『マルクスと哲学』田畑稔著 新泉社20046月刊

この作品は21世紀におけるマルクス研究のスタートラインを示す記念碑的なものと高く評価されています。
もはや「弁証法的唯物論」や「史的唯物論」の確立者でもなく、哲学者であることすら否定しようとしたマルクス像を著者は打ち出しています。大いに議論のあるところですが、これに対して、いわゆるマルクス主義者だった人たちはどのように受け止められるのでしょうか。「まえがき」に本書の基本的内容と主張が要約されていますので紹介します。

目次より
第1章【哲学】哲学に対するマルクスの関係
第2章【意識】マルクス意識論の端初規定
第3章【構想力】解放論的構想力と実在的可能性
第4章【唯物論】「哲学の〈外への〉転回」の途上で
第5章【移行1】唯物論へのマルクスの移行
第6章【移行2】パリ期マルクスと仏英の唯物論的共産主義
第7章【批判】マルクスと「批判的唯物論的社会主義」
第8章【物件化】唯物論批判の論理と「物件化」
第9章【国家】マルクス国家論の端初規定
補論1【エンゲルス】エンゲルスによる「哲学の根本問題」導入の経緯
補論2【国家哲学】東ドイツ哲学の歴史的検証

                                                                                まえがき

この本は、〈もう一度〉マルクスを読む試みである。〈もう一度〉というのは、言うまでもなく、「ソ連型社会主義体制」の生成と展開と大崩壊という二○世紀の歴史の現実をふまえて、〈もう一度〉という意味である。あたかも何事もなかったかのように、マルクスを読むことではない。正反対なのである。再読は当然、これまでの読み方への異議申し立てに至りつくだろう。その意味で言えば、この本は「マルクス像の変革」を目指していると言い換えてもよい。少なくとも自負としてはそういうことになる。

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歴史の審判が下った以上、もうマルクスなど読むに値しないとする人のほうが、圧倒的に多いだろう。今ソ連型社会主義体制」がマルクスを思想的旗印に掲げていた以上、〈「ソ連型社会主義体制」とともにマルクスの思想も瓦解したのだ〉と。だが、事態はそれほどシソプルであったろうか。象徴的事例をあげてみよう。
 『マルクスと哲学』という本書の夕イトルを見た読者は、おそらく「弁証法的唯物論」や「史的唯物論」、あるいは「唯物論的歴史観」などといった言葉を思い起こされたことだろう。では、〈マルクスは「弁証法的唯物論」とか「史的唯物論」、「唯物論的歴史観」などといった言葉を一度も使っていない〉と申し上げると、たいへん驚かれるのではなかろうか。公平に見て、マルクス文献の精読に人一倍努力したと思われるレーニンでさえ、『唯物論と経験批判論』(一九○八年)で、次のように書いている。

「この人達「ボグダーノフら」はみな、マルクスやエンゲルスが何十回となく自分の哲学的見解を弁証法的唯物論と呼んだことを知らないはずがない」(大月版レーニン全集、第一四巻9頁V。)

驚くべき指摘である。マルクスは「弁証法的唯物論」などとは(「史的唯物論」とか「唯物論的歴史観」とも)一言も言っていないのである。そもそもマルクスは「自分の哲学的見解」として、何かを論じたのではない。一八四〇年代の半ば以降は、哲学の外部にポジションを取っているのだ。「共産主義からの哲学の一掃」という言葉さえ使っている。ところがマルクス死後二十数年にしてすでに、マルクスの思想は「真の哲学」でもあり、それをマルクスは「弁証法的唯物論」として構想し、のみならず「何十回となく」自らそう語った、ということが自明の事柄として受け取られ、この「事実」を無視(!)している論争相手を非難する論拠とさえなっていたのである。
 さらにそのうえ、一九一七年の一○月革命に始まる一党支配のシステムは、「国家哲学」という、マルクスには思いもよらなかった事態を生んだ。旧東ドイツの党哲学者であったヴォルフガング・ハーリッヒは、一九四九年に、ある日刊紙に「レーニンとス夕ーリンの哲学的業績を讃えて」という記事を書き、「諸国家は哲学者たちによって指導されねばならないとする、古代思想家プラトンの要請は、この三二年来、地球の六分の一で、つまり社会主義ソ同盟で実現しているのだ」とまで書いている。プラトンの哲人政治の幻想まで共有されていたのである。

