中国思想史講座

         

序にかえて.中国の神話
やすい ゆたか


 

一.天皇大帝について

 

 天皇は 皇帝よりも 上なるを 皇帝はばかり名乗るものかは

中国の神話は、『山海経』やその他諸子百家などの書物の中に散りばめられていますが、『古事記』『日本書紀』のように統一的なものではありません。それは地理や歴史や思想を説明するために伝説を利用したり、神話を作り出したものなのです。中国では古い神話である三皇五帝の話を歴史的に実際あった話と考えたりはしません。もちろん日本でも『古事記』『日本書紀』の神代の話は作り話に過ぎないわけですが、神武天皇と諡されたイワレヒコが東征した話だとか、大国主命の説話などは実際の歴史が混ざっているのではないかと思われる傾向がありますね。

もちろん歴史的な伝承が全く史実ではないとは言い切れません。それを否定する史料がない限り、日向からの東征や出雲勢力による北陸・信濃・畿内・山陰・瀬戸内にまたがる大国が存在したことをことさら否認することはないでしょう。しかし神話的な伝承には明らかに海外から伝わった話を取り入れて、話を面白くしたり、神話を作る勢力に都合よくしていることもありますので、神話をそのまま史実と受け取ってしまうことはできません。

例えば木花咲夜姫と磐長姫を妻にするように大山祇神に差し出された邇邇芸命が美しい木花咲夜姫とだけ結ばれて、醜いからと磐長姫を帰してしまい、鏡を見て磐長姫が悲観して自殺するという話はバナナをとるか石をとるかという説話の一変形ですから、実話ではありません。レヴィ・ストロースは 銀鏡神楽(しらみかぐら)でこの日向神話の神楽を見て、ひょっとしたら実話ではないかと思ったらしいのですが、これは記紀神話ができてから、その地方に記紀神話を素材にした神楽が作られたと解釈するのが自然です。

その意味で中国や朝鮮、東南アジアの神話を知っておきますと、日本神話に取り入れられているものとか、海外からの影響を考慮すべきものとかが分かりますから、安易に史実と見なさない方がいいことも分かります。

また日本文化は仏教導入で、道教の影響が少なくなったように思われがちですが、日本神話というものが、中国の神仙思想の文献を参考にして作られているわけですから、道教の影響は決して少ないとはいえません。天皇という呼称もそうですから。道教では天皇大帝(てんおうだいてい)という北極星信仰があります。これが天帝とも呼ばれ道教の最高神なのです。

『古事記』では最初に登場する神が天御中主命で、北極星です。これは道教の影響と考えられますね。それが天皇となって日本の帝位を現すようになったわけです。それは皇帝が中華思想で中国皇帝にのみ許されるからだという解釈をしがちですが、その解釈は間違っているようですね。小野妹子が遣隋使で言った時に「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや」という場合、「天子」という表現が問題になったわけです。隋とすれば倭は冊封を望んでいるはずだと思っていたのに、対等の付き合いを望んできたので無礼だと考えたわけです。

対等で行く以上は天子でも皇帝でもいいわけで、それが無礼だと感じれば、煬帝の選択肢としては、遣隋使を殺して、倭を討伐してもよかったわけですが、そこは倭国の方も高句麗に手を焼いているのを知っていましたから、冊封を受けずに朝貢するという、道を選んだわけです。「東天皇敬白西皇帝」という書も携えたわけですが、この『日本書紀』の記述は後世の潤色とも考えられます。対等でも問題なのに、天皇という天帝を意味する称号を名乗るのは、隋や唐の皇帝に対して失礼です。

ですから「天子」や「天皇」は使えないので対外的には「皇帝」を使用したことになっています。律令ができてからは、律令の決まりでは「天皇」は詔書に記述される称号で、対外的にはつまり華夷に対しては「皇帝」を使うことになっています。岩波書店から出ている『日本思想大系3 律令』の「令巻第七 儀制令 第十八』

「天子。祭祀に称する所。天皇。詔書に称する所。皇帝。華夷に称する所。陛下。上表に称する所。太上天皇。譲位の帝に称する所。」とあります。これによりますと唐に対しても「皇帝」と称していたということになりますね。日本は朝貢はしていても、唐の冊封を受けていませんから、倭王とか日本国王を名乗らなくてもいいのです。ただ中国としては冊封を受けていなくても、皇帝は二人といない立場ですから、「皇帝」を日本国王が称することには反発はあったはずです。

