室伏志畔著『王権論の向こう側』同時代社 20037月刊

目次

序詞    比喩と不死鳥・
この比喩としての大和は、女の恨みからきた知恵に似ている

第一章 ユダヤ教と天皇制 先駆編
この世で知恵を崇めるほど知恵のない話はない。ヴァレリー

第二章 「死海文書」の告発 捏造論
汝はそこに第二の死を呼び求める古の悩める魂の望みなき叫びを聞くべし。ダンテ

第三章 他言無用の秘事 敗戦後論
既成の国家の前には生成中の国家があったのであり、この生成中の国家こそが運動の原理なのである。オルテガ

第四章 原大和の祭祀形態 復元論
由来、運命の神は女神である。だからこれを支配するには撲ったり、突いたりすることが必要がある。マキァヴェリ

第五章 巨石と捏造者 飛鳥論
そうです。存在しているものに似せて存在しないものをつくりだす術こそまぎれもない詩ですよ。ディドロ

第六章 日本の南船北馬 グラフト論
二つの言葉のうち、つまらない言葉を選ぶこと。ヴァレリー

第七章 頭の黒い鼠の巣 舎人論
幸福が来たら、ためらわず前髪をつかめ、後ろは禿げているからね。レオナルド・ダ・ヴィンチ

第八章 天府の国の伝説 長江文明論
狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。チェスタートン

結語 終着駅の逆説
東アジア民族移動史の終着駅にあったこの列島が、いつから大和民族発祥の始発駅として売りに出されたのであろうか。

あとがき

序詞 比喩と不死鳥

かつてゴルゴダの丘で十字架に架けられた男を、神として招き入れたところにキリスト教社会が誕生したように、本国は一度は見捨てた故郷に似せて大和を新たにしつらえたとき、神国としてそそり立った。その神国に万世一系を謳われた現人神が闊歩するのは、イエスがキリスト教の中で神となったのと同じである。

キリスト教の成否はイエスの復活を喧伝するところにあったが、日本国においては大和の復活の一切は秘中の秘となって忘れられた。つまりこの隠された復活劇の中に、神国・日本の生誕の秘密はあったのだ。換言するなら、イエスが『新約聖書』から生誕したように、日本国の生誕の秘密のバイブルは一重に正史『日本書紀』に負っている。

 かくして、過ぎ去りし過去の、切は悠久の大和の歴史に回収され、一片の比喩と化した。この比喩の天地はあべこべで倫理は逆立することなくして不可能となった。これを知らずしてこの正史の森に分け入ることは、ミイラ盗りがミイラになることと同じで、森の住人にふさわしいそれぞれが青染みた瓢箪となるしかなかった。この森の住民はあの「薮の中」の話と同様にさ迷うほかないのは、森自体が一つの袋で、入り口こそが出口であったことに関わる。

このあべこべを理解せずに正史に分け人った者はことごとく、それを尊重して歴史を冒涜し、誉れある者について無頼漢となったのは、神国・日本が、ありのままの歴史を抹殺し、彼らのご都合史に君臨するならず者であったことによる。

 しかし、この厚かましさは、不死鳥が死灰から蘇るように、無頼の神々は敗戦による絶望を絶対者への帰依へとすり替える手品の内に胚胎した。この敗者復活の弁証法は、現実での救済を諦めた者に巣くった悪魔との密通物語の中にあるのは、ロシア文学が「大審問官」でつとに描いたところである。この逆説の弁証法がヨーロッパを席巻し、「悠久の大和」としての神国をアジアに捻りだしたのだ。その意味で世界は今もこの神学的世界の袋を脱したとは言えない。

 本邦の王権の由来を遡行しようとして、つかの間の楽しみに取った本が、この悪魔の囁きの秘密についての、思いもよらない告知をもたらした。その意味で、今回はのっけから私はめくるめくようなメルストロームの渦に呑み込んだ。私は樽ひとつに運命を任せねばならなかったポーの小説の主人公のように、いつ終わるとも知れぬ大渦に身を任せながら、意識は直角に遠心力の方向に向けていた。

