第九節、宇宙人=操作人間 
                一、宇宙人としての現代人
 私が子供の頃ですから今から四十年近く前、『宇宙大戦争』という題名だったと思いますが、火星人が空飛ぶ円盤で襲来す
る映画がありました。円盤の端から強烈なレーザー光線を放ちますと、人間などは消滅してしまいます。その印象が強烈だっ
たので、よく光線にやられる夢を見たことを覚えています。どのようにして撃退したのか忘れましたが、ラストシーンで破壊
されて、もはや最適環境を維持できなくなった空飛ぶ円盤から逃れ出てきた火星人は、頭が大きくて、胴体は退化したのか、
ありません。蛸のような足が何本かついていました。
 火星人は、きっと便利な自動応答機械を使って、最適環境である宇宙船のような環境を作り出し、何でも機械に用を足して
もらっていたので、運動能力が衰えて、蛸のようなくにゃくにゃの足になっていたのでしょう。胴体がないのは小さな薬で栄
養を賄えるので消化、吸収等のための器官が必要なくなったからかもしれません。機械文明の更なる発展によって、身体的能
力が将来退化することを予想しているのです。

 現代人はあの「火星人」のように身体器官までも退化するには到っていませんが、空飛ぶ円盤の宇宙人と共通するところが
あります。自動応答機械があらゆる部面に応用され、いつでもお好みの環境を維持しようとします。空調装置は一年中駆動し
ていて、常に摂氏二十度前後の快適な温度と適当な湿度を保ってくれます。徒歩十分程度の短い距離を移動するのでも、面倒
がって空調の効いた乗用車を利用します。

 夏の暑さ、冬の寒さも享受してこそ自然人としての生命環境に生きる事になる筈です。一日の昼と夜の明るさや温度の変化、
一年の春夏秋冬の季節変化は、生命の健康なリズムを形成してくれるのです。自然が本来与えてくれる環境変化のサイクルに
慣れ親しむ事を拒否してしまっては、個体としての生命が、自然全体という生命から断絶してしまうことになり、従って自然
環境の破壊そして健全な生命力の枯渇を招くことになります。

 自動応答機械とはスイッチ操作一つで需要を満たしてくれる装置を指します。自動販売機や空調装置、テレビジョン、ワー
プロ、パソコン、各種のロボット装置等が含まれます。風呂や電気洗濯機なども自動化が進み、建物や家屋や乗用車全体がそ
のまま自動応答機械になりつつあります。それらは居ながらにして欲求を充足させてくれるので、人間の全能幻想を満たして
くれるのです。我々は次第に宇宙船の中に閉じ込められつつあるのです。いずれ「宇宙船」の中ではあらゆる体験が可能にな
るでしょう。大自然の中を旅したいとお望みならば、疑似体験装置のスイッチを入れて希望の自然環境を注文すれば、実体験
に劣らないリアルな経験をすることができるようになるのです。
                     二、操作人間
 最近、多くの若者はいつも耳にイヤホーンを装填していますね。ひどい人になると食事中や対話中でも、もちろん勉強中で
もイヤホーンを外さないんです。授業中に外さないと教師に怒鳴られます。もっとも大学などでは注意しない教師がいるよう
ですが。きっと自分の好きな音楽かラジオ番組に聞き入っているのです。これなどは典型的なシゾイド人間の同調的引き籠も
りです。一応みんなに同調してトラブルのないように参加だけはしているつもりなのです。でも全人格をかけて他人と交わり、
相手と苦悩を分け合い、喜びを共有しようという積極的な人間関係を結ぶぼうとする気持ちは、残念ながら希薄なのです。
 現代人=「宇宙人」は、自動応答機械とのコミュニケーションに大半の時間を費やします。自動応答機械は感情を剥き出し
にしたり、逆らったりしないので安心して関われます。いつも従順で対象喪失の心配もありません。それでいて我々が他人に
期待する以上の反応を返してくれます。人間の音声や映像などがインプットされているものもあり、あたかも本物の人間と関
わっているかのような錯覚を作り出してくれるのです。

