やすいゆたか教養講座

                『日本の宗教』

 

第一部 日本の伝統宗教

第一章   八百万の神々と日本神道  

神々の誕生

 日本は気候が温暖多湿で雨量が多く、山がちなこともあって山地を中心に森が広がり、平地では田畑が発達して、大変豊かな自然に恵まれています。日本人は自然に逆らわず、自然と融合して、自然を大切にして暮らしてきました。

 確かに豊かな自然なのですが、台風に襲われたり、気象の異変に悩まされたりもします。ですから常に自然の恵みに感謝を捧げ、自然の猛威が起こらないにお願いしていたわけです。それが自然発生的な信仰ですね。それで感謝や願いをかける対象が神なのです。それは自然の日月星辰などの天体や山川などの事物や自然現象あるいは動植物などですね。人物でも知恵の豊かな高齢者や神かがりするシャーマンや強力の戦士などは神として崇拝の対象になったでしょう。もちろんそれらから命やエネルギーが与えられたり、奪われたりする対象です。

天の御中主(北極星)の神

 『古事記』の本文の書き出しは「天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神。次に高御産巣日神の神。次に神産巣日の神。」とあります。第一番目は「天の御中主の神」なんと北極星なのですね。『日本書紀』では本文では、最初の神について、天地の間に葦牙(あしかび)が生えて、それが神となって国常立尊(くにのとこたちのみこと)ということになっています。これはしかし地の側に生まれた神ですから、天の高天原には既に天の御中主の神がいた事を否定しているわけではありません。

 「天の御中主の神」すなわち北極星信仰を祀っているのは妙見山という山です。西日本に多く、岡山県にはなんと12も妙見山があるそうです。日蓮宗では北極星・北斗七星を菩薩にした妙見菩薩信仰があり、これが天の御中主信仰と習合していますから、妙見山には妙見神社と呼ばれる神社に天の御中主が祀られているのです。もちろん祀られているのは北極星ですから、妙見山に登って、北極星に世の平和や旅の無事、家内安全、健康長寿などを祈ったのでしょう。何といいましても天に北極があって、日月星辰の動きが定まり、暦が成り立つのですから、何にもまして中心的な神だと言えます。

 北極星は道教では天皇大帝(てんこうだいてい)あるいは昊天上帝(こうてんじょうてい)とよばれる宇宙の主宰神だったわけです。道教はすでに三世紀には倭国に伝来していたことが鏡からも伺えます。それで元々は天の御中主を主神とする神話体系があり、大王の家系ではその信仰が受け継がれていたことも考えられます。それでいきますと、推古天皇から天皇号を採用したという説も神話体系と調和します。

 太陽神信仰は物部氏のニギハヤヒ信仰がありまして、全国にある天照神社のほとんどはニギハヤヒを祀っていたそうです。天照大神という女神になったのは持統天皇の時代からではないかと言う説もあります。もし元々太陽神が主神だったら物部氏の神の方が、大王家の神より格が上ということになってしまいます。

 江戸時代の幕末に平田篤胤は復古神道を唱えましたが、キリスト教の影響を受け、天の御中主を天地の創造主とする神話体系を復活させようとしたのです。

 また天の御中主の神を祀っている神社に水天宮がありますが、これは仏教の天部の水の神である水天を祀っていた神社だったのが、神仏分離令で仏教の神を祀れなくなり、水天が始源神なので、『古事記』の始源神である天の御中主の神に差し替えたということです。
 
 

高御産巣日の神と神産巣日の神

「天の御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身を隠したまひき」と『古事記』にあります。それぞれ単独神で親とか配偶者の神はいないという意味です。「産巣日の神」というのは「結びの神」ということで、「実を結ぶ」など生み出す神ということです。ですから森羅万象が生み出されるにはこの「結びの神」が働いているということなのです。

 平田篤胤は天の御中主の神も含めて造化三神としています。篤胤によれば、天の御中主の神は万物の創造主なのです。その創造の働きを結びの神がしているわけです。でも記紀にはどのように働くかは一切記述がありませんので、何ともいえません。大いなる生命の生む働きを造化三神によって説明しようとしたのでしょうが、それは自然が自ら生み出すがままですから、ムスビの神がしていることは別に見えないわけです。夫婦がまぐわって子を生むという場合も、夫婦がまぐわえば子ができるわけですが、その際にムスビの神の働きは見えません。でもムスビの神の働きなのだということですね。陰の力として働いているわけです。

 どうして高御産巣日神と神産巣日の神があるのか、両者がどういう関係なのかもわかりませんね。自然は常に移り変わり、新たなものを生み出しているのですから、生む働きが大切です。スピノザの神も自然そのものであると同時に、自然の生む働きなのです。何か新たなる物を生み出そうとすれば、大きな壁にぶち当たりもがき苦しまなければ成りませんが、自然自身の生む働きであるムスビの神に身を任せ、ムスビの神と一つになって生み出せばいいわけです。それがムスビの神に祈るということです。

 ところで高御産巣日の神は高木の神として現れます。何百年、何千年も生きているような大木は生命の象徴です。天高く聳え立っていれば、天の裏側にある異界や、神々のいる高天原とも近いわけでそれだけ霊性が強いと感じられます。すべての生命の根源のようにも思われるのです。高天原の天孫族が天下りして地上を統治するさいに、この高御産巣日の神(高木の神)がいろいろ命令を下しています。それで高天原の主神天照大神よりも実権をもっていたようにもみえます。

 彼は娘栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメノミコト)を天照大神の長子天忍穂耳神(アメノオシホミミノカミ)に嫁がせます。その結果生まれたのが邇邇芸命(ニニギノミコト)です。天忍穂耳神が地上支配を命じられますが、それを邇邇芸命に譲ってしまいます。また武甕槌神を派遣して大国主命に国譲りをさせます。また神武東征にあたっては高倉下(タカクラジ)に布都御魂(フツノミタマ)という神剣をイワレヒコに献上させています。

 
神産巣日の神はムスビの神として高御産巣日の神と同様の万物創成の働きをするわけですが、どちらかというと大地母神的な神だといわれています。『出雲国風土記』では御祖命(ミオヤノミコト)と呼ばれています。出雲の神々の母なる神としての性格をもっているのです。大穴牟遅(オホアナムジ=大国主命)が八十神たちに謀殺されたときも母神の願いを聞いて、きさ貝比売と蛤貝比売に蘇生させています。そして神産巣日の神の手の指の間から零れ落ちて生まれた小人神である少彦名神を大国主命の国づくりに貢献させています。神産巣日の神が大地母神ですから、その子の少彦名神も農業技術の神です。また医療や酒造りなども教えて、大国主の平和で豊かな国づくりには大活躍したわけです。

 『出雲風土記』には国譲りの話はありません。出雲大社も大国主の国づくりへの貢献のご褒美として神産巣日の神が建造したことになっています。大国主の支配は出雲国だけの話ではなく、甲信越、畿内、山陰、山陽、阿波、讃岐に及ぶ大国だったといわれていますから、『出雲風土記』では扱われないのかもしれません。

産土の神

「ねんねこしゃっしゃりませ 今日は二十五日さ 明日はこの子の ねんころろ 宮詣り ねんころろん ねんころろん 宮へ詣ったとき なんというて拝むさ 一生この子のねんころろ まめなよに ねんころろん ねんころろん」

これは『中国地方の子守唄』の歌詞の一部です。赤ちゃんが無事に生誕1ヶ月目を迎えたことを産土(ウブスナ)に感謝して報告することを「初宮詣り」あるいは単に「宮詣り」といいます。

 産土の神はムスビの神の普通名詞のようなものです。産む土(スナ)ですから大地が命を生み出しているということです。日本的霊性では土地と土地の神は区別することはありません。強いて言えば、土地の生む働きが産土の神だということです。ですから我々も自分が生まれた土地の神の産む力によって生み出され、生まれた土地の神によって見守られているということです。それで産土の神にお参りすると病気や災難から守ってもらえるという信仰があるのです。

 産土の神はそれぞれの土地の神ですから、村に稲荷神社があれば、それがその村の産土の神です。八幡神社があればそれでもいいわけです。元々は産土の神は村の土地の神でそれぞれの地域ごとに別々の氏神だったのでしょうが、今では各地にある地元の稲荷でも八幡でも天神でも天照でもその土地の産土の神を兼ねているのです。

 自分の生まれた村で産土の神に村民の仲間に入れてもらい、一生見守ってくれているということになっています。ですから最寄の神社の神が産土の神だということになっています。生まれた地域の土地から生まれたのですから、その産土の神はたとえ引っ越しても守ろうとします。でも故郷に帰れない人は、現在住んでいる家の近くの神社を産土の神にしてもよいそうです。その土地に守ってもらうということも大切だからです。

 元々は95%以上が農民でしたから、土から生まれ土に還るという意識が元にあって産土の神信仰が受け入れられやすかったのでしょう。

伊耶那岐の命と伊耶那美の命の国生み神話

 ムスビの神は高御産巣日の神と神産巣日の神でしたが、そのムスビの営みは国生みと言う形で行われなければなりません。その環境が整ったところで夫婦神が成りましまして、美斗の麻具波比(まぐはひ)をして国生みをするのです。つまりセックスによって国を生むわけです。動物がセックスをしますと子供が生まれますが、それと同様で神々がセックスをすると神々や国土が生まれるということですね。

 それぞれ単独では何か生み出すのは難しいのですが、対極的なもの同士が、互いを否定しあって、一つになりますと、そこでどちらでもない第三者が生まれるという弁証法的な関係があるようですね。この原理を応用しますと、あるものから新しいものを生み出そうとすれば、そのあるものと対極的なものを比較対照したり、組み合わせてみたりして互いの欠陥を補い合い、長所を伸ばすようにすれば、新しいものができるのです。

 
伊耶那岐の命と伊耶那美の命は「この漂へる国を修理め固め成せ」と命令されまして、そこで天下りするための天の浮橋に立ちまして、天の沼矛でかき混ぜました。そしてそれをゆっくり引き上げますと、その先から塩が滴り落ちます。これが積もってできたのが固まった自ずからという意味を持つ於能碁呂島(おのごろじま)でした。そこに天降りしまして、天の御柱を立て、八尋殿をぱっと立てたのです。

 これは何本か柱を立てて神域としたということですね。そしてお互いの体を見まして、できあがっているのだけれど、伊耶那美の命の体には出来上がっていないところが一箇所あり、伊耶那岐の命の体にはでき過ぎているところが一箇所あるので、「この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に刺し塞ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」と伊耶那美の命に誘いをかけたところ、それは善いということでじゃあ善は急げということで、天の御柱を回って出逢ったところで美斗の麻具波比をしようということになったのです。

 梅原猛は、天の御柱を一本の木ではなく、縄文時代の新潟県の真脇遺跡ようなウッド・サークルだったとにらんでいます。と言いますのが、天の御柱が一本なら回っている途中で顔を見合わせて、声を掛け合うことはできないけれど直系七メートルのウッド・サークルならそれが可能だからです。どうして木の周りを回るかといいますと、その木が高木の神なのです。つまり高御産巣日の神なので、生み出すエネルギーを与えてくれるわけです。その周りを回ることで高木の神に刺激を与えて、磁場の磁力を強くしているのです。

 梅原は想像力を膨らまして、ウッド・サークルはそこでセックスをすることによって、天の裏側にある異界に通じる通路になるというのです。ウッド・サークルからイルカの霊を異界に送ったり、異界から霊を受け取ったりしていたというのですね。人間もセックスによって異界からの霊を受け取り、子供を生むという発想です。それにしても高木の神のパワーに助けられるとはいえ、大倭豊秋津島(本州)のような大きな島をセックス・パワーで生み出すのですから、セックスは偉大ですね。

 その際、伊耶那美の命が伊耶那岐の命に「あなにやし、えをとこを(本当にいい男だこと)」と先に言い、後で伊耶那岐の命が「あなにやし、えをとめを(本当にいい娘だな)」言ったので。女が先に言ったのがいけなくて、手足のない水蛭子(ひるこ)の神と淡島ができてしまい、いずれも正式の子と認められなかったのです。水蛭子(ひるこ)の神は葦の船に乗せて流されてしまいます。

 それで今度は順序を正しく呼びますと五体満足の子ができたということですから、男女の順序を間違えば失敗するということで、男尊女卑の思想が現れています。最初に淡路島、次に四国、隠岐島、筑紫(九州)、壱岐島、対馬、佐渡島、大倭豊秋津島(本州)で大八島と呼びます。それからたくさんの神々も生みました。あわせて島の数は14、神は35柱です。

 それから天の鳥船という名の楠の船の神、穀物の神である大宜都比売(おおげつひめ)を生み、そしてとうとう火の神である「火の迦具土(ほのかぐつち)」の神を生んでしまいます。なにしろ火の神ですから御陰(みほと)が焼かれて病気になり、ついに神避(かむさ)りつまりお隠れになったのです。

 伊耶那岐の命は「いとしい妻の命を子一つには替えられない」と妻の遺体のもとにつっぷして泣きました。その涙が泣沢女(なきさわめ)の神に成ったほどです。その遺体を出雲と伯耆の境の比婆の山に葬りました。そして怒りが収まらないので、十拳(とつか)の剣を抜いて迦具土の神の頸を斬り落としたのです。

 これは考えようによっては身勝手ですね。だって火の神が生まれてしまったのは、自分たちの美斗の麻具波比があまりに情熱的過ぎて、その摩擦熱で御陰が火をふくぐらいだったからでしょう。それを火のせいにするのは責任転嫁ですね。

 それにしてもセックスをすべてを生み出す根源においたということは、日本神話の驚くべき特色ですね。大八島を生み、穀物を生み、海や山や火を生んでいます。まあ生むはたらきだからセックスだろうという発想でしょうね。セックスが生きる活力と創造のエネルギーを与え、自然の造化と一体化する営みだったのでしょう。伊耶那美の命と伊耶那岐の命の「美斗の麻具波比」と、獣や人間の日々の性の営みを切り離して捉えてはいけません。セックスをしている時は、我を忘れ、すっかり伊耶那美の命と伊耶那岐の命の原点に戻っているのです。人々は自分たちのセックスによって子ができるだけでなく、稲が育ち、陽が輝き、山が火を噴くと思っていたのではないでしょうか。
 

黄泉国

 神道の説明をするのにほとんど神話の説明になっていますが、それが神道の特色ともいえます。つまり神話と伝承に基づいて神々を祀っていまして、これという決まった教義体系があるわけではないのです。

 神話や伝承ですから、あくまで作られたものだということは前提です。だから別にそのまま信仰しなければならないということでもありません。このような神々についての物語があるということを知って、それは心引かれるゆかしいものだと感じていただければいいわけです。もしそういうゆかしい話が残っていないのなら、創作して、それに基づいてお祀りしてもいいわけです。

 新しいものを生み出せば、どんどん増えていってしまいに過剰になりますから、入れ替わりに古いものは滅んでいかざるを得ないわけです。セックスで新しい島々や神々を生み続けた
伊耶那美の命はついに火の神に御陰を焼かれて死んでしまったわけです。日本神話の神々には死がある場合が在ります。神は死なないというのはギリシア神話では神の定義みたいなものですが、日本神話ではそういう定義はありません。

 でも神々の死は物語としては存在しても、では死んでしまった伊耶那美の命は現在存在しないのかといいますと、男に対して女が存在し、一般に陽に対して陰が、プラスに対してマイナスが存在する限り、伊耶那美の命は原理として存在し続けるわけです。

 ですから伊耶那美の命の神話的な死は、死後の世界である黄泉国(よもつくに)を神話として生むための死だと解釈できるかもしれませんね。夫伊耶那岐の命は、伊耶那美の命に逢いたい気持ちが募ります。そして地下にある黄泉国に行って、「いとしい妻よ、まだ二人で作っている国は出来上がっていないから還ってきてくれ」と頼みますが、伊耶那美の命は「それは悔しいわ、どうしてもっと早く来てくれなかったの、もう私は黄泉戸喫(よもつへぐひ)してしまったから、還れないの」というわけです。つまり黄泉の国の食事をしますと、黄泉の国の住人になったので、この世には戻れないということです。

 黄泉の国は地下ですから、その食事というのは土と混じってしまうということでしょうね、だからもう生き返れないわけです。食事を普通の食事のように解釈しますと、黄泉の国もこの世もあまり変わりなく、ちゃんと肉体を持ち、食事で栄養を摂って生きていることになります。

 梅原猛によりますと縄文時代からの日本人のあの世観は、天の裏側に面対称に異界があります。そこではこの世とあまり変わらない世界があって、この世と同じ家族が生活していると捉えられていたことになっています。この世で亡くなった人の霊は蝶や鳥になってあの世に行き、そこで先に行った親族の母胎にセックスしている時に入って、また誕生するわけです。おそらく縄文時代から死後の世界についてはいろんな説があったのでしょうね。

