C文化と国際化      

      文化と文明        

 

先生・ところで太郎君「文化culture 」の語源は分かりますか?

太郎・culture cultura という「耕作・育成」を意味するラテン語から由来するのでしょう。

花子・「文化」という中国語の語源は「文治教化」でしょう。共通性はあるんですか?

先生・culture は「心を耕して教養をつける」という意味で, 「文治教化」は礼を定め教えて導くことだから同じことだな。ただドイツの「Kultur」は精神世界であって, 人間の精神が作りだした理想や価値なんだ。「宗教・哲学・芸術・科学」等だ。それに対して英・米の場合は, culture 」はマリノウスキーの定義では「学習という過程を通じて世代から世代へと受け継がれていく行動様式の総体」なんだ。

花子・英米的な用法が一般的ですよね。「言葉・道具・技術・制度」なんかも文化に入るんです。日本猿が海水でいもを洗ったり,温泉に入ったりするのが広がって,これが文化の原点みたいに言われています。

太郎・「文明civilization」とはどう区別するのですか先生・civil とは「市民」ということだから市民化とか都市化が文明の原義なんだ。だからドイツでは文化は精神的文化をいい, 文明は技術的物質的文化をいうんだ。しかし英米では区別しないんだ。ただしアメリカ社会学のマッキーバーは「文化は人間の目的であり,文明はその手段である。」と規定している。

花子・「文化相対主義」という言葉が現代文の授業でも出てくるんですが,それぞれの文化に優劣がないというような意味ですか?

先生・まあそうだな,それぞれの個別文化を評価する基準は,その文化の原理にしかないわけだから,異文化の価値を計る共通の物差しはないんだ。

太郎・文化人類学的な発想ですよね。西洋人はアメリカン・インディアンやアフリカの原住民の生活は,初めはすごく遅れた悲惨なものだと思っていたんだ。でも人類学者が実際にそこに入って一緒に生活しているうちに,それぞれ独自の価値体系があってそれなりに洗練されて完成されいることが分かったんだ。それで西欧中心主義に対する反省が生じたってことさ。

花子・それは「普遍妥当的価値」が成り立たないという事なんですか?

先生・なかなか鋭い質問だな。それは未開と文明を同じ価値の物差しで計って,どちらが優越しているかは言えないという意味でなら確かに成り立たないと言える。でも同じ人間だから当然価値においても共感できるものはあるわけで,「普遍妥当的価値」は全く成り立たないということはない。

太郎・例えば「自分がして欲しくないことを人にしてはならない」とか「自分がして欲しいことを人にしてあげなさい」とかいう自然法的な原理のことですか?   

先生・そういう事が成り立たないと社会集団自体が作れないからね。

太郎・でもそれは「して欲しくないもの」「して欲しいもの」が共通だったらいいけれど,もしそれが文化の違いで正反対だったりしたら,「有難迷惑」になってしまいますよ。

  先生・たとえば葬式には儒教文化では大声で泣くのが礼儀で,仏教では涙をこらえるのが礼儀で,キリスト教では神の御胸に抱かれたことを喜んであげるのが礼儀だとしよう。そうすると互いに招かれたりすると失礼な奴だということになるね。だから相手の文化を知らないととんでもない誤解や敵意まで生んでしまうことになる。でも互いの文化を知り,その根拠を知ると互いの誠意は理解しあえるだろう。その上で互いに故人を大切に思う心は普遍妥当的な価値として認めあえるんだ。普遍妥当的な価値の否認が現代の特色だったといわれているが,戦争と革命の20世紀が終焉し,人類的危機に対するグローバルな協力体制が必要になって改めて普遍妥当的価値の再建が求められているんだ。 

                                                                      文化の構造        

太郎・サブカルチャーというのはユースカルチャーやカウンターカルチャーとは違うのですか?

花子・サブカルチャーは全体の文化に属しながら,地域や世代や階層や身分などと結びついたものでしょう。だからユースカルチャーもサブカルチャーに属しているのよ。カウンターカルチャーはその中で反体制的な傾向をもったものに限定されるの。たとえば60年代のアメリカのフォークソングやヒッピー文化は多分にベトナム反戦の動きと結びついていて, カウンターカルチャーとしての性格を持っていたの。

先生・また文化は言語・価値・社会・技術などの構成要素から成り立っていて,これらの諸要素を結び付ける仕方は各文化の原理によって決まってくるんだ。ただし文化には変わりにくい基層文化と比較的変わりやすい表層文化がある。例えば言語でも文法は基層で単語は表層を成している。

