第八節、家庭のない家族の時代
                          一、ホテル家族
 家庭ではシゾイド人間たちは山アラシ・ジレンマから、互いに干渉し合わない関係ができています。無理に親密になろうと
したり、深い絆を期待しすぎますと、互いに干渉し合って、疵つけ合いもひどくなってしまいます。互いに無関心で引き籠も
り合っていた方が円満なのです。家庭はそれぞれにとって休養の場、憩いの場なのです。家庭に帰ってまでいろいろ意見され
たり、干渉されたのでは心が休まる場所がないのです。みんな適当な時間にでかけ、それぞれの都合の良い時刻に食事を取り
ます。それぞれにとって居心地がよければ良い家族だということになります。このような家族をホテル家族と言うそうです。
休養と憩いの場として家庭が主に機能しているからでしょう。
                          二、劇場家族
 山アラシ・ジレンマでホテル家族になってしまったのですが、それに到る前には、リヒターの分類によりますと、劇場家族、
サナトリウム家族、要塞家族などの形があったということです。これらの形の違いは家族の連帯感の作り方の違いからくると
いうことです。
 まず家族のみんながそれぞれの役柄を精一杯演じて、素晴らしい理想の家族ドラマを演じようとする劇場家族が挙げられま
す。良き夫、良き妻、良き父、良き母、良き息子、良き娘の演技を競い合い、互いを褒め合ってそれぞれ自分の演技に陶酔し
て幸福を実感するのです。
 一見、理想の家族のようですが、それはみんながお互いの期待に応えて、「良き〜」を立派に演じ、自分に相応しい家族だ
と認め合えなければ困ります。みんな現代人は自己愛人間なのですから「私の夫」や「私の妻」「私の息子」「私の娘」は、
私自身と同じように素晴らしい存在でなければならない筈です。でも現実問題として仕事に失敗すれば、「良き夫」や「良き
父」を続けることが難しくなります。息子も両親から褒められたいので、受験勉強やクラブ活動などで頑張るのですが、期待
されることによるプレッシャーもあって、良い結果を出せない場合が多いのです。
 期待通りの「良き息子」でなくなれば、本当は本人が一番疵ついている筈なのに、両親は息子自身のことよりも自分たちの
自己愛が疵つけられた気がして、息子を非難してしまいます。そうしますと息子の方は、両親は息子への愛情から勉強させて
いたのではなく、両親自身の自己愛の満足の為に、勉強を押しつけていたんだと、反撥します。実は「良き父」「良き母」は
演技に過ぎなかったんだと受け止めるのです。
 こうして「良き〜」の演技を続けられない状況になると、自己愛が剥き出しになって、家族に対する幻想が脆くも破綻して
しまい、家庭崩壊の途を辿りやすいのです。
                           三、サナトリウム家族
 家族を危険からの避難所、病気の治療所のように捉えている人たちがいます。彼らの家族を「サナトリウム家族」と呼びま
す。いつも家族の誰かが病気になったり、不幸な目にあったりするのではないかと心配で堪らないんです。一緒に心配し合う
ということで家族の団結やまとまりの基礎ができるんです。
 ただ身の安全、生活の保障だけを考えて、傷つかずに済ますことばかり気にして暮らしているのです。子供にはいつも交通
事故の注意、先生に叱られないようにする注意、苛められないようにする注意ばかりするものだから、子供は目立たないよう
な消極的な人間になろうとします。ちょっと咳が出たり発熱しただけで赤痢や肺炎じゃないかと大騒ぎするのです。結婚相手
を選ぶ時でも、できるだけ安全な結婚をさせようとするんです。素性の分かった地味で堅実な人と結婚しようとします。もち
ろん就職に当たっても、仕事の魅力では選びません。いったん就職したら一生安心というような仕事を選ぼうとするのです。
劇場家族が挫折して、子供が登校拒否を起こしたり、だれかに精神的な障害が生じたりして家族全体が深く精神的に疵つい
た体験があって、サナトリウム家族になったのかもしれませんね。

