やすいゆたかのくすのき塾講演集

        ヤマトタケルと神功皇后―白鳥伝説でのつながり

                      後編  神功皇后伝説

        

1白鳥は食べられたか
  白鳥は高額姫に食べられて娘にとりつき夢を果たすや

            天皇系図 8〜15代 

大白鳥は葛城の山を越したのでしょうか。私は河内葛城で高額姫に出会って、彼女の中に入ったと思います。何を世迷いごとをとお叱りかもしれません。これはあくまでも物語の世界ですから、後の神功皇后伝説に繋げるためには、その方が都合がいいということです。

歴史講座だから歴史の真実を知りたいと言われるかもしれませんね。神功皇后伝説だって百パーセント作り話だという解釈が多いわけです。伝説というのは、現在では物証が残っていないわけですから、それが歴史的事実をどれだけ反映しているかは分かりません。ですからこういう英雄伝説を学ぶ場合には、そこから時代精神を汲み取り、どのような国づくりの動きがあったのかを歴史物語から読み解いていくということですね。

「大和は国のまほろば」と賛美していた大和に覇権を樹立したかったヤマトタケルは、白鳥になって大和に向かいますが、父帝はヤマトタケルの死にどう反応したでしょうか。『古事記』はそのことには触れません。ところが『日本書紀』ではやたらに悲しみまして、ヤマトタケルの東征の後をたどる旅にヤマトタケル没後十年経ってからでるというお話になっています。「自分の愛した子を思い偲ぶことは、何時の日に止むことか」と言って関東まででかけたのです。

 『日本書紀』では景行天皇は理想的に描かれていまして、
小碓命を大変愛されていたわけです。『古事記』のような熊襲や蝦夷に討たせようとするような冷血漢ではありません。ところで『日本書紀』はいわば国定教科書というようなもので、天皇中心主義の観点から天皇を美化しているのです。ですから父と子の葛藤などは描いていません。『古事記』はそれが描かれていますので、まだ人間味があって少しは信用できます。

 だとしたら景行天皇の東国巡幸は実は、東国遠征のような意義を持ったのではないかと想像できますね。もちろん遠征といいましても「言向(ことむ)け和平(やは)する」ということでして、説得して、従わせるということが中心です。ヤマトタケル没後しばらくして蝦夷が貢納を怠るなどまた離反の動きが強くなり、大王が自ら巡行せざるをえなくなったのです。それを『日本書紀』では愛した皇子の行跡をたどってというお話しに変えたのでしょう。

父景行(大足彦)天皇の後は成務(稚足彦)天皇が継ぎます。その後を男子がなかったので小碓命の息子の仲哀天皇が継いだことになっていますが、この継承関係はタラシナカツヒコ(仲哀(足仲彦)天皇)が小碓命の死後だいぶ経ってから生れているところから疑問の余地が残ります。それで小碓命が架空の人物だったという説明も成り立つわけです。その可能性もありますが、そうじゃなかったら、ここにごまかしがあるわけですね。小碓命の存命中に生れたのだったら、それだけの年数、仲哀天皇と成務天皇の在位が重なります。

仲哀天皇は筑紫の香椎宮にいて、成務天皇は志賀の高穴穂宮にいたのです。『日本書紀』では仲哀天皇は即位の翌年敦賀の気比の宮に行宮を建てて住んでいますが、オキナガタラシ姫を気比に残し、翌月には南海道の紀州に向かっているのです。それから熊襲退治だといって筑紫に向かいます。あとからオキナガタラシ姫を筑紫に呼び寄せます。これは実は成務天皇とトラブルになって畿内に居られなくなった事態を表現しているのではないでしょうか。

 いったいどうしてこういう内紛が起ったのでしょう。それは成務天皇の時代に国に国造、郡に郡長、県邑に稲置という長を定めて、豪族たちを縦組織に序列化しようとする大改革を行ったと『日本書紀』にあります。そんなことをすれば大混乱が起るのは避けられませんね。これで両朝鼎立になってしまったのです。

 ええ?それがヤマトタケルと白鳥とどう関係するかって? 仲哀天皇はヤマトタケルの皇子ですから、彼が大和を取れば、ヤマトタケルの思いが息子の時代に叶うわけです。でも仲哀天皇は香椎宮で死んでしまいます。その代わり 息長帯日売(オキナガタラシ姫(神功皇后))が妊娠した腹を抱えて新羅を征服し、その勢いで大和を攻め取るのです。

オキナガタラシ姫は神がかりになって行うのですが、それは実は(もちろん物語としてですが)ヤマトタケルの白鳥がとりついていたと思われたからです。というのが河内葛城に飛んでいった白鳥をオキナガタラシ姫の母だった葛城高額姫が追いかけたと想像してみてください。ところがその白鳥は猟師に矢にきずついたのか、墜ちてしまいます。ドラマとしては、白鳥ばかりに気をとられている高額姫に業を煮やして、オキナガタラシの翁が白鳥に矢を放ったとすればどうでしょう。高額姫は献身的に看護しますが思わしくありません。そして白鳥の頼みを聴きいれて、その白鳥を食べてヤマトタケルの霊を受け継ぎます。それをオキナガタラシの翁との婚姻によって娘にとりつかせたということですね。

