中国思想史講座

         

 

法家の思想―韓非子を中心に

やすい ゆたか


 

一、 孫子の兵法

 

 大軍が襲い来たれば難を避け、敵の弱所に兵を集めよ

 儒家は仁義に基づく王道政治によって人民が平安に暮らせる国造りを目指していたわけですが、現実には春秋戦国時代を生き残るには、諸侯は君権を強化し、富国強兵を図って大国化を計り、武力で天下を統合する道を探っていたわけです。


 

伝説的な兵法書の『六韜・三略』は殷を倒した軍師太公望呂尚の作とされます。中臣鎌足は大化の改新のクーデターを推進するのに、『六韜・三略』を暗記するほど読んだそうです。

 そして活躍したのが兵法家です。春秋時代の孫武や戦国時代の孫臏らが活躍しました。『孫子』という兵法書は孫武のものです。孫臏の書いたは埋もれていたのですが、一九七二年に至って山東省で孫臏の書いたものが発見され『孫臏兵法』と名づけられています。

 孫子の兵法の特徴は、いかに戦って勝つかよりも、戦わずして相手の国を取るのが最善とし、次善は相手の軍を取ることだとしています。「敵を知り、己を知らば百戦百勝危ふからず」というのが兵法の極意で、この思想は連綿と受け継がれ、毛沢東『矛盾論』や『実践論』でも取り入れられているといえるでしょう。つまり相手の情報を掴み、弱点を衝く戦法ですね。そして強い敵からは逃れ、兵力を敵の弱いところに集中して攻めれば、少ない兵力で大軍を破ることも可能だということです。

要するに戦わずして政治的に勝つのが一番だということですね。戦争は大変な犠牲を伴い、富を浪費します。できればやらずにすますのがいいわけです。やむを得ず戦争になった場合でもどうすれば勝てる状況を作り出すかということが大切です。「逃げるが勝ち」という言葉もありますが、勝てない状況だと読めば、逃げるのがいいわけです。そして相手の弱いところに回ってそこを衝くのが戦うコツだということで、この戦法はゲリラ戦の基本です。現代の中国共産党の紅軍はこの戦法で日本軍や国民党軍と戦っていたわけです。

そして諸子百家には、諸侯に戦略を授けることで、宰相になる縦横家が登場しました。「孟子」の箇所で紹介しました。蘇秦は東方の六国が攻守同盟結んで、秦に共同で当たる合従策を唱え、張儀は秦との連衡策を唱えたわけです。

 

二、人治主義と法治主義

 

 法定め定めた通りに治むれば強き豊かな国のたつるや

  本日取り上げます法家は戦う以前に、戦える富強の国家を作るためには法治主義を徹底する必要があると説く思想家たちを指します。この場合国家というのは秦とか楚とか斉とかの諸侯が統治している領域国家を指します。そこでは諸侯が君主として、あるいは王として統治しています。統治には法を定め、それを国家機関によって強制的に守らせます。そうしますと、法の従わせることで、支配者の意思が貫徹し、人民は支配者の意志通り動くので富強の国家だってつくることができるわけです。

もちろん法の内容が富強の国造りにそっていなければなりませんが、ともかく制定した法が守られなければ,所期の目的を達成することはできません。しかしなぜそんな当たり前のことを、これが大事な思想でこれで天下を統一できたみたいにいうのか疑問の方もおられるかもしれませんね。

法治主義の対極は何でしょう、法ではなく、人つまり君主の命令で治める人治主義です。

もちろん法治主義も君主の命令で治めるのですが、元々君主の命令次第で兵や役人が動くものですから、法を定めていなくても支配は可能なのです。法という明文化した形にし、その制定や施行に手続きを定めて、それに則っていなければ無効だとしますと、融通が利かなくなるので硬直的になり、支配者も面倒くさいものになります。また法治主義ですと、法の抜け道を考えて骨抜きにされるおそれもあります。

 でも法治主義でいきますと、法の内容が周知徹底しやすくなります。いったん定めた法は簡単には変更されないとしますと、その中でどうすればいいかを考えて行動できますから、