太郎・でも近代の産業革命は農村を根こそぎに破壊してしまって,基層文化を成す共同体的なものをどんどん無くなっていますね。

花子・それはそうなんだけれど,都会に流れ込んだ人々はそこで町内会的なつながりで共同体をある程度取り戻そうとするでしょう。そういう意味では共同体的なものは日本文化の基層にあるんじゃないかしら。

先生・そういう形で日本文化は集団主義的な和の精神などを特色として持っていると言えるのかもしれないね。

        文化の国際化 

太郎・多国籍企業の発展によって,世界経済のボーダレス化が進んでいますが,それにつれて文化の国際化も進展しています。現に日本にも多くの外国人労働者が働いていますし,日本人も世界中で働いています。そうした中で各国の国民性の違いが経済的にも文化的にもいろいろ摩擦を起こしていますね。

花子・日本企業の閉鎖性のことを言ってるの?多国籍企業として発展していくつもりなら,目先のコスト計算から国内生産よりも易くつくというからだけじゃなく,進出先の国民経済にどう貢献できるかを考えた上でないと必ず摩擦を起こすわね。

太郎・韓国に進出していた企業が,韓国で公害規制が厳しくなるとたくさん撤退したらしいですね。これじゃあ途上国は公害規制を緩くせざるを得なくなりますから,日本企業が世界の環境破壊の元凶だと言われても抗弁できないですね。

先生・もちろん私企業はボランティアでなく,苛烈な利潤獲得競争で生き残りをかけて頑張っているのだから,企業の良心に頼って,企業の責任ばかり追求しても仕方がない。もし途上国の環境破壊がそれ程深刻で,人類全体のサバイバルに影響があるっていうのなら,グローバルな環境規制をするか,先進国並みの規制を自主的におこなうように先進国で行政が規制する必要があるだろうな。もちろん進出先の環境問題に対して企業自身が先進的な取組をすることが一番望ましいがね。

太郎・長時間労働など日本の悪い労働慣行を持ち込もうとして顰蹙を買うようなこともあったようですね。

花子・帰国子女の話によると,結局日本人だけが長時間労働することになり,浮いてしまうから,向こうの労働慣行に合わすことになるんだって,だから海外勤務になった方が仕事が楽な会社もあるようよ。

先生・日本的経営をそのまま持ち込むのは難しいらしいね。でも現場から衆知を集めるボトム・アップ方式や集団主義的な決定方式などは,ある程度普遍性があるから普及していくだろう。でも閉鎖的な系列取引や派閥主義的な人事のあり方は,続けていけなくなっている。これからは地球という同じ船に乗り合わせた者同志として,国民国家も企業も個人もグローバルな危機に対して力を合わせて取り組んでいかなければならない時代だという認識を踏まえてやっていくことが大切だな。

太郎・「日本特殊性論」というのがあって,アメリカ経済は自由主義が徹底して,個人主義の原理で動いているが,日本経済は集団主義で系列取引が主で市場経済が十分機能していない。日本の黒字の原因の大部分は品質ではなく市場の閉鎖性にあるというんです。

先生・そりゃビジネスをする場合人種の坩堝のアメリカでは英語ですべて通るわけだけど,日本では日本語を知らないとビジネスは円滑には末端までは届かない。それだけでもかなりの米国企業はハンディを背負っていることになる。でも自動車販売店はどこの国のメイカーの車種でも平等に陳列しなければ,独禁法にひっかかるけれど,日本ではトヨタ販売店ではトヨタ製品しか置かないでいいんだ。こういう不公平は即刻直さないとアメリカの言い分ももっともだということになるね。

花子・でもアメリカ人の考えには,欧米的な個人主義的自由主義がスタンダードなんだと言う自負がありそうですね。エスノセントリズム(自文化中心主義)があるんじゃないですか。

太郎・ただ経済分野に限れば,完全競争市場が機能しないといけないんだから,個人主義的自由主義の尊重は当然の前提なんだ。それをエスノセントリズムなんて非難をすると余計に反発されちゃうよ。

先生・逆に日本人も和の精神や集団主義や日本的美意識などについてはエスノセントリズムが強いと言われているんだ。

太郎・日本ではタテ社会が強固で,個人の能力や資質よりも年功や地位など上下関係を重要視する傾向がみられますね。こういう傾向もバブル以降は厳しく淘汰されているようですが。

花子・集団主義的な決定で個人の責任があいまいになって,かえって無責任になる「甘えの社会」の傾向が指摘されていますね。

先生・甘さでは歴史認識に対する甘さがあって,いまだに侵略戦争に対する反省をしないとか,非人道行為に対する個人補償をしないですまそうとしているとかが国際的に問題になっている。これからますます国際発展をしていかなければならないんだから,過去の過ちに対してはきちんとした態度で望まないと,アジア諸国の信頼を得ることはできないだろう。

