『ヤマトタケル』への哲学講義

           戯曲「ヤマトタケル」の誕生

 梅原猛の戯曲『ヤマトタケル』について「哲学」の講義で取り上げることになりました。

 すでに戯曲『ヤマトタケル』について論じたものがありまして、私のホームページに掲載しています。それは梅原猛論として出版のために書いたものの一部ですが、膨大になりすぎたこともあり、なかなか出版は実現していません。それは既に倫理学の講義などでは使っていますが哲学の講義に使うとなるとやはり躊躇せざるをえません。文学的な評論にはなっていても、哲学的評論とはいえないと思われます。そこで急遽哲学的に論じてみることにしました。これも試行錯誤を重ねないと哲学的評論にはならないと思います。

 哲学的事件としましては、梅原猛が歌舞伎台本に挑戦し、猿之助を助けて見事にスーパー歌舞伎の誕生をもたらしたということです。それが何故哲学的事件なのかということが問題ですね。それには、戯曲『ヤマトタケル』の誕生の経緯を振り返る必要があります。梅原が京都美大の学長をしていた一九七〇年代の後半のことですが、宴会の席で梅原猛は、猿之助歌舞伎に対して苦言を呈したことがあるのです。猿之助歌舞伎は、現代歌舞伎が古典芸能化して生気を喪っていることに反発し、早替わりや宙吊りといった大いにケレンを駆使した舞台づくりをしていました。「傾き」つまり「カブキ」の原点である驚きのある演出を試みていたのです。

 興行によって客を集めるということは、民衆に驚きや感動や刺激を与えることですから、「カブキ」のしかけには芸能の原点があるわけです。古典芸能化ということは美しく洗練され、様式化された熟練の技を継承するということですから、当然そこには何が飛び出すかドキドキするような興奮はないことになります。確かにいいものが保存され、味わい深いものがあるにしても、ワクワクさせるような新鮮味に欠けることになります。その意味で猿之助歌舞伎は、「哲学は驚きから生じた」というアリストテレスの哲学観に通じるものがあります。その点、梅原は猿之助歌舞伎を高くかっていたのです。

 梅原の苦言というのは、猿之助歌舞伎も結局古い歌舞伎台本に頼っているので、台詞に人生の深みを感じさせるような名台詞が乏しいというのです。つまりシェークスピア劇のような台詞の味わいが欲しいというのです。猿之助もそれは分かっていたようですね。でもなかなかそういういい台本は書けません。書けるのだったら猿之助自身が書いていたでしょう。それで「それなら梅原先生、ひとつ歌舞伎台本を書いて下さい。」とお願いしたわけです。

 梅原はお願いされたと思ったのです。でもそれは社交辞令だったと猿之助は語っています。まさか学者先生がスーパー歌舞伎を生み出すような画期的な台本が書けるはずないと思っていたわけです。ですから、売り言葉に買い言葉というか、「書けるものなら、書いてみてください」というような、反発の気持もあったかもしれませんね。「こっちはそれが書けないから苦労しているんだ」と腹の底ではこのトウシロウがと思っていたかもしれません。

 「名台詞が欲しい」という梅原の言葉には、ある意味でケレンばかり追いかける猿之助歌舞伎への不満も含まれていたかもしれません。さまざまな仕掛けで観衆を沸かせることは確かに素晴らしい。芸能の原点はそこにある。しかしそれだけでは本当に深い感動は生まれません。哲学だってそうです。アリストテレスは「驚き」を哲学の出発点に置きましたが、西田幾多郎は「人生の苦悩」から搾り出されたものとして哲学を捉えていました。梅原猛の哲学も「哀しみ」という感情が底にあるのです。それがあるから『地獄の思想』が多くの読者を捉えたわけです。猿之助も『地獄の思想』の愛読者で、それが梅原との交流のきっかけなのです。ケレンで大いに沸かせた上で、人生の悲哀がにじみ出ているような台本で民衆の心に深く沁み込むような歌舞伎を梅原は求めていたということです。

