哲学倫理思想入門講座

やすいゆたか  

第1篇 源流思想

第1章 ギリシア思想

1哲学とは何か

                                 輪になりて生きる理(断り)示したる古今の人と苦悩分かたむ

太郎:先生、「倫理(ethics)」と「哲学(philosophy)」とは意味がちがうのですか?

先生:簡単に言えば「倫理」とは人間としてどう生きるべきかを考えることだ。「倫」は「人」偏に「輪」と書くから、「人の和」を意味する。「理」は「ことわり」つまり「りくつ」だな。だから人間としてどうしたら仲良くやっていけるか考える学問だな。

花子:「倫理」と「道徳(moral)」は同じ意味ですか。道徳の方が人間として生きていく上で守るべき心構えのような狭い意味で使われていますね、

先生:moralと「道徳」でもずれを感じるね。moralは「士気」という意味でも使われているから。「倫理」は人間社会が成り立つためにそれぞれの人間が守るべき内面的な規範や心構えだが、社会の一員としてという意味合いが強い。それに対して、道徳は個々の対人関係でどのような態度や気持で接するべきかということかな。その解釈は人によって違うようだ。ヘーゲルによると、道徳的な正しさは、個人の良心によって決定されるから、あまりそれに固執しすぎると、社会的な正しさである「倫理」に反するようなことでも道徳的に正しいことになってしまう。だから主観的な道徳に固執するのはかえって倫理的には「悪」になると、カントの道徳の立場を批判したんだ。

太郎:じゃあ「哲学」とは「倫理」や「道徳」は次元が違いますね。

                              物事を筋道立てて根っこから皆に通じる原理で明かせよ

花子:あら太郎君は「哲学」とは何か知ってるみたいじゃないの。

太郎:滅相も無い、全然知らないけれど、「哲学」という言葉は「フィロ(愛する)」と「ソフィア(知)」の合成語で「知を愛する」という意味だということぐらいは知ってるさ。だから「知を愛する」ということと「倫理」は関係ないみたいだからさ。

先生:前近代の社会では、何をしたら良いかとか、何をしてはならないかという倫理的な知識が大きな比重を占めていたんだ。だから倫理的知識を愛するということも哲学の重要な内容になる。哲学が知を愛するという意味なら、宇宙や自然についての問いとともに、人生や生き方への問いも哲学に含まれる。またこの二つの分野は深いところで結びついていたとも考えられるんだ。

太郎:あの「フィロソフィ」という言葉は実は謙遜の意味が含まれているのでしょう。

花子:あら謙遜しているけれど、結構知ってるじゃないの。

太郎:最初は「哲学者(フィロソファー)」と言わずに、「知者(ソフィスト)」と呼ばれていたんだ。それがソクラテスが謙遜して、自分は何も本当には分かっていない、だから「知者」ではないけれど、本当の知を愛し求めている「愛知者(フィロソファー)」だと自称したのでしょう。だからソクラテスの「無知の知」と関係しているんだ。

先生:その話はソクラテスのところで話すとして、それじゃあどうして「愛知学」としないで「哲学」と翻訳したのだろう。

花子:「愛知学」より「哲学」の方がかっこいいっていうか、渋いからでしょう。ほら「哲学」なんてやってそうな人は渋ぶそうじゃない。

先生:花子さん、なかなか鋭いね、西周(にしあまね)が幕末に翻訳語の「哲学」を造ったのだ。「哲」というのは深く根源的に考えるという意味で使われている。だから物事を根底的に考えて、原理を明らかにする学問という意味で「哲学」にしたんだ。だからソクラテスの意味からはずれているところもあるようだね。

太郎:ともかく「哲学」は物事を中途半端に捉えずに、一貫した論理によって展開する態度ということですか。

花子:それじゃあ、どんな科学でも中途半端じゃだめだから、みんな哲学に含まれてしまうではないですか。

太郎:もともと古代ギリシアではまだ学問が細分化されていないから、全部哲学に含まれていたのでしょう。

先生:中世になって大学ができてから神学と哲学が分かれたり、各学部・学科が発達して諸科学が発達することになりました。自然科学は近代になってから本格的に発達します。17世紀に哲学者でもあるデカルト、スピノザ、ライプニッツか゜数学を発達させ、18世紀には化学が、19世紀には生物学が一世風靡したのです。哲学は大学の文学部の哲学科の中に閉じ込められて、論理学・認識論・存在論・人間学などを研究領域にする傾向が強くなり、諸科学の方も自分の学問が一貫した方法や論理で貫かれているかに無頓着になってしまいがちです。

花子:そういえば哲学の研究なんか一切していなくても、常に自分を見つめ、自分を見失わずに、自分のポリシーを持って生きている人は、哲学を持っている人とされ、哲学者だと言われますね。

先生:哲学を根源的に物事を考え、一貫した論理で生きようとする態度と捉えれば、哲学研究者と哲人は区別できる。職業として哲学の研究、紹介をしている人は、哲学研究者ではあっても、哲人とはいえない。それに対して、自分の職業や生き方に一本筋の通っている人は、野良仕事や公園掃除を職業にしていても立派な哲人といえるだろう。

太郎:高校の倫理では古今東西の宗教家・哲学者・思想家が登場しますが、彼等の倫理だけではなく、哲学もとりあげるのでしょう。

先生:ええ、「世界をどう見るか」とその中で「いかに生きるか」は密接に結びついているからね。

                                            2.哲学の誕生

                            アルケーは一体何だと尋ねたら水だと答えし人はターレス

花子:ところで、先生、哲学は何時誕生したのですか。

先生:紀元前7世紀〜前6世紀。小アジア(現在のトルコ)のイオニアのギリシア人の植民地イオニア半島の商業都市ミレトスは経済的にも文化的にも繁栄し、たくさんの情報がオリエントから伝わった。それで伝統や慣習や神話的観念を批判して、ものの本質や原理を論理的に考察する学問的態度(これをギリシア語で「テオリア」と言うのだが)が生まれたんだ。それが背景にある。

太郎:哲学みたいなじっくり考えるには暇がなくてはできません。ギリシアでは奴隷に働かせてゆとりがあった人々が、学問や政治に携わったといわれていますね。その暇のことをギリシア語で、「スコレー」というのでしょう。これが「スクール」の語源になったそうです。ちなみに最初の哲学者は紀元前640年〜前546のタレスですね。

花子:あら太郎君、しっかり予習してるのね。どんな説を唱えたの。

太郎:エッヘン、タレスは「万物のアルケー(根源)は水である。」と唱えたんだ。すべてのものは水から生じ、水にかえるという考えですね。

先生:パチパチ、その通りです。アルケーというのは「根源物質」という意味と「原理」という意味があます。物事をアルケー(原理)に還元して論理的に説明するというのが、最初の哲学の形なのです。またこれは哲学一般の定義と考えてもいい。

花子:世界を神話やおとぎ話から説明していたのが、原理から論理的に説明するようになったということでしょう。どうして物事を物語でなく、理屈で説明しなければならなくなったのですか。

太郎:文明が開けてくれば、神話では納得できなくなるんだ。

                         コスモスの調べ奏でるピタゴラス数的調和をアルケーとせり

先生:そのことを「ミュトス(神話)からロゴス(論理)へ」といいます。神話には各都市国家(ポリス)の建国説話があります。ポリスの王や貴族は建国の英雄の子孫なのです。王の場合は神と人の娘の間の子である場合が多いのです。つまり神話はポリスの支配者階級の支配の正当性を保証していたのです。でも血統は世代が重なるごとに希薄になって、有り難味がなくなります。それで神話でなく、数学や音楽を使って、コスモス(宇宙)の真理を究めていて、コスモスをコントロールできる力を持っている事を示して支配しようとするピュタゴラス(前570〜前497)のような人も出現したのです。あの「三平方の定理」の発見者です。彼は数をアルケーとして数的な調和(ハルモニア)を重視しました。数的原理から音階を考え出し、宇宙が音楽を奏でているとして、そこから音楽によるポリスの調和を図ろうとしたのです。つまり真理を認識していることを示して、神話でなく知の力で支配しようとするエリートの試みの一つだという解釈もあります。

太郎:哲学的な知をつかった新手の呪術的支配ですね。

先生:それで民衆に恐れられて、ピュタゴラス教団は民衆の襲撃に遭ったそうです。

花子:ギリシアのポリスでは小さな国なので、できるだけ暴力ではなく、理屈で納得させて支配するほうがよかったのでしょうね。

先生:そういうことだ。知を重んじるギリシア人の考え方を「ギリシア的主知主義」というのだ。

太郎:でもアルケーとは何かを問う自然哲学として哲学が誕生したのはどうしてですか。ポリスの支配権に関わっているのなら、国家や権力や正義などについての社会哲学として哲学が誕生したはずでしょう。

花子:それは自然の力に大きく依存していたからでしょう。自然を動かしている原理によって人間やポリスの命運も左右されていると考えていたのでしょう。

先生:花子さんはなかなか鋭い洞察力があるね。人間と自然を包括する原理を知り、それによってコスモスやポリスを説明するということだ。

太郎:それじゃあ「水」が原理だということは、人間自身が水に還元されるということですか。

                                       土こそは命と捉え返すなら土に還るは命の循環

先生:「土」なら分かりやすいだろう。すべての生きとし生けるものは土から生れ、土に返る。『バイブル』にも「人は塵だから、塵にかえる」とあるが、その場合の塵とは土の微粒子のことだ。

花子:人間死んだらそれでおしまいという意味ですか。厳しいですね。

先生:しかし「土」を「命」として捉えていたとしたらどうだろう。土に返るけれど、また土から命は生れてくるわけで、「土」は循環する「永遠の命」の象徴でもあるのだ。

太郎:では「水」を「命」として捉えていたとしますと、万物は命である水から生じ、水に還っていくということになりますね。そして人間も水が姿を変えた命の現われということになります。

花子:それって『ドリッピ―』だわ。英語の教材で『ドリッピ―』があるでしょう。あれをやると英語の成績が急上昇するってふれこみで、デカデカと新聞広告しているのよ。シドニー・シェルダン作のお話が超おもしろいから、つい引き込まれて夢中でやってると英語の基礎学力がつくのよ、本当よ。あのドリッピ―は水滴でできた小僧で、家出して大冒険をするのよ。人間だって全ての生きとし生けるものと同じように水の塊りに過ぎないって事が言いたいのね。実際生命というのは海から誕生したというし、生命体の成分はほとんど水だから、みんなドリッピ―なのね。じゃあシドニー・シェルダンは現代のタレスだわ。

