仏陀の教え

梵我一如

ドラビダの民が築きし文明も森の怒りに触れて滅びぬ
 吾が魂とコスモスを成す本体と一つなることいかで悟らむ
 プルシャからコスモスすべて生まれきぬ星見る時に吾は星なり

先生:花子さん、@(     )が築いたと思われるインダス河流域の都市文明は,何が原因で滅亡しましたか。

花子:アーリア人の侵攻によって滅亡させられました。

太郎:ブー。メソポタミア文明と同様にA(      )によって滅んだと言われています。その後にアーリア人によってバラモン僧を最高位にするB(   )(種姓)が形成されました。

花子:バラモン〔僧侶〕,C(     )〔武士〕,D(    )〔庶民〕,E(    )〔奴隷〕)が基本で細かく分かれます。それは「カースト制」と呼ぶのじゃなかった。    

先生:それは後に大航海時代になってからポルトガル人が当時インドに残っていたB(    )をそう呼んだらしいのです。バラモン教の聖典をF(      )と呼び,その中で奥義書を『G(        )』と呼びます。G(      )の哲学では宇宙の本体であるH(      )(梵)と個物あるいは個人の実体であるI(    )(我)が本来一つであるという「梵我一如」の教義が中心でした。

太郎:I(      )というのは各事物や各個人の中にある真実なものなのでしょう。

花子:それは尊いものだから、インドの人々はお互いに合掌するそうですね。

太郎:仏教でも仏になる可能性である「J(   )」をみんな持っているから尊いと云われますね。

先生:「J(   )」についてはじっくり考えなければならない大問題を孕んでいます。確かに各個物や個人には不滅の、そのものをそのものたらしめている本質があるわけです。それはI(      )と呼ばれ、宇宙の本体であるH(      )と究極的には一つと捉えられていたのです。これはバラモンが農耕祭儀を行う際,自然に対して呪術的に働きかける力がある事を論理化したもので,言わばオカルトの論理でした。

太郎:でもどうしてそういうことが言えるのですか。

先生:インドの神話に「K(    )(原人)」の話があります。それは世界の始めに存在する「人間」とか「男」という意味です。宇宙の万物はこの一人の巨大な人間から作られたことになっています。 神々さえも、プルシャの体から生まれたのです。また、口からバラモン(祭司)が、両腕はD(      )(王族)、両腿はE(     )(庶民)、両足はF(     )(奴隷)になったという説話です。

花子:なるほど、じゃあ万物はみな一つのしかも一人の人間からできているので、I(      )と)H(       )は同一だといえるわけですね。ところでアーリア人はインドだけでなく、ペルシアやギリシアにも入ったわけで、その思想にはいろいろ共通性が見られるのでしたね。

先生:ええ、たとえばI(       )はドイツ語のアートメン(息をする)の語源にあたります。元々「気息」の意味です。ですからL(     )とアートマンは元々同じ意味なのです。これがコスモス全体のアルケーと考えられていたのですから,ギリシアとインドは大変思想的に親近性があると言えます。 

太郎:両者の宗教思想的共通性には、M(      )(輪廻転生)思想があげられます。

花子:M(      )と甦りとはどう違うのですか?

太郎:輪廻転生というのは生まれ変わりです。また別の人格や動物などになって生まれ変わることです。そこで現世と来世で共通しているのは、同じ魂だということになります。それに対して甦りとはいったん死んでもまた生き返るという意味です。だから人格的にも同じ人間だと言うことになります。キリスト教でいう復活は同じ人間が死んでも生き返るということです。それに対してインドにおけるM(       )は現世のN(   )業が原因となって,次にどの境涯に生まれ変わるか決まるのです。ですから現世で善因を積めば,来世でより良い境涯に成れるわけです。

先生:六道輪廻説によれば,O( ・ ・  ・  ・  ・   )の六つの境涯(六道)を無限に生まれ変わることになるのです。もちろん生まれ変わったと言う記憶はありませんから実質的には、生命のつながりを自覚できるわけではありませんが。

花子:それでは「天」というのはどういう境涯ですか? 