  ですからこの「驚き」と「哀しみ」という二つの要素が、魂の底まで響かせるには大切だということです。その場合「哀しみ」という言葉は喪った大切な人を懐かしくいとおしく思う心です。ストレートに「悲しい」だけでは応用が効きません。例えば料理などでも、「驚き」があったらいいですね。素材の組み合わせ次第でいい味がでると「驚き」があります。でもそれだけだとすぐ飽きてしまう。どこか懐かしい、郷愁を誘うような、母のぬくもりに通じるような優しさがあると、「哀しみ」があり、感動が生まれます。そうなると料理も哲学なんです。

 梅原は京都芸大の学長をしていて超多忙だったので、学長を辞めてから書く約束をしました。猿之助は梅原が学長を辞めてから、「辞めたら書くという約束なので、書いて下さい。」と催促すると、梅原もその気になって歌舞伎台本の書き方についての資料を猿之助に注文して『ヤマトタケル』を書き上げたということなのです。その時も猿之助は社交辞令のつもりだったと言っています。つまり梅原猛は猿之助が想像していた以上のタレント(才能)だったということですね。

      ヤマトタケル伝説の政治的背景

 戯曲『ヤマトタケル』の原作は『古事記』です。ヤマトタケルについては『古事記』と『日本書紀』の両方に記述があります。第十二代の景行天皇の子で、彼の息子の仲哀天皇の皇后である神功皇后が新羅に侵攻したのが四世紀末と思われますので、実在していれば、だいたい三六〇年〜三七〇年頃に超人的な活躍をしたと想像できます。大部分の歴史学者は実話というよりも、朝廷にまつろわぬ、つまり服従しない熊襲や蝦夷の平定に苦労した話しをヤマトタケルの英雄的な冒険物語という形で創作したものだと解釈しています。ただし梅原は、物語自体は創作でも、そういう超人的な英雄が実在したからこそ大和朝廷による広範囲の支配が可能だったとしています。

 主に『古事記』に依拠していますが、それは『日本書紀』には父景行天皇とその皇子小碓皇子との葛藤が描かれていないからです。つまり人生の葛藤や悲哀が描かれていないのです。これではドラマになりません。『古事記』は小碓皇子を恐れた父天皇が小碓皇子を熊襲や蝦夷に殺させようとほとんど兵を付けずに遠征させることになっているわけです。朝廷から排斥され、亡き者にしようとされていた点において、小碓皇子は、彼が滅ぼした熊襲や蝦夷と同じ運命を背負わされているということです。

 『日本書紀』では景行天皇自身が熊襲征伐で活躍した英雄であり、帝が排斥するのは小心者で蝦夷征伐に尻込みした兄の大碓皇子の方です。ですから主人公との親子の葛藤は一切なく、両者とも英雄として描かれているわけです。これは『日本書紀』が正史として天皇の美化を図ったことを示しているのかもしれません。

 これに対して『古事記』は父帝から排斥された悲劇の皇子を英雄視していることになります。この話が白鳳時代に作られていたとしますと、帝や皇后の謀略で葬られた有間皇子や大津皇子への鎮魂が篭められていたという解釈も成り立つかもしれません。そう云えば

 梅原は『古事記』におけるオオクニヌシやヤマトタケルなどの英雄譚の作者を柿本人麻呂ではなかったかと想像しています。

 『水底の歌』では柿本人麻呂は水刑にされて殺されています。なぜ柿本人麻呂が持統天皇に粛清されたのか、その理由は、人麻呂が天武天皇の皇子たちを讃美し過ぎたからだと言われます。特に高市皇子の哀歌は、あまりに高市皇子が天皇になって当然であるかのような内容だった。持統天皇の実子草壁皇子への皇位継承を狙い、草壁皇子が夭折してからは孫文武天皇への譲位を図ろうとしていたのです。この天皇の意図からみれば、高市皇子への哀歌は、神経を逆なぜするものだったと梅原はいうのです。

