第2章キリスト教

  1ヘ ブライズム

                                        神の子も聖霊すらも神ならば神は唯一と言われぬものを

太郎:ヘレニズム対ヘブライズムという形で対置して比較する場合、ヘレニズムというのはアレクサンドロス以降の歴史時代を指すのではなくて、ギリシア風の文化全体を指しているのですね。それに対してヘブライズムはユダヤ教・キリスト教の文化を意味しているのですか?

花子:あれ?私が世界史で習ったのは、キリスト教はヘレニズムとヘブライズムを融合したものだということですが。

太郎:『旧約聖書』を通して唯一絶対の超越神ヤハウェを信仰している点で、ユダヤ教とキリスト教は共通しています。それに対してヘレニズムの神は自然神であり,神は自然現象なのです。大地が神であり,川が神であり,空が風が雨が神なのです。また愛や智恵などの抽象名詞も神になれます。

花子:キリスト教では、唯一神信仰は建前だけで、ヤハウェだけじゃなくてイエスも神なのよ。それにマリアだって神の母として信仰されているの。マリア信仰はギリシアの大地母神信仰の影響らしいのよ。だからキリスト教には多神教的要素があるのよ。

太郎:父なる神ヤハウェと子なる神イエスと聖霊なる神はそれぞれ神格は違うけれど一体だという三位一体説というのがキリスト教の教理になっていて、キリスト教は唯一神信仰を守っているんだ。だから多神教とははっきり一線を画している。ねえ、先生。

先生:太郎君の言う通りなんだが、それは主観的なところがあってね、何故ここに太郎と花子と先生という三人の人間がいるのに実は一人であるなんてことを言われても、だれも納得できないだろう。それは神のみぞ知るだ。父と子と聖霊が三位一体だというのも、実はキリスト教徒でも説明しきれない原理なんだ。神は唯一存在だから、一つなんだけれど、実際には父ヤハウェも子イエスも聖霊も神なんだ。それらは何故一つなのかは人間には窺い知ることが出来ない神秘なんだ。これではユダヤ教やイスラム教から観ると支離滅裂で破綻している。キリスト教は唯一神論をかなぐり捨てているくせに、開き直って三つだけど一つと言い張っていることになる。

花子:それに教義の形成や説明原理にプラトン哲学やアリストテレス哲学などを応用していますね。その面からもヘレニズム化がみられますし、十字架や聖像、ミサにおけるパンとワインなど様々な偶像崇拝や呪物信仰などもありますから、キリスト教は超越神信仰という面でもかなり後退しているといわれますね。

先生:花子さんはなかなか宗教論では突っ込みが鋭いね。自然現象や自然物は神によって造られたものである、神の被造物だ。だから神ではありえない。神は創造主として被造物から超越しているんだ。この超越神という発想からみれば、人であるイエスが神の子と呼ばれ、神として認知されるのは本来おかしいんだ。ところがイエスは人間だから神ではないと唱えた人々は異端とされて追放されてしまったんだ。ということでキリスト教はヘブライズムだけど、ヘレニズムの要素を融合することによって成立したというように憶えてください。

                                      土くれや蛇を崇めて何とする神貶めなば審き避けまじ

花子:先生、なかなかうまく調整しましたね。それではヘブライズムの原理を説明して下さい。

先生:まずヘブライズムの神は超越神です。自然を越えた,万物の創造主が神なのです。自然物は神の被造物であり,神自身ではないのです。動物や人などの自然を神として祭ったり,金属や土の塊など自然物で神の像を造ったりすることは,神と自然との絶対的な断絶を否定することだとされ,神に対する最大の冒涜とされます。ですから偶像崇拝する異民族をホロコースト(大虐殺)することはむしろ神の名誉回復の意義を担っていたのです。これを躊躇ったということでユダヤ最初の王サウルは神から見放されてしまいます。        

太郎:中東ではユダヤ教とイスラム教がパレスチナ問題で厳しく対決していますね。ユダヤ教にすればイスラム教の連中は、神がユダヤ人のためにとっておいてくれた土地からユダヤ人を追い出そうとしているわけですから、当然皆殺しにしてもよいことになりますね。

先生:おいおい物騒だな、『旧約聖書』の立場からみれば、そういうことになるけれど、現在のユダヤ教徒たちがそう考えているわけではないよ、念のため。

花子:イスラム教徒からみればユダヤ教は神の言いつけを破って,神から見放され、追放されたのにイスラム教徒に神が与えられたパレスチナを神の意志に背いて奪い返しに来ているのだから、パレスチナから叩き出してもいいんだということにもなります。

先生:これも物騒だな。たしかに宗教感情としてはそういうことも言えるね、でもパレスチナ解放機構(PLO)の考え方は、無宗教の国家体制にしてユダヤ教徒もイスラム教徒もキリスト教徒も共存できるようにしようという立場なんだ。とはいえ宗教的な教義から自分たちの主張は正当であり、安易な妥協は神を裏切ることにもなりかねないので、なかなか妥協できないのです。

太郎:というより教義自体が侵略しやすいように作られていますね。例えば、神はアブラハムに彼の子孫にカナン(パレスチナ)を与える約束をします。とするとユダヤ人たちがカナンに侵攻するのは神の意志であり、それに逆らう連中は皆殺しにしてもよいことになります。そして実際に『旧約聖書』では皆殺しを実行したことになっていますね。

花子:ユダヤ人は第二次世界大戦中にナチスに何百万人も収容所で毒ガスで殺された大虐殺の被害者だというイメージが強いんですが、元々は加害者だったのですね。そのことは現在では反省しているのですか?