先生:これはCM料は一銭ももらってないけれど、うちの娘がね、英語が大の苦手だったのが、『ドリッピ―』とZ会の『速読英単語』であっというまに共通一次で9割ほど取れるようになったから、花子さんの話は本当だよ。人間だって大いなる命の水の一滴にすぎない。そのことを認識することで、人間は大いなる命であるコスモスの原理に通じることができるわけだ。だから水がアルケーであるということはコスモスの原理の認識であると同時に、人間の自己認識でもあるわけなんだ。

太郎:へエー、タレスは自然哲学者とは聞いていたけど、人間とは何かを探求していたのですか。でもそれを示す証拠はあるのですか。人間の自己認識はソクラテスからだと聞いたことがあります。アポロン神殿の標語「汝自身を知れ」という言葉にインスピレーションを感じて、自然哲学から人間哲学に向かったのでしょう。

先生:そのアポロン神殿の標語を作った人は一体だれでしょう。

花子:まさかそれがタレスだったの。だとしたら先生の解釈は正しいわ。私が保証する。

先生:伝説ではタレスとソクラテスは重なるところがあるんだ。まず第一に、タレスがその標語の作者だというもっぱらの評判だ。それにアテナイで一番の賢者はだれかという説話でも似ている。ソクラテスは自分は無知だから自分がアポロン神殿のお告げで、アテナイ一の賢者だといわれたことの間違いを証明しようとした。そのためにアテナイ中の賢者と対話して、自分の方が無知だと証明しようというわだ。ところが結局自分の無知を知ってることにおいて、自分が最高の賢者だということを証明してしまったんだ。それと似た話で、タレスはアテナイ一の賢者に捧げる月桂冠を被せられたのだけど、自分などたいしたことはないと別の賢者に回したら、その人も別の賢者に回して、結局タレスのところに月桂冠が回ってきたという話が伝えられている。それはともかくとして、自然への探求は実は自己自身への探求であったということがわかるだろう。

太郎:ところで、水がアルケーだということはどのように説明したのですか。別に水でなくても土でもよかったのでしょう。

先生:残念だけれど、その証明の内容は直接は残っていない。エーゲ海では島が水から生まれ水没して水にかえるように思えたし、あらゆる生物は湿り気を含んでいるので水分がもとではないかと考えたとかの理由が類推されている。土がアルケーという説は、神話では人間も女性が存在しなかった大昔には、直接土からニョキニョキ生えていたという説明がなされていたんだ。

花子:水がアルケーだという説に対して、いや別のものがアルケーだというと水掛け論になりませんか。

                            風吹きて気が集まれば雨が降り、降り固まれば土になるらし

先生:そうだね。だからアナクシマンドロスは、「水」という限定されたものから、別の全てものが生じるという説明は不十分だと考えた。そこで水ではなくて、「限定されないもの」つまり「トアペイロン」がアルケーだと主張したんだ。

太郎:そんなギリシア語まで覚えなければならないのですか。限定されないものというのは、ノッペラボーみたいな何も姿形がないということですか。

先生:最近の入試にはでないけれど、サービスだな。アナクシマンドロスは、コスモスの生成を考えたんだな。はじめはトアペイロンだったがそれが渦を巻いて様々なものが生じたと考えたらしい。でもトアペイロンでは分かりにくいので、アナクシメネスがそのトアペイロンは「空気」だとしたんだ。

花子:「空気」に限定されないものを限定したわけね。

太郎:というより「空気」が限定されていないものだということですね。だって姿形がないし、重さだって慣れているから意識しなくなっているから。

先生:そうなんだ、アナクシメネスは濃厚化、希薄化という発想で空気から他のものの発生を説明した。空気が濃厚になると、希薄な方に流れて風になるね。風が集まってさらに濃厚になるとそこで雲になる。雲は空気が水に変わったものだ。それが集まって雨になって地上に降り積もると、水が濃厚になって土になる、密度の濃い土が岩だな。反対に空気が希薄になると熱くなって火になるという理屈だ。こうして火・空気・水・土を濃厚化と希薄化で説明し、他の複雑なものはこれらの混合として説明したようだ。

花子:すごく見事な説明だとは思いますが、それじゃあ、タレスの水が命だという話をアナクシメネスに応用すると、「空気が命だということになりますね。」アナクシメネスもそう主張していたのですか。

太郎:「生きる」という言葉と「息をする」という言葉は似ていますね。空気を命と考えると、体に命が出入りすることが生きているというように捉えていたのですかね。

先生:全くその通りなんだ。つまり空気が命で他のものも空気が姿を変えたものにすぎないとしたら、存在するものはすべて命だということになる。つまりコスモス(宇宙)は生きた命の塊りなんだ。「大いなる生命」だな。土も水も石もみんな命でできている。死んでいるように見えるものでも、命からできているのだから、生命の循環によって、様々な命を生み出すことになる。

太郎:空気がアルケーだという説は、中国でも古くからあったのでしょう。

                              生命と魂なるは同じ意味古代ギリシアでプシュケーと呼ぶ

先生:そうだ、中国では物質を「気」の塊りだと捉えているから、アルケーが空気だという説を採用しているわけだ。それは古代のインドでも言えることで、普遍性がある理論だな。それからギリシア語では「命」を「プシュケー」というのだが、これは驚くなかれ「魂」という意味でもあるんだ。

花子:じゃあ空気が考えるということになるわけね。

太郎:「魂=命」と「心」とでは意味が違うのでしょう。

先生:魂の不死の思想があって、死んでも魂は肉体から離れて、また別の体になって生まれてくるという転生という考え方がある。その場合、魂を人格を持った心と同じように捉えていると、死んでも人格的には同じ人間が別人になって生まれ変わるという捉えかたになるわけだ。実際そういう輪廻転生の考えはインドやペルシアやギリシアなどのアーリア系の人々の特色になっていた。魂が人間の体に宿ってはじめて心として人格的に働くともいえるし、空気自体が魂であり、魂は心だから空気も考えるという解釈をする人もでてくることになる。

太郎:タレス、アナクマンドロス、アナクシメネスの三人がイオニア半島のミレトスの哲学者で、ミレトス学派を形成していた。そして彼らをアルケーへの問いに向かわせたのは,コスモスを論理的に説明して、知によってポリスの安定をはかろうとしたこと、そして人間は死すべき運命のはかない存在なので,アルケーとのアイデンティティ(自我同一性)によって,不滅の全体的な生命との一体感を得ようというところにあったということですね。

 

                               エヘェソスの暗き人

                                闘いの火こそ命の原理なれ、燃え生きてこそ輝けるを

先生:じゃあ太郎君、「エフェソスの暗き人」と呼ばれていたのはだれですか。

太郎:ひょっとしてヘラクレイトス(前540〜前475)でしょう。ヘラクレイトスは,火にアルケーを求めました。

先生:火は乾燥して熱い空気という意味だけでなく,闘いのシンボルでもあったのです。世界には燃え盛る火ばかりではなく,冷たい氷もあります。でもアルケーが火である限り,氷もまた火であり,闘いの姿なのです。ただ闘いが内向し中で奥深くで燃えているので,外からは冷たい氷としてしか見えないだけです。実際,原子力が開発され,日頃はまったくおとなしく見える物質が地球だって破裂させかねないエネルギーを隠し持っている事実を知りますと,ヘラクレイトスの感覚の鋭さにはぎょっとしますね。   

花子:彼は「パンタ・レイ(万物は流転する。)」と言ったのでしょう。

先生:世界は対立物が闘争している姿に他ならないのです。だから常に世界は姿を変えています。このように対立する要素の矛盾・衝突として事柄を説明する仕方をディアレクティーク(弁証法)と言います。ディアレクティークに世界を説明した最初の人としてヘラクレイトスは評価が高いのです。 ヘラクレイトスの場合は,対立物が先ずあってそれが戦っているのではなくて,闘いが世界を構成していて,対立物はその闘いを説明する際に,何と何の闘いとして説明されるのです。闘いつまり「事」が「物」よりも第一義的な存在とされているのです。このような世界観を事的世界観と呼び,世界を物の集合と見なす物的世界観とよく対比されます。つまりヘラクレイトスは事的世界観の魁でもあるのです。  

太郎:先生の梅原猛論でヘラクレイトスが出ていましたね。「火(=魂)は水や土の死を生き、水や土は火(=魂)の死を生きる」という断片です。

先生:これは読んでいただいてどうもありがとう。生命の循環論になっているんだ。魂が生命なんだけれど、火を魂即ち命と捉えていて、火が消えて水や土になったら、火としてはなくなったけれど水や土としては生きているということで、生命の変態による循環を説いているんだ。死は新しい形態での生であるということで、永遠の生命循環を説いているという梅原猛のヘラクレイトス解釈だな。

花子:あら先生、梅原猛なんて呼び捨てにしてもいいんですか、相手は先生の先生で、文化勲章を受賞された日本の代表的な思想家なのでしょう。

先生:そりゃあ、お会いするときには、畏まっているさ。でも作品を論じるときには、だれでも呼び捨てが原則なんだ。そうでないと萎縮してしまうだろう。梅原猛は現代の人類が直面している地球環境問題などのサバイバル危機の克服の為に、「大いなる生命の共生と循環」の哲学を造るのにヘラクレイトスの論理から学ぼうというわけだ。 

                        自然哲学

                                            四元が愛と憎しみ繰り返し永劫回帰の時を紡ぐや

花子:火・空気・水・土のどれをアルケーにしてもいいわけで、水掛け論になりますね。

先生:そこでエンペドクレス(前490年頃〜前430年頃)は土・水・空気・火の四元が愛と憎しみによって,混合・分離することによって世界を説明しました。愛の強い時期には四元はよく混ざり合い,複雑な事物ができます。またそれぞれの事物は互いに仲間を求め,部分は寄り集まって全体を構成しようとして進化が起こります。憎しみが強い時期には四元が離れようとしますから,最も極端な時期には土・水・空気・火の大きな固まりに分かれるのです。この愛と憎しみの時期は無限に繰り返します。ギリシア人は時間を無限の循環的な繰り返しと捉えていたのです。

太郎:物理的な牽引と斥撥を愛と憎しみという感情で表現したところがおもしろいですね。花子は太郎に愛の力で吸い寄せられているというようなものかな。

花子:今の発言、セクハラですよね。

先生:というより求愛かな。

太郎:というよりエンペドクレスの四元論を手っ取り早く応用してみたくて。

先生:それからアナクサゴラスは「ヌース」という元素が運動や変化を主導すると説きました。生物学で卵の発生の際に,オルガナイザーという物質が細胞分裂の仕方を指令しているんだって教わりましたね。同じように諸元素の活動を調節してコスモスの調和を計るのがヌースです。このヌースが理性という意味になっていくのです。

                                   ヘン・カイ・パン

                       有らぬものケノンが有らぬといふのなら多様も変化もドクサならずや

先生:またヘラクレイトスの時期に戻るけれど、ギリシア人の植民都市は地中海各地に拡大して、イタリア西海岸にイオニアの植民都市エレアが生まれ、そこでも哲学がさかんになりエレア学派と呼ばれたんだ。その大先生がパルメニデス(前540年頃〜?)だ。彼は素晴らしい真理を唱えたんだ、これだけはだれも異議を唱えることが出来ないような真理だよ。

花子:「1+1=2」ですか?

