『市民社会論―その理論と歴史―吉田傑俊著 大月書店刊

                           

目次

はしがき  3

第一部市民社会論の理論的問題  15

第一章〈 現代的〉 市民社会論の特質と市民社会論の系譜 15

T 現代的〉 市民社会論の特質 15

一〈 現代的〉 市民社会論の企図と展開(15
二欧米における〈 現代的〉 市民社会論の諸相(20 )
三日本における〈 現代的〉 市民社会論の諸相(28

U 市民社会論の歴史的系譜とその概念 36
一リーデルの市民社会の系譜論(36)
二古典古代的市民社会と近代的市民社会の関係性(40)
三古典的・近代的市民社会論とマルクス市民社会論の関係性 (44)
 

第二章マルクス市民社会論の理論構成  53
 

 T 重層的市民社会論の成立 53
一階級社会史観と市民社会史観の両立(53)
二マルクス市民社会論の重層的構造(60 )

U〈土台〉としての市民社会概念 68
一土台としての市民社会論 (68)
二下部構造と上部構造の統一(73)


 V〈 ブルジョア的市民社会 〉 論(78)
一 〈 社会的・政治的・精神的生活過程 〉 としての上部構造(78)
補論「社会的・政治的・精神的生活過程」論と市民社会論(83 )
二 〈商品生産・交換関係〉と 〈資本・賃労働関係〉の拮抗としての下部構造(86)
補論マルクスの法・国家論と市民社会論(95)

W〈協同社会〉としての市民社会論(100)
一〈協同社会〉としての市民社会論(100)
二市民性と階級性の問題(114)
補論 市民性と階級性の結節(123)

 

第二部 市民社会論の歴史的展開

第三章 西欧における市民社会論の展開 … 131

 
T古代ギリシャの市民社会論ープラトン・アリストテレス 131
一アテネの市民社会と民主主義(131)
二プラトンの「国家包摂的」市民社会論(133)
三アリストテレスの「混合政体的」市民社会論(141)


 U近代ブルジョア的市民社会論ーホッブズ・ロック・スミス 147
一ホッブズの「絶対主義解体」的市民社会論(148)
二ロックの「所有権的」ブルジョア市民社会論(158)
三スミスの「商業社会的」市民社会論(167)

V近代ブルジョア的市民社会論の批判論―ルソー・へーゲル 186
一ルソーの「自由の平等体」としての市民社会論(187)
二へーゲルの「国家的」ブルジョア的市民社会批判論(199)

W近代止揚の市民社会論ーマルクス・グラムシ 213
一マルクスの重層的市民社会論  (213)
二グラムシの「へゲモニー論的」市民社会論(228)
 

V 現代の市民社会論ーアーレント・ハーバマス 239
一アーレントの「古典的」市民社会論 (239)
二ハーバマスの「コミュニケーション的行為論」的市民社会論 (256)

第四章 戦後日本の市民社会論の展開  273
 
T戦前の「市民社会」論 274

一福沢諭吉の市民社会論(374)
二和辻哲郎の市民社会論批判(378)

U「近代主義」と丸山真男の市民社会論 280
一「近代主義」の市民社会論(280)
二丸山真男の市民社会論(284)

V「市民社会派マルクス主義」と平田清明の市民社会論 296
一「市民社会派マルクス主義」の問題設定(296)
二平田清明の市民社会論(300)
三望月清司・森田桐郎の市民社会論(305)


Wマルクス主義の市民社会論 310
一見田石介・林直道の市民社会論(310)
二藤野渉・重田澄男の市民社会論(315)
三小松善雄の市民社会論(320)

あとがき 325

人名索引


                                         
はしがき

  本書は、「市民社会」の理論と歴史を考察するものである。その意図と内容について、予めいくらか記しておきたい。

 

 今日、多くの市民社会論が内外で多彩かつ活発に展開されている。その理由は、端的にいって、一方における二○世紀末の「既成社会主義」の崩壊や一般に「国民国家の黄昏」とされる状況と、他方における社会主義崩壊を一つの契機とする「グローバリズム」、すなわち「市場至上主義」的資本主義の世界的な席捲という二つの要因にあると思われる。つまり、現在の市民社会論の活性化には、〈 専制的な国家 〉と〈 無軌道な市場 〉の規制をめざす、〈自立的市民〉たちによる 〈 市民社会 〉 形成運動の高まりという歴史的・社会的背景がある。