先生:神の命令で行ったことは反省しているとは言えません。キリスト教の場合は最近になって、やっと十字軍の侵略を反省する態度をローマ法皇が示しました。教義が侵略に使うために作くられたものではないかという疑問は、「唯一絶対の超越神」という神観念自体にも当てはまるのではないかと思われます。もっとも意図的にというより無意識にそうしてしまったのでしょう。だって「唯一絶対の超越神」ということにしておけば、他民族はみんな自然物や自然現象を神にし、偶像を造って崇拝しているので神を有限な事物や土や金属の塊りに貶めたとして、神を冒涜した罪で皆殺しにすることが神聖な義務になりますからね。

花子:そんな話を聴くと、一神教は恐ろしい気がしますね。

                                     忘するまじ神と交わせし約束は果たせぬならば漂白の民

先生:いやあ、そんな風に取られるのも困るんだな。一神教だから、独善的で異教徒に対して残虐になれると決まったものではない。宗教に対する偏見を広めるのはよくないからね。問題は宗教を悪用し、教義を侵略や虐殺に利用することにあるんだ。一神教でも他宗派に対して寛容で、尊重することもあります。

太郎:それからヘブライズムの神は契約神という特徴がありますね。神は神に選ばれた御民イスラエル(イスラエルはヤハウェ信仰集団)にトーラー(律法)を授け,神の戒めを守るならば,イスラエルに栄光をもたらすと約束されたのでしょう。でも,トーラーに背けば当然神の厳しい審判があります。その意味で神は「審きの神」でもあるのです。紀元前13世紀に行われたとされているエジプトからのエクソダス(脱出)を指導したモーセを通して与えた『十戒』は有名です。

花子:私はバッチリ憶えています。ちゃんと予習しているんだから。
「あなたはわたしの他に何ものも神としてはならない。  あなたは自分のために, 刻んだ像を作ってはならない。 あなたはあなたの神, 主の名をみだりに唱えてはならない。  安息日を覚えて, これを聖とせよ。  あなたの父と母を敬え。  あなたは殺してはならない。  あなたは姦淫してはならない。 あなたは盗んではならない。 あなたは隣人について,偽証してはならない。あなたは隣人の家を貪ってはならない。」     

先生:モーセに導かれエジプトを脱出し、40年間荒野で苦労したあとで、後継者ヨシァの指導でカナンに侵攻して、大虐殺の後、カナン地方に定住してたことになっています。彼らは勢力を強め, やがてダビデ王やソロモン王の君臨したヘブライ王国が栄えます。ところがソロモンの栄華は長続きせず,ユダヤ人は長い苦難に耐えて,信仰を守り続けました。バイブルにはトーラーに忠実なのに不幸なままで死んだり,悪事の限りをつくしながら死ぬまで神の罰が当たらない例が登場します。後にルターは,旧約聖書のテーマはトーラーの不可能を示す事だと言いましたが,ユダヤ人はそう受け取るわけにはいきません。

太郎:紀元前607年に新バビロニアのネブカドネザル王がユダ王国を滅ぼして、バビロンに大勢のユダヤ人を捕囚として強制連行してましたね。現在のイラクのフセイン大統領はネブカドネザル王に憧れているようだけれど。

花子:フセインはイラクをイスラエルをやっつけられるだけの強国にしようとしてイランと戦ったり、国内の分裂を許さないと内戦で毒ガスをつかったりしているわけでしょう。アメリカはイラク国民を恐怖独裁から救うと戦争を仕掛けているけれど、イラクにはイスラエルと対決するというアラブの大義があるわけだから、その事ではアメリカは明らかにイスラエルの味方なので、イラク国民の信頼を得るのは難しいわけよね。

                                   何時の日かメシアの時が来たりなば悔い改めよ御国に入らむ

先生:なかなか鋭い分析です。そのことはさておき、ソロモン捕囚から還った人々は、神殿を再建し、教典を整備した。「創世記」などはの時期に作られたといわれています。ユダヤ教が確立していったわけです。そして、この世の終わりの時の到来を信仰する人々が現れました。これを終末思想と言います。アダムとエバが神の戒めを破って,禁断の「善悪を知る木の実」を食べて楽園追放されてから,直線的に時が流れて,最後に人類が死人も含め全員同時に審判される終末になるという信仰です。最後に帳尻が合うのだと考えたのです。また神がいつまでも審判を下されないので,神の代わりにメシア(救世主)が現れるだろうというメシア信仰が広がりました。このメシア信仰と終末信仰が結合してキリスト教発生の基盤が整ったのです。

                  2イエス・キリストとは?

                               人類の罪を背負いしキリストはクロスにつけり永遠の時なり


太郎:先ず、ユダヤ教とキリスト教の違いをはっきりさせましょう。同じ『バイブル』を聖典とし、同じヤハウェの神を信仰しているのでしょう。

花子:共通の聖典が『バイブル』なんだけれど、その共通の部分をキリスト教では『旧約聖書』と読んでいます。イエス以前の神との契約について、書かれており、民族の歴史や教えが集められている聖典集なのです。それに対してキリスト教徒だけの聖典が『新約聖書』なのです。イエス・キリストを通して新しく結ばれた神との契約について記されています。具体的にはイエスの言行録である「福音書」と使徒たちの活躍を記した部分に分かれます。ユダヤ教は唯一絶対の超越神、万物の創造主であるヤハウェだけを信仰しています。神は主人でヤハウェの信仰共同体であるイスラエルの人々は神の奴隷なのです。キリスト教は先ほども話題になりましたように、父なる神ヤハウェと子なる神イエスと聖霊なる神が三位一体なのです。でも三位一体論は4世紀に確立した理論らしいですね。

太郎:違いはイエスがメシアであることを認めるかどうかに集約されると言われますね。つまりユダヤ教ではメシアの出現が一部で期待されていたが、未だに真のメシアは出現していないのです。キリスト教ではナザレ出身のイエスがメシアだということを認めるわけですね。

花子:キリスト教ではどうして救世主をメシアと言わずにキリストと呼ぶのですか?

先生:『旧約聖書』の原典は古代ヘブライ語で書かれているのですが、『新約聖書』の原典はギリシア語で書かれているのです。それでメシアもギリシア語で「キリスト」と書かれています。

太郎:どうしてギリシア語で書かれたのですか?はじめはヘブライ語で書かれていて、それがギリシア語に翻訳されたのですか?