 その直角の意識からすると、世界における神格化の契機は、敗戦の絶望のどん底を這いずり回った者の、「二度と飢えまい」と決意したあの女にも似た知恵の内にあったというべきである。それをメロドラマ風に開くなら、『風と共に去りぬ』のヒロイン・スカーレットの心に似ている。南北戦争で一切を失い、木の根を齧る惨めな日々を潜った女は、「私はもう決して二度と飢えまい」と神に誓ったように、敗戦後の絶望のどん底から逆転を狙う、暗い狡猾な秘策の中に神々を胚胎させたという意味で、この比喩としての大和は、女の恨みから出た知恵に似ている。「私にはタラがある」と故郷タラを残していたスカーレットはまだしも幸いであった。しかし半島の多羅を失った者は、この列島に豊を実現し、さらにそれを失うほかなかった彼らは、今度こそ悠久の遠い昔からの大和という、幻想の住民に自らをすることによって、大和中心の支配をそそり立たせた。それは失うことのない心の故郷の建設を通した、現在及び未来の簒奪としての天皇制の誕生であった。その意味で本書のBGMは「タラのテーマ」がふさわしい。

 この大和という比喩の袋の止揚は、それに分け人って事実を拾遺するのだけでなく、手袋の裏は手袋であったとしても、それを全く裏返し、正史を全体として包み込む作業なしに、過去の回復と現在の越境は不可能なのだ。この閉ざされた袋を私は時代の共同幻想と呼び習わしてきた。

 この幻想の比喩の袋の中で色合いをかえて配置された大和の置き石を、かつてあった九州の大和の原郷に戻しそれを復元する作業と、比喩として整地された大和に別の秩序を回復さす作業の中に、我々の歴史は手付かずのまま置かれているといえようか。それは1300年の昔を見通す千里眼にも似た想像力なしにはありえない。そんな能力が私にあるはずもないが、そのあるべき方向と方法について私は少しく提示しえたかと思う。

 しかし本書で私が捉えたものを実体化する商人は、たちまち木の葉と化した小判に泣くほかない。幻想的な価値は株価と同様に、実体化しようとするとき、たちまち裏切られるほかないのは、それが共同幻想で、個人の自己幻想と逆立するからにほかならない。

しかし今回のてんやわんやは、私が視野狭窄を直そうとしたことに始まる。馬は私の意を察したように、一千年の時間を見通す距離とこの列島を俯瞰するパースペクティブを私に回復する高みに私を案内し、宙天で足を上げいなないた。その眼下に地球を巻いて流れる大蛇のごとき黒潮が玄界灘で交点を結んでいた。私はそこに帆を立て蟻のようにうごめく無数のボート・ピープルの群れが、引きもきらず列島を指して行くのを捉えたのである。

 それはかつて草原の匂いがしたこの列島の王権の下に隠された、もうひとつの隠された海の香りを運ぶものであった。私は馬に身を任せその黒潮を遡行し、原アジアとも云える稲穂垂れる江南の地に至ったのは、「倭人は呉の太伯の後」とする漢籍を見たことにもよるが、そこは70年代後半から始まった長江文明の発見の現場で、私はその研究の成果を糧とし、思わぬことに長江上流の天府の国まで突き抜けた。

 そこから三種の玉器が現れ、またあの異様な飛び出た縦目の青銅仮面に象徴される王の名が、蚕や灌漑や鵜に関係したことは、この列島の王権幻想は、まずこの南方王権を踏まえて成立し、その上に北方王権が被さったことをそれ自体をして語らしめることとなった。思えば、我々が発する漢語の多くが呉音でしかないことは、いかに黒潮ロードを通り訪れた者が多かったかを暗示する。この遥かなる道の起源は我々が考えているより以上に古いのかもしれない。

 この南方倭人による王権の胎動を語るものが、九州の委奴国や、出雲王朝や越の国の成立であった。これらの国が韓半島経由の北方騎馬民族によって征服される話が、出雲の国譲りであり、九州の天孫降臨として、記紀は誇らしく書き留めたのである。つまりこの列島国家は、南方系倭人の上に北方系騎馬民族を戴く支配層が接ぎ木されたグラフト国家にすぎないのだ。これはこの列島における歴史の内部葛藤の主因を、あの南船北馬の抗争に求めるもので、それは取りも直さず、この島国の歴史が東アジア民族移動史の一齣でしかなかったことを語るものである。