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歴史の中で働く神話化する圧力の巨大さに、いろいろ思いをはせてしまう。大阪の町人思想家富永仲基(一七一五ー四六)の言葉を借りると、オリジナル・マルクスに次から次へと「加上」されて、ほとんど原型が見えなくなっていたのだ。とりわけ「国家哲学でもある党哲学」が重くのしかかった。だが「加上」は、釈迦から葬式仏教への展開についても、イエスとパウ口主義の関係についても、あるいはその他のどんな思想の展開についても、常に見られる事態である。思想の受容といっても、受容それ自身が、特定の歴史的情況下で現に生き、現に闘う人々の主体的営為である以上、「加上」のない、思想の純粋受容など、もともとありえないのである。
 この「加上」の形態が、エネルギーを使い果たし、知的モラル的政治的抑圧力に転化し、破綻が顕わとなった時に、しばしば「原点回帰」=「原典回帰」の革新運動が生じる。「イエスに帰れ」、「釈迦に帰れ」、「マルクス復権」などである。だから歴史に刻印されているような思想は、自己刷新的にアクチュアリティーを回復する力を内在させているかに見える。しかし、「原点回帰」=「原典回帰」それ自身が、自足的に、革新のエネルギーを形成しているのではない。ましてや原点との神秘的一体性の意識が、変革力なのではない。むしろ逆に、自分たちが現に生きている歴史的情況との間に、いきいきとした思想的通路を再構築することが本来の眼目なのであって、
そのための〈形〉として、しばしば「原点回帰」=「原典回帰」が機能するということであろう。

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もちろん、「ソ連型社会主義体制」が崩壊するはるか以前から、ォリジナル・マルクスの復権が叫ばれてきた。この回帰運動は、異端視されながらもインデペンデントに生きた、内外のすぐれた思想家たちによって担われたのであって、その功績はきわめて大きい。だが、あえていえば、強大な既成権力としての「ソ連型社会主義体制」の思想的正統性を拒むという消極機能に力点があった。「ソ連型社会主義体制」を批判するだけで存在理由が保てるという「甘え」も見られた。しかし、大崩壊があった以上、ポジティヴに現代世界の変革への再挑戦を方向づけるものであることなしに、オリジナル・マルクスの復権の意味を語ることは、きわめて困難になったと言わねばならない。この点が従来のマルクス復権論と我々のような再読論との、置かれた時代情況の根本的な違いであろう。
 著者が前著『マルクスとアソシエーション』(新泉社、一九九四年)で主張したように、新しいマルクス像の中心にアソシエーション論が置かれるべきだと考える理由はそこにある。このようなマルクス再読が、新しい「加上」をはらむことを我々は否定しないばかりか、この「加上」に積極的に成功しない限り、マルクスのよみがえりもないと考える。マルクスを再読する行為と、マルクスを現代へと超える行為とが、ともに不可欠なのである。後者については、著者は非力を省みず、いろいろな領域の活動家や研究者と対話を重ね、彼らから学びつつ、共同作業を呼びかけて、基礎研究ながら『アソシエーション革命へ』(社会評論社、2003年)を出しているし、また石堂清倫や松田博に学びつつ、マルクスを現代へと超える中間点にグラムシの「市民社会論」「へゲモニー論」「陣地戦論」「アソシエーション論」を位置づける方向を志向しているので、あわせて検討いただきたい。

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しかし、当然のことながら、マルクスのような思想家においては、社会変革論だけが一人歩きしているわけではない。アソシエーション論を軸にマルクス像を変革するには、マルクスの思想の裾野に広く深く分け入って、もう一度きちんと、彼の思想の基本性格にかかわる、いろいろな境界線を一から引き直さなければならない。本書の課題はそこに置かれている。
 本書は九つの章と二つの補論からなっている。第1章では、哲学に対するマルクスの関係を問い直し、第2章ではマルクスの「意識」論を根本から提出し直し、第3章ではマルクスにおける解放論的構想力の問題を提起している。第4章から第8章まではマルクスの「唯物論」のほぼ全面的な読み直し作業である。第9章ではマルクスにおける国家の概念の再提出を企てている。二つの補論は、「マルクス〈主義〉哲学」を扱ったもので、一つは、エンゲルスによる「哲学の根本問題」導入の経緯を批判的に追跡し、もう一つは、旧東ドイツに見られた「国家哲学でもある党哲学」の生態を紹介している。

