『戦後精神の探訪―日本が凝り固まらないために―

              鈴木正著 人間選書 農文協 20053月刊

                目次

       T歴     史

夢と現実 頭上には青天あり、足下には大地あり
老人よ哲学に戻れ
「九条」の心とわたし

昭和ヒト桁の語り種 
続[九条」の心とわたし
論理の力と体験の重さ 三たび「九条」の心とわたし
日中友好に尽くした人々  政治家、学者、芸能人から無名な一市民に至るまで
強弱互換のカード合わせ 多元主義の効能
軍・封帝国主義論争と私の青春
敗走の訓練と散沙の民 
日本が凝り固まらないために
アテルイを知っていますか
時代の現実を的確にとらえた衛藤瀋吉 
歴史と伝統の重みを知る人の発言
実質主義的判断 常岡雅雄さんへ
『自然と人間』誌を知っていますか 緊急特集「イラク人質拘束事件」を読んで
[愛」「反戦」の背後にあるもの それは人間
まぐれに手にした一冊
 伊藤銀月の『人情観的明治史』をめぐって
孤高を嫌う現代人 
戦争は平和の仇敵 
日本人が鬼とならないために

U人   物

適度な欲望と消費 下出隼吉のこと
負けてくやしい花いちもんめ 梅本克己さんのオシャべリに脇から加わるつもりで
勢力に抗して「真理」に生きる 荒川惣兵衛の仕事法
芝田進午さんとのお付き合い
大先輩の対話から思うこと
 攻守・転向・自然発生の意味
持続する魂魄 小林トミさん
尾崎秀實はスパイか
東本願寺での出会い
 「非戦」を生きた僧侶に学ぶ
〈社交資本〉をキー・ワードに
兆民の文章の呼吸まで飲み込んだすぐれた考証
昌益研究の自由な討論の糸口をつくる
『山脈』と『思想の科学』の横糸 
白鳥邦夫を偲んで
「初会」の栗木安延さん
石堂清倫の最晩年と没後の二著を読んで
史学者と史論家の風格家
 家永三郎氏を悼む
“最後の思想家”らしい存在感 藤田省三さんを偲ぶ・
峻拒する精神 藤田省三氏を悼む
思想史研究の仲間として 土方和雄さんを送る 
江口圭一さんへの思い
高畠通敏さんの為人(ひととなり)

           V思      想

丸山眞男論
中野敏男『大塚久雄と丸山眞男―動員、主体、戦争責任』を読んで・
丸山思想史学の可能性
不退転の非暴力と自然発生の意味
 『咸錫憲の基本思想』を読んで
他者に開かれた場として
気品ある二組のトリオ
 萩原延壽『自由の精神』を読んで思うこと
集団意志と「神道」の二重奏 グラムシの思想的断章から
あとがき

敗走の訓練と散沙の民
日本が凝り固まらないために

近ごろは少年時代に覚えたことや親から聞いたことが、以前に増して気にかかるようになった。年のせいだろうか。“一年の計は元日一にあり”、めざすことは新年からはじめよといわれて、正月三が日のうちに必ず本を一冊買って読みはじめる。“読始(よみぞ)め”である。この数年は元日一の新聞を丹念に読むことにしている。活字文化に憧れて育った私は、多機能で映像まで使える電脳(この中国で常用されている訳語はスバラシイ)文化には、まだ距離をおいている。メールをすぐ送るとか、ワープロで打った習作か草稿程度の文章を他人(ひと)に見せるとか、近ごろははき出すことが多すぎてどうも念慮が足りない。どうせ大した調査研究でないから、あとで盗作や剽窃といった心配も一向にないらしい。じっと息を凝らさないと表現は彫琢できないのに。携帯電話も同じで、ゆっくりする時間を奪う。ある友人は「恋人の間ではケイタイは監視機能を果たす凶器だ」とくさしていた。

 一人で活字を読むのは他人に負担をかけないですむ。自分のなかで考えて、熟慮の前提である熟読に時間がかけられる。とにかく一人で何もしないで、じっとしている大事な時間の過ごし方に近く、そのほうか個人的思索のための気と魂がいぶく。

元日一の昼下り、年賀状を見たあとに「孤独力」という見出しに目が止まって「大変な時代?いや、捨てたものでも……」という森毅さんと富岡多恵子さんの対談記事を読んだ。そして森さんが最後に語っていることに興味をもった。そして驚いた。

「昔の軍事教練で、敗走の訓練を覚えてます。隊列を組むな、バラバラで逃げろといわれた。… 固まって逃げたら一斉にやられる。今、経済は『第二の敗戦』といわれてるでしょ。そんな時、みんな一緒のことやってたら、終わりです」([朝日新聞』 03 1 1 )

 森さんと私とは同年生まれの1928年。私も師範学校で軍事教練を受けた。勤労動員に駆り出される前と動員がまだ完全実施にならぬ時期の合い間に、三八式歩兵銃、ときにはさらに重い旧式の村田銃をもって「オイチニ、オイチニ」としぼられた。銃を両手で捧げもって膝で漕ぐようにしてはう匍匐(ほふく)前進もやった。「査閲」といって地元の師団から派遣される軍人に訓練の達成度を評価されるために連日しごかれたことを記憶しているが、敗走の訓練など眼中に全くなかった。