先生:六道輪廻説はM(      )の思想の完成した形で、バラモン教というより、後に仏教思想の中で形成されたという解釈もあります。天は森羅万象を司るさまざまな神々の境涯です。神々も寿命は長いもののM(      )を免れないのです。修羅は怒りにとりつかれて,怒りから離れられない境涯です。畜生は理性を失ってしまって浅ましい境涯です。餓鬼は飢餓感に苛まれ続けている境涯です。地獄は鬼に責め苛まれている境涯です。               

太郎:六道に輪廻するということを,死んだらお終いじゃないからいいやと肯定的に捉えているのではないのですね。むしろ大変辛い苦しいこととしてM(     )をペシミスティック(厭世的)に捉えています。死んでもまた別の境涯に生まれて苦しみの生に耐えなければならないのはこりごりだというわけでしょう。                  

先生:それで、この輪廻転生する此岸から輪廻転生することのない彼岸へ,再び生まれない世界に到達することつまりP(   )を願って修行するのです。エレア学派やプラトンのイデア論と並べてみましょう。

インド思想                         

此岸

 

彼岸 

輪廻の世界
諸行無常

ニルバーナ(涅槃)

エレア学派                

現実

 

当為

有らぬものが有る感覚の世界
多様・変化・運動の現れる臆断の世界 

 

有るものは一者のみ

プラトンのイデア論

現実 

 

真実在

生成消滅する物体の世界

↑    影 

感覚+理性

 

  イデアの世界

      

     理性

 

問.上の@(    )〜Q(    )に当てはまる適語を次から選び記入しなさい。

解脱 ヴァルナ ヴァイシャ アートマン 森林の伐採 ヴェーダ ブラフマン ドラビダ族 仏性 プルシャ 天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄 プシュケー サンサーラ カルマ クシャトリヤ シュードラ ウパニシャッド 

                四門出遊 

苦しみのはてなき旅と知りたれぞ果てなむ際には恋しかるらむ
     今日もまた吾を譏りし人に会うときめく人には会えざるものを
     求めてもついに得られぬ苦しみを積み重ねてど老いぬるものか

先生:やがて小国家が覇権を競うようになりますとカーストの権威も揺らぎ,バラモン以外にも悟りを求めて修行する沙門が活躍します。その中から「@(    )」と呼ばれた自由思想家達が輩出しました。

花子:古代インドに自由主義が流行したのですか。

太郎:いや、そうじゃないでしょう。A(     )の教義に囚われないという意味ですよね。

先生:ええ、そうです。「外道」というのは正しい道に外れているということです。これはしかしバラモン教から観て、間違っているというよりも、後の仏教から観てまちがっているということでしょう。中身としてはA(      )に囚われていない教えです。その中で重要なのは、ジャイナ教と唯物論でしょう。仏教は彼等のような両極端を斥けることによって確立したわけですから。

花子:ジャイナ教は殺生を禁じていて、虫を殺さないように箒ではきながら歩くのですね。

先生:ええ、そのジャイナ教です。B(        )が開祖ですが、彼等はアトム論的な世界観で説明しています。魂のアトムは軽いので上昇しますが、物質のアトムは重いので落下します。すると物質のアトムが魂のアトムにくっついて煩悩が生じるわけです。この煩悩を振り払うためには魂のアトムを刺激し振動を与えなければなりません。そこで肉体を苦しめるC(   )を行いました。大きな針で刺したり、首から下を土に埋めたりしたようです。そうしますと魂のアトムが振動して物質のアトムが振り払われて、悟りに達するということです。

太郎:ゴータマも苦行をしましたが、体が憔悴するばかりで悟りを得ることはできなかったのでしょう。唯物論というのは古代インドでは快楽主義のことですね。

先生:そうです。古代インドではアートマンが死と同時に断滅するとする唯物論もさかんでした。それで生きている間に出来るだけ多くの快楽を得るのが偉いみたいな考え方が生まれ、特に性的快楽を最大限に体験することが大切だということになったのです。

太郎:そう言えばインドの古代浮き彫りには様々な姿のセックスが躍動しているのがありますね。

先生:しかしいくらたくさん経験したからといって、真理が悟れるわけではありません。そこで苦行と快楽の両極端を避け、瞑想によって悟ろうとする道がよいとされたのです。これがD(   )です。

花子:ところ仏教の教祖は釈迦と言われますが。釈迦は実は部族名なのでしょう。

先生:そうです。釈迦族の王子であったE(          )が出家後、釈迦と呼ばれるようになります。彼は、F(       )を体験し,出家しました。東の門からの外出で老人に出会いG(    )の存在を知りました。次の南門からの外出では病人に出会いH(   )の存在を知りました。三度目の西門からの外出では死人に出会い死の苦しみを深刻に見つめるようになったのです。そして最後の北門からの外出で出家僧に出会い,生死を越えたI(        )(涅槃)に至る修行をしていると聞き,出家の望みが抑えられなくなったのです。
 彼は十代で結婚して子供を設けていますが,それはいつ死ぬか分からないという不安から,せめて子供を遺しておこうとしたからだと言われています。彼は一切の苦しみの原因を突き止め,それを克服するために妻子を捨て,城を捨てて出家してしまったのです。