 話を戻しますと、伊耶那美の命は、「せっかく来てくれたのだから、黄泉神(よもつかみ)になんとか生き返らせてくれるようにかけあってみましょう。でも黄泉国を出るまでは、私を絶対見ちゃ駄目よ」と言いました。ところがなかなか還ってこないので、待ちきれなくなって様子を見に行ったのです。すると伊耶那美の命には蛆がわいてごろごろ鳴っているのです。体中に雷が居て鳴っているのです。それでぶったまげて逃げ帰ろうとしたわけです。

 「見たな」ということですね。そこで「よくも私に恥をかかせた」と黄泉醜女(よもつしこめ)に後を追わせるのです。なんとか逃げおおせて、伊耶那岐の命は、黄泉国の入り口の黄泉比良坂に千引の岩という千人かがりでないと引けない岩を置いて塞ぎました。悔しくてたまらない伊耶那美の命は「そんなことをするなら、一日に千人を殺してやる」と呪ったのです。それに対して伊耶那岐の命は「それじゃあ、一日に千五百人分の産屋(うぶや)を建てよう」と言い返したのです。こうして一日千人死ぬけれど、千五百人が生まれるようになったということです。

身禊

 黄泉国の穢れから身を清めるために筑紫の日向の橘の小門(おど)で、伊耶那岐の命は身禊(みそぎ)をします。一文字で「禊」とも書きます。キリスト教でいうバプテスマ(洗礼)ですね。キリスト教では主に罪を洗い流しますが、神道では穢れを洗い流します。でももちろん罪も洗い流します。身そぐを「身を削ぐ」と解釈して、罪や穢れのついた体を削ぎ落とすというように解釈することもできます。そうなると海に潜ったくらいで取れますかね。もちろんそれぐらいの気持ちで罪や穢れを断ち切らなくてはいけないということでしょう。

 神道では「祓(はらえ)」も行います。祓は主に罪を祓うわけですが、身の穢れを祓うという言い方もします。伊耶那岐の命の身禊も禊と祓の両方をしています。先ず黄泉の穢れがついた持ち物や衣服を投げ捨てていますが、これは祓に当たるわけです。それで十二神が生まれています。中臣氏が神道を仕切るようになってから祓いが神道のパフォーマンスの中心になっていますが、大麻(おおぬさ)というひらひらのついた細い棒を振って、罪や穢れをその風で吹き飛ばせるでしょうか。

 罪や穢れを祓うのですから、ただ払いのければいいというのではありません。魂振(たまふ)るといって、魂を振動させて、払いのけるわけですね。魂を振動させるというのは大変ですよ。ジャイナ教では欲望を払いのけるために魂を振動させるのですが、そのために土に首の下まで埋もれたり、針を腹に突き刺したりの苦行を行っています。そんなことをしたってかえって消耗するだけだと、ゴータマ・シッダルダは苦行を退けましたね。

 さていよいよ禊です。適度の流れの中つ瀬に潜りまして、穢れをとりますと、それは八十禍津日(やそまがつび)の神、大禍津日の神になります。これらの神は穢れからできた神なので、いろいろ禍をもたらすわけです。そしてこの禍を直そうと流れがきて、きれいになりますね、この神が神直毘(かむなおび)の神、大直毘の神と言います。

 本居宣長は『直毘靈』でわが国である本朝は皇国(すめらみくに)であるとします。そして皇国は天照大神の生まれた国なので、直毘靈の活躍する国だとしています。しかし、いかんせん、中国はわが国で居心地が悪くなった禍津日の神が移り住みました。そして賢しらな知恵で人々をだまして儒教などを盛んにしたのです。それを素直なわが国は有難がって取り入れたものだから、神の大御心のままに生きる惟神の道(かむながらのみち)が廃れてしまった。そこで我々が国学を盛んにして惟神の道に戻そうとしているのは直毘靈の働きなのだというのです。

天照大神・月読命・須佐之男命の誕生

 さて滌(すす)ぎの時に、安曇系の海の神である綿津見の神、住吉系の海の神である筒の男(つつのを)の命が生まれます。そしていよいよ三貴神と言われる天照大神、月読(つくよみ)の命、建速須佐の男(たけはやすさのお) 命が誕生します。

 伊耶那岐の命が左目を洗うと太陽神で女神の天照大神が、右目を洗うと月神で男神の月読の命が、鼻を洗うと暴風神で男神の建速須佐の男の命が誕生したのです。すさまじい想像力ですね。インドの神話で最初の人間であるプルシアの遺体から神々や天体や階級などが生まれたという話がありますが、それを連想します。

 伊耶那岐の命は、この三柱の素晴らしい神を得て大変喜び、天照大神は高天原の支配し、月読の命は夜の世界を支配し、須佐の男の命は海原を支配しなさいと命じたのです。もっとも『日本書紀』では素戔嗚尊(スサノオノミコト)には天下を治めるよう命令しています。命じるだけの権威があったのは、伊耶那岐の命が大変たくさんの仕事をして神々や島々を生んだので、すべての支配権を持っていたのかもしれませんね。

 ところが須佐の男の命だけはその命令に従わないで泣き喚いていたのです。それで山の木は枯れ、海や川はすべて泣き干されてしまったというのです。そこで伊耶那岐の命が問いただすと、私は母のいる黄泉の国に行きたいと泣き喚いているのだと言うわけです。

 つまり伊耶那美の命は、須佐の男の命にとって母にあたるわけですね。三貴神は禊による誕生で須佐の男は伊耶那岐の命の鼻から生まれたわけですから、単為生殖の筈ですね。黄泉の国に逢いにいって穢れた結果だから、ふたりの子であるということになっているのかもしれません。それにしても一度もあったことのない母にそれほど逢いたいものでしょうか。ともかく母への想いの激しさを表現しているのでしょう。

 母子関係の欠落による満たされない想いが、須佐の男を荒ぶる神にしているのです。天照や月読はそんなことはないのですが、須佐の男に出たわけです。まあ母が居ないということの哀しみでみんなが暴れるわけにいかないので、末っ子に凝縮して爆発したのかもしれません。

 この三貴神は、室伏志畔の幻視を借りれば、畿内―天照、出雲―須佐の男、筑紫―月読というように、地域国家の神話のそれぞれ主神であったのかもしれません。

天照神話のなぞ

本書は日本の宗教の概観を与えるのが目的ですから古代史の謎の解明は、あまり突っ込んで論じるわけには行きません。ただ神と人間の関係を捉えるためには、どうしても歴史的事実をどのように反映しているかを論じる必要があります。

 神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ)つまり大和朝廷の初代大王神武天皇の曽祖父が邇々芸命(ニニギノミコト)でその祖母が天照大神にあたるわけですから、歴史上の人物としても天照大神に該当する人物が存在したのではないかということですね。つまり神と人間を峻別するのではなく、太陽神信仰で太陽と自己を一体化して捉えていた人物が天照大神として存在したとみなすのです。

 天照大神を祀る神社には御神体として鏡を祀っていますね。鏡は天照大神の分身のようなものです。光つながりで分身になるわけですね。ですから天照が憑依するシャーマンも天照の分身であるとみなしていいわけです。そこで太陽神信仰はいつからあり、天照大神はいつから存在したかという問題ですね。

 
もちろん縄文時代から太陽信仰はあったと思われます。しかしイワレヒコの五代前の人物となるとこれは難しいですね。邪馬台国の卑弥呼が日の巫女であったと名前から想像されますから一番ふさわしいのです。『日本書紀』では別名が大日貴(おおひるめのむち)になっています。は霊と女を合成した和製漢字です。つまり巫女という意味ですね。はヒミコと読めるのです。おそらく『日本書紀』を書く時に、『魏志倭人伝』を参照したので、卑弥呼を念頭において天照大神の話を考えたのでしょう。でも彼女は三世紀中頃に亡くなっています。イワレヒコの大和政権はその頃までにはできていたはずですので、年代的にもっと古い人でなくてはならないでしょう。

 太陽神が女神だったというのは持統天皇からだという解釈があります。つまり『古事記』の編纂にあたって持統天皇が孫の軽皇子に皇位継承がしやすいように、天照大神を女神にして、天照から孫の邇々芸命に天降りして地上を支配するように命じたという説話にしたという説です。ただその説ですと、それまで太陽神は女神でなかったという証拠が必要です。

 新羅の王子の天日矛が太陽神が寝ている娘の陰に陽射しを刺して妊娠させ生まれた玉を手に入れたら美しいアカルヒメになったので、妻にしたのですが、文句を言うと父の国へ還るといって倭国に逃げたのです。そこで王子の地位を捨てて倭国に追ってきて帰化したという説話があります。これでは太陽神は男ですが、いかんせん新羅の話だという設定ですね。

 またイワレヒコが東征した時に河内や大和は
饒速日命(にぎはやひのみこと)が支配していました。彼は太陽神信仰だったわけです。彼自身が駆け上る太陽を意味する太陽神の化身です。つまり男神だったわけです。そしてイワレヒコに帰順しまして、物部氏の祖先になっているわけです。天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日が正式名ですので天照という名もニギハヤヒの一部を取ってできたと想像されます。

 それに物部氏は軍事と祭祀で大和政権で重要な役割を果たしていたといわれていますから、天照は元々男神だったという説は説得力があります。全国の天照神社のほとんどが元々はニギハヤヒ信仰だったとも言われています。もし太陽神が主神ですと、物部氏の祖先神が主神だということで大王家の方が物部氏より宗教的に格下になってしまいます。

 ですから、太陽神は主神ではなく天御中主や高御産巣日を中心にする神話体系があったと考えられますね。それを物部氏が蘇我・物部戦争で衰え、さらに乙巳の変で蘇我宗家が滅んで、中臣氏が祭祀を仕切るようになって根本的に神話体系を変えて、女帝の時代に相応しく天照を女神で主神にするということになったのかもしれません。

 ただしそれはあくまで七世紀から八世紀初めの政治情勢によって記紀の記述が大きく左右されているという前提にたっての推理です。『日本書紀』は本文だけでなく一書によればということで多くの文献から引いていますね。これだけの本に書いてあるのだから、そこから歴史を構成してくれという意味かもしれません。もっともそれも為政者のお得意の誤魔化しである可能性もありますが。

天照信仰と儒教および仏教の影響

 日本神道の成立は文献的には、中臣氏の神道までしか遡れないでしょうが、『古事記』『日本書紀』などの伝承を検討しますと、元々は天御中主や高御産巣日、神産巣日などを主神にした神話体系を持っていた時期が先行したと思われます。あるいは月読命も中心的な役割を果たしていたかもしれません。

 なぜなら、『隋書倭国伝』には「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、いう我が弟に委ねんと」とあります。倭王は宗教的な儀礼は夜のうちに行っていたと見られるからです。それに道教の天皇大帝信仰の影響もあったでしょう。

 それが天照大神を主神とする太陽信仰中心に変わったのは、儒教と仏教の影響が考えられます。儒教では徳によって治める徳治主義が強調されます。武力で覇権を確立して治める覇道に対して、王者の仁徳で人民を安んじる政治が求められるわけです。

 元々はスサノオが武力で人民を統治する形が、想定されていまして、『日本書紀』のよ
うにスサノオが天下を治めるはずだったのです。ですから地上に王権ができるとしますと、スサノオの子孫が治めることになるはずで、大国主の統治はその線に沿っていました。しかしスサノオは嵐の神であり、武力で支配するわけです。

 ところが天照は太陽神ですから、暖かい陽光を降り注ぎ豊かな稔を与えてくれる徳治政治です。イソップの北風と太陽の比喩のように、仁徳で支配するのが正しい政治のあり方だということです。それで太陽神の子孫が天下を治めるべきだということに変わってしまったのです。

 太陽だって日照りの災害をもたらすから一概に言えないのですが、もう一つは仏教の影響ですね。それによって太陽がさらに慈悲の本体のように捉えられたのです。聖徳太子の時代に浄土教の信仰が入っていました。『天寿国繍帳』は、推古天皇の孫で廐戸皇子の正妻であったといわれる橘大郎女が作らせた刺繍ですが、死後天寿国に往生したとされています。

 この天寿国というのは当時の高句麗では阿弥陀浄土のことだとされていましたから、高句麗僧慧慈から仏教を教わった皇子のことですから、天寿国は阿弥陀浄土と思われます。阿弥陀如来
梵名 はアミターバで無量の光という意味です。つまり光の仏なのです。

 ちなみに華厳宗の宇宙の本体である仏の毘盧遮那仏やそれが人間に対して法を説かれた姿の大日如来も本体は光であるとされます。ですから飛鳥・白鳳・天平時代の仏は無量の光を降り注ぐ太陽のようなイメージで捉えられていたわけです。この仏教の圧倒的影響が神道にも及んだとしたら、主神が北極星や月から太陽に変わったということは十分ありえる話ですね。

 日本は縄文時代から太陽神信仰が盛んだったといわれています。暦などを考える時に日の出の方向、日没の方向とかが重要ですし、もちろん太陽が昇らないと生活が成り立ちません。農耕が中心になった弥生時代はなおさら太陽信仰が行われます。物部氏の祖先のニギハヤヒは生駒山や三輪山に昇る太陽を信仰していました。ただし、ニギハヤヒも天孫族出身ですから、彼自身が太陽神の化身となって河内・大和に君臨したのは、地元の人々の信仰に融合したからだと思われます。

 大和における古墳時代の古墳の並べ方も日の出の方向太陽の方向にあわせていたと言われますから、太陽神信仰が尊重されなかったわけではありません。しかし天孫族の部族としての神話体系の主神には天の御中主が座っていたらしいということですね。それはおそらく天孫族が海人出身であったことと関わるのではないでしょうか。

 航海においては星が頼りで、位置の変わらない北極星は天を支配、自分の周りを巡らせて天の秩序を統合し、とりわけ航海の安全を守ってくれていたわけです。
 

誓約(うけい)

 さて月読み命については穀物神を斬り殺す話ぐらいしかでてきません。天御中主と共に夜の世界では重要なので、元々はいろんな話があったでしょうね。物語文学は『竹取物語』から始まりますが、『竹取物語』は月読み命を主神にしていた筑紫の国つまり九州王朝の終焉を素材にした物語であろうという幻視を室伏志畔はしているのです。

 記紀神話は天照大神とスサノオの命の確執を中心に展開します。この神々の確執をバックにオオクニヌシの命がニニギの命に国譲りするという話につながるのです。

 スサノオが母イザナミを慕って海や川を枯らすほど泣き喚く、暴れると建物もみんな壊れてしまうというので、そんなに母の住む根の国に行きたいなら勝手にしろと追放されることになるわけです。これは母性に役割の重要さを思い知らされる話で、スサノオが暴れん坊のわりにはどこか憎めないのはそのせいでしょう。青少年の非行問題でも背景に必ず家庭の崩壊があり、母性や父性の欠如があると指摘されていますね。

 スサノオは根の国に行くことを姉の天照に報告しようと、高天原に昇ります。高天原つまり天孫族の出身地がどこであったかがよく問題になります。神話的には天に在るわけですが、歴史的にはやはり朝鮮半島か対馬、壱岐あたりから進出してきたと考えられます。加羅(任那)がもっとも有力ですね。

 ということは半島は天照の下に治まっていたのだが、列島は自然災害や戦争が多くてなかなか治まっていなかったということかもしれません。それでスサノオが半島に上陸したということで、天照としては高天原をスサノオに蹂躙されては大変だと戦支度をして出迎えるのです。ですから半島側から見れば、列島は野蛮な土地であり、スサノオが暴れている土地である。しかしいつかはスサノオを根の国においやって、やがて天照の権威で治めなければならない土地だと考えたのは当然だったかもしれません。

 スサノオに対して天照は戦支度で出迎えたので、スサノオは姉に報告しに来ただけで侵略の意思はないとし、そんなに疑うのなら誓約(うけい)をしようと言います。つまりお互いの持ち物を交換し、相手の物を食べて神を生みます、そしてスサノオは自分の持ち物から生まれた子供が女だったらスサノオの勝ちで、侵略の意図のないことの証明だとしたのです。

 そこでスサノオの十握剣(とつかのつるぎ)を天照が食べて、天照は多紀理比売(たきりひめ)、市寸島比売(いちきしまひめ)、多岐都比売(たきつひめ)という航海安全の宗像神社の三女神を生みました。そして天照の八尺の勾玉(やさかのまがたま)をスサノオが食べて、天の忍穂耳(アメノホシオミミ)の命、天の菩比(アメノホヒ)の神など五柱の男神が生まれて、スサノオの勝ちだということになります。

