『陸軍・秘密情報機関の男』岩井忠熊著 新日本出版社

はしがき

私の義兄・香川義雄は、敗戦時に陸軍大佐・南方軍総司令部の参謀だった。しかし、いわゆる戦史にちらりと名を出すことはあるものの、有名軍人ではない。隊付将校として部下をひきいて戦闘に参加した期間は、「満州事変」で九カ月、対米英戦のシンガポール攻略戦で四カ月程度である。十五年戦争期の現役将校としては短い期間だったといえる。陸軍省兵務局に勤務した時を除いて、中央官衙で働いたことはない。陸軍省にいた時、香川のした仕事は、省内や参謀本部でもごく一部の人しか知ることのできない秘密の任務だった。その仕事は、のちに述べる十三冊の大学ノートに香川が残した手記で、みずから「陸軍の水商売」「陸軍の裏街道」と称する特殊な任務であり、国内にあって対外諜報の組織をつくり、勤務員の養成機関を設立するというものだった。

 香川の軍歴のもうひとつの特色は、関東軍司令部付として、いわゆる「満州国軍」顧問を二度つとめたことである。最初は「最低顧問」といわれながら、交通不便な北部「満州」の山奥で「満軍」と起臥を共にして、治安工作や対ソ偵察にあたった。香川は中国語を知らない。しかしこの経験で異民族とのつき合い方をおぼえたらしい。きわどい危険を何度も経験したことはもちろんである。また現地に在住する日本人や、いわゆる日系官吏の協力を得なければつとまる仕事でなかったから、自然に民間人(軍では地方人とよんだ)との交流を深めることになり、その経験は陸軍省へ転出後に大いに役に立ったようである。その時には長髪・背広服姿で、民間人とのつき合いが仕事のなかばをしめることになったのである。

二度目の「満軍」顧問は、顧問部の事実上の幕僚であり、予算折衝、制度立案等、また腎細ための日本陸軍の中央との連絡が主な仕事だった。「満軍」そして「満州国」がいかに日本の傀儡だったかを物語るような話である。

 シンガポール攻略戦は陸軍の緒戦の大作戦だった。そこで香川は、師団の先任大隊長としてジョホール水道渡河の第一陣の任務を果たしたが、重傷を負って日本本土に後送され、辛うじて全治した。ついで南方軍の岩畔機関(のち光機関と改称)で対インド施策にあたることになる。インド国民軍との協働は、「満州」での異民族工作の経験を買われてのことだったようだが、間もなく戦局不利におちいり、遊撃戦に転じた。インパール作戦後は敗退をつづけ、ついに敗戦となった。香川は、抑留ののち帰国したが、もはや陸海軍は解体され、故郷に帰るしかなかった。

香川手記の文章は、越後のお国なまりのままである。人柄をしめすかのように、往々にして「い」と「え」の区別があいまいである。家庭と市井での香川は、おだやかな人柄であり、軍人としての特異な経歴を知らない人には、ただの好好爺と見られたであろう。だが私は、香川がそのような道をあゆむことになる一つの契機となった、三人の弟たちの治安維持法違反事件とともに、やはり日本近現代史のかくれた一面として記録しておかねばならないと思いたった。

歴史はかならず繰り返すというわけではない。しかし歴史の教訓を無視すれば、悪い歴史が繰り返すことがある。戦後の香川は明らかに十五年戦争のあやまちを後悔していた。そのことで香川は治安維持法の犠牲となった弟たちと共通の思いに到達できたのではあるまいか。たとえそこに多少の弁明がつきまとっていたとしても、あのあやまちを繰り返すことには反対だったと信じている。香川の妻だった著者の姉・美智子の一周忌も間もなくめぐってくる。地下の両人がこの小著を笑って甘受してくれることを願ってやまない。

 この書物の刊行にさいし、新日本出版社の志波泰男氏から格別の御協力を得たことに感謝する。

敗戦60年、2005年の新春

洛西御室にて          岩井忠熊

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