花子:それじゃあ残された妻子はどうなるのですか。あまりに無責任じゃないですか。

太郎:家族に対する責任、部族に対する責任に拘っていてはこの世の苦しみから逃れることは出来ません。地位も立場も責任もみんな捨てて、たった一人になって真理と向き合うのでなければ悟りは開けないということでしょう。

先生:それは断腸の思いだったでしょうね。ゴータマ王子が去ったために、釈迦族は衰退し、侵略されてほとんど皆殺しにされています。何時頃から「釈迦」とか「釈尊」と呼ばれるようになったか分かりませんが、釈迦族を見捨て。死なせてしまった哀しみを背負い、一族の命を背負って修行したのです。

太郎:それで彼は生きとし生ける者つまりJ(   )全てを救うという普遍的な立場にたとうとしたのですね。

先生:人間の苦しみは生老病死だけではありません。嫌な人に会う苦しみ、これをK(      )と言います。愛する人と別れる苦しみ、これはL(      )です。求めても得られない苦しみは、M(      )です。そして肉体から生じる苦しみ、N(      )があります。このような四苦八苦は全ての人々の苦しみなのです。これを解決して自分だけではなく、全ての生きとし生ける者を救うことが大切なのです。

問.上の@(    )〜N(    )に当てはまる適語を次から選び記入しなさい。
怨憎会苦 衆生 ヴァルダマーナ 苦行 中道 愛別離苦 四門出遊 老苦 バラモン教 五蘊盛苦 ゴータマ・シッダルタ  六師外道 病苦 求不得苦 ニルバーナ

初転法輪 

 哀しきは飢えたる虎か生きむとて人の肉さえ喰らいし人よ
     苦しみのその源をたずぬれば我に拘る心うずけり

花子:悟りは彼岸への@(   )でもあるわけですね。菩提樹の下で静かに瞑想して悟ることを瞑想による@(   )といいますが、私はそれは表向きのことで、何か凄く深いショッキングな体験が無ければ@(   )には到底到達できないと思います。その意味で手塚治虫の劇画『ブッダ』では、飢えた虎に自分の体を食べさせる沙門の話が出てきますね、それが大きなきっかけになったような気がしますが。

先生:それは鋭い解釈ですね。虎が飢え苦しんでいて、自分だけでなく虎の子供たちに食糧を与えられないわけです。その苦しみを思えば自分の肉を食べさせようということです。それは食物連鎖ですね、生命の循環です。人間は食べることしか考えないで、食べられることを知らない。それでは大いなる生命の循環が成り立ちません。大いなる生命の循環を自分自身の身に引き受けることによって、人と虎の区別、人間と自然の区別を克服し、宇宙の摂理であるA(    )(法)と一体化できるわけですから。

太郎:あの虎に我が身を食べさせる話は実は、人に我が身を食べさせる話を変形したものなのでしょう。そんなことを聴いたことがあります。

先生:それは更に鋭い解釈です。本当はなかなか虎に同情して食べられてあげるというのはあり得ないことです。確かに理屈では生きとし生けるものつまりB(   )には動物も入るわけですが、できないことでしょう。ところが飢えた人々が目の前にいる場合にはどうでしょう。生き残るためには、何もなければ、先に死んでいく人の肉を食べるしかないのです。そこで自己一身の生死にとらわれない沙門ならば、自らの肉をB(   )に食べさせることもできるのです。その姿に触れて、ゴータマは真のC(   )やA(  )との一体化を学んだかもしれません。

花子:でもどうして虎に食べさせる話に変えられたのですか。

太郎:そりゃあ仏教がカニバリズムを奨励しているように誤解されては困るからでしょう。

先生:そういう体験があったにしろ、とにかく瞑想によって@(   )して「D(    )」つまりE(   )になってから初めて説いた教えを「F(     )」と呼びます。その中に「G(   )・H(   )・I(     )」の教えが含まれます。H(    )(したい)とはJ(   )・K(    )・L(   )・M(   )の四つの真理です。仏陀は先ず人生が四苦八苦に満ちているというN(      )の自覚から出発します。

花子:何か自分だけが苦しんでいると考え,世間に対して僻んでいる人がいますが,人には人それぞれの不幸があって,それぞれの苦悩を生きていると覚れば,少しは楽になり,妬みや僻みがとれて素直に生きられますね。

先生:苦の生じる原因を,仏陀はO(  )にあると説きました。この真理がK(   )です。

太郎:O(  )と言えば、つい愛情に飢えていることかと思いますが、そういう意味ではないのでしょう。

先生:「愛」は執着するということです。それで「O(   )」は欲しがって執着することなのです。人はいたるところで対象にO(   )します。快楽を求め,個体の存続を求め,権勢や繁栄を追い求めるO(  )に囚われているのです。このO(   )を放棄し,そこから離れることができれば当然,O(   )が原因になっている全ての苦から脱却できるのです。これが苦の止滅の真理であるL(  )です。ではどうすればO(    )から離れ,苦を止滅できるのでしょうか。その修行法がI(    )だという真理がM(  )です。