天皇を名乗ったわけはやはり国内向けに神格化したかったからです。それは天御中主命の末裔という意識があったのかもしれませんね。天皇家は天照大神の末裔ということになっていますが、太陽神は物部氏の祖先である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)だったわけです。

それが女神の太陽神になったのは持統天皇の頃からではなかったかと言われています。と言いますのは、持統天皇は孫の軽皇子に帝位を継承させるためにそれを合理化する神話を求めたわけです。それが天照大神が孫の邇邇芸命に地上支配権を与える天孫降臨説話です。ここで主神は北極星から太陽になり、しかもそれは女神で皇室の祖先神だったことになったわけです。

なぜ太陽神を主神にしたかと言いますと、物部氏は蘇我氏との内戦に敗れて弱体化しましたので天皇家が女神にした太陽神を祖先神にしても文句がいいにくくなっていましたし、河内・大和は元々太陽神信仰が盛んでした。それに圧倒的な勢力になってきた仏教は盧舎那仏(ルシャナブツ)でも大日如来でも阿弥陀仏でも無量の光としてイメージされていまして、太陽信仰と習合し易かったといえます。

つまり私の推理では天皇家の祖先は北極星信仰の海洋民族だったということです。ところで中国では皇帝の祖先神を天帝にするというような信仰はありません。その代わり、天帝が天命を降します。天命を受けたものが地上の支配者として天帝の子として天子と呼ばれるわけです。この天命は天子の子に継承されますが、やがて天子の徳が衰えますと、天命が別の人に降って新しい家系の人が天子になります。この天命が革まることを「革命」というのです。だから「革命」の元々の意味は、支配者階級が入れ替わるようなrevolutionではないわけです。

日本の場合は、地上の皇帝が天帝ですから、天命が薄れて天皇に徳がなくなるということは原理的に想定していないわけですね。それで「万世一系」で天皇家の支配は続くというイデオロギーにしたのです。これが皇国史観ですね。

 

二.『荘子』の渾沌説話

 

 渾沌は渾沌のまま永久なるを竅を鑿たばはかなきものかは

まず『荘子』「内篇応帝王篇」より渾沌説話を紹介しましょう。

南海之帝為儵,北海之帝為忽,中央之帝為渾沌。儵與忽時相與遇於渾沌之地,渾沌待之甚善。儵與忽謀報渾沌之コ,曰:「人皆有七竅以視聽食息,此獨無有,嘗試鑿之。」日鑿一竅,七日而渾沌死。
【読み下し】 南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽と為(な)し、中央の帝を渾沌(こんとん)と為す。儵と忽と、時に相与(あいとも)に渾沌の地に遇う。渾沌、之を待つこと甚(はなは)だ善し。儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを謀りて、曰わく「人皆七竅有りて、以て視聴食息す。此れ独り有ること無し。嘗試(こころ)みに、之を鑿(うが)たん。」と。日に一竅を鑿つに、七日にして渾沌死せり。

混ざり合って、まだ分かれていない存在の始原の状態が渾沌です。儵と忽といずれも束の間という意味で、我々一人一人は束の間の人生を生きているわけです。そういうふたりが雄大なる渾沌の世界に招かれて、大変感激したわけですね。束の間の人生だけど、何か言い知れない渾沌に悠久を感じたのでしょう。それで渾沌に感謝しまして、その徳に報いるために、見たり聴いたり食べたり息をしたりするための穴を開けてあげようということになったのです。一日一つの穴をあけていきましたら、七日で渾沌は死んでしまったということです。つまり観たり聴いたり食べ分けたり、匂いをかぎ分けたりしたら、物事がはっきりしてきますから渾沌ではなくなってしまいますからね。

この話は世界の始まりは渾沌だったという神話を荘子が道家の立場を説明するために使っているのです。ですから大自然は渾沌のまま体感するから素晴らしいので、悠久を感じることが出来るけれど、それを対象化して事物として認識しようとすれば、それは相対的事物に堕してしまうので渾沌ではなくなり、悠久はもう感じられないということですね。