先生:実はイエス教団はダマスカスを中心に活躍した商業民族アラム人のアラム語を話していたのです。当時のイエスが布教したガリラヤ地方やエルサレムを中心とするユダヤ地方では、古代ヘブライ語は死語化し、アラム語が主に使われていたらしいのです。それで「福音書」の元の文章はアラム語だったらしいのです。それに新約聖書を書いた人々は地中海世界に広がっていたユダヤ人で、ギリシア語を話していたと言われます。当時はユダヤ人の三分の二はパレスチナの外にいたのです。イエス自身もエルサレムの北百キロメートルのガリラヤ地方の首都フォサリオでギリシア語劇を上演する劇場の板張をしていたようで、ギリシア語を話せたようなのです。

                                  ダビデなる王の子孫に生まれきてメシアとなりしか預言のごとくに


花子:イエスの誕生日をクリスマスといいますが、イエスは何年の12月25日に生まれたのですか?

太郎:実は降誕祭であるクリスマスは誕生日ではないそうです。冬至に当たる日が最も太陽の光が弱くて、それから次第に太陽の光が強くなるので、太陽の誕生日みたいして祝う太陽信仰があって、世の光と言われたイエスの生誕もその日に祝うようになったらしいのです。つまりイエスの誕生日は誰も知らないのが真相です。イエスが生まれた年を西暦元年にしていたつもりだったのですが、現在では紀元前6年という説が最も有力らしいです。

花子:それじゃあイエスが生まれたのはエルサレムの郊外のベツレヘムだというのも怪しいのですか?

太郎:それも大いに怪しいらしい。イエスはガリラヤのナザレで生まれ育ったという説が一番有力らしいですよ。詳しくは、やすいゆたか著『イエスは食べられて復活した』(社会評論社刊)を読んでください。

花子:なあんだ、えらく詳しいと思ったら、先生の書かれた本を読んでいたのね。ではマリアの処女懐胎というのも怪しいわね?

先生:処女マリアからイエスが生まれたというのは、イエスを神の子として神格化するための作り話なんだ。というのはユダヤ教のメシア伝説では、メシアはユダヤの王に成るので、ダビデ王の子孫でなければならないんだ。イエスの父である大工ヨセフがダビデ王の子孫と言われていたので、処女懐胎だとダビデ王の子孫でなくなってしまうでしょう。そうするとメシアの資格がないことになるんです。だから処女懐胎説話の成立は、ユダヤ解放戦争でユダヤ王家の再興が不可能化した紀元70年以降だということになる。

花子:それじゃあ、ダビデ王の子孫というのは本当なのね?

太郎:ブー。福音書にイエスの系図が二種類あって、御祖父さんの名前からして違うんだ。それにイエスは十字架にかかる前の最期の週にエルサレム神殿で演説した時に、ダビデ王の子孫だということを自ら否定しているんだ。イエスがダビデ王の子孫であることの証明は失敗し、その結果。イエスがメシアであるというに民衆は疑い、結局偽メシアとして処刑されたことが暗示されています。

                                     荒れ野にて呼ばわる人の声聞かば悔い改めよ御国迫れり


花子:イエスの先輩格にあたるバプテスマのヨハネとは何者ですか?

先生:バプテスマのヨハネは「神の国」が近づいたと人々にヨルダン川で洗礼を受けるよう勧めていました。洗礼を受けておけば,罪が洗い流されているので神の審判の時に救われると言ったのです。イエスも彼から洗礼を受けた後,「神の国」の到来を告げる「福音」を人々に告げたのです。

太郎:「神の国」の到来とはどういう意味なのですか?天国と神の国は同じ意味ですか?また「福音」とはどういう意味ですか?

先生:神は万物の創造主ですから、自然界から超越しています。それで天にいるとされ、天には神の国があって、そこには天使たちを従えて神が住んでいるとされたのです。神の国の到来とは、神が地上に降りて、地上を直接支配されることです。ですから天国と地上が合一することになりますね。神が直接支配されるわけですから、もう悪いことはできないわけで、神の裁きがまっています。今のうちに洗礼(バプテスト)によって罪を洗い流しておかないと、ゲヘナ(地獄谷)の煮えたがる血の川に投げ込まれることになります。神の国の到来は、罪を悔い改めて洗礼を受けない人には、恐ろしいことになりますが、洗礼を受けていれば、幸福がもたらされるのですからとてもうれしいことですね。ですから神の国の到来を告げるイエスの説教は幸せの便り(福音)なのです。それでイエスの言行を記録した書物を「福音書(ゴスペル)」と読んだのです。

                 3トーラーをとるかメシアをとるか?                

                            トーラーを守るは至難の業なればメシアに頼みて命に預かる

花子:イエスはユダヤ教のトーラー(律法)主義を批判したと言いますが、どういう意味ですか?

太郎:貧しい人たちは字が読めないからトーラーをよく知らないし、知っていても守れない。盗みや売春をしてでも生きていかなければならないときに、それらを禁止するトーラーを守れないから、貧しい人たちは自分たちはこの世でも不幸だし、神の国にも入れないと絶望していたんだ。それに対して富者たちはトーラーもよく知っていて、要領よく守って、この世でも死後も幸福になれるということだ。しかし神が天の父だとしたら、そんな不合理で不公平なことを許されるはずがない、神はむしろ貧しい人こそ救おうとされるはずだという立場です。

先生:そういう説教で代表的なのが 「山上の垂訓」と呼ばれる説教です。これは素晴らしいので読んで見ます。(マタイ伝第5章)               