花子:I(    )は正見(正しく見る),正思(正しく思考する),正語(正しい言葉で語る),正業(正しい行為をする),正命(正しい暮らしをする),正精進(正しい努力をする),正念(正しい心配りをする),正定(瞑想によって心を正しく統一する)の八項目から成り立っていますね。この場合の「正しく〜する」とはどうすることですか。

先生:つまりE(  )が説かれた教えを常に念頭におきながら,常にA(    )求め,A(   )に従って生きることが@(   )への道なのです。

太郎:でも人間生きている以上,欲望を充足しなければ生きられませんし,O(  )を離れることは不可能な筈です。E(  )は自殺を勧めているのでしょうか。まさかそうではないでしょう。

先生:我々は生きている以上,欲求を充足させ,自己の生存を保って生きていくべきです。でもその事に囚われて,自分の生命,自分の欲求,自分の家族,自分の友人,自分の恋人,自分の財産,自分の地位や名誉,自分の仕事,自分の自分の為に生きていたら,それらを失ったり,うまくいかないことから様々なP(   )に苦しむことになります。O(  )を離れるとは、そういう自我への執着を離れて自然体で生きることです。

問.上の@(    )〜P(    )に当てはまる適語を次から選び記入しなさい。
八正道 煩悩 慈悲 渇愛 衆生 道諦 中道 仏陀 滅諦 初転法輪 ダルマ 四諦 目覚めた人 苦諦 一切皆苦 解脱 集諦

縁起の思想
    
綾藺笠探しているうち日が暮れて白髪かきて闇をさすろふ
       縁に触れ全ては起り滅するや生まれし身ゆえ死なざるはなし

太郎:我に執着するなと言われても、社会の中ではしっかり主体性を確立して生きなければなりませんし、自分をなくしては流されてしまいます。

先生:しかしその我というものがどういうものかを不問にして、自我を確立しても、有限な数十年の命は瞬く間に過ぎ去ってしまいます。では一体この執着している自分=我(アートマン)とは何でしょう。山本周五郎の小説では、五十年前の自分も存在して居なければ,五十年後の自分も存在していないのです。悠久の時の流れのほんの刹那の出来事に他ならないというのが個体的存在の実相です。「自分の〜」にこだわる事,つまり@(  )は,個体的存在をあたかもA(         )のごとく捉える迷蒙だと仏陀は覚ったのです。

花子:では個体的な自分の存在に自我を見出すのではなく、何に自我や主体性を見出せばいいのですか。

先生:まず個体的な自我がそれ自体では存在しないということ、このB(   )の真理を覚ることが大切だと言うのです。仏陀によれば,実体的にそれ自体で存立しているものつまりC(  )を持つものは一切無いのです。一切の現れはD(  )によるものです。これをE(         )として説明しました。この五蘊とはすべての現象はF(  )(物体的エレメント)・G(  )(感覚的エレメント)・H(  )(表象=イメージ的エレメント)・I(  )(実践的エレメント)・J(  )(認識的=イデア的エレメント)の五つのエレメントから成り立っているというです。これらは五つのスポットライトのようなもので,一つでも焦点が合わなければ像を結ぶことはできないのです。五蘊の焦点が合っている刹那だけ森羅万象が存在しているかに見えますが,それは仮和合に過ぎません,実体的には全てはK( )なのです。ですから縁に触れて生じた物は,その縁によって滅するのです。このD(  )の思想は,個体や事物をそれ自体としてはK( )で,L(     )関係的存在として相対的にのみ捉えるM(       )の典型です。

太郎:説明が難しすぎてピンときません。縁起の分かりやすい説明をお願いします。

先生:これは失礼しました。センター試験の過去問の中に縁起の用例を見つけましたから、紹介します。昭和59年の追試験です。
本文「仏陀はaもろもろの事物・事象の、ありのままの真のありようはつぎのようなものであると説いた。bいかなる事物・事象も、それ自体としては独立に存在することはできない。それらは相互に依存し合って存立している。」下線部aは@法(ダルマ)A徳(アレテー)B知(ソフィア)C業(カルマ)E愛(アガペー)のうちどれですか。

花子:ギリシアやキリスト教関係を除くと法(ダルマ)と業(カルマ)しか残りません。カルマは人間の業ですから事物の真のありようには相応しくないのでやはり法(ダルマ)ですね。