ええ!?それは全くの神話で歴史ではないじゃないかと言われるかもしれません。残念ながらヤマトタケル説話も神功皇后伝説も歴史学的な資料はありません。神話的な伝説から歴史像を描くしかないわけです。つまり実証された歴史過程を尊重しつつ、神話の続きを書くしかないのです。

ただ誤解のないように願いますが、こういう霊信仰などの宗教ががったことを歴史的な事実として受け取ってもらうと困ります。そうではなくて、その後の日本歴史で重要な役割を果たします八幡信仰のいわれを理解するための、記紀神話の解読なのです。

それに日本人の伝統的な宗教意識の理解ですね。日本における霊信仰の特色などは記紀の読解が大切なのです。それを離れて仏教やキリスト教などの外来宗教の影響で、霊信仰もかなりずれてしまっているということです。

じゃあどうして白鳥を食べるという設定を私が想定したのでしょう。霊の引継ぎ方にはいくつかのパターンが考えられます。ひとつはセックスによって引き継ぐということですね。これは普通に親の霊が子供に引き継がれるやり方ですが、この世とあの世の往還もセックスの最中にあの世からやってきた霊を受け取って母胎に入れる形をとるのです。ただし高額姫の場合はオキナガタラシの翁との婚姻がありますので、白鳥とまぐわってオキナガタラシ姫を宿したという設定では困るのです。

首長霊の引継ぎでは遺体を共食するという風習が世界的にあるのです。日本でもヨモツヘグイという風習がありまして、首長の継承者が首長の遺体と共に過ごして墓の中で食事を摂ります。この古い形は首長の遺体を食べていたのではないかと想像されます。つまり首長の霊を遺体を食べることで引き継ぐということです。

 宗教的な霊の継承という意識から遺体を食べるという風習は、ごく最近まで「骨噛み」が行われていたことからも日本にも存在したと考えられます。白鳥の場合は、白鳥自体がヤマトタケルの霊ですから、高額姫の胎内にヤマトタケルの霊が宿るわけです。その状態でオキナガタラシの翁と結ばれますと、娘のオキナガタラシ姫にヤマトタケルの霊が宿ることになるのです。それでオキナガタラシ姫物語へヤマトタケル伝説がつながりますね。

 これはどうしても繋げないといけません。なぜならヤマトタケルの大和を取って平和な国をつくるという夢が挫折したままだからです。

        金剛・葛城山
 

2明日香へ駆ける少女

  飛ぶ鳥はいずこへ姫をいざなふやはるか纏向日代の宮 

さあ神話の続きですよ。そのつもりで聞いてください。オキナガタラシ姫は成長するにつれて白鳥を追いかけるようになります。母親の遺伝ですね。それにヤマトタケルの霊が宿っているのですから無理もありません。そして両親から不思議な白鳥体験を聞かされ、自分の中にヤマトタケルの霊が宿っていることを自覚するのです。

 またヤマトタケルの霊である白鳥が現れます。ええ?高額姫が食べちゃったのじゃないのと思いますね。でも骨まで食べられないのでやはり河内葛城の郷に白鳥の骨を骨壷に納めて埋めたのです。そこから十五年後位にまたオオハクチョウになって飛び立ちます。ヤマトタケル思いがそれだけ強かったので、またオオハクチョウに成れたのでしょうね。それが姫に手招きするように飛翔するわけです。それで葛城山を越えて御所から大和盆地を横断して 現在の桜井市穴師の明日香纏向日代宮跡まで飛んでいったのです。

                 

 

これは相当きついですね。葛城山から日代宮跡までは直線距離で20キロメートルほどありますね。普段から鳥を追いかけていたので足腰がしっかりしていたのでしょうね。それにしても鳥を見ながらですから、何度も何度もつまずいて足は血だらけになって走ったのでしょう。宮跡にたどり着いたときには倒れこんで起き上がれません。それを宮跡警備の兵士に助けられました。そこにタラシナカツヒコつまりヤマトタケルの皇子が住んでいたのです。もっともこれは私の創作ですよ。つまり神話的想像です。

当時王宮は現在の大津市の高穴穂宮です。小碓命の息子であるタラシナカツヒコは、王宮に居ますと帝位を伺っていると誤解される心配がありましたので、景行天皇の宮跡を守っていたという推理です。そこに白鳥に導かれた少女が血だらけになって倒れこんできて、歴史が大きく転回するのです。

神話的設定としては白鳥を追いかけるという話しが是非欲しいところですが、実際はどうでしょう。神武王朝の末裔であるオキナガタラシ氏と葛城氏が一緒になってタラシナカツヒコと同盟するために、オキナガタラシ姫を嫁がせたというところでしよう。

 ところがたちまち政争に巻き込まれて大和を脱出せざるをえなかったのです。書紀によりますと、国に国造、郡に郡長、県邑に稲置という長を定めて、豪族たちを縦組織に序列化しようとする大改革が行われたということですから、それをめぐる政争にからんでいたでしょう。そこで活躍していたのが 建内宿禰(書紀では武内)です。彼は何百年も政治の実権を握ることになる大人物です。それは有り得ないことなので、何代にもわたって同じ名前を引き継いだのでしょうね。