 この誓約で生まれた子供は生んだ神の子ではなくて、生まれる材料になった持ち物の所有者の子なのです。ですから宗像三女神はスサノオの娘であり、五柱の男神は天照の子供だということになります。それだけ十握剣はスサノオと一体であり、八尺の勾玉は天照と一体だったということになります。スサノオは嵐であり、そして天孫族の列島での王スサノオの身体であると共に十握剣でもあるのです。天照は太陽であり、天孫族の半島での女王天照の身体であると共に八尺の勾玉でもあるということです。

 これは古代人の心性にとっては当然のことかもしれません。愛着を持って使っている道具、弓矢とか土器とか、自分が誰にも負けないと思っている織物とか、料理などその人の命が感じられる物は、その人自身でもあるわけです。どうしても近代人は人間を身体的個人として捉えがちなので、古代人の「物」感覚を理解するのはむつかしいのです。

 しかし天照はスサノオの地上支配権を認めないで、自分の子供の天の忍穂耳の命に地上支配をさせようとします。でも彼こそ、スサノオから生まれた子なのです、そのせいか天の忍穂耳の命は息子のニニギの命に天降りさせて地上支配させようとするのです。現代人の感覚からはスサノオから生まれた天の忍穂耳の命はスサノオの子でありその子ニニギやイワレヒコはスサノオの系統ですね。ですからオオクニヌシから国譲りさせるのは筋が通りません。
 

天の岩戸

 誓約でスサノオが勝利したので、彼は勝った、勝ったという名前を自分が生んだ天照の御子である天の忍穂耳の命につけています。正式名は「正哉吾勝勝速日天の忍穂根尊(まさかあかつかちのはやひあまのおしほねのみこと)」です。

 天照にすれば、スサノオに侵略の意図がないのなら、根の国にいくということはもう分かったから、さっさとおそらく加羅のことだと思われる高天原からは立ち去ってほしいところですが、居座っています。

  誓約に勝ったからしたいほうだいしてもいいと勘違いしたのか、春は種を重ね播きし、田の畔を壊したりしました。秋には馬を田に放して田を荒らしたのです。そして新穀を神にお供えする新嘗祭の最中にその部屋で糞をしました。そして機殿にいた天照に馬の皮を剥いで御殿の屋根に穴を開けて投げ入れたのです。一書では稚日女尊(わかひるのめ)が機を織っているところに投げ入れたので、驚いて機から落ちた稚日女尊が事故死してしまったのです。

 そこで頭にきた天照大神は天の岩屋に入って、磐戸を閉じて籠もってしまったのです。その結果国中常闇になってしまったのです。いわゆる皆既日食の神話化です。日食は一時間あまりで終わってしまうものだということを知っていれば、大騒ぎすることもなかったのでしょうが、まだ文字の記録のない時代でしたので、慌てふためいたのです。

 この世に光をもたらす太陽神の死と再生は非常に重大な宗教的テーマでした。太陽の死と再生は三種類あります。先ず毎日の日没と日の出です。日の出を拝むという風習がありますが、再生してくれた太陽神に感謝するわけです。
饒速日命は駆け上る太陽の神ですが、これを仰ぎ見て、恵みに感謝して祈るわけです。次に一年の太陽の死と再生です。一番光が弱くなった冬至を、太陽の死と再生の日とするわけです。

  イエスの聖誕祭が、冬至のすぐ後に設定されたのは、太陽神信仰で太陽の誕生日とされていたからです。キリスト教は、イエスは世の光であるとして、イエスと太陽を同一視させ、太陽神信仰の人々を取り込もうとしたわけですね。そして最後が日食における太陽の死と再生です。突然の太陽の死は世の終わりのごとく思われ、大変な恐怖を与えたでしょう。そこでいろんなことをして太陽をよみがえらそうと試みるのです。

 高御産巣日の神の子で深く考えて知恵に優れた思金(おもひかね)の神にアイデアを求めます。するとまあドンちゃん騒ぎを天の岩戸の前でして、みんなが楽しそうに大笑いしていれば、天照にすれば、自分が隠れてこの世が暗闇になってみんな困っているだろうと思っていたのに、どうしたことだろうと顔をのぞかせるに違いない、その瞬間に怪力の手力男(たぢからを)の神にこじあけさせようという作戦です。

 その際、主役はストリップショーをした天の宇受売(あめのうずめ)の神です。古代人は鈿(花簪)を刺す巫女をウズメと呼んだようです。それで大きな桶をうつ伏せにしてそれを舞台にして踊ったのです。鏡を前にぶら下げて、それを見ながら踊ったということですね。これは大変大胆な発想ですよね。太陽が隠れちゃうと、どうしても暗い発想しか出ないと思いますが、底抜けに明るい、プラス思考の発想です。

 この踊りで太陽を甦らせようという蘇生のパワーがあるのです。性は命の源泉ですべてを生み出すわけですからね。これが神楽や芸能の原点になります。「巧みに俳優(わざおぎ)をなし」と『日本書紀』にあることから、俳優の元祖だといわれています。それで芸能の神として車折神社(くるまざき)に祀られているのです。

  それから踊りという面では、中世の踊念仏も一心不乱になりますと、大変しどけない格好になったようで、それで評判を取ったようですね。天の宇受売の芸風を受け継いでいたようです。

それにしても芸能の元祖がストリップというのは驚きですね。そしてその技が観衆を楽しませ、笑わせるところにあったということも興味深いところです。ストリッパーやコメディアンといった人々はどうしても低く見られがちですが、天の宇受売神話を読めば勇気付けられ、誇りを持てるのではないでしょうか。喜びを与え、命を甦らせるのは性欲を刺激し、笑いを呼ぶ我々なんだ、我々こそアーチストの原型なんだと。

 天の宇受売は国津神の猿田彦と結婚して、道祖神になります。男女ペアで道端に祭られている同祖神は夫婦和合と豊穣の神として農民に信仰されてきたのです。

 さてこうしてなんとか思金の大胆発想と、天の宇受売の熱演のお陰で、天照大神の再生に成功したのですが、事件の発端になったスサノオは罰にたくさんの財を供出させられ、鬚とと手足の爪を切られ、御祓いをされて、追放されたのです。

 『古事記』ではスサノオは海原の支配を命ぜられたとありますので、海洋の対馬や壱岐に拠点をもっていたかもしれませんね。でも『日本書紀』では列島の支配を命ぜられているようですから、筑紫や出雲に拠点があったかもしれません。ともかく列島から半島に舞い戻って暴れた倭寇のはしりが一世紀に既に居たということですね。確かに『新羅本紀』にはそういう記事があるのですが、『三国史記』の編纂が李氏朝鮮によるものですから、信頼できる史料に基づくのかどうか疑問視する人も多いようです。

八岐大蛇伝説

 さて高天原から「神逐(かむやら)ひ」で放逐されたスサノオは、出雲の国に天降ります。そこで肥の河の上流で足名椎(あしなづち)と手名椎という老夫婦が童女を置いて泣いていました。そのわけは、自分たちには八人の女の子がいたけれど、毎年八岐大蛇が来て食べてしまった、今年もこの子を食べに来るので泣いているというのです。

それでどんな姿か尋ねますと、目は赤いタンバホオズキのようで、体は一つなのに、頭と尾は八つずつあります。その長さは八つの谷と八つの山に渡っているというのです。
 そこでスサノオは自分が八岐大蛇を退治するので、その娘を嫁にくれないかというのです。それで名前を聞かれ、天照の弟のスサノオだと明かして、承知させます。そして娘を櫛に変えて髪にさし、老夫婦に酒をつくらして八つの酒船を用意しておいたのです。狙い通り八岐大蛇は酒には目がないらしくて、大酒を食らって酔いつぶれてしまいます。それで十握の剣で首と尾を斬りおとしてしまいます。すると肥の河は血の河になったといいます。

尾を斬っていますと剣がはこぼれしたので、何かあると取り出しますとそれが見事な剣でした。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼びます。八岐大蛇の上にはいつも雲が群がっていたからだそうです。これは雲を呼ぶ剣という信仰もあり、嵐を呼ぶ男スサノオに相応しいですね。また雨は農耕には不可欠ですから、雷を呼び雨を降らせる剣として支配者として必要な農業祭祀の道具ともいえます。

もちろんこの剣は天下を剣で治める覇権の象徴です。八岐大蛇は出雲の八氏族の象徴といわれます。出雲を剣で平らげた話だということですね。また出雲地方だけでなく、大八島全体が八岐大蛇と考えれば、この剣は列島全体の霊だということになります。ですから地の国を支配する覇者が持つに相応しい剣です。剣自体が列島の霊であって、剣に霊が宿っているのではありませんよ。

 スサノオはこれを高天原の天照に献上したとあります。これは後に三種神器の一つとして朝廷の天皇の資格のように言われます。それでスサノオから天照がもらったことにしないと困るわけです。でもどうして献上するかその理由が分かりません。

それに『日本書紀』では、五代の孫に献上させていますから、すぐに献上したわけではありません。後にオオナムチがスサノオから生剣を盗んでいます。これが天叢雲剣だった可能性もありますね。だとすると国譲りの際にニニギの命に献上されたということでしょう。

 スサノオは根の国に行くはずなのに櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚して、なかなかそれどころじゃなくなります。ついに心が清清しくなった出雲の須賀に宮を作ります。そこに雲が立ち上ったので、御歌を詠みます、この歌が現存する最古の歌といわれています。

「や雲立つ 出雲八重垣。 妻隠(つまご)みに 八重垣作る。 その八重垣を。」

これは妻を奪われないように八重垣で囲んだということですが、同時に非常に大きな要塞を築いたということで、出雲を拠点に勢力を張ろうとしていたことが分かりますね。そしていろんな女性と結婚して神々を生んでいます。その中には、大年の神や宇迦の御魂の神など重要な神がいます。これらは農業の神ですので、次は農業の神々を取り上げましょう。
 

農業の神々

 農業に関係する神々と言えば、ほとんどの神々が多かれ少なかれ関わっています。天の真ん中にいる天の御中主があってはじめて、天体の運行が成り立ちますから、農業には欠かせません。高御産巣日の神、神産巣日の神および各地の産土の神々も、物を生み出す神として農業の生産を支えています。もちろん美斗の麻具波比で日々頑張っている伊耶那岐の命と伊耶那美の命の生む働きがあって、作物も実るのです。猿田彦大神と天の宇受売の神のご夫婦も同祖神として子作りと豊作に貢献しています。

 三貴神と言われる天照大神、月読の命、須佐の男命も当然農業では重要です。天照大神が居られないと陽が射さないので作物は全く実りませんね。月が出るので暦が成り立ちます。農業には大切です。スサノオは雨を降らせますから農業には大切です。また洪水で土が入れ替わり、豊穣をもたらします。

  またスサノオを祀ることで風水害などの災害からまぬかれることもできるのです。日本では疫病神や貧乏神、各種の祟りの神などを祀って、災難を免れようとします。祀れば災難や祟りをもたらす神は、我々を守護してくれるといことになっています。ですから天変地異に悩まされている日本の農業では荒ぶる神々も大切なのです。

 さてもっと直接農業に関する神々を見ていきましょう。先ず『日本書紀』にある保食の神
(うけもちのかみ)です。

  三貴神のうち天照大神はさっさと高天原に昇られました。そこから葦原中国には保食の神がおられるから見てきなさいと月読み神に命じられたのです。

  保食の神は月読尊を歓迎して食事を差し出したのですが、陸を向くと口から米の飯を、海を向くと口から魚が出てきます。そして山を向くと口から毛皮の動物が出てきたのです。それを月読尊に出したものですから、「口から吐き出したものを喰わせるのか、けがらわしい」と言って、剣を抜いて保食の神を殺してしまったのです。

 そのことを月読尊が姉に報告しますと、天照は「お前は悪い神だ、お前とはもう会いたくない」と言って、夜と昼に分かれてしまったという説話です。なかなか兄弟姉妹仲良くとは神々でもいかないものですね。

 それで天照が天熊人という神に供える米を作る人に保食の神の様子を見にやりますと、死体の頭から牛馬が生まれ、額の上に粟が生まれ、眉の上に蚕が生まれ、眼の中に稗が生じ、腹の中に稲が生じ、陰部に麦と大豆・小豆が生じていたのです。こうして家畜を飼い、穀物を栽培し、養蚕をして生糸を生産するという農業の起源になったということですね。

これとほとんど同じような話が『古事記』ではスサノオと大気都比売(または大宜津比売おおげつひめ)の関係でも起こります。スサノオがオオゲツヒメに何か食わせてくれと注文しますと、鼻口尻からいろいろ美味しそうなものを取り出したのです。

でもスサノオはやはり「キタネエーなもう!」と怒って殺してしまったのです。そうしたら頭に蚕、眼から稲種、耳に粟、鼻に小豆、陰(ほと)に麦、尻に大豆が生じたのです。

 
インドネシアセラム島のヴェマーレ族の神話にはココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女が登場します。彼女は様々な宝物を大便として排出することができたので、村人に配ったら、村人たちは気味悪がって彼女を殺してしまつたのです。

そして、死体を切り刻んであちこちに埋めました。すると、彼女の死体からは様々な種類のが発生し、人々の主食となったということです。それで神の死体から食物が生じる話をハイヌウェレ型神話といいます。インドネシアからいったん中国に伝わり、中国から日本に伝わったらしいのです。

月読み神やスサノオの神は、ただ体から出てきたものを食べさせるというところだけ見て、穢れていると思ったわけですね。まあ浅はかな神々です。

保食の神もオオゲツヒメも大地母神のようなもので、大地を人の姿の神にしているのです。大地のいろんな穴から出てくる生き物を我々は食べているわけで、それで口や鼻や耳や尻や陰から出てくるわけです。

それを穢いというのなら大地から生まれてくるものは何も食べられません。肉食動物は草食動物を草食動物は草を草は土や空気から水や養分を得て生きていますね。ですからすべて土から生まれているのです。そういう生命の循環を象徴しているのですね。それを穢いといって食べないばかりか、その神を殺したりするのはとんでもないことだという寓話です。

しかもその神を殺すことで五穀や家畜などが生じてくるということですね。それは食べることは殺すこと、つまり命をいただくことなのだということでしょう。そしてその命を燃やして生きているわけです。大地女神の体を食べていろんな植物や動物が生まれてくるということですね。そして殺して食べてばかりでは駄目で、最後には殺されて食べられるわけです。そうして大地に戻り、また生まれてくるという循環があります。

我々は五穀や家畜を食べる時に神の体をいただいているのだと、ありがたい感謝の気持ちを持つべきなのです。そして食べられてまた産土の神に還るということですね。そういう自覚がないと、無自覚に自然を人間の欲望のままに荒らしてしまうことになってしまい、神なる生命に預かることもできなくなってしまいます。

あなたは食事の時きちんと手を合わせて、いただきますと言って食べていますか。我が家では四歳の孫娘がいて「ごはんありますか」と言いますと、みんなで「ありますよ」といいます。すると「では手を合わせて、ご一緒に、いただきます」といいます。保育園の給食でやっているようです。それだけでとても有難い気持になるから不思議ですね。 

大年神

日本の昔話に「かさこ地蔵」と言う話があります。「正月様がいらっしゃるちゅうに、餅この用意もできとらん」という台詞があります。この正月様はスサノオと大山津見の神の娘である神大市比売(かむおほちひめ)との間に生まれた大年神(大歳神)のことです。

毎年恵方(えほう)の方角からやってくる来訪神なのです。ですから恵方神とも呼ばれます。年神をお迎えするために門松を立てますが、神の依代(よりしろ)にするためです。恵方は五種類あって年によって変わります。 

年の十干

方 角

西暦年末尾
の数字

甲・己の年

甲(寅卯の間)

東北東

4 または 9</< td>

乙・庚の年

庚(申酉の間)

西南西

0 または 5

丙・辛の年

丙(巳午の間)

南南東

1 または 6

丁・壬の年

壬(亥子の間)

北北西

2 または 7

戊・癸の年

丙(巳午の間)

南南東

3 または 8

正月がやってくるのは当然のことで喜んで迎えるのはおかしいと思いませんか。それが違うのです。「年」という言葉には稔という意味があり、年神はだから豊作をもたらす穀物の神なのです。「祈年祭(としごいのまつり)」は豊作を祈願する祭りなのです。

ですから正月の祭壇には米俵を飾ったり、鏡餅を飾ります。これは年神へのお供えとされていますが、元々は稲自体が神様だということですね。弥生時代の建物は、人間の建物は竪穴式住居なのに、米の倉庫だけは立派な高床式になっていますね。もちろん湿気を防ぐためですが、神である稲を祀っていると考えれば、稲の住居の方が人の住居より立派なのも納得がいきます。それだけ命の源泉として稲は神聖視されていたということです。