治める方も治められる方も安心できます。ただ富強にするのはどうして法治主義でなければならないのかということですね。

 大前提は富強の国をつくるために法治主義を採用するということです。抽象的に議論してもかえって分かりにくいので、法治主義の確立者である秦の商鞅(しょうおう、生年不詳 紀元前三三八年)の例を紹介しましょう。

三、商鞅の変法

 

 商鞅は法の力を示さんと、木を運びなば五十金と触る

 商鞅は、魏の恵王の宰相公叔座の食客だったのですが、公叔座は死ぬ前に、自分の後継者として商鞅を取り立てるように恵王に言残し、もし彼を宰相にしないのなら、魏にとって災いになるので、殺すように言残したのです。その上で、そのことを商鞅に打ち明けて、他国に逃れるようにすすめましたが、彼はあなたが宰相にするようにという案を採用しないのなら、私を殺す案も採用されないでしようといって、他国に逃れなかったのですが、案の定、殺されませんでした。

 商鞅は魏を見限って、秦に入り、若き君主孝公に帝の道と王の道と覇者の道を説きました。孝公は覇者の道に興味を示し、商鞅を宰相に採用したのです。紀元前三五九年、孝公は公孫鞅を使って変法(へんぽう)と呼ばれる国政改革を断行しました。いわゆる第一次変法です。
 


 

☆什五と呼ばれる五戸一組制を設ける。相互監視義務を課し、もし罪を犯した者がいても訴え出なければ、連帯責任で同罪となる。逆に訴え出た場合は戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。

☆一つの家に成人男子は一人のみとし、分家しなければ罰せられる。

☆戦争での功績をあげればには爵位を与える。

☆私闘をなすものは罰せられる。

☆男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。商業をしたり怠けたりして貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。

 什五制というのは法の徹底には有効です。相互監視で恐怖支配ができるわけです。分家義務によって、農地開墾の必要が生まれて生産力があがり、税収増加にもつながります。このような法令を出してもみんながそれに従って実効をあげるのはなかなか大変で、結局実情に合わないことになって死文化してしまいがちです。罰するといっても違反者が多ければ罰するのも大変です。そこで商鞅は法は定められれば厳格に実施されるのだということを示すために、木を都の南門に植え、この木を北門に移せば十金を与えると布告したのです。しかし、民衆はこれを怪しんで、木を移そうとしなかったので、賞金を五十金にしたのです。すると、木を北門に移す者が出て、布告通りに五十金をもらったのです。

 それで民衆は、権力が本気で施行すると分かるのですが、なにぶん改革が急激なので、民衆は不満を募らせ、違反者が続出します。それも孝公の太子駟(後の恵文王)が法を破ったのです。商鞅は太子を罰するように孝公に進言しますが、孝公は太子の家来を鼻削ぎ、入墨、処刑などして罰しました。これで法が厳格に守られるようになり、一〇年もすると秦の富強が実現したということです。田畑は見事に開墾され、兵士は精強になりました。人民の暮らしは豊かになり、道に物が落ちててもこれを自分の物にしようとする者はいなくなったのです。

 前三五二年秦は魏に侵攻し、前三五〇年には都を雍から咸陽に遷しました。そして第二次変法を実施したのです。

☆父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。

☆全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置く。

☆田地の区画整理。

☆度量衡の統一。

 

こうして君主の専制体制の下での法治主義の徹底で、秦は強大な国家になったのですが、前三三八年に孝公が崩じて、商鞅に恨みを抱いていた太子が恵文公として即位しました。商鞅は反対派の讒言で謀反の罪を着せ殺そうとしたのです。商鞅は身の危険を感じて逃走しますが、宿屋では商鞅の制定した法で旅券を持たないと泊められないとされ、結局捕まって車折の刑にされてしまったのです。これこそ自分で自分の首を絞める自己疎外の好例ですね。

四、申不害

 

 昭候が風邪引かぬかと衣着せし冠係り死を賜りぬ

 

 

