8聖餐と復活の関連

やすい・・是非先生にうかがっておきたいことがありますが、聖餐と復活は関連していませんか。

遠藤・・・もちろん深いところで象徴的に結びついています。イエスの肉体であるパンを食べ、イエスの血であるワインをいただくことで、イエスと信徒との一体化がなされ、我々自身が生けるキリストとしてイエスの復活を証するわけですから。しかし実際に食べるのはパンでありワインですから、自分たちが甦ったイエスになったつもりで、イエスに倣って愛に生きようという決意表明みたいなものですね。もちろんイエスの肉と血というのは「ヨハネによる福音書」では「御言葉」なんです。イエスの御言葉を噛みしめ、飲み込んで、それらを自らの血肉化するための象徴的儀式が聖餐式で、カトリックでは聖体拝領式と言います。これがキリスト教会の礼拝の中心になっています。

やすい・・実は私も幼児洗礼を受けていましてね。私の場合は英国教会系の日本聖公会なんです。カトリックとは違いまして、幼児洗礼だけでは本当の信徒とはみなされません。ですから聖餐式では祝福を受けるだけで、パンとブドウ酒はいただけないんです。でもその方がいいんです。だってシンボリックなものとはいえ、イエスの血を飲み、肉を食べるというのは、やはりカニバリズムを連想させられますから。

遠藤・・・ええ、象徴的カニバリズムですね。その意味では少し気持ち悪いというか、近寄りがたい印象を与えるかもしれませんね。

やすい・・象徴的ではあれ、どうしてカニバリズムを組み込んだ儀式が、超越神論のキリスト教の中心儀式になっているのか、それが私にとってすごく謎めいていたわけです。そして最近、オウム真理教事件以後ですが、キリスト教というのはそういう未開的な信仰も包み込むような面があったんじゃないだろうかという気がしてきたんです。特にイエスの奇跡が沢山出てきますね。それを遠藤先生は民衆の願望、イエスへの期待として受け止められ、イエスは無力であったとあっさりイエス自身にオカルト的な能力はなかったとされていますが、私は、むしろかなり演出がかったやり方だったでしょうが、奇跡と思わされる効果を現す魂の医者としての評判は高かったんじゃないかと思うんです。

  つまり、イエスは悪霊がついて病気になっているから、悪霊を払えば治るんだといって、病気を治していたと思われます。ようするに「つきもの信仰」に基づく祈祷師的な要素が強かった。これは当時のユダヤ教のラビとは違いますよね。ラビはトーラーを解説し、タルムードを教えます。つまり神の智恵を伝えて、それに従わせます。ギリシア的主知主義とは違うけれど、信仰に基づく主知主義的な傾向が強いわけです。

遠藤・・・ラビは祈祷師的なイメージではありませんね。でも『バイブル』を読む限り、イエスの治療も様式があったわけではありません。「起きなさい」というだけで、病が癒えるようなまさしく奇跡のパターンなんです。

やすい・・ともかくイエスの方には悪霊を払うパワーが備わっているわけです。それは聖霊の力です。イエス自身がおそらくなんらかの宗教的体験から、自らに聖霊が宿っていると確信していたのです。つまり魂の医者イエス自身も聖霊がとりついた憑きものだと自分を捉えていたわけです。こういう聖霊信仰を聖餐つまりカニバリズムに結び付けて、復活信仰を解釈しますと、遠藤先生の最大の謎とされていたイエス復活の宗教的体験を精神分析的に推理することができるんです。

遠藤・・・ちょっと待った。おかしな雲行きですね。あなたはイエスの復活が、イエスの血を飲み、肉を食べる本当のカニバリズムによって実現したと思っておられるのですか。

やすい・・証拠不十分ですから、確信しているわけじゃありません。もし現実の聖餐が原点にあって、その行為を象徴的に繰り返しているとすれば、キリスト教の聖餐式というのは、よく理解できると言いたいんです。