しかし、八世紀初頭に成立した日本国の共同幻想を与えた正史は、敷島の誉れも高い大和の皇室から一切は流れ出したとする逆立ちした歴史を与えた。この袋状の歴史観の中にこの列島の住民は1300年も閉じ込められてきた。この思いもせぬ秘策を巡らし、その上に君臨する天皇制を構想した頭の黒い鼠の巣について、私は豊前の一小都市に注意を喚起した。

 そのハイパー・リアルな大和幻想の中を千数百年も生きなければならなかった民衆には、これは余りに遠い常識と言わねばなるまい。このどうしようもない逆説の内に現在も囲われてあるが、それを裏返すために私は、石をして叫ばしめるほかなかったというわけだが、人のお尻は一向に熱くならないのだ。しかし、この余りに遅過ぎた予言を、私は嘆くことなく堪えねばなるまいと思っている。(H 13616

 

本書についての添田馨さんの書評を『季報 唯物論研究』(86号 200311)より転載します。

評者・添田馨

進化し続ける幻想史学

室伏志畔『王権論の向こう側』を読み、今回あらためてあの、“明白すぎる謎”というものに思いを至らさざるを得なかった。例えば私たちの漢字の発音―「序詞」において室伏氏が

「思えば、我々が発音する漢語の多くが呉音でしかないことは、いかに黒潮ロードを通り訪れた者が多かったかを暗示する。この遥かなる道の起源は我々が考えているより以上に古いのかもしれない」

といみじくも述べているように、日本語の漢字の発音には「呉」音読みのものがかなり多く混在している。いまから二千数百年ほども過去に遡るこの大陸国家の発音がなぜ今に至るまで踏襲されているのか、というこの当たり前な事実が、時として地下にその全貌を隠した巨大な秘密の露頭でないとは誰にも言えない。

このような“明白すぎる謎”を前にして、その疑問を正面ではなくいわばものごとの裏面から解きほぐしていく細い道を想定するとすれば、私たちは王朝史そのものに対しても徹底して懐疑的に関わっていくべき必然性を否が応にも身にまとう結果となる。そしてこの道はそのまま「王権論の向こう側」にまで、私たちを確実に道案内してくれるはずだ。

 さても史学はその発展進化の過程を、必ずしも新たな遺跡や歴史資料の発掘発見にのみ負うものではなく、その多くを論理の展開力にも応分に負うものであることを、この一冊は私にまざまざと教えてくれる。

 室伏志畔のこれまでの歩みは、幻想史学という方法原理を文字通り零から立ちあげる一方で、それと表裏して新たな古代史像というものを同時的に、あたかも歴史の谷間を被いつくす錯誤の狭霧を吹き消すかのように切り拓いてもいくという、一刀両断の離れ業のまさに連射の進撃だった。むろん彼のそうした独自の思考がもたらす驚異の道行きとは、「伊勢神宮」から始まり「法隆寺」「大和」「万葉集」と続く一連の、“向こう側シリーズ”、既刊四冊の内にすでに十分な異彩を放ってはいるが、それにも増してこの『王権論の向こう側』は、ちょうどこれの前著に当たる『日本古代史の南船北馬』(同時代社)ではじめて全貌解明への端緒を見せた古代の日本列島を洗う東アジア、特に中国・江南における激動史の波を、さらにその嵐の中心にまで溯って検証しようとする稀有壮大な野心作だと言えようか。

本書は「あとがき」を入れても205頁ほどしかないコンパクトな外見をなしているが、その中身はぎっしり詰まった高性能の爆薬よろしく、危険きわまる論理の驚くような破壊力に満ちみちている。特に室伏氏が本書の第一章と第二章に、それぞれ「ユダヤ教と天皇制」(先駆論)および「『死海文書』の告発」(捏造論)のふたつの原理論を礎石として置いたことは、これから始まる「歴史」が単なる考証事実にとどまらない、あくまで、“思想として語られた歴史”であることを何よりも雄弁に物語っているだろう。