先生:ピンポン、正解です。下線部bがだから縁起にあたります。問3を太郎君読んでください。

太郎:下線部bに述べられている内容の説明として適当でないものを@〜Dのうちから一つ選べ。
@すべての事物・事象は、原因と結果の関係のなかにあって生起し、かつ消滅する。
A事物・事象は、なんらかの条件があって生起するのであり、条件なくして存在するものではない。
Bもろもろの事物・事象の究極は梵(ブラフマン)であり、梵は、本来、我(アートマン)にほかならない。
C網の結び目が互いにつながりあって、網を作っているように、すべての事物・事象はつながりあってできている。
D「これあれば、かれあり、これ生ずるがゆえにかれ生ず。これなければかれなし、これ滅するゆえにかれ滅す。

Bがバラモン教のウパニシャッド哲学ですから、Bが適当でないのですね。といことは原因・結果や条件や連関や相互依存的関係によって、全ての事物・事象は存立しているので、それ自身で存在しているのではないという事が縁起なのですね。過去問をやれば整理できますし、分かり易くなりますね。

花子:それに倫理の問題は「これは違う」というように、消去法が使えて、割と高得点が取れそうな気がしますね。

問.上の@(    )〜M(    )に当てはまる適語を次から選び記入しなさい。
識蘊 永遠不滅の実体 事的世界観 想蘊  縁起 自性 五蘊の仮和合 色蘊 無我 受蘊 行蘊 空 相互依存的 我執 

四法印

うたかたは刹那に結び消え去りぬ吾が乗る船もかくのごときか
物は皆無常の理示したる法と呼びても過たずとや
涅槃とは欲の火鎮める心にて寂静なるは心安らか

先生:「@( )」はそれ自体としては存在しないのですから,@(  )という現象を引き起こしているA(  )のダルマ(法)こそが真の実在であり,そこに我々はアイデンティティを求めるべきなのです。

太郎:今まで個々人の自我が我として捉えられていたわけでしょう。ところが今度は宇宙の摂理が我であるということですか。それはまた飛躍した議論ですね。

花子:ウパニシャッド哲学では、宇宙の本体であるB(      )と個物の実体であるC(       )は同じものだということを覚っていたのですから、そういう実体を否定した上で、生成・消滅するD(   )こそ自分の真の姿だと捉えるのは当然ですね。

先生:仏教はE(    )という四つの真理にまとめられます。「F(     )、G(     )、H(      )、I(      )」です。F(     )は分かりますね。「G(      )」は諸々の現れは変化し、消滅するということです。「H(      )」の「法」は「物」を意味し,「我」は「実体」を意味しますから,この言葉は「全ての物には実体がない」という真理を説いているのです。このように「全ての物には実体がない」からこそもろもろの事象は止まることなくJ(   )し,消滅するのです。これが「G(      )」の法なのです。

太郎:どうして「法」が「物」なのですか。法は無常の真理、K(      )なのですから、いつまでもあり続けようとする「物」とはむしろ対極ではないのですか。

先生:でも結局は全てのものははかなく滅び去ります。栄華を誇ったハラッパーやモヘンジョダロも砂漠に呑み込まれました。釈迦族のカピラ城も廃墟です。いかに巨大な文明も滅びます。『新約聖書』で言えば「ソロモン炎上」です。現代に引き付ければ、ニューヨークの炎上ですね、人類も環境危機を乗り切れずに滅びるかもしれないし、地球も未来永劫に続くわけではないのです。

花子:つまり「物」こそ全ては滅び去るという「法」の現れであるということですね。そして自己も「法」の現れだということでしょう。

先生:自己を殊更法と区別し,自己に固執することがいかにL(  )(法に対する無知)によるかが分かります。自己も森羅万象も包摂した法の立場に立つことによって,生きとし生けるものとの一体感であるM(   )の境地に到達できるのです。そしてこの自己の生死を離れた心穏やかな境涯がN(          )(涅槃)なのです。

太郎:涅槃と寂静はどう違うのですか。またそれらは死後の世界なのですか、それとも生きていく際の心のあり方をいうのですか。

先生:これはいい質問です。アートマンは不滅であるという立場にたって考えますと、死というのはアートマンが肉体を離れて、別の境涯に生まれるわけです。ニルバーナに生まれるともう二度と生まれ変わらないと言われます。ところが仏陀は、アートマンを不滅の実体として認めないわけですから、涅槃寂静は生死に囚われない、心安らかな境地ということになります。涅槃は「欲望を吹き消した境涯」ですからストア派のアパテイアに当たり、寂静は心が何ものにも囚われず平静なのでエピクロス派のアタラクシアに当たりますね。