 

三.盤古説話

 

 日も月も獣も吾も盤古より生まれしものか命ひとつの

 もし世界の始まりが渾沌だったとしますと、それに穴をあけたりして秩序をもたらす者が登場することになります。それが盤古です。ただ『史記』には盤古は登場しません。呉代(三世紀)に成立した神話集徐整著『三五歴紀』が最初なので、説話が何時作られたのかは正確にはわかりません。似たような話がヒンドゥー神話にもあります。プルシァ(原人)神話です。

それは創造神は宇宙を作る前にプルシァつまり原人を作ったという神話です。原人が死んでそこから太陽や星や神々やバラモン(祭司)、クシャトリヤ(武士)、バイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷)が生まれたということなのです。実はこのプルシァ説話は大乗仏教に大きな影響を与えていると私は解釈しています。なぜなら最初の人間から宇宙や神々や人々が生まれたとしたら、宇宙は元々が一つの人間の体ですから、宇宙や大自然や神々や人々と深く繋がっていると信じることが出来ますから、我々の行為や祈りが通じるのではないかという信仰につながります。それで大乗仏教でも覚りに達した人つまり仏陀は、法と一体化します。法はいわば宇宙の摂理ですので、仏陀はプルシァのように全宇宙に成っているわけで、塵芥にいたるまで御仏の現われでないものはないわけです。つまり「一切衆生悉有仏性(いっさいの生きとし生けるものはことごとく仏であるという本性を持っている)」ことになります。

盤古説話が紀元後にできたとしたらヒンドゥー教や仏教の影響が十分考えられます。でも盤古説話はもっと古いという解釈もあります。いわゆる易経でいう陰陽五行説があります。陰陽と五行で宇宙の摂理を説きますが、盤古説話は陰陽説はあっても、五行説がないので、陰陽説が出来て、まだ五行説が出来る前の説話だということです。
「祭祀権と統治権が不可分だった古代の統治者には、易の基本原理である陰陽五行説は習得すべき必須の神秘科学であり、陰陽説は西周時代に、五行説は春秋時代に広まったと考えられる。従って、盤古神話の誕生は五行説が発展する春秋時代以前に誕生したと思われる。」(堀貞雄の古代史・探訪館http://members3.jcom.home.ne.jp/horisadao/
 では史料をまず紹介します。堀貞雄さんのサイトを利用させていただきました。訳文は変えてあります。

「三五暦紀」

 天地渾沌如雞子、盤古生其中。萬八千、天地開辟、陽清為天、陰濁為地、盤古在其中、一日九變。神於天、聖於地。天日高一丈、地日厚一丈、盤古日長一丈。如此萬八千、天數極高、地數極深、盤古極長。后乃有三皇。數起于一、立于三、成于五、盛于七、處于九、故天去地九萬里。

 天地は渾沌として雞(とり)の卵の中身のようでした。盤古はその中で生れたのです。一万八千年を経て、天地が開けると、陽(あきら)かで清らかな部分は天となり、暗く濁れた部分は地となりました。盤古はその中間にいて、(足で地を踏ん張り、手で天を支えていたのです。)一日に九回変化したのです。天では神、地では聖となりました。天は日に一丈高くなり、地は日に一丈厚くなり、盤古は日に一丈背が伸びたのです。このようにして一万八千年を経て、天は限りなく高く、地は限りなく深くなり、盤古は伸長を極めました。
 後になってから三皇が生まれたのです。一にして数え始め、三にして立ち、五にして成り、七にして盛んとなり、九にして場所が定まりました。それ故に、天と地は九万里(四万五千キロメートル)離れたのです。

「五運歴年記」 

 首生盤古、垂死化身:氣成風雲、聲為雷霆、左眼為日、右眼為月、四肢五體為四極五岳、血液為江河、筋脈為地里、肌肉為田土、髮髭為星辰、皮毛化為草木、齒骨為金石、精髓為珠玉、汗流為雨澤。身之諸蟲、因風所感、化為黎氓(民)。 