遠藤・・・まさか・・・・、ユダヤでは血を飲んだり、人肉を食べることは最も人倫にもトーラーに反するタブーになっています。もしそんなことをすれば殺されますよ。あなたはイエスの復活を猟奇的な好奇心から詮索されておられるのですか。

やすい・・そういう誤解が一番困るんです。元々カニバリズムは聖霊を宿した族長やシャーマンの肉体を、霊力が衰えたり、死んだりした時に、後継者がその霊を引き継ぐために食べる神聖な儀式なんです。未開のフェティシズムやアニミズムを後の唯一絶対の超越神論の立場から、遅れた忌まわしい野蛮な信仰のごとくこき下ろしますが、フィクションや演技でのカニバリズムは神聖な儀式なのに、本当のカニバリズムはおぞましいというのは筋が通りません。もし事実だったとしたら、おそらくイエスの聖体を拝領した時には、弟子たちは天使たちの賛美の歌を聞いている気分で、それを行ったと思われます。

 イエスは生前に「人の子の血を飲み、肉を食べるのでなければ、永遠の命に至ることはできない」と言っています。それで大部分の弟子は去り、残ったのはだから聖餐派なんです。彼らの中には、最後の晩餐でパンとワインをいただいたとき、聖餐の予行演習だと受け止めた者もいた筈です。

遠藤・・・その聖句は「ヨハネによる福音書」の言葉です。最新の聖書学では一世紀末にギリシア語で書かれたもので使徒ヨハネの著書ではないとされています。それ以前の福音書にはない記述ですから、聖餐の儀式が中心になるに伴って、この聖句が原始キリスト教団の都合で、後に付加されたのです。象徴的カニバリズムは新プラトン派的な霊肉二元論とのからみで、グノーシス派の霊一元論に対抗して構築された論理でしょう。カニバリズムがイエス自身の思想だとは言えません。歴史的事実としてのカニバリズムから解釈するよりは、いかにしてイエスとの肉体的・精神的合一を図るかという宗教儀式の問題から、理解した方が説得力があります。

やすい・・ただ、もし本当に聖餐があったとしたら、すごい精神的な衝撃で、彼らはイエスと自己の区別がつかなくなり、互いにイエスだと思い込んだり、自分がイエスのつもりでイエスの言葉を繰り返したり、イエスの気持ちになって語ったと思われます。

遠藤・・・おっしゃりたいことは分かりますが、あくまで仮定のことです。聖霊に憑依状態になるということでしょうが、それは希望的観測ですね。

やすい・・いや、私も物的証拠がない以上、本当に聖餐があったと主張しているわけではないんです。聖餐があったと思わせる箇所が『バイブル』に散見され、またあったとすれば、遠藤先生のおっしゃる最大の謎が解けるというだけです。逆に言えば、そうじゃなかったとしたら、その謎は解けないということです。

遠藤・・・それなら、もし聖餐がなければ、神の関与があったと認められるわけですね。

やすい・・正直言って、私も神が愛や許しの神なら存在して欲しいですからね。私は、ニーチェやサルトルのような要請的無神論者じゃないんです。でも私も本当に信仰する気があれば、そういう推理はしなかったと思います。神の関与だと思いますから。宗教現象を心理的に分析して説明するのは、外的な神の関与を抜きに説明できるという科学的な立場に立っているからです。遠藤先生の場合は、たとえこの最大の謎が科学的に解明されたとしても、その中に神の関与を認められるのでしょう。

遠藤・・・もちろんそうです。私は科学か宗教かという立て方は納得しません。いずれにしても弟子たちがキリストの復活を確信したというのは、大変な出来事ですからね。もしもあなたの推理とやらが、仮に当たっていたとすれば、イエスは本当に人類のために身を捧げて、真の信仰に弟子たちを導いたことになりますからね。それこそ奇跡です。

                                おわり

本稿は、現代思想研究会編『知識人の宗教観』(三一書房、1998年5月刊)に所収されています。

 

           ●前に戻る     ●目次に戻る