「人間はいかなる動物よりも幻想的動物であることを深く理解するなら、遠い原始の昔から、幻想的な撒き餌はふんだんになされ、その装置に大衆を取り込むことによって支配は成り立ってきたと思わないわけにはいかない」(18頁)

と述べる室伏氏が、フロイト晩年の論文『人間モーセと一神教』を導きの糸に、本来エジプトの太陽神・アートン信仰にその起源を有した一神教の伝統を、ユダヤ教は自民族の宗教神たるヤーウェに振り当てることによってあたかもそれを自己起源のものであるかのように取り込み、同時に偶像を禁止し破壊してエジプトに繋がる痕跡の一切を消し去ることで、悠久のユダヤ原理のもとへそれを詐術的に歪曲したのだと述べる時、そこに二重に透視されているのはわが『日本書紀』におけるまったく以て相似形の詐術、すなわち藤原氏による「天武殺し」と「悠久の大和史観」の造作創出という歴史内容のあからさまな歪曲の様相であったことは言を待たない。また、

「キリスト教徒であるヨーロッパ人にとってイエスを神格化した『新約聖書』がバイブルであるなら、日本人にとって聖徳太子を神格化した『日本書紀』は、まことに非宗教的なバイブルというにふさわしい。そしてキリスト教も大和仏教もイエスと聖徳太子を超ウルトラ化させる幻想の内に、民衆を呑み込むことを策するものであった」(56頁)

と述べる時も、やはりそこに重ね合わされているのは、もともとがその崇拝対象の弾圧者でしかなかった者が、当の崇高なる人物の死後にあたかも自分が正統的なその遺髪の継承者であるかのように聖典・史籍を造作改竄して立ち振る舞う姑息な姿、すなわちキリスト教においてはパウロと呼ばれたサウロ、そしてまた『日本書紀』においては藤原鎌足、不比等父子というこれら歴史内実の巧みな纂奪者たちのしたたかなその面貌であった。
 
 およそこうした思想的な背景をもって、室伏志畔の「王権論」もまた独力で走り出したのだ。そして私は、自分が見たところ、非常に重要にして画期的な論点と目される個所は、本書中に少なくとも三つあると踏んだ。一番目のそれは、第四章「原大和の祭祀形態」(復元論)にある「原大和史」に関するまったく新しい視点だ。すなわち室伏氏が「原大和」をその上古の昔から大和朝廷のものだったのではなく、それは「近畿の物部王国」だったのではないかとした点である。

 室伏氏はこれまでも、『日本書紀』が出雲史と倭国史をその「神代」の記述の内に取り込んだように、原大和史をもみずからかき消し、その上からさらに倭国東朝史をおおい被せて「悠久の大和史観」に繋いだのだと主張してきた。だが、そもそもの原大和史なるものが、いかなる人々の織りなすいかなる共同幻想に裏打ちされた社会体制であったのか、それ以上明確には述べてこなかった。今度の著作で、はじめてそれが一おそらく原大和の多氏は出雲の国譲りによって、国を失い四方に散った於宇(多)一族の中心が近畿に入ったものと思われる」というように、具体的な氏族名で取り上げられたのである。特に三輪山の太陽信仰の中心に位置する多神社について、次のように書いている点が興味深い。

 
「この春日神社の主宰者としての多神社の発見は、その主宰者を多氏とする。多はまた意宇、意富、於宇、太、大、と様々に書かれてきた。このとき私に、もし、それを東アジアに思考を開くときどうなるのかと、今まで想いもしなかった考えに捉われたとき、思いがけないことに新羅(伽耶)第一王朝の王家である朴(ほお)の字が頭をよぎった。それは今まで夢想もしなかったことで、私をさらに飛躍させずにはおかなかった。というのはこの幻視の先に捉えた朴王朝は紛れもない太陽信仰の王朝であったからである。」(94頁)

さらに二番目の重要な論点とは第六章「日本の南船北馬」にある、古代中国は江南・呉越の民の日本列島への到来が、倭国(九州)の成立とどう接点するのかという問題に関するより具体的な記述である。すなわち前著『日本古代史の南船北馬』で一度ダイナミックに描かれたこの構図は、さらにその幻視の精度を確実に向上させていると私には映ったのだった。その様子は次のように語られる。