問.上の@(    )〜N(    )に当てはまる適語を次から選び記入しなさい。
諸法無我 無常 ニルバーナ アートマン 我 一切皆苦 無我の真理 諸行無常 流転 無明 慈悲 法 涅槃寂静 ブラフマン 四法印 

  サンサーラ

御仏はダルマと一つに成りたまひ衆生と共に輪廻重ぬや

花子:仏教では「@(     )」を本当に認めないのでしょうか。

太郎:不滅の実体としてのA(     )を認めないのだから、@(     )もありえないですね。

花子:しかし大乗仏教の経典には例えば『B(    )』では「久遠の本仏」は何度も転生しますし,『浄土経』にしても死後C(       )に転生するということですから@(     )を前提にしているようです。

先生:仏教は一つの思想で括ることはとても不可能で,実はゴータマ・シッダールタの悟りの内容も,復元は困難です。原始仏典と呼ばれているものにもバラモン教の傾向が強く残存していて,ブラフマン(梵天)は活躍します。またゴータマ・ブッダは前世のことを憶えていて、多くのD(    )が伝えられています。ですから,@(     )の思想を脱却していたと断定するのは困難です。ただし思想史的には「四法印」に基づいて,E(      )にたって,@(    )の俗信を超克した事に意義が認められます。

太郎:なんだかいい加減ですね。E(     )に立ちながらも、@(     )が言えるような説明はできないのですか。

先生:ゴータマ自身はF(    )との一体化を自覚したのですから,森羅万象,過去・現在・未来のすべての生きとし生けるものの境涯を自己の内に包摂していると言えます。その意味でなら我々も含めて仏陀の生まれ変わりと言うことになります。ですからF(   )を真の我(アートマン)=大我G(      )と悟った仏陀にとっては,@(       )も広い意味では成り立つのです。つまりG(        )である仏陀はH(      )にありながら,衆生と共に生死を繰り返されるのです。『B(    )』などの大乗仏教は、サンサーラを重要な要素にしています。ただしその場合に、バラモン教的なアートマンのサンサーラときっちり区別できているか問題ですね。

問.上の@(    )〜H(    )に当てはまる適語を次から選び記入しなさい。
ニルバーナ マハートマン 阿弥陀浄土 法華経  サンサーラ ダルマ 無我の真理  アートマン 前世譚

         六波羅蜜
誰一人悩める民を救えずに、覚り顔なる小乗の僧
苦界にてもだえ苦しむ民おきて菩薩はなどて浄土愉しむ

花子:仏陀は一人ではなくて、たくさんいるとというのは本当ですか?

先生:仏陀は実は普通名詞です。輪廻を脱却して涅槃の境地に入った人は全て仏陀なのです。そして法を覚ったと自覚した人は,その内容をお経にしますが,その際,自分が@(     )に成ったように思い込んで,@(      )の伝記に事寄せて書くものですから,そこに出てくる弟子の名前も同じで,後世の人が読むと,困ったことに全部同一人物の著作に思えるのです。たとえば『A(    )』には『A(    )』こそが最高の教えで,それ以前の教えは方便だと仏陀が教えていますが,本当は@(    )がそう言ったのではないのです。

太郎:小乗仏教と大乗仏教にどのように分かれたのですか?

先生:仏陀の入滅後,教団はB(    )とC(    )に分裂します。そして様々なD(    )が成立しました。それらは厳しい戒律によって自己一身の悟りを求め,個人的に解脱して「E(    )」に成ろうとするものだったので、それではF(   )ばかり目指すことになり、小乗仏教と呼ばれたのです。これに対して,自利だけでなくG(   )も強調したのが大乗仏教です。縁起の思想に基づいて我執を捨て,衆生との一体感を得た宏大無辺な仏陀のH(  )を強調し,I(     )(生きとし生けるものの救済)を目指す大乗仏教が起こりました。

花子:縁起の思想がH(  )の思想の基底にあるというのはどういう意味ですか。

先生:縁起の思想では物事を連関において捉えます。それだけの孤立したものとは見なさないわけです。親は子との関連で親ですから、子を慈しみ育てるということが親なのです。子も親に従い、育てられ、親に孝養をつくすから子です。このように我と汝や主観と客観、人間と自然といった関係でも、断絶して捉えるのではなく、セットにして相互依存的に捉え、不可分で一体のものとみなすわけです。そこから無量の慈しみが生まれるのです。

太郎:大乗仏教では人間だけでなく生きとし生けるものがJ(  )するといいますが、修行しなくても覚れるのですか?

