21世紀叢書第一弾       

              『鶴見俊輔ノススメープラグマティズムと民主主義 木村倫幸著 

 

                                  

 

             はじめに

 第 1 章 プラグマティズムについて
       ー 『 アメリカ哲学 』 (一九五 ○ 年)、[折衷主義の立場 』 (一九六一年)解題 
 
 第 2 章  民主主義について
       ―『私の地平線の上に 』 (一九七五年)

 第 3 章 アナキズムについて
       ー「方法としてのアナキズム」(一九七〇年)と「リンチの思想」(一九七二年)

  第 4 章   個人と組織の問題について
               ―『期待と回想 』 上(一九九七年)


 第 5 章  転向について
       ー「転向研究」(一九五九〜一九六二年)と[転向再論 』 (二○○一年)

 第 6 章  日本のアイデンティティーについて
       ー吉田満[戦艦大和ノ最期 』 (一九五二年)をめぐる論争

 第 7 章  家族について
       ー 『 家の神 』 (一九七二年)

              おわりに

                        はじめに

   グローバリゼーションの波が全世界を覆い、この中で一方においては近代的主権国家の垣根が、さまざまな地点で乗り越えられている。しかし他方においては、こういう状況であればこそ、逆により頑なにその垣根を高くして、壁を硬く塗り込めてしまおうとする傾向も存在する。

   とりわけ、日本においては近年、後者の傾向が強まっている局面がある。この緊迫度が強まりつつある現在、本書は、哲学者鶴見俊輔を考察の対象として取り上げる。

   鶴見は現役の思想家であり、また彼が第二次世界大戦後から今日にいたるまで、日本社会に対して、プラグマティズムの立場から積極的に発言を続け、そして「思想の科学」研究会や「べ平連」(「べトナムに平和をー市民連合」)、あるいは「自衛官人権ホットライン」といった活動によって民主主義運動、平和運動を実践してきたことは、周知の事柄であろう(後註参照)。

   鶴見にとっては、思想は「信念と態度との統一」であるとされ、その視点は、徹底した権力批判である。すなわち国家権力は言うに及ばず、いわゆる「正統的」マルクス主義が権威とみなされていた時代には、その権威化に対する批判として作用した。

  この点については、「正統的」マルクス主義が過去の遺物となってしまった今、正当に評価されるべきであろうし、現在では逆に、マルクス主義、民主主義そのものを見直す手がかりとしての存在意義を有していると言えよう。

 本書においても触れているが、鶴見には、自分自身の底に降りていった地点、「私的な根」からする見方があり、徹底した権力批判と民主主義もここから派生する。

 と同時にその「私的な根」は、時代とは無関係に真空に閉じこもって存在するものではなく、絶えず実社会の動きを反映する柔軟な性格をもあわせ持っ。この強固な「私的な根」が、現実の運動と結びつく時、そこには、巨大組織的運動とはならないが、しかししっかりした結びつきの粘り強い運動のかたちが生まれてくる。これが、現在にいたるまで鶴見が、地味ながらも脈々として続けてきた運動の特色となっている。この運動においては、メンバーの互いの意見、立場の違いは、そのまま違いとして認めあう姿勢が重要であり、このことが、戦後日本の社会変革運動に欠落していた視点を提示する。

 そしてこの視点は、とりわけ日本の知識人のあり方に対する非常に厳しい批判を伴い、それは広く明治以降の近代社会の教育制度、知的態度にまで及ぶ。それは「私的な根」が現実の状況に関わる際に立つ、「状況から考える」というスタンスであり、原理原則のみに固執しないという姿勢である。

  すなわち固定化した厳密な思想基準を定めて、そこから外れたものは一切顧みないという、純粋真正な態度を目ざすのではなく、生活においては常に「アイマイさ」や「雑多さ」が付きまとわざるを得ないという自覚を持って進んでいくことであり、これは必然的に、近代日本社会が進んできた道とはぶつからざるを得ない。

 鶴見は、この点において日本の近代化が欠落してきたものを指摘し、これを看過し続けてきた体制と知識人のあり方を批判する。その視点には、確かに現在のわれわれが学ぶべき多くの教訓が含まれており、伝統的とも言うべき旧左翼の社会変革運動が衰退した現況においては、この視点の再評価が必要であろう。

 本書が鶴見を取り上げたのはこの意味においてである。しかし同時に、鶴見の視点の考察にあたって、現下の運動のあり方との点で、いくつかのすれ違いのようなものを感じざるを得ないというのも正直な印象である。

 鶴見の、民主主義のあり方、権力への抵抗、「状況から考える」柔軟な発想等々という視点に説得力があるにもかかわらず、そこには、何か割り切ることのできない歯がゆさが存在するようである。

 それをここで詳述する余裕も能力も今のところ不十分であるが、次のような点にその問題があるように思われる。以下、本書の論点を少 々 先取りすることになってしまうが、予め触れておきたい。

 ( l ) 鶴見の権力に抵抗する視点を考える時、それが「権力」に対する「反権力」ではない点がある。というのも、鶴見の視点からすれば、「権力」に対して「反権力」ということで別の原理原則を持ち出してきて反対することは、その別の原理原則が、取りも直さず「新たな権力」として確立してしまうことになるからである。それゆえ鶴見は、「権力」に対する「反権力」ではなくて、「非権力」ということを提唱する。この視点は、現在支配的な西洋中心主義に対する批判の視点ー西洋と東洋の二項対立を乗り越えようとするサイードのオリエンタリズム論やウォーラスティンの世界システム論に通じる側面を持っている。