  「〔心の〕貧しい人たちは幸いである、天国は彼らのものである。   

  悲しんでいる人たちは幸いである,彼らは慰められるだろう。   

  柔和な人たちは幸いである,彼らは地を受け継ぐであろう。     

  義に飢え渇いている人たちは幸いである、彼らは飽き足りるようになるであろう。                              

  憐れみ深い人たちは幸いである,彼らは憐れみを受けるであろう。    

  心の清い人たちは幸いである,彼らは神を見るであろう。       

  平和をつくり出す人たちは幸いである,彼らは神の子と呼ばれるであろう。

  義の為に迫害されきた人たちは幸いである,天国は彼らのものである。」

                                             隣人と神への愛に生きるなら永遠の今光り輝く

 トーラーをすべて守ることはできません。安息日に道に倒れている人を助ければ,安息日のトーラーに背き,助けなければ隣人愛のトーラーに背く事になるのです。そこでイエスは,トーラー全体を「二つの愛」つまり「心を尽くし,思いを尽くしてあなたの父なる神を愛しなさい。」という「神への愛」と,「あなた自身を愛するように,あなたの隣人を愛しなさい。」という「隣人への愛」のトーラーに集約したのです。他のトーラーは,この二つの愛から発している場合にのみ神の御心に叶っているのです。たとえトーラーに字句の上では背く事になっても,二つの愛から必然的に導かれる行いは,トーラーを成就しているのです。

太郎:イエスは自分だけが救われる為に,いわば私利私益の為にトーラーを守っているファリサイ派や冨者達は,肝心のトーラーの精神を忘れてしまっているので,神の国に入るのは,ラクダが針の孔を通るより難しいと断じたのです。確かに自分が救われたいからという理由で,隣人に必死で親切にしても,決して本当に隣人を愛していることになりません。

花子:ギリシアではイデアを目指して向上する愛をエロスと呼びましたが、キリスト教の愛の特徴は?

先生:キリスト教では神の愛をアガペーと呼びます。神への愛や隣人への愛もアガペーに含まれます。神と人間は断絶しているのですが,人間の愛は神が人間を愛されていて,その神の愛が人間の心を満たし,その心から溢れ出ているものだからです。キリスト教はユダヤ教の中の愛の神の面をひときわ強調したところに魅力があります。アガペーは,分け隔てない,無償の,惜しみない自己犠牲的な愛です。プラトンのエロスがイデアを求めて向上しようとする愛であったのに対して,神から人間へのすべての罪を許す下降的な愛なのです。

太郎:「二つの愛」とメシアの自覚は関連しているのですか?

先生:ええ、そうです。イエスは自分がメシアだと確信していました。だって自分が救われるためにトーラーを守るのではなく,二つの愛に生きれば救われるという単純な真理を覚ったからです。二つの愛に生きるとき,人は神と共に在るのですから,神の国は心の中に到来し,永遠の生命に預かる事ができるのです。永遠の生命とは無限の時間を生きることではなく,愛に生き抜くことによって過去や未来を思い煩うことのない「永遠の今」が実感でき,一度きりの有限の生命に納得がいくことを意味しているのです。「我は甦りであり,生命である。我と共に来るものは永遠の生命に到るであろう。」とイエスは述べています。イエスはトーラーによって救われるのではなく、メシアに帰依することで、メシアの聖霊の力で救われると言いたかったので す。

                                      
4贖罪の十字架とイエス復活の謎

                                 悪霊が追い出されたる光景を目に焼き付けて教団立ち上げ

花子:イエスは「山上の垂訓」などの素晴らしい説教と、悪霊払い(エクソシズム)の奇跡で一時はブームを巻き起こしたのですが、本当に奇跡を起す力があったのですか?

太郎:それはイエスが本当に神の子ならあったでしょう。先生の本では、エクソシズムの奇跡は、弟子を悪霊役者に仕立てた悪霊芝居のパフォーマンスではなかったかと想像されている。

先生:民衆を芝居で騙すというのではなく、悪霊をイエスに宿った聖霊の力で追いだすのに、悪霊というのは人の目には見えないものだから、弟子たちを悪霊役者に仕立てて追放されるところを見せておかないと、なかなかイエスが民衆から悪霊を追放するのを信じてもらえない。イエス自身は聖霊が自分に宿っているのを本気で信じていたんだ。でもばれてしまうと、民衆を騙したとして皆殺しにされてしまう危険なことだけど、民衆を救うために命がけでやったんだというのが私の推理だ。それが功を奏してイエスブームが起った。福音書においてもたくさんのエクソシズムの奇跡が出てくるところからも、この比重が大きかったことが分かる。でも心因性でない病気などでは効果は一時的だし、ファリサイ派はイエスには悪霊の親分が取り付いているから、悪霊払いができるんだと巻き返してきた。弾圧が厳しくなって、イエス教団がジリ貧になっていったんだ。そこでお祭りの時に直接にエルサレム神殿に乗り込んで神殿権力を乗っ取ろうとしたんだ。

                                             三日目の蘇りまで予告してイエス目指せり神殿の庭

太郎:その時には失敗して処刑されるのは覚悟していたんですね。それで捕まえられて処刑され三日目に甦るという予告までしてエルサレムに乗り込んだのですね。

花子:どうしてイエスは自分が三日目で復活することまで予告できたのですか?

先生:それは神の子だったら、不思議ではないけれど、そうでないとすると不思議ですね。それでそういう不思議なことやエクソシズムでもみんな後世の人々の潤色つまりフィクションだという聖書学者も多いんです。しかし私は何もかも嘘みたいなバイブルを作って、それで命がけの布教が出来るとは思えません。だから信仰の真実が「福音書」に書かれているとしますと、イエスは聖霊が自分の死後使徒たちに乗り移って、三日目から活動を再開すると予想していたのじゃないでしょうか。

花子:だからどのようにして聖霊がイエスから使徒に乗り移るのですか?そしてそれをイエスは何故予想できたのですか?それにイエスの復活は聖霊の乗り移りではなく、イエス自身の肉体が甦るという奇跡が起っています。

