『「君が代」の源流』藤田友治+歴史・哲学研究所編

                    

この本から「目次」と「V『君が代』の二重構造―挽歌から賛歌へ」の四・五を複写して紹介します。

序文 画期をなす「君が代」の本質の解明 山本晴義
《第一部対談篇》

 君が代」の源流をめぐって―「賀」の歌でなく「挽歌」であった   藤田友治+梅川邦夫+久保下多美子一「君が代」の経過と最近の情勢
二「君が代」の制定
三「君が代」挽歌論
四「君が代」の源流の歌
五古代人と現代人の死生観
六、戦争で亡くなった人 への想い


《第二部論文篇》


T「君が代」の源流 藤田友治
一、「君が代」の由来
二、「君が代」讃歌の二重構造
三、入来神舞の構造
四、生き続ける「石」・「珠」信仰
五、鍾乳洞起源説
六、「君が代」と教育

 

U「君が代」考 溝口貞彦

一、「さざれ石の巌となりて」について
1
問題の所在
2
平安人の考え方
3
歌詩の思想的背景

二、この歌の基本的性格
1
挽歌と賀歌
2
用語の検討
3
蓬莱山思想との結びつき
三、その後の「君が代」をめぐる動き

V「君が代」の二重構造―挽歌から讃歌へ 藤田友治
一、はじめに
二「君が代」の源流を訪ねて
三、「君が代」の分析と『万葉集』
四、[君が代」論の反響―讃歌と挽歌―
五、挽歌と相聞歌
六、久米の若子
七、戦闘する紀氏集団の悲劇
八、挽歌を賀の歌に変容させた紀貫之
九、古代人の死生観―転世
、まとめ


W[万葉集]の死生観 梅川邦夫
一、死後の世界への想い
二、現身と自然
三、日常と死
四、死と魂
五、挽歌と相聞歌
六、霊魂から祖霊、そして神へ
七、まとめ

資料「君が代」関係年表 参考文献
あとがき
執筆者紹介


「V「君が代」の二重構造―挽歌から讃歌へ 藤田友治」より
 

四「君が代」論の反響―讃歌と挽歌―


 「君が代」の源流は深い。拙論「『君が代』の源流」(『「君が代」、うずまく源流』新泉社、一九九一年)のなげかけた問題提起を正面から受けとめられ、しかも一層発展して、問題を深められた論が二論文ある。一つは、古田武彦氏(昭和薬科大学元教授)の『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社、一九九○年)、『「君が代」を深く考える』(五月書房、
2000 年)の[君が代」論である。


 そこには、拙論をとりあげ「鍾乳洞じゃないですか。あの「君が代」の下の句のイメージの、“源(もと)”になったのは。土地勘の豊かな鬼塚さんから、井原山の奥に水無(みずなし)に鍾乳洞のあることを聞いたとき、藤田さんの頭の中に電光がきらめいたのだ。気の遠くなるような、時のながい経過を通じて、鍾乳洞は形造られる。石筍
(せきじゅん)と呼ばれる、つららのしずくのしたたり。それが岩室を形成するのである。それを見た古代人が、あの「細石の巌となりて苔のむすまでに」という、“悠久の観念”をえることとなった。時の途方もない長さ、それを実感することができたのだろう。こういうアイデアである。―おもしろい」(『「君が代」は九州王朝の讃歌』新泉社、1990年)。この鍾乳洞とみる私の見方に対して、かつて一部の反対意見があった。これに対して、再び、古田氏は「けれども、年を経つつ、再三熟視してみると、その“不同意”は必ずしも、“道理の透徹した”見地ではなかった。なぜなら 「岩穂」は …、“尖った形状の岩”の意である。そのような形状に「なる」と言う限り、これを「鍾乳洞の認識」の反映と見なすこと、もっとも自然である」(『「君が代」を深く考える』五月書房、2000年)と論を深めて反論された。