太郎:そんなこといってもだれも驚かないよ。「有るものは有り、有らぬものは有らぬ」といったのでしょう。

花子:当たり前じゃないの、有るものは有り、無いものは無いんだから。ちっとも驚かないわ。そんなことによく感心できますね。

太郎:「1+1=2」といったのは誰だった?

先生:ヘン・カイ・パン(一にして全)のギリシア精神を論理化したのです。この真理は大変説得力がありますね。でもこれを認めますと,「有らぬもの」即ち「空虚」は無いということになってしまいます。空虚を認めないエレア派の論理では,多様も変化も運動もすべてドクサ(臆見)つまり「思い込み」だとされるのです。何故なら「濃厚」はより多く有ることですし,「希薄」はより少なく有ることです。つまり「空虚」がどれだけ「有るもの」に混ざっているかで,濃厚・希薄が成り立ちます。それで初めて濃厚化・希薄化が起こり,多様な物質が成立します。多様が無ければ変化もありません。運動も「空虚」が無くて全部詰まっていれば成立しません。ですからこの真理からは多様・変化・運動が否定され,有るものは「一者」だということになるのです。

花子:「ヘン・カイ・パン」なんてへんだわ。一は部分だから全体ではないでしょう。それに空虚がないことはないでしょ。例えば禿だってあるわけだし。

太郎:それを言っちゃおしまいだよ。アーア、先生、心が疵ついたでしょう。お気の毒に。(と言って、先生の頭をなぜようとする)

先生:(手を振り払って)こら、撫でる方が疵つくんだよ。

花子:パチパチ、ナイスジョークよ。先生は心に疵を負いながらも、常にジョークを忘れない。サービス精神満点だわ。 

太郎:「撫ぜる方が疵つく」というのは、逆説(パラドックス)ですよね。

先生:ここで現役高校生はこけちゃうところなんだ。「有らぬものは有らぬ」でね。じっくり考えて欲しいね。

太郎:「有らぬ」という状態、つまり「空虚」があるというのは、論理的におかしいので、近代になってからも、宇宙の空虚の中に星や隕石や宇宙塵があるのじゃなくて、宇宙はエーテルという全く無規定な物質で満たされているという説があったのでしょう。

花子:太郎と花子の間に空気の厚い壁があるから離れてられるけれど、もし何もなかって真空だったら、吸い寄せられてしまいますよね。

太郎:今の発言はセクハラじゃないかな?まあ俺の魅力がすごいということにしておこう。実際の宇宙空間は百パーセント近く空虚なわけで、ないものがあるという矛盾に陥っていることになります。

先生:我々は感覚から世界を観ているのでどうしても、物体と空間を見慣れていると、各物体やその間の空間をそれぞれ別個のものとして取り扱ってしまう。極端な例でこの宇宙に太郎と花子しか存在しないとしよう。もし太郎と花子が離れていなければ、二つの物体とはいえない。

花子:先生、ひどい、わたしたち物体だって。

太郎:つまり距離というのは各物体が他の物体と自己を区別するための物体の関係的な属性だということですね。

花子:私は先生にも、太郎にも適当に距離を取ることで私でいられるわけね。それぞれの人間関係を、家庭・学校・職場・地域で結んで暮らしているわけだけれど、それぞれに距離をとることで役割を演じられるということね。宇宙でいえば、太陽・地球・月もそれぞれ距離を取り合うことで存在しているということでしょう。距離を物体の他の物体に対する関係の仕方と見なせば、物体間の空虚は物体に属しているから物体と同様には有るとはいえないのね。

先生:そういうことで了解しておけばいいと思うね。でもパルメニデスは、「有らぬものは有らぬ」という真理から空虚を否定することで、多様・変化・運動を否定して、有るものは一者だけだというとんでもない結論を導き出したんだ。

太郎:でも一者しかないといっても現実に多様・変化・運動はあるのですから、そんな屁理屈に固執してもナンセンスですよね。

             有ることを生きることだと捉えなば、まことに有るは命のみかは

花子:でも発想としてはアルケーは水だとしたタレスは、全てを水の様態として捉えていたけだから、「有るもの=一者」に還元するのもおなじようなものじゃない。結局、「有る」を「生きる」に置き換えれば、全ては生きているということにおいて一つであり、本当に存在するものは命そのものだけなんだという主張だとも解釈できるでしょう。

太郎:今の発言、すごい。花子、急に哲学者になっちゃった。たしかにアルケーを求めていた立場だと、全てを特定の物に還元して、そしてそのアルケーが命だという発想だったから、花子の解釈も全然飛躍じゃないですよね。

先生:いや驚いた。確かにパルメニデスは多様・変化・運動を否定することで真なる存在に全てをまとめ上げ、還元しようとしたんだ。実際に存在する多様・変化・運動は、感覚に現れている仮の存在にすぎない。つまりドクサ(思い込み)だというんだ。人間は感覚に現れている多様・変化・運動に惑わされず、「有るものは有り、有らぬものは有らぬ」という真理だけにたよって真の実在に辿り着くべきだと主張したんだ。それは一者があるということであり、その一者は「有る」ということでしかない。しかし「有る」が意味しているのは「生きる」ということだろうな。これはすごいインスピレーションだよ。

花子:いやあ、照れるなあ。そんなに天才みたいに言われると。ほんとに自分が考え付いたのかしら、ただなんとなく口から出たのよ。せかされるみたいに。

太郎:それが天才なんだよ。自分を超えた天からの啓示か、地底から声か、そういう得体の知れないものに衝き動かされて、新しい発見や発想がでてくるのが天才らしいよ。ところで先生、パルメニデスには彼の説を論証する詭弁の天才みたいな弟子がいたのでしょう。

           飛んでいる矢が止どまりておりしなら主(ぬし)の御胸を射抜いてみしょうぞ

先生:それがルメニデスの愛弟子ゼノンです。彼は,「アキレウスは亀を追い越せない。」「飛んでいる矢は止まっている。」等を論証し,運動が仮象に過ぎないことを証明しました。

太郎:足の速いアキレウスは亀を追い越そうとしても、追いついた時には亀はその先に行っています。そしてまた追いついた時には、やはり亀は先に行っているので、結局、いつまでも追い越せないという理屈でしょう。飛んでいる矢は標的に到達する前に中間点に到達しなければならず、中間点に到達する前に、中間点への中間点にとうたつしなければならないから、いつまでたっても前に進めないという理屈ですね。でもこれでは現実的な自然認識は全くできません。 ゼノンの胸に矢を当てましょうか。

花子:だからそういう現実の運動は、死だとか滅びるものしか捉えられないということでしょう。滅びない真実は、亀を追い越したり、矢を放ったりしても知りえないの。理性によってのみ捉えられるのよ。

          コスモスをケノン、アトムにまとむれば、意味・価値・目的、無に帰さざるや

先生:そこで「有るものは空虚とアトム(原子)だ。」とするデモクリトス(前460〜前370年頃)らのアトム論者が活躍するようになり,古代唯物論が確立したのです。アトム論では空虚の中を無数のアトムが落下しているのがコスモスの実相だと言うのです。アトムは大きさや形は千差万別で,種類は無数に在りますが,中身はみんな同じ「有るもの」でしかありません。それらのアトムが落下しつつ衝突を繰り返して,様々な事物が構成されているとするのです。

太郎:アトムと空虚からコスモスが成り立っているとなると、これまでの「生ける全体=大いになる生命」としてのコスモスとは全く違ったコスモス観になりますね。

先生:アトム論ではコスモスはセンスレス・バリューレス・パーパスレス(無意味・無価値・無目的)なアトムや物体の集合として捉えられてしまったといわれています。そのことによって客観的で科学的な事物認識は飛躍したかもしれませんが,人間と自然の断絶も深まったことでしょう。

花子:人間はどのように捉えられるのですか。人間もアトムにすぎないというわけにはいかないでしょう。

太郎:コスモスをアトムから捉えると、じゃあ、人間はどうなるという疑問が出てきますね。コスモスの事ばかり探求しても、それが人間存在にとってどういう意味があるのか分からなければ何にもならない、と考えて、自然哲学から人間哲学へ向かうのがソクラテスです。

 先生:人間とアトムの類比ですが、個人は英語でindividualと言いますが、この語源は「分割できない」という意味でして、アトム(原子)もやはり「分割できない」という意味なのです。これ以上分けられない存在を単位にコスモスを捉えるということは、個人を単位にポリスを捉えるという社会観につながります。これは商業の発展や庶民の成長で、個人が自立しはじめ、ポリスの構成員としての自覚が生れてきたという事でしょう。

ソフィストの活躍        

         めいめいの関心により物事の意味や重さはとりどりなるかは

花子:個人が自立的に考えようとすれば、数学や哲学などに対してあまりに現実離れしているので反発したのではないですか?特権的な知の形式対して、民衆の側は,独断的な真理を拒否して,自分の頭で考え,自分の納得の行くように行動しようとしたでしょう。

太郎:それを煽動したのがプロタゴラス(前485頃〜前415年頃)やゴルギアス(前483頃〜前376年頃)等のソフィスト(智者)達ですね。   

先生:ソフィストたちは特定のポリスに帰属しないで、ポリスからポリスを渡り歩き、各地に弁論術や教養を教えて廻っていたのです。超人気ソフィストが来ますと、饗宴に招かれ、たくさんの市民が集まったのです。元祖ソフィストがプロタゴラスです。

花子:少し予習してきたのよ。彼は「万物の尺度は人間である。有るものは有るということについての,無いものは無いということについての。」と述べました。パルメニデスの言葉が入っていますね。

先生:この言葉を「人間とは何か?」という人間論への解答と受け取ってはいけませんよ。これは真理は人それぞれであるという相対主義の立場に立っています。人間一般が真理の尺度であるというのではなく,真理は相対的なものだから,それぞれの個人が自分が納得のいく真理を主張すればよいという議論です。たとえば同じ部屋にいても、暑いと感じる人もいれば、寒いと感じる人もいるとします。その場合、気温を測って、どちらが正しいか決めるのは間違っているのです。暑く感じる人にとっては、この部屋は暑い部屋であり、寒く感じる人にとっては寒い部屋でいいわけです。それをいかにも賢者面して何度だから暑いのだと「客観的真理」をおしつけられても従う事はありません。そのためのノウハウとして弱い議論を強くする弁論術を教え,知の教師を自認しました。