花子・特に従軍慰安婦問題などはまともな対応をしないと,恥ずかしくて世界の人々と堂々と話すこともできなくなりそうだわ。

太郎・「Think Global, Act Local.」と言いますが, 世界の中でどういう使命を担っているのかしっかり考えてその上で, 身近な問題にも取り組むべきですね。

先生・グローバル・コミュニティの構成員としての自覚が問われているんだ。現代人類がどういう問題を抱えているか, きちんと整理した上で, その為に身近なところからひとりひとりの取り組むべきことを出してきて, その上で自覚的に行動することだ。

異文化との接触

  先生・今後グローバル化がますます進展していくと,自国の中に様々な民族・宗教が混在して異文化の接触が激しくなるね。それに海外に居住したりする機会も多くなるわけで,そこでも異文化の接触が避けられない。いろいろカルチャー・ショックや摩擦が起こるだろう。

太郎・それはいいことでしょう。そういう刺激によって文化間の交流や融合が進み,互いに学び合ってそれぞれの文化もリフレッシュするのですから。

花子・でも今までは一応単一民族的な社会で同質性が強かったのに,急に全く異質の民族や宗教や文化が入り込んでくると,やはり差別や衝突が引き起こされ,治安も悪化するんじゃないかしら。

太郎・そりゃあこんなに急テンポで進んじゃうと,いろんな社会問題が起こるのは仕方ないさ。これでもまだ一般の未熟練労働力の入国は認めていないんだ。しかし自国は海外にどんどん資本進出を進めていて,労働力を入れないというのは身勝手で,いずれ認めなくてはならなくなるんだ。そこから起こる混乱は最大限行政の努力で防ぐにしても,ある程度のリスクは覚悟しておかなくっちゃね。

先生・アメリカのハンティントンという政治学者は「文明の衝突」という論文で世界に衝撃を与えたんだ。東西冷戦の終焉は「歴史の終わり」ではなく,本来の「歴史への復帰」だというんだ。つまり歴史は本来の「文明間衝突の時代」に復帰したというんだ。異質な宗教や文化は接触によって相互に交流して理解し合い,融合できればもちろんいいんだけれど,実際にはその方向より,互いに断絶を感じ排除し合うようになる方向の方がはるかに強いというんだ。だから現在のように経済のグローバル化が進展すればするだけ,異質文化の衝突は激化するということになる。彼は中国などの儒教文化圏とイスラム文化圏が結託して西欧キリスト教文化圏に挑戦してくる可能性が高いと考えているんだ。

花子・日本はどちらの文化圏に属しているのですか?

太郎・そりゃあ儒教文化圏だろう。

先生・そこは彼は慎重で,日本は独自の文化圏と見なしている。日本が儒教文化圏に取り込まれてしまうのが,欧米諸国には最も心配なんだ。そこで日米安全保障条約の体制を堅持して,中国の軍事大国化に対抗させることがアメリカにとっても最重要課題だとしているんだ。

花子・なんだか東西冷戦が終わっても,まだまだ軍備を強化しようという国防省や軍需産業の意向を代弁しているような議論だわ。

太郎・やはりそういう議論が出てくるというのは,アメリカの対中国ビジネスが文化的な断絶のせいでうまく進展していないことも影響しているのかもしれませんよ。

先生・欧米的な契約社会の商慣行がなかなか通用しないんだな。それにシステム自体が個人主義的にできていないので,各種各級の権力どうしの綱引きもある。それに複雑な家族主義的ネットワークもある。そういう異質な文化と接触して面食らっているわけだ。

花子・日本だって,アメリカからみれば随分特殊だってことで,いろいろ文句付けられているわけでしょう。それが儒教的家族主義と共産党独裁政権のミックスされた市場社会主義の中国が相手ではそりゃあ大変だわね。でも大きな目からみれば,経済の発展が土台になってより合理的な形に進化していっているんでしょう。

太郎・そうだな下手に干渉がましいことをして,中国国内に混乱を引き起こすと,どんなおびただしい犠牲や数億人規模の難民が発生するかも分からない。東アジア全体がとんでもないことになりかねないからな。

先生・もちろん中国が欧米や日本から学ばなければならないことはたくさんあるだろう。でも同時に欧米や日本も中国の文化やシステムに対する理解を深めて,そこから学ぶ必要もある。近年の東アジアの経済成長の背景に儒教文化があるといわれるが,まだ儒教のどういう面が今回の経済発展をもたらしたのか,はっきりした解明はできていないんだ。