太郎:そのすべてを説明したのが『イエスは食べられて復活した』という先生の著作なんだ。

                                            憎しみに愛で応える戦略でキリスト教はローマ覆えり

先生:イエスは結局、エルサレム神殿のパフォーマンスと演説でも民衆の支持を得られなかったのです。民衆はメシアにユダヤのローマ帝国からの解放を求めていました。しかしイエスは,「カエサル(ローマの皇帝)のものはカエサルへ,神のものは神へ。」と説いてローマの政治的支配を認め,専制的な抑圧や憎しみに対して憎しみで反抗するのではなく,「右の頬を打たれたら,左の頬を出せ」と愛で応答することで精神的優位を獲得して,ユダヤのみならずローマ世界全体を解放するというイエスの「愛の戦略」を説いていたのです。そのことが理解できませんでした。ユダヤの民衆はイエスに裏切られたと感じ,ファリサイ派のイエス攻撃に加担します。

太郎:イエスを捕まえに来たのは神殿権力やローマ帝国軍ではなく、神殿でイエスの話を聴いていた民衆だったことは、イエスにとってはショックだったでしょうね。それで神殿権力に引き渡され、最高法院の裁判にかけられますが、ローマ帝国支配下では死刑にする権限がなかったので、ローマ帝国のポンテオ・ピラトという総督に引き渡して、ユダヤ王を名乗ってローマに背こうとしたことにして死刑にするように圧力をかけたのです。ピラトはユダヤ民衆の圧力に押されて処刑せざるをえなかったと「福音書」は伝えています。

                                       キリストの死の責任は誰にあるローマかユダヤ、イエス自身か

花子:イエスを殺したのがユダヤ民衆の意志に従った結果だというのは、「福音書」の作者たちがユダヤ教と敵対していたからでっち上げた事で、イエスの処刑に対してユダヤ人には責任がないとユダヤ人は主張しているのでしょう。この「福音書」のお陰で、キリスト教徒たちがユダヤ人をイエスの敵のように憎んで、それがその後のユダヤ人迫害の最大の理由になったということですから。

先生:私はユダヤ人のその主張は納得がいきませんね。イエスはユダヤ社会の秩序を形成していたトーラー秩序に挑戦したのです。その結果、ユダヤ人たちは、ユダヤ社会の秩序を守るためにイエスを処刑したわけです。だからイエスにはトーラーを無視するこれだけの言動が福音書にもあるからユダヤ社会を守るために、イエスを処刑せざるを得なかったと堂々と主張すべきなんです。ローマ帝国にとってはイエス教団の動きは脅威というほどではなかった筈です、ユダヤ社会の団結が強すぎるのを警戒していましたから、イエスを進んで処刑する理由は何もなかったと私は思います。

太郎:それでイエスは十字架に磔になったのです。しかしこれが却ってイエスの教えを不滅にしました。彼の死は人類の贖罪をしたとされたのです。つまり全く罪の無いイエスが人類の代わりに人類全体の罪を背負って自らを犠牲にすることで,人類全体の罪を帳消しにしたというわけです。だから贖罪の十字架で人類全体が救済されたので,イエスは本物のキリスト(メシア)だったことになります。そこでイエスをキリストと認めることが,新しいしかも唯一の神との契約だとされ,キリスト教が成立したのです。それでこの新約について書かれた使徒たちの書が,『新約聖書』として纏められたのです。

                                 イエスこそ救い主だと認むるやただそれだけが新たな契約

先生:イエスをキリストだと認めさえすれば,それだけでキリスト者と認められ,罪人のまま義とされて救済されるというのが初期キリスト教会の立場です。これは「二つの愛」の実践によってトーラーが成就するとしたイエスの教えとずれています。「二つの愛」に生きることで,それまでの罪に生きた自分が死に,キリストと共に愛に生きる者に生まれ変わるのでなければ,つまり自分で自分の罪を贖うのでなければ,神も救えない筈です。罪人のまま救われるなんてまるで「甘えの論理」ですね。

花子:伝説ではイエスは処刑されて三日後に復活し,人前に姿を現し,天に登って神から義と認められ,聖霊を授けられ,地上に降りて使徒達に聖霊を授けました。そしてやがて再臨して審判を行い,地上に神の国を築くと言い残して,再び天に登ったと伝えられています。イエスが捕まって刑場ゴルゴダへの途上にあるとき,だれもイエスを命がけで守ろうとはしなかったのです。しかし復活したイエスを目撃し、聖霊を受けてからは,これまでの罪人の自分たちは死に,復活のキリストとなって殉死をも恐れず,キリスト教の布教に取り組むようになったといわれていますね。このイエスの復活というのは本当にあったのでしょうか?

先生:キリスト教徒はこのイエス復活と初期キリスト教団成立の謎は、人類史上最大の謎の一つです。実はその謎を解く鍵はキリスト教会での聖餐の儀礼にあるのです。宗教的カニバリズム(人肉嗜食)の観点から福音書を精神分析して復活の謎を解明したのが拙著『キリスト教とカニバリズム』(三一書房)と『イエスは食べられて復活した』(社会評論社)です。

                                                     5三位一体信仰

                                   父と子と聖霊なるは一つなりその理は神のみぞ知る

太郎:イエスの弟子の中で一番弟子で、初期キリスト教会の最初代表者はペトロだったのですが、ローマ帝国全体に布教するにあたって中心的な役割を担ったのが、イエスの死後、キリスト教徒になったパウロですね。

花子:パウロは熱心なファリサイ派で、キリスト教徒の弾圧の先頭に立っていた人だったのでしょう。それがどうしてキリスト教会の指導者になったのですか?