 

 一方で、私はへーゲルやマルクスの研究からはじめて、今日まで民主主義論や市民社会論について研究を継続してきた。周知のように、市民社会論は遠くギリシャの都市国家アテネに起源をもっ、哲学・思想や社会科学全般にかかわる基本的な理論である。すなわち、市民社会論は、アテネにおける自由で平等な〈 市民 〉たちによる〈 市民社会ー政治共同体 〉を基盤として出発し、それ以後〈 よりよき市民社会 〉 をめざしその内容を充実しつつ現在にいたる理論である。それゆえ、現代における市民運動やその理論も、少なくとも、この永い市民社会論に蓄積された理論と歴史に依拠しなければならないことは明らかである。

 本書は、こうした現実的課題に対して、私が自分の研究領域を接合しようとする意図のもとに書かれたのである。

 

 本書の内容は、第一部の市民社会論の「理論的問題」と第二部の「歴史的展開」の考察からなっている。

 

 第一部第一章は、現代の市民運動やそれを背景とする現代的市民社会論の批判的検討、すなわちその意義と限定性を明らかにすることを試みた。内外の現代的市民社会論の一つの基調は〈 非国家・非市場 〉的市民社会論であるが、その射程と可能性がもつ意義と同時にその理論的限定性も指摘する試みである。そのさい、その論拠を、市民社会論の歴史的変遷の概括によって、つまり〈 古典古代的 〉・〈 近代ブルジョア的 〉・〈 マルクス的 〉市民社会という歴史的に発展・蓄積された市民社会概念に照らして解明することをめざした。

 

 同第二章は、伝統的な市民社会論をいわば総括していると思われるマルクスの市民社会論を考察することにより、伝統的および現在的市民社会論の主要な理論問題を考察した。ここでは、マルクスの理論には、「階級社会史観」とともに「市民社会史観」が両立しそれが内在的な相互関係にあること、また、その市民社会論には〈 土台 〉としての市民社会論・〈ブルジョア的市民社会〉論・〈協同社会〉としての市民社会論という重層的な市民社会論が成立していること、さらに、その〈ブルジョア的市民社会=資本主義社会〉論が〈市民間関係〉と〈階級間関係 〉や、〈市民性〉と〈階級性〉を桔抗的結節において規定していることなど、重要な諸点を強調した。

 

 従来、マルクスの思想や理論は、主として「階級社会」論の側面が強調され「市民社会」論の側面が軽視されてきたといえる。しかし、私は、マルクス市民社会論の全体的検討をとおして、その現代的な意義はむしろ大きくなっていると思う。

 

 第二部第三章は、西欧における市民社会論の展開を考察した。それは、プラトンやアリストテレスの古典古代的市民社会論からアーレントやハーバマスの現代的市民社会論までに至る歴史的展開を、市民社会論自体の理論的発展形態として捉える試みである。そのさい、この市民社会論の展開を民主主義論の発展と内在的に連関するものであることを強調した。なぜなら、歴史的各段階における市民社会論は、〈よりよき市民社会〉をめざすものとして民主主義の発展と不可分離なものとして展開されたと確認できるからである。

 

 もとより、ここでの個々の思想家の市民社会論の理解や把握が十全ではないことは私自身が承知しているが、市民社会論の歴史的展開を理論的発展と蓄積において捉えることは、現代的状況においてとくに有効かつ必要であると考えるからである。

 

 同第四章は、戦後日本における市民社会論の展開を考察した。日本において市民社会論が形成されたのは、〈ブルジョア的市民社会〉自体が本格的に成立する戦後時代である。しかし、戦後の市民社会論は急速に高度な理論的発展を遂げたといえる。そして、現代日本は、この(ブルジョア的市民社会 〉にいかに対処するかの実践的課題に直面しているといえる。ここでの考察は戦後日本の市民社会論の序論的検討にすぎないものであるが、今後のその理論的・実践的発展の一つの礎石になることを願いたい。