新年は新しい年神の年なのです。つまり穀物は毎年収穫され、その年の穀霊は死に正月に新しい穀霊が誕生してやってくるという死と再生の繰り返しなのです。我々も穀霊と共に去年の自分は死に、新しく誕生したつもりなって生きることが大切です。

 

宇迦之御魂神と稲荷信仰

宇迦之御魂神(倉稲魂神ウカノミタマノカミ)も穀物の霊である神です。伊勢神宮で天照大神の御饌(ミケ)の神として食糧を調達している豊受大神もそうです。まあ穀物の神々は元々は穀物自体が神ですから、各地で発達し、それぞれの名前で呼ばれていたのでしょうが、次第に統合されていったのでしょう。宇迦之御魂神も大年神と同じ父母から生まれたとされます。

 宇迦之御魂神は稲の神なので稲を成らせるということで稲荷神とも呼ばれ、稲荷大明神として四万から五万もあると言われる全国の各稲荷神社で祀られています。稲荷神社はもちろん豊年をもたらす農業の神社なのですが、産業が発達し、商工業がさかんになってくると、商工業の守護神にもなり、開運をもたらす福の神にもなります。ですから都会の中にも稲荷神社は沢山作られています。

 そういう柔軟な性格は、地域と共にある神社の性格からきている面もあるでしょう。つまり何神社であれ、その地域では産土の神として機能しますから、その地域が都市化すれば商工業の守護神にもなりますし、同じ地域の出身者が多くなると出身地の稲荷神社も進出してくるわけです。江戸には稲荷神社が犬の糞ほどあったと言われています。

ところで稲荷信仰には二種類あると言われます。それは宇迦之御魂神を稲荷神とする神道系で伏見稲荷神社が総本社です。もう一つは仏教の鬼神陀枳尼天(ダキニテン)を稲荷神とする真言密教系の稲荷信仰です。円福山 豊川閣 妙厳寺(えんぷくざん ほうせんかくみょうごんじ)が本山です。

 真言宗が稲荷信仰を取り入れるようになったのは、東寺を建造する際に秦氏の協力で伏見の稲荷山から木材を調達した縁があり、稲荷神社を東寺の守護神としました。それで宇迦之御魂神を、白狐にまたがる仏教の陀枳尼天と同一視したわけです。狐は田の神の使いとされていたので、陀枳尼天は田の神つまり宇迦之御魂神だということですね。

でも陀枳尼天は元々はインドのヒンドゥー神でした。恐ろしい人食いの女神だったようです。そもそもは農業神だったのですが、やがて性や愛欲をつかさどる神とされます。そして遂に人の心臓を食らうようになります。仏教では大日如来の化身である大黒天が、調教し、死んだ人間の心臓しか食べなくなったのです。そこで心臓にありつくために人間の死を半年前に予知できる能力を身につけたといわれています。

この縁で狐が神の使いとして稲荷信仰で重要な役割を果たすようになります。皆さんも稲荷神社といえば狐を祀った神社という印象が強いでしょう。先に仏教系の稲荷信仰に狐が導入され、その後神道系でも宇迦之御魂神の使いとして狐信仰が起こったわけです。最初は使いと言うことだけだったのが、狐の神霊を伏見稲荷神社では命婦神(みょうぶしん)と呼んでいます。そして宇迦之御魂神が多忙なので、命婦神がご利益を与え、福を授けると言われています。

狐と言いますと妖術を使って人を騙したり、いろいろ害を与えるイメージがありますが、それは中国が起源だというわれます。平安時代以降に陰陽師や修験道の者が狐を使った呪術を行い、狐に悪いイメージを与えたらしいのです。しかし私は狐も怨霊だと思いますね。なぜなら人間たちは次第に山を開発し、狐たちが棲みにくくなっています。それで人間に恨みを持つ狐が祟ると恐れられたのではないでしょうか。そこで狐を稲荷神の使いとし、命婦神として神格化することで、その怨霊を鎮撫すると共に、人間を守ってもらおうとしたのではないでしょうか。そういう要素も気づかないうちに習合している気がしますね。

              大国主命と国譲り説話

 いよいよ大国主命と国譲り神話に入ります。詳しくは『くすのき塾』での私の『歴史講演集』にアクセスしていただき、その『大国主について』という講演記録を読んでいただきたいのです。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/shotoku/ookuninushi.htm

先ず大国主といえば、大黒様が因幡の素兎を助けた話が思い浮かぶでしょう。もっとも戦後は学校では神話教育をしなくなりまして、歴史や国語の教科書に載っていませんので、ご存知ない方も多いかもしれません。

〔念のために「大黒様」という表現は「大国主」と「大黒天」が音が同じで混同されたもので、インドの神の大黒天とは無関係です。七福神の項目で大黒天はとりあげましょう。〕

因幡の兎が洪水で隠岐に流されたのですが、因幡に帰りたくて一計を案じます。ワニザメに兎とどちらが多いか数比べしたいので、隠岐から因幡まで並んでくれないかと話を持ちかけました。そしてワニザメの背中を渡って因幡の岸に着く直前に、ワニザメに実は騙していたと言って馬鹿にしたけです。それでワニザメに皮をはがれて赤裸にされてしまったということです。

それで痛い痛いと泣いていると、八十神たちが通りかかり潮水で体を洗って潮風に吹かれたら治ると教えたのです。悪い兎をさらに懲らしめてやろうということですね。でも既に罰を受けているわけですから、八十神たちの行為は弱い者いじめでしかありません。

 その後で大きな袋を肩にかけた大黒様がきかかるのです。というのが、八十神たちは因幡の八上媛の婿選びに応募しようと押しかけていたわけです。その荷物持ちで大穴牟遅命(オオナムチノミコト)つまり大黒様が遅れてついてきていたのです。もちろん心優しいオオナムチは真水で体を洗い、蒲の穂にくるまわせて治療してやります。

 これが実は婿選びのテストだったのですね。ですからオオナムチが「愛される理由」が示されているわけです。たとえ罪を犯した者に対しても苦しんでいる者を哀れみ、救いの手を差し伸べる人こそ八上媛の婿に相応しいという事です。それで権力者や身分の高い神々よりも荷物持ちをさせられていたオオナムチが選ばれたということです。これは『古事記』が王の資格として「もののあはれを知る心」を持っていることをあげているということです。日本人の民族性は主情主義であるということを示しているわけですね。

出雲という連合王国の女王が八上媛だったので、オオナムチは王になりますが、妬んだ八十たちに狩に誘われて、真っ赤に焼けた岩を猪だと騙されて下敷きにされ殺されてしまいます。でも母の刺国若比売(サシクニワカヒメ)が神産巣日の神に直訴して生き返らせてもらいます。でもすぐにまた殺され、また母に助けられます。死から甦る度に飛躍的に強くなります。死に打ち勝ったのですから恐いものなしということですか。でもこれではいけないということで結局、先祖のスサノオの住む根の堅州国つまり黄泉の国に避難します。

『古事記』では6世の孫ですが、『日本書紀』ではスサノオの子供ということになっています。オオナムチは天照の息子のあの八尺の勾玉からスサノオが生んだ忍穂耳命と同世代のはずですから、息子の方が都合がいいのです。でもちゃんと系図があるのでさてどちらが正しいのか分かりません。ともかくスサノオのいる黄泉の国を訪れますが、そこで出迎えたスサノオの娘須世理毘売(スセリビメ)と眼が合ってすぐ結婚してしまいます。黄泉の国には生きた生きのいい男はまあいないでしょうからスセリヒメが夢中になるのは無理もありません。

スサノオは何度もオオナムチを殺そうとします。それは面白がってというのもあるでしょうが、自分の娘の婿に相応しいかどうか試す意味もあったのでしょう。でもスセリビメが何とか助けで、スサノオが眠り込んでいる間に、髪を柱に括り付けて一緒に逃げ出します。

スサノオも追いかけてきて、黄泉の国の出口で、八十神をやっつけて大国主になれといいます。その際、オオナムチは生太刀、生弓矢、天の沼琴という三種の神器みたいなものを持ち出しているのです。この生太刀は天叢雲剣のような気がしますね。天照に献上したことになっているので、記紀にはそう書けなかったのではないでしょうか。

 天叢雲剣は列島の霊です。霊が剣に宿っているのではなくて、剣が霊なのです。物と霊の二元論ではないということがポイントですよ。ですからこの剣は覇権の象徴です。この剣を持っていると天下無敵ということですね。だから八千矛(やちほこ)の神と呼ばれるほど強くなり、たちまち大国を支配するようになったのです。

勢力範囲は出雲と明日香に宮を置いて、北陸、中部山岳、近畿、中国、四国ぐらいまで拡大したらしいことは、大国主や大物主が祀られている神社の分布からも裏付けられます。東海、関東、東北は蝦夷が強く、筑紫(九州)は天孫族や隼人、熊襲が支配していました。隣国とは善隣友好政策をとり、共存共栄を図ろうとしたのです。

 そして併合した地域も地域国家の自治を認め、先進技術を普及させて生産性を上げ,豊かな地域にすることによって税収増を計っていくようにしたのです。つまり平和で豊かな国づくりを成功させたのです。そのために活躍したのが後の一寸法師のモデルになったと思われる
少名毘古那(すくなびこな)の神です。蔓芋のさやを割って船にして、蛾の皮をはいで着物にしている小人の神です。それが大陸の先進技術を伝えてくれたのです。道修町の神農神社に医療の神として祀られています。酒造の神としても有名です。

 また久延毘古(くえびこ)という物知りの神がいました。山田の案山子のことです。その知恵で、国づくりに貢献したようです。国づくりがうまくいったので少名毘古那が常世に旅立ちます。常世は海のかなたの異界の国ですが、亡くなったということでしょうか。

それで途方にくれていると海から大物主命がやってきます。そして大国主が自分を三輪山に祀れば、一緒に国づくりをしましょう、きっと成功するでしょうというのです。『日本書紀』では大国主の「幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)」ということです。ですから大国主のもう一人の自分のような存在で、それが三輪山だったということかもしれません。少名毘古那なき後、三輪山に話しかけながら、孤独を癒していたともとれますね。ただ大国主亡き後も、大物主が出てきますので、心の友となって、三輪山に住んでいた人がいた事も考えられます。

 大物主は三輪山ですが、同時にその化身としては白蛇です。それは男根を象徴し、豊穣の神でもあったと思われます。大物主を祀っていた
飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ、)には四十年前に行った時には身長ぐらいの石の男根が百本ぐらい林立していました。それがほとんど取り除かれていたそうですが、最近また多くなったそうです。そのお祭りに「おんだ祭(御田祭)」がありまして、天狗とオタフクが走り回ったりつつきあったりするのです。そうやって豊穣を祈願するそうです。

 まあ夫婦和合して、都と地域も助け合い、善隣友好で隣国とも共存共栄を図り、平和で豊かな国づくりを進めていたので、大国主はみんなに慕われていたわけです。聖徳太子の和の精神により、話し合い衆智を集めて行う政治の先取りです。

その大国主に天孫族は国譲りを迫りましたから、これは大変無理があります。記紀は天孫族の立場で書かれていますが、たとえ大国主が素晴らしい大王であったとしても、国譲りをさせたことは正当であったことにしなければならないので苦労しているわけです。

天孫族がどこに居たかつまり高天原がどこかということがはっきりしませんが、おそらく加羅(任那)でしょう。そして対馬・壱岐・北九州が勢力圏だったと思われます。そこでは天照が巫女として神がかりになる祭政一致の政治が行われ、高御産巣日が政治的な実権を握っていたことになっています。

天照の息子の天忍穂耳を天降らす予定だったのですが、その前に平定しなければということで、天の菩比(ほひ)の神が派遣されますが、大国主に媚びて三年戻らなかったのです。そこで天若日子(あめわかひこ)が遣わされますが、大国主の娘である下照比売とできてしまって八年間音信がなかったのです。二人とも大国主の国が気に入ってしまったので、国を譲れとは言えなかったという解釈も成り立ちますね。

それで派遣されたのが『日本書紀』では経津主(フツヌシ)の神と武甕槌(タケミカヅチ)の神です。いきなり出雲の小浜に剣を逆さに立てて、国譲りをせまっていますが、相手は大国の大王ですから、その前に用意周到に奇襲作戦を立てて。明日香を落とし、出雲に逃れた大国主を追い詰めたのでしょう。

出雲にいた後継者の事代主は形勢を察して、恭順を示し、自らは海に身を投じたわけです。そして諏訪の建御名方の武甕槌に力比べて敗れ、諏訪に逃れますが、降伏させられます。そこで仕方なく、天孫族の宮殿よりも立派な宮を作って祀ってくれれば国を譲り、私は隠れています。事代主神を先頭に天孫の支配を宗教的に支えましょうということで妥協したわけです。

もちろんこれは記紀の記述としてそういうことにしたということでしょうね。実際は攻め滅ぼして殺してしまったのだけれど、大国主を慕って、地方豪族や人民の抵抗が続いたので、大国主が国譲りを承知したとし、彼を護国の神として敬い祀っているということで、治めようとしたと考えられます。そのために高さ百メートル近い超高層の神社を作ったといわれます。それはオーバーかもしれませんが、平安時代にあったのも高さが48メートルで最大の建造物だったわけですから。

ともかく大国主を祀る出雲大社は神代から造営され、国津神たちを統合して天孫族の支配を宗教的に支える役目をになっていたわけです。それは言い換えれば、全国の産土神を纏め上げるようなものですね。そして縁結びの神として有名です。それは大国主が結婚によって地方王権と結びついて勢力を拡大したということもあります。そして大物主と同一視される性的エネルギーで豊穣や富国あるいは平和を支えるというイメージからくるのでしょう。

        邇邇芸命から伊波礼毘古命(神武)へ

さて、本書は『日本の宗教』を概観するものでして、神話の解説を主たる目的にしたものではありません。日本神道につきましては、日本神道を概観するのに必要な範囲に限定して神話も取り上げることになります。とは申しましても、日本神道の性格として皇室の祖先が日本の国家を作ったことを前提にして、それを宗教的に合理化する体系として神話や歴史を作っています。そのことを抜きに国家宗教としての日本神道は語れませんので、神武東征による建国神話にはふれざるを得ないわけです。

話を大国主の国譲りに戻しますが、結局、タケミカヅチやフツヌシによる大和の統治は失敗したようです。先述しましたように天孫族のニギハヤヒが太陽神として地元の人々と融合して河内・大和に勢力を張っていたわけです。

 邇邇芸命(ニニギノミコト)は高千穂に天降りますが、大和にも出雲に東遷はしていません。曾孫の伊波礼毘古(磐余彦イワレビコ)が同母兄(いろせ)の五瀬命と一緒に東征をやり直しています。ところで邇邇芸命は高千穂に宮を作って統治されているわけですが、そのどんな政治をしたのか記述はありませんし、その範囲も明らかではありません。書いてあるのは、邇邇芸命から伊波礼毘古への血のつながりだけです。

よく読みますと意外なことが分かります。それはいわゆる嫡男の血筋というより、傍系なのですね。だから伊波礼毘古たちが高千穂宮で高い地位にあったとは言えないようです。

 この血のつながりをとても興味深いものにすることで、伊波礼毘古を皇孫に連なるものとして持ち上げようとしているわけです。邇邇芸命は浜辺で美しい娘を見初めて求婚します。その娘が
木花佐久夜比売(このはなさくやひめ)です。父の山の神である大山津見神は姉磐長比売も一緒に差し出しますが、美しくないので断ります。それではかなく散ってしまう花を抱き、磐を抱かなかったから長生きできないという話がつきます。

これはバナナ型神話というものです。神が人間にバナナを取るか石を取るか選択させますが、人は食べられるバナナを取ったので死ぬことになった、石を取っていれば不老不死だったのにという型の神話で東南アジアに分布します。

それはいいとして、木花佐久夜と一夜の契りを結びますがそれで妊娠してしまいます。邇邇芸命は一夜だけでは子供はできないだろうと疑ったので、お産の時に産屋に火を放って、天孫の子でなければ子も私も無事ではないだろうといいます。そして見事に三人の子供を燃える産室から無事生んだのです。

凄いトリックが古代からあったようですね。この話は実話とすれば、邇邇芸命が認知しようとしなかったので産屋に火をつけて産もうとした、それでそんなことをされては大変なので、邇邇芸命も認知だけはしたということでしょう。

ということは木花佐久夜比売は元々一夜妻だったわけで、正妻ではないのです。だから沢山居た御落胤のうちの三人だったわけです。ですからこの兄弟は天孫の子だという誇りは持っていても、皇子として育っていません。