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マルクス思想の普及と教義化につとめた晩年のエンゲルスは、マルクスの死の3年後に、「哲学の根本問題」視点を導入するなど、マルクス主義の哲学化を進めた。やがて「マルクス〈主義〉哲学」の存在は自明化し、最終的には「党哲学でもある国家哲学」へと行き着いたのである。

そこで我々は、哲学に対するマルクスの関係を根本的に洗い直すことから始めている(第1章)。マルクスは、

@理性主義的観念論の立場に立つ「意志としての哲学」から始まり(博士論文への注など)、
A「哲学とプ口レ夕リアートの歴史的ブロック」、つまり実在勢力と哲学の連合構想へと進んだ(『へーゲル法哲学批判序説』が、
B一八四○年代半ば以降、一転して「イデオロギーとしての哲学」という基本了解に至って脱哲学化した(『ドイチェ・イデオロギー』)。C六○年代には経済学批判の方法にかかわって「批判的概念把握」の出自として哲学、とりわけへーゲル弁証法を再評価する(『資本論』第二版後記)ものの、最晩年にも自分の思想が一種の「歴史哲学」と見られることを拒否し続けた。なぜなら自分の思想は「その最大の長所が超歴史的であるという点にあるような、普遍的な歴史哲学的理論の万能の合い鍵」を与えようとしているのではないからである、と(『オテーチェストヴェンヌィエ・ザピスキ』編集部への手紙など)。

 これら転変の全体が「哲学に対するマルクスの関係」なのである。少なくとも、四○年代の半ば以降、マルクスは明らかに哲学の外部にポジションを占めていることは、ごまかしなしに確認しておかねばならない。〈もう一度〉、哲学に対するマルクスの関係を、その転変の意味を、マルクスが哲学の外部にポジションを取ろうとした意味を、そして「万能の合い鍵」を拒んだことの意味を、逆に言えば、人々が「万能の合い鍵」をマルクスに求め続けたことの意味を、問い直すべきである。そのための素材は十分に提出できたと考えている。

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続いて第2章と第3章では、マルクス「意識」論の再読を行っている。周知のとおり、「国家哲学でもある党哲学」の中心素材とされたレーニン『唯物論と経験批判論』では、意識、独立、反映、物質が相互限定的に定義された。簡略に書けば、〈意識は独立な物質の反映である〉、〈物質は意識から独立で意識において反映されるものである〉と。この意識論は、哲学史的には一七〜一八世紀の感覚論の土俵で意識をとらえるものであったが、社会的機能として見れば、端的に言えば、客観主義的思考様式と権威主義的コミュニケーション様式に連動するものとなった。このような意識論にとどまる限り、マルクス解放論の中心に置かれるべき「アソシエートした知性」(現在刊行中のMEGAU‐4-2-331)の歴史的現象学へと展開する道はまったく閉ざされたままであろう。

マルクスの意識論はこれとはまったく異質なものである。我々 はマルクス意識論の端初規定の抽出から始めている。それによると、意識とは「自分の生活活動それ自身を対象とする」あり方(『経済学哲学草稿』)、「自分を取り囲んでいるものに対する自分の関係が自分自身に対して関係として現存する」あり方(『ドイチェ・イデオロギー』)、「人間たちの[他者との]関係が関係として彼らに対して定在する」あり方(『資本論』)にほかならない。つまり意識の前提は「自分の生活活動」なのであり、また意識の対象も「自分の生活活動」なのである。もちろん意識の対象である「生活活動」は、活動主体、活動対象、活動そのものへと分節化し、また「対象とする」あり方自身も、知覚、判断、価値判定、意志、などへと分節化するが、しかし注意がどこに向けられるにせよ、また認識や価値判定や意志のいずれが前景に出るにせよ、常に全体としての「自分の生活活動」を、全体としての意識が対象としているのである。

 我々は、このように、マルクス意識論の端初規定をまったく新たに確定する作業を行ったうえで、マルクスにおける実在論の問題、言語論の問題、イデオ口ギー論の問題、認識論の問題、解放論的構想力の問題などを追跡している(2章、第3章)。たとえば構想力の問題で見ると、「幻想的幸福」形態や「ユートピア」形態や「再演(パロディー)」形態を経過してきた解放論的構想力を、「実在的可能性」の構想力へと批判的、対話的に転形させようとするところに、彼の論争的介入の核心があったことを、大枠ではあるが、示すことができた。断片しか残されていないものの、著者としては、マルクスの意識論が、二一世紀の我々の時代にも独自な存在理由を保持し続けていることを示したつもりであり、また「アソシエートした知性」の歴史的現象学へ向かって、いくつかの通路を敷設したつもりである。