建内宿禰は、成務天皇と同い年で重用されていたといいますから、改革案をまとめたのは彼の業績でしょう。でもタラシナカツヒコが九州に逃れたとしますと、この改革で恨みをかって建内宿禰がクーデターで追い落とされたのではないでしょうか。

 成務天皇は建内宿禰の改革を支持していたと思われます。地方豪族を大和朝廷の官僚としてピラミッド的な縦の秩序に再編成するのですから。じゃあそれがなぜトラブルになってしまったのでしょう。それは抵抗勢力がタラシナカツヒコと建内宿禰が密かに手を組んで、大王の追い落としを図っていると誣告(ぶこく)したからと推理できます。

もっとうがった想像をめぐらしますと、抵抗勢力はタラシナカツヒコに先に誘いをかけていたのです。彼に「あなたはヤマトタケルの息子だから父の遺志を継いで政権奪取に決起しなさい」と働きかけたのです。でもその話しに乗らなかったので、建内宿禰とタラシナカツヒコの陰謀をでっち上げたということでしょう。

 建内宿禰はタラシナカツヒコの政権、オキナガタラシ姫の政権でも重用されていますから、筑紫に一緒に逃れたと考えられます。それで結婚したばかりのタラシナカツヒコとオキナガタラシ姫は筑紫に臨時政府を樹立したということですね。

 3筑紫政権と大和政権
 身は逐われ筑紫の国にありとてもこころはしのに大和し思ほゆ 

筑紫政権を樹立するには、当然筑紫の在地勢力の協力が必要です。この時代はまだ列島に統一王朝があったかどうかが議論の的になっているぐらいですから、地方の君といわれるのは地方ごとに王権を作っていたからだと想像されます。筑紫には筑紫王権、吉備には吉備王権ですね。出雲王権などもあったでしょう。それが大和王権に朝貢していたので一応倭による列島統一ができていたというのが通説です。古田史学のように九州王朝と畿内王朝は七世紀まで対抗関係にあったとする解釈もあります。

 文明は明らかに朝鮮半島を起点に、筑紫から吉備や出雲にさらに畿内へと東進したと考えられます。ですから邪馬台国も北九州にあったのが畿内に移ったと考えるのが説得力がありますね。ただし畿内の大和には既に別の王権があったようです。原大和政権ですね。『古事記』では大国主命が支配していたということです。

 邪馬台国の卑弥呼という名前が、日女巫女(ひめみこ)からきたとしますと、太陽崇拝のシャーマンだったと考えられます。つまり太陽神とその巫女は神がかりによって同体になります。天照大神と女王卑弥呼は、別々の体でありながら、卑弥呼は太陽神が人間になって現れた姿であるのです。としますと、卑弥呼の孫にあたるニニギノミコトの時代に、オオクニヌシの大和の国を攻め滅ぼしたことになります。しかしこの国譲りの後、筑紫の倭国の本体が東遷しなかったので、筑紫勢力の一部で物部氏の祖ニギハヤヒが東遷して、在地勢力と結合し、大和政権を建て直しました。

このニギハヤヒは三輪山を中心に太陽信仰を行ったのです。ニギハヤヒの名前が先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ みこと)いわれます。全国の太陽信仰の天照神社のほとんどは女神の天照大神ではなくて、ニギハヤヒを祀っているのです。ですから太陽神は元々は女神ではなかったのではないかと言われます。

 卑弥呼を『古事記』では神功皇后のモデルに使っているとも云われています。記紀は当然『魏志倭人伝』を参照していますからね。ですからオキナガタラシ姫にはアマテラス大御神が憑依します。ただし記紀は7世紀から8世紀に書かれたものですから、神功皇后時代にアマテラスが女神だったという証拠はないのです。

 筑紫に逃れて臨時政府を樹立する前に、『日本書紀』では敦賀に逃れています。もっとも書紀では内乱を認めていませんから、敦賀行きはタラシナカツヒコが即位してからになっています。なぜ敦賀かと考えますと、オキナガタラシ姫の 母方の先祖が新羅の王子の天日矛なのです。彼は太陽神の娘であるアカルメ姫を妻にしていましたが、アカルメ姫はドメスティック・バイオレンスに耐えられないといって新羅を逃げ出し、父である太陽神の故郷、つまり日の本であるトヨアキツシマに逃れます。

アカルメ姫を追って、天日矛は列島に渡来後、敦賀に拠点を築いていたのです。葛城氏一族は天日矛の子孫ですから、敦賀に拠点をもっていたのでしょう。タラシナカツヒコとオキナガタラシ姫は飛鳥から逃れて、敦賀に潜み、紀州などの南海道の海人の勢力と結合して、抵抗の基盤を作っておいてから、筑紫に移ります。