韓の昭候は秦の宰相商鞅だった時期に、やはり法家の申不害(?〜前三三七年)を宰相として治めていました。韓非は「法術」という言葉を使いますが、「法」は商鞅の法治主義を意味して、「術」は申不害の〈主君が臣下を統御する方法〉を意味しているようです。紀元前三五一年に申不害は昭候に謁見した際に、国を治める要領を訊ねられ、「簡単な方法がございます。殿下は何も為さらず、ただ臣下に適した職務を与え,名実を比べ合わせて賞罰を行い,実に応じて公平な評価をなされば,国は自然と治まるものです」と応えました。ここには無為自然の道家の思想が継承されているのです。

要するに法体制をしっかり整え、臣下をきちんとした官僚機構に編成して、それぞれ仕事を分担させます。その際に肝心なのは、その職務相応しい名前をつけまして、仕事の内容を明確にし、職域と権限をはっきり定めるのです。その定められた仕事が出来れば賞を与え、不十分であれば罰を与えます。そして職務外のことを行えば、越権行為として厳しく罰するのです。そうすればみんな自分に与えられた仕事を一所懸命にやり遂げようとしますから、国は豊かで強い国になるということです。

その際。君主はポーカーフェイスが大切です。心を読み取られますと、取り入られたり、付け込まれたりします。ただ法に則って機械的に処理しているように見えた方がいいわけです。このあたりは老子が孔子に「良い商人はしまっていて何ももっていないようにみえるもので、君子は徳にあふれていても容貌は愚かに見えるものです。(ところがあなたはそうではない)先生はいかにもおごっていて欲しがりすぎです。もったいぶった様子とみだらな志(が見え見えなのでそれ)を去りなさい。」とあしらったのを思い出してください。

有名な話ですが、昭候が居眠りをしていまして風邪を引きそうだったので、典冠(冠の係りの人)が衣服を着せかけてくれたのです。昭候は目覚めて衣服を着せ掛けてくれているので、風邪を引かずに済んだと喜びまして、褒美をやろうとしたのですが、申不害はそれは越権行為であるから、典衣(衣裳係)の不行き届きと共に罰を与えるべきだと助言したのです。お陰で典衣は鞭打ちに遭い、典冠は職権を越えたので死刑になってしまいました。縦割り行政の典型ですね。これは縦割り行政ではいけないという寓話ではなく、縦割りを徹底しなければならないという寓話なのです。
 官僚制度を整え、越権行為を厳しく取り締まることで、国家の規律が整い、富強が実現した名宰相として申不害は讃えられているわけです。しかしこのような官僚主義、縦割り行政では、お役所が権限を拡大しようとして、民間の利権と結びついたり、外郭団体を作ってそこに無駄金を税金からつぎ込んで、重税国家にしたりして、かえって不能率な官僚主義の弊害が生まれそうな気もしますね。

 

  五、韓非子

 

 「孤憤」「五蠹」政の心を鷲掴み李斯讒言し毒を送りぬ

韓非は前二八〇年ごろ韓王安の庶公子として生まれました。皇子なのですが、母方の身分が低かったので、恵まれませんでした。韓は戦国七雄の中でもっとも面積が小さい国でした。          

韓非は幼少の頃は吃音で、異母兄弟から「吃非」と呼ばれて見下されてきましたが、その代わり文才に長けていたわけです。『史記』によりますと、荀子の門で修行をしていました。同門には後に秦の宰相になった李斯がいたわけです。

荀子の考えでは、人は生まれつき性悪だが聖人が礼楽を整え、教育によって徳を身につけさせることができるということでしたが、礼楽というのでは世の中は治まらないので、はっきり賞罰が伴う法によって矯正しなければならないというのが韓非たち法家の考えなのです。荀子の性悪説と老子の無為自然を法家的に解釈し、商鞅の法治主義と申不害の人心操縦術を継承して、総合したのが韓非の思想だといえるでしょう。

