は、蓄積論からの帰結として、資本構成比が高度化すれば、搾取率一定の仮定に立つかぎり、投資額に対する剰余価値の割合、即ち利潤率は低下する筈だという命題から出発します。
 マルクスは総資本としては利潤率の傾向的低下は避けられないと考えますが、個別資木としては、市場の競争原理によって利潤率が平均化するので、資本構成比の如何にかかわらず、投資額に比例した利潤を得ていると考えるわけです。その結果、市場の価格の標準になる生産価格は、可変資本の割合が平均より高い資本は価値以下、その逆は価値以上になるといいます。

しかし、決して無制約に乖離するのではなく、剰余価値がマイナスにならない範囲に限定されます。また市場全体では総価格=総価値として全体としての価値法則の貫徹はあくまで主張します。

転形問題を論じる人達は、価値から乖離した生産価格への転形を前提として受け容れた上で、マルクスの論証の仕方を批判します。その中では、総価格と総価値の一致に否定的傾向が強いようです。そうしますと価値法則は経済法則としての貫徹が難しくなります。そこで、労働価値説には搾取理論としての有効性しか残らないということになってしまいます。

マルクスの転形の説明には色々不十分なところがあるでしょうが、経済学的な議論はともかくとして、マルクスはあくまで「労働からの疎外」を論じているのであり、その限りでの生産価格の価値からの乖離を説いているのです。

総価格=総価値を否定してしまいますと利潤率の傾向的低下も語れなくなりますので、〔労働からの疎外〕によって発展した資本制生産様式が、かえって〔労働からの疎外〕の結果、必然的に没落せざるを得ないという疎外論的な展開がてきなくなるのです。〔労働からの疎外〕を強調する観点からは、価格が労働量に比例して決まるようでは、疎外によって労働が隠蔽されることにならないのが不満になります。

価格の標準という意味では、価格は価値通りではなく、常に上下して価値から乖離しています。その意味では労働は隠蔽されています。市場法則の中でいかに貫徹しているかが見定められてはじめて、労働量による価値規定ができるのです。ところで、それでは資本家達は市場の動きを見定めて価値法則を利用することが可能になります。そうすることで、 〔労働からの疎外〕を克服しようとしたのが、古典経済学だったことになります。マルクスの生産価格論は、〔労働からの疎外〕によって価格の標準が価値から乖離するので、資本家達は個別的に最大限利潤の獲得に躍起になればなる程、総資本としては利潤率を低下させざるを得ないジレンマに陥り、決して〔労働からの疎外〕を克服できないと説いたのです。

マルクスは生産価格論やその帰結としての利潤率の傾向的低下法則を確信していたようです。しかしそれは〔労働からの疎外〕と〔資本の物神性」という方法論の先走りによるように思われます。「搾取率一定の仮定」や「資本移動の方向」などもそうならない場合についての考察が不十分で、説得力が足りません。競争によって利潤率が平均化するものと決めてかかっているような印象を与えていますが、利潤率は平均化する傾向を持っているとしても、あくまで一つの傾向に過ぎず、それによって市場価格の標準が決定するとまでは言い切れないと思われます。

むしろ、市場価格はやはり労働量に比例した価値を標準にしておいた方が説得力があったと思われます。資本家は資本構成比による不利を価値法則の枠内でカバーしていくというように競争を論じたほうが良かったのです。価格標準の価値からの乖離は、独占利潤の形成を論じる際にはじめて本格的に展開できるのです。何しろ、生産価格論の段階では自由市場が前提になるので、マルクスの予想と反対方向にも反作用が生じると思われるからです。そのバランスがどうなるかは机上では論じ切れません。

マルクスの場合、『資本論』 体系は、演繹的な、悪く言えば理念的な体系になってしまっています。もともとマルクスは「経済学の方法」で、叙述は演繹的な上向になるとしましたが、それは常に経済的な資料・統計から帰納的に抽象されたものに基づいている筈でした。従って『資本論』にはそれぞれの法則を裏付ける統計資料があって、その資料と法則との擦れをその国の事情から説明してあるように展開されているべきだったのです。
 ところが、価値法則も生産価格の法則もそれなりの統計的な裏付けによって展開されているのではないのです。論証のために使っている数字は、論証のために仮定したもので、決して現実から取り出したものではありません。ですから、利潤率の平均化の傾向は価値法則の枠内で不十分にしか実現しないのか、価値法則を蹂躙する形で実現するのかは、机上ではどちらとも言えない筈なのです。