では筑紫勢力はどうしてタラシナカツヒコを受け入れたのかということですが、おそらく筑紫王権で王位継承でトラブルがあり、大内乱になりかけたので、熊襲タケルをやっつけた後、筑紫国の豪族たちと結びつきができていたヤマトタケルの息子であるタラシナカツヒコを一致して奉戴しようということになったのでしょう。熊襲の脅威が強まっていたこともあり、ヤマトタケルの息子が来れば、熊襲ににらみが利くという読みもあったでしょう。その要請に筑紫王権の宰相が飛鳥に到着して筑紫行きを要請していた時に、クーデター騒ぎがあり、筑紫王権の王位と、大和政権の臨時政府の大王を兼任することになったということです。これこそ渡りに船ですね。

    

     香椎宮は現在の福岡市東区にありました。

4熊襲より任那守るが先決

 熊襲より任那を守るが先決か神がかりして事を決せむ

さて筑紫の国に倭の臨時政府を樹立したタラシナカツヒコ(諡号は仲哀天皇)は、熊襲征討で手が一杯になります。彼は父小碓命つまりヤマトタケルに強くあこがれていました。それで白鳥の行くえにも強い関心を持っていて、全国の白鳥伝説を調べさせたということです。だからこそ熊襲タケル征伐をした父の偉業を引き継ごうと頑張っていたのです。

この熊襲の国は筑紫の国や大和の国と比較しても引けをとらないくらい強い国だった可能性もあります。筑紫の国が邪馬台国連合だったころ、狗奴国と戦争しており、卑弥呼はその戦争中に亡くなったということです。死因は明確ではありませんが、狗奴国はなかなかの強国だったようです。遺跡などを見ても南九州が特に未開だと言うわけではないという研究もあります。ですから一世紀以上に及ぶライバル国との戦争だったのです。

 小碓命の大胆な単身攻撃で恐れをなして、一時的に服属していたもののヤマトタケルが伊吹山で斃れたという知らせを受けて、筑紫や大和政権との戦争を再開したと思われます。タラシナカツヒコは実質的には筑紫の勢力だけで、熊襲と戦わざるを得なかったので、苦戦を強いられました。特に戦場は熊襲の地域が中心だったので、敵地での地の利の不利があります。いつまでも平定のめどが立たず、焦りが出てきました。

いい加減痺れを切らしたオキナガタラシ姫は、熊襲征伐に精一杯の夫に対して失望しました。彼女は、熊襲も征伐できないようなら、大和をとるというヤマトタケルの悲願を達成することなど到底無理だと判断しました。それに熊襲とも大和とも敵対してしまっているわけですから、余計に不利なのです。大和を手に入れることを第一義に考えるのなら、ここは一応熊襲と和平すべきではないかと考えたのです。そしてできれば屈強な熊襲の軍団を大和攻めに使いたいのです。

 それでもまだ大和攻めには不十分です。筑紫の国にきてもっとも驚いたのが大陸との交易です。この交易で戦費を蓄えて、最新の武器を調えれば大和攻めも可能ではないかということにオキナガタラシ姫は気づきました。でも現実にはそれは熊襲との戦争でなくなってしまいます。だから熊襲征伐は後回しにしようというのですが、現実に筑紫にとっては熊襲が仇敵ですから、なかなか筑紫の人々も納得しません。

半島の三国や任那からは多くの人が交易に渡ってきましたし、渡来人として住み着いていました。特に新羅の人々はオキナガタラシ姫が母方の葛城氏が新羅の王子だった天日矛の子孫だということで、親交を求めてきました。その話しでは新羅は宝の国で豊な富や進んだ武器があると言うことです。それに天日矛は本来なら新羅の王となるべき人だったということなので、世が世ならば葛城氏こそ新羅の支配者のはずだったのにと、残念にも思えたのです。

 当時、任那は倭国からみれば倭国の領域でした。でも任那側には自分たちが倭国の領域に入っているという意識はなかったのです。どうしてそういうずれが生じたのでしょう。邪馬台国連合の時代から任那は邪馬台国との交易を重視して、邪馬台国に貢ぎをしていたのです。だから邪馬台国にすれば任那は倭国内に含まれているとみなしたのです。

 任那や百済や新羅にすれば倭国は自分たちの植民地のつもりでした。倭国を開拓し、倭国政府に協力さえすれば、いくらでも開墾できる土地がありますので、豊かな暮らしができたのです。半島での戦乱をのがれ倭国に新天地を求めて渡来人となった人は多いのです。彼らは列島各地にコロニーを作って住んでいたようです。

 任那はいくつかの部族の連合体でした。まだしっかりした国家機構ができていなかったのです。高句麗が強大化するのに対抗して新羅、百済が建国されました。東の新羅、西の百済は両方から任那の部族を取り込んで勢力を拡大しようと働きかけを強めてきました。そこで任那の諸部族は、邪馬台国の時代からのつながりを最大限利用して、倭に出兵を求めて任那を維持しようとしたのです。

 当時の倭は筑紫の国のことです。『後漢書』「東夷傳」によれば倭の極南界が現在の博多付近の奴国だというのです。

建武中元二年(西暦57年),倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。」

つまり邪馬台国連合は極北界が任那で対馬も壱岐などを含み、北九州を全域を支配していたと思われます。その極北の任那は半島から金属や土木、農業技術を伝えてくれる拠点ですから、新羅、百済などからの脅威を退ける必要がありました。