長男が火照命(ホデリノミコト)、次男が火須勢理命(ホスセリノミコト)、三男が火遠理命(ホオリノミコト)です。長男が海で釣りをして暮らしていたので海幸彦、三男は山で狩をして暮らしていたので山幸彦と言います。全くの庶民ですね。

 それでこの山幸彦は海幸彦に三度も頼んで道具と仕事を交換して釣りをしたのですが、一匹も釣れないどころか大事な釣針を失くしてしまいます。それで山幸彦は大事な剣を潰して沢山の釣針で弁償しようとしましたが、兄は許しません。

それで航海と製塩の神である塩椎神(シオツチノカミ)の助けで、海の神である綿津見神(ワタツミノカミ)の宮殿に行き、そこで大歓迎され、赤目の鯛にひっかかていた釣針を見つけてもらい、豊玉毘売(トヨタマビメ)と結ばれます。 

三年間があっという間に過ぎました。そこで陸にかえる事になりました。そして綿津見神から潮満玉と潮涸玉をもらいます。兄がいうことを聴かないと潮満玉で溺れさせ、謝って助けを求める潮涸玉で助けます。こうして兄は溺れる様を踊りにして仕える俳人(わざびと)、俳優(わざおぎ)になったのです。

ところで火遠理命が陸に戻る時に豊玉毘売は妊娠していて、浜で産屋を作ってお産をしたのですが、産屋が出来上がらない間に生まれたので、その御子の名を鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)と呼びます。このお産の様子を見ないでくださいと頼んでいたのについ見てしまいました。なんと豊玉毘売は八尋鰐(やひろわに)の姿をしていたのです。

 異類の者と結婚し、機織とか、お産とかのような何かをするのを見ないでくださいとタブーにして、そのタブーを破られて正体を見られると分かれるという説話の一つですね。イザナギの黄泉訪問もそうです、民話でも龍女の「三井の晩鐘」や「鶴の恩返し」などがあります。

正体を見られてしまうと綿津見神の宮に戻るしかありません。そこで妹の玉依毘売(たまよりびめ)を子供の養育係にしたようです。そして結局、鵜葺草葺不合命が叔母さんの玉依毘売と結婚して生まれたのが、上から五瀬命、豊玉毘売のところへ行った稲氷命(イナヒノミコト)、常世に渡った御毛沼命(ミケヌノミコト)、そして若御毛沼命です。若御毛沼命が豊御毛沼命ともいい、別名神倭伊波礼毘古命です。

このように神話として山の神の娘とできたり、海の神の娘とできたりといろいろ潤色していますが、猟師の娘、漁師の娘と読み替えることができますね。結局、ニニギの一夜妻の御落胤ということで、それが兄とのトラブルで失踪して、三年たって戻ってきて、強くなっていて兄とのトラブルに勝ち、失踪先から追ってきた女性が子を産んだけれど、水が合わずに戻ってしまった。その子を育ててくれた叔母との間にできた子がイワレヒコです。ですからとても筑紫にいては支配者になれないということで、東征することにしたという解釈も成り立ちますね。

記紀が皇室の万世一系というものを強調するために全くのフィクションを書き連ねたものとすれば、ニニギからイワレヒコの血統をこのように表現するでしょうか。たしかに『古事記』日子穂穂出見命(火遠理命)は高千穂の宮に580年いたとあり、御陵は高千穂の山の西にありとされていますが、即位の記事も治政の記事もありません。鵜葺草葺不合命については子供のことしか書いていません。ただし『日本書紀』には鵜葺草葺不合命は西洲宮(にしのくにのみや)でなくなり、吾平山上陵(あひらやまのうえのみささぎ)に葬ったとあります。それ以外に記事はありません。

戦後歴史学は記紀神話をフィクションであるという面ばかり強調して、神話から潤色の部分を除くと何が歴史として見えてくるかにあまり取り組まなかったのではないでしょうか。当時の史料はないわけですから、記紀神話を解読する方法を見出すことが大切なのです。

                   神武東征説話

イワレヒコは15歳で皇太子になったとありますが、彼は全くの傍系ですから高千穂宮の皇太子になれるはずはありません。歴史的にも皇太子という制度はそれほど古くなく、聖徳太子が皇太子だったというのも根拠がないそうです。確認できるのは草壁皇子が最初らしいです。

それに彼は45歳で東征に行くと宣言したときに、「天孫が降臨されてから1792470余年になる」ととんでもないことを言っています。その天孫から曾孫が本人なのに、おかしいですね。「天孫が降臨されてから」ではなく、「人類が誕生してから」ということを言いたかったのでしょうか。それを聴き間違えていたりして、まさかね、そんな人類考古学的知識なんかなかったでしょう。

おそらく分かっていたのでしょう。私も曽祖父が阿波から材木商をしていたけれど船が沈んで倒産し、大阪に明治の初めに出てきたのが90年ほど前だということを子供のころ知っていました。ですからずいぶん年月がたってしまったということをオーバーに表現したわけです。底抜けに面白いですね。

 彼は
塩椎神に眼をかけられていまして、河内や大和の話を聴いているわけです。どうも塩椎神は航海や製塩に詳しいので、瀬戸内の海運で顔が利きボス的存在だったかもしれません。彼からニギハヤヒが天降って河内・大和に勢力を張っているということを知り、東にいけば自分も天下を取れるのではないかと考えたのです。

『日本書紀』では10月に諸皇子、舟軍を率いて日向を出発しています。いかにも筑紫の大王であったことは前提みたいですが、全く信用できません。その年のうちに安芸につき、翌年3月吉備で高島宮を設けて3年間東征の態勢を整え、3年後に浪速に到着しています。

ところが『古事記』では全く違っています。日向より宇佐を経て筑紫の岡田宮に1年います。阿岐(安芸)の多祁理宮(たけりのみや)7年、吉備の高島宮に8年いたのです。ようするに瀬戸内の各地に拠点を移して勢力を拡大しつつ、16年かかってやっと浪速に到着したのです。

この方が史実に近いでしょうね。つまり『日本書紀』だと大王が政権ごと移動して、東征したことになりますが、『古事記』ですと、兄の五瀬命と相談して、塩椎神の支援を受けて自分たちの勢力だけででかけたということです。そして安芸の平定に7年、吉備の平定に8年かかったということではないでしょうか。それでやっと大和を伺える勢力になったわけです。

『日本書紀』には「神代」に関しましては「一書に曰く」というので、本文とは違った記述が別の何種類かの書物から参照されていますが、「巻三、神武天皇」からは本文のみです。ですから『古事記』が一書の役割をします。

当時はまだ河内湖として大阪湾と離れていなかったのです。入り江になっていて、大阪湾から生駒山の西麓の日下(ひのもと)の草香にあった津(港のこと)まで船で行けたのです。そういう昔の地理的知識が正確なので後世の単なる創作だけではないということですね。

そこで地元登美の豪族那賀須泥毘古(ナガスネビコ)や登美毘古(トミビコ)と戦います。そこで五瀬命は登美毘古の矢で深傷を負います。日の神の御子なのに日に向かって戦うのは良くなかったと反省して退却します。そして和歌山市の紀ノ川の河口で亡くなったのです。

『日本書紀』では熊野から再び海路をとったときに暴風にあい稲飯命は海神の許に行き、三毛入野命は波頭を踏んで常世に行かれたとあります。結局イワレヒコは三人の兄を東征で失ったということです。そして書紀には熊野の荒坂の津で女族と戦ったとあります。古事記では大きな熊が出てきます。これが毒気を出したらしいのです。ともかく荒ぶる神の毒気をうけてみんな倒れてしまいます。

そこに高倉下(タカクラジ)という謎の人物が現れます。彼が夢のお告げでイワレヒコに届けるように授かった、建御雷命が国譲りで使った横刀を届けるのです。この神刀で東征軍は意識を取り戻し、荒ぶる神を皆切り倒します。それは佐土布都(サジフツ)あるいは甕布都(ミカフツ)の神という名前の刀です。現在は石上神宮(いそのかみじんぐう)にあるようです。鹿島神宮にもありますが、これは2メートルを超える長刀ですから実戦には使えないでしょう。

大国主の国譲りで活躍した経津主神(フツヌシノカミ)も刀だったかもしれません。フツヌシはニギハヤヒと共に物部氏の祖とされているわけです。刀が神であったり、霊であったりしますね、刀自体が神だということですよ。その刀を使う人もその神の化身となることがあります。刀と人は分身のような関係です。

高倉下は『旧事本紀(くじほんぎ)』という物部氏の歴史書ではニギハヤヒの子ということになっています。この時はまだニギハヤヒは帰順していませんから、高倉下がニギハヤヒの子ならとんでもない親不孝の裏切り者ですね。

それで熊野山中で道に迷っていたので、高木の神(高御産巣日の神)が三本足の八咫烏(やたがらす)を高天原から遣わして道案内をさせます。そして吉野川に出ることができました。そこで地元の国つ神つまり地方豪族を味方につけて態勢を整えていきます。

もちろん東から回ってきたとはいえ、西国からの侵略者ですから地元の豪族の中には、イワレヒコの使いを迎え撃とうとするものもいます。形勢不利とみた兄宇迦斯(エウカシ)はイワレヒコに恭順するふりをして、屋敷に仕掛けを作って討ち取ろうとしました。でも弟宇迦斯(オトウカシ)がそれを密告して兄を討たせたのです。

弟が恭順し、兄が抵抗する話には兄磯城(エシキ)と弟磯城(オトシキ)の話もあり、これは『日本書紀』が詳しいです。これらは兄弟の家督争いがあって、弟が兄を裏切ったのかもしれません。

 忍坂(おさか)の大室(おおむろ)では八十人の地元の威張っている猛者たちにご馳走を振舞うとだまし、料理人に一斉に討ち取らせたりしています。自分たちは天つ神の御子を戴いているので、地元の人々が恭しくしないと生意気だと思ったのでしょう。でもそれは非常に身勝手な理屈ですね。地元の人にとっては、そんな権威を知らないわけですし、新手の侵入者でしかありません。

そしていよいよ登美毘古を討ちます。兄五瀬命の仇討ちという気持もあったようです。

「みつみつし久米の子らが 垣下
(かきもと)に 植ゑしはじかみ 口ひひく われは忘れじ 撃ちてし止まむ(勇敢な久米の子らが垣のところに山椒を植えた。そのぴりりと辛い苦い思い出を私は忘れないさんざんに撃ち殺してやる)

という久米歌を歌っています。イワレヒコの兵士を久米部といい、戦勝の際にイワレヒコと共に久米部たちが唱和した歌を久米歌といいます。記紀には久米歌がいくつも載っています。まるでミュージカルみたいに戦をしていたのですね。

那賀須泥毘古(長髄彦)との決戦は『古事記』には出ていません。『日本書紀』では五瀬命は長髄彦軍の流れ矢に当たったことになっていますから、長髄彦との戦いが復讐戦です。この決戦では金色の不思議な鵄(とび)が飛んできてイワレヒコの弓の先に止まります。その鵄は雷光のように光り輝いて長髄彦の軍勢は力戦できなかったようです。

 劣勢になった長髄彦は兵を引いて、イワレヒコに使者を送って、言上します。つまり自分たちは天磐船(あまのいわふね)で天降った天神の御子である
饒速日命に仕えている、あなたも天神の御子と言っているが偽者でしょうと。それでイワレヒコは、いや天神の子は多くいるのだ。天神の子というなら証拠を示しなさい、と返答します。

それで饒速日命の天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を示しますと、これは本物だと認め、そして自分が持っているものを示したのです。それで長髄彦は畏まったのですが、今更戦いを止めるけにはいきません。それに長髄彦にしたらイワレヒコは侵略者ですから、やはり撃退したいわけです。

結局、饒速日命が天神つまり天照は天孫邇邇芸命の血統を重んじているので、逆らっても無駄だと長髄彦を説得しても聴きそうにないので、仕方なく長髄彦を殺してイワレヒコに帰順したというわけです。

しかしこの話は納得いきませんね。饒速日命も実は天孫なのです。別名天の火明命で父は天忍穂耳命ですから。邇邇芸命、火遠理命、鵜葺草葺不合命が高千穂宮で王として君臨していたという前提に立っています。その前提が崩れますと、饒速日命の方がはるかにイワレヒコより天神に近いことになります。でもややこしいのは饒速日命からみてイワレヒコは曾孫の世代ですから、同時代に出会うというのも不自然な気がしますね。

ということで、記紀から粉飾を取り除いて歴史の実相を覗くのは大変ですね。結局、天孫の血統を名乗るヒーローが浪速や大和を制圧し、そこから天下に号令しようと戦ったことが分かります。

その際に饒速日命は地元の豪族と融和し、太陽神という宗教的権威で君臨したのに対して、イワレビコはもっぱら「撃ちてしやまむ」と軍事的制圧によって覇権を樹立しようとしました。饒速日命は軍事的敗北を認め、物部氏としてイワレビコに仕えることになったわけです。

イワレビコの即位が紀元前660年だったというのはまったくの辛酉革命説による後世の虚構です、おそらく三世紀はじめ頃だと思われます。建国精神としては「八紘一宇(はっこういちう)」ですね。これは、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」(八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む)からきた言葉です。日蓮宗からの新宗教団体国柱会の田中智學という人の造語ですが、1940年に近衛文麿首相が「皇国(すめらみくに)の国是(こくぜ)は、八紘を一宇となす建国の精神に基づく。」と発言したのです。

イワレビコ自身の考えとしては天孫の皇統を受け継ぐ者が、天下に君臨して一つににまとめるべきである、ということでしょう。そうしてこそ天津神、国津神、八百万の神々によって守られて国が栄えるのだという考え方ですね。その実現を阻むものは「撃ちてしやまむ」ということです。

 でも邇邇芸命の祖母は自分を太陽神の化身と思っていた巫女だったわけで、その巫女が太陽と同一だというのは宗教的な思い込みにすぎません。ですから太陽が主神だとしても、自分が太陽の化身だと思い込む人が現れれば、その人およびその子孫が天下を支配してもいいということになります。だったら邇邇芸命でなくてもいいし、まったく既成の皇統と血統がつながらなくてもいいのです。

ただ日本神道としてはその時代の天皇家が主神天照の孫の血統を万世一系に継いでいるということを合理化することが必要なのです。それが目的で作り出された神話に基づく宗教なのですから。

 

             ヤマトタケル説話の宗教性 

事記』の中で最も文学性が高いのがヤマトタケル伝説です。その中には宗教性に富んだ話がいろいろ含まれています。私の解釈では高句麗好太王碑文にある辛卯年つまり391年を神功皇后の新羅侵攻の年とみなしますので、その親の世代であるヤマトタケルの活躍は4世紀半ばと考えられます。

  大帯日子大王(景行天皇)の皇子である小碓命(オウスノミコト)が倭建命(ヤマトタケルノミコト)と呼ばれるきっかけになったのが、熊曾建(クマソタケル)を征伐したときです。征伐というと大和政権サイドの言い方ですが、『古事記』の説話ですからご了承ください。

  兄を殺したことで懲罰として熊曾征伐を命じられたのですが、お供なしに単身で熊曾の本拠に乗り込んだわけです。屈強な熊曾たちを相手に単身乗り込むということは、自殺行為に他ならないわけです。

  ですから大王は熊曾に皇子を討たせようとしたのです。いわば子殺しですね。大王にとって皇子が大人になれば権力闘争のライバルなのです。当時は大王は譲位しなかったので、成人した皇子は何時自分を殺して大王になろうとするか分からないわけですね。まして兄の手足を千切って捨ててしまったような恐ろしい皇子ですから、危ないわけです。

   さすがに単身ではいかに強力の皇子でも敵いませんから、そこは一計を案じ、新築祝いの宴に踊り子に女装して紛れ込みます。そして酒宴酣(たけなわ)というときになって、まずヘベレケの熊曾建の兄の方を隠し持った剣で胸をズブリと刺し貫きます。それを見た弟建が逃げようとするところを追いかけ、尻から剣を突き刺したのです。それで弟建は、小碓命が自分たちより勇猛であると認めて、死に際にタケルという名前を献上させてくれるよう頼んだわけです。これがヤマトタケルを名乗るきっかけです。

  ここに名前を献上することによって、魂が乗り移って、熊曾建は倭建の勇猛さになって生き続けるという信仰があります。また名前が力をもってタケルと名乗ることで強くなるという言霊信仰が見られるわけです。

  物事は何事もきちんと規定を与え、名を呼ぶことによって、その機能を果たすことができるという面がありますね。その名づけの効用を誇張しているわけです。こうしてヤマトタケルは己が打ち倒した敵の霊をも引き継いでスーパーヒーローになっていくのです。