等労働量に基づく交換から投資額に比例した生産価格に基づく交換へと、経済法則のパラダイムが転換していると「生産価格論」の意義を捉える物象化論者がいるようです。確かにマルクスも単純商品生産では等価交換が支配的であり、資本制生産が一般的になると生産価格に基づく交換が支配的になると考えていたようてす。とはいえ『資本論』 第一部・第二部では資本制生産を説明するのに等価交換を仮定しているのですから、単純に歴史的転化、パラダイム転換を説いてはいないのです。マルクスは、むしろ資本主義社会でもそれが商品経済である限り、労働量に基づく等価交換が行われる筈なのに、〔労働からの疎外〕 によって価値法則が蔑ろにされると考えたのてす。けれども、価値法則を蔑ろにした報いは必ず来るとも考えていたのです。その意味では生産価格による不等価交換は、等価交換の疎外された形態なのだと言いたいのです。

この物象化論者のように。パラダイムの転換としてだけ処理しますと、生産価格による交換法則が倒錯的な合理性を持つことになってしまいます。物象化論者は、資本家的な合理性の倒錯に気付かなかったり、気付いてもそれに満足していれば、資本家的合理性が資本制生産様式を再生産し続けるように捉えているようです。

このような捉え方には、『資本論』体系の中の絶対的窮乏化論や利潤率の傾向的低下論などの有効性がなくなり、逆に資本主義が国家と癒着してフィードバックを強力にしたことが背景にあります。このような物象化論者の見解は、『資本論』体系が〔労働からの疎外〕 による資本制社会の必然的没落論に立っていたことの反省からきているのですから、マルクスと今日の物象化論者の間には体制認識の方法に相当の開きがあって当然です。

マルクスの場合、労働を疎外する体制が、そのことによって逆に労働から疎外されて、労働から自立し、あたかもそれ自身で存立しているように物象化されるとします。この物象化された体制は、様々な社会的な事物から出来ていて、一見労働とは無縁に見えますか、それは疎外された労働が事物に癒着した結果そのように仮現しているに過ぎないと言います。

実はそれは人間の社会関係、労働の社会関係なのです。従って、この体制が労働からの規制を蔑ろにすれば没落は避けられないとするのです。物象の力、物象間の関係と思われているけれど結局は人間関係なのであって、これを変革すれは良いのだとする点では、マルクスは今日の物象化論者と共通しています。でもマルクスの場合は、体制の没落によるブ口レタリアートの自覚的な階級意識の形成というテーマと連続するわけですが、今日の物象化論者の場合には、倒錯的な意識の批判に集中しがちです。物象化論者がいくら倒錯だと指摘しても、倒錯ではないと考えたり、倒錯でも構わないとする人々には、倒錯批判は有効とは言えません。

そこでいきおい、倒錯性を自覚し、かつ倒錯的な関係に対する変革意識を持つ少数が高踏的に批判するか、孤立の中てラジカルに行動するかになりがちです。労働者階級の体制的包摂が、高度な情報管理による一網打尽体制にまで進んでいる今日では、既成左翼も新左翼も楽観的な展望は持てないでいるのです。

ところで、マルクスも含めて、物象化論者は、人間関係が物象間の関係になって現われるのは倒錯だとします。ですから彼らは物象化的倒錯を批判しているのでして、人間の社会関係が物象の社会関係に本当に成ると考える本物の物象化論者ではないのです。

フランスの物象化論はラングによるパロールの支配を取り上げているようですが、その場合もラングは人間関係の物象化といわれ、やはり倒錯論になっているようです。けれどもラングは明らかに音の差異の体系です。これが人間関係を表現しているのですが、人間関係を表現しているからといって、音の差異の体系でなくなるわけではありません。ここから人間関係だけを取り出したり、音だけを取り出したりは出来ないのです。音に換えて文字にすることは可能でしょうが、なんらかの物質が素材になっているわけでして、この素材の関係としてのみ言語としての人間関係は成立しているのてす。

ですから人間関係の物象化を一般的に倒錯と決め付けるのは問題なのです。労働の社会関係に関しても、現実的諸個人の身体的な実践の社会関係が、生産物の関係から取り出せるわけではないのです。労働は生産物の相互の効用連関、価値連関としてのみ社会関係に成り得るのです。