任那からの出兵要請をめぐって筑紫の国では激論が戦わされたのです。熊襲との戦いはどうするのか、遠く海のかなたにどのようにして大軍を送るのか、しかも遠征軍がどのように地元の軍事組織を圧倒できるのかという問題です。

タラシナカツヒコは任那問題には関心がありません。熊襲を征伐して、その力で大和攻めをしたいということしかなかったのです。オキナガタラシ姫はにわかに活発になった半島遠征に胸を躍らせていたのです。新羅をやっつければ、祖先の天日矛の末裔として新羅王家を葛城家で引き継げるのではないかと、獲らぬ狸の皮算用です。

          

         四世紀後半の朝鮮半島      

沙庭という神に伺いを立てる儀礼が行われました。オキナガタラシ姫は自分にはヤマトタケルの霊が乗り移っていると信じ込んでいるだけに、大変神がかり状態になるのが得意なようでした。日ごろは可憐で控えめな女性を演じていますが、神がかりになりますと、踊り狂い、叫び声をあげますので、そのギャップが大きく、だれも神がかりを疑うことはできませんでした。

 彼女にはアマテラスと住吉の筒男という海の神が憑依します。夜の帳が下りてから、松明を焚き、そこで武内宿禰の演奏のもとに静かに舞始めました。しばらくしてから演奏がハイテンポになり、踊りも激しくなり、時折意味不明の叫び声をあげています。それがクライマックスに達しますと、庭にうつ伏せに倒れこみしばらく動きません。そしてヌックと起き上がって、「我はアマテラスなるぞ、筒男の神なるぞ」と叫び、大王に命令しようとします。『古事記』では後で
内宿禰に神の名を訊ねられて応えていますが、大王に号令をかけるためには先に神の名を名乗ったでしょう。

 アマテラスを持ち出したのは大王はアマテラスの御子だということで、神々に号令できる立場だったので、大王に命令できる神になるにはアマテラスでなければならないからです。筒男の神を持ち出すのは、海を渡らなければならず、大規模な海戦が予想されるからです。海の神の加護なしにはとても勝てる見込みはありません。

 大王が
内宿禰を通して「熊襲を平定し、大和を攻略する良い手立てをお示しください。」と神に訊ねます。大后オキナガタラシ姫は、神がかりしたまま応えます。「海の向こうに新羅という国あり。金銀をはじめとして目にもまばゆきくさぐさの珍しき宝がどっさりその国にはある。吾、今その国を大王に服属させてしんぜよう。」というのです。つまり先に新羅を征服して、その富で軍備を整え、大和や東征すればよいという意見ですね。

大王は大軍を率いて海を渡るなど想像もつきませんので、山に登ってみても新羅など見えないといって、半島との関係など眼中にないと神の命令を無視しようとしたのです。『古事記』では偽りを言う神だと思って琴の伴奏をするのを止めたとありますが、当時、半島や百済、新羅の存在を大王が本当に知らなかったとは思えません。近畿の大和にいたときでも既に渡来人はきていましたし、ましてや筑紫に着てからは、多くの渡来人との交流や半島との交易や外交があったはずだからです。

大王にすれば、海を渡って金属技術の発達した国と戦争して果たして勝てるのか、全く自信がなかったのでしょう。それより熊襲を平定して、その上で大和に向かうという戦略が最も堅実だと思えたのです。

 しかし筑紫の国は任那を失いますと、武器調達が滞ることになりますので、熊襲や大和との力関係でも形勢が悪くなります。それで筑紫の国に来ていた任那出身の渡来人たちは各自で任那の親族を救援しようと人員や物資を送り始めていたのです。しかし大王は任那に兵を出すことには反対でした。

 オキナガタラシ姫にすれば大王の態度はまことに優柔不断で煮え切らないようにみえたでしょうね。彼女は、任那の救援要請を新羅攻めの絶好のチャンスとして捉え、あわよくば半島での覇権にまで夢を膨らませていたのです。任那防衛に的を絞っていれば、半島は遠いので、長期にわたり、断続的に侵攻されますと、やがて守りきれなくなります。一気に新羅の本拠を攻め取る作戦が任那防衛の最良の策なのです。新羅を攻め取ろうとする覇気もなくて、どうして大和を攻め取ることなどできるでしょうか。

 「
この神の言うことを素直に聞けぬのなら、汝大王の支配できる国はどこにもないわ。さっさと黄泉の国にでも行かれるが良い。」とついにとり憑いている神の言葉としてですが、大王に「死んでしまえ」と毒ついたのです。大暴言ですね。その言葉で本当に死んでしまったのです。これにはびっくりですね。 建内宿禰が恐ろしがって伴奏を続けさせたのですが、その琴の音がしなくなって、よく見たら身罷っていたということです。

タラシナカツヒコはオキナガタラシ姫を恐れていたかもしれませんね。だって彼女は白鳥を追いかけて日代宮まで血みどろになりながら駆けてきたのですから、ヤマトタケルの霊を宿しているという話しには迫真性があったのです。その彼女に「死んでしまえ!」と言われれば、本当に呪い殺されるのではないかと、脅えざるを得なかったのです。

