7青年期に関する理論

第二の誕生

先生・ルソーの「第二の誕生」を継承して,シュプランガーは「第二の誕生」の内容を自我の発見を中心に理解しているんだ。つまり自分という存在に目覚めると,自分がどのような生活を送るか,ライフプランが次第にできてくるんだ。そしてそれに基づいて学校に進学したり就職したりすることになる。個々の生活領域への進出をはかろうとするわけだ。

太郎・日本の場合どこの大学の何学部に進学するのかは予備校の模擬試験の結果の偏差値で決まりす。自分探しの成果としての自分に相応しい進路じゃないんです。

花子・それじゃあ,自我の判断に基づかない機械的なものだから,「第二の誕生」とはおせいじでも言えないわ。

marginalman

先生・青年期は子供にも大人にもどっちにも属していながら,正式にはどちらにも入れてもらえない。そういう性格をレヴィンはmarginal man(周辺人・境界人)と名付けたんだ。この位置の不明確さ,身体の急速な成長変化,所属の変化と不明確などで,強い緊張やストレスが避けられない。この過度の緊張は,激しすぎる自己主張の形を取ったり,またそうなることを恐れるあまり引っ込み思案になったりする。また逆に無理に自分を状況に押し込む過剰適応として現れる場合もあるんだ。

花子・帰属がはっきりしないことが不安な心情を生み,不安を解消しようともがき苦しんで,疾風怒濤の青年期を生むわけでしょう。何処かに帰属してしまうとおとなしくなっしまうのかしら。

先生・確かに大きな組織の中でしっかりした地歩を固めると,後は保身に回って創造的な仕事ができなくなる傾向はあるようだな。青年期とは別だが,大学でも非常勤講師の時期には独創的かつ野心的な論文を次々発表していた先生が,専任になると生活の安定が災いしたのか,すっかり筆も遅くなり,陳腐な内容の論文しか書けなくなったと嘆いておられることがよくあるんだ。

青年期の発達課題

心理的離乳

太郎・青年期が始まるときに,第二反抗期になると言われますがどうしてですか。

花子・それは学童期では家族とのつながりが優先していたのに,思春期では友達とのつながりの方を優先しようとするからでしょう。

先生・第二性徴で男であり,女であることが自覚されると,その意識を家族に向けるわけにはいかないから,友 達との関係が優位になり,自分たちの価値観で生きようとする。つまり親の精神的コントロールから逃れようとして反抗するようになるんだ。これは心理的離乳と呼ばれている。

太郎・フロイト的に言えば精神的親殺しですね。

ハヴィガースト

花子・ハヴィガーストは青年期の発達課題をいろいろ挙げていますが,何がポイントなんですか。

先生・親からの自立だろうな。性的役割や社会的役割を自覚し,精神的に離乳して,経済的にも独立しようする。

ピーターパン・シンドローム

太郎・大人に成りたくないというコンプレックスは,女性の場合,性的成熟を拒否しようとする形で現れます。でも男性の場合は社会的な責任や家族に対する責任を引き受けるのを拒否する形で現れまね。

花子・いつまでも生まれたままの姿で夢の島「ないない島」にいて,大人になるのを拒否するピーターパンのようだからダン・カイリーの「ピーターパン・シンドローム」というんでしょう。

先生・わりと子供のときには神童的に学校の成績はよくて,それで自分に自己愛幻想(ナルシシズム)に陥った男性が,何か自尊心が傷つけられるような事があると,自分の幻想の世界に閉じこもって,社会的な責任を引き受けられなくなってしまうんだ。

太郎・自分に対する幻想が強いとグレイドの低い仕事に就くのは難しいでしょうね。そういう人は進学や就職の度に,自分に対する幻想と現実の乖離でかなり打ちのめされるのでしょう?

シンデレラ・コンプレックス

花子・女性の場合の自立への消極的な姿勢は,いつか魔法のガラスの靴を持って王子様が迎えにくるのをじっと待っているシンデレラのようなので「シンデレラ・コンプレックス」と呼ばれているんです。

先生・その場合でも自己愛幻想(ナルシシズム)が前提になっているんだ。自分は王子様という最高のグレイドの男にこそ相応しいと思い込んでいるのだからね。

太郎・女性でも社会で活躍する意欲のある人はどんどん活躍したらいいと思います。でも女性は母性があって,家事や育児に向いているのだから,専業主婦に徹するのも素晴らい生き方だと思うのですが。

先生・たしかに料理を美味しく作る技術もたいしたもので毎日美味しい食事が食べられるかどうかは主婦にかかっている。そういう条件があるなら専業主婦もいいだろう。でも実際はほとんどの主婦が子供が学校に上がるころからパート・アルバイターに出て低賃金で不当に差別されているんだ。それなら社会が女性が結婚しても働ける環境を整備すべきなんだ。これからも少子社会なんだから,女性も経済的に自立できるようになり,男女対等に働き家事も対等に分担する方向に進むべきだ。

☆やすい ゆたか関連著作

 『駿台フォーラム第7号』掲載論文 「シェーラーによる人間観の五類型」

シェーラーは1920年代西欧の人々が抱いていた人間観を次の5つに分類した。

@宗教的人間観−『バイブル』超越神による直接的な創造, 堕罪と審判等の神話が宿命的な暗い人間観を形成してきた。これは荒唐無稽な神話として退けるべきである。

Aホモ・サピエンス(叡知人)観−神とも共有する人類共通の理性を具有する人間。だれもが理性で納得できる掟としての自然法が成り立つ。しかしこれはギリシア人の作り物であることをディルタイとニーチェは看破した。

Bホモ・ファーベル(工作人)観−欲求充足のために工作する者としての人間。工作の為に言語・火・道具を使ったとしても,シェーラーにとっては精神的な存在として人間を捉えた者とは言えない。

C「必然的デカダンス」としての人間観−人間は進化の袋小路にあって滅亡を免れない。そこで頭脳が発達して適応しようとするが,言語による知は倒錯しているので結局は滅亡してしまうというペシミスティックな人間である。

D要請的無神論の人間観−神が存在し,その神が普遍的な真理を示し,成り立たせていると信じられてきた。しかし超越的な神なるものも人間が普遍性を求める気持ちを対象化したでっち上げではなかったか?そして神こそ普遍性の名の下で人間の可能性を抹殺してたのではないか。むしろ「神の死」によって人間は自らの可能性をあくまで追求できるのであるとニーチェは考えた。各人がより強く生きようとする「権力への意志」に忠実に既成の価値に囚われずに生きるべきであるという人間観。シェーラーはこの問題提起を高く評価しつつも,人類の共同の価値や理念を作りだす可能性を信じて次の人間観を彼自身の人間観として打ち出した。

Eミクロテオス(小さな神)としての人間観−人間はミクロコスモスである,人間において物理的,化学的,生命的,精神的な存在の一切が出会い,交叉しているのだから。だからマクロコスモスの最上位の神の根拠も人間の内にある。つまり人間自身の精神的な交わりを通して崇高な理念や価値を共有できるようになるので,人間こそが神として生成するのだというのである。 この提言は人類的な危機の時代こそ精神的な共同の営みによって滅びることのない尊いものを生み出すことが出来ることを訴えているので,まことに現代的な意義があるといえるだろう。

 

 

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