でもそれは物象間の関係になったけれど、同時に、それが人間の社会関係である事を決して止めるわけでもないのです。この面に注目して、マルクスはこれを人間の身体的実践としての労働に主体的に取り戻そうとしたわけです。

マルクスは、物は人間ではないのだから、物が社会関係を取り結ぶと考えるのは倒錯だという立場に立って感性的で超感性的な物、つまり、「社会的な物」=商品の奇怪さを指摘しています。ですから物であって人間(労働)であること、使用価値であって価値であることは物神性的倒錯であると考えたのです。

とはいえ、経済的な社会関係は事物の社会関係でしかあり得ないのですから、そこから事物を差し引くことは出来ません。我々は人間の社会関係を事物の社会関係として自然ごと丸抱えして背負わなければならないわけです。ということは社会的事物も我々の定在であり、身体的諸個人同様、社会関係を取り結ぶ主体だと認めることを意味します。人間的な意識は単に身体の意識であるのみならず社会的事物の意識でもあり、それらを包摂した社会的諸関係のアンサンブルとしての意識でもあるのてす。
 

    六、〔労働からの疎外〕と三位一体定式     

『メア・ヴェルト』でも『資本論』でも〔疎外〕タームは「収入の諸源泉(三位一体定式)」を扱うところに集中しています。〔労働からの疎外〕によって、資本の諸形態が〔本質から乖離〕し、相互に無縁なものとして疎外しあうといいます。

生産過程の内実が見失われ、資本が利子を生んだり、資本家の労働が価値を生んで産業利潤としての労賃を得たり(『メア・ヴェルト』の場合、土地が地代分の価値を産出したりする倒錯が生じるとマルクスは捉えています。すべての価値は労働者の労働のみが産み出すという立場からは、貨幣や資本の自己増殖や、土地の価値産出は擬人的倒錯としての物神崇拝に当たるのです。

『資本論』の「収入の諸源泉」では、三大階級つまり資本家階級、労働者階級、地主階級の収入を論じています。資本家は役じた資本に対して利子を得、労働者は労働を投じて労賃を獲得し、地主は土地を提供して地代を得ています。一見、これらの取り分はいかにも正当であり、倒錯的なとこらはないかに見えますが、それは 〔労働からの疎外〕の所為(せい)だというのです。労働者が労賃以上に剰余価値を生産しないことには資本家は利潤を獲得できません。当然、地主に地代も払えなくなります。生産過程を正しく見なければ、資本が利子を自力で生み、土地が地代を生んだと思い込んでしまうのだというのです。
 ところで、これらの〔資本の物神化〕も無理からぬ事だとマルクスは説いています。マルクスによりますと、生産価格が労働に比例するのではなく、投資額に比例するため、利潤は投資額を生産に上手に運用し、固定資本や流動資本を効率良く組み合せて用いた資本家の手腕によると思われるからです。

投資額に利潤が比例するので、不変資本と可変資本の区別を付けることは不可能ですから、労働者は労賃分だけ働いたことになるのは他の生産手段と同様です。また、地主は貸付資本家として有料の土地を貸し付けたのですから、それが利子として地代を生むのは当然のごとくです。そこで、資本家は地代を費用として利潤から差し引くことになります。
 『メア・ヴェルト』の三位一体定式は、貸し付け資本家が利子、産業資本家の労働が労賃、地主が地代を得ることになっていて、利潤の配分の仕方が論じられています。労働者はこの定式ては生産手段でしかなくなっているのが特徴です。これは生産価格論で不変資本と可変資本の区別を解消した帰結なのてす。

『メア・ヴェルト』と『資本論』の間の差異は形式としては大きいようてすが〔労働からの疎外〕 が資本、土地の物神性の原因として捉えられているのには変わりありません。大雑把にマルクスの経済学批判期の体系を〔疎外された労働〕に基づく〔労働からの疎外〕 による物神性という視点から見直しましたが、その結果、今日の物象化論者の〔疎外論の払拭〕という解釈ではとても説得力は無いことが分かります。

ですから疎外論に基づくマルクスの物神性論、物象化論と、疎外論を払拭した今日の物象化論者の物神性論、物象化論とではかなり食い違うことになると思われます。大それた事ですが、私はいつも、廣松さんと私の間にマルクスを入れて説明しています。マルクスは生産物に疎外された労働連関が膠着させられ、人間の社会関係が物象化すると説きました。そのことによって、客観的な価値法則の貫徹と、〔労働からの疎外〕による種々の物神性を説明するとともに、これを方法として投下労働価値説を論証したのです。

