やすいゆたか教養講座

                『日本の宗教』

 

プロローグ 日本的霊性とは何か

 ヤマトタケルが伊吹山で深傷を負い、遂に三重の能煩野で身罷りますが、「ここに八尋白智鳥になりて、天翔りて」(『古事記』角川文庫一二〇頁)となっています。ヤマトタケルの霊が人間の身長の八倍もあるような白い千鳥つまり大白鳥になって飛び立ったということです。この表現に驚かれましたか。人間の八倍もあるような大白鳥という大きさにではありません。死んで白鳥になったのは何でしょう。おそらくそれはヤマトタケルの遺体全体ではなくて、彼の神霊ですね。ところで霊が白鳥になったのか、白鳥にヤマトタケルの霊が乗り移ったのかどちらでしょう。白鳥が飛んできて、ヤマトタケルの霊がそれに憑依したのでしょうか。そういう表現は一切ないのです。素直に読む限り、霊が白鳥になったということですね。

 霊が白鳥に憑依したり、宿ったりするのではなく、霊自体が白鳥に変態したわけです。つまり白鳥が霊だということです。ということは肉体が霊だということになりますね。肉体と霊は別でなく、霊は肉体の一部だとしたら、霊は臓器の一種のような信仰だということになります。

 ではヤマトタケル自身の肉体は霊だったのでしょうか。ヤマトタケルの肉体にヤマトタケルの霊が宿っていたのではないでのしょうか。その霊が大白鳥になったのではないでしょうか。肉体に霊が宿るという意味を固定観念で解釈しますとヤマトタケルの霊が白鳥になったということが理解できなくなります。

 固定観念では肉体と霊とが対義語になっているのです。つまり肉体は物質的な存在で霊は精神的な存在であって、だから霊が肉体に宿るという捉え方になっています。日本の太古の八百万神はアニミズム信仰だと思われがちですが、アニミズムだと神や霊が物に宿っているという捉え方になります。富士山には山の神が三輪山には大物主神が宿っているという捉え方ですね。草や木や土にも神が宿っているという捉え方です。「神奈備」という表現では神がおられるということで、物に神という別の実体が宿っているような印象を受けます。

 でもそのようなアニミズムは歴史時代に入ってからの発想のようです。元々は富士山、三輪山自体が神でした。大物主神と三輪山は別物ではなくて、大物主は三輪山であると同時に白蛇でもあります。

 霊は玉とも読みます。ですから玉となればこれは石ですね。瑪瑙や水晶などの石です。勾玉は縄文時代から作られていましたが、玉が霊なのです。つまり物質的な物に対置して霊が捉えられていたのではなくて、美しいあるいは聖なる物質が霊だったわけです。ただ霊は物質ですから、生物の中では肉体の一部で、命の根源みたいな物として捉えられていたのでしょう。肉体は滅んでもその霊の部分だけは不死であり、死ぬと肉体から霊が抜け出して、異界に旅をするという信仰があったようです。

 それで霊は異界に行くためには、異界が空の向こう側にあるので鳥や蝶になって飛んでいく、海と空は水平線でつながっているので、海から異界に行くには魚になって行ってもいいわけです。でもヤマトタケルはこの世に思いを残しているから異界にいけないわけですね。

 ところで霊は鳥や蝶や魚だけではなく、雲や風や霧にも変態します。ということは人間の霊は自然に帰って大いなる生命に融合するということですね。『千の風になって』が大ヒットしましたが、それは日本人の霊の捉え方にぴったりきたからなのです。作詞したのはアメリカのネイティブの人だそうですが、縄文時代の人とアメリカのネイティブは起源は古モンゴロイドで共通なのです。一万数千年前に分岐したと言われています。