               独断を退けしは何故か共に真理を分かち合うため

花子:ゴルギアスは「なにものも存在しない。存在しても認識できない。認識できても伝えられない。」と懐疑論を唱えたのです。これもパルメニデスと関係ありそうですね。

太郎:パルメニデスによりますと、有るのは一者だけで、具体的な何かというのは存在しないことになります。また存在しても認識できないというのは、認識する側とされる側は別物ですから、自分にとって現れる外面しか分からないわけで、対象それ自体は分からないのです。そして認識してもそれを伝えるのは言葉でしかないわけですから、具体的な内容は言葉とは違うわけです。

先生:このゴルギアスの言葉は一見ニヒリステックですが,独断論を退け,自由な言論を解放しようという狙いをもっていたと解釈できます。 ソフィストたちはこれまでの哲学者たちの独断論を見事に退けましたが,結局,相対的な真理観しか残りません。

花子:それでは困りますね。真理はひとそれぞれでみんなが共有できないとしたら,それぞれ勝手な行動をしても良いことになってしまい,ポリスの秩序が保てませんから。

太郎:実際「ピュシス(自然)とノモス(慣習)」に関する論争が起きたそうですね。ポリスの掟に従わなければならないのは何故かという問いに対して,それが自然のままの掟ならば従うことが当然だが,ポリスの法や慣習は人間が人為的につくりだした勝手な約束ごとにすぎないから,本来従わなければならないものではないとする議論です。

先生:しかし人間社会のノモスは,人間がサバイバル(存続)する為には必要な約束ごとです。元来は,ピュシスに根拠を持っていた筈です。どのようなノモスがどのような意味でピュシスに根拠をもつ掟で,みんなで大切に守っていかなければならないのかを明らかにすることが大切なのです。こうして普遍妥当的真理を樹立する試みが求められたのです。  

                     7汝自身を知れ

                  万巻の書を読みたれど如何せむ己知らずば無知にしかずや

太郎:いよいよソクラテス(前470頃〜前399年)の登場ですね。フィロソフィーという言い方もソフィストのような知ったかぶりや、これまでの自然哲学者たちの独断的な知に対して、確実なことは何も知らないけれど、本当の知をあくまでも慕って求めるということで、フィロソフィー(愛知)になったのは、ソクラテス以降なのですね。もっとも彼自身は著作は残していません。愛弟子プラトンの対話篇の中で大活躍していますが、どこまでがソクラテスの考えだったのかははっきりしないそうですね。

先生:自然哲学はどれももっともらしく,筋が通っていますが,しかしどれか一つが正しければ他のはすべて誤りでなければなりません。かといって事実に照らしてどれが誤りかを検証できるような議論でもないのです。それは頭の中で作り上げた真理の体系だからです。このような机上の真理を「形而上学(メタフィジック)」と言います。自然哲学がすべて独断論に陥っていることを見抜いたソクラテスは,「汝,自身を知れ。」というアポロン神殿の標語に啓示を受け,自己自身の追求つまり「魂(プシュケー=生命)への配慮」に向かいます。しかし魂の徳についても,自分も含めていかなる高名なソフィストも,何一つ確実な知識を持っているわけではなかったのです。この自覚を「無知の知」と呼びます。  

花子:「汝、自身を知れ」ということは、自分らしく生きるために自分の生きがいを見つけたり、自分の個性を掴めと言う意味ではないのですか?

太郎:そういうように解釈してもいいかもしれませんね。なにしろペロポネソス半島の真ん中のデルフォイにあるアポロン神殿の標語だから、ギリシア中から集まった人々が、それぞれその標語から何を受け止めるかは、人それぞれだからね。ただソクラテスは「魂への配慮」ということで、「ただ生きるのではなく、大切なのは善く生きるということだ」ということを学んだんだ。「魂への配慮」と「善く生きる」がどう関連するのか分からなかったのですが、先生がプシュケーは「魂=生命」だと言われたので納得がいきました。

先生:この標語の作者はタレスかも知れないけれど、未来を予知し運命を司る陽光の神であるアポロンが人間に呼びかけている警句なんだ。ギリシアでは神の概念は「不死なるもの」なんだ。それに対して人間や生物は「死すべきモイラ(運命)」なんだ。その「死すべき運命の人間」たちに、「お前たちは早晩死ぬことになっているのに、いつまでも死ぬことがないかのように、毎日をノンベンダラリ―と無為に過ごしているじゃないか、そんなことではあっというまに死ぬ時が来て、大切な命を何も納得できる有意義なことに使わずに、生命の充実を味わうこともなく、死ななければならないと悔やむことになる。だから汝自身の死ぬべき運命を悟って、ただ生きるのではなく、より善く生きるようにしなさい」と諭しているんだ。

花子:そういえば「青年期と心理」ですこしふれましたが、ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』のテーマも「汝自身を知れ」ということでしたね。「オイドス(腫れている)プス(足)」がオイディプスの名前の由来です。つまり針金で両足をつながれて山中に棄てられていたので、腫れ足だったのです。そして「オイダ」は「私は知る」という意味があり、「オイダプス」だと「私は足を知る」という意味になります。ですから何故腫れ足になっていたか足の秘密を知ることが、オイディプス自身の謎を解明することになるのです。これは「汝自身を知れ」という神殿の標語への応答だったということになります。

太郎:その結果、オイディプス王は目が開いていても、何も真実を観ることが出来なかった、両眼を抉り出して、自己自身の闇を見据えることになります。これも自我の自覚の一つですね、すさまじいけれど。

花子:父を殺し、母と近親相姦して、つまり人間であることを踏み外してはじめて、だれにも冒す事が出来ない自我に到達できたわけね。その自我というものは闇でしかなかったとしても。

先生:私は、このオイディプスの自我の自覚を「オイディプスの闇」と名付けた「ギリシア人の人間観」という論稿を書いています。そのうちホームページに採録する予定ですのでお楽しみに。

                      8無知の知

                            お互いの無知を認めて学び合い、共に築かむ明るき世界

太郎:どのように生きることが善く生きることなのですか。

花子:仲良く、元気に、明るく、希望を抱いて、自分の個性と能力を活かし切って、みんなの幸せを求めて生きることです。

先生:パチパチ、素晴らしい答えですね。魂の徳を発揮して生きること大切だということなのですが、では魂(=生命)の徳についてソフィストたちは様々に議論していたらしくて、皆を納得させるような花子さんのような素晴らしい見解でまとまっていなかったのです。ところが世に賢人と言われている人々はいかにも,確実な真理を知っているように自信満々に議論して,自分の意見に従わせようとします。しかし独断的な知を押しつけられれば,心からそれに従えるわけはありませんね。そこでソクラテスは,問答法(ディアレクティーク)を通じて独断的な知の誤りに気付かせようとしたのです。

太郎:それを「無知の知」に導く産婆術というでしょう?ソクラテスの母親の仕事が産婆だったことから思いついた表現らしいですが、どのような問答で相手の無知を悟らせるのですか。

先生;賢人と言われている人々は、それぞれのエキスパートの偏った知識に精通していて、その道で成功しているので、そこで得た知識は何にでも通用する普遍性をもったものであるという自信を持っています。しかし元々、その知識がどの程度、特殊な分野にしか通用しないのか、どの程度全ての分野に通用するのかのしっかりした吟味が行われていません。ただ経験上の確信から断定しているにすぎないのです。ですから必ず論理の飛躍があります、そこを衝いていけば、論理の破綻を認めざるを得なくなります。

花子:そうするとソクラテスは魂の徳についての賢人達の主張を吟味し、批判して破綻を認めさせただけれども、決して魂の徳についての別の真理を対置したわけではなかったのね。

太郎:ソクラテスは自分は「無知」で、いかにすれば善く生きられるか知らないという立場にたって、相手の議論の独断を指摘するのです。そこで結論的には「うちもパーやけど、あんたもパーやろ」ということを認めさせるわけです。

先生:もしこちらが真理を持っていて、相手の間違いを指摘して従わせるとすると、いっしょに真理を話し合いの中から作り上げることにはなりません。ソクラテスは、ソフィストのように弱い議論を強くすることに目的があったわけではないのです。ともに協力し合ってポリスのまとまりと繁栄を築き上げようという立場なのです。そのためにはみんなが「無知の知」を弁えて、謙虚に学びあい、皆が納得できる普遍妥当的な真理を積み上げていこうとしたのです。

太郎:それじゃあ、ソクラテスは民主主義者ですね。プラトンはアテネの民主主義には批判的だったのでしょう。

先生:ええ民主主義の理念に叶っています。しかしそれは民主主義の定義にもよるのです。理性的な話し合いによる知の成果に基づく政治を理想にしていたことは確かでしょう。「民主主義」はギリシア語では「デモス(民衆)クラティア(支配)」という意味で、理性ではなく、民衆の欲望に押し流され、ポリスの理念がつぶされてしまうという悪いイメージを持っていたようです。そしてソクラテスは,人間が悪を行うのは,何が真の善か知らないからであり,本当に何が真に善かが分かれば,それを行わざる得ないと主張しました。そこで人間の理性の徳を智恵に求め,「知徳一致」「知行一致」を説いたのです。そして幸福とは魂の善美なる智恵の輝く状態ですから,「徳は幸福に一致する」と「福徳一致」を唱えました。  

                   ソクラテス裁判

                                 無知の知に導く対話罪ならば哲学の死や毒杯仰がむ

太郎:プラトン著『ソクラテスの弁明』によりますと、ソクラテスは裁判で死刑の判決を受け、逃げようと思えば逃げられたのに、判決に従わないのは不法であり、ポリスを否定することになると考えました。ポリスの法に従って、死刑になってこそ、自分の「無知の知」の啓蒙が正義であったことが証明されると考えたのですね。そこが素晴らしいからソクラテスといえば哲学者の代名詞になっているのでしょう。ところでどういう罪状で告発されたのですか?

