万葉歌物語

1「妹が名は千代にながれむ」
やすい ゆたか

妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松が末(むれ)に 苔生すまでに

 「まさかあの娘が身投げをするとは、あんなにやさしい笑顔に戻ってくれていたのに。そりゃあ彼女があの痛ましい想い人の戦死の知らせを受け取ってからの哀しみようは、いつ死んでも不思議はないくらいでした」河辺宮人はこう語っていたのではないか。河辺宮人はおそらくペンネームであろう。彼の家柄は地方豪族である。おそらく国衙の役人になっていたので、宮人というペンネームにしたようだ。姫島は彼の出身地であったかもしれない。姫島を実質的に支配していた豪族の子弟と考えていい。

姫島といえば肥前の国、国東半島の突端の沖合いにある離島である。この島は遠い伝説では、新羅の国から逃れてきたアカルメ姫が、暴力をふるう夫天日矛から身を隠された島だということである。都に近い難波にも姫島があるが、この島の長老たちに言わせれば、こちらの方が本家で、都が東方に移った時にこちらの地名がたくさんあちらに移されたということになる。それがもう何百年も前のことか、つい最近のことなのか、今ではよく分からないという奇妙な話なのだ。

 この島は瀬戸内にあって筑紫と難波さらに紀伊を結ぶところにあり、紀伊を本拠とする久米の集団の要衝だった。和銅四(七一二)年には、かつてはオキナガタラシ姫に率いられて半島を席巻したという久米集団は、白村江の敗戦以来衰退して、すでに伝説的な存在だったが、姫島の男たちは当時でも大唐国との交易を試みたり、蝦夷征討軍に進んで参加したりする勇猛で進取の気質を発揮していた。

 娘は「久米の若子」とよばれた屈強で勇猛な漁師の青年に恋をしていたのである。青年は娘と別れるのはつらかったが、貧しい漁師生活では娘を喜ばせることはできないと思って、軍団に志願し、蝦夷征伐に参加させてもらったのである。「きっと手柄を立てて出世するから待っていてくれ」と言った。娘は姫島の漁師のままでいい、元気でたくましく生きていてくれればそれでいいのだ。蝦夷征伐などに参加して殺し合いなどしてほしくないと泣きじゃくって止めた。だが男は自分の決めたことを娘の涙で左右するような人間ではなかった。

河辺宮人は肥前の府内の国衙に勤めていたが、年に何度か姫島に戻っていた。「久米の若子」が志願した時も宮人が世話をやいてやったので、娘からはずいぶん恨み言を言われたものである。そして出征したらまったく音沙汰はない。蝦夷征伐は想像以上に大変で、獣道や泥道に迷い込んだり、冬は雪に閉じ込められてしまう。敵に遭遇しないで何日も山の中で苦しい行軍が続くのである。また敵地に乗り込んでいるから、こちらの情報はほとんど筒抜けである。とうとう「久米の若子」が率いていた部隊が、夜間に奇襲され戦死したという知らせが届いたのである。

 その知らせを河辺宮人は娘に伝えに行かなければならなかった。実は河辺は娘から出征の便宜を図ったことで激しい抗議を受けていたが、その切なる思いに心を打たれていらい、その娘のことが気になって、島に戻るたびに娘の家を訪ねて、慰めと励ましを言っていた。やがて娘も何かいい便りをもたらしてくれるかもしれない宮人の訪問を楽しみにするようになっていた。宮人は次第にその娘が自分の胸の中で大きくなっていくのを感じていた。

 戦死の知らせを告げたとき、その娘は宮人の胸にすがって激しく泣きじゃくったのである。それから毎月一度は、宮人は娘のことが心配で島に帰った。そして娘を慰め元気付けようとした。今にも死んでしまいそうだった娘も、そのかいあってか、やがて明るさを取り戻し、元気に働くようになったのだ。その様子で安心した宮人は国衙の仕事も忙しくなったこともあり、三月ほど島に帰らなかったが、戻ってみるとなんと娘は身投げして死んでいたのである。


難波潟潮干なありそね沈みしに 妹が光儀(すがた)を見まく苦しも 

島に戻った時、まだ屍はあがっていなかった。宮人は無残な娘の亡骸に対面するのはとても苦しくてできないと思っていた。この三月、実は島に帰りたくて仕方がなかったのだ。宮人にとって娘の存在はどんどん大きくなっていっていた。しかし戦死の知らせからせめて一年間は自分の思いを告げることはできないと心に決めていた。