 初めに盤古が生まれ、死が近づくと化身しまして、吐いた息は風雲に、声は雷鳴になります。そして、左目は太陽、右目は月になります。手足と胴体は四方の極地や五岳となり、血は河川、筋と血管は道に、皮膚は農地になりました。髮髭は星辰になり、産毛は草木になります。歯と骨は金属に、精髓は珠玉になり、汗と涙は雨や露に化身したのです。身中の寄生虫は風によって各地に広まり、多くの民となったのです。 

「述異記」 

 (前省略)支撐著天和地、使它們不再回復為過去的混沌状態。盤古開天闢地後、天地間只有他一個人。天地隨著他的情緒而變化。他高興時、萬里無雲;他發怒時、天氣陰沈;他哭泣時、天就下雨、落到地上匯成江河湖海;他嘆氣時、大地上刮起狂風;他瞬瞬眼睛、天空出現閃電;他發出鼾聲、空中響起隆隆的雷鳴聲。 

 (九万里離れた)天と地を盤古は支え続けまして、再び過去の渾沌状態に戻らないようにしていたのです。盤古が天地を開いて後は、天と地の間に彼一人しかいなかったのです。天地は彼の情緒に応じて変化します。盤古が上機嫌の時には万里に雲なく、怒りを発すれば天は暗く沈みました、あんあんと泣けば天から雨が降り、地上で河川、湖沼、海洋ができたのです。彼が嘆けば大地は暴風が巻き起こり、目をまばたけば天空に雷光が現れ、鼾をかけば空中に雷鳴が轟きました。  

『日本書紀』の天地開闢説話は次のように記されていますから、「三五暦紀」を利用して作ったことは明白ですね。

古天地未剖。陰陽不分。渾沌如鶏子。溟■而含牙。及其清陽者薄靡而爲天。重濁者淹滯而爲地。精妙之合搏易。重濁之凝場難。故天先成而地後定。然後神聖生其中焉。

「昔、いまだ天地が分離せず、陰陽も分割していないとき、渾沌たることは鶏子のごとくだったが、その清く陽かなるものは天となり、重く濁れるものは地となった。天が先ず生成し、後に地が定まると、その後、神聖がそこに誕生する。」

「五運歴年記」に次の『古事記』の記述は由来している言えますね.ですから盤古説話を参考に国生みや三貴神誕生などが書かれたのです。

「左の御目を洗いたまう時に成りし神の名は、天照大御神(太陽)。次に右の御目を洗いたまう時に成りし神の名は、月読命(月)。次に御鼻(みはな)を洗いたまう時に成りし神の名は、建速須佐之男命(海)。」 

 ただし盤古説話は原人が宇宙の元であるというプルシァ神話に近いですから、セックスで国生みや神々を生むというのとは違いますね。ところが盤古神話は少数民族壯族(チワン族)にも伝承されていまして、それは兄妹なのです。チワン語では兄妹を「盤勾」といいます。盤は磨刀石、「勾」とは葫蘆(ひょうたん)のことです。

 これは洪水説話でもあるのです。洪水でみんな絶滅しますが、葫蘆の内部にいて兄妹は幸いにも洪水から生き残ったそうです。それで兄妹しか生き残らなかったので、結婚したわけですが、磨刀石のような肉槐が生まれたというのです。それを砕いて撒きますところ、たくさんの人々に成ったということです。それで人類の繁殖が始まったそうです。

 チワン族の伝承が洪水伝説で古いのか、伏羲、女媧伝説の方が古いのかは分かりません。まあ常識的に考えますと、盤古説話は創世説話ですね。それで盤古の体から人間も出てきたわけです。それで洪水で生き残ったのがまた盤古では辻褄が合いません。そこは伏羲、女媧伝説に譲って欲しいですね。ところが盤古の元々の意味が兄妹だというのですから、そしたら天地を分けた盤古も兄妹二人だったことにして欲しいですね。まあ中国の神話は国家が権力の正当化のために体系づけて作ったのでないので、いろんな話があるということです。 

四.伏羲、女媧伝説

 

 洪水に兄と妹生き残り夫婦となりて命引き継ぐ

 『史記』の著者は司馬遷(紀元前一三五〜前八七年)です。彼は「三皇五帝」のうち「三皇」を荒唐無稽な伝説だという理由でカットしました。「五帝本紀」から書いているのでする。ですから、『史記』の冒頭の三皇の記述は、唐時代の司馬貞が補筆したのです。どうせ歴史を書くのなら実際にあったと思われる歴史を書くべきだということですね。