 当時、二つの勢力があったと考えてみてください。ひとつは天武天皇の皇子たちを中心として皇親政治の確立を目指す勢力です。有間皇子、大津皇子、高市皇子等ですね。奈良時代には高市皇子の子長屋王が活躍します。もうひとつは持統天皇とその取り巻きの官僚たちです。持統天皇は天武天皇が病気で政務が取れなくなってから、さかんに近江朝の有能な官僚だった人材を登用しました。壬申の乱では敵味方に分かれて戦った相手です。これは優秀だった天武天皇の皇子たちに対抗する意味もあったと言われています。特に中臣鎌足の子、藤原不比等は比類なき逸材であったわけで、表の政策立案から、裏の政治的謀略まで持統天皇を支えていたと思われます。もっとも彼は壬申の乱には参加していません。若すぎて参加していなかったのです。

 こうした背景から戯曲『ヤマトタケル』を読んだらどうなるか、大碓・小碓の兄弟は後添えの皇后にとっては自分の息子の即位の邪魔だったという設定は、天武天皇の皇子たちの関係にも当てはまります。そこで皇后とその取り巻きは皇子たちの暗殺を図り、身の危険を感じた皇子たちが乱に追い詰められるという構図も一致します。ただその直前に天武天皇は病死して、持統の称制があり、草壁皇子の夭折後持統天皇が実現するという構図は説話にはありません。そこまで現実に似せると露骨すぎますから。

 この状況を皇親勢力が打開する英雄的な方法として考えたのが熊襲・蝦夷の討伐によって手柄を立て、軍事力を背景に大和朝廷の実権を握るという英雄譚です。ちょうど七世紀から八世紀にかけて南九州や東北での隼人や蝦夷対策で追われていました。大規模な蝦夷討伐軍の派遣も行われています。実際の高市皇子は持統天皇のもとで太政大臣を務めています。天皇になろうとすれば、大津皇子のように謀略で殺されると思って、太政大臣になり、勢力の温存と巻き返しを狙ったわけです。

 大津皇子は天武天皇が亡くなってすぐに、謀略で粛清されます。彼の母は大田皇女なのです。彼女は皇后の姉に当たるわけで、草壁皇子にとって大津皇子は皇位継承の上で強力なライバルでした。ヤマトタケルの話も、梅原戯曲では、皇后だった大碓・小碓の兄弟の母が死んでから、その妹の叔母が皇后になり、自分の息子を皇位につけようと大碓・小碓の兄弟を殺そうとします。梅原は、これも大津皇子の粛清事件をあてこすっているといえるかもしれません。

 ところで高市皇子は病死しました。これも変死ではなかったのかという解釈があります。ヤマトタケルは息吹山の山神征伐で氷雨に打たれて病死しますが、これも天皇の秘策に嵌ったと考えられます。そして『古事記』ではヤマトタケルの息子が将来帝になるような設定ですが、実際の歴史では高市皇子の子である長屋王は大いに権勢をふるうことになります。

 もし梅原の推測通り柿本人麻呂が『ヤマトタケル』の原作者だとすれば、叔母やその側近による謀略が『原古事記』には書いてあって、高市皇子の哀歌と共に『ヤマトタケル』説話も持統天皇の逆鱗に触れたかもしれません。もちろん『ヤマトタケル』は歴史物語ですから、持統天皇へのあてこすりだといううがった決め付けで排斥すれば、天皇や藤原氏は孤立するので、全く別の罪状で柿本は流刑され処刑されたと考えられています。

 歴史物語は確かな史実に基づいて書かれたものではありません。ですからそれを書いた作者の思いが込められているわけで、皇親政治の復活への願いが英雄説話にも投影していることは、大いに可能性としてはあり得る話です。梅原は『古事記』や『日本書紀』を実際の歴史として読むのではなく、それが書かれた時代の歴史をその記述から読み込むべきだとしたのです。

 ところで大津皇子の謀略による粛清や場合によっては高市皇子の病死も持統天皇の命令である可能性があると、梅原を含めて、現代の歴史学者は考えているようですが、当時の被害者である天武天皇の皇子たちは、持統天皇をそんな冷酷な独裁者とは見ていなかったのではないかと私は想像しています。そしてその皇子たちの見方は案外正解ではないかと思うのです。そこが梅原と私の歴史解釈の違いですね。