 霊が命の根源みたいなものであるとしますと、物質的なものに対して精神的なものを対置するというのが日本的霊性の立場ではないということになりますね。物質的なものと精神的なものの対置は商品経済の支配のもとで、価値が貨幣量に還元されて、具体的な豊かさではなく、ただ単純に抽象的に富を積み上げてその量で力を示したり、優越感を得ようとする傾向に対して、物として目に見えない、心の中の思いをピュアにして大切にしたいという心情からきています。もちろんそれは大切なことですが、それぞれの内面に閉じこもってしまってはだめです。目に見える物の姿に表さなければ人には伝わらないわけです。

 近代は西洋のキリスト教の影響もあって心の中で神と対話する、お祈りをするということが宗教の信仰表現として重んじられてきました。確かに現世利益や物欲の満足のための宗教というのは、本当の意味で救いにはなりません。その意味で内面の祈りを重視し、ピュアな信仰に回帰すると言うのも大切です。しかしそれにとどまってはならないのであって、その思いを口に出し言葉にして伝えることも大切です。念仏や題目を唱えるのもその一つですし、経や呪文を唱えたりもしますね。

 しかしそれも形式化してしまって、心が伴わなければ伝わりません。心がこめられていても独りよがりでは駄目です。念仏を唱えたから、題目を唱えたから何かを期待するというのでは霊性という点ではどうでしょう。私は弱いと思いますね。霊性を命の現れという意味で捉えるのなら、命の叫びが伝わるような姿をとらなくてはと思います。

 人間でなく、つまり自己意識をもっていない生物なら、命の表現として精一杯命のままに生きて、食べられたりして、土に還ります。人間は自己意識を持ってしまったので、いろいろフラストレーションや不安を抱えて、命から逃避したり、観念の中で代償を求めたりして、充実して燃え生きることができません。イエスも福音書で言っていますね、「野の花を見なさい」と、素晴らしい命を輝かせて精一杯美しく咲いていて、何の不足もないわけです。人間も与えられた命をそれぞれに輝かして生きればいいわけで、それが霊性なのです。

 せっかく料理で素晴らしい腕前を発揮して美味しい食事を与えることができるのに、中国製の冷凍食品ですましてしまうとどうでしょう。中国で冷凍食品を作っている人は、美味しい餃子を作って日本の消費者を喜ばせ、命を与えようとして作っているでしょうか。

 冷凍食品だけでなくあらゆる工場でどれだけ、自らの命を輝かせ、消費者に命の喜びをあたようとして働いているのでしょうか。ただ賃金をもらって少しでも豊かな消費生活を送りたいと思っているだけではないでしょうか。生きるということは食べて、他の生物の命を燃やして生きることです。料理や食品を提供するということは命を与えることですね。自分の肉体の命を与えるわけにいかないので他の動植物の命を与えているのです。

 食物だけでなくすべての製品は、命を守り養い輝かせるためのものですから、広い意味では物を創って与えるというのも命を与えるということであり、そこでの能力の発揮が生命の自己実現なのです。ところがそれもやむを得ず強制されて最低限度の生活を維持するために行っているとしたら、生命の充実を感じることはできません。

 物質生活の豊かさを求めるあまり、大切な精神を喪失してしまった現代人に、祈りの価値を再認識させようという宗教者の願いは正当ですし、尊いのですが、それが内面に閉じこもって人に通じない形に終わってしまっては困るのだということを、私は訴えたかったのです。

 2007年の新宗教団体連合会つまり新宗連の結成55周年記念シンポで、コメンテーターの役目をおおせつかった私は、準備会に妻の作ったドラ焼きを手土産に持参したのです。準備会には教祖の孫など教団の幹部たちがきています。その人たちに手製のドラ焼きで宗教の原点を示そうというのですから、生意気に見えたかもしれません。本来なら自分で焼いたものを持参すべきですが、霊性を示すとなるとなかなか付焼刃というわけにはいきません。

 妻は子供たちにドラ焼きやケーキを手製で作って食べさせていました。あまりに美味しいので、食べた人はこれはお店で売れるよといいます。逆なのです。お店で買えば高くつくので自分で作って、タップリ食べさせていたのです。そうすれば母の愛も感じられ子供たちも精神的にも満たされるのです。つまり自分の命を輝かせて、その命を子供たちに与えていたのです。母の愛、願い、祈りとドラ焼きは別物ではないのです。それが日本的霊性です。そこに宗教の原点があるのです。