 

 こうした本書の意図と内容が読者に理解され、それが読者に理論的・実践的にいくらかでも寄与することができれば幸いである。


                      
あとがき

 

 本書を書き終えたいま、個人的に書き残したこともふくめていくつかにふれておきたい。

 

 この書は、私の「市民社会論」にかかわるこれまでの研究を一つに集成したものである。私は、もともとへーゲルやマルクスの思想を、また少し遅れて日本の近代思想史の研究を始めたが、その研究方向はしだいに民主主義論や市民社会論に向かうようになった。といっても、初期の論文の一つが「市民社会と私的所有の問題―へーゲル『法の哲学』 の一考察」(『唯物論』第四号、汐文社、一九七五年)であるから、もともと市民社会論には関心があったといえよう。それ以降、およそ三○年もの間、基本的にはその関心をもちつづけたことになる。

 

 私のこうした市民社会論への関心が本書に纏まった動機は、一つは、「はじめに」に記したように、今日のさまざまな市民社会論や NPOやNG○ など市民運動の活性化の状況にある。これは、現代世界を席捲する市場至上主義的グローバリズムやその対をなす国家主義的ナショナリズムに対して、〈市民的自立>を企図する試みである。こうした動向は、市民的伝統の脆弱であった日本において大いに歓迎すべきことである。本書で、私はこうした運動に関わる市民社会論を批判的にも考察したが、それはこうした状況への私なりの 〈参加〉 形態として理解されたい。

 

 また、本書は市民社会論の〈原理的〉考察であって、運動に〈速戦的〉に寄与できるかどうか判らないが、私自身は一般に原理的であることは実践的でもあると信じている。もうひとつ、私がこれまでマルクスの思想を学んできたことに関わっていえば、「二○世紀の社会主義」の崩壊はやはり大きなショックな事態であった。しかし、このことは、私にはマルクス思想の可能性を改めて勉強しなおす契機ともなった。この過程で、従来から階級社会や階級闘争の理論家と理解されているマルクスが、市民社会論の優れた思想家であることを再確認することができた。本書は、私にとって、その一つの成果といえる。しかし、マルクスの市民社会論を重視する人は、マルクス研究者のなかでもなお少数といえるかもしれない。本書が、研究者をふくめて広範な読者に批判的に検討されることを期待したいと思う。

 

 さて、本書は、これまでの私の市民社会論に関わる以下の著書や論文を、全体として再編成したものである。したがって、一部に重複があったとしても、全体にわたって新しく書き直したものである。本書に関連する私の過去の主な文献は、左記のものである。

『現代民主主義の思想』、青木書店、一九九○年。
『マルクス思想の現代的可能性―民主主義・市民社会・社会主義』大月書店、一九九七年。
『国家と市民社会の哲学』 青木書店、二○○○年。
「グラムシの市民社会論」(一)(二)、法政大学社会学部『社会労働研究』 三六巻一、二号、一九八九年。
「マルクスの市民社会論」同四五巻二号、一九九八年。
「アダム・スミスの市民社会論」、同『社会志林』 五○巻三号、二○○四年。
「アーレントにおける市民社会と大衆社会」、吉田傑俊・佐藤和夫・尾関周二編『アーレントとマルクス』 大月書店、二○○三年。

 

  なお、第四章V中のハーバマス論については、本書執筆よりも先に寄稿した拙論「コミュニケーション的行為論と民主主義―ハーバマス『事実性と妥当性』の一考察」石坂悦男・田中優子編『メディア・コミュニケーション論(仮題)』(法政大学出版会、近刊)と内容が一部重複することをお断りしたい 。

 

 最後になるが、拙い本書を書き上げるうえでも、「唯物論研究協会」などいくつかの研究会に所属する同学の友人たちとの日頃の討論や、法政大学の親しい同僚たちとの交流なしには不可能であった。名前をいちいち明記しないが感謝の言葉を記したい。

 

 また、出版事情の良くない状況のなかで、本書を快く出版して頂いた大月書店にお礼申したい。

                                                      著者


二〇〇五年五月
 

 

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