太郎:それは道中で突然光が指して目がくらんでいると、イエスの声がして「どうして私を迫害するのか」ととがめられ、回心したということですね。

先生:私の推理では、イエスの「愛の解放戦略」が功を奏したんだ。パウロは、ユダヤ社会のトーラー秩序を脅かす、キリスト教団が許せなかった。それで厳しく弾圧し、拷問を加えたり、殺したりしたんだ。ところがキリスト教徒たちは自分たちを迫害するパウロを憎むどころが、信仰に目覚めることが出来ないパウロを憐れみ、パウロの為に神に祈ったりしたのだろう。これは愛による攻撃だ、憎しみによる攻撃なら対抗できるのだが、愛による攻撃ほどやっかいなものはありません。結局信徒たちをそこまで導くことが出来たイエスに対して憧れるようになってしまったのでしょう。

花子:それって凄いことですね。キリスト教会は結局そのやり方で、ローマ帝国の中でどんどん増えていったのでしょう。幾度も激しい迫害にあい、使徒たちのほとんどが殉教したけれど、一度も反乱を起さなかった。そしてついにローマ帝国で公認されたわけですから。ブッシュ大統領もキリスト教徒ならフセイン大統領を憎むのではなく、愛すればいいのよ。そしたら戦争にはならないのに。

先生:ユダヤ教は熱心党を中心にローマ帝国に対して解放戦争を挑むけれど、その結果ユダヤは敗北し、地中海世界にディア・スポラ(離散)させられてしまうことになる。そして四世紀にローマ帝国の国教になったキリスト教によって迫害される結果になる。キリスト教会も国家権力と一体化すると異教や異端を許さない独裁的宗教になってしまうところが問題だね。

太郎:ところでパウロのキリスト教信仰の特色は?

先生:パウロはキリストの再臨を待ち望み,「信仰・希望・愛」のキリスト教の三元徳を説きました。この三つの中で最大のものは「愛」であると、愛の宗教のイメージを強めたのです。たとえ教義に通じ、預言の能力があり、奇跡を行えたとしても愛がなければナンセンスだということです。つまり真のキリスト者は呪術師や祈祷師や宗教権力者ではないのです。イエスに倣って、愛に生きる人なのです。

花子:先生、牧師さんみたいね。パウロはユダヤ教の異端であったキリスト教を世界宗教に脱皮させることに功績があったのでしょう。

先生:ええ、そうです。ユダヤ人以外に布教するには割礼(新生児の陰茎にメスを入れる)の儀礼が邪魔になり,パウロは心に割礼すればよいとして,民族宗教から世界宗教への脱皮を計りました。「二つの愛」と「イエスの十字架が人類の贖罪(犠牲によって罪がなかったことにすること)であることを信じる」という愛の教義や,信仰における神の下の平等などが,ローマ帝国の人々に深く浸透していきました。心の中に神の国をつくることができる信仰は,現世的には奴隷的隷従を強いられていた人々に精神的解放となりました。また当時はキリスト教に対抗できるだけの普遍性をもった信仰が無かったことも布教に有利に作用したのです。

太郎:その後紀元70年ごろにユダヤでは熱心党によるローマ帝国に対する解放戦争が起こります。その結果,ユダヤ人はパレスチナから追放され,世界中にディア・スポラ(離散)させられたのです。もちろんキリスト教徒はこれには参加しませんでした。キリスト教は当初弾圧されましたが,4世紀に入って布教が公認され,392 年にはローマ帝国の国教となったのです。しかしいつまで待ってもイエスは再臨しませんでした。それで再臨信仰は衰え,贖罪信仰が中心になって,イエスの神格化が進みました。何故なら,人類の為に犠牲になって死んだのは,イエスだけではなかったでしょう。どうしてこの貧しい大工の息子の死だけが,特別の意義があるのでしょう。それは実はイエスは神の実子だったからだというのです。           

先生:父なる神ヤハウェと子なる神イエス・キリスト,そして聖霊としてみそなわす神の「三位一体」説が325 年のニケア宗教会議で大論争の末, アタナシウス派が勝利して正式の教義となりました。天上から戻ったイエスが聖霊を使徒に授けて以来,キリスト者には心の中に「聖霊なる神」がみそなわす事になったのです。逆に言えば,非キリスト者には「聖霊なる神」がみそなわしていないのですから,価値的にいって決定的に劣ることになってしまいます。この影響は甚大ですね。もちろんユダヤ教徒からすれば,イエスを神の実子だとするキリスト教の教義は唯一神論の放棄に他なりません。また人を神と考えるとんでもない偶像崇拝にあたります。後のイスラム教徒たちもイエスをモーセ以来最大の預言者と認めたうえで,イエスを神格化してしまったことで,キリスト教徒は神を裏切り,神から見離されたとしています。ではキリスト教徒自身はどう説明しているのでしょう。「父なる神ヤハウェ」と「子なる神キリスト」と「聖霊なる神」は,それぞれ別の神格でありながら,唯一絶対の神の三つの面の現れであるとするこの三位一体説について合理的な説明はできないのです。別の神格なのにどうして一つの神と言えるのか,という問に対しては,人間は,神が示した真理を知りえるだけで,神が示されてない真理まで知ることはできないと答えています 。

                                             
6アウグスチヌス

                            疑いにとらわれし吾不完全、支える神をなどて疑ふ。

花子:ローマ帝国の国教となったキリスト教の教義体系を作り上げる上で活躍したのが、アウグスティヌスなどの初期教父哲学者たちですね。

先生:初期教父哲学の代表者であるアウグスチヌス(354 〜430)は,キリスト教神学を形成するために,新プラトン派の哲学から精神的なものと物質的なものの二元論を学び,世界を精神的な「神の国」と物質的な「地の国」の闘いとして捉えて『神の国』を著しました。それにより教会は地上における神の国であり, 地上の権力は教会によって認定される必要があるとされて,教会の支配を正当化することになったのです。

太郎:デカルトの「方法的懐疑」というのは、実はアウグスティヌスからのパクリであるというのは本当ですか?