韓非はせっかく韓王のために「法術」を説いても、取り入れてもらえないので鬱々としていたようです。というより既に天下の形勢は定まっていたと言えるかもしれません。彼が二十歳ごろ紀元前二六〇年に秦は趙を攻めて壊滅的な打撃をを与えました。これを「長平の戦い」と言います。約四十万人の捕虜に食糧を供給できなかったので、少年兵二四〇人を除いて約四十万人を生き埋めにしたというホロコースト(大虐殺)事件が起こっています。

韓は秦に入朝して貢物や労役を差し出しており、既に郡県化しつつあったのです。秦の宰相になった李斯は、韓を完全に併合することを秦王にすすめたのです。秦王政は、韓非の書いた「孤憤」と「五蠹」を読んで大変感動しました。そしてその著者に会いたがったのです。そこで李斯は、韓を攻めれば使者として韓非が来ると政に助言したのです。

それで秦は韓を攻めまして、韓から和を請う使者として韓非が秦に送られてきました。秦王政は韓非から直接法術の話を聞くことができたのです。それは日頃韓王に助言しても容れられない韓非にとっては大国の秦王に共感してもらえたのは非常な感動であったと思われます。秦のために必要ならば韓を滅ぼしてもいいとさえ言ったのではないかという話さえあります。

そこで焦ったのが秦の宰相李斯です。秦王が韓非を秦の宰相にするのではないか、自分の地位が危うくなると思ったのです。それで李斯は政に、「韓非は韓の公子だから秦王の前でいくら、ご機嫌取りのことを言っても、韓のために謀略を図るに違いないから、今のうちに処分すべきだ」と助言したのです。そして韓非の謀略を政に讒言して、牢屋に入れ、毒を送って自殺に追い込みました。

韓非亡き後は李斯が宰相として辣腕を振るい、秦による統一後は、始皇帝を祭り上げて、人民には重税と大宮殿や始皇帝陵、万里の長城と大土木工事で苛政をしきました。そして法家を除く諸子百家は焚書坑儒で息の根を止め、皇帝の死後は二世皇帝から政治の実権を奪って、結局大内乱によって秦の滅亡を招いたのです。

韓非が宰相になっていたら李斯のような間違いを犯さなかったでしょうか。やはり法術には人間味にかけるところがありますので、たとえ韓非が宰相でもそれで天下が末永く治められたとは考えられません。

          

六、孤憤 

 

  天下とる法術操る賢臣をはばかりさまたぐそは重臣や

秦王政が感動した「孤憤」と「五蠹」とはいかなる内容でしょうか。「孤憤」は法術を弁えた賢臣を採用するのをもっとも妨害するのは重臣であるといいます。重臣は特権をかさに着て、君主の耳目を蔽い、私利を追求し、法術を心得た者の登用を妨げています。そのために君主は法術による政治が出来ないので、政治が混乱しているのです。

一般の臣下は、君命によって政務を執り、法に照らして職を務めます。しかし重臣は君命なく勝手に行動しがちです。法を無視して私欲を遂げ、私腹を肥やして、君主を操ろうとするのです。ですから法術を心得た者を登用すれば重臣は糾弾されます。韓非は君権を強化して、専制を強めることで富強を図るのですから、君権を制約して、自分たちの権限や利権を拡大しようとしている重臣たちとは利害が矛盾するわけです。そのことを君主が自覚して、法術による政治を実行しなければならいのです。君主の直接支配が実現するためには重臣も一般の臣下もみんなあくまで君主の補助であり、手足でなければならないというのです。法術を体得した明君の下で、はじめて韓非の思想や才覚が認められ、発揮できるのです。

これが「孤憤」ですが、それを読んで感動した秦王政こそその明君かというと、結局宰相李斯に韓非を登用したがっているという心を読まれてしまって、讒言に騙され、韓非は毒を盛られてしまったのですから、李斯の方が一枚上手だったということですね。というより「法術」などで政治をやろうとしたら狐と狸の騙しあいになりますから、どんなに凄い人物でも騙されてしまうということでしょう。李斯だってどんなくだらない人物に騙されるか分かりません。  

七、五蠹(ごと)―五匹の害虫

 