 大昊伏羲の「大昊」は、太陽神のことです。東夷、三苗、華夏という三つの民族集団がありました。そのうち太陽神信仰は東夷でさかんな信仰でした。三苗では夫婦神信仰がさかんだったようです。伏羲、女媧の夫婦神信仰は三苗の信仰だったということです。華夏にはしっかりした信仰対象はなかったのですが、中心部の中原を抑えたのですから、中国を支配するためには農耕民族ではさかんだった太陽神信仰を取り込んだということです。農業ではなんと言っても太陽の恵みと水の恵みが大切です。また元々は三苗の夫婦神だった伏羲、女媧を華夏の信仰に取り込んだということですね。 

 伏羲も女媧も体は蛇で首から上は人になっています。これはふたりの出身部族のトーテム動物が蛇だという意味なのです。蛇は大地の化身ですから、蛇をトーテムにしていた部族は多かったようですね。日本でも三輪山の御神体は白蛇です。それで大物主命も蛇に変身します。蛇は土壌を守り、豊作をもたらすものとして信仰されています。夫婦神というのも生殖のパワーで豊饒をもたらすわけです。蛇信仰も夫婦神信仰も大地の生む力の現れですから、大地母神信仰と習合されます。日本の記紀神話では高御産巣日・神産巣日という結びの神と、イザナギ・イザナミの夫婦神が習合されています。

伏羲と女媧という兄妹が結婚した理由は、大洪水にあります。ノアの大洪水ではノアの一族が生き残ったのですが、伏羲、女媧伝説では洪水に備えて、瓢箪の種を蒔き、、瓢箪の船の中で生き残ったということです。実はこの大洪水の原因は、彼らの父親が猟師で雷神を捕まえたのです。それを閉じ込めて水を与えないようにしていたのですが、監視に当たっていた兄妹があまりに苦しそうだったのでほんの少しだけ与えると、雷神は元気になって脱走しました。助けてくれたお礼に瓢箪の種をくれたのです。この世で生き残ったのは二人だけだったので、結婚して子供作る必要があったのです。

中国の神話は官製ではないので、統一性がありません。『史記』の唐代の司馬貞の補記では伏羲、女媧は兄妹とも書いていませんし、女媧が女だともしていないのです。それは女性が皇では都合が悪いと考えたからかもしれませんね。

チワン族の洪水伝説では、伏羲、女媧という兄妹が洪水で生き残って、その子孫が増えたという話があります。玉皇大帝を手伝って泥をこねて人間を作ったという説話もあります。玉皇大帝というのは天帝のことですが、皇帝の神格化みたいなもので、天上界の絶対的支配者として宋代に構想されたものです。

そこで面白いのは最初のうちは一人ずつ丁寧に作っていたのだけれど、だんだん面倒になって、縄で泥をかき回し、その縄から滴り落ちる泥の塊が人間になったということです。一人ずつ丁寧に作られた人は王侯貴族になり、泥縄式に雑に作られた者は庶民になったという話ですね、これは後漢『風俗通義』にのっていて宋代よりも古いですね、ともかく元々の古い説話では兄妹の夫婦神の子孫が人間になったというものだったのです。

大昊は太陽神で、体は蛇で、夫婦神で、ノアのような現在の人間の祖先でもあるわけで、三皇ということで最初の統治者でもあるわけです。矛盾だらけで支離滅裂と思われるかもしれませんね。それは太陽と太陽を祭祀する祭司者が一体視されるということです。つまり太陽の意志を体現するものとして祭司が振舞うわけですね。蛇身というのはおそらくトーテム信仰で蛇とその部族が共通の祖先を持つと信仰されているわけです。つまり蛇の生まれ変わりとか、死んだ ら蛇に生まれ変わるとか思い込み、蛇神に守られていると信仰しているわけです。そういう祭司が政治的にも統治権を持っていたということになりますね。

しかし洪水で伏羲、女媧しか生き残らなかったのなら、支配された人民はみんな彼らが作った人間だけですから、まだ家族のようなものだったことになりますね。だから二人はただの人間ではなく、相当長く生きて大勢の人民を支配するような神でもないといけないことになります。