  ところで熊曾建の手下たちはどうしてヤマトタケルをやっつけられなかったのでしょう。相手はたった一人です。いかに強くても相手が一人なら勝てるはずです。おそらくそれはヤマトタケルを荒ぶる神スサノオの化身だと思ったからでしょう。それは書いてないのですが、どうもそう思い込んだみたいですね。

  スサノオが泣き喚いただけで、海と川の水が全部枯れてしまったとあります。激しい暴風雨やチンギスハーンのような侵略のイメージです。それが通り過ぎた後は、森はなき倒され、田畑は荒れ果て、累々と屍が積み重ねられています。ですから逆らっても無駄なわけで、早々に降参しておくしかないのです。

 たった一人で熊曾のあらくれ男たちの中に女装して現れ、見事に天下第一の強者である兄弟熊曾を征伐したスメラギの皇子は、まさしく荒ぶる神の化身に見えたのではないでしょうか。それほど大胆不敵な振る舞いだったわけです。それにまともに戦えないほど酔いつぶれていたこともあったでしょうが。ともかく荒ぶる神が生きた人間の姿で現れるという信仰があったわけです。

 もともと日本神話は、神が人間の姿で現れることが前提です。スメラギやその皇子たちも神だと思われていたわけですね。豪族たちのように地域に君臨していると国津神とみなされます。天照もスサノオも巫女や暴虐な侵略者として実在した人物と一体化して捉えられていたのです。

 ですからいったん荒ぶる神スサノオの化身ではないかと思い込まれますと、超人的な活躍ができることもあり得るということです。実際、父大王も熊曾建だけでなく西のまつろわぬ者共を平らげて凱旋してきた小碓命を神の化身ではないか思って、それで蝦夷征伐も続いて頼んでいるわけです。

『日本書紀』では、「形則我子。実則神人。(形はわが子だが本当は神人である)」と小碓命に言っています。ところが小碓命は、父帝は自分が蝦夷に殺されることを願っているのではないかと疑います。それで『古事記』では伊勢大神宮の叔母倭比売に患い泣いて訴えています。

 小碓命も人の子ですから、父親から人の父としての愛情をかけて欲しいのです。それを熊曾に対しては単身で乗り込ませ、蝦夷に対しては吉備の建彦をつけただけです。どうして数万の蝦夷と戦えるでしょう。死ねというようなものですね。でも『日本書紀』では「日本武尊乃受斧鉞」とあります。斧鉞(おのまさかり)は刑罰の道具ですが、征夷の将軍に権威として授けるものですから、兵をつけたということです。ええ、どちらが史実かですか?それは返答につまりますね。かなり物語性が強いのでどちらとも言いがたいところです。

 ただ『日本書紀』は天皇の権威を大切にしていますから、親子の葛藤を描いていません。あまりに立派な天皇であり、息子も弱音を吐いたり、恨み言を言わないので、きれいごとですね。それに比べて『古事記』は心情が吐露されています。それに熊曾征伐によって父帝は小碓命をかなり恐れるようになったので兵はつけたくなかったでしょう。だから『古事記』の方がリアリティを感じますね。

 みただ本当に蝦夷征伐ということなら、もう処罰の意味はないわけですから軍勢をつけざるを得ません。ですから名目は巡察ということにして、怪しい動きがあれば、征伐してもよいというような形ではなかったかと思われます。

 倭比売は小碓命に同情しまして、天叢雲剣と火打石を授けています。スサノオが八岐大蛇から取り出した天叢雲剣を手に入れたことによってヤマトタケル説話は神剣説話になっているのです。つまり列島の覇権の象徴である神剣がヤマトタケルという人格を得て、列島に覇権を確立する働きをするわけです。ヤマトタケルはこの神剣の人格として振舞わざるを得なくなり、戦い続けることになります。

 小碓命に戻るためには、この神剣を手放さざるをえません。そうしますと、神通力もなくなり、ヤマトタケルでなくなります。それで伊吹山にいくときに美夜受姫のところに神剣を置いていったので、不覚をとってしまい、それが原因で亡くなります。それで彼の霊は、戦士から平和の象徴である白鳥になって飛び立つわけです。この神剣を通して、ヤマトタケルはスサノオの現れであるということが余計に鮮明になるのです。

 つまり小碓命(ヤマトタケル)、スサノオの神、天叢雲剣はそれぞれ別の存在でありながら、神としては一体であるというような三位一体的な関係があるわけですね。これは太陽と天照と卑弥呼と鏡がそれぞれ別の存在でありながら、一体であるという面を持つのと同じかもしれません。大物主と三輪山と白蛇との関係も不思議ですね。

 蝦夷征討の旅に弟橘媛が追いかけてきて同行します。まず生還は不可能と思っていたので、小碓命が戦死すれば一緒に死のうとついてきたわけです。ですから道行心中に近いですね。

 それで
「さねさし相模の小野の燃ゆる火の火中にたちて問いし君はも」という歌がありますが、蝦夷の謀略にはまり、相模野での火攻めに遭い、絶体絶命のピンチになります。いよいよ、一緒に死ねる時がきたということです。その時に、小碓命は命の限りに「弟橘媛!」と名を呼んだのです。一番大切な媛の命だけは助けたいと必死だったわけですね。それだけで十分媛の幸福は達成されたので、何時死んでも悔いはないということです。

 しかし絶体絶命になれば、活路を思いつくものなのでしょうか。周囲の草を薙いで火打石で迎え火を熾すと、風の向きが変わって、火攻めにした方に火の勢いが向いていったというのです。

 でもその後、海を渡るときに嵐に遭い、海神に小碓命にとって一番大切のものをささげないと船が沈没すると占いにでます。それで弟橘媛は自分は十分幸福だから、進んで犠牲になると畳を重ねて海神に輿入れをするのです。そのときの辞世の歌が「さねさし相模の」という歌なのです。

 人間の幸福ということはただ長生きすれば幸福というわけではなく、いかに自分の生きた意味を肯定できるかということですね。ヤマトタケルが絶体絶命のときに自分を命の限りに愛してくれた、それが自分の生きた意味だし、それはとてもすばらしいことで、永遠に滅びない真実だということです。「永遠の今」とか「久遠実成」ということです。ですからこの「さねさし相模の」という歌はとても宗教的な歌ですし、魂の底に響きます。和歌の歴史の中でも最高傑作を一つあげろといわれればこの歌ですね。

文学的には伊吹山の前の終わりでの美夜受媛との結婚が重要ですが、宗教論ですからとばしましょう。瀕死の重傷を負いながら能煩野で臨終を迎えるのですが、その間際に国偲歌があります。「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠(こも)れる 倭し美(うるわ)し」まほろばというのは霊的にも一番すばらしいところという意味でしょう。幾重にも山々に囲まれて、水や緑に恵まれているだけでなく、軍事的にも守られています。回りの緑の山々があるからこそすばらしいのです。

 それは倭国がすばらしいのは熊曾や蝦夷がいて、森を守り自然に融合して暮らしているからで、その暮らしから学んで、彼らとも仲良く共存共栄すべきだというメッセージなのです。それは次の歌からも裏付けられます。

 
「命の全けむ人は、 畳薦 平群の山の 熊白儔が葉をうずに插せ その子。(命に溢れている人は、山深い平群の山の熊のように大きな白儔の葉をかんざしにさしなさい、お前たち。)」

 樫の葉をかんざしにして頭に挿していると長生きできるという迷信があって、元気な若者はそんな迷信なんか馬鹿にして放ってしまいますが、森の緑によって我々の空気も水も健康も守られているわけですから、樫の葉を大切に思う気持からきたこの迷信をバカにしないで、お守りのつもりで髪に挿しておきなさいという歌です。どうして死ぬ間際にこんな歌を歌うのかということですね。

 それは自然環境としての森とそれに融合して生きている熊曾や蝦夷を重ねているわけです。自然環境との循環と共生にいきなければいけないようら、辺境の人々とも命と文化の交流を図り、仲良く共存共栄すべきだということです。彼らと共に大いなる生命の循環と共生を大切にする国づくりを進めるべきというのが、ヤマトタケルのダイイング・メッセージでなのです。

 そして死んで霊が白鳥になるというところがやはりもっとも宗教的ですね。日本的霊性が見事に表現されています。霊が白鳥に宿っているのではなくて、霊が変態して白鳥になるということです。『古事記』では
「於是化八尋白智鳥。翔天而。向濱飛行(ここに八尋白智鳥になりて、天翔り、浜に向きて飛び出でます)」とあり、『日本書紀』には「時日本武尊化白鳥。従陵出之。指倭国而飛之。群臣等因以開其棺槻而視之。明衣空留、而屍骨無之。(そのとき日本武尊白鳥になり、陵より出で、倭にさして飛んでいかれた。群臣等その棺を開いてこれを見れば。衣だけが空しく残って屍はなかった。)」とあります。『日本書紀』では死体の内の霊の部分だけでなく、死体ごと白鳥になったということですね。

 ヤマトタケルの場合は霊性が高いので、体全体が霊だということになります。普通はたとえ古代でも霊は体の一部で死後体から出て、鳥や蝶に変態して異界に行くということですが。ともかく、霊は物質と対極にある精神的実体ではなくて、変態する命の結晶体みたいなものと考えられていたようです。

 ところでヤマトタケルの霊は異界ではなく、古事記では河内へ海沿いに飛び、日本書紀では倭を経由して葛城から河内に入ります。それはこの世に思いを残しているので、異界にいって生まれ変わるのではなく、この世で生まれ変わろうとしていると想像できます。それだけこの世に執着しているということは、倭を平和の自然や辺境の人々と共存共栄できる国に作り変えたいという願いが切実だったということです。ではその霊はだれになって生まれ変わったのでしょうか。これは全く謎ですが、実はオキナガタラシヒメつまり神功皇后だったら物語的には辻褄が合うのです。
 

             神功皇后伝説と八幡神信仰           

戦士が白鳥になるという白鳥伝説は、元々物部の伝説だったと思われます。物部氏は白鳥を祖先とする伝説があったようです。物部氏はニギハヤヒの血統ですが、物はブツと読めば、フツから来ていて布都御魂神という神剣を祀っています。そのことを象徴として軍事を担当していたわけです。また物はモノということで霊魂を意味していますから、祭祀を担当しているわけです。

 死ぬとトーテム動物に生まれ変わるという信仰があります。物部氏のトーテム動物は白鳥なのです。物部氏の戦士たちが遠く熊曾や蝦夷の土地あるいは半島で戦死したときに白鳥になって、故郷の河内湖に舞い戻ってくるのです。河内湖の畔近くに物部氏の本拠地である志磯の土地があったのです。ヤマトタケルが志幾の土地に舞い降りたのはそういう背景があったということですね。

 ここからは全くのフィクションです。つまり説話としてヤマトタケルと神功皇后をつなげてみます。その白鳥が志幾から羽曳野の丘を飛んで河内葛城の里に行きそこで、葛城氏の高額媛(タカヌカヒメ)が追いかけたのです。ところが白鳥は猟師かだれかの矢に当たり傷ついてしまいます。その瞬間気をとられて高額媛も足を滑らせてがけから転落して気を失います。すると傷ついてた白鳥はつかのまヤマトタケルに姿を変えて、高額媛の夢に現れて、白鳥になった自分の肉を食べるように言残して消えます。そして密かに白鳥の肉を食べるのです。

 ちょうど神武以降の第一王朝である葛城王朝の血統を引く息長宿禰(オキナガノスクネ)が妻問いにきまして、生まれたのが息長足媛(オキナガタラシヒメ)であるということです。彼女が十五歳位のときに、再び白鳥が白鳥の遺骨から飛び立ち、それを追いかけた媛を明日香纏向日代宮跡に導きます。そこを守っていたのがヤマトタケルの遺児帯中津日子(タラシナカツヒコ)です。当時の大王は若帯日子(ワカタラシヒコ成務天皇)です。ヤマトタケルの弟です。

 記紀の記述では大王は帯中津日子を養子にして皇位を継がせますが、どうも計算が合いません。ヤマトタケルの死後三十年ぐらいたってから帯中日子が生まれたことになってしまいます。どうしてそうなったか、それは実は帯中日子(仲哀天皇)は筑紫で統治しているわけです。本当は筑紫と近江に別れ両朝が同時期に並立していたらしいのです。それを歴史上都合が悪いということで、養子だったことにしているわけですね。

 これでは歴史で宗教じゃないじゃないかと文句が出そうですが、実は息長足媛は神功皇后になり、お腹に品陀和気命(ホンダワケノミコト)を宿して新羅を征討し、その勢いで大和も制圧して河内王朝の基を作るわけです。

この母子が軍神となります。八幡神というのは品陀和気命(応神天皇)のことなのです。大和政権や武家源氏の守護神になります。奈良の大仏造営や道鏡を天皇にしようとする際にも重視されますね。つまり朝廷の祖先神として極めて重大な役割を担うわけです。その経緯の解明なので必要な考察なのです。

ヤマトタケルの霊である白鳥の導きで結ばれるのですが、それも束の間、志賀の高穴穂宮で重大な政変が起こり、建内(武内)宿禰(タケノウチノスクネ)が帯中津日子と結んでクーデターを計画しているというデマを流され、命からがら敦賀の気比にあった葛城氏の祖先の根城に避難します。葛城氏の祖先が実は天日矛(アメノヒボコ)で元々は新羅の王子だった人です。

帯中津日子は紀州で拠点工作をしたあと筑紫に逃れて筑紫勢力の支持を受けて倭国王になるわけです。東西に倭国が分裂したわけです。ところが筑紫では熊曾が頑強に抵抗して抑えきれません。熊曾征伐に手を焼いています。息長足媛はヤマトタケルの遺志を継いで大和制圧がしたいわけです。それで夫婦が噛み合いません。

 そこで熊曾征伐は止めにして、新羅を討って財宝や先進武器や技術を手に入れて、大和攻略を図るよう、神がかりして天照大神の命令として帯中津日子大王に迫りますが、新羅の存在すら大王はとぼけて認めないので、
「およそこの天の下は、汝の知らすべき国にあらず、一道(ひとみち)に向かひたまへ」つまり一つの方向、黄泉に向かえですから、死んでしまえと脅したわけです。そしたら本当に死んでしまったのです。まあヤマトタケルの怨霊を宿した息長足媛から「お前なんか死んでしまえ」といわれれば大変恐ろしいことだったかもしれませんね。ショックで心臓が止まってしまったということです。

 それで大王の死を隠して、熊曾とは和睦し、新羅侵攻を行ったのです。その際に身重だった息長足媛(神功皇后)は、産気づかないように紐で縛って新羅に乗り込みます。そして品陀和気皇子が胎内で指揮を取ったことにして、奇跡的な大勝利を挙げたという話です。

その際に若帯日子政権から筑紫が侵攻されないように、破壊工作を行っていたわけです。それで帯中津日子の皇子で品陀和気皇子とは腹違いの香坂王(カゴサカオウ)と忍熊王(オシクマオウ)が若帯日子をうまくおびき出して見事に討ち取り、高穴穂宮で武内宿禰や息長宿禰になびく勢力が多数になって二人の皇子が宮に迎え入れられたのです。

それで内乱が収まるのではなくて、次は皇位継承争いになるので、息長足媛は船で瀬戸内を浪速に向かう際に、密かに武内宿禰に頼んで品陀和気皇子を紀州に向かわせ、皇子は死んだといって腹違いの兄皇子たちを騙します。

 皇子たちは息長足媛を討とうと明石で待ち構えていたのです。だって父を呪い殺されたと思っていたのですから。それで内乱になります。いったん皇后が戦死したから降伏すると言って弓矢の弦を切って騙し、相手が浮かれているうちに、隠し持った弓の弦をいわえ直してやっつけるという卑怯な手まで使っています。

結局息長足媛が勝って、明日香に宮を戻します。やっと大和を制圧してヤマトタケルの願いを叶えたということです。でもヤマトタケルが望んでいたのは、強引に新羅を侵略し、皇子たちを騙まし討ちしてまで軍事的に制圧することだったでしょうか。そんなことで、みんなが共存共栄できる平和で豊かな国がきずけるでしょうか。はなはだ疑問ですね。

 それで神功皇后は大王に即位したでしょうか。記紀では神功皇后となっていますから、正式な即位はしていないことになっています。でも品陀和気皇子の即位は皇后の死後ですから、実際は皇后は大王として君臨していたのです。でも記紀にそう記述しますと万世一系ではなくなってしまいますので、書けなかったということです。

 それに皇室の祖先神として八幡神が重視されるのは、秘密のわけがあるのです。といいますのが、『日本書紀』では妊娠したのは秋九月五日の書紀の記事に「皇后は今はじめて身ごもっておられる」とあります。翌年春二月六日に帯中津日子つまり仲哀天皇が崩御します。秋九月十日の記事に臨月になっていたとあります。臨月は七月の筈ですね。