 古田氏の「君が代」論は現地調査に根ざしている。「千代」は博多湾岸の地名、「細石」は細石神社(前原市)、[巌]は井原(いわら)遺跡、井原の鍾乳洞(発音について、井原は「いはら」でなく「いわら」である事に注意、つまり「いわほ」となる)。「こけむす」は「苔むすめのかみ」を祭る桜谷神社(前原市 )である。これらの分析から、「君が代」の歌は糸島・博多湾岸の地名・神社名・祭神名を“連結”して作製されていることが判明する。志賀海神社の「山ほめ祭」の「君が代」は「安曇(あずみ)族であり、「わがきみ」とは、「筑紫の君」であると結論づける。
 

「君が代」は従来、近畿天皇家の歌と思い込まれていたのにたいして、古田氏の場合は九州王朝の讃歌と位置づけるのである。確かに、「君が代」を分析すれば、近畿天皇家と繋がりを持つのは、先に述べたように大山巌からであり、その大山も九州の「蓬莱山」の「君が代」からその歌をとっていたのである。
 

さて、「君が代」は「讃歌」か、あるいは「挽歌」なのかという問題がある。「蓬莱山」は明らかに「賀」の歌である。「めでたやな」ではじまり、「亀」もうたわれている。問題はつぎからである。「蓬莱山」はなにを基にしたのか。これが、先にのべた「入来神舞(いりきかんめ))なのである。既に分析したように、この歌は二重構造をもつ。一つは、「神舞」を舞い「君が代」を歌う鬼形をした黒面・黒地狩衣・黒袴、白足袋の鬼神の世界であり、なんとも奇怪な世界であった。これは九州の土地の先住勢力を意味していよう。

もう一つは天照大神の天の岩戸に描かれる「死」と「再生」のテーマである。これは、「天孫降臨」「天降り」によって排除された勢力の「死」と「再生」の挽歌ととらえれば、矛盾は解けるのではないだろうか。つまり、先住勢力にとって「神舞」を舞い「君が代」を歌うのは滅びたことへの悲しみを歌うのであるが、「死」からの「再生」を願って歌うのである。この先住勢力は岩石信仰をバックにした石長比売(いわながひめ)に代表される。
 

一方、「天降り」した勢力は九州の先進文明圏を政治的、軍事的に支配するが、被支配民・先住勢力との精神的「和解」が必要なのである。『記紀』ではニニギノ尊は石長比売を「みにくい」といって拒否し、妹の木花佐久夜比売(このはなさくやひめ)をえらんでいる。だが、この土地を支配するには先住勢力の岩石信仰を代表する石長比売らとの「和解」が必要になってくる。それゆえに岩石信仰をバックにした「君が代」が歌われるのである。こうして両勢力によって歌われるのが、「君が代」なのである。これを被支配民・先住勢力からいうと、「君が代」は挽歌であり、「天降り」した勢力からいうと「『君が代』は九州王朝の讃歌」となるのである。ここでも多元的、構造的、重層的な解明が必要である。
 

もう一つ、拙論「君が代」の問題提起に対して真剣に受け止められて、新たに根本的に論を進められたのが、溝口貞彦氏(二松學舎大学教授)の「『君が代』考」(『二松學舎大学人文論叢』第六九輯、200210月、二松學舎大学人文学会。後に『和漢詩歌源流考』八千代出版、2004年)である。拙論は「細石を小さな石とし、巌を巨岩とするとき、小さな石が大きな岩にどうして生成・発展するのか。非科学的でナンセンスでないのか」と問題提起をした。溝口氏はこの問題提起を真正面から受け止めて論をたてられた。
 

溝口氏は「君が代」の解釈を『古今和歌集通解』(金子元臣)から、[我君」は「君は二人称の代名詞で、天子の事でない」を参考としうるとみる。ただ、「石成長」については、国文学者の解釈はいずれも物足りないとする(窪田空穂、松田武夫、小島憲之、新井栄蔵、竹岡正夫、各氏等)。「従来の解釈は(国文学の大家といえども)表面的な説明に終始し、多くの人が抱く疑問に一歩踏ふみこんで答えようという姿勢がみられない」と手厳しく批判される。では、自身はどう解釈されるのだろうか。