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4章から第8章までは、マルクス自身に徹底内在しつつ〈マルクスにおいて唯物論は何を意味したか〉を追跡する作業である。我々の内に根付いている「弁証法的唯物論」や「史的唯物論」や「唯物論的歴史観」を、あたかも存在しなかったかのごとく、いったん全部消し去って、彼に耳を傾けようとした。

まず、前−唯物論期マルクスの唯物論了解の追跡(4章)を通してはっきりしたことは、マルクスにおける唯物論の基本モチーフが、「自由の実現」(人間相互の関係において歴史的に実現さわるべき自由)のための闘争の中で浮上してくる〈唯物論問題〉にあったという事実である。エンゲルスが「マルクス(主義〉)の中に組み込もうと努力した自然科学的唯物論問題とか、レーニンがマッハ主義論争に介入する形で持ち込もうとした認識論的唯物論問題とかは、基本モチーフにおいてすでにマルクスのそれとは大きくずれている。そもそも、マルクスの物質概念は「人間たちの物質的生活」の概念なのであって、エンゲルスの「世界の統一性」を基底で担う「物質」でもなければ、レーニンの「意識から独立な実在」でもないのである。

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続いて我々は「唯物論へのマルクスの移行」論争を吟味している(5章、第6)。エンゲルス『フォイェルバッハ論』(一八八六年)では、『キリスト教の本質』(初版一八四一年)でフォイェルバッハが唯物論を玉座につけ、それに感激してマルクスが唯物論へと移行したように描かれているが、どうもこれはエンゲルスの不正確な記憶に基づくものであり、また「哲学の根本問題」というエンゲルスが導入した視点に基づくものであって、現実の事態にまったく合致していない。

論争の一方は、『へーゲル国法論批判』(一八四三年夏執筆)におけるフォイエルバッハ「主語ー述語転倒」説の採用をもって唯物論へのマルクスの移行指標とするクロイツナッハ期移行説で、ルカーチやコルニュや旧ソ連系学者などがこの立場に立っている。もう一方は『ドイチェ・イデオ口ギー』(一八四五/四六年執筆)などにおける脱ヒューマニズムをもって移行指標とするブリュッセル期移行説で、アルチュセールや廣松渉がこの立場に立っている。我々の内在研究によると、この両説はともに外挿怯に基づくものであり、マルクス唯物論の内在研究の欠落を象徴している。

我々は『経済学哲学草稿』第三ノートを指標に、パリ期移行説を提唱している。マルクスにおいては、唯物論と唯心論/観念論の対立と言っても、単に哲学上の対立ではない。近代市民社会における人々の存在、行動、意識における分裂と対立を表している。だから単なる哲学の枠内で、この対立を克服することはできない。そしてこの対立を揚棄するのが歴史的運動としての社会主義であり共産主義なのである。ところで、この実践的揚棄運動自身が、再び唯物論(ただし「真の唯物論」)として了解され始めるのがパリ期である。

したがって、マルクス唯物論は「市民社会の唯物論」と「新しい唯物論」の二重構造を持っている。また、影響史的にみれば、当時、パリに実在した唯物論運動としての、唯物論的社会主義や唯物論的共産主義が注目されなければならない。フオイェルバッハについては、むしろ、パリの共産主義的唯物論運動の一面性を克服する「真の唯物論」の構想者として〈マルクスの方が〉読み込んだというのが実態だったろう。

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マルクスは晩年に自分の思想を「批判的唯物論的社会主義」(マルクス・エンゲルス著作集19-229)と表現した。マルクスの唯物論の特質は、唯物論〈哲学〉としてではなく、「批判的唯物論的社会主義」という形態規定において了解されねばならない(7章)。このうち、「社会主義」はマルクスの思想の本来の眼目(目的)を表し、「批判的」は思想のス夕イルを表すのに対して、「唯物論的」は運動の物質的諸条件(諸制約)への自覚化努力を表すと言えるだろう。

だからマルクスの唯物論は〈目的の唯物論〉ではなく(制約(Bedingungen諸条件、条件づけているもの)の唯物論〉である。眼目はあくまで、アソシエーション社会をベースに人類が「自由の国」へと前進することである。しかしそのためにこそ、歴史的運動の物質的諸条件に自覚的でなければならないのだ。