先生:賢人たちの独断論を産婆術で暴露し,彼らの無知を天下に晒しましたので,賢人たちの権威を貶めたとして世の顰蹙を買いました。そして次の罪状で裁判にかけられたのです。「@青年たちを堕落させた。Aポリスの神を信じないで,鬼神を信じた。」    

花子:ポリスで賢人と言われた人もソクラテスとの問答で自分の無知を公衆の面前で晒さざるを得ませんでした。それを見ていて,青年たちは既成の権威が崩壊するのを面白がっていたのでしょう。でも古き善き伝統を受け継ぐのは,賢人たちに対する尊敬からです。ソクラテスによってそれがスポイルされたため青年たちは堕落し,ポリスは衰退するしかないと告発者たちは考えたのです。 

先生:ソクラテスは,普遍妥当的な真理を共有する為の前提として,「無知の知」の自覚を広げようとしたのです。それはあくまでも独断的な知を退け,対話によって見出すべきものです。その為にはいかなる権威や弾劾にも屈しませんでした。彼は心の中から叫ぶダイモンの声に逆らえなかったと言っています。それでポリスの神よりも鬼神を信じたと告発されたのです。しかしダイモンは実は良心の神格化に過ぎません。良心を持つ自律的な人格として,ソクラテスにおいて独立した人間が実現したのです。でも告発者にすれば,それこそポリスの秩序や価値よりも自己の確信や価値を優先する慢心に陥っているのです。「『戒め』と『慎み』のない人間は全能の神ゼウスの名において死刑にせよ」とプラトン著『プロタゴラス』でプロタゴラスがゼウスに語らせています。  

太郎:でもソクラテスにすれば,産婆術によって「無知の知」の自覚を共有してこそ、ポリスの基礎になる普遍妥当的真理が対話通じて構築できるようになるのですから,これに対する有罪宣告は「哲学の死」を、更には「ポリスの死」を意味しますね。ですから有罪なら死刑を宣告するように迫り,その上で逃亡できたにも関わらず,自ら進んで毒杯を仰ぎ,ポリス市民として正義の見本を示したのです。 

                                                  10プシュケーの三分説

                     正義とは理性が欲を制御してやる気起こして花を咲かすや

花子:いよいよ、最大の哲学者だといわれているプラトン(前427〜前347年)ですね。「イデアのイデアは善のイデア」みたいな超難しそうなことを考える人ですね。

先生:プラトンは『国家』でプシュケー(魂=生命)の三分説を展開し,分業の論理で彼独特の理想国家論を基礎付けています。プシュケーは生命ですから頭に入ると理性として働きます。胸に入ると気概(意志)となり,腹に入ると欲望となるのです。そしてこれらはそれぞれに相応しいアレテー(徳=卓越性)を発揮します。理性のアレテーは智恵で気概のアレテーは勇気,欲望のアレテーは節制だとしました。理性が気概(意志)や欲望を正しく制御すれば,デュケー(正義)のアレテーを持てるのです。この四つのアレテー,つまり智恵・勇気・節制・正義を「ギリシアの四元徳」と言います。

太郎:「プラトンの四元徳」ではなく、「ギリシアの四元徳」ですね。ということは「智恵・勇気・節制・正義」が大切だというのは、広くギリシア人が一般に考えていたことで、プラトンはこれを魂の三分説で理論化したということですね。

花子:普通、理性と情欲というように魂は二分化して捉えるように思いますが、特に気概を入れたのは、ポリスにとって気概が重要というようなギリシアらしい事情があるのですか。

先生:ポリスは、戦争によって栄枯盛衰が決まることが多いのですからね、当然「気概」が大切です。それにプラトンの『国家』の場合、ポリスを構成する三階級(哲人・軍人・庶民)との対応があって、三分説にする必要があり、気概が取り上げられたこともあるでしよう。智恵において最も優れているのは哲人です。勇気に優れているのは軍人で,節制を常に心掛けなければならないのは庶民です。そこでポリスのイデア(理想)が最も貫かれるのは,哲人がポリスの王になるか,王が哲人になるかであると主張しました。しかも軍人と庶民がその支配下で,各自の職務に専心する場合だということになるのです。イデアの事を理解できていない庶民がポリスの政治を支配すれば,ポリスのイデアは浅ましい欲望の犠牲にならざるを得ない,その最もシンボリックな事件がソクラテスの刑死だという見解です。

太郎:しかし理性における優越を誇る哲人王の支配は,ごく少数の貴族や賢者が真理を独占して無知な民衆を導くという図式ですから,独断的な知を排して,対話によって誰もが納得できる普遍妥当的知を目指すソクラテスの対話法(ディアレクティーク)の立場とは随分ずれてしまっていますね。

花子:プラトンは元々貴族出身だったし、師ソクラテスを裁判にかけて殺したのはアテネの民主主義だったと思っていましたからね。しっかりした知の体系が仕上がっていなければ、民衆の話し合いの結果は、感情が理性を圧倒し、「哲学者の処刑」、「哲学の死」に行き着かざるを得ないと考えたのでしょう。

 人体       プシュケー(魂=命) アレテ―(徳)    階級
  頭      理性(不死)    智恵    哲人
  胸  気概(意志)(可死)    勇気    軍人
  腹      欲望(可死)    節制    庶民
  理性が気概・欲望を制御    正義 哲人王が軍人・庶民を支配

                        11イデアの世界

                      予め物区別するイデアありイデアなくして物はあるまじ

花子:ところで,プシュケーは肉体が滅んだ後はどうなるのでしょうか。

先生:プラトンによれば,気概(意志)や欲望は肉体と共に滅びる可死的な部分ですが,理性は不死ですから,肉体を離れて「プシュケーの故郷」に戻るのです。そこでは肉体に囚われないで純粋に理性の働きだけで,物事の本質であるイデアを識ることができます。ですから現実界での認識は,イデア界の認識を想起(アナムネーシス)することなのです。

太郎:いわゆる霊界ですか?

先生:ギリシア人もアーリア人ですから輪廻転生を信仰しています。ただしすぐに次の生に生まれ変わるのではなく、純粋なる魂である理性の部分は軽いので、天上に上がり、理性だけの「魂の故郷」に集まっているわけです。霊界と考えればいいでしょう。

花子:霊だけでどのように生きるのですか。頭にあるから理性が働くので、頭脳に入らなくても働くというのはおかしいのじゃないですか?

先生:確かにおかしいかもしれません。しかしそれがおかしいと思うのは、我々はこの世の経験から判断しているわけです。それはあの世には適用できないわけですね。

太郎:ではあの世の存在は論証できるのですか?

先生:それは死んでみないと分からないですね。ただ純粋な理性だけの世界があれば、概念だけの世界が展開しますから、非常にはっきりイデアが認識されているだろうと考えたわけです。

花子:何ですか、そのイデアっていうの。

太郎:英語ではイデアideaをアイデアと発音します。観念や発想のことですね。理想的な範型の意味で使われているのでしょう。つまり現実の薔薇の花は萎びたのもあるし、形の悪いのもある、理想の薔薇の花を見本に、薔薇かチューリップか見分けることになる。

花子:薔薇には薔薇のイデアが、チューリップにはチューリップのイデアがあるので、見分けができるってことね。

先生:そうなんだ。予め、事物の数だけ異なった概念であるイデアがあるから、見分けられると考えたのだ。そうだとしたら、概念の体系としてのイデアの世界が現実界に先立ってあることになります。それで生まれる前にイデア界でみたイデアを当てはめるという言い方になります。だから予め頭脳にインプットされているイデアの記憶を想起(アナムネーシス)するわけです。

太郎:現実界の事物はイデアの摸造に過ぎないわけです。そして現実界では魂は肉体の牢獄に閉じ込められていて、イデアの世界を忘れています。それで現実界の事物からイデア界を想起して、あくまでもイデアの本当の姿に憧れ、求めてやまないというわけですね。

花子:要するに、頭の中に予め概念の体系が入っていればいいわけでしょう。ですからイデア界というのを概念体系に置き換えたら、別にあの世としての霊界なんか必要はありませんね。体験や教育によって概念体系を身に付ければいいわけですから。

先生:そういう形でのイデア論批判もあります。しかしプラトンの立場では、共通した経験から概念を形成する場合に、経験を互いに区別しなければならないわけで、その際に予め互いに差異のある概念がなければ、一切認識は成り立たないはずだというわけです。それが一切の経験から独立してイデア界が存在するという発想なのです。これこそは経験的な時間空間を超越した存在ですから、真実在だということになります。そこで現実の個々の事物は生成消滅するはかない存在ですから、真実在とは言えないが、イデアはそれ自体は生成も消滅もしないから真実在であり、事物を事物たらしめていると捉えているけです。

太郎:でも次々と新しい事物が発明される近代になると、人工的なイデアが増加することになり、イデア論的発想ではうまく説明できなくなりますね。

先生:それはそうですね。それでも物事を認識するには予め既成の観念(イデア)を当てはめるという形で行わざるを得ないのも確かです。そして既成の観念から説明できないものについては新しい観念(イデア)を作って、それを当てはめるということになります。これが観念論的発想、あるいは形而上学的発想といわれるもので、認識やその体系としての学問には不可欠な要素だといえます。同時に唯物論的発想、経験論的発想も必要ですが。

                             善美なる「らしさ」なければ何事も分かちがたくて定かならずや

花子:ところで「イデアのイデアは善のイデアである」というのはどういう意味ですか?

太郎:「太陽の比喩」と呼ばれている説明では、イデアは太陽のようなものだとされています。太陽はすべてのものにエネルギーと光を与えて、生存と区別を可能にする、これと同様に善のイデアはすべてのイデアをイデアたらしめ、イデアに真実を与えて認識されるものにし、イデアを認識する理性に真理を認識する能力を与える。その上、真善美聖などすべての徳を徳たらしめる道徳的根源、究極の価値だと参考書に書いてありますが、その理由は必ずしもはっきり書かれていないようですね。

先生:私がプラトンのいわんとするところを推察してみよう。「善美なるもの(カロカガチア)」という言葉があって、ギリシアでは善と美が一体なんだ。つまり善いものは美しく、美しいものは善いわけだ。

花子:私のことをおっしゃっておられますの、照れちゃいますわ。

先生:ウーム、そういうことにしておこう。ともかく何故善いものが美しいかというと、それは「らしい」からなんだ。

太郎:「男らしい男」とか「女らしい女」だとかが「善美なる男」「善美なる女」ということですか。最近は「女みたいな男」とか「男みたいな女」とかがはやりみたいですが。あんまり「らしさ」を求めるのは差別だと言われますよ。

先生:「らしさ」の押し付けは善くないけれど、ギリシア人の美意識はあくまでもイデアどおりの洗練された理想型を求めるところがあるんだ。ギリシア彫刻や花瓶などでも息を飲むほどの洗練された美の追求があるけれど、それはイデアどおりつまり「〜らしさ」を究極まで追求したものだ。物事の区別は「〜らしい」かどうかで判断されるだろう。猫か犬か迷う場合、猫のイデアと犬のイデアのどちらに近いかで、判定される。つまり「〜らしい」という観点があってはじめてすべてのイデア(概念)が確定されることになる。「らしさ」を「善」とプラトンは考えていたとすると、「イデアのイデアは善のイデア」という意味が通じるんだ。