 まず、『古今和歌集』の序をとりあげ、紀貫之が再三「我君は」の歌詞を引用したことを問題解決の糸口とする。そうして、「さざれ石の巌となりて」の思想背景を老子の「九層の台も塁土より起り、千里の行も足下より始まる」から、「土積もりて山と成る」(説苑)、「微塵を山と積みて成す」(大智度論)、から白居易をへて仮名序、また法華経、真名序をへてやはり仮名序の「さざれ石の巌となりて」になると論じる。つまり、「塵も積もれば山となる」という東洋思想であるとする。さらに、溝口氏の論は進み、「君が代」は賀の歌ではなく、挽歌であるとされる。「天の原 ふりさけみれば 大君の 御寿は長く 天足らしたり」(『万葉集』巻二)を歌詞のみ見ると一見、賀の歌のようにみえるが、実は挽歌である。「天皇が危篤のとき、皇后が奉る」と題詞にある。長寿・永世祈願には二つの流れがあり、賀の歌の系列と、挽歌の系列である。さて、「君が代」はどちらの系列かと問う。
 

「君が代」の歌詞の分析を通じ、君が代」は賀の歌ではなく、挽歌であると結論づけられる。
 

次のような根拠である。

@「君が代」の歌は賀の歌よりも挽歌の先の天智天皇臨終の歌に近い。
A「万葉集」では、「巌」の語は、死と墓場を意味している。
B「さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は挽歌のテーマである死と再生(転生)が歌いこまれている。

C「我君は」の歌の本歌である「妹が名は」の歌は、水死した乙女のための鎮魂歌である。
D『梁塵秘抄』は「君が代」を「塵も積もれば山となる」の諺と結びつけ霊魂が蓬莱山に積もる、死後の世界ととらえている。
 

以上である。紀貫之は賀の歌に入れてしまったが、この歌の基本的性格を見誤ったものと言わざるを得ず、挽歌ないしは、哀傷歌であると溝口氏はとく。


五、挽歌と相聞歌

 

そもそも「挽歌」とはなにか。「挽歌」とは葬儀の時に悲しみに満ちて歌う歌であり、死者へささげられた残された者の魂の叫びである。『万葉集』には次の歌がある。

 

君が行き 日長くなりぬ 山たづね

迎へか行かむ 待ちにか待たむ(八五)
 

かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の

磐根し枕きては死なましものを(八六)

 

この歌は「君がおいでになってから日が長く経ち、山路をたずねて迎えに行こうか。それとも待ちに待ちつづけようか。(お会いしたいものです)」(八五)の意味であろう。また、「このようにばかり恋に苦しんでいないで、高い山の岩を枕として死んでしまいたいものです(それくらいお慕いしているのです)」(八六)の意味である。これらの歌は『万葉集]の巻二の「有名な相聞歌」と考えられてきた。古田武彦氏は『古代史の十字路』(東洋書林、2001年)において、磐姫皇后の「悲運の恋の歌」として、「自己の苦悩の中に、人間の苦悩、歴史を貫く苦悩を見出しているのである。それがこの歌のもつ深さだ」と鋭い分析を加えている。
 

そこから、よくよく考えてみると、私は自己の苦悩の極致として、相聞歌は挽歌に通じるものであると思う。本来、相聞歌は挽歌から生れ出たのである。
 

これを、詳しく考察してみると「山…迎えへ」(八五)、「高山の 磐根し枕きて 死なましのものを」(八六)と深い想いに満ち、死者への慰めのようである。「山たづね」は死者の葬られている山中の墓所を訪ねることであり、「磐根し枕きて」はその死者の姿である。その死者を慕う私はあなたと一緒に「死なましものを」とあなたを亡くした心の苦しさを告白しているのである。これも実は挽歌である。
 

この歌が挽歌であるという見解は学説史上、折口信夫(おりくちしのぶ)が最初で「恋及び恋歌」(『折口信夫全集』第八巻)、「相聞歌」(『折口信夫全集]第九巻)にみえ、その後多くの研究者もみとめている。たとえば、白川静『初期万葉集』(中公文庫、2002年)に「挽歌というのは 死んだ人の魂を呼びよせることが忘れられると、挽歌も恋歌の様に見られて来る」という折口の見解を白川氏は肯定している。白川氏は文字の成立、その根本の研究をしているが、その立場から相聞歌が挽歌に通底していることを見抜くのである。古代の鎮魂儀礼が歌を作ったと見ているのである。深い悲しみによって、今は死者であるが、かつての生き生きした姿を彷彿させるのは当然であろう。