                           四、要塞家族
 被害妄想的に世間や周囲の人達を敵視し、その分だけ家庭内でお互いを美化してかばい合う家族を「要塞家族」と呼びます。
彼らは常に正しいのは自分達だと思っていますから、家族外の人達がいかに下劣で駄目な人間であるかを報告し合います。家
族以外の人達とトラブルが生じた場合は、自分たちは何と言われようが正しくて、悪いのは相手の方に決まっているのです。
世間の連中がいかに悪辣かは常々確認していることですから、たとえこちらに非があるような状況証拠が揃っていると指摘さ
れても、それは悪巧みに陥れられた結果に過ぎないと開き直ります。攻撃に対して身構えることによって家族の連帯が維持さ
れているのですから、自分たち家族に問題があると認めてしまうと、家族としてのまとまりや団結が失われてしまうと思うの
で、それはできないのです。

 息子が学校で問題行動を起こして呼び出された親が、きちんと指導できない教師の責任や無能力を棚にあげて、その被害者
である内の息子を攻撃ばかりしていると反撥することがよくあります。いじめっ子の親は、いじめられるのはいじめられるだ
けの問題をその子が持っているからだと開き直る事が多いのです。

 また社会的に孤立している人の家庭は、この孤立に身構えて要塞家族を形成することがあります。「学校でいじめられる子
供」「職場で同僚や上司と争って不適応に陥る父親」「PTAで仲間外れになる母親」などの家族は要塞家族になり易いので
す。

 やはり自己愛人間は全能幻想が強くて、自分の思い通りにならないことに対して強い欲求不満がたまり、他人に対する協調
性が欠けてきますから、何かと衝突を起こして、世間から孤立していきます。要塞家族が増えるのも当然です。
             五、四種類の家族の共通性
 小此木は、ホテル家族、劇場家族、サナトリウム家族、要塞家族の共通性を次の四つにまとめています。

「第一に、誰もが自分の家庭をとてもよい家庭だと思っている。この思い込みによって家庭に安心して頼っている。
第二に、こうした家庭のあり方によって、お互いの争いや傷つけ合いが起こらないように、うまく処理されている。(中略)
第三に、美化した家庭像をもったことによって、自分の家庭の欠点や見にくさは、見えなくなる。その結果、家庭への思い込
みを維持することができる。
第四に、それぞれの家族によって家庭はなくてはならないものになっている。」

 自己愛幻想は、自分自身を美化する傾向です。それは自分にとって一番大切な自分の家族を美化する形で現れます。それが
最も積極的に現れるのは劇場家族ですが、お互いを非難し合うことだけはどの家族でも避けようとします。シゾイド人間は山
アラシ・ジレンマを避け、自分の幻想に閉じ籠もろうとするのです。お互い醜いところ、悪いところは見ないようにして、良
いところだけ見て、褒め合ったり、慰め合ったり、励まし合ったりするのです。 
                      六、家族を支える論理
 精神分析学は家族関係が与える精神への影響を論じることはできても、家族関係が成り立つ論理それ自体は論じることは難
しいようです。様々な家族の形態が考えられますが、近代家族は、近代市民社会の成立による生産と消費の場の分離に基づい
て、専ら消費の場として家族が位置づけられたことによって成立しました。家族が成り立つためには衣食住などに必要な物資
を市民社会から調達しなければならないわけです。ところが家族自身には生産機能がありません。

 財産があればそれを売って、生活に必要な財貨を手に入れればよいのですが、そのうちに家産を食い潰してしまう事になり
ます。家産を元手に自己労働に基づく商工業を行って、利益をあげ、それで生活物資を手に入れる必要があります。特別家産
のない場合は、当然自己の労働力を売って賃金を得る必要があったのです。

 ところで市場での評価は期待通りにはなかなかいかないものです。投機や不正、金に任せた競争力、労働者に対する過酷な
搾取などで大儲けをするごく一部の特権的な資本家階級がいるのに対して、一般庶民は一日中汗だくになって働いても、苦し
い生活しか営めない場合が多いのです。しかし苦しいからといって働かないわけにいきません。そんなことをすると自分一人
だけでなく家族皆なが食べていけなくなるからです。逆に言えば、どんな苦しい仕事でも自分一人の為だけではなくて、家族
の為にもなると思えば耐えられるものなのです。

 市民社会においては市民はそれぞれが一としての存在でしかありません。つまり全体の何千万分の一、何億分の一の存在で
しかありません。「浜の真砂」の一粒、塵に過ぎないのです。もし家族がなければ自分を芥子粒のような存在として実感する
他ないわけです。
 市民社会の富全体の何千万分の一、何億分の一の富しか獲得できないのに比べ、家族にとっては、一家の働き手がもたらす
富は「貨幣の魔術」に媒介されて分業のほんの一端を担っているにすぎないのに、それで一家が衣食住のすべてを賄うに足る
だけあるのです。妻子にとっては決して何分の一ではなく、まさしく万物の創造主の如き存在であるわけです。ですから父は
家族にとって神の如き存在と言えます。神が「父なる神ヤハウェ」と表現されるのはそのせいかもしれません。