先生:仏陀は法(ダルマ)と一体化します。法の現れが物であり世界です。ですから諸々の事物・事象は仏陀の現れであるともいえるわけです。それで大乗仏教では,K(             )(一切の生きとし生けるものは悉く仏であるという本性を有している)の観点に立ちます。ですから個々のそれだけでは意識を持たないものも仏の現れであり、仏の身体のように捉えれば、L(   )を持っていると言えます。

花子:大乗仏教ではM(   )が活躍しますが、仏陀とはどう違うのですか?

先生:I(    )の為にJ(  )せんとする修行者が「M(   )」です。大乗仏教では菩薩としての誓願と自覚を持って「N(      )」の修行をすれば,誰でも仏陀に成れるとしたのです。「N(      )」の修行とは(1)O(   )(法や供物を与えること),(2)P(   )(戒律を守ること),(3)Q(   )(迫害や困苦を耐え忍ぶこと),(4)R(   )(修行に励むこと),(5)S(   )(精神を統一して安定させること),(6)(21)(   )(迷いを離れて,存在の実相を覚ること)の六項目です。

問.上の@(    )〜(21)(    )に当てはまる適語を次から選び記入しなさい。

衆生済度 精進 法華経 上座部 釈迦牟仁 六波羅蜜 智恵 部派仏教 持戒 慈悲 成仏 一切衆生悉有仏性 仏性 布施 菩薩 自利 大衆部 利他 忍辱 阿羅漢 禅定 

一切皆空

一切を空とさとりて何事も囚われず生く風の如くに

 太郎:我が家には仏壇がありまして、そこに二つのお経が入っていました。一つは『@(    )』もう一つは『A(     )』です。この二つのお経は大乗仏教のどの宗派でも通用するのでしょう。

先生:ええそうです。『@(    )』は『法華経』の一部でして、観世音菩薩にお願いすれば何でも叶うみたいなことが書かれてあります。『A(     )』は『般若経』のエッセンスです。これは日本にしか残っていないのです。般若は観世音菩薩の煩悩を超える智恵を意味します。「B(     ,      )」で有名です。

花子:「色」は感覚を刺激する「物」という意味ですね。「物は即ちこれ空であり、空は即ちこれ物である」ということは「空」はそれ自体で存在するものではないということで、関係において存在しているように思われているが、関係がなくなれば、何もないということですね。

先生:C(          )(竜樹)は,『般若経』の空の思想を理論的に基礎づけました。「色受想行識」のD(  )をエレメントにしてその仮和合で我が成り立っているだけで,我そのものはE(   )(実体性)がないという無我の真理が,四諦や四法印で説かれていましたね。

太郎:ええ、未だにひっかかっています。我にE(  )がないとしても我を確立しなければならないわけでしょう。仏教では無我ばかり説いて、我の確立は説かないのですか。

先生:仏教は煩悩から救うのですから、そのために我執からの脱却を説いたのです。自性を持つものとしての我を否定して、対象的な物や関係と一つになって生きる中に本当の自分の姿を見出そうとしたのでしょう。ところで部派仏教では我はたしかにE(  )がないが,D(  )の方はE(  )があると主張していたのです。しかし竜樹によれば、物質的エレメントである「色」もそれ自体で存在するのではなく,他のエレメントとの関連性においてのみ現れるのですから,やはりE(  )のない「空」だということです。だだし言語によって「色」を様々な事物として固定して捉えるので,事物がE(  )を帯びます。それと同様に「色受想行識」という言葉でD(  )を区別しますと,言葉で論じる限り,この区別がE(  )を帯びてしまうのだと言います。そこで瞑想などで自他の境界や言葉による境界を喪失させることによって,「F(     、     )」を悟ることが大切だというのです。これを悟ることで「苦」の原因がすべて消滅し,なにものにも囚われない,執着の一切無い涅槃の境地に到るのです。

問.上の@(    )〜F(    )に当てはまる適語を次から選び記入しなさい。

色即是空、空即是色 自性 観音経 五蘊皆空、一切皆空 般若心経 ナーガールジュナ 五蘊
 

                   唯識論

  マナ識のその底にあるアラヤ識、幾億年の記憶の蔵かは

花子:もし一切皆空が真理なら、空であるものどうしが関係しても空でしかないでしょう、事物として捉えられるのはおかしいように感じます。

太郎:空というのは自性がないということですが、無ではありません。関係的に存在しているという意味でしょう。

先生:たしかに様々な事象は物と物の関係として展開しますから、物が先ずあって、関係が成り立つと捉えられがちです。そういう物を空と呼ぶのが正しいかどうか大いに議論の余地がありますね。そこで物に自性を認めようとするのは,事物を意識と区別しようとするからだという考え方が出てきました。事物があり、その上でその事物に関する意識として意識を捉えますと、個々の事物が意識以前に存在するかに思い込まれてしまいます。