先生:デカルトの時代に、そういう発想や知的方法をだれが最初に考案したかをはっきりさせて語らなければならないという意識があったわけじゃないから、パクリというのはあたらない。アウグスティヌスは徹底的に神を疑った上で信仰に辿り着きました。信仰と懐疑の間を振幅しながらいかに信仰が固められたのかを綴ったのが代表作『告白』です。だから懐疑論者に対して,別の著作でこう批判しています。いかに疑い深くても, 疑っている自分が存在している事は疑えないだろう。疑ってばかりいるような不完全な自分でも存在しているという事は,取りも直さず, より完全な存在によって支えられているからに他ならない。従って, 神の実在は疑えないのだ。この批判の仕方はデカルトの方法的懐疑そのままです。

花子:アウグスティヌスは性悪説でルターにつながるといわれていますね?

先生:彼は本物の信仰がなかなか得られない事を苦しみ抜きましたので,そこから自由意志の無力を思い知ったのです。人間はアダムとエバが犯した原罪によって善をなす自由を失い,常に罪を犯しているのです。ですから信仰は自分の意志の力によってではなく,神からそして原罪を贖ったイエスの方から,恩寵(御恵み)として与えられるのです。この思想がルターへと継承され宗教改革で重要な役割を担います。アウグスチヌスは人間の罪を徹底的に自覚し,その苦悩に徹することで悔い改め,謙虚な信仰に目覚め,救いの希望を得,神と隣人への愛へ向かったのです。そこから「信仰・希望・愛」をパウロにならってキリスト教の三元徳としました 。

                                          7イスラムの思想

        アダムへの跪拝拒めるイブリースゲヘナの血の池人であふれよ

花子:唯一絶対の超越神という信仰ですと、自分以外に神はいないわけで、自分以外の神々を信仰している人々に対して唯一神であるヤハウェは一番腹を立てるわけで、ヤハウェのこの性格を「嫉みの神」といいますね。ことにヤハウェのライバルはやはり唯一絶対の神を名乗るアッラーです。だからキリスト教とイスラム教は互いに不倶戴天の敵だと言われますね。

先生:そういう誤解がありますが、ヤハウェとアッラーの関係は決して敵対関係じゃないのです。というより唯一神なのですから、ヤハウェとアッラーという二つの神は存在しないわけで、神は一つです。同じ神をユダヤ教徒やキリスト教徒はヤハウェと名付け、イスラム教徒はアッラーと名付けていると考えてください。同じ神を信仰しているのだったら、もっと仲良くしろと言いたいですね。ところが近親憎悪ほど手におえないものはないわけです

太郎:イスラム教徒もはじめはメッカの方角ではなく、エルサレムの方角に向かって礼拝していたそうですね。

先生:7世紀になりアラビアにはムハンマド( 570年頃〜   632年) が出現します。彼はユダヤ教徒から『バイブル』について教わったようです。またキリスト教にも好意的でした。ムハンマドによればイエスはモーセ以来最も偉大な預言者でした。ところがユダヤ人達は相変わらず神の言葉を聞き入れませんでした。その結果がパレスチナからの追放です。またキリスト教徒達は三位一体論をとなえ唯一神信仰を捨ててしまいました。そこで唯一神アッラー(ヤハウェのアラビア名)は,新しい預言をムハンマドに授けたのです。

花子:「イスラム」というのはどういう意味ですか?

太郎:「イスラム」と言う言葉の意味は「絶対帰依」だそうです。つまり帰依は信仰して全て頼り切るということですから、絶対帰依は神の命令ならたとえ宇宙を滅ぼせという命令であっても従うという意味になります。

花子:恐ろしーーい!やっぱりイスラム教は怖いですね。

太郎:何言ってるの。イスラムの代表的な例は、『旧約聖書』のアブラハムの信仰なんだ。だから元々はユダヤ教徒、キリスト教徒もイスラムしなければならないことになっているのです。アブラハムは百歳になってから授かった最愛の息子イサクを,神に燔祭(犠牲の肉を焼いて神に捧げる)として捧げるように天使に要求され,躊躇せずに従おうとしました。そこで天使がこれは神が信仰を試されたものです、アブラハムはテストに合格ですといって止めたのです。神様はご褒美にアブラハムの子孫に全地の支配権を与えると約束されたわけです。このアブラハムの信仰を受継いでアッラーに絶対帰依している人々をムスリムというのです。           

先生:ムスリムの信仰と儀礼を六信五行と言います。六信とは「神・天使・経典・預言者・来世・天命」を信じることです。神はもちろん超越的で唯一絶対の万物の創造主アッラーです。「天使」は神が超越的で姿を現せないので,神の言葉を預言者に伝える役目を持っています。天使を信じないと一貫性がないのです。

花子:イスラム教では、悪魔も天使の一種なんでしょう。

先生:イスラム教の経典『クルアーン』ではそうです。サタンに当たるのがイブリースという堕天使です。彼は神からのファースト・マンであるアダムを跪拝せよという命令に文句をつけたのです。人は土の塊ですが,天使は火から出来ています。だから天使の方が貴い筈だという理窟です。そこででは未知の動物を連れてきて名前を言うように,神は天使に命じますが,教わっていないので言えません。ところがアダムは名付けの能力を授かっていて,自分で名前を付けて呼んだのです。それで人は天使より貴い面が有るんです。

太郎:神はイブリースにどんな処罰をしたのですか?

先生:ともかく神に背いたのでイブリースは滅ぼされようとしますが,審判の日まで猶予を願うのです。それまでに人間たちを罪に誘惑して,審判の日には血の河を人で一杯にしてみせるからと申し出ます。神はその申し出を受入れ,イブリースを激励されました。これでイスラムの神は,「愛の神」だけでなく恐ろしい「審きの神」の性格が強いことが分かります。

太郎:経典はムハンマドの言葉を綴った『クルアーン』なのですが、『バイブル』はどういう地位にあるのですか?

先生:ユダヤ教徒は『旧約聖書』のトーラーを与えられたのに守らなかったわけです。キリスト教徒はイエスを神格化したために神に見捨てられます。それでムハンマドに新しい預言をアラビア語で授けたのです。一応『バイブル』は神が授けた啓典として尊重されていますが、実際の信仰は『クルアーン』によって規定されています。文学的・思想的には『バイブル』の方が深いと思いますが、『クルアーン』は教義としては非常に明確なので、その意味では『クルアーン』の方が完成されています。

太郎:預言者はムハンマドだけですか?