 それにしてもタラシナカツヒコはヤマトタケルの息子ですから、きっと凛々しい益荒男に違いないと嫁いだのに、「死んでしまえ」という言葉だけで本当に死んでしまうとはなんと情けない男だと、全く開いた口が塞がらない思いだったでしょうね。でも、まあ神がかりした神の言葉だけに言霊の力が強烈だったのかもしれません。

5姫ダルマと八幡神のいわれ
 吾胎に居ませし皇子が指揮をとり宝の国を攻め取りにゆく

オキナガタラシ姫は新羅征伐ということで、大変侵略的です。倭国の侵攻は朝鮮三国を震え上がらせるわけです。高句麗好太王碑文には倭国が海を渡って半島に攻め込み、高句麗の奥の方まで戦場になったということです。好太王が撃退したことになっていますが、その後新羅や百済は倭国に貢ぎをするようになりますので、倭国への畏れを抱いていたことになります。

            
              道後温泉名物姫ダルマ           

もっとも韓国や北朝鮮の学者は記紀のそういう屈辱的な記述を認めません。高句麗好太王の碑文でさえ、石膏で改竄したのだという学説が一時期罷り通っていました。私の親友の故藤田友治氏が『好太王碑論争の解明』新泉社刊で、改竄がなかったことを完全に証明しました。改竄があったというのは、当時の倭国には半島侵略の実力がなかったのに、海を渡って攻めてきたことになっているのは改竄だというのです。つまり倭国が昔から侵略していたことをけしからん、というのではなくて、昔から侵略していたとするのが気に食わないのですね。

倭人による侵寇に紀元前後から新羅が手を焼いていたことは『新羅本紀』にたくさん書いてあります。その倭人というのはいわゆる任那・加羅の住人だけでなく、対馬や筑紫からも来ていたらしいことは西暦二九五年に新羅王が重臣に、あまりに倭人の侵寇がひどいのでも、百済と結んで、倭人の国を攻撃しようかと相談したら、新羅は水軍がつよくないから駄目だし、百済は信用できないと言われてあきらめていることからもあきらかでしょう。

朝鮮、韓国の学者たちは侵略されてきたことを認めるのが悔しいのですね、それを近代史に移せばどうなります。韓国併合も強制でなかったことにしたり、近代化のために日本の支配を主体的に受け入れたことにした方が、悔しくなくていいことになってしまいませんか?それは断じて許されないのですから、古代においても倭国の侵略の事実と向き合うべきではないでしょうか?

倭の側の論理としては任那が脅かされていたので、任那が倭国連合に参加しているので、倭国に対する脅威とみなして、新羅、百済に懲罰を与えるのは正当だという論理です。『魏志倭人伝』でも半島の最南端は倭に属しています。それが基本的に続いていれば、倭国の攻撃には備えておくべきだったことになります。それに倭は任那の防衛だけが動機ではなく、宝の国の新羅に攻め込んで略奪したり、侵略するのが動機なのは、オキナガタラシ姫の神がかりの台詞からも明白です。

でもどうして倭軍は新羅を一挙に突くことができたのでしょう。筑紫から大量の船で行ったことになっていますが、それは当時の船では大変で、新羅を一挙に占領するだけの船団を送り込むのは難しいのではないでしょうか。

私の想像では任那に少しずつ渡らせておいて、現地の人と協力しあって任那で船を作って、任那から攻め込んだのではないでしょうか。もちろん海からだけでなく、ひそかに山からも侵入して撹乱したと思われます。海からの侵入だけで新羅を潰してしまうというのは、相当の船数が必要でしょうから。

それにしてもオキナガタラシ姫は、この新羅攻めに命がけだったのです。といいますのは彼女は身重だったのです。愛媛の名物に「姫だるま」があるのをご存知ですか。あれは「神功皇后」の「新羅征伐」の人形です。妊娠している女性には不思議な力があるという迷信もあるようです。それに妊娠しているのに女だてらに指揮をとったわけですから、その意気込みだけでも凄くて鬼気迫るものがあったでしょう。

ところで問題は、普通受精後十月十日で生まれますね。妊娠したのは秋九月五日の書紀の記事に「皇后は今はじめて身ごもっておられる」とあります。翌年春二月六日にタラシナカツヒコつまり仲哀天皇が崩御します。秋九月十日の記事に臨月になっていたとあります。臨月は七月の筈ですね。

さらにおかしいのは出征されるので生まれないように石をとって腰にはさんだとあります。事が終わって筑紫に戻ってから生まれて欲しいと出産を伸ばしたというのです。結局生まれたのは十二月十四日です。つまり出産は五ヶ月以上伸ばしたことになります。これは不自然なので、皇子は本当は武内宿禰の子供ではないかといわれています。実際 建内宿禰はよくホンダワケ皇子(応神天皇)の世話を焼いています。実の父だと納得ですね。でもそれではヤマトタケルの皇子の子を生むというオキナガタラシ姫伝説のぶち壊しですね。それに男系天皇制の神話が崩壊します。ともかく真相は別にして、日にちが合わないので、いろいろなお話を作ったのでしょう。