 世の中にはびこる五蠹を駆除せむと韓非印の殺虫剤撒く

「五蠹」とは五匹の害虫ですが、学者、遊説家、侠客、近御者、商工之民を指します。主に時代遅れの思想を説く儒家を批判したものです。

是故亂國之俗,其學者則稱先王之道,以籍仁義,盛容服而飾辯說,以疑當世之法而貳人主之心。其言談者,為設詐稱,借於外力,以成其私而遺社稷之利。其帶劍者,聚徒屬,立節操,以顯其名而犯五官之禁。其近御者,積於私門,盡貨賂而用重人之謁,退汗馬之勞。其商工之民,修治苦窳之器,聚弗靡之財,蓄積待時而r農夫之利。此五者,邦之蠹也。人主不除此五蠹之民,不養耿介之士,則海內雖有破亡之國,削滅之朝,亦勿怪矣。
〈読み下し〉この故に、乱国の俗、その学者はすなわち先王の道を称して、もって仁義を籍り、容服を盛にして弁舌を飾り、もって当世の法を疑い、人主の心を貳とす。その言談する者は、詐称を為設し、外力を借り、もってその私を成して、社稷の利を遺つ。その剣を帯ぶる者は、徒属を衆め節操を立て、もってその名を顕わして五官の禁を犯す。その近御の者は私門に積み、貨賂を尽くして重人の謁を用い、汗馬の労を退く。その商工の民は、苦窳の器を修治し、弗靡の財を聚め、蓄積して時を待ちて、農夫の利をrる。この五者は、邦の蠹なり。人主、この五蠹の民を除かず、耿介の士を養わずんば、海内に破亡の国、削滅の朝ありといえども、また怪しむなけん。

〈解釈〉それで国は乱れてしまう。つまり学者どもは、すぐに「先王(昔の聖人)之道」をたたえて「仁義」を借用し、服装や言葉をかざりたて、それらによって、現行の法を疑い、君主の心を二つにして(葛藤させて)いる。遊説者どもは、いいかんげんなことをいって、外国の力をかりて私欲をとげんとし、国を捨てている。侠客どもは徒党をくんで義侠をむすび、それによって名をあげようとして国法の禁をおかしている。 側近どもは、私財をたくわえ、わいろによって有力者にとりいり、戦士の功労をにぎりつぶしている。商人・職人どもは、ろくでもない容器を作り、ぜいたく品を買いあつめ、時期をみてはそれを売り、農民が苦労して得る利益を、労せずしてむさぼっている。この五者は、国に巣食う害虫である。君主たる者がこれら五種の害虫を駆除せず、節操ある人物を養わないとしたら、亡びる国、消え去る朝廷があったとしても、何の不思議もない。

「今欲以先之政、治当世之民、皆守株之類也」

「今昔の政治のやり方でこの時代の民治めようとするのは、みんな守株の類である」

「守株」の寓話は有名ですね。

「宋人有耕田者。田中有株、兎走觸株、折頸而死。因釋其耒而守株、冀復得兎。兎不可復得、而身爲宋國笑。

「宋人に田を耕す者有り。田中(でんちゅう)に株(くいぜ)有り、兎走りて株に触れ、頸(くび)を折りて死す。因りて其の耒(すき)を釈(す)てて株を守り、復(ま)た兎を得んと冀(ねが)う。兎は復た得(う)可からずして、身は宋国の笑いと為(な)れり。」

各時代の聖王は、各時代の課題を背負って登場しました。それでその時代に相応しい政治を行ったのです。ですから現在において過去の聖王のやり方をまねるのは時代錯誤(アナクロニズム)だと説いています。

 

     有巣氏―野獣を避けるために木の上に巣を作って人民の王になった。

     燧人氏―木をすり合わせて火を作り、食物に火を入れた、それで王になった。

     禹王―排水路をつくって洪水を防ぎ、開拓した。夏王朝を拓く。

     殷の湯王―夏の暴君桀王を倒す。

     周の武王―殷の暴君紂王を倒す。

「事因於世、而備適於事(事は世により、備えは事に適う)」―時代と共に物事は変わり、物事に応じて対処の仕方は変わるということです。

  大昔は畑仕事なんかしなくてもよかったのです。食物は草木の実で足りたのですから。着る物も、鳥の羽、獣の皮で足りました。それで自然に治まっていたわけです。今は人口も多くなり、いくら働いても楽になりません。それで少ないをめぐって財人民の間に争いが起こるのです。賞罰を重くしても世はなお乱れる有様です。