 さらにおかしいのは出征されるので生まれないように石をとって腰にはさんだとあります。鎮懐石伝説と呼びますが、事が終わって筑紫に戻ってから生まれて欲しいと出産を伸ばしたというのです。結局生まれたのは十二月十四日です。つまり出産は五ヶ月以上伸ばしたことになります。これは不自然なので、皇子は本当は武内宿禰の子供ではないかといわれています

 としますと皇室の祖先神は、八幡神までしか遡れないので、形式的にはともかく本音では八幡神を重視するようになったということですね

 

                  御霊信仰  

  さて記紀に基づく日本神道の話はこれくらいにして、御霊信仰(ごりょうしんこう)の話に入ります。御霊信仰は怨霊の鎮魂によって、怨霊の祟りを防ぐと共に、神として祀ることによって、怨霊が祟らないばかりか、御霊として守護してくれるという信仰です。

 怨霊を恐れ祀るという習慣が何時まで遡れるかについては諸説がありますが、記紀の記述から、大国主命を祀った出雲大社、大物主神を祀った大神神社(おおみわじんじゃ)も祀らないと祟るということですから、怨霊信仰に含めて当然だと思います。

 聖徳太子の怨霊を鎮魂したのが再建された法隆寺であるという梅原猛の『隠された十字架―法隆寺論』は、大変物議を醸しました。広く行われていた聖徳太子信仰は、聖徳太子の遺徳を偲び仏教興隆の功績を称えるものなので、尊敬しないと祟られるという怨霊信仰が前面に出ているわけではありません。でも梅原猛が問題にしているような法隆寺の謎を考えますと、背景としては聖徳太子の怨霊への恐れがあったのかもしれませんね。

 梅原は『水底の歌―柿本人麿論』で、歌聖である柿本人麿も持統天皇の逆鱗(げきりん)にふれて流され、水刑にされ怨霊になったとしています。『万葉集』の編纂事業は鎮魂の事業でもあったというのです。敗者の怨霊の願いを勝者が叶えるという逆転の弁証法があるわけです。

 ですからただ怨霊を神として祀れば守護してくれるというのではあまりにあつかましい了見ですね。怨霊に被せられた汚名を濯ぎ、きちんと名誉回復をしてその功績に報い、怨霊の思いを吾が思いとして、その夢を叶えるために献身してこそ、怨霊が御霊として加護してくれると受け止めるべきです。ゆめゆめ形だけ神として祀り上げれば祟らないなどと怨霊を見くびってはなりません。

平安時代に御霊信仰が盛んになり、上下御霊神社が作られました。上御霊神社には、崇道天皇(早良親王)、他部親王、井上皇后、火雷神(菅原道真)、藤原大夫人(藤原吉子)、文屋宮田麿、橘逸勢、吉備大臣(吉備真備)が祀られています。下御霊神社には、吉備聖霊、崇道天皇、伊豫親王、藤原大夫人、藤原大夫(広嗣)、橘大夫、文大夫(文屋宮田麿)、火雷天神(菅原道真)が祀られています。

 藤原大夫神とは、藤原藤原式家宇合の長男広嗣の御霊です。彼は吉備真備と僧玄ムを退けることを求めて乱を起こして、大将軍に任ぜられた大野東人の軍に敗れて斬られました。

 何故怨霊になったかといいますと、彼は聖武天皇に光明皇后と僧玄ムの不倫を通報したのです。そして聖武天皇を現場に連れて行ったのです。ところが遠くから様子をみて、聖武天皇は内心すごくショックを受けたでしょうが、光明皇后は十一面観音に、玄ムは千手観音となって現れて、どうすれば衆生を済度できるかを語っているのだというのです。つまり聖武天皇は皇后の不倫現場に立ち会っても、あれは観音様が教えを説かれているのだと言って、取り合わなかったということです。なんと寛容な、なんと気の弱い天皇でしょうね。

 それで
広嗣は大宰少弐に左遷されます。これが不満で、吉備真備と僧玄ムが天下の災厄の元凶だという上奏文を帝に送りました。帝は広嗣を召喚しますが応じなかったので追討軍を送られたのです。処刑されて怨霊となった広嗣は、『元亨釈書』によりますと筑紫観世音寺別当になっていた僧玄ムを空中から手を伸ばして連れ去り、興福寺に頭蓋骨を降らせたと言う話になっています。それで新薬師寺の西隣にある鏡神社が広嗣の怨霊を沈めるために建立されました。

 さて吉備真備については成功者ですし、恨みを呑んで死んだわけではなく、彼自身が怨霊となり御霊神社に祀られるいわれは考えられません。ただ唐では阿倍仲麻呂の霊に助けられたり、帰国後は広嗣の怨霊を鎮めるに貢献したともいわれます。それで怨霊が祟らないように吉備真備の御霊も祀っているのかもしれません。

 一応上御霊神社に問い合わせてみますと、神社として御霊を祀っているのであって、その御霊を怨霊と見なしているわけではないという返事でした。これに対して下御霊神社は「吉備聖霊」を祀っているが、それはだれだか分からない、ただ真備は成功者だから、怨霊ではないので、「吉備聖霊」は吉備真備の御霊ではないという返答でした。

 光仁天皇の妃の井上内親王(いがみないしんのう)は、聖武天皇の皇女でした。それで子の他部親王(おさべしんのう)は皇太子になったのです。ところで天皇夫人の新笠姫の皇子の山部親王(後の桓武天皇)の勢力が772年に皇后は天皇を呪詛しているという讒言(ざんげん)して、廃后され、他戸親王も廃皇太子されてたのです。

 翌年、光仁天皇の同母姉、難波内親王が亡くなると、これも井上内親王の厭魅(えんみ)によると讒言されたのです。それで母子共に幽閉されて、一年半後に、日を同じくして亡くなったので、殺されたか恨んで自殺したと思われます。それで藤原百川が死ぬなどの祟りがあったと言われます。

 
次に菅原道真と共に怨霊の代表格が早良親王です。彼は785年、9月に起こった長岡京の造都長官だった藤原種継の暗殺に関わっていたとされて、淡路に流される途中で無実を訴えて絶食して、憤死しました。彼に疑いがかかったのは、元々彼は11歳で出家して東大寺や大安寺に住んでいて、親王禅師と呼ばれていました。南都仏教勢力につながりが深かったのです。ところが桓武天皇になり、仏教勢力の影響を除く目的で遷都が図られていたので、種継の暗殺には仏教勢力のかかわりがあると見られ、早良皇太子にも嫌疑がかかったということです。

 そして安殿(あて)皇太子(後の平城天皇)が病気になり、天皇の妃藤原乙牟漏が病死しました。それは陰陽寮で卜定(ぼくじょう)したところ早良親王の祟りだといわれて、鎮魂の儀式を行ったのです。そして800年には崇道天皇と追称されています。死んでから天皇になったのは彼が最初で最後です。それぐらい桓武天皇は早良親王の怨霊におびえていたわけですね。

 この事件で以前早良皇太弟の東宮太夫をしていた大伴家持の子の継人が捕らえられて、窮問されて首謀者に家持の名をあげ、早良皇太弟の関わりも供述したらしいのです。ところが家持は8月に陸奥で将軍として赴任した土地で死んでいます。これは拷問による冤罪の疑いもありますね。ともかく家持を主犯格にすることで早良皇太弟を連座させようとしたらしいという桓武天皇側の意図が伺えます。もし本当に早良親王が黒だと確信していたら、それほど怨霊に怯えないのではないでしょうか。

家持は死後犯人とされて隠岐に遺骨の状態で配流されたのです。それで早良親王の怨霊が祟ると家持も名誉回復されます。家持は歌人として著名で『万葉集』を編纂していたのですが、その事業を完成させたのは平城天皇の時代です。平城天皇は当然家持の怨霊も恐れていました。それで『万葉集』の完成を命じたのです。それで柿本人麿の歌にもふれることになり、平城天皇は人麿と歌について語り合っていたと『古今和歌集』の「仮名序」に書かれています。「人麿は平城(なら)の帝と身を合わせ」と表現されています。

人麿も怨霊ですね。ただ怨霊を恐れるだけでなく、怨霊の思いを自分の思いにし、和歌を文化の華にするという怨霊の夢を実現したのです。平城天皇は怨霊を恐れるあまり、病気になると祟りと思い、809年に弟の賀美能親王(かみののみこ)に譲位します。嵯峨天皇の即位ですね。しかし嵯峨天皇は空海らと結びついて、真言密教で平安京を怨霊から守ろうとします。平城天皇は平城京に戻さないと祟りは止まないと考えて、クーデターを企てて失敗します。これが810年の薬子の乱(平城上皇の乱)と呼ばれているのです。

実は平城天皇は弟の伊豫親王とその母藤原吉子の怨霊にも悩まされていたのです。平城天皇の大同二年(807)、同腹の弟賀美能親王が皇太弟になったので、藤原宗成がそれが不満の伊豫親王を担いで謀反を起こそうとして発覚したのです。親王及びその母藤原夫人(ぶにん)吉子は捕らえられ、川原寺に押し籠められ食を断ちました。両人は薬を呑んで自殺したのです。平城天皇は怨霊はこりごりだったので、病気になったときに、この母子の怨霊も関係していると思ったようですね。

三筆で有名な橘逸勢(たちばなのはやなり)も祀られています。842承和の変が起こりました。藤原良房が道康親王を擁立しようとしている動きに不安を感じた伴健岑と橘が、恒貞皇太子を東国に移そうと画策しているのが発覚し、逮捕されたのです。拷問を受けた後、健岑は隠岐へ流罪、逸勢は伊豆へ流罪されたのです。しかし逸勢は伊豆への護送途中に、病没しました。60余歳だったといいます。これは藤原氏からは謀反の陰謀にみえても、当人たちは皇太子の身を案じただけですから、恨みが残ったと同情されて怨霊とされたのでしょう。

文室宮田麿は、筑前守在任中、新羅と結んで叛乱を企てたと疑われ伊豆に流された人物ですが詳しいことはわかりません。なお火雷天神は菅原道真のことです。

 

            菅原道真と火雷天神

菅原道真は最も有名な怨霊神です。いわゆる天神さんというのは菅原道真の怨霊を火雷天神として祀っている神社のことを指します。ただ元々は天神は高天原に住んでいた天孫族の神々つまり天津神を指していました。その点紛らわしいので注意が必要です。

道真が太宰府で死んだ903年頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が90939歳の若さで早逝したのです。そのため、道真の怨霊による祟りだといわれました。疫病がはやり、日照りが続き、923年には醍醐天皇の皇太子保明親王が死亡、2年後保明親王の子で皇太孫だった慶頼王(やすよりおう)も亡くなったのです。その母が讒言した時平の娘だったので、これはすべて菅原道真の怨霊の祟りだということになったのです。

きわめつけは、930年の紫宸殿に落雷です。大納言藤原清貫はじめ5人が死亡したのです。このことにより醍醐天皇は病気となり、朱雀天皇に譲位しましたが、一週間後に崩御しました。それで、道真の怨霊は雷神になったと言われます。もともと北野の地主神が火雷天神だったのでそれと道真の怨霊が合体したと考えられたのです。そこで怨霊を鎮めるために947年にこの地に北野天満宮が建立されたということです。

道真はどうして怨霊になったのでしょう。彼は当時随一の知識人だったのです。文章博士として彼は貴族の師弟を指導し、家塾「菅家廊下」を主宰して、人材を育成しました。菅家廊下の出身者が一時期朝廷に100人を数えたこともあるそうです。ですから朝廷には教え子が多くて知的なヘゲモニーを握っていたのでしょう。それで宇多天皇は藤原氏の専横を牽制するためにも道真を重用し、醍醐天皇にも道真を強く推していたのです。

醍醐天皇は左大臣藤原時平と右大臣菅原道真の勢力バランスの上に君臨しようとしていました。しかし宇多法皇は道真の娘婿でもある斉世親王太弟に立てようとしているとうわさが立ち、901年に時平が醍醐天皇に、「斉世親王を擁立して醍醐天皇の実権を奪おうとする道真の陰謀」のように讒言したのです。それで道真は太宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷され、長男高視ら子供四人が流罪にされたのです。これを「昌泰の変(しょうたいのへん)」とよびます。

903年道真は失意のうちに大宰府で亡くなり、都に戻ることはできませんでした。それで「東風吹かば思い起こせや梅の花主なしとて春な忘れそ」という歌がのこっています。

でもどうして、時平の早世や疫病や落雷の事故が道真に結び付けられるほど道真の怨霊のせいだと思ったのでしょう。それは道真の知的権威が凄かったからです。あれだけの人物だからその怨霊の威力も大きいに違いないと考えられたということですね。それから藤原氏の他氏排斥の一つだと受け止められますと、反藤原氏のシンボル的存在と受け止められて、反藤原氏のエネルギーが道真の怨霊のパワーに凝縮して炸裂したのだと巷ではうけとめられたかもしれませんね。

道真が火雷天神として祀られるようになりますと、全国の火雷天神も道真信仰を取り込むようになって、全国の天神社は道真を祀っているのです。そこで天神は恵みの雨をもたらす農耕神としてのご利益に加えて、怨霊神の特徴である厄払いの効果も期待されています。そして道真の学者としての知的権威から学業の神として合格祈願に大活躍しています。

                  祝詞と日本神道

祝詞(のりと)は神をほめたたえ崇敬する言葉を神に奏上する神道の儀礼的な文章です。神主が独特の節回しで唱えています。ただし宣命体で言い聞かせる文体を取っている場合が多いですね。それは参詣した信徒に奏上した内容を説明するからといわれます。神に奏上する文体として寿詞(よごと)という文体があります。

現在、古いものとしては延喜式の29の祝詞と藤原頼長の『台記』「別記」の「中臣の寿詞」の計30篇があげられます。すでに藤原氏がしきっていた時代ですから、祝詞の言葉の中にも、朝廷を支える藤原氏の立場を賞揚するものとなっているのが特徴です。ただし神職は藤原宗家ではなく、鎌足以前の中臣氏の氏名で担当していたのです。藤原氏で摂関政治を行い、中臣氏で祭祀を仕切っていたということです。

近代天皇制は、日本神道を国家神道という形で国家の宗教とし、天皇による統治を神聖化しました。そして精神的にも天皇を天も地も支配する神々と人間の支配者として位置づけていたのです。もちろん敗戦によって天皇は人間宣言をしていますが、祝詞自体は国家神道の祝詞を継承しているわけです。

その内の代表的な「6月の晦の大祓の祝詞」と「中臣寿詞」を紹介しましょう。現代語訳は鎌田東二編著『神道用語の基礎知識』によります。
 中臣氏の祝詞は大祓によって罪を祓うというものです。つまり祓いの儀式によって罪を吹き飛ばしてきれいにしようというのです。どうしても天皇中心の律令国家体制を維持発展させようとしますと、いろんな勢力間の権力闘争が苛烈になってきます。藤原氏は自氏中心の貴族官僚独裁の確立によって律令体制を守ろうとしました。そのために皇親政治を目指した天武天皇の皇子たちをしりぞけ、他氏を排斥し、鎮護仏教勢力の影響からの脱却にも腐心しました。そのために様々な謀略をめぐらして権力固めをおこなったのです。ですから祭祀権限を掌握して自分たちの罪を祓い清めようとしたのです。

その意味では藤原氏は祓いだけでなく、怨霊鎮魂も大変熱心だったのです。祓いと鎮魂で権力維持を図らなければならなかったわけですが、それはそれだけ藤原氏が自らの罪に気付き、葬った人たちの怨念を恐れていたということです。それは権力者にしては随分良心的ですね、でも祓えと鎮魂で済めばいくらでも謀略を企てるというのなら破廉恥だともいえますが。

 

                             六月晦大祓〔十二月も此に准(なら)へ〕

六月晦日・十二月晦日 

集(うごな)はり侍(は)べる親王(みこたち)・諸王(おほきみたち)・諸臣(まへつきみたち)・百官人(もものつかさのひと)等(ども)諸(もろもろ)聞き食(たま)へよと宣(のたま)ふ

 天皇(すめら)が朝廷(みかど)に仕へ奉(まつ)る比礼挂(ひれか)くる伴男(とものを)・手襁挂(たすきか)くる伴男・靫負(ゆきお)ふ伴男・剣(たち)佩(は)く伴男・伴男の八十(やそ)伴男を始めて 官官(つかさづかさ)に仕へ奉る人等(ども)の 過ち犯しけむ雑雑(くさぐさ)の罪を 今年の六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)に祓へ給ひ清め給ふ事を 諸聞(き)き食へよと宣ふ