万世一系の男系天皇制という観念が神話なのですから、歴史的事実として信用する方がおかしいのです。それに血統云々はサラブレッドの世界では意味があっても、人間界でそういう論理が幅を利かせますとろくなことはありません。人間の貴賎は血統で判断すべきではありません。それに血統が伝わるとしても子には二分の一、孫には四分の一、曾孫には八分の一ということですから、全く取るに足りません。

戦闘の様子は記紀ともにほとんど記述がありません。共通しているのは船を運んだ波が新羅に高波として押し寄せたたということです。『古事記』では「ここに順風いたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれその波瀾、新羅の国に押しあがりて、既に国半(なから)まで到りき」とあります。高波で浸水したことはそれまでなかったので、新羅側は驚いてなすすべがなく、国中に軍船があふれたので、ほとんど抵抗できずに新羅王波沙寝錦は降伏したということです。

史実はどうかということですが、大陸側の史料では好太王碑文には倭の侵攻について、いくつか記述があります。

 
百残新羅旧是属民、由来朝貢倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民(□□□は欠落部分)

百済や新羅は元々高句麗の臣属していて、朝貢していた。ところが三九一年辛卯年、倭は海を渡り百済□□新羅を打ち破って臣下とした。
三九九年 多くの倭人が新羅に侵攻し、王を倭の臣下とした。
四〇四年、が帯方地方に侵入してきたので、これを討って大敗させた。 

この最初の侵攻はやはり新羅攻めだったのではないでしょうか。電光石火の海からの乗り込みと隠密裏の陸からの侵攻が噛み合って、一気に勝負がついてしまったと想像できます。この倭の勢いに恐れて、新羅は完全降伏で国王は馬飼いになると言って命乞いをしたのです。百済、高句麗も貢物をすると誓ったのです。

これで倭国は任那防衛を果たすと共に、三国からの貢物の約束を取り付けたということです。皇后は筑紫に戻って皇子を産んだのです。この皇子を誉田別皇子といい、後の応神天皇です。いわゆる八幡神はこの応神天皇です。八幡神社には応神天皇と共に神功皇后も祀っています。その後、この八幡神は母胎に居たときから戦に参加した生まれながらの戦の神として信仰されます。特に武家による信仰が盛んですね。

 天皇の祖先神としては神武天皇が祀られないのに対して、よく八幡神は祀られています。それは天智天皇、天武天皇の親の舒明天皇の和風号が息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)であることから想像がつきます。なぜ息長足がついたかさだかではありませんが、神功皇后の父方の息長足の家系ですね。舒明天皇は息長の家系だという意識が強かったのではないでしょうか。

それで八幡神は皇室の祖先神として祀られるのです。聖武天皇が大仏建立のために八幡神に平城京にきてもらったり、称徳天皇が道鏡を天皇にしてもよいかどうか伺いを立てたのも宇佐八幡だったのです。つまり天皇家としては祖先を応神天皇以前に遡るのはあまり自信がなかったのではないでしょうか。どうも仲哀天皇の子ではなさそうですからね。そうしますと神功皇后からの女系天皇制ということになります。

実際仲哀天皇が崩御してからじつに六十九年空位が続き、摂政の神功皇后が百歳で亡くなってやっと応神天皇の即位が実現しています。もし本当にオキナガタラシ姫が皇后のままだったら、息子に即位させてもいいわけです。神功皇后が実は即位していたからこそ、当時の慣習では大王は在世中は譲位できなかったので、誉田別皇子は即位できなかったということですね。記紀に記述するときに、彼らは神功皇后が当時の皇統の祖先だと感じていたので、最初を女帝と置くのを憚ったのではないでしょうか。 

6大和凱旋

 降参と言われて兵は有頂天その隙を突き騙し討ちとは

さていよいよ大和侵攻です。記紀は成務天皇と仲哀天皇の両朝対立を隠蔽していますので、成務天皇の志賀高穴穂宮政権を打倒する戦いが抜けてしまいます。もし成務天皇との内戦がないのなら、神功皇后が自ら新羅に攻め込んだのですから、新羅に居座って半島での支配の基礎固めをするところでしょう。すぐに筑紫に戻って誉田別皇子を産んだのは、内戦が気になっていたからです。

おそらく新羅攻めの隙に筑紫政権が攻められないように、畿内に潜んでいた仲哀天皇の皇子の香坂皇子と忍熊皇子が、ゲリラ戦や破壊活動を強めていたのです。それに山岳ゲリラが得意な熊襲と休戦しただけでなく、莫大な財宝を与えることを条件に同盟を結び畿内に送り込んだのです。それで破壊活動を平定に山中に誘い込まれた成務天皇を、待ち構えていた香坂皇子と忍熊皇子が見事に仕留めたのです。

オキナガタラシ姫の父である息長翁が動揺している朝廷内の豪族たちに工作して、香坂皇子と忍熊皇子を歓迎すれば、身分は保証し、内戦はなかったことにしようとうまく事態の収拾を図ったと想像されます。