花子:それから「イデアを求めて向上する愛」を「エロス」と呼ぶそうですが、別にエッチな意味はないのでしょう。

先生:「エロス」は「恋」とか「恋慕」とか訳されている。だから異性への肉体的な欲求も含まれている。しかしエロス(恋慕)の道もイデアを求めて向上しようとするところまで昇華すべきだということなんだ。これはプラトンの『饗宴』に出てくる少年愛の話からくるんだ。

太郎:少年愛というのはホモセクシュアルのことでしょう。当時のギリシアでは婦人が外出して社交に首を突っ込むことが抑制されていたので、社交と言えば男性間で行われていて、男性同士の性行為がアブノーマルではなかったのでしょう。

先生:それである美少年とソクラテスが一緒に朝まで過ごしたんだが、ソクラテスはお話ばかりで、肉体的な行為に及ばなかったらしい、少年が不満そうだったので、その言い訳だな。美しい少年の肉体を見ても、肉体的愛に溺れているのは低級で、美しい者への精神的愛にまで高めるべきだし、さらには美そのもの、つまり美のイデアへの愛に高めるべきだと語ったんだ。それでプラトニック・ラブは肉体を求めない精神的な恋愛感情を意味するようになった。先生の子供の頃にはまだ結婚まではプラトニックな関係、つまりセックスレスで付き合うのが道徳的に正しいとされていたんだよ。

太郎:それが今ではフリーセックスの本場と言われた北欧の人でも日本人の性道徳観念には呆れていると言われますね。

先生:その話は尽きないから置いとくとして、ギリシア時代のホモセクシュアルについては決してアブノーマルとは捉えられていなかったことは理解しておくべきだ。少年を慈しんで教育する場合や、少年が師に憧れる場合にもホモセクシュアルな恋愛感情があっても少しも問題ではなかったんだ。パルメニデスとゼノンの関係が有名だが。これはユダヤ教やキリスト教からみると大変道徳的に問題で、『旧約聖書』の「創世記」では、神の怒りでソドムの町が滅ぼされている。その最大の悪徳はホモセクシュアルの蔓延であったといわれている。

花子:どうして同性愛を神は憎むのですか。性同一性障害の人だったてるのに。

太郎:神が男と女を作られて、男女のセックスによって子供がうまれるように造られているわけだろう。それを人間が勝手に男同士とか、女同士がセックスをするのは神の御心に背いていると言うことになるんだ。ただ性同一性障害は、心と肉体の性が食い違うというややこしい問題で、そこまで考えが及んでいなかったと言うしかないですね。

先生:プラトンは哲学史の上で最大の哲学者だといわれているぐらいですから、とても短時間では無理があります。イデアのことは,神話に譬えれば分かり易いかもしれません。オリュンポスの山に神々を見た人はいません。でもオリュンポスの山に風の神や雨の神がいるから,風が吹き雨が降るのです。もし風の神や雨の神がいなければ,頬に当たる抵抗感やひんやり濡れる感覚は,風とも雨とも認識される事はないということです。このような捉え方をイデア論的方法あるいは形而上学的方法と呼びます。ベーコンの経験論やパースの「科学の方法」と対極的な方法です。

                                  エイドスとヒュレー

                       それぞれの個物離れて形なし、形は物の形ならずや

太郎:プラトンは、アカデミーの語源になったアカデメイアという学園を作くりました。この学園が数百年間も続いたので、プラトンの著作が保存されていると言われます。このアカデメイアの出身で、アカデメイアの教員をしていたアリストテレス(前384〜前322)は、師プラトンのイデア論を批判し、プラトン死後アカデメイアを離れました。そしてマケドニアで当時13歳だった王子アレクサンダーの家庭教師をしていました。その後アテネ郊外にリュケイオンという学園を創設したのです。この学園も長く栄えたのでアリストテレス全集が今日につたえられているわけです。ところでアリストテレスのイデア論批判はどういう内容だったのですか?

先生:プラトンでは先ずイデアが事物から超越してあります。その上で事物にイデアを当てはめて,事物を分類・識別しました。ですから事物はイデアの影を宿していて,それでイデアを分有するとされていたわけです。しかし元々,事物を離れて,超越的にイデアの世界があるのではなくて,事物に元々備わっている共通性と差異性から本質的な区別が成立した筈だとアリストテレスは考えました。つまり個物こそが実体(ウーシア)であり,個物を離れて,それ自体でイデアが存在する筈がないと,アリストテレスはプラトンに反発したのです。 

花子:あの今の説明、とてもチンプンカンプンなんですが。イデアが事物を超越してあるという意味が分かりません。例えばラクダという事物は、ラクダというイデアと離れてもラクダなのですか、そうじゃないでしょう。    

太郎:パンタ・レイ(万物流転)の考えだと、すべてのものは生成しては衰退し、消滅してしまう。だから個物は仮の存在であって、真実在ではないといわれていた。真実在は個々のラクダではなく、ラクダをラクダだと認識できるための概念の方で、プラトンはラクダのイデアが真実在だとしたわけだ。ところでラクダのイデアを個々のラクダに当てはめるためには、個々の事物に先立ってラクダのイデアの方が存在しなければならないだろう。ということは、個々の事物から離れたところに、例えばイデアの世界にイデアがなければならないということになる。これがプラトンの超越という意味だ。しかしアリストテレスに言わせると、イデア界なんてどこにあるの、プラトンが勝手に作り上げた世界にすぎないでしょうというわけだ。

花子:イデア界というのを頭脳の中の理性と考えてもいいわけですか。つまり頭の中の理性に概念があるから事物が見分けられるというように。

太郎:解釈としては別にいいんじゃないかな。アリストテレスにすれば、理性がそのような概念を持つのは、個々のラクダの属性として姿形や働きがラクダの概念どおりだからだろう。つまりプラトンがイデアと名付けたものは、個物に属している規定性つまり形相(エイドス)いうことだ。

先生:太郎君はよく予習していますね。ですから、アリストテレスの観点からは、個物は有限かもしれないけれど、個々のラクダが真実在だからこそ、その集合としての類としてのラクダやラクダの概念も真実在でありえるわけです。それが個物が実体(ウーシア)だという意味です。

花子:有限だと仮の存在にすぎないということになると、世界に無限なものなどないのなら、みんな仮の存在だということになってしまいますね。

太郎:だから無限なもの、真実在はイデアであるプラトンは考えたわけで、水掛け論になってしまいますね。

先生:そこで個物の有限性を説明するために、個物を形相(エイドス)面と質料(ヒュレー)面の両面で説明しました。形相はラテン語でフォルム、英語ではフォームです。それに対してヒュレーはラテン語でマテリエ、英語ではマテリーつまり材質、材料ということです。物質とも訳すけれど物質というと事物一般と区別されてないので、質料というターム(用語)を使っています。

花子:例えば茶碗なら、エイドスは茶碗の姿・形・機能で、ヒュレーは陶器や磁器ということですか?ドレスならドレスの姿形がエイドスで、ヒュレーは布地ですね?一つのヒュレーから構成されている単純な事物ならいいけれど、複雑な事物もありますね。生物体や精密機械類なんかはヒュレーは何かと訊かれたら困ってしまうわ。

太郎:複雑な事物は単純な部品や事物の複合物だから、それぞれの単純な事物で形相と質料を考えればいいでしょう、それから生物体なら蛋白質が質料だと捉えればいい。そういう意味では土や水に還元していた捉え方に通じていますね。

花子:ところで書物のヒュレーは紙でしょう。紙もフォルムとして捉えれば、そのヒュレーは何ですか?

太郎:繊維だよ。繊維のヒュレーは蛋白質で、蛋白質のヒュレーは?

花子:蛋白質は複雑ね。高分子化合物だから、炭素・窒素・水素・酸素などの元素の複合で、それにそれぞれの元素は素粒子からできていて、そういうのもヒュレーて言えるの?

太郎:近代化学の知識から文句をつけても仕方が無いよ。要するにアリストテレスは、個物は形相と質料から成り立っていて、その質料も形相として捉え返すと、それに対応する質料があるということだ。

花子:じゃあ質料の質料のそのまた質料と切りがないわ。

先生:だから一番根源的な質料を第一質料と言います。まあアルケーみたいなものですね。それはもう形相が無いのです。だからこれはアナクシマンドロスの「トアペイロン」やパルメニデスの「有るもの」のリバイバルと言っていいのです。 

                              ネルゲイアとデュナミス                  

                             青年は無限の未来秘めたりや己信じて学べや学べ

先生:エイドスはエネルゲイア(実現態)ですが,それに対してヒュレーはデュナミス(可能態,潜勢態)なのです。

太郎:エネルゲイアというのは形相が質料の可能性を実現しているという意味で、デュナミスというのは質料が形相として実現する源であるという意味ですか?

先生:そういうことです。様々な事物はそれぞれ物になっている限りでは、自己を実現しています。種は種としては実現態としてのエイドスですが,種は可能態としては芽であることを潜勢的に含んでいるのです。芽は形相としては芽として実現態ですが、それは茎や葉になるデュナミス(可能態)でもあるのです。青年は無限の可能性として存在しているヒュレーです。君たちは今は高校生か予備校生としてエネルゲイアかもしれないが、デュナミスとして将来はどんなすごい人物になるかもしれないのです。恥ずかしながら私なんぞは、君たちの年齢だった頃には21世紀に成ったら、きっとすごいビッグな人間になるに違いないと思い込んでいました。自分が成し遂げるはずだったことの百分の一もできてない気がします。いろいろ言い訳することはありますが、結局努力が足らなかったということになります。ロシア革命の指導者レーニンは、革命の未来を託すべき青年たちに『青年同盟の任務』でこう述べています。「学べ、学べ、そして学べ」人類存亡のグローバルな危機を乗り切り、世界統合の新しい時代を切り拓く課題が君たちの肩にのしかかっているのです。これをやり遂げることができるかどうか、まさしく「未来は青年のもの」です。

                              14ポリス的動物

                         ポリスありポリスに生まれし人ならばポリスの為に生くるにしかず

太郎:アリストテレスといえば、「人間はポリス的動物である」という言葉で有名ですね。

先生:紀元前9世紀から8世紀にかけて部族集団は中心部に集住するようになり,ポリス(都市国家)を形成しました。ポリスは獣や侵略者から身を守る為に,人為的に作ったものです。でもポリスを離れて市民たちの生活や文化は考えられなくなって,ポリスの為に生き,ポリスの為に死ぬことが当然と考えられる程,ポリスに根づいていたのです。ところが市場経済が発達しますと、庶民階級が成長して、個人中心に捉え、ポリスも社会契約論的に手段化して捉える議論がソフィストたちの中ででてきました。それに反撥して「人間はポリス的動物である。」とアリストテレスは述べたのです。。彼は,その理由を「全体が先で,部分が後だから」と説明ています。

花子:社会契約論というのは、自立した個人がまず存在して、それぞれが自己保存の為に活動すると、自然状態では争いが起り、共倒れになってしまうので、社会を組織して、利害を調整するようになったという理論でしょう。それって17世紀からのホッブズ・ロック・ルソーの議論じゃなかったのですか?