伏羲が最初の皇とされるのは人類に文化を与えたからでしょう。
「仰いでは天象、俯しては地法を観察し、鳥獣の模様と地の形勢を見極め、近くは自身を、遠くは事物を参考にして、易の八卦を発明した。」
「木に文字を刻んで約束する方法(書契)を作って、縄を結んで記録とするそれまでの方法に代えた。」
「婚姻の制度を定め、一対の皮を互いに交換するならわしを定めた。」
「網を発明して、漁業を民に教えた。」
「三十五弦の瑟を作った。」

などと紹介されています。彼がどうして死んだのかは分かりません。女媧が皇位を引き継いだのです。そして大変苦労しています。

 女媧の末年には共工氏という諸侯が智謀にたけ強大になって、覇者になり、女媧を攻めます。女媧は木徳なので共工氏は水徳だといって洪水を起して、押し流そうとするわけです。しかし火徳の祝融氏に敗れます。それで怒りくるって自分の頭を不周山にぶつけて山を崩してしまいました。この山が天を支えていたので、天地が傾きまして、これを女媧が補修した女媧補天説話が『史記』や『淮南子』覧冥訓に伝えられています。

 これらの説話から国家統治者の原点として制度立った文化を整える、治水治山などの公共事業を組織できることが肝要だということが分かりますね。
 

五.太陽の母和、扶桑国日本


 

 東海の水甘き島扶桑国母は産めるや十の太陽

羲和は、中国古代の秦から漢の時代に書き足されたといわれる地理書『山海経』に記載のある太陽の母神です。東海の海の外、甘水のほとりに羲和の国があり、そこに生える世界樹・扶桑の下に住む女神である 羲和は、子である「十個の太陽たち」を世話しています。天を巡ってきてくたびれた太陽を洗っては扶桑の枝にかけて干し、輝きを蘇らせると言われます。

羲和は何時ごろの女神でしょうか、俊(舜のこと)の妃だったということですから、夏王朝の開始前です。俊には三人の妃がいたといわれます。一人は娥皇といいます。地上の国を産みました。一人は羲和です。そしてもう一人は嫦娥(ジョウガ)と言い、月である十二人の娘を産んだとなっています。ということは俊は神々に大地や太陽や月を生ませるということですからもう最高神である天帝に近い存在だったということでしょうか。帝の権力の絶対性を印象づける狙いで作られた話かもしれませんね。

舜は夏王朝の創始者である禹に帝位を禅譲していますから。夏王朝は紀元前二〇七〇年頃〜紀元前一六〇〇年頃だとされています。ですからこの話は今から四千年ほど昔の話ですね。

この東海というのは日本海のことです。中国や朝鮮(韓国)から見たら東海です。ですからこの羲和の扶桑の国は日本のことではないかと思われます。倭人のことを孔子の時代には東夷という呼び方をしていました。東の夷ということですね。「東」という字は木から日が昇ることを表現しているのです。

この木が扶桑の木、つまり桑の大木です。桑は葉を蚕に食べさせるので、大木にならないようにしていますが、巨木の桑もあるわけです。そこから太陽が昇るということです。ですからくたびれた太陽を 羲和は洗っていまして、干しているということです。そこから毎日一個ずつ太陽が天に昇っているのです。そこでこの扶桑の国を日本国(ひのもとのくに)と呼ぶのはよく分かります。でも日本国という言い方を採用したのは『山海経』の影響だということはまだはっきりしていません。この 羲和の国が日本だとしたら、相当古く紀元前後から日本は太陽信仰の女王国と考えられていたことになりますね。しかし疑問なのは、記紀神話を書くときに『山海経』は当然参照されていたはずなのに、記紀には扶桑や 羲和の話はないですね。まあ太陽の洗濯なんて馬鹿らしいと思ったのかもしれませんが。


 

六.九つの太陽を射落とした羿

 

 九つの太陽射落とす羿いずこ温暖化の世に君想うかな

      