 個人間の場合は、深く関われば関わるほど、アンビバレントな愛憎関係の緊張に堪えなければなりませんが、相手が機械で
すと、気楽に、気が向いたときだけ相手をして、後はスイッチをオフしておけばいいわけです。対人関係を避け、自動応答機
械との関係に没入しようとするのは、ある意味では引き籠もりですが、一人で瞑想に耽ったり、夢を見たりしている状態とは
違います。というのは自動応答機械には人間を代理する機能がありますから、「孤独感のない孤独」の状態だと小此木は呼ぶ
のです。自分の心に引き籠もるのを一、対人関係を二としますと、自動応答機械との関係は「一・五の世界」になるのです。
この世界に生きる宇宙人を「操作人間」と呼ぶのです。

 小此木によれば、一・五的な関わりが日常化し、最も適応しやすい心のあり方になってきますと、本来は一対一の人間同士
の対象関係までも一・五的なスタイルで処理しようとするようになるそうです。本来取り替えの効かない筈の家族関係や、恋
人や友人との関係も自己中心的に、スイッチを入れたり切ったりするように扱い、相手が自分の思い通り行かなくなって、独
立した人格としての交わりや承認を求めてくると、煩わしくなって、取り替えようとするわけです。
              三、〔機械=人間〕と〔身体=自然〕
  自動応答機械は機械なのに半人間として、家族や友人などは人間なのに半機械として扱われる「一・五の世界」は、人間
と機械が倒錯的に入れ代わる現実を問題にしているわけです。精神分析学ではあくまで人間は身体的存在であって、その意味
では機械は身体でないから非人間的存在なのです。ここに精神分析学の身体主義的限界があります。

 自動応答機械と人間身体の関係を見直しますと、果たしてどちらが人間存在で、どちらが自然存在でしょうか?人間を身体
に限定して捉えている限り、全く自明です。身体が人間存在で、自動応答機械が自然存在だということになります。ところで
自動応答機械を通して作り出される人間環境が、人間身体に与える影響を考えますと、一見、快適で最適環境のように思える
人工環境が、身体の生命力に与える弊害が問題になります。

 自然環境の保護が声高に叫ばれ、人間中心の考え方に反省が迫られています。自然環境を守る最後の手段は人間の絶滅であ
るなどという意見が、ペシミスティックに語られるようになりました。しかし自然環境が良いか悪いかを計る基準は果たして
何でしょう?まさかバクテリアではないでしょう。珍しい蝶々でしょうか?絶滅寸前のトキ鳥の生息数でしょうか?空気中の
有毒ガスの量でしょうか?結局は、人間身体に与える影響が少なければ、そのせいで他の生物種類が減少しても、自然破壊は
深刻だとは受け止められないでしょう。逆に他の生物には快適環境が生み出されても、その結果人間身体に致命的な悪影響を
もたらす変化は、非常に重大な自然破壊と受け止められるに違いありません。我々にとって自然とは、所詮人間的な自然なの
であり、直接的には人間身体とその生態系に他ならないのです。

 逆に自然的なものに対置される人間的なものとは何でしょう?人間の手のつけられていない自然に対して人間化された自然、
その極端なものが機械ですが、それこそ最も人間的な存在なのです。

 機械は人間が自然を一定の形に作り変える装置です。人間の実践的意思が、物質的な機構として定在している物なのです。
もちろん機械もマテリーとしては金属などで造られている自然物には違いありません。人間身体も人間の身体である以上人間
存在です。でもここで問題になっている人間対自然の自然環境問題に即して考えれば、むしろ機械が人間で身体は自然の契機
に当たるわけです。

 日向あき子は『イメージを読み取る』(講談社現代新書)で、機械と人間の共生を、古代における蛇と人間の共生に対応さ
せます。同じ人間と自然の共生がテーマでも、古代における蛇は自然を代表しますが、現代における機械はむしろ人間を代表
します。こうした人間的契機の取り違えは、人間の意識が人間の身体的な活動でしかありえないという思い込みに根を持って
いるのです。
                 四、人間の意識を生む構造
 人間の意識を生産する主体は人間の身体であるという面に固執しますと、意識をあくまで個体の意識として捉えることにな
り、幼児体験に精神的な疾患の原因を還元してしまう「原体験主義」に陥ってしまいます。これが精神分析学の根本的な問題
点です。しかし現実には人間の意識は、社会関係が自己再生産の活動の一環として生み出したものなのです。それは社会関係
に包摂された諸個人の意識だけでなく、社会的な諸事物の示す論理や関係としても存在するのです。