先生:近代の社会契約論や自然法の思想は、ギリシア・ローマの古典的な法理論や社会理論のルネッサンス的な意味合いがあります。アリストテレスの考え方は、個人を出発点にする社会契約論と正反対です。あくまでも社会、ポリスが中心です。 そして彼の正義論はこの観点から展開されています。先ずソクラテスの死がお手本となって,全般的正義は「ポリスの法を遵守する事」とされます。次に部分的正義にはポリスに対する功績に比例して富や名誉が配分される配分的正義,不当な配分を法に基づいて裁判によって是正する調整的正義,売り惜しみや買い占めを取り締まり,市場において価値通りの交換を実現する交換的正義が挙げられます。そして市民のアレテー(徳)としてはフィリア(友愛)と正義が大切だとされたのです。

花子::どうして「法を守ること」が全般的正義で他のものが部分的正義なんですか?

太郎:ポリスによって統治形態が違うので、正義のありかたも違ってきますが、どんなポリスにしても、あるいは何時如何なるときでも、法を守らなくては成り立たないという意味で、遵法が全般的正義なのでしょう。それに対して富や名誉の配分の仕方、公正を守るため調整の仕方は、ポリスによって違っていいし、同じポリスでも変遷していきますから、それで部分的なのでしょう。

先生:遵法のために命を投げ出すソクラテスは大変偉大なんだが、法で人民を支配者が苦しめる場合もある。専制政治、恐怖政治の下での人民の人権を抑圧する法でも守らなければ成らないのか、悪法もまた法だということですね。それとも悪法は法ではないとして命がけで法を破るのも正義の場合があるのかということも倫理の視点からは重大問題です。

花子:法はやはりだれもが納得できる原理原則に基づいて作られていないと、法の成立手続きさえ整っていればいいでは、ソクラテスばかりじゃないのだから、結局守る人がいなくなってしまいます。そういう意味で法に相応しくない法というのは法ではないということでしようね。

太郎:配分的正義は公平の観点から、ポリスの富をポリスに対する功績に応じて配分するということですが、どのように配分するのですか。公務員ばかりじゃなかったのでしょう。

先生:それは庶民は産業に携わって、その成果を市場で交換します。貴族や地主は領地の奴隷に働かせたりしますね。奴隷や女性は市民権はありません。役人や軍人は租税から給与を支払われます。

花子:それじゃあ、貧富の格差も大きくなります。搾取・収奪もひどいでしょう、公平と言えるのですか?

先生:ポリスに対する貢献度は金や権力があれば、それだけポリスに対して強い影響力を発揮できるので、貢献度も高いと見なされますから、配分も大きくなります。貧乏だと結局すこししか配分されませんから、貧富の差は拡大再生産されてしまいます、それで市民が負債を抱えて債務奴隷に転落しますと、市民権を持つ市民が減少してアテネの民主主義は基盤を喪失することになります。そこで富の再配分を行って貧民救済を行う必要がでてきます。

                                 同じ船乗り合わせたる仲間なら力合わせて愉快な旅を

太郎:それが調整的正義ですか。累進課税制や社会保障制度を行うのが、調整的正義なのですか。

先生:それは20世紀的な解釈ですね。現代では富の再分配をそういう形で行っています。当時は、富裕層はポリスの公共事業に莫大な寄付をし、貧しい市民を雇用して失業対策にしていました。また貧しい市民も武器を購入して、ポリスの戦争に参加できるようになっていました。そのことによって市民の発言権が強くなったのです。ところでアリストテレス自身はそうした富の再配分のことを調整的正義の観点から論じているのではないのです。彼は、むしろ富裕市民の立場に立っています。犯罪などによって不当に配分的正義で得たものが奪われたら、裁判によってそれを本来の持ち主に戻すのが調整的正義だという立場です。

花子:我々が調整的正義という考え方を継承するのなら、国内の所得の再配分はもちろん、グローバルな所得の再配分にも取り組む必要がありますね。ところでアメリカのイラク侵攻も正義なのですか。フセインによる恐怖独裁政権を転覆させようとしているのだから。

太郎:他国の政治がけしからんと言って、侵略するのは内政干渉ですね。

先生:原則的にはそうだけれど、専制政治の国は、対外的には膨張政策を取り、侵略する場合が多いので、あまりに人権侵害が深刻だと国際社会が制裁を加える場合がある。カンボジアやコソヴォでの虐殺事件に関して、ヴェトナムやEU諸国の侵攻があったが、人命尊重の観点から「人道的介入」を行う場合も皆無ではない。

花子:フセインはクルド族に対して毒ガス兵器を使用したということですよ。それならイラクへの侵攻も容認すべきではないのですか。どうしてドイツ・フランス・ロシア・中国などは反対しているのですか。

太郎:今大量虐殺が進行中ですぐにも侵攻して止めさせなければならないということではないので、国連で十分人権問題で討議し、イラクに改善を求めたり、フセイン大統領を喚問に呼び出したりした上で、国際社会の合意でどうしてもイラク独裁政権を武力ででも制裁しないといけないと言うことになったのなら分かりますが、英米両国が欠席裁判みたいに侵攻を決定するのはおかしいでしょう。それにアメリカが挙げている理由は大量破壊兵器の保有を隠蔽していることです。それで国連が査察していて、その証拠が挙がっていないのですから、侵攻を決定するのは間違っています。

先生:人権侵害は世界中何処で起ってもいけないわけで、国際人権規約に照らして違反があれば、世界人権裁判所でも設置して裁くべきだ。そういう機関ができるまでは国連で審議するしかないね。また大量破壊兵器に関しては核拡散防止条約で、大国の保有を認めたうえでそれ以外は禁止するという不平等条約になっているのが、紛争のもとになっている。国連で一括管理し、廃棄するべきだ。全ての国の保有を禁止する形にもっていくべきだな、日本は唯一の被爆国という立場なんだから、もっと真剣に働きかけないとね。

太郎:そんなことをしたら今までの軍事バランスが崩れて、それこそ戦争が頻発するのではありませんか?

花子:ストップ、切りがないわ。アリストテレスの正義論に戻ってよ。

太郎:花子の質問から始まったんだよ。現代的に正義論を言うのなら、環境問題も欠かせませんね。自然との共生、生命の循環を大切にするのも正義でしょう。人権の擁護も正義です。

花子:アラブにはアラブの大義があって、それを実現するために強大なアラブ帝国を作り上げようというのがフセインの主張でしょう。そのためにはそれを妨害する連中の活動を封じ込めるわけです。つまりフセインを人権論で責めても、通用しない面がありますね。

先生:この問題は、棚上げにできないことだけど、後は教室のみんなで話し合ってもらうことにしよう。

                       

                             15アレテ―(徳)と幸福

                     過不足のなきよう修練怠らずメソテースにぞ心くだきて

先生:アリストテレスはプシュケー(魂)の機能を〔理性〕と〔感情・欲望〕に区分しました。理性のアレテー(徳)は知性的徳と呼ばれ,感情・欲望のアレテーは習性的徳と呼ばれます。知性的徳には真理を認識する智恵と欲望・感情を抑制し,メソテース(中庸)を命じる思慮とがあります。 

太郎:プラトンは魂を三分割したのに、アリストテレスは二分割ですね。理性のアレテ―が「知性的徳」と呼ばれるのは分かりますが、感情や欲望の徳はどうして「習性的徳」なのですか?

先生:アリストテレスは、ソクラテスやプラトンのように何が善かを知っていれば、善を行うというように単純には考えなかったのです。人間には悪と分かっていてもつい欲望や誘惑に負けて悪を行ってしまう弱さがあります。そこで修練によって善い行いをするような習性を身につけなければならないわけです。

花子:習性的徳には何が含まれるのですか?

先生:気概(意志)の徳である「勇気」、欲望の徳である「節制」ももちろん入ります。その他には「寛仁・豪壮・矜持・穏和・誠実・機知・友愛・正義」などが挙げられています。特にポリスの市民の徳として「友愛(フィリア)と正義(デュケー)」が大切だとされました。

太郎:ところで習性的徳は修練によって養われるのでしょう。その際、知性的徳のうち「思慮」の徳が命じる中庸(メソテース)が原理だといいますね。例えば「勇気」は少なすぎると「臆病」で、多すぎると「蛮勇(無鉄砲)」である、ちょうど適度に発揮されるのが「勇気」だということです。

花子:すると「節制」が少なすぎると「放縦」になり、多すぎると「吝嗇」になるということですね。いろいろ応用できますね。「親切」だったら少なすぎると「冷淡」で、多すぎると「お節介」だとか。

                                   目的の手段とみれば不幸なれ己の技と捉えて楽しめ

先生:アリストテレスで忘れてはならないは,幸福(エウダイモニア)論です。君たちはどんなときに一番幸福を感じますか?

太郎:僕はブラスバンド部だから、トランペットでいい音がでて、みんなの音があったとき、最高に幸福を感じましたね。

花子:私は友達とおしゃべりしているときかしら。べつに大した意味もないことだけれど、楽しくおしゃべりができたってことが、なんとなく幸せだと思いますね。まだ最高に幸せみたいな感動体験はしていないような気がするな。

先生:アリストテレスによると行為には何かの目的を達するための行為と、その行為をする事自体が目的であるような行為がある。

太郎:たとえば減量という目的の為にランニングをしていると、幸福ではないけれど、走ること自体が楽しみになって毎朝ジョギングしていると、ジョギング自体が楽しみだから幸福だというわけですね。

先生:大学の受験の為に倫理を憶えようと思ってもなかなか憶えられないで、とても苦しいけれど、倫理の内容が自分自身の生きる意味を考える営みとして、自己目的になってくると、とても興味が湧いてきて、時がたつのを忘れてしまいます。すると、倫理を学ぶのは幸福なんです。大学受験勉強が地獄のように苦しい人が多いけれど、それは合格の手段にしているからなんです。

花子:そうかなあ、合格という張り合いがあるから、たとえ苦手科目でもなんとか頑張れるので。目的がなくなったら、怠けてしまうのじゃないかな。

太郎:何か大なる目的がなくて、それ自体が自己目的だというのなら、別にしてもしなくてもいいので、必死に頑張ることがなくなります。そうすると充実感もなくなって、余り幸福も感じないかもしれませんね。