 もちろん深層心理では、可愛いわが子草壁皇子のライバルである天武天皇の皇子たちをみんな粛清して殺してしまいたいと思っていたかもしれません。そして息子が駄目なら自分か天皇になりたいと思っていたことも考えられます。そして自分が天皇になったら、今度は孫に皇位を継がせようと熱望するようになったかもしれません。しかしそんな態度はおくびにも出さなかったし、一切謀略にも加担していなかったと私は解釈しています。

 もしそういう態度にでていたら、天武の皇子たちに嫌われて、とても朝廷をまとめ切れなかったはずです。私は藤原不比等は持統天皇の側近官僚として台頭してきますが、まだまだ天武の皇子たちを圧倒するだけの権力者にはなっていなかったと見ています。それは後の高市皇子の跡継ぎである長屋王が、若き聖武天皇をも凌駕するような権勢をふるっていたことからも言える事です。

 ですから後の持統天皇である鵜野皇女は、弟の大友皇子が壬申の乱で敗れて殺された時には、激しく慟哭したと思います。また姉の大田皇女が病死したときには、これで皇后になれるとほくそえんだのではなくて、大切な後ろ盾を亡くしたと歎き悲しみました。大津皇子の変では謀略で殺された皇子の悲劇を誰よりも、哀れと悲しんだ筈です。そして草壁皇子に先立たれて、次の天皇は高市皇子が適任と考えて、彼に皇位に就くよう本心から説得したと思われます。しかし高市皇子は、大津皇子を謀略で葬った連中を恐れて天皇にはならなかったのです。

つまり私の解釈では藤原不比等たちが、密かに持統天皇の心の闇を代行していたのです。

 ところが柿本人麻呂は、「ヤマトタケル」説話で実は皇后とその側近が皇子たちに敵対し、粛清したことを梅原戯曲のような内容で暗に告発したわけです。不比等にそのことを指摘されて始めて自分が疑われていると知り、深層心理では疚しいところがあっても、全く身に覚えがないだけに相当逆鱗に触れたでしょうね。だから流刑されて、水刑になったという梅原の『水底の歌』の推理は当たっていると思います。

 その前提として柿本人麻呂が「ヤマトタケル」を書いたということが当たっているかどうか、これは物証はありませんね。だからいわゆる「幻視」です。幻視するしか方法がないのです。幻視というのは、確たる物証がないけれども、もしこうだったら、辻褄が合うじゃないかと推理することです。

 私は「高市皇子の哀歌」だけでは逆鱗に触れなかったと思います。高市皇子が天皇にふさわしいというのは、実は持統天皇の考えでして、それでおおっぴらに持統天皇の次は高市皇子が天皇だということを示すために後皇子尊と呼ばせていたぐらいですから。としますと『水底の歌』でいう柿本人麻呂水刑説が正しいためには、「ヤマトタケル」説話を柿本人麻呂が創作したということでないと困るわけです。

 「あれ、こんな話、哲学なの?」と思っておられませんか?私は持統天皇の心の闇のことを考えると、胸が痛くなるのです。人間の狂おしい思いや感情が伝わってきます。自分でも意識できないれど、突き上げてくる感情や、暗い暗い恐ろしい部分などが、やはり私自身の中にあるんですね。草壁皇子のためなら他の皇子は皆殺しにしたいという感情は、宅間守が自分の人生が惨めなので、腹いせにエリートの子供を一人でも多く殺したいという感情と通じているのです。これは人間そのものに関する議論、人間論なのです。人間とはそもそも何なのか、その答えは抽象的に頭の中だけで考えても分りません。歴史の中で心の闇に迫っていかなければ出てこないのです。このように人間への問いにまで深めて論じるという態度が哲学なのです。