そこでマルクスの弱点は価値と事物の二元論とその帰結としての憑もの信仰です。廣松さんの場合は、物それ自体が事態の関数的な項の形而上学的な実体化による倒錯視だとされるので、その意味では、マルクスのような二元論と価値と事物の膠着関係も倒錯的なもので物象化に即した暫定的な議論にすぎないことになります。

たしかにあらゆる実在は、事態にすぎず、事態は相関的な関係として捉えるべきだという議論は領けますが、事態や関係は、それ自体総体として他の総体と対峙する場合は個別であり、この個別間の関係としてしか事態は生起しません。

その意味では関係は主体としての個別つまり物の関係としてしか把握できません。物を形而上学的実体と見なすのは少なくとも弁証法的唯物論とは無縁です。対立物の統一としての物は、相互に前提し合いながらも、互いに関係する主体として存在しています。

関数的な項としてしまいますと、関係自体が与件となり、直接的なものになるので、最早、媒介的な「関係」とはいえないでしょう。「事態」という表現はこの直接性にぴったりですが、如何なる事態かは直接性のゆえに言い表わせません。事態に対する言い表わし(ディスクール)、物語りは、事態の物象化であり、言語(ラング)の支配を結果する、だから事態の豊かな内容の感受を妨げるというディスクールも最近流行しているようです。

そのような言説の意義を認めるとしても、事態に論理的に対応しなければならない場合に、それを事物の関係として、つまり事態を構成している諸事物のそれぞれの関わり方として捉えなければなりません。廣松さんも事態に対するディスクールの必要を認められるからこそ関数的把握を説かれるわけです。

その際、事態の第一義性に固執されるためか、事態関数の項としての事物を、項の形而上学的実体化、物象化的倒錯視とされます。そうなると事物は事態の機能的な説明の仕方としての妥当性を持つだけで、事態関数を別の項で構成すれば、先程の事物は消失することになります。

事態をどんな項から構成するにせよ、それらの項がそれぞれの役割を発揮する主体であるからこそ事態としての存立も可能な筈です。その面から見直せば、事態は構成されたものとして媒介されて存立しています。事態という直接性は揚棄され、項間の関係が展開します。主体は項に移っており、だから、項は事物として捉え返されるのです。

関係は事物から自立したものではなく、また事物に対する憑ものでもないのです。関係は事物の関わり方として事物の属性に揚棄されているのです。こうして、対立物の統一として事態が把握されます。そうしますと、事態全体は再び内部に対立を含みながら、他の事態に対立するものとしては事物として措定されるのです。

廣松さんは、マルクスが社会関係がそこにとりつくとした物をも関係に還元されます。関係一元論、事的世界観の立場です。私は逆に社会関係をも物の関わり方としての物の属性と見なすのです。いわば社会的事物の一元論です。

もちろん社会的事物には諸個人の身体も含まれます。社会的事物の相互生産、相互流通、相互消費として人間的自然の再生産構造を捉えるべきだと提唱しているのです。ですから私の立場からは物象化一般が倒錯だということにはならないのです。いわば本気の物象化論なのです。

世の中には様々な倒錯現象があります。経済現象も生産過程が隠蔽されることによる倒錯現象が見られることはたしかです。かといって、価値が事物の属性であると見なすことや、事物概念それ自体が倒錯であるとはとても思えません。むしろそこまで倒錯だという理論こそ硬直しすぎて、倒錯に陥っている気がします。

最近言語に伴う倒錯現象を拡大して、言語による認識自体を倒錯と見なす傾向も見受けられます。それらの議論の示唆するところは大いに尊重すべきですが、認識概念自体が混乱して捉えられているのてはないでしょうか。倒錯論の倒錯性を批判すると長くなりますので、別稿で改めて論じたいと思います。

 

◎主要参考文献 K ・マルクス 『経済学批判要綱』 『剰余価値学説史』 『資本論』(大月書店 『マルクス・エンゲルス全集』より。(独語原文はディーツ版Werkeより。Grundrisse,Mehrwert, Das Kapital 参照)

廣松渉著『資本論の哲学』(現代評論社)廣松渉編著『資本論を物象化論を視軸にして読む』 (岩波書店)

保井温共著『人間論の可能性』(北樹出版)保井温著『人間観の転換−マルクス物神性論批判− 』(青弓社)
季刊 『クリティーク 8 [特集]論争・物象化論』(青弓社)




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