花子:なんだか眩暈がしそうな、難解な哲学的議論ですね。とてもついていけません。

先生:『@(    )』というお経に「三界は虚妄にしてただA(  )の作るところ」という一節があります。これに基づき, 全てを意識の様相変化として捉えれば,事物や自我を実体視する観方は根本的に乗り越えられるというのです。B(    )(無着)とC(        )(世親 400年〜 480年頃) がこの唯識論を唱えたのです。

太郎:つまり事物も元々は意識なのだけれども、意識と対極のように捉えられてしまうのは、どうしてかを唯識論は論じているということでしょう。

先生:その通りです。唯識論では次のように考えます。通常の認識では目・耳・鼻・舌・身の五官からの五識を「D(   )」が統合しています。意識の底にはE(    )(マナ識)というF(            )があります。これらの意識はすべて生命が受け継いできた意識の蔵であるG(       )から産み出されたものです。E(      )はG(    )から出て,G(      )に基づいて活動しているので,G(     )を「我」と誤認し,「我」をG(      )に固定し,実体化して不滅と考え,執着してしまいます。

花子:積み重ねられた意識というのは事物の記憶でしょう。それをどうして我として自覚するのですか。

先生:アラヤ識を我として誤認するというのは、そういう意識の蓄積が物事を判別する際の基準として機能するので、個々の意識は事物の意識でも総体として我として実体化されるという意味でしょうね。

太郎:総体が我とされると、個々の意識も事物として外に意識できなくなりませんか。

先生:それがアラヤ識に蓄積されている事物の記憶は、五官を通して入ってくる外界からの刺激によって取り出されるわけですから、外にある我に対するものとして意識されるので、事物として認識されるわけです。

花子:外からの刺激によるのでしたら、それは事物が外にあるとみなしていいのでしょう。

先生:それに対しては、こう反論できます。内と外という空間概念自体が、時間や質量、色彩、音、熱などと共に生理的な感覚的意識の解釈にすぎないということなので、すべて意識の様態なのです。でもね、このように意識の生成の構造を検討しますと,悠久の時間の中で蓄積されたものだけに、事物の実体化は、ただ知的な認識だけでは到底克服できません。そこでH(     )の修行を通して心身の境界,意識・無意識の境界を解き放つことによって行うしかないのです。それでI(    )とヨーガは表裏一体です。

花子:ともかく世界を人間の意識に還元しつくして展開したわけですね。まさしく仏教的観念論の極致ですね。

先生:それに人間の意識に還元しているという意味では、ヒューマニズムの貫徹の試みが窺えます。また現代の精神分析学の深層意識の分析や,フッサールなどの意識の現象学と比較してみるのもおもしろそうですね。 

問.上の@(    )〜I(    )に当てはまる適語を次から選び記入しなさい。
一心 ヨーガ 華厳経 ヴァスバンドゥ マナ識 アサンガ 唯識論 意識 潜在的自己意識 
アラヤ識

仏教的絶対平等
    
塵さえもウンチですらも御仏の慈悲の光に燦ざめくかな

太郎:意識の底にある物質も、法と一体化した仏の意識に還元していくのが@(   )ですね。それは、A(    )から宇宙万物も神々も階級も生まれたというバラモン教の説話を連想させますね。塵さえもウンチですらも御仏の慈悲の光に燦ざめくかな

花子:なるほど人間と宇宙は元々一体だったわけですから、意識する側はされる側について、元々自分自身を意識しているのだという意識があるわけですね。

先生:覚りによって法と一体化すれば、法の現れとしての宇宙万物も仏陀の現れだということになります。そこから大乗仏教の根本命題である「B(          )」が帰結されるのです。そこで仏陀の慈悲は生きとし生けるものに注がれるという仏教的な絶対平等思想が出てきます。

太郎:しかしそれは現実にある差別をなくせという平等ではなくて、どんな生き物だって、どんな階級だって、仏・法・僧のB(   )に帰依すれば救済されるという平等ですね。

花子:階級的な差別から脱却するには、階級を捨てて、世を捨てて出家すればよいわけでしょう。

先生:皆が出家したら社会が成り立ちません。そこで在家のままで修行する人もいたわけです。その際C(  )を守らなければならないとされます。

太郎:まず殺すなかれのD(       )、次に盗むなかれのE(      )、そして性欲におぼれるなのF(      )、更に嘘をつくなのG(      )、も一つ酒を飲むなのH(      )ですね。

問.上の@(    )〜H(    )に当てはまる適語を次から選び記入しなさい。

不飲酒戒 五戒 唯識論 不偸盗戒 プルシャ 不邪淫戒 一切衆生悉有仏性 不妄語戒
不殺生戒

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