こんな結果になるのだったら、思いを打ち明けるべきだったと後悔したのである。しかし娘の妹が宮人を浜に呼び出して、姉の思いを密かに告げた。

「あなたのせいよ、あなたが優しくしすぎたから、姉は死ぬしかなくなったのよ」、「それはどういう意味だ。私はただ元気な笑顔に戻ってほしくて励ましただけだ。それがどうしていけないのだ。」
「姉は久米の若子を夫と心に決めていたのよ。だから戦死すれば、いさぎよく後を追う覚悟だったの。それをあなたが優しく励ますものだから、なかなか死ねなかったの。そして癒されることで、あなたへの愛が芽生え、膨らんできたのよ。そのことが夫と決めた人に済まなくて、それで死ぬしかなくなったのよ。」

 なんと言うことだ。私は娘を救うことができなかったばかりか、かえって死に追い詰めていたのか、私が、私の愛が娘を殺したというのか。宮人は頭がくらくらして浜にへたりこみ、はげしく胃の中のものを戻した。そして身を捩じらせて号泣したのである。

  宮人は娘の屍を見たくないと思った。どんな言葉をかけたらよいのか、謝ればよいのか、責めればよいのか、それとも私まで死ぬべきなのか。ああ激しく変化する難波潟の潮よ干いてくれるな、とても苦しくて娘の顔は見れないのだよ、宮人は心の中で叫び続けた。


 風早の 美保の浦廻の 白つつじ 見れどもさぶし 亡き人思へば

風早浦は現在の広島市 付近にあるが、この歌の風早は地名と受け止めることもあるまい。風が強く吹く美保の浦である。美保も地名ではなく浦が美しいことを意味している。浦廻(うらね)は出入りの激しい曲がりくねった浦である。美しい景色だが、さびしい雰囲気がある。そこに咲いている白つつじは純愛に殉じた娘の象徴である。「白つつじ」の花言葉は「変らない美しさ」である。

娘の屍を前に河辺宮人は立ち尽くしていた。私がこの娘を愛したから、この娘を死に追いやったとしても、それは私の罪ではない。もし愛さなかったとすれば、この娘は「久米の若子」の死の知らせを聞いてすぐに死んでしまっていただろう。私の愛はこの娘の死を遅らせたのだ。しかしこの虚しさはどうだ、やはり娘に死なれてしまったのは、私の愛の無力を意味している。

 娘も久米の若子を待ちながらこの白つつじを見ていたのだろうか。そして変らぬ愛の美しさを信じようとしていたのだろうか。ところが戦死の知らせを聞いてから、彼女は久米の若子への思いが永遠のものになったと思い、恋に殉じようとした。たとえ自死しなかっても、思いの中で若子への愛は永遠になったのだ。だが、私への想いが膨らんできたときに、若子への想いの熱さが冷まされかねないことに気づき、それが若子に済まないと感じたのだろう。

 それなら娘の想いが膨らみ始めたときに、宮人がもっと自分に正直になって、愛を告白し、彼女を抱きしめていたら、彼女を死なせずに済んだのだろうか。それで彼女を幸せにすることができたのだろうか。いや、そんなことをすれば、彼女は宮人を純愛を汚そうとする、汚らわしい男として拒絶したかもしれない。
 宮人はさびしい想いに胸が張り裂けそうになりながらも、純愛を永遠のものにするために死を選んだ純粋な魂を讃えようと思った。


みつみつし 久米の若子が い触れけむ 磯の草根の 枯れまく惜しも

「いかめしく強い」という意味の「みつみつし」は「久米の若子」の枕詞である。勇猛な久米の若子が手に触れたという磯の草根が枯れるのは惜しいという意味になる。磯の草根は浜で兵士の帰りを待つ漁師の娘なのだ。漁師の家では海に出て漁をしたり、交易や戦に出かけるのは男たちである。娘は磯の草根として浜で待ち続けなければならない。そして男が帰らなければ、女は枯れてしまうしかないのである。たとえ一夜の契りであったとしても、その契りが真実であり、そこに永遠の愛を感じたのなら、娘はたとえ白髪になろうともその男を待ち続けるのだ。