 その意味で、鶴見の視点の先見性は否定すべきもないが、しかしそれであればこそ、そこに現存する権力との区別、対決がアイマイになってしまうことが出てくるのではないかということである。いわば運動に付きまとう負の側面をどう考えるべきかということが、「権力」、「反権力」、「非権力」の現実の力関係で絶えず問われなければならない。このことは、現在活動中の数多くの NGO や NPO にも関係する問題であるが、鶴見の時代のサークルよりももっと現実の社会的諸関係が入り組んでいるこれらの活動では、特に重要な問題であろう。

 ( 2 ) 個人と組織との関係で言えば、右の事柄は組織内での民主主義につながる問題である。「非権力」ということで、サークルなり集団なりが活動するとして、その内部においても「非権力」が貫かれるシステムをどう作っていくのか、これが問題となる。

 集団内にファシズムを生み出させないための民主主義の保証は、鶴見によれば、その集団が閉じられたものではなく、社会とつながっていること、そして集団の規模としてメンバー同士が互いに顔見知りの間柄になる程度の大きさとされる。

 しかしそこにおいても外部からの介入、あるいは内部での権力構造が形成されないという保証はないのであって、固定されたメンバーではないが、しかし継続性を持った集団とは、内容上で矛盾を含み、実際には維持がきわめて困難なものとなる。外部権力の介入を阻止しようとすれば、その集団は、ある程度閉じられたものにならざるを得ず、そうなれば内部でヒエラルヒーが生じる可能性が大となる。しかも集団の規模からして広がりにはある程度の限界が生じることになる以上、これは深刻な問題であると言わざるを得ない。

 社会運動における個人と組織との問題については、現在ではこの鶴見の視点をも包摂していくことのできるような視点、アソシエーション化と脱アソシエーション化とを含み込んだような過程が要請されている。これは今後のわれわれの課題でもある。

( 3 ) 以上のような諸問題の基礎に、鶴見の視点を特徴付ける「アイマイさ」、「雑多さ」の問題を見ることができよう。日常的世界において運動を続けていく以上、そこにはどうしても「アイマイさ」、「雑然さ」が残らざるを得ないことは確かであり、また真正深淵の思想のみを求める立場に対しての批判という意味では、この視点はそれなりに価値があるが、しかしその「アイマイさ」を「アイマイさ」のまま何処まで持っていけるかという問題が、実はここから出てくる。すなわち「アイマイさ」の存在とは、融通無碍の解釈へと流れていく可能性を絶えず有しているということであり、現実には先ほど指摘した権力との関係で、どうにでもなってしまう危険性もあるということである。これに対する厳密さという規定が、運動の場合に硬直性を招くとしても、ルーズな組織では、やはりその程度が問題とされねばならないであろう。

 この意味で、運動における「アイマイさ」と厳格さの基準を、別の視点から―例えば、客観的諸条件と主観的確信の程度の統計的確実性という問題の立て方も可能であろう、―検討していく必要もあると思われる。この点については、「アイマイさ」の今日的考察が不可欠であろう。

 

  以上のように、鶴見の視点には、その有効性とともに、現時点の運動から見てのずれも感じられる。しかしそのことを押さえた上で、そこにはなお多くの評価に値する見地と現代のわれわれの運動に対する示唆がある。本書は、このような鶴見の思想をできる限り具体的な問題とからめてとらえることを試みた。

 すなわち、第1章「プラグマティズムについて」では、鶴見の基本的な視点をなす思想、プラグマティズムの概観を説明し、その「折衷主義的方法」としての機能を特徴づける。

 第 2 章「民主主義について」では、「生活」に根ざした庶民の民主主義について考察する。

 第 3 章「アナキズムについて」では、鶴見のいう民主主義の徹底としてのアナキズムが、「抵抗としてのアナキズム」であり、文化運動を含んだかたちでの現代社会批判にまで広がっていくことを解明する。

 第 4 章「個人と組織の問題について」では、個人が組織を考える場合に、個人において「自分を分割して」「分裂して考える」ことが、組織における「アイマイさ」「雑然さ」すなわち包容力の容認という姿勢につながっていくことを指摘する。

 第 5 章「転向について」は、転向・非転向の分析から、日本社会の構造そのものがあぶりだされてくることを確認し、その意味づけを探る。

 第 6 章 「日本のアイデンティティーについて」では、吉田満『戦艦大和ノ最期』をめぐっての日本のアイデンティティーの論争を題材として、鶴見の民族・国家・政府についての姿勢と批判の視点を解明する。

  そして、第 7 章「家族について」では、鶴見の出発点である「私的な根」に戻って、日常生活からの批判の視点と問題点を再確認する。

 本書は、このような諸側面から鶴見の思想をとらえようとするが、当然のことながら、そのすべてをとらえきれているわけではないし、最も根幹に触れる側面について、少しでも切り込むことができておれば幸甚と言うほかない。けだし日本の民主主義を考える上で不可欠の思想家と言える鶴見の思想を理解する一助となればとの思いである。

(註)鶴見が関わった主な戦後社会運動等は、次の通りである(鶴見俊輔 『 期待と回想』下巻、「主な作品年譜」参照)。

一九四五年 雑誌 『 思想の科学]創刊に参加(一九九六年休刊)

一九六○年 市民運動「声なき声」発足に参加。日米安保条約決議に抗議して、東京工業大学助教授を辞任

一九六五年 べ平連(「べトナムに平和をー市民連合」)発足に参加

一九七〇年 大学闘争において大学当局による機動隊導入に抗議し、同志社大学教授を辞任

一九七四年  「金芝河の会」発足に参加

一九八三年  雑誌 『 朝鮮人]発行を飯沼次郎から引き継ぐ(一九九一年終刊)

一九九○年  「自衛官人権ホットライン」発足に参加

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