 鵜野皇女(後の持統天皇)は中大兄皇子(天智天皇)の娘です。壬申の乱で夫大海人皇子とともに逃回り、結局、弟を夫に殺されています。天智天皇の死も変死であって、大海人皇子の手先に殺されていた可能性もあり得るわけです。井沢元彦の『隠された帝―天智天皇暗殺事件―』(祥伝社、平成二年刊)という小説はそのことを素材にしていまして、なかなか説得力があります。そうすると夫やその皇子たちは父や弟の仇であると思っていた、つまり潜在意識では天武朝に対する殺意があったとも考えられます。それが自分の息子以外には皇位を絶対に継がせたくないという意識になり、天武の優秀な皇子たちに対抗するために近江朝の元官僚やその子弟を強引に登用して、自分の側近にすることになった。しかしそういう感情は必死で抑圧して全く感じさせなかったし、自分も全く気づいていなかったのです。そうでないと成功しません。

 ですから、本当は謀略を作り実行した不比等の心にも迫っていかなければならないのです。彼は律令体制を作り上げたわけだけれど、それを藤原氏による実権が確立するような形にしようとした。皇親政治を打倒して、太政官による官僚独裁体制にしたわけです。その邪魔になる皇子たちや敵対者を闇に葬ることも敢えてしました。彼は理想の国造りのためにテロルも敢えてしました。そうすることが結局、持統天皇の心の闇に潜む激しい思いを代行することにもなっているのだと見抜いていたと思われます。しかし他面で非常に愛情深く、家庭的な人物でもあったと思います。怖いけれどカリスマ性のある人だったのです。

 人麻呂は天皇を神として崇拝していました。「大君は神にしまさば」と歌っていますね。彼は単なる天皇宣伝家ではないのです。天皇は神として神々しくあらねばならない。お天道様はこの世を照らし、作物を稔らせてくれます。天皇はその太陽のような徳によって、公平無私なまつりごとをします。その徳を慕って役人たちは天皇の御世に栄えあれと誠心誠意を尽くして民の幸せの為に働きます。人民は天皇の恩に報いようと作物をたくさん稔らせ、公共事業に精を出すのです。こうして素晴らしい国造りが出来るという理想を抱いていたわけです。

 国の中心に神である天皇がいて、その周りに神の皇子である賢明な皇子たちが支えていれば、日本の将来は安心です。人麻呂は本気で素朴にそう考えたのです。ところが持統天皇は天武天皇の皇子たちを排斥し、あろうことか、近江朝の官僚たちを腹心にして、皇子たちの暗殺、排除に乗り出していたように柿本人麻呂には思えたのです。彼等の狙いは貴族たちによる、官僚独裁であり、天皇の支配の象徴化、形骸化であるように見えたのです。官僚独裁では人の支配になってしまいます。結局強い者が弱い者を支配し、富を収奪する体制でしかないわけです。人麻呂にすれば、大君が神だからこそ、神の恵みに照らされた大御国であるということです。

 神の国が壊される。そのことを被害者の皇子たち自身が明確には捉え切れていない。女帝の女の涙に騙されているようなのです。人麻呂は、持統天皇を恐ろしい悪女だと誤解してしまったのです。私は持統天皇は潜在意識には恐ろしい闇を抱いていたけれど、少なくとも自覚的な意識では素直で優しくて、気配りが効き、可愛いところがあるいい女だったと思います。しかし人麻呂は、彼女の正体を見破ったと思ったのです。表面では、天武天皇の志を継がれて、皇子たちをまとめられ、天皇中心の律令体制づくりを進めているように見せかけながら、裏面では天武の皇子たちを粛清し、藤原氏による官僚独裁の国家に変質させようとしていると思ったのです。人麻呂は「ヤマトタケル」に託して、彼が捉えた歴史の真実を知らしめようとしたわけです。人麻呂は、命がけだったと思います。だからこそ素晴らしいスペクタクルの英雄物語が出来上がり、人々の心を強く捉えたわけです。

 彼の思いに気づいたのは、不比等や持統天皇だけだったのか、皇子たちにも伝わったのか、それは分りません。おそらく賢明な皇子たちのことだから、人麻呂の気持は伝わったと思いますが、だからと言ってそれは憶測にすぎないわけですから、どうすることもできません。