  ところで羲和は十個の太陽を生み、その世話をしていたわけですが、これが一つずつ天を回っているからいいようなものの、一遍に回ったら熱くてたまりませんね。それで伝説上で、十個の太陽が同時に天にあって、地球温暖化の極致みたいになったことがあるのです。先ほどの舜に禅譲したのが堯です。その堯の時代に起こったことになっています。 羲和の躾けがよくなかったのか、太陽が十個天にあったので、穀物や草木を焦がして人々は食べるものがなくなってしまったのです。そこで堯は弓の名人である羿(げい)に命じて太陽を射落とさせたのです。羿は見事に十個のうち九個射落としました。その時太陽から烏の羽が落ちてきたということらしいです。ほら太陽には三本足の烏がいるということですから。

 堯は最高神に近い帝ですから、十個の太陽を堯が自分でなんとかできなかったのでしょうか。堯は困ってしまって、天帝にお願いしたところ、弓の名人である羿を地上に降したというようにも伝承によってはなっています。だから狩猟の神とも言えますね。

でもどうも羿は、完全な神とはいえないようです。というのは殺されてしまいますから。羿は手柄をたてたのですが、天界ではかえって嫉まれ、天界に帰れなくなってしまいます。地上にいると人間化して死ななければならなくなるようですね。やがて羿は死を恐れるようになり、死を司る西王母に頼んで不老不死の薬を手に入れました。

その薬は一人で飲むと天界に戻れますが、二人で飲むと、不死にはなるが、天界には戻れないということです。羿は妻と二人で飲もうとおもっていました。ところが妻の嫦娥に盗み出されてしまいます。彼女は天界に戻りたかったので、一人で全部飲んでしまいます。でも天界にすぐに戻るのは憚って彼女は月にまで逃げて仙女になったということです。あるいはヒキガエルになったという伝承もあります。

これでは羿が可哀想ということで、後世の『三余帖』では羿のところへ童子がやってきて、嫦娥はさびしくなってあなたのところへ戻りたいのだけれど、月から戻れないので、満月の夜に団子を備えて妻の名前を三度呼べは戻れるようになると教えます。その通りしますと妻は戻ってきまして、仲良く暮らしたと言う話になっています。

羿には他にもいろんな武勇伝があります。たくさんの怪物退治をして、それを命じた堯の名声を高めています。堯は聖人だと言われますが、それは羿を使って怪物や悪神をやっつけたからということが多かったようです。

羿は伝説的英雄ですから、物語を作る人によって違う時代に登場させられます。『楚辞』では夏王朝の時代に登場しまして、羿は黄河の神(河伯)を射て、洛水の女神(洛嬪)を妻としたとされています。河伯は天帝に抗議しますが、天帝は白龍の姿で河で遊んでいたら人間に弓で射られるのは当然だと相手にしませんでした。

 『史記』によりますと、夏の帝太康は田猟(かり)に熱中して政治をおろそかにしたために、有窮の后(首長)であった羿に逐われて国都に帰ることができなかったようです。それで一時羿が帝になりましたが、羿はねっからの狩猟好きですから、やはり狩猟に熱中して政治を省みなかったわけです。諫める賢臣は罷免して寒浞という悪臣を登用しました。寒浞はますます羿を狩猟に熱中させて、実権を掌握し、腐敗政治を行ったのです。それで羿は部下に殺されてしまいます。でも嫦娥に裏切られたショックで性格が変わり、放浪や狩猟で気を紛らわしていたという伝承もあります。

「羿を殺すものは是れ逢蒙」と言いますが、「飼い犬に手を咬まれる」とかあるいは「ブルータスおまえもか」に近いかもしれません。逢蒙は羿に弓を習っていたのです。それで上達して羿さえいなければ「天下第一の弓の名手」になりました。それで自分が「天下第一の弓の名手」になりたいので、恩のある師匠であり、主人でもある羿を殺したわけです。逢蒙は羿に矢を射掛けてかわされたことがありました。羿はまだまだ修行が足りないと言って、彼を家僕として使い続けたのです.。弓ではかなわないと覚った逢蒙は、狩猟中で矢を射ろうとしている羿を、後ろから桃の棍棒で思い切り頭を叩いて殺したそうです。

とはいえ羿も悪政をしていなければ、慕われて殺されることはなかったでしょうね。中国では人民本位の政治をしなければ放逐されても仕方がないという考え方をします。

中国の神話のほんの一部の紹介でしたが、これが道教の神仙思想や天命思想などの構成要素になりますし、日本神話との関連を考えてみるのも興味深いですね。