 昔は聖王の暮らしは質素で、人民の先頭になって働いていました。ですから天子の譲位は、門番の暮らし、役夫の労働、奴隷の労働を捨てるようなものなのです。ですから王位の威勢、特権が少なかったので、仁義による政治が可能で、喜んで徳のある人を見つけ禅譲できたのです。ところが現代(戦国時代)は県知事を一日務めると代々の子孫が馬車を乗り回すぐらいです。権力は実益を伴うので闘争が起き、法による支配が必要なのです。マルクスの有名な言葉に「存在が意識を決定する」と言いますが、まさしくそういう感じです。

仁義による政治は昔は役に立ったが、今は役に立たないという例に、周の文王は、仁義による政治で野蛮な西戎を手なづけて天下を統一しましたが、徐の偃王は仁義による政治で領土を献上して徐に朝貢する国は三十六国にのぼりましたが、荊(楚のこと)の文王が攻められるのを恐れて、先手を打って徐は滅ぼされたという例をあげています。

愛による政治を行うのは難しいですね。儒家はしきりに仁愛を説きますが、孔子の弟子はわずか七十人、その中で仁義を身につけていたのは孔子一人だけだと韓非は決め付けています。その孔子でさえ君主にはなれません。魯の哀公が君主でした。孔子は哀公の義に服していたのではなく、威勢に服していたのです。孔子ですらそうですから、人民は威勢には服しますが、義になつくことはまれです。不才の子(不良少年)は父母の愛、郷人の行い、師長の智をもっても決して行いを改めませんでしたが、役人が兵を率いて法によって悪を取り締まりますと、震え上がって行いを改めたといいます。

それに儒教道徳を強調しすぎて、法秩序の確立というのを二の次にしますと、国が滅びる元にもなりかねません。楚の宰相令尹(れいいん)は、自分の父親の羊泥棒を訴えた正直者を「不孝の罪」で死刑にしました。それで楚では罪人を訴える者がいなくなったといわれます。「忠義の息子は不孝な息子、親孝行な息子は不忠の臣」になるのです。また孔子は老父がいるため戦場から三度脱走した男の位を上げましたが、おかげで、魯では敗走を恥としなくなったのです。これでは戦争には勝てませんね。公私の利害が一致しないということを前提に法による支配を確立すべきだと韓非は教えているわけです。

韓非は、遊説家も国を滅ぼすとして排斥しています。連合して強国秦にあたる合従策も、秦の保護を受けて周辺国にあたる連衡策も、共に他力本願で、まぐれ当たりを期待する外交策です。内政を引き締め、君権を強化し、法術によって富国強兵をはかれば国の独立は守れるというのです。

ようするに明君の道は、法の統一にこそあるといいます。儒家や墨家や遊説家などの智者を追い求めるのではなく、法術を体得するところにあります。「貞信」といわれる人の誠実をあてにしてはいけないのです。書物は無用で法そのものが教えであり、聖人の言葉も無用です。法を知っている官吏が先生なのです。よく政敵をやっつけるのに侠客の暴力が使われますが法治主義が徹底していればいいので、全く不用だし、法秩序の敵でしかありません。侠客の侠気がかっこよく言われますが、戦争で敵を斬るのが勇気なのです。

韓非は法による言論統制、思想統制を説きました。秦代の焚書坑儒こそその実践なのです。一九六〇年代の後半はプロレタリア文化大革命の嵐が吹き荒れました。そこで「批林批孔」のスローガンが掲げられ、戦国期の法家思想が高く評価されました。「毛沢東語録」を掲げて、思想を一元化しようとしたわけですが、その際に法家と焚書坑儒がお手本にされたわけです。

 