先生:ええ、ムハンマドはアラビア人では最初で最後の預言者なのです。そして教義はムハンマドによって確定してしまっていますので、新しい預言者やメシアは現れないことになっています。

花子:「来世」ということと「あの世」や「天国」とはどう違うのですか?

先生:「あの世」というのは死後の世界です。普通はこの世とは別のところに「異界」があって、死後その異界に魂が辿り着き、そこで再誕生するか、魂のままで暮らすわけです。「来世」というのはイスラム教では審判後の世界だということになっています。イスラム教では死後は土に返っているのです。

花子:死んだら天に昇るのではないのですか?

太郎:それはギリシアでは魂は頭にあった理性の部分が軽くて天に昇るのですが、『バイブル』では人間で昇天したのはエリヤとイエスだけです。

先生:審判の日がいずれ来て,その日にすべての死者が土中から蘇り,エデンの園に入って永遠の幸福を享受できるか,煮え滾る血の河で永遠に苦しむかが裁かれるのです。後は未来永刧にそれが続きます。ちなみに楽園では若くて美しくて気立ての優しい娘が三人ついて世話をしてくれます。しかも果物はたわわに実っていていつでも食べ放題です。ただしお酒は一切でません。さあどちらを選びますか?現世での欲に溺れて罪を犯し,来世で永劫の苦しみを味わうか,神の教えに従って清く正しく生き,来世で永劫の楽しみを味わうかどちらを選ぶんだというように,ムハンマドは商売人の出身らしく巧みに損得勘定に訴えています。

太郎:楽園行きの切符は六信の上に次の五行が必要です。五行とはシャハーダ(信仰告白)・サラート(礼拝)・サウム(断食)・ザカート(喜捨)・ハッジ(巡礼)を行うことです。はじめはこれの他にジハド(聖戦)もありました。

先生:シャハーダは声を出して,「ラ・イラーハ・イッラ・アッラー,ムハンマド・ラスール・アッラー(アッラーの他に神無し,マホメットはアッラーの使徒である。)」と誓うのです。これを一度でも口にすれば撤回は許されません。背教者は死を以て罰せられるのです。

花子:サラートは「アッラー・アクバル(アッラーは至大なり)」を唱えながら,立礼・坐礼・跪礼を数回続けるラカーを毎日五回,聖地メッカに向かって行うのでしたね。

太郎:アラビア暦の第九月は深夜しか食事が許されません。またその月は日没までは沐浴・薫香・娯楽を禁じられているのです。これがサウムです。次にザガートは救貧税です。神の恩寵によって得た富は,元々神のものであって神の為に有意義に使うべきです。そこで貧しい人々を救うために国家に捧げる救貧税が制定されたのです。これに対して自由意思による慈善行為はサダカ(布施)と呼ばれています。

先生:ムスリムたちは一生に一度は聖地メッカに巡礼することが最大の望みなのです。子供達が大きくなって自立しますと,死の危険も省みず,メッカへのハッジを企てます。遠くはインドネシアやフィリピンからもメッカを目指して巡礼が旅立つのです。たとえ『クルアーン(コーラン)』の戒めを幾度も破っていても,復活・審判のその日に楽園に入る権利が与えられるチャンスがジハド(聖戦)なのです。大部分の貧しい人達は神の戒めを守れなくて,審判のその日から煮え滾る血の河で永却に苛まれるのではないかと絶望していますから,ジハドこそはこの恐怖からの解放なのです。ジハドで死ねたら無条件で楽園行きなのですから。それに死はそれほど恐怖ではありません。審判の日に元の体に復元されて蘇ったとき,何千年か経っていてもほんの二・三日眠っていたような気分で目覚めるそうですから。

花子:現在でもジハドは有効なのでしょう。それで自爆テロなどが行われているのですから。

先生:戦争が増えれば当然ジハドを含める宗教指導者が増えてきます。自爆テロをさせる時には、ジハドだから、必ず楽園が保障されているんだとと本人に確信させるようにしているらしいですね。イスラム教の場合は、六信五行あるいは六行というのが生きているということが重要です。アメリカはイラクのフセイン政権が恐怖独裁政権なので、イラクを解放して自由と民主主義の国にするといいますが、イラクがイスラム教の生きている国であり、イスラム世界を欧米諸国の支配や、イスラエルから守ろうとしているわけです。そのためにはイラクが強大な軍事大国でなければならないと考えていて、クルド族やイスラムシーア派によって国内が分裂するのを何としても押さえつけようとしてきたわけです。そのための恐怖独裁であり、毒ガスの使用です。もしフセイン政権が崩壊して自由民主主義になったら、アメリカやイスラエルの脅威からイラクやイスラム世界を守れるでしょうか。アメリカは、アラブの大義には関心がなく、自由と民主主義の価値観からだけ物事の善悪を判断するけれど、イラクの人々はフセインがいなくては、イスラム世界がアメリカやイスラエルの支配から永久に解放されないのではないかと考えているわけです。

                         

 保井 温(やすい ゆたか)の関連著作紹介

 『月刊 状況と主体』掲載「続二千年代に向けて・新しい人間観の構想・」より 1992年2月号 第二章 神・自然・人間〔バイブルにおける人間〕  

 神対人間,神対自然が絶対的に断絶する超越神論では,潜在的に神との合一を願うヒューマニズムとアンビバレント(両義的な)関係に成らざるを得ない。この破綻がキリスト悲劇として上演されたのである。またイエスのメシアの自覚の意味を探りながら,現代に通じる「愛の共同体」構築の普遍性を評価した。

 『社会思想史の窓』連載「バイブルの精神分析」(社会評論社)−『旧約聖書』の「創世記」の部分の精神分析

『キリスト教とカニバリズム』(三一書房)と『イエスは食べられて復活した』(社会評論社)

 

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