 香坂皇子と忍熊皇子は内戦に勝利したわけですから、祖父ヤマトタケルの志を継いだ父仲哀天皇の想いを果たしたわけです。そこで問題は皇位の継承です。父の死は伏せられていたとはいえ、おそらく伝わっていたでしょう。摂政の皇后に子ができたので、誉田別皇子が皇位継承に最有力とはいえ、なんといっても生まれたばかりですから、当分皇位継承はありえません。そこでいつまでも空位というわけにいかないとすれば香坂皇子と忍熊皇子も有力候補になりますね。畿内政権をしっかり固めておけば、摂政が戻ってきてもなんとかなるかもしれないと考えてもおかしくありません。

そこで摂政のオキナガタラシ姫は、誉田別皇子に皇位を継がせるためには兄の皇子たちを片付けておかなければならないと思い、恐ろしい計略を立てたのです。大和に上る船に棺をのせ、誉田別皇子は既に死亡したといううわさを流したのです。まんまと計略に乗せられた皇子たちは、仲哀天皇の墓を明石に作るといって明石海峡で待ち構え、オキナガタラシ姫を討とうしていたのです。皇后は 建内宿禰に頼んで誉田別皇子を密かに和歌山に逃れさせていたのです。

決戦に備えて、香坂皇子と忍熊皇子の兄弟は猪狩りをして占いますが、兄の香坂皇子は猪に食べられてしまいます。それでも今更やめられないと忍熊皇子は難波の吉師部の祖先の伊佐比宿禰を将軍にして戦を決意したのです。

忍熊皇子側は棺を積んだ船を襲いました。するとそこからたくさんの軍隊が出てきて戦になったのです。ちょっと「トロイの木馬」みたいな発想ですね。それでその場では忍熊皇子側は撃退されました。いったん山城に逃げて態勢を立て直し、また引き返してきて戦いは一進一退の膠着状態になったのです。そこでオキナガタラシ姫の軍隊の将軍だった丸邇臣の祖先難波根子建振熊命は、ずるいことを考えます。

「オキナガタラシ姫が戦死されたので我々は戦う意味がなくなったので降伏する」と宣言し、弓の弦を切って降参の素振りをしたのです。大喜びになって武器を投げ捨てたのが伊佐比宿禰を将軍の兵隊たちです。きっと飛び上がって踊りだしたでしょうね。そして兵を退こうとしました。ところが実は建振熊命の軍は、結った髪の中に予備の弦を隠していたのです。それを番えて追撃に出たので、結局伊佐比宿禰を将軍の兵隊たちは総崩れになりました。

結局、琵琶湖に船を浮かべて忍熊皇子は、次の歌を歌って、伊佐比宿禰と共に身を投げて死んでしまいました。まだ少年だったかもしれませんね。
「いざあぎ 振熊が 痛手負はずは にほ鳥の 淡海の海に 潜(かづ)きせわな(さあ弟よ、振熊にこれ以上痛い目に合わされない間に、カイツブリのように近江の湖にもぐってしまおうよ)

こうしてオキナガタラシ姫は勝利して、大和の磐余(いわれ)に若桜宮を営みました。そして誉田別皇子を正式に皇太子にしたと書紀にありますが、皇太子という地位ができたのは七世紀だという説が有力です。恐らくそこでオキナガタラシ姫は大王に即位したのでしょう。でもこれでヤマトタケルの想いは果たして叶えられたのでしょうか?それは大いに疑問ですね。だってヤマトタケルは、熊襲や蝦夷との戦いの中から、ただ武力で押さえつけるのではなく、いかに自然を大切にし、自然と調和している熊襲や蝦夷とも共生して生きるかを学んで、和の精神に基づく国づくりを目指したのです。

ただヤマトタケルの霊や血を引き継いだというだけで、オキナガタラシ姫や誉田別皇子が力づくで政権につき覇権を握ったとしても、それが何だというのでしょう。そのために新羅を侵略し、成務天皇や忍熊皇子との内戦で多くの人命を奪い、卑怯なだまし討ちで政権を握ったわけです。これでは景行天皇よりましだとはいえませんね。

ともかく国のまほろばの大和にヤマトタケルの血と霊を引き継ぐ政権ができたわけですが、この政権は河内の開発が大きな課題になります。ですから誉田別皇子の墓もヤマトタケル白鳥陵や仲哀天皇陵の近くにあります。古市古墳群です。そして息子の大雀命つまり仁徳天皇の代になりますと、難波高津宮に移るのです。それは河内湖の治水という大事業があったわけでして、河内湖が増水して氾濫を起こすのを防ぐために、河内湖と大阪湾を結ぶ堀江を作ったのです。そしてこの堀江が難波津となり、その後の日本の玄関になっていくわけですね。その様子を白鳥たちは観ていたことでしょう。白鳥つながりです。古市古墳群図

 

古市古墳群配置図 (右図) 
 @津堂城山古墳
 A允恭陵(市野山古墳)
 B中津山古墳(中津姫陵)
 C応神天皇陵(誉田御廟山古墳)
 D仲哀天皇陵(岡みさんざい古墳)
 E墓山古墳
 F日本武尊白鳥陵
       

 

        

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