 そしてその男が死んだときには、その哀しみに耐え切れず自死するか、永遠の愛の想い出を拠り所に一生を終えるのである。もし宮人がその娘を愛さなかったら、あるいは白髪まで想い出に生きようとしたかもしれない。それを宮人は枯らしてしまったのである。そう思うとき、宮人は罪の意識に苛まれた。

 人言の 繁きこのころ 玉ならば 手に巻き持ちて 恋ひざらまし

この歌は誤解されている。久米の若子と娘の相聞歌と勘違いされているのである。人の噂がやかましくなったのは、宮人が娘の死と絡んでいるのではないかという噂がたったからである。娘の妹は姉から苦しい胸のうちを聞いていたから、宮人と娘の関係が清らかなものであることを分かってくれていたが、周囲のものは、本当に久米の若子への愛に殉じたのか、それとも宮人に言い寄られたので、死ぬ気になったのではないかと疑ったのである。娘の父親は、宮人が娘を犯して捨てたのではないかとまで宮人を詰問した。

 宮人は一言も娘に求愛の言葉は言わなかった。娘が若子との純愛に生きている以上、求愛は純愛への冒瀆である。宮人は燃え上がる恋の炎を、無理やり押さえ込んでいたのである。しかしかれの熱き想いに周囲のものが気づかないはずはない。惚れているのなら、堂々と父親を通して娘に求婚すればよいのである。若子は戦死したのだからなんの遠慮も要らないはずである。宮人の態度はなんとも煮えきれないように写ったのである。これが娘の親の正直な気持ちである。

 でも娘への宮人の愛は、娘が若子を一途に思っているからこそ、その想いの深さに胸打たれたからこそであるのだから、いまさら娘を強引にわがものにするなどできようはずもないのである。宮人はあくまでもその心を隠そうとした。でも隠しても隠しても色にでるものである。娘は人だ。宝玉ではない、宝玉ならどんなに美しかろうと恋焦がれることはないのだ。

 妹も我も 清の川の 川岸の 妹が悔ゆべき 心は持たじ

  この歌も久米の若子と娘の相聞ではない。久米の若子は戦死し、娘はその哀しみに自死したのだから、この二人の関係は何も弁解する必要はないのである。問題なのは生き残った宮人の心である。宮人は娘の死が純愛に殉じたものであることを讃えた。「妹が名は 千代にながれむ」とまで讃えたのである。それは宮人の愛によって純愛が揺らいだことなどないと言いたいのだ。

 しかし宮人の愛も純愛であり、全く穢れのない想いなのだ。娘の両親の立場からみれば、娘に求婚するのが最も純愛に見え、潔くみえるだろうが、そんなことをすれば余計に娘を苦しめるだけである。だからあくまで宮人は娘を慰め、元気づけることに徹したのである。その優しさは、娘の心に十分届いた。そして哀しみから癒され、強く生きようとさえしたのである。それでも娘はついには純愛に殉じる道を選んだ。それはもはや哀しみからではない。

 愛の永遠を信じ、心迷わせることなく、一筋の恋に生きるために死を主体的に選んだのである。宮人への想いが膨らんできそうになり、それでは一人寂しく死んだ若子が哀れだと思って死を選んだのである。その心根はやはり純粋である。宮人の優しさに心惹かれたからといって、若子への純愛はすこしも汚されていない。心惹かれないとすれば人の優しさに感じることができない冷たい女だということになる。だから宮人の愛を感じて、それで若子の寂しさに思いやって若子の許にいこうとする娘に、宮人は少しも悔いを与えるようなことをしていないのだ。ましてや、宮人は自分の気持ちをやましいと感じることなどないのである。

 そこまで思い切るまでに、宮人も苦しんだ。自分の思いが娘を死に追い込んだことについて罪の意識にも苛まれた。また自分が娘を愛してしまったこと自体が、切なくて切なく、死にたいくらい切なかったのである。宮人は歌に想いを託すことで、自らの愛を昇華し、娘の純愛を千代のものにまでした。そして宮人の歌は、「君が代」の本歌になった。そして「君が代」の本歌をたずねる『「君が代」の起源―「君が代」の本歌は挽歌だった』(明石書店、二〇〇五年刊)という現代の営みが、この純愛を再びよみがえらせたのである。