 一方、この関係は一家の稼ぎ主にとっては、家族が健康で成長してくれれば、家族の中ではかけがえのない存在として自己
の存在意義を確かめられるのです。まさしく家族によって塵から全能者に転化することになります。その意味で妻子は父を塵
から救って神にする「救い主」なのです。

 このように互いに聖化し合える「神聖家族」だからこそ、自己愛幻想を家族に転化し合い、互いを幻想的に美化する事にな
るのです。これは逆に市民社会が相互支配や敵対の関係になっていて、互いの人格を貶め合い、手段化し合っているからこそ、
その裏返しとして、家族は互いをかけがえのない存在として、いとおしみ合い、目的にし合っているのです。

 家族の幸福は、市民社会の冷たさに一緒に堪える共同体としての連帯感から生まれます。ですから市民社会の安定は、家族
関係の安定があればこそなのです。市民社会自身の再生産構造に家族が「貨幣の魔術」によって組み込まれ、自動安定化装置
の役割を果たしているのです。(共著『人間論の可能性』北樹出版参照)
                         七、家族の崩壊
 家族は冷たい市民社会に対して、肌を暖め合って助け合って生きるからこそ、充実した家庭の幸福を得ることができます。
ところが生活が安定してしまい、しかも一家の大黒柱が頑張る必要もなく、社会保障や生命保険等で稼ぎ手が例え死んでも、
えって収入が増えて生活が楽になるような関係になってしまいますと、本人も家族も互いを必要とし、聖化し合うような意識
が起こらなくなります。

 人格的な交わりを避け、適当に協調性を示しながらも、本音では引き籠もろうとするシゾイド人間の時代では、家族の対話
はほとんど形だけになってしまいます。自己愛幻想が強くて、自分に相応しい「良き夫」「良き妻」「良き息子」「良き父」
を求めていますが、この期待が崩壊しますと自分のプライドが疵つき、感情がもつれて疵つけ合うことになってしまいます。
山アラシ・ジレンマを経て互いに干渉し合わないように距離を置くようになり、それだけ精神的な絆も希薄に感じられます。

 自己愛幻想による全能感が強いと、決して取り替えの効かない筈の家族関係でさえ、自動応答機械と同様に取り替えが効く
ような錯覚に陥るのです。「良き家族」「暖かい家庭」の幻想が崩壊して、わがままな自己愛人間が山アラシ・ジレンマに疲
れ果てますと、粘り強く人格的な愛情関係、エロス的人間関係を再構築していく努力を放棄してしまいます。
          八、ネットワーク家族の時代
 最近のアメリカ合衆国では離婚率が過半数に達していると言われています。離婚することが普通になってきているわけです。
折角、家庭を造っても、一度は崩壊してしまうことを前提にやっていかなくてはならないことになります。アメリカ人はフォ
ーリンラブしたら、すぐに一緒になり、愛情が冷めたら、すぐに別れるというように、情緒的に行動してしまう性格があるせ
いかもしれません。

 元々結婚は生涯を共にするという神前で交わした契約に基づくわけですから、安易にこれに背くことは契約社会としての欧
米キリスト教文明の根幹に係わる問題を含んでいる筈です。『バイブル』では「神の結びたもうたもの、人これを離すべから
ず。」とあるのです。でも愛の無い夫婦は別れてもよい旨の記述もあり、離婚したがったヘンリー八世は、この解釈を巡って
ローマ教会と対決し、英国国教会を造って、その教義解釈権を握ってしまったくらいです。

 家族関係が本当に何物にも換えがたい程大切なら、安易に結婚すべきじゃないし、また安易に別れるべきでもありません。
でも実際、引き籠もりがちで自己中心的な現代人が、互いの人格を尊重し合い、欠点を許し合い、協調し合って一生を共に過
ごす事は、それほど簡単なことでも、当たり前のことでもなくなってきていると言えます。

 結婚、離婚、再結婚、再離婚を繰り返しますと、家族構成が複雑になってきます。父の連れ子と母の連れ子が新しい兄弟姉
妹関係を結ばなければならなると大変です。自己愛人間が血縁の無い兄弟姉妹と家族的な感情を抱いていくのは相当の努力が
必要ですが、その忍耐力は持ち合わせていないようです。父母も相手の連れ子を自分の子供として愛情関係を結ぶのは相当の
努力を求められます。もちろん組合せにもよりますが、簡単に離婚するような人なら、それだけの辛抱はできないでしょう。