 働くということはそういうことですね。自分の命を削って働いて、それで稼いだお金で家族の命を養っています。それでいろいろ問題を抱えながらも家庭が成り立ち、人々は暮らしていけるわけです。だから家族と言うのは大変宗教的なつながりなのです。生きる意味や生きがいを与えてくれるわけですね。
 社会も命のつながりであり、人々に必要な物やサービスや情報を提供して支えあって生きています。その繋がりによって自分の役割を実感できれば、充実した生活ができるのです。ですから社会も本来は、十分霊性があり、宗教的なのです。ところが商品経済が貫徹し、貨幣に支配されて、命の繋がりが感じられなくなってしまっているわけです。

 ですから宗教が社会にとって必要なのは、そういう命の繋がりを感じられるようにするためなのです。それでドラ焼きなのです。妻が子供たちにこめた愛情が、このドラ焼きにも残っています。さらに新宗連の幹部たちに心尽くしのドラ焼きを食べて、元気に宗教について論じてもらいたいという励ましの気持ちもこもっています。そのようにして心が物にこめられ、物でつながるわけです。物が妻の心でもあるわけです。

 物質的な豊かさばかり追い求め、大切な心を失っている、だから今こそ祈りの価値に目覚めるべきだというのは正しいとしても、では座禅をしよう、瞑想しよう、手を合わせて神に祈ろうと呼びかけで、それでついてくるでしょうか。教団内ではある程度それでも通じるかもしれないけれど、物質的な価値にしか反応できなくなっている人には通じないでしょう。

 それに物質を抜きにした魂、精神というものは感覚的な性質を持たないので、他人に伝わらないのです。声にしても空気振動を伴っていますし、文字にしてもなんらかの平面に線を墨か何かで入れなければ成りません。言語自体が物質性を伴っていて、その言語によって思想が構成されている以上、物質と対置された精神というのも元々物質性を帯びているという限界を弁えていなくてはいけません。

 そして「何々は何々である。」という思想はただ思想として言われても、心に届きません。知識を詰め込む教育は、入試には役立っても、本当に生きた知識にはならないのです。やはりそれが物として現れ、その物を鑑賞するなり、使うなり、消費するなりして学ぶ側の生命活動にならない限り、身につきません。

 キリスト教は世界最大の宗教ですが、日本人は大きな影響を受けているにもかかわらず、キリスト教について無知な人が多いのです。キリスト教会の礼拝をカトリックではミサと呼び、プロテスタントでは聖餐式と呼びます。礼拝の中に聖餐が含まれているのではなく、聖餐こそが礼拝のメインであり、礼拝は結局のところ聖餐につきるのです。

 では聖餐とは何か、それは主イエス・キリストの命をいただく聖なる食事なのです。パンをイエスの肉としていただき、ワインをイエスの血としていただくわけですね。こうして神の肉と血を信徒の体に入れることで、大いなるイエスの体であるキリスト教会と合一するという儀式なのです。

 イエスは昇天していることになっていますから、イエスの肉体を食べたり、血を飲んだりはできません。でもキリスト教会はイエスの体であるということになっていますから、そこで作られたパンやワインはイエスの肉であり血であるということになります。こうして永遠の命を与えられるということで、キリスト教会は世界最大の宗教になっているわけです。

 ただしキリスト教の場合、聖霊はつきものです。イエスの肉や血自体が聖霊ではなく、イエスの肉と血に聖霊が宿っているのです。パンとワインの聖餐によってその中の聖霊が信徒の体に入るという理屈です。そこは物自体が霊性を持つという日本的霊性の元の形とは違いますね。でもキリスト教ですらただ心の中の祈りだけではなく、パンやワインという物を介して絶対者と合一しようという傾向が強いということを忘れてはいけません。