 八、二柄(にへい)―二つのハンドル

 

 賞と罰君主の権を放すまじ、もし手離せば命短し

  では「術」について具体的に見ていきましょう。先ず二柄です。これは君主が臣下を操縦する二つの柄つまりハンドルです。すなわち賞と罰にあたります。

「明主之所導制其臣者、二柄而已矣。二柄者刑徳也。何謂刑徳、曰、殺戮之謂刑、慶賞之謂徳」

「明主がその臣を導き制するところのものは、二柄のみなり。二柄は刑徳である。何の謂ぞ刑徳とは、曰く、殺戮之を刑と謂い、慶賞之を徳と謂ふ。」

 二柄を持っていれば臣下、人民を操縦できますが、これを手離しますと、君主の権威はなくなり、臣下に実権が移ります。

 斉の田常は君主簡公から徳つまり賞を与える権利を奪って、自分のお気に入りに爵位を与えさせました。そして人民に貸し付けるときには枡を大きくし、収税のときには枡を小さくして人心を集めました。そうしておいてから簡公を殺したのです。一方、宋の子罕(しかん)は刑を奪い、君主の地位を脅かしたのです。

 つぎに「刑名参同」です。「刑」は「形」のことです。ここでは物の実体という意味で使われています。それを名とつき合わせて検査することです。これは申不害のところで出て来た典冠が居眠りしていた韓の昭侯に衣を着せて死刑になった話です。職名通りの仕事をしていないといけないわけで、越権行為はたとえ善意でも死刑だというわけです。そして典衣のように職責を果たせてない場合は、その程度に応じて鞭打ちなどの刑が課せられました。このようにすれば、臣下たるもの主君の定めた法に従い、与えられた職責を文字通りは果せばよいことになり、完全に操縦できるということなのです。

 その場合ら法や名や命令などの意図や狙い、君主の心のうちを曝してはいけないというのが韓非の捉え方です。心のうちを曝してしまいますと、臣下はそれを利用して君主に取り入り、自分の本心をなかなか現しません。そうなると思うように臣下を操縦できなくなるのです。

「去好去悪、群臣見素。群臣見素、則人君不蔽矣」

「君主が好むところを見せず、憎むところを見せなければ、群臣は本性を現すものだ。群臣が本性を現せば、人の君たるもの蔽われることがない」

 君主が好悪を見せることで臣下がみな同じ様な行動をとった例として、越王勾践が勇を好んだので、越には軽々しく死ぬ者が大勢出たとか、斉の桓公は食道楽だったので料理人易牙はついには自分の息子を蒸し焼きにして食べさせたとかの興味深い例があげられています。

 臣下たちが主君の好みを知ってそれに合わせるのは、主君の思想に共鳴し、主君を愛しているからではないのです。好みに付け込んで気に入られて出世し、権力を握りたいからです。

それでそういう君主は自分が可愛がった臣下に背かれて殺されたり、死後何ヶ月も死体が放置され、棺おけから蛆虫がわきだしていたりしました。もっとも韓非の言う通りの君主だと臣下に恐れられ、恨まれることはあっても、愛されることはないでしょうね。

 

九、七術、六微

 

 妻も子も代々仕えし重臣も信ずまじきぞ命惜しくば 

 君主でまともな死に方をする人は半分にも満たないといいます。母が愛されれば、君主はその子を抱きたがります。ところが女性は三十路を過ぎれば容貌が衰えます。一方、男性の方は若い女性に惹かれてますので、正妃は自分の息子を君主にしたければ、愛情が移らない間に死んでくれたほうがいいということになるのです。こういうことは車を作る職人は金持ちが多いことを願い、棺おけを作る職人は、人がみな早死することを願うのと同様です。つまり道徳的な善悪が問題なのではなく、人間というものは自己の利害によって動くものであるということです。つまり人間の行動を倫理的に解釈するのではなく、科学的に解釈するのです。たとえ家族や代々の重臣であっても信じてはいけないということですね。

