ホッブズ『リヴァイアサン』の人間論

            《欲望機械と人工機械人間》

            第一節動物機械論から人間機械論へ
             一、国家は巨大な人工機械人間である一


 人間機械論と言えば思想史的にはフランス唯物論のラ・メトリが著わした『人間機械論』が有名です。彼は人間を無数の発条(ぜんまい)の組み合わせとして説明しました。ホッブズ(15881679)は、社会契約論であまりに名を轟かせてしまって、人間機械論の元祖としては忘れられがちです。しかし私に言わせれば、人間機械論としてもホッブズの方がはるかに重要です。

 ホッブズは人間を欲望機械として捉えています。ホッブズの場合は、人間が機械であるばかりでなく、コモンウェルス(国家)も機械です。しかもコモンウェルスは機械であるばかりでなく、人工的な機械人間でもあるとしたのです。彼は『リヴァイアサン』(1651)を著わしましたが、この題名は『バイブル』の「ヨブ記」に登場する怪獣の名前から採りました。これは神が創造された巨大た怪獣に倣って、人間がコモンウェルスという巨大な人工機械人間を造ったのだという譬えなのです。ホッブズの社会契約論を正しく解釈する為にも、個々の人間が欲望機械であり、国家が一個の人格を持つ巨大な人工機械人間であることを押さえておくことが決定的に重要です。

                 二、生体も国家も同じように機械として捉えられる

 人間や国家が機械だというと奇異に感じられるかも知れません。今日の常識では、人間は生物であって機械ではありませんし、国家も社会組織であって機械ではないからです。ホッブズの時代ですと自動で動く複雑な仕組を持った装置としては「生命体」もオートマシン(自動機械)に含まれていたのです(『リヴァイアサン』序説、53頁上、頁数は中央公論社版『世界の名著28』による)。逆に言いますと時計のような自動機械も動物に含まれます。機械概念や動物概念自体が今日とは違ったパラダイムで使用されているのです。重要な思想が語られるときには、その思想体系に固有のパラダイムが展開しています。そのことを無視して、読み手が自分自身のバラダイムに合わせて解読してしまいますと、極端な誤読に陥ることになるのです。『リヴァイアサン』にしても『資本論』にしても百人百様の読まれ方をされているのが実情です。

  最近、人間機械論が盛んに唱えられるようになりました。自然科学分野の人間論では既に主流だと思われます。もちろんコンピュータ(電子頭脳)が急速に発達し、ロボット技術が長足の進歩を遂げたことによります。頭脳及び身体をメカニックなシステムとして理解することができれば、その知識をロポット製作に応用できる理屈です。それに自動機械の発達に伴い、人間と機械の新しい合理的な関係を模索する視点が重視されています。マン・マシンシステムと呼ばれるもので、これを対象にする分野を人間工学と言います。

 また分子生物学の分野が発達し、高分子を部品にした機械システムとLて細胞を理解することも可能になってきたのです。その応用分野としては遺伝子工学があります。遺伝子操作によって品種改良を行ったり、新しい繊維や薬品の原料を開発する技術が日進月歩の勢いを示しています。これは生物機械論ですが当然人間機械論の基礎に置かれます。

                             三、デカルトの動物機械論

 ホッブズが人間を欲望機械と捉える背景に、デカルトの動物験械論があります。デカルトは、動物を内燃機関を持つ自動機械であると見なしたのです。普通機械と言えば人工的なもので、動物は自然に増殖するものだから機械ではないと思われるかも知れません。ところが超越的な創造神を信仰していますと、神が造られた非常に精巧な機械であると見なすことができるのです。それじゃあ人間も神によって造られた機械じゃないかと疑問になります。ところがデカルトは人間だけは別だと主張したのです。

 それはいかに精巧に造られた機械でも単純な自動応答ならできるだろうが、状況を判断して、会話を交すことはできないだろうという理由からです。同じ理由で動物も人間の言葉の真似はできても、機械的な応答だけで、状況判断や価値判断を伴う会話は決してできないというのです。だから人間も身体だけ取れば、動物と同じで機械と見なす事ができます。でも身体的な欠陥から言葉が不自由な人間でも状況に応じた会話や価値判断を示すことができるので、人間だけは機械ではないと断定したのです。(デカルト『方法序説』)

   四、デカルトによれば、言語能力を持つのは身体ではなくて、実体としての霊魂である

 このデカルトの判断は、人の思考は身体が行っているのではないことを意味します。動物の知能が発達して会話が自由にできるようになるとは考えられないと言うわけですから、当時解剖学が発達しまして、人間と他の動物を比較しますと外見的にはかなり違っていても、身体の構造はほとんど異ならないことがわかりました。脳髄だって大きさは猿に比べて少し大きいだけで、それだけで言語能力ができるとはとても考えられないと思われたのです。

 言語能力がどうして人間だけに備わったのかという疑問に対して科学的に解明することができませんでした。『バイブル』では神がアダムに動物たちに対する名づけの能力を与えたとあります。これをアダム語と呼びます。ベーコンは言語能力の付与を認識能力の付与と受け止めています。そこで神が創造され、隠された自然の秘密を人間が暴くことを、神の創造を讃えることとして、科学の発達を宗教的にも意義づけたのです。デカルトは身体と絶対的に区別される実体が身体に入っているから、言語能力があるのだと主張したのです。
その実体とは身体と絶対的に区別されるのですから、非物質的な霊魂だということになります。