 臨済宗でも食事を大切にしますね。日本料理の原点は臨済宗の精進料理だといわれています。別にお茶やお菓子でもいいわけですね。宗教者が心から祈りをこめて何か作って食べさせるということで、信徒は命を与えられた気持ちになるのです。おざなりに駄菓子を買ってきて出したり、外注でお弁当を取ったりせずに、宗教者は救いを求めてきた信徒に、祈りにきた信徒に命の食事を与えるべきです。それこそイエスのように自分の命を与えるつもりで、パンを焼き、ワインを造ることですね。仏教寺院だったらお寺の境内で野菜を育て、精進料理を出すのです。

 これは簡単ではありません。簡単なら私がドラ焼きを焼いて持ってきています。残念ながらキリスト教会のパンもワインも全くシンボル化してしまって、神父の命がこもったものではありません。たんなる象徴的儀礼でしかなく、そこには魂の感動が入る余地がありません。もし神父が命がけでパンを焼き、その教会にしかないワインを食べさせたらどうでしょう。

 それは神父をベーカリーや酒造りに貶めるものだと思われますか。そのような受け止め方をするのは宗教者の思い上がりです。本来はパン屋さんこそ宗教者なのです。酒屋さんこそ命を作って与える救世主なのです。そのことを認識して、パン屋になり、酒屋になることこそ真の宗教者なのです。母が子のためにドラ焼きを焼く、これが宗教の原点だということですね、それが分かれば宗教は生まれ変わるはずです。

 それじゃあ宗教というのは生活と同じ意味なのかと問われそうですね。生活を大いなる生命の活動として自覚的に生きることだと捉え返すのが宗教だといえばどうでしょう。大いなる生命といっても神と言い換えても、そこには既に宗教的なものが入り込んでいるので、同義反復に陥っているという反発もあるでしょうね。

 個人の有限性を自覚しますと、その個体性つまり身体的自我に固執していたのでは、はかないので空しくなります。そこでそれが大いなる生命の現れであり、我々の感覚から高度な思考まで、決してそれ自体で存在するのでないことを確認しようとします。さまざまな社会関係や自然的社会的諸事物との交渉の中で個人の意識も生み出されているわけです。ところが私的所有を前提した商品交換に基づく社会関係の形成によって、個人的な自我が発達し、私が見、感じ、思ったのだから、すべては「我思う」である自我が生み出した意識であるかに捉えられるわけです。それはある意味正しいのだけれど、やはり対象的な事物や社会関係や環境的自然が生み出している働きでもあるわけですね。

 もちろん単に意識が世界によって大いなる生命によって生み出されているだけでなく、日々の生活や私の身体も生産物や生活資料と共に日々再生産されているわけですね。その意味で、すべて大いなる生命の現われとしての霊性をもっているということで、天台本覚思想でいう「山川草木悉皆成仏」ということなのです。

 権力や金銭が絡み複雑な人間関係社会関係の中で、本来の生命活動として物を生み、命を与えるということが感じられなくなってしまったことによって、我々の生命は個体の枠に閉じこもってしまい、大いなる生命の現われとしての自己の本来の姿を見失っているわけですから、宗教教団はその本来の自分たちの姿を取り戻せるような場にならなくてはいけないのです。

 キリスト教の聖餐は命を与えるという直接的な表現をとっているのですが、それ自身儀礼化して命を失ってしまっています。信徒と一緒にパンを焼きワインを造ったりしたらどうでしょう。庭に葡萄を植えてワインづくりもするのです。同様に仏教寺院でも豆や大根やキャベツを栽培し、精進料理を一緒につくって一緒に食べたりする機会を作るといいですね。

 もちろん食べるものに限定する必要はありません。焼き物や仏像製作、あるいは綿を栽培してそこから糸を紡ぎ布に織って作務衣を作る。それを着て境内やお堂を清掃したり、社会奉仕にでかける。そういう活動を信仰生活に組み込んでいくということですね。もちろんボランティアでするので、それをしたからといって信徒はお金になるわけではありませんが、物をつくることで自己実現できること、大いなる生命の営みに自分がいることを発見する喜びを味わうことができます。