花子・要するに社会主義的に集団の力,国家の力で発展しようとする方向は大躍進政策の挫折やそれにつづく文化大革命の混乱で無理だと分かった。今度は個人の力で各人が自分の力で豊かになっていくようにするしかなくなって,それで市場経済化が急進展したわけでしょう。全く文化以前のような気がするけど。

先生・儒教文化圏の問題に深入りしすぎるわけにもいかないから,切り上げるけれど,どんな形であれ儒教は中国人の倫理の核心にあって,その活力の源泉になっている。国を豊かにし,先進諸国に追いつこうという国家的な課題にみんな率先して取り組んでいるわけで,金儲け自体が英雄気取り,壮士気取りのところがあるわけだ。こうゆう儒教的心情も理解しないといけない。ただ中国人は脇目も振らずにやるところがあって,環境破壊などが深刻になっている。

太郎・我々は異文化に対して一方的に非難したり,毛嫌いしたりせずに,その内容や背景を理解して暖かく接するようにすべきですね。そうしないと相手にとっては,我々自身が異文化なんだから冷たく排除されてしまうことになりかねません。

花子・それは国際人の条件ですね。たとえ科学技術や生産力で雲泥の差があっても,文化相対主義から言うと,もともとみんな対等で,その意味からゆうと文化に優劣はないんだから,お互いに異文化を良い刺激にして自文化を発展させるようにしなくっちゃ。

先生・レビィ=ストロースはフランスの構造主義的な文化人類学者だ。彼は『野生の思考』で,すべての人間に開かれている根源的な思考方法として,野生の思考を捉えているんだ。予めプランに基づいて材料を用意し,仕事を定めれたプロセスにそって進めるのではなしに,有り合わせの材料を寄せ集めて,それぞれの具体的な材料の良さが生かせるように,ずらしながら重ねていって,多面的な関係のなかにそれぞれを定位しようとするやり方だな。これは一元的な理性やテクノロジーの出る幕がない。互いに他者との出会いを大切にするやり方だ。レビィ=ストロースは,こういうように近代欧米の合理主義とは異質のしかもそれ自体として遜色ない思考を未開にも発見したんだ。

太郎・フーコーの「狂気の排除」というのはどういう意味ですか。

先生・フーコーは「人間の死,言語の支配」という言葉で有名なフランスの構造主義的思想家だ。実存主義者たちは,人間を自由な主体として前提してヒューマニズムを唱えてきたが,言語の体系に代表される社会の構造によってどう感じ,どう考えるかが既に枠を嵌められて,同質化されてしまっているんだ。それに逆らって自由に思考し行動すれば,不適応として病理的に問題視され,排除される権力構造が出来上がっているんだ。これが狂気の排除だ。彼は精神病院や監獄の歴史を調べ上げて,この排除の構造を示したんだ。だからこのフーコーの思想の帰結として,人間が主体的に生きようとすれば,精神病院か監獄か死か,それとも砂漠への逃走しかないということになる。これがゴダール監督の映画『気違いピエロ』を先駆けとするポスト構造主義のテーマなんだ。倫理でここで取り上げるのは,権力的な同質化によって人間の自由な主体性が圧殺される構造が,異文化との対話を妨げているということを問題にするためだろう。 

花子・じゃあ最後にフランクフルト学派のホルクハイマーやアドルノーの「道具的理性」について説明して下さい。

先生・理性というのはソクラテスによれば,魔術や神話や独断的自然哲学から脱却して,善く生きる為に考える能力だった。ところが近代西欧の合理主義の理性は効率主義と計量主義に傾斜して,ついには生産や支配の為の技術的な道具的理性になってしまったという近代理性批判なんだ。彼らの考えでは理性というのは本来道具やモノになりえない筈なんだな。ところが理性自身が自己を否定して理性を道具化し,個人の内面も政治社会経済においても人間を道具化し,物象化する。これこそ啓蒙つまり理性が野蛮という反対物に転化した『啓蒙の弁証法』(共著)だというんだ。

花子・そういう基準で考えるとデューイの道具主義なんて道具的理性の開き直りでけしからんということになりますね。

先生・そうだ。しかし理性の定義にもよるけれど,道具として使い物にならない理性というのも困りものだね。こういう近代批判はとても鋭い面もあるけれど,近代のもたらした巨大な物質文明を引き受けた上で,その欠陥を克服するというところまでいってないんだ。人間の道具化,物象化だってそう単純に否定してしまえるものじゃない。これは哲学史の勉強を踏まえてからまたじっくり考えよう。

 

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