 高天原(たかまのはら)に神留(かむづま)り坐(ま)す皇親神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)の命以(もち)て八百万(やほよろづ)の神等(たち)を神集(かむつど)へに集へ賜ひ 神議(かむはか)りに議り賜ひて 我(あ)が皇御孫之命(すめみまのみこと)は 豐(とよ)葦原乃水穂之國を 安國(やすくに)と平(たひら)けく知食(しろしめ)せと事依(ことよ)さし奉りき

 如此(かく)依(よ)さし奉(まつ)りし國中(くぬち)に 荒振神(あらぶるかみ)等をば 神問(かむと)はしに問はし賜ひ 神掃(かむはら)ひに掃ひ賜ひて 語問(ことと)ひし磐根(いはね)・樹(こ)の立(たち)・草の垣葉(かきは)をも語(こと)止めて 天之磐座(いはくら)放(はな)ち 天之(あまの)八重雲(やへぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別きて 天降(くだ)し依さし奉りき

 如此依(かくよ)さし奉りし四方(よも)の國中(くになか)と 大倭日 高見(ひだかみ)之國を安國(やすくに)と定め奉りて 下津磐根(したついはね)に宮柱太(みやばしらふと)敷き立て 高天原に千木高(たか)知りて 皇御孫之命(すめみまのみこと)の美頭(みづ)の御舎(みあらか)仕へ奉りて 天之御蔭・日之御蔭と隠り坐して 

   安國と平けく知食さむ國中(くぬち)に 成り出でむ天之益人(あまのますひと)等が 過ち犯しけむ雑雑(くさぐさ)の罪事は 天津罪と 畔放(あはなち)・溝埋(みぞうめ)・樋放(ひはなち)・頻蒔(しきまき)・串刺(くしさし)・生剥(いきはぎ)・逆剥(さかはぎ)・屎戸(くそと) 許許太久(ここだく)の罪(つみ)を天津罪と法(の)り別けて 

    國津罪とは 生膚斷(いきはだたち)・死膚斷(しにはだたち)・白人(しろひと)・胡久美(こくみ)・己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜(けもの)犯せる罪・昆虫(はふむし)の災・高津神の災・高津鳥の災・畜倒し 蠱物為(まじものせ)る罪 許許太久(ここだく)の罪出でむ

 如此出でば 天津宮事以て 大中臣 天津金木(かなぎ)を本打切(もとうちき)り末打斷(すゑうちた)ちて 千座(ちくら)の置座(おきくら)に置き足(た)らはして 天津菅曾(すがそ)を本刈り斷ち末刈り切りて 八針に取辟(とりさ)きて 天津祝詞の太(ふと)祝詞事(のりとごと)を宣(の)れ

 如此のらば 天津神は天磐門(あまのいはと)を押し披(ひら)きて 天之八重雲を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別きて聞食(きこしめ)さむ 國津神は高山の末 短山(ひきやま)の末に上り坐(ま)して 高山の伊惠理(いほり) 短山の伊惠理を撥(か)き別けて聞食(きこしめ)さむ

 如此(かく)聞(きこし)食(め)してば 皇御孫之命(すめみまのみこと)の朝廷(みかど)を始めて 天下四方(よもの)國には 罪と云ふ罪は在らじと 科戸之風(しなとのかぜ)の天之八重雲を吹き放つ事の如く 朝(あした)の御霧・夕(ゆふべ)の御霧を 朝風夕風の吹き掃ふ事の如く 大津邊(べ)に居る大船を 舳(へ)解き放ち艫(とも)解き放ちて 大海原(おほみのはら)に押し放つ事の如く 彼方(をちかた)の繁木(しげき)が本を 焼鎌の敏鎌以(とがまもち)て 打掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理(さくなだり)に落ちたぎつ速川(はやかわ)の瀬に坐す瀬織津(せおりつ)比(ひめ)と云ふ神 大海原に持ち出でなむ

 如此持ち出で往(い)なば 荒鹽(あらしほ)の鹽の八百道(やほぢ)の八鹽道(やしほぢ)の鹽の八百曾(やほあひ)に坐す速開都(はやあきつ)比唐ニ云ふ神 持ち可可呑(かかの)みてむ

 如此可可呑みてば 気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主と云ふ神 根國底之國に気吹き放ちてむ

 如此気吹き放ちてば 根國底之國に坐す速佐須良比(はやさすらひめ)と云ふ神 持ち佐須良比(さすらひ)失ひてむ

 如此失ひてば 天皇が朝廷に仕へ奉る官官(つかさづかさ)の人等(ひとども)を始めて 天下四方(よも)には 今日より始めて罪と云ふ罪は在らじと 高天原に耳振り立てて聞く物と 馬牽き立てて 今年の六月(みなづき)の晦日(つごもり)の夕日の降(くだち)の大祓に 祓ひ給ひ清め給ふ事を諸(もろもろ)聞き食へよと宣ふ

 四國(よくに)の卜部(うらべ)等 大川道(ぢ)に持ち退(まか)り出でて祓へ却(や)れと宣ふ
            
 

通釈 集合された親王・諸王・諸臣、多くの官人たちよ、みなさんお聞きなさい、と宣る。

 天皇の身近にお仕えし、護衛する多くの伴の男をはじめ、諸官司に奉仕する人々が過ち犯したであろう種々の罪を、今年の六月末日の大祓えの行事に、お祓いになり、お清めになる。このことをみなさんお聞きなさい、と宣る。

 高天原においでの皇祖神のお言葉によって、八百万の神々をお集めになり、ご相談なさって、「わが皇孫である天皇は、豊葦原の瑞穂の国を平安に統治しなさい」と、この地上を天皇にお託しになった。このようにお託しになった地上に、乱暴な神を問い詰め、追い払い、言葉をしゃべっていた岩や木々 、草の葉をも黙らせ、天の岩の御座所を離れ、天の八重雲をお分けになって、天から降ろしてお託しになった。このようにお託しになった地上で、皇祖神は、ご子孫である天皇に、ここ大和の国を平安な国と定め、立派な宮柱を立て、千木を高くあげて宮殿を提供し、ご自身は天の蔭、太陽の蔭となってお姿を現さない。

この平安な国内に、多くの人々が過ち犯すであろう種々の罪は、高天原にあった罪として、田の畔、溝、木製水路の破壊、種を重ねて蒔くこと、他人の田に棒をさし立てて横領すること、生きたまま馬の皮を剥ぐこと、汚物をまき散らすことなどである。

 地上で起こった罪としては、人を傷害し、殺して遺体を損壊すること、ある種の病気、自分の母を犯す罪、自分の娘を犯す罪、ある女性とその娘を犯す罪、ある女性とその母を犯す罪、家畜を犯ず罪、蛇やムカデなどの災難、雷の災難、鳥の災難、人の家畜を殺すこと、人を呪う罪などである。

 これらの多くの罪が起こってきたならば、神聖な朝廷の行事として、大中臣の者は、堅い木を切ってたくさんの台に載せ満たし、清浄な菅を刈ってたくさんに裂き散らすという祭儀によって、穢れを祓い、神聖な祝詞を唱えよ。

 このように唱えるならば、高天原の神々は天の岩の門を開いて、天の八重雲を分けてお聞きになるだろう。地上の神々は、高山、低山の頂上にお上りになり、雲霧をかき分けてお聞きになるだろう。このようにお聞きになるからには、皇祖神の子孫である天皇の宮廷をはじめとして、天下の四方にどのような罪もあるまい。

 風の吹き出すところから吹き起こる風が天の八重雲を吹き放ち、朝霧夕霧を朝風夕風が吹き払うごとく、港に停泊している船を舳と艫の綱を解いて海原に押し放つごとく、茂った木のもとを鋭い鎌で打ち払うごとく、残る罪はあるまいと、お祓いになり、お清めになる。祓い清められた罪は、高山、低山の上から激しく流れ下る川の瀬においでの瀬織つひめという神が、大海へと持ち出してしまうだろう。

 このように持ち出して行ってしまったら、海流の荒れて集まるところにおいでの速開つひめという神が呑みこんでしまうだろう。このように呑み込んでしまったら、息を吹くところにおいでの気吹戸主という神が地下の世界へ吹き放ってしまうだろう。

 このように吹き放ったら、地下の世界においでの速さすらひめという神が持ちさまよって失くしてしまうだろう。このように失くしたら、天皇の宮廷にお仕えする諸官司の人々 をはじめ、天下の四方には、今日かぎりどのような罪もあるまいと、この祝詞がよく聞こえるように、高天原でも耳を振り立てて聞くものという馬を引き出して、今年の六月の末日の夕日が沈むときの大祓えとして、お祓いになり、お清めになる。このことをみなさんお聞きなさい、と宣る。ト部の人々は、祓うべきものを持って大川へと退出し、川に流して祓い去れ。

             中臣寿詞

 現御神(あきつみかみ)と大八嶋(おほやしま)國所知(しろし)食す大倭根子(おほやまとねこ)天皇が御前(おほまえ)に 天神(あまつかみ)乃寿詞を稱辭竟(たたへごとを)へ奉(まつ)らくと申す

高天原に神留(かむづま)り坐す皇親(すめむつ)神漏岐神漏美の命(みこと)を持ちて 八百万の神等(たち)を集(つど)へ賜ひて 皇孫尊(すめみまのみこと)は 高天原に事始めて 豐葦原の瑞穂の國を安國と平(たひら)けく所知食して 天都(あまつ)日嗣(ひつぎ)の天都高御座(たかみくら)に御坐(おはしま)して 天都御膳(みけ)の長御膳の遠御膳と 千秋の五百秋(いほあき)に 瑞穂を平けく安(やすら)けく 由庭(ゆには)に所知食せと 事依(ことよ)さし奉(まつ)りて 天降し坐しし後に 

中臣の遠(とほ)つ祖(おや)天児屋根命(あまのこやねのみこと) 皇御孫尊(すめみまのみこと)の御前(みまえ)に 仕へ奉りて 天忍雲根神(あまのおしくもねのかみ)を天(あま)の二上(ふたがみ)に上(のぼ)せ奉りて 神漏岐神漏美命の前に 受け給はり申すに 皇御孫尊の御膳都水(みけつみづ)は 宇都志國(うつしくに)の水を 天都水と成して立奉らむと申せと 事教へ給ひしに依りて 天忍雲根神 天の浮雲に乗りて 天の二上に上り坐して 神漏岐神漏美命の前に申せば 天の玉櫛を事依さし奉りて 此の玉櫛を刺立て 夕日より朝日照るに至るまで 天都詔戸(あまつのりと)の太諸刀(ふとのりと)言(ごと)を以て告(の)れ

 如此告らば 麻知(まち)ば弱蒜(わかみら)に由都(ゆつ)五百篁(たかむら)生(お)ひ出でむ 其の下より天の八井(やゐ)出でむ 此(こ)を持ちて 天都水と所聞(きこし)食(め)せと 事依さし奉りき

 如此依さし奉りし任任(まにま)に 所聞食す由庭の瑞穂を 四國(よくに)の卜部(うらべ)等(ども) 太兆(ふとまに)の卜事(うらごと)を持ちて仕へ奉りて 悠紀(ゆき)に近江國の野洲郡(やすのこほり) 主基(すき)に丹波(たにはの)國の氷上郡(ひかみのこほり)を齋(いは)ひ定めて 物部の人等(ひとども) 酒造児(さかつこ)・酒波(さかなみ)・粉走(こばしり)・灰焼(はひやき)・薪採(かまぎこり)・相作(あひつくり)・稲実(いなのみの)公(きみ)等(ら) 大嘗會(おほにへ)の齋庭(ゆには)に持ち齋(ゆ)まはり参(まゐ)来(き)て 今年の十一月(しもつき)の中つ卯日(うのひ)に 由志理(ゆしり)伊都志理(いづしり) 持ち恐(かしこ)み恐みも清麻波利(きよまはり)に仕へ奉り 月の内に日時(ひとき)を撰び定めて献る悠紀主基(ゆきすき)の黒木(くろき)白木(しろき)の大御酒(おほみき)を 大倭根子天皇が 天都御膳の長御膳の遠御膳と 汁にも実にも 赤丹の穂にも 所聞食して 豐の明(あか)りに明り御坐して 

天社(あまつやしろ)・國社(くにつやしろ)と稱辭竟(たたへごとを)へ奉る皇神(すめがみ)等(たち)も 千秋五百秋の相嘗(あひなめ)に 相宇豆乃比(あひうづなひ)奉(まつ)り 堅磐(かちは)常磐(ときは)に齋(いは)ひ奉りて 伊賀志(いかし)御世に榮えしめ奉り 康治(かうぢの)元年(はぢめのとし)より始めて 天地(あめつち)月日と共に 照し明らし御坐さむ事に 本末(もとすゑ)傾けず茂槍(いかしほこ)の中執持(なかとりも)ちて仕へ奉る中臣の祭主(いはひぬし)正四位(おほきよつのくらゐ)上行(かみつしなぎゃう)神祇大(かむづかさのおほき)副(すけ)大中臣朝臣(あそみ)清親(きよちか) 寿詞(よごと)を稱辭竟(たたへごとを)へ奉(まつ)らくと申す

 又申さく 天皇が朝廷に仕へ奉る親王等(みこたち)・王(おほきみ)等(たち)・諸臣(まへつきみたち)・百官人(もものつかさのひと)等(ども)・天(あめ)の下(した)四方の國の百姓(おほみたから)諸諸(もろもろ)集(うごな)はり侍りて 見食(みたま)へ 尊み食へ 歓び食へ 聞き食へ 天皇が朝廷に 茂志世(いかしよ)に 八桑枝(やくはえ)の立榮え仕へ奉るべき祷事(ほきこと)を 所聞食せと 恐み恐みも申し給はくと申す
       
    

【通釈】 現前する神として大八島国を統治していらっしゃる天皇の前に、天の神のお祝いの言葉を賛辞としてお聞かせしましょうと申し上げる。

 高天原においでの皇祖神のお言葉によって、八百万の神々をお集めになり、「皇孫である天皇は、高天原に始まって、地上の豊葦原の瑞穂の国を平安にご統治なさり、皇祖神のあとを嗣ぐ者として高御座におつきになって、神聖な永遠のお食事として永遠に毎年毎年平安に瑞穂を神聖な斎庭で召し上がれ」とお託しになって、天皇を天からお降しになった。

それから、中臣の祖先であるコヤネの命が天皇のお前にお仕えし、コヤネの命の子であるアメノオシクモネの神を高天原の二上の神の御座所へ登らせ、「皇祖神のお言葉をうけたまわり申し上げるにあたって、天皇のお食事の水は、現実の地上の国の水に天の水を加えて差し上げましょうと申し上げなさい」とお教えになったので、アメノオシクモネの神は、天の浮雲に乗って、天の二上に登り、皇祖神のお前に申し上げると、皇祖神は、神聖な玉串をお託しになって、「この玉串を刺し立てて、日没から朝日が昇るまで神聖な立派な祝詞をあげよ。そのように祝詞をあげるならば、神聖な場所に若い韮と神聖な竹やぶが生え出るだろう。その下から、神聖な多くの井が出るだろう。それを天の水とお思いなさい」とお託しになった。

このようにお託しになったとおりに、天皇が瑞穂を召し上がる斎庭に、ト部の人々がうらないごとによってお仕えしている。悠紀には近江の国の野洲、主基には丹波の国の氷上を定め、物部の人々、酒造児、酒波、粉走、灰焼、薪採、相作り、稲の実の公の人々が大嘗会の斎庭に潔斎して参上し、今年の十一月の中の卯の日に、厳粛に慎み、清浄にお仕えし、その月内に日時を定め、献上する悠紀・主基の新穀で造った黒酒・白酒を、天皇が召し上がる神聖な永遠のお食事とともにお召し上がりになり、酒宴にお顔を赤らめていらっしゃる。

 天の神のお祝いの言葉を、高天原と地上の賛辞としてお聞かせ申し上げる神々も、永遠に毎年毎年飲食を共にして賞美し、永遠にお祭りし、盛んなご治世として栄えさせ申し上げる。このようにして、康治元年(一一四二)より、近衛天皇が日月とともに天地を照らしてご統治なさっていることに、ひたすら謹直にお仕え申し上げている中臣の祭主、正四位上、神紙官の大副である大中臣朝臣清親が、お祝いの言葉を賛辞としてお聞かせ申し上げていると申し上げる。

 また申し上げることには、天皇の朝廷にお仕えする、親王・諸王・諸臣・多くの官司の人々、天下の四方の国々の民よ、みなさん集合して、ご覧になり、尊ばれ、歓ばれ、お聞きになって、天皇の朝廷に、盛んな治世に、勢いよく茂った桑の枝のように盛んにお仕え申し上げるべきお祝いの言葉をお聞きくださいと、おそれかしこみながらも申し上げることであると申し上げる。

 

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