先生:でも君達が挙げた例は何かの手段としての行為ではなく、それ自身を楽しんでいるときに幸福を感じていたじゃないか。何かの手段としての行為を単なるキーネーシス(動き・運動)としたのです。そしてそれ自身が目的であるような行為をエネルゲイア(活動・現実活動)だと言ったのです。我々は何か事を行うとき、常に利害得失を考え、その行為を金儲けや利権獲得のための犠牲と考えてしまいます。そうすると人間の活動の大部分が犠牲的活動であるということになりますね。西洋の労働観では、労働は神に背いた罰でなのです。でも日本人は労働を否定的に捉えるより、仕事として肯定的に捉える傾向があります。農民も土に生き、農に生きるという感じで、植物を栽培し、動物を飼育する生活は、自然との共生に生きる喜びや創意工夫もあるわけです。職人たちも自分たちの仕事を誇りにし、生きがいにしています。彼らは農業やものづくり自体を自己実現として捉えて、キーネーシスではなくエネルゲイアとしているのです。受験勉強も、どうせするのなら、その内容を楽しみ、創意工夫によって成果をあげれるようにすれば、エネルゲイアだと感じられる面が拡大し、幸福を感じられるかも知れません。

太郎:アリストテレスは幸福を最高善だとしたのでしょう。そして幸福とは快楽や名誉や富を得ることではないとしたのですね。

先生:そうです。自己充足的活動が幸福なのです。そして自己の特性を充分に発揮している時に充実を感じるものだとします。人間の特性は理性にありますから,自由な知的活動であるテオーリア(観想的生活−英語のtheoryの語源)こそ最も幸福であると述べたのです。

花子:オリンピアの競技場で競技をしている選手とそれを観て批評している観客と競技場で観客に物売りをしている人とこの三人の内一番幸福なのはだれかという問題があります。

太郎:そりゃあ、選手じゃないの。

花子:ブー。選手は知的観想(テオーリア)をしているわけじゃないでしょう。観客が理性を使ってテオーリアをしているから最も幸福なのよ。そして最も幸福なのが最高善なのです。

                
                    16アリストテレスの政体論

先生:アリストテレスはポリスの体制を分類しました。この政体分類が後世に大変強い影響を与えています。先ず,善い政体か悪い政体かは,支配者がポリス全体の福祉と繁栄の為に支配しているか、それとも国家を私利私欲のために支配しているかどうかで分けられます。そして支配者の数で分類するのです。

花子:世界史で習ったけれど、ポリュビオスはアリストテレスの政体論をダイナミックに循環するものと捉え直したらしいですね。

@まず建国英雄がいて理想に燃えて王制(ロイアルティ)を打ち立てました。
Aところが王がは,国家を私物化したり、王から奪権した僭主が国家を私利私欲の為に支配するようになり、僭主制(ティラニィ)に堕落します。
B次に憂国の志士たちが団結して僭主を打倒し、理想を持った貴族制(アリストクラティ)の国家を作ります。
Cところが貴族たちが特権にしがみつき国家を私物化して堕落し、寡頭制(オリガルティ)になります。
D富裕な市民層を中心に堕落した貴族の寡頭支配を打倒し、公正な共和制(ポリティ)を樹立します。
E貧民層がポリスに様々なサービスを要求し、ポリスの富を取り崩す衆愚制(デモクラシー)に堕落します。

 そしてまたポリスを立て直す英雄が立って王制を再建するのです。

太郎:ところでアリストテレスはどの政体を最善だと考えていたのですか。

先生:メソテースの観点からは共和制を最善と考えました。共和制では多数支配といっても市民として公民権を持っているのは財産で制限されていましたから,豊かで教養があり,ゆとりをもってポリスの理想を語ることができる人達に限定されていました。それがデモス・クラティア(民衆支配)となれば,窮乏している民衆が性急にポリスに配分と福祉を求め,ポリスの財産や文化を食い潰すに違いないと考えたのです。このデモクラシー(民主主義)に対するマイナス・イメージが強烈でしたから,19世紀末までは有力政治家の内では民主主義を公然と唱えることさえ難しかったのです。

 

一人支配

少数支配

多数支配

よい政体

王制

貴族制

共和制

悪い政体

僭主制

寡頭制

衆愚制

 

7コスモポリタンの倫理

花子:アリストテレスは「人間はポリス的動物である」と言ったばかりなのに、彼が家庭教師をしたアレキサンダー王子が王位に就くと、ギリシアを統合し、さらに東方遠征によってギリシア的世界が拡大しました。その結果ポリスは衰退してしまいます。ポリスに対するアイデンティティ(自我同一性)をなくした人々はコスモポリタン(世界市民)として生きる事になってしまいましたね。

太郎:彼らの関心は政治を離れ,もっぱら個人としての幸福を追求することになったのでしょう。

先生:ええ、彼らは世事に心煩わされないで,魂を平静に保つ事ができる人格者を賢者(ソフォス)として尊びました。世俗的な価値を拒絶して樽の中で暮らしたディオゲネスはアレキサンダー大王に感心されたのです。

花子:アレキサンダーが樽の中のディオゲネスを訪ねて、何でもほしいものをあげるから、と希望を訊いたら、ディオゲネスはアレキサンダーに「折角日向ぼっこをしていたのに邪魔だからそこを退いて欲しいと」言ったそうですね。

先生:込み入った議論で,魂をすり減らすことを嫌った懐疑派のピュロンは,形而上学的な難問には独断を避けて,エポケー(判断中止)を決め込みました。それが現代哲学では「現象学」を創始したフッサールに方法論の上で大きな影響を与えたのです。

太郎:この時期を代表するのは、快楽主義のエピクロス派と禁欲主義のストア派でしょう?

先生:デモクリトスのアトム論を継承したエピクロス(前342〜前271年頃)は,世俗と係わる煩わしさを嫌い「隠れて生きよ」と説きました。エピクロスの園と呼ばれたエピクロスの自宅の庭で仲間を集めて話し合っていたのです。

花子:あれ、快楽主義にしてはおとなしい印象ですね。

先生:そうなんです。幸福を個人の快楽に求めました。しかし彼の求めた快楽はインドの順世派や近代イギリスのベンサムのようなあくなき快楽ではありません。むしろ快楽の過度の追求はかえって不快や得られない場合の苦しみの原因になります。ですから彼は煩わしさの無いことを快楽の定義にして,パンと水だけでも充分の快楽を得ることができるとしました。彼の理想としたのは魂がなにものにも煩わされず平静を保っている「アタラクシア(魂の平静)」の境地なのです。

太郎:エピクロスは死について面白い説明をしているそうですね。

先生:だれでも死の不安に悩まされますね。煩いのないことを目指すエピクロスは死について非常に明確な説明をしました。アトム論の立場から不死を証明したのです。生きている間は生きているのですから死は存在しません。また「個人の生命=個人の魂」はプシュケーのアトムの集合体です。死はこのプシュケーのアトムが飛散してしまうことですから,個人の魂は分解して無くなっています。ですから死はやはり存在しないということです。

花子:やっぱり死んだらおしまいという見解でしょう。自分がなくなってしまうという事が恐ろしいのです。 


                   
                   
8ストア派の倫理

                      

太郎:これに対してゼノン(前335〜前263年)を初めとするストア派は,魂の不滅を信仰していたのでしょう。

先生:エピクロス派はデモクリトスのアトム論を継承していたのに対して、ストア派は自然哲学ではミレトス学派のようにコスモス全体を大いなる生命と捉えています。人間の魂を気息(プネウマ)と捉えているところなどはアナクシメネスに近いといえます。

太郎:でも魂の不死といっても、個体の死は大いなる生命に戻ることですから、また同じ人格が生まれる転生といえるかどうか疑問です。花子が死んで大いなる生命に戻り、別の生物や人間になって生まれてきても、それは人格的には別人ですし、記憶がつながっているわけでもないわけです。でも魂の不滅を強調することで転生できるように思い込んでいたのでしょうね。

先生:ストア派の中の奴隷哲学者エピクテトスは、主人に対して肉体に鞭打ち、肉体を殺すことはできても、私自身である魂には指一本触れることが出来ないという考え方だったといわれている。この場合の魂はただ命というだけの意味ではなく、内面的な理性、精神の意味になっている。肉体は滅んでも精神は滅ばないというようにも捉えていたかもしれないね。ストア派はいろんな人がいるから、それぞれ違いがあるようだ。ただ大いなる生命としてコスモスを捉え、それを神格化していて、その現れとして万物や人間を捉えるということは共通していただろう。

花子:それじゃあ、ストア派の「自然に従え」という標語は、人間も自然という大いなる生命の一部であるから、大いなる生命に従うべきだといういう意味になりますね。

太郎:ストア派は自然法思想の源流だといわれますが、もともと宇宙生命の法則は人間にも貫かれているからそれには従うべきだという意味だったのですね。

先生:そういう解釈も可能です。魂に関しては、プラトンでは理性が気概(意志)や欲望を支配すべきだという立場だから、理性を重視しているのです。この理性がコスモス全体である大いなる生命即ち神の理性の一部なんです。コスモス全体が神であると同時に個々の事物も神の現れとして神性を含んでおり、だからコスモスの調和も可能なのです。こういう全ての事物に神性があるという考え方を汎神論といいます。宇宙生命が神の理性を宿しているとすれば、万物にはその現れとして「種子的理性」が宿っているとされます。人間の理性も従って神の理性と通じているのです。その人間の理性でだれもが当然だと認める「理性の法」が自然法なのです。

花子:ではとうしてストア派は禁欲主義だといわれているのですか。

太郎:それは理性が気概(意志)や欲望をしっかり制御すべきだとしたプラトンの伝統を受継いでいるからです。もっとも理性と情欲という二分法はアリストテレスを継承しています。そして理性が情欲に惑わされない「アパティア(無情欲)」の境地に到達することを目標にしました。

花子:アパティアが「情欲がない」という意味だったら、情欲がないのにどうしてやる気が出てくるのか心配ですね。

 太郎:禁欲主義と言えば欲望を無くすことと勘違いされそうだが、もちろん欲望がなくなったら生きていけません。だから欲望をなくすのではなく、理性が欲望に振り回されないようにすることなんです。理性が欲望を完全にコントロールするということなのです。その例としてゼノンは自分の息を止めて自死したと言われています。

先生:ストア派は神聖・不可侵な理性を万人が平等に持つと主張しました。そのことによって理性の法である自然法を皆が普遍妥当的なものとして受け入れることができるのです。万人の人格的平等と人格の不滅性を主張し,自然法思想を築き上げたストア派の意義は法思想史の上でも高く評価されています。しかし個人の人格的魂の不滅性の主張は,自我の神格化に他なりません。これは個人や動物や事物の神格化や偶像崇拝を徹底的に排撃するキリスト教と衝突することになります。キリスト教にすれば,永遠・不滅な実在は神だけなのですから。

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