この場合、〈制約(条件)の唯物論〉は(決定の唯物論〉〈還元の唯物論〉と厳密に区別されねばならない。なぜならば後者は、制約するものと制約されるものとが一対一対応するという、人間社会では通常見られない、自然界でも普遍的とは言えない、きわめて例外的な制約関係を表しているにすぎないからである。また〈教義的唯物論〉ではなく、〈批判的唯物論〉である。つまり物質に関するあれこれの一般原理を掲げて、そこから演鐸的に現象を説明するのではなく、具体的現実や具体的生活過程に内在しつつ、その危機(切断局面)から、より深い認識へと対話的に進む唯物論なのである。

さらには〈直観的唯物論〉ではなく〈実践的唯物論〉である。つまりモノであれ脳であれ身体であれ自然であれ、直接知覚において与えられたものをそのまま実体化するのでなく、人間たちの実践的媒介や共働的媒介や相互行為的媒介において「ある」ものとしてとらえようとするのである。

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マルクスの「市民社会の唯物論」は、「フティシズム」「物件化」「物化」の概念に直接、連続しており、このようにしてマルクスの唯物論は本質的に唯物論批判でもあることが明らかとなった。(8章)。我々は、カントやへーゲルの唯物論批判を紹介しつつ、「誤謬推理」や「無限判断」という彼らの唯物論批判の論理がマルクスにおいても再現するのを確認した。しかし、カントについて言えば、現象的実体としては物質のみを認める点で力学的唯物論と世界像を共有しており、物自体による自由の救済という彼のアプローチは、彼の唯物論批判の根本的限界を示すものである。へーゲルでも、市民社会において人々の意志が「物件」に汲みつくされる事態(「意志の物件性」)を、否定的であれ人倫的理念の不可欠の契機として受容してしまっている。また両者とも、人格の物件化を厳しく批判するが、その典型は近代以前に、奴隷制や女性の隷従に置かれている。つまり両者は市民社会の立場に立つ哲学者として、「市民社会の唯物論」を分有しているのである。マルクスの唯物論批判は、初期から一貫しているが、「市民社会の唯物論」批判の質において、カントやへーゲルよりはるかに根本的な地平に立っている。彼の唯物論批判が最も完成度の高い形で展開されたのが『資本論』における「フェティシズム」と「物件化」にほかならない。そこでは、資本は、人格相互の関係の重畳する「物件化」の問題として展開されるのである。

二一世紀の現実を見れば、マルクスの唯物論批判の戦略的意義はきわめて大きい。さかのぼって考えると、エンゲルスが「哲学の根本問題」を導入し、哲学を「二大陣営」に分けたのは、マルクス唯物論の二重構造を消し去り、唯物論批判のこの戦略的意義を見えなくさせるミスリードであったと言わなければならない。

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最後に、我々は、マルクス国家論の端初規定の見直しを行っている(9章)。国家は、レーニンにより、本質から見れば「階級支配の機関」として規定されてきた。しかしこの本質規定は概念的媒介を欠いているのではないか。この概念的媒介の欠如が、超越的で硬直した実践の理論的源泉の一つになったのではないか。これが著者の主張であり、マルクス再読のポイントである。マルクスでは、政治過程や国家制度は「市民社会の公的総括」であるという規定から始まっている。社会の公的総括(総括国家)から始めて、分業国家へ、さらには階級国家へという、概念的順序を踏むことによって、市民社会から国家が分節化してくる内在的関係も見えてくるし、政治過程や国家制度の総括形態としての特殊性も見えてくる。逆に、アソシエーション過程の進展に伴う、国家の社会への再吸収という目標も、論理的にとらえられるのではなかろうか。

以上が、この本の基本内容であり、基本主張である。もちろん、マルクスのようなスケールの大きい思想家のことであるから、論じ残した問題もきわめて多い。また、アソシエーション論について我々が不十分ながら行ったように、哲学論、意識論、解放論的構想力論、唯物論、国家論についても、マルクスを再読する作業に、二一世紀的地平へとマルクスを超える作業を並行させる課題が残されている。しかし、思想の裾野に広く深く立ち入って、境界線を引き直すことによって、マルクス像の変革を基礎づけるという作業の骨格は示しえたのではないかと思っている。読者の批判を仰ぐことにしたい。
                                  二○○四年三月一○日大阪・東淀川にて
 

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