 

さらに追求しよう。『万葉集』の「君が代」のルーツと思われる「妹が名は」次の歌である。

和銅四年歳次辛亥、河辺宮人、姫島の松原にをとめの屍を見て悲しび嘆きて作る歌二首

 

妹が名は 千代に流れむ 姫島の

子松が末に苔生すまでに(二二八)
 

難波潟 潮干なありそね 沈みにし 

妹が光儀(すがた)を見まく苦しも(二二九)

 

さて、通説は歌の場所を摂津とするが、なお確定しきれていない(岩波の日本古典文学大系本など)。「君が代」のテーマである「千代」、「苔生すまで」を歌っている。既にこの歌については古賀達也氏の「『君が代』『海行かば』、そして九州王朝」(『「君が代」、うずまく源流』)に「筑前難波」の歌としての洞察がある。糸島半島の沖の姫島、博多湾岸の千代の松原に流れる海流を臨む場所に歌をおくのである。この歌は明らかに九州において歌われたものである。実は「君が代」に関する『万葉集]の歌はさらに挽歌の中に四首ある。つぎのようだ。
 

和銅四年辛亥、河辺宮人、姫島の松原に美人の屍を見て、哀働(かなし)びて作る歌四首

 

風速の 美保の浦廻(うらみ)の 白つつじ見れどもさぶし
   亡き人思へば(四三四)


みつみつし 久米の若子(わくご)が い触れけむ

磯の草根の 枯れまく惜しも(四三五)

 

人言の 繁きこのころ 玉ならば 

手に巻き持ちて 恋ひずあらましを(四三六)
 

妹もわれも 清の河の 河岸の

妹が悔ゆべき心はもたじ(四三七)

 

これらの歌は @時・「和銅四年辛亥」、 A名・[河辺宮人」、B場所・「姫島」、 C 対象・[美人の屍]を分析すると分かるよ、つに同一である。河辺宮人の河辺とは『和名抄』にある志摩郡の七つの郷の一つである。「美人」はなぜ死なねばならず、屍となるのはなぜなのか。この四首の歌は物語る。「恋ひ」(四三六)人である[久米の若子」(四三五)と「磯の草根」で想いを重ねた、深い恋であった。四三六と四三七は相聞歌である。『万葉集]の編集者も「是非別き難し」というほど二二八と二二九の挽歌と言葉がことなる。相聞歌と思える位の挽歌である。しかし、相聞歌は挽歌から生れるのは先に考察した通りである。
 

恋人をなくしてしまった悲しみはなによりも辛い。恋人である「久米の若子」の死は悲劇的なものである。自然死ではありえない。不幸な死を遂げざる得なかった「若子」である。それゆえ美人にとっては「さぶし亡き人思へば」(四三四)なのである。美人の乙女にとって恋人をなくした悲しみはいかばかりであっただろうか。心の底から愛したが故に深く絶望し、後追い「自死」を選んだのである。悲しみの極致としての、“深い連帯”、=“結”であり、私のいう「共生・共死」である。だが、それは残された者にとってあまりにも悲劇ではないか。そこで、美人の屍を見て、哀慟(かなし)びて作る歌が、先の(二二八)の“再生”を願う挽歌となったのであろう。こうして、「君が代」の歌の本歌ができる。本歌「妹が名は」が「わが君は」となり、「千代に」が「千代にましませ」となり、「磯の」が「巌を」となり、「苔生すまでに」は「苔のむすまで」なっている。次のようである。

 

本歌『万葉集]挽歌

 

妹が名は 千代に流れむ 姫島の
子松が末に 苔生すまでに(二二八)


『古今和歌集』「君が代」


  我が君は 千代にましませ さざれ石の

巌となりて 苔のむすまで 

 

このように「君が代」の本歌が挽歌(=相聞歌)であれば、その本歌どりをした歌は当然、挽歌となる。

 

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