            五、疑っている以上、疑っている私は存在する

 意識主体としての霊魂とは「考える私」つまり自我を意味します。デカルトは、身体に依存しないで、むしろ身体に先立って自我が絶対確実に存在する事を論証Lました。その方法が「方法的懐疑」なのです。先ず彼は絶対確実なものから出発しなければ、真理の体系は演緯できないと言明します。その為には少しでも疑わしいものは真理とは認めないことにしようと言います。現実的な事物は、錯覚や夢も同様に本当らしく思える事があるのでひとまず疑わしいとします。数学的な論証もいずれ誤りが発見される可能性がないとは言い切れないという理由を挙げて疑います。このように疑うことができる全てを疑った後で、疑い得ないことが一つある、それは私が疑っているという事実だと気付いたのです。これは現に疑っているのだから疑えないという道理です。そこで「疑っている私」は絶対確実に存在する真理だというわけです。

      六、疑っている不完全者は、完全者()無しには存在できない

 そこでこの「疑っている私」即ち「考える私」の存在は、ただ疑っている事実だけから証明されたのですから、他の疑わしい全てのものに依存しないで、他の疑わしいものに先立って存在する筈だという帰結が導かれたのです。だから身体なしでも「考える私」としての自我、即ち霊魂は存在することになったのです。ただし「疑っている私」は不完全な存在です。もし完全な存在なら疑う必要もないでしょうから。そこで不完全な存在は完全な存在である「神」に依存している筈だということになり、「神」の存在が論証されます。

 この論証の仕方は、実は、既にとっくの昔にアウグスチヌスが懐疑主義批判で行っているのです。懐疑主義者たちはなんでも疑って真理など無いと言っているが、疑っている自分が存在することは否定できないだろう。そしてそうした自分は疑っているのだから不完全な存在で、完全な存在である「神」によって存在を支えられているじゃないかと指摘していたのです。

 デカルトはさらに不完全な存在者は、不完全なのだから完全な存在者について考え及ばない筈なのに、完全者である「神」の観念を持っているのは、自分で考え付くわけはないから、きっと神が先天的に神の観念を置き入れたに違いないとして、回りくどい神の存在証明もしています。この神観念が生得観念であるというデカルトの論証をロックは否定して、「全ての観念は経験から」というイギリス経験論の立場を確立したのです。

     七、では「私(コギト)」はどんなメカニズムで疑うことができるのか? 

   ところで「考える私」は「私が疑っている」という事実から自明のごとく論証されたのですが、果たしてこの論証は疑問の余地の無いものでしょうか。「私が疑っている」という命題には初めから「私」が含まれていますから、「私」の存在は疑い得ないものとして最初から前提されているわけです。その結果「私」の存在は疑えないと言っても、同義反復でしかありません。「私」の存在は論証すべき内容なのですから、前もって前提してはならないのです。方法的懐疑を掲げながら、実際は独断論でしかないと言わざるを得ません。ホッブズにとっては、「私が疑っている」という「思考」の事実からは、思考主体として自我が実体的に存在するとは言えないのです。
 
 「私が疑っている」ということが事実だとしたら、どのようにしてそのような思惟活動が行われているのかが明らかにされなければならない、とホッブズは考えたのでしょう。つまり「私」の存在の内容を思考のメカニズムを解明することで示すべきだという立場です。そうでないと「私」がどうして疑ったりすることができるのかが、一向に明らかになりません。なにしろデカルトの論証した「私」は物質と絶対的に区別される精神的実体としての霊魂ですから、霊魂がどうして思考することができるのかは決して対象化できないのです。

 デカルトは心の主座は、脳髄のてっぺんの松果腺にあり、そこに全身からの情報が体液の循環によってもたらされるので、感覚を素材にした思考活動ができるとしています。ではそれらの感覚素材に対して霊魂はどのようなメカニズムで思考できるのでしょう。また霊魂は身体に依存しなくても存在できると言うのですから、身体から分離した状態でも考えることができる筈です。その時はどのようなメカニズムで何を思考できるのでしょう。霊魂は物質とは絶対的に区別されていますから、物質のように空間的に構造を成すとは考えられないのです。それでは人間の思惟の対象にはなり得ません。霊魂が考える主体なのは、霊魂の存在を前提したとしたら、それが考えているという事実から自明と言えるのであって、どのような仕組で考えることができるのかに答えるのは原理的に不可能なのです。

 ホッブズは名指しのデカルト批判は行っていません。しかし人間論の展開全体が、思考過程を物質的な運動として説明しています。そして思考する主体として、何か物質的な思考過程とは別の精神主体の存在は全く想定していません。その上『バイブル』解釈でも、『バイブル』の中に出てくる、霊魂を実体的に捉えて、それが身体に出入りするように取れる表現を総べて比喩的に解釈すべきだとしています。ホッブズの課題は、動物機械がいかに発達しても言語活動が出来るようになり得ないとするデカルトに反論して、動物機械論を人間機械論にまで発展させることにあったのです。

 

 
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