 人間の意識を意識内容から切り離して、脳髄の活動や自我の活動としてだけ捉えてはいけないのです。我々は目を瞑って、
様々なイメージや言葉を思い浮かべて思考します。その意味で、たしかに思考は主として脳髄の活動であると考えられます。
しかしイメージや言葉は元々事物に関して形成されたものです。ですから社会的な諸事物が脳髄を介して、自らの論理や関係
を定立しているのが思考だという面もあるのです。つまり「思う」とは「物思う」事なのです。これは「あはれ」が「ものの
あはれ」であるのと同じことです。
 思考過程を対象化する際、そこに意識主体としての自我をいちいち登場させるのは、思考の中断を意味します。自我が思考
しており、思考内容を産出していると考えるのは、自我を実体的に捉えているからなのです。この問題はホッブズのデカルト
批判で触れましたね。ホッブズは思考過程を、諸事物を代理する多くのイマジネーションの連結や並び替えとして捉えたので
す。つまりイマジネーションそれ自体の物質的な運動が思考なのです。自我とはイマジネーションを運動させたり、作り出し
たりする主体でも、活動でもないのです。イマジネーションがその人において示す繋がり方の傾向が、他の人の場合との比較

で一定の共通性や差異の特色を持っていることを、所有関係に準えて、実体化しているに過ぎないのです。
              五、人間・自然関係の見直し
 機械と人間の対置は正確には、機械と人間身体の対置なのです。身体以外の社会的諸事物と身体(身体も社会的諸事物に含
まれます)を含む総体を人間として捉え返さなければなりません。その構成要素はすべて人間の定在なのです。それらが互い
に働き掛け合い、相互に再生産し合う関係が社会関係なのです。
 開発によって非人間的な自然は人間的自然に組み込まれ、社会的諸事物に包摂されました。グローバルな規模で開発が進展
していますので、今や地球環境全体が社会的諸事物にオーバラップしています。その過程で自然の元の姿が大きく変形しつつ
あることが、自然破壊として問題になっています。しかし青い空や青い海、緑なす岡辺、沢山の動物たちの居る大草原や大森
林、澄んだ水が流れる街、毒されていない豊富な食料品等々、我々が目指している自然との調和や環境は、結局人間身体の健
康にとっての最適条件なのです。

 このような最適条件を生み出すには、人間個体的身体を破壊された環境から密室の人工環境に閉じ込めて保護するのではな
く、自然全体の人間化という段階を踏まえて、総体としての人間の生態系である地球環境を人間の持てる文化的能力を総動員
して最適化することです。

 実は身体=自然にとって人間環境を最適化することは、人間環境を構成する重要な要素である機械=人間を、身体=自然に
調和させることに他なりません。我々は機械文明を介してしか地球環境をコントロールする能力を持ちません。機械等の社会
的事物を含む人間として自然環境を身体に最適化させるという観点に立つべきです。

 ですから根本的には、人間存在を身体と機械等の社会的事物に分裂させ、前者を主体=目的、後者を非人間的な物として客
体=手段に固定していた関係を見直し、総体的な人間の両契機として、相互の働きかけ合いによって意識や文化が形成される
ものとして捉え返されるべきなのです。
              まとめにかえて 
  紙数の関係で詳しいまとめははしょりますが、小此木は現代人の精神病理の豊富な観察を通して、我々が直面している人間
的、社会的な諸問題を分かり易く、納得いく形で示してくれています。今後とも彼の人間観察の視点を学び、自分自身の様々
な心模様を解きほぐしていきたいと思います。本稿は人間論の一環ですから、彼の議論に関連して、精神分析学が持つ意識形
成に果たす社会的契機や事物的契機の捉え方の不充分さを詳しく記しておきました。小生の言わんとする「人間観の転換」の
必要性の一端をご理解いただければ幸甚です。
 
                                     ●第八節に戻る         ●目次に戻る