 教団で本来の自分と生命活動を取り戻すことができれば、それが家庭生活や社会生活でのさまざまな矛盾や問題、人間疎外と取り組む力を養ってくれます。教団は社会や家庭からの逃避の場ではなく、社会や家庭の問題と取り組むための主体の形成の場であるべきです。教団での活動はそのまま家事や育児に応用が利くものですし、そこでの人間関係のあり方は職場の人間関係のあり方の改善の参考になるはずです。

 ただし宗教教団が何らかの集団的な活動を組織しますと、建前が本来の生命活動を取り戻すとかのふれこみで行いますので、それがどんなに精神的苦痛や強制を伴うものであっても、いかにも自発的で喜びに満ちているかに見せかけようとしますので、かえってひどい人間疎外が起こりかねません。またその矛盾を糊塗しようとしてよけいにマインドコントロールを行おうとするわけです。それでもそのような活動を敬遠しようとしますと、旧態依然の形式的な儀礼だけの、何の救いもない宗教のままに終わってしまいます。

 大切なことは宗教教団がそのような疎外された形での勤労奉仕に陥りがちであることを自覚した上で、大胆に創造的な文化活動や生産活動、ボランティアなどに取り組むことです。 

宮沢賢治は岩手県で農業を大いなる生命の創造的な活動として捉え返しました。そして、岩手をイーハトーヴという理想的なユートピアにしようとよびかけました。宮沢賢治の場合も農民はほとんど笛吹けど踊らずで、深い挫折に見舞われます。その挫折から子供の心に響く童話や思いが通じない哀しみを歌った詩集『春と修羅』が生まれたのです。

けらをまとひおれを見るその農夫/ほんたうにおれが見えるのか/まばゆい気圏の海のそこに/(かなしみは青々ふかく)/ZYPRESSENしづかにゆすれ/鳥はまた青ぞらを截る/(まことのことばはここになく 修羅のなみだはつちにふる)校本宮澤賢治全集 第二巻』(筑摩書房、一九九五年刊)「春と修羅mental sketch modified」(同上、二二〜二四)

「ああたれか来てわたくしに言へ『億の巨匠が並んでうまれ しかも互いに相犯さない 明るい世界はかならず来る』と――遠くでさぎが鳴いている 夜どほし赤い眼を燃して つめたい沼に立ち通すのか――」(『春と修羅 第二集』三一二番「業の花びら」)
 

 日本的霊性とは何か、それを私が規定してしまっていいかどうか問題があるところですが、次のように考えています。日本人は、元々は、霊を大いなる生命の現われと捉えていたのではないでしょうか。その意味では森羅万象はすべて霊性をもっているということです。そしてその霊を実体的に身体に宿る不滅の部分としても思い浮かべていたわけです。それが魂です。「たま」と呼ばれる場合の「霊」ですね。これが死後変態して異界へ向かうと想像されていたわけです。また霊は大いなる生命としての自然に還ると捉えられていましたから、雲や風や星になるという発想も生まれたわけです。このように大いなる生命としての宇宙との一体性が霊ですね。それは物事はすべて相手があって、そのかかわりで生じるからです。あなたがいるから私がいる。だから私にはあなたが含まれているということですね。この論理はすべてのものに広げられますから、私の命は大いなる生命の現われで、私の中に宇宙が含まれているという発想が成り立つのです。宇宙的霊性とか賢治のように銀河的霊性という捉え方ができるわけです。

 このように日本的霊性を捉えておきますと、神道にしても仏教にしてもまた神仏習合や新宗教など日本の宗教を概観する場合に大変理解しやすくなります。そして21世紀にあたって日本や世界の宗教のあり方を考え直すにあたっても、大いに参考になるのです。
 

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