 「しかし呉越の民はなぜ日本に向かったのであろう。私はその後の斉の方士・徐福の行動や、それから450年近くして、三国時代の呉の孫権が衛温と諸葛直に武装兵一万人を与え派遣したことを思うと、仙人の住むとされた三神山の蓬莱、方丈、瀛州は黒潮の流れる先に確かにあり、その蓬莱の夷州や亶州においてすでに徐福の子孫達が数万戸をなし、そこから会稽にきて商いをしている事実があったからである。実際、江南から黒潮に乗れば日本へは数日しか要せず、漁をして流された者は多かったと思われる。」(138頁)

 ここから室伏氏の幻視の想像空間はさらに北東へと延びていき、呉人が上陸して住んだ地が夷州つまり九州で、越人の最後に落ち着いた先が丹後半島以北の亶州すなわち越の国だったとする見解は前著の通りだとしても、さらに

「その夷州の中心地がわけても山跡と呼ばれ倭となった理由は、仙人の住む蓬莱、方丈、瀛州の三神山があるとされていたからで、かかる三山のある地は、夷州である九州においては香春三山をおいてなかったからである」

という決定的な言葉から窺えるように、ここに『大和の向こう側』で展開された、“原大和”の驚愕のヴィジョンが、見事に東アジア大の規模で、その遥かな円環を閉じむすんでいく様を私は望見するのである。

 そして三番目の刮目すべき最後の論点とは、第八章「天府の国の伝説」における、失われた長江文明のまっさらな原像に至りゆく室伏氏の一連の幻視内容だ。わが国の古代史の変動を東アジアの民族移動史との連関において捉えるべきだとの観点は、室伏氏がこれまでも声を大にして主張してきたところであるが、そのフォローされてきた圏域はいわば朝鮮半島までで、上述したように中国江南地方での呉越の滅亡という政治的激動を一部そこに反映させてはいたものの、大陸におけるそれはいまだ間接的な記述にとどまっていた感が強かった。それが今回、「天府の国」すなわち独自に発達をみた稲作文明を擁した四川省の「蜀」と本邦の古代国家との関わりの発見として、この問題がはじめて正面から捉え返されたのである。

 言わばこのことの思想的な意義は、私には計り知れないほど大きいのではないかと思われる。なぜなら、それはわが国の弥生時代における王権交代劇のさらにその向こう側に隠された古層の原=王権像を、はじめて真摯に描き出す端緒ともなりうるまったく新しい画期的な視点だからである。たしかに室伏氏自身も

「長江文明と本邦の稲文化の渡来を、具体的に呉越の民に関係づける説は、通説においても九州論者においてもまだしの感は否めない」

と述べているが、私たちの歴史観をこれまで大本のところで規定してきた司馬遷の『史記』がなぜか北方王権の黄河文明「夏」から始まっているように、明らかに南方に花開いた長江文明の記述の切り捨てによってそれが成立っている様を考えれば、昨今の中国における考古学的な長江文明の目をみはる発掘発見と相俟って、室伏氏の「天府の国」へのこの幻想の翼は、文字通り私たちの民族的起源と文化の淵源とをそのはるかな原郷にまで一気に拉し去るほどの衝撃力を秘めているのだと言えるだろう。

 幻想史学はこのように、その規模と内容とにおいて力強く進化し続けている。否、それは深化しつつ自らの生々流転を生きている、と言ったほうがよいかもしれない。


「幻想史学は自説のナルチシズムの使徒足ることを何よりも恥と考え、新たな知に常に頭蓋を開放することによって、それらどの立論に対しても浮草以上の評価を与えはしなかった。そしてただただ想像力をもって幻視することによって、それらの断片を一個の構造物に組み立てる論をなしてきたのである。しかしそれは一瞬の平衡感覚ともいえる危うさの内にあるので、幻想史学の立論をたやすく実体化する否や、それはまったく違ったお化けとなるしかないことは言っておかねばなるまい。」(89貞)

室伏氏のこの言葉は、私の耳にはじつに新鮮に響く、まさに氏のこうした言葉を待つでもなく、幻想史学は言葉のもっとも真摯な意味において、歴史への不断かつ徹底した、“批評”作業でもあることを、いま私は深く知らされるのである。

 

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