 君主は、臣下を操縦するためには、次の「七術」を使う必要があります。

一、衆端参観(衆端を参観す)―臣下たちの言葉を事実と照合すること。

二、必罰明威(必罰威を明らかにす)―違反者は必ず罰し、威光を示すこと。

三、信賞尽能(信賞能を尽くさしむ)―功労者には必ず賞を与え、全能力を発揮させること。

四、一聴責下(一に聴きて下を責む)―一人一人の言葉に注意し、発言には責任をもたせる。

五、疑詔詭使(疑詔詭使す)―詭計を使うこと。

六、挟知而問(知を挟みて問う)―知らないふりをして相手を試すこと。

七、倒言反事(言を倒にし事を反す)―ウソやトリックを使って相手を試すこと。

 

 一から四までは納得ですが、五から七はひどいですね。こんなひどいことをする君主に仕えていると臣下は君主を殺したくなるでしょうね。 

 次に君主が警戒すべきこと六つ、「六微」と言います。

一、権借在下(権借して下にあり)―権勢を臣下に貸し与えること。

二、利異外借(利異にして外に借る)―君主と利害の異る臣下が、外国の勢力を利用すること。

三、託於似類(似類に託す)―臣下がトリックを用いること。
四、利害有反(利害反するにあり)―利害の対立に臣下がつけこむこと。

五、参疑内争(参疑内に争う)―内紛が起こること。
六、敵国廃置(敵国の廃置なり)―敵国の謀略にのって臣下を任免すること。

  これは秦王政にすれば一々心当たりのあることだったでしょうね。

 

                十、説難(進言のむつかしさ)

 

  その人の心を読みてそれに添い、時処位に適ふ言上をせよ

 最後にまとめとして、このような法術を君主に説いて、宰相となり、天下を統一しようというのが韓非の志だったのでしょうが、なかなか臣下が君主に進言するのは難しいことです。ご機嫌を損ねたり、思わぬことで逆鱗に触れたりしたら、君主は臣下に対して生殺与奪権を持っていますので、命がいくつ有っても足りません。韓非は韓では公子の一人だったので、難には遭いませんでしたが、秦王政に会い、気に入られたものの李斯の策謀で毒を仰ぐしかなかったのです。

 名声を欲する君主に、利によって説けばさもしいと退けられます。反対に利を求めている君主に名声をあげる心得を説いても、かえって敬遠されてしまいます。中には裏で利を求めながら表向きは名君顔の君主がいます。そういう君主に名君の心得を説いても表面的に形だけ取り入れて、実際は排斥されます。利を説けば意見だけ盗まれて、あとは知らん顔をされるのです。

 また、計画が漏れたとき、疑いは進言者にかかります。また進言が君主のプライドを傷つけたり、君主の秘密を知りすぎると危険です。そこで相手の心理を読み、相手に応じた進言をすべきです。相手の立場を汲み、相手をあくまで立てて、刺激しすぎないようにすべきです。

 また美少年弥子暇が衛君の寵愛を受けていたときは、母が急病の時に許可なく衛君の車にのって見舞いにいきました。本当なら足切りの刑になるところが、足切りも覚悟で親孝行をしたとほめられたのです。でも後に容色が衰えた弥子暇は寵愛も薄れたので、衛君は許可なく車に乗ったことを責めたのです。つまり相手にどう思われているかで、許されたり、褒められたり、逆鱗に触れたりするわけで、君主と自分との関係性をよく見極めていなければ、何を言ってよいのか、悪いのか分からないということですね。これは全くその通りで、今でも会社の上司との関係で、よくあることですね。 

韓非の主張通り、法術に徹すれば、君主は臣下や人民から遊離し、孤立しないか心配ですね。秦王政は韓非の言葉を実践したわけですが、秦の始皇帝になって、唯一絶対者としての自己に陶酔し、人民は圧制に苦しみました。韓非の思想は戦国末期の覇者の出現を思想的に表現したものです。それは天下統一の思想的武器として有効ではあったわけですが、安定した統一王朝の思想的土台としては相応しくはありませんでした。やはり漢代以降は、建前としての儒家、本音としての道家の思想が有力になります。