 離婚の際に協議の結果、養育権を相手に渡してしまった血縁のある子供の事も気掛かりです。アメリカでは定期的に別れた
子供と会ったり、別れた相手の家庭を定期的に泊まり掛けで訪問したりする慣習ができているようです。その上、血縁のある
祖父母との関係は離婚後も続きますから、子供を巡る「ネットワーク家族」が形成されていると言われます。離婚の可能性を
前提にした夫婦間には一体感の欠如が深刻です。その犠牲となる親子感の断絶も厳しいと思われます。 結婚、離婚の繰り返
しは弱い立場の子供をますます追い詰めてしまうのです。しかしだからといって離婚せずに我慢しろと言っても、現代人は我
慢することが出来ない性格に成ってしまっていますから、それを無理に我慢させると精神衛生上良くありません。

 ですから結婚、離婚の繰り返しによる「ネットワーク家族」の形成とそれへの適応は、既にその是非を問う段階ではないの
です。いかにうまくその適応を成し遂げるかが課題であると小此木は指摘しています。いかにして「ネットワーク家族」の中
でエロス的交流ができるのか、自然人としての血縁的愛着はどう充足されるのか、いろんな試行錯誤が繰り返されことになる
ようです。

                       九、家族から共同体へ 
  「ネットワーク家族」は、夫婦とその共通の実子というこれまでの枠組みを破ります。血縁にこだわらない家族的結合の
可能性が試されるわけです。『孝経』では子は親の「遺体」だと言います。親は血の繋がった子の中に不滅の自己を見出すの
です。親孝行は、子が親の期待に応えて、親の遺体である自分の体を大切にする事に始まり、身を立て名をあげて家名を高め
る事に終わるとされています。血縁的結合、血縁による同一性の確認は家族制度の根幹を成していたのです。

 綿々と血縁が受け継がれる家父長大家族の伝統はなくなりました。しかし単婚小家族の場合も子が親の血を受けている事は
重要な意義を持っています。両親の愛の結晶としての子の養育は、夫婦の愛を再確認し、深め合う作用をします。「ネットワ
ーク家族」で血縁にこだわらない家族的結合になりますと、血の繋がらない親子や義理の兄弟姉妹の断絶が夫婦間の断絶の原
因になりかねません。

 とはいえ「ネットワーク家族」への適応が課題となった現在、血縁の原理に固執していられないのです。血縁の原理に固執
しないのなら、性行為の相手を固定する配偶関係を軸に家族を形成する必然性もありません。こうして配偶者同士が必ずしも
同居しないファミリィも可能性としては考えられます。そうなれば家族というより共同体です。
 家族的な同居を必要とする結合体が、擬似的な家族関係を造っている場合があります。キリスト教の新興教派の一つに「愛
の家族(ファミリィ)」があって、身も心も一つに融け合って共同生活を送っています。彼らは教団の内部でフリーセックス
を実践しているようですが、そのことは新しい家族のあり方として注目に値するとしても、セックスを布教や資金集めの手段
にしているとすれば、世間の顰蹙を買うのは避けられません。 

 宗教だけでなく、小劇団、工芸家集団、任侠団体、思想団体、研究団体、党派、共同企業その他で集団生活をその活動の一
環に取り入れるようになることが、ますます増えていくでしょう。その内、家計を共にする共同生活を基本にする社会集団が
続々と出現するようになるかもしれません。

 女性の社会進出が進展して男性同様に活躍するようになりますと、未来の共同生活団体も半数は女性になりますから、その
団体の中で親密な男女から子供が生まれ、集団的に育児をするようになると考えられます。

 共通の目標と仲間意識から、意気に感じ、全人格的なエロス的交流を求めて、新しい共同体、「梁山泊」に馳せ参じる人々
が増えますと、それらは高い労働意欲と創造力を持ち、知的刺激に満ちているでしょうから、市場経済の中でも高い生産性を
示すことができるかもしれません。そうすれば一定の社会現象として新しい共同体が、たとえ少数に過ぎないとしても、新時
代の文化を象徴することになる可能性があるでしょう。

 〔『家庭のない家族の時代』一九八三年、ABC出版〕
         
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