 ついでにいうと、腹が立ったのと、戦々 恐々だったのと同体だが、当時の校長・坂井喚三(師範学校は陸軍士官学校を理想として運営すると威張っていたが、のちに名古屋の第八高等学校に移り、戦後、校長排斥運動のあと教職追放になった)は、軍にゴマすって軍事教練という科目だけは「可」でも落第させると勝手に決めて断行したことである。通常は「不可」が欠点で「可」は及第点なのに。たった一科目で、しかも「可」でも進級させないという無法な処置が校長の独断でまかりとおった。運動神経がにぶく腕力のない私は、勤労動員で工場へ行くようになってホッとしたくらいだ。勉学のチャンスを奪った動員で安心するなんて全く変な狂った時代だった。

森さんが受けた「敗走の訓練」なんて、私はただの一度も教わったことがない。だからこの回想が全く新鮮に映って一驚した。これは配属将校(現役)や軍事教官(退役)の人間性によるのだろうか、それとも学校教練の教科書のどこかに教授内容の一部としてあったことなのだろうか。

孫文が中国人は「散沙の民」と表現したそうだが、偏狭なナショナリズムで硬直しない、この散沙の自由気ままは、国家的見地からは困りものだろうが、民衆の立場に立てば手放さぬほうがいい。その根本気質があったればこそ、文革後に市場経済を見事に再生・発展させたといえるのではないか。これは私の気ままな解釈である。

 第二の敗戦といわれる現在、“単一民族的”だと平気でいい、少数派を嫌う統制画一好きな日本では、むしろ散沙の傾向は国家悪を解毒してくれる美質ではないか。それを全体と公共につなぐ唯一の絆は、侵略戦争の反省に立った「日本国憲法」だと私は思う。日本を深く理解するドナルド・キーンも
「憲法第九条は大変理想だと思います」C.W.ニコルとの対談『中日新聞』0311)と支持してくれて
いて心強い。

 私はナゴヤっ子だから郷土の人物に目がいくが、この憲法の制定担当大臣だった金森徳次郎は『新憲法の精神』(1946年)で、こう語っている、「文化をして戦争を滅ぼさしめるべき」で、過去の軍国主義に「未練な考え」を捨てて戦争を放棄したことを「歴史的な日本の大乗的活動」だと評価しており、文化の独立を否定して、文化や思想を政治の召し使いにすることは「人類そのものに対する反逆」だと断罪している。味読すべき見識ではないか。

 ここで、さきほどの敗走の訓練について語った人物にもどる。なぜならその異色の経歴に私は大いに興味をもったからである。数学者だということは知っていたが、学問分野では遠いところの人という印象であった。彼が軍事教練を受けたのは旧制第三高等学校だったか、あるいは、そこに入る前の旧制中学だったか。とにかく私の受けた教練とは「軍国度」が断然ちがうと思った。現在、京大名誉教授である森毅は『現代人物事典』(朝日新聞社、1977年)によると―、

「三高在学中より、宝塚の雑誌に評論を載せたり、歌舞伎にこったり、三味線、長唄のけいこを始めたりする。… 東大時代も歌舞伎、長唄のほか、あらゆる学部に出没し、あらゆる分野をかじり、書き魔あるいは恐怖の評論人間との評を受ける。数学をやるか芸能界に入るか迷った後〔東大理学部卒業後〕、51年から北大助手として関数解析に取り組む。56年度事実上クビになり、親子三人で各地を放浪。57年京大助教授となる。以下略」

 そして『現代日本朝日人物事典』(1990年)も、ほぼ同様の記述である。

 森さんの受けた教練のこととともに、この経歴にも驚いた。驚きとうなずき、それが私の印象である。数学者と芸能人の境界を超えて無碍に出入りできる才能と器量がすばらしい。いま大学では教養教育の重視が叫ばれる反面、哲学や思想が事実上軽視され無視されがちな現状に多くの人びとは危機感を覚えている。昨年末の名古屋哲学研究会の30周年記念シンポでは「哲学的カウンセラー」を主題としたほどである。しかし、われわれは小手先で、学生のニーズや社会の要請に応えようとしすぎてはいないか。学生の個性を真に尊重できる者は個性ある教師と研究者自身であろう。口先だけで大学改革を吹いている者の対応はタテマエをくりかえすか、項末な技術偏重の競争的いびり合いがほとんどである。森さんが京大教養部にいて存在感を与えていた往事がなつかしい。いま名古屋で開いている丸山員男の教え子たちの隔月の会に出ているが、彼らの丸山に対する尊敬の念は一橋大がやろうとしている学生が採点する教師の「通知表」の制度化からは決して生まれてこないだろう。

(『哲学と現代』19号、03 9 、のち『人民の力』779号、03 12 15 に再録)


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