 梅原猛は『水底の歌』で柿本人麻呂の悲劇的な最期を突き止めました。人麻呂の怨念が彼に乗り移っていますから、『ヤマトタケル』という戯曲は、人麻呂の思いの丈を語らせ、怨霊を鎮魂するものでもあるのです。そこには神の国の理想が崩れていく、彼のロマンが彼の歌が崩れていくという哀しみがあるわけです。単なる波乱万丈の英雄劇ではありません。人麻呂の哀しみがヤマトタケルの哀しみとなって溢れているわけです。そしてそれはおそらく梅原猛その人の哀しみにも通じているし、我々、一人一人の哀しみがそこにはある。だから『ヤマトタケル』を観ていた観客はみんな泣いたといいます。そしてだれよりも一番泣いたのが、梅原猛その人だったということです。

 もちろん現在の『古事記』には梅原戯曲にあるような皇后とその側近の謀略の話は、すべて消去されています。だって『古事記』は稗田阿礼の誦習していたものを太安万侶が筆録したことになっています。梅原猛によれば稗田阿礼は実は藤原不比等(史)その人だったのですから。梅原戯曲は現在の『古事記』では消去された部分を補って、柿本人麻呂の原作を甦らせようという狙いがあるのです。もちろん柿本の原作がそうなっていたという物証は何もありません。ただ『水底の歌』で暴露された柿本刑死が事実であれば、何か決定的に持統天皇の逆鱗にふれる作品があった筈で、それが『原古事記』の「ヤマトタケル」の部分ではないかと梅原は思って、鎮魂の意味もこめて柿本の思いを見事に甦らせたのではないかと、私は推測しているわけです。

 このように七世紀の皇親政治派と貴族官僚派の対立、その中で苦悶する女帝の心などを考えながら、柿本人麻呂がどんな思いで「ヤマトタケル説話」を書いたのかをじっくり考えるという営みは、根源的に歴史を問い直す学問的な営みですから、それこそ哲学ではないでしょうか。

         荒ぶる神としてのヤマトタケル

 ヤマトタケルも皇子ですから、神の子であり、神なのです。日本人は神を超越神として捉えていたわけではありません。恐怖や驚きの対象、人民の力ではどうしようもない大いなる力をもつものが神でした。古墳時代の人々にとって農耕共同体は自然の脅威の敵からの脅威にさらされていましたから、共同体をまとめ上げ、自然や外敵の脅威に立ち向かわせてくれる指導者は、神の如く恐れ敬われていなければならなかったのです。ですから首長は神がかりして吉凶を判断し、神と一体化した現人神として部族を率いていたわけです。

 巨大な古墳は、ただ首長の権力の強大さを誇る為に作られたのではありません。首長霊の力を増幅する装置なのです。あれは前方後円墳といいますが、藤田友治著『前方後円墳』(ミネルヴァ書店刊)によりますと、実は壺型なのです。壺は霊を増幅するとされていたのです。そこで死後、首長霊に部族を守ってもらうために巨大な首長霊の増幅装置を作ったということです。

 ですからヤマトタケルのような、単身敵地に乗り込んで、熊襲や蝦夷を平定してしまうという人間離れした英雄譚も、当時の人々の意識では荒唐無稽ではないということになります。つまりヤマトタケルを一人の人間として捉えると、全くありえないことですが、荒ぶる神として捉えれば納得がいきますね。

 荒ぶる神というのはスサノオが代表格です。彼は天上の高天原でも暴れましたが、地上ではヤマタノオロチを退治しています。八股大蛇は巨大な山脈、渓谷のイメージです。これは面積の大部分を山々で占める列島の国土全体を象徴しているのです。ですからスサノオは姉であるアマテラスが高天原を統治し、弟であるスサノオが地の国を支配するという構図なのです。つまり地上を支配するのは荒ぶる神の力なのです。嵐のように軍勢が押し寄せてきて、屍の山を築き、権力を打ち立てるというやり方です。スサノオという名は「嵐」という意味でしょう。まあ石原裕次郎じゃないけれど「嵐を呼ぶ男」ですね。嵐を人格化したような男がいて、暴れまわって、大活躍したので、その男が嵐の化身として荒ぶる神とあがめられたのでしょう。

 『古事記』では、スサノオの子孫であるオオクニヌシがやはり軍事力で中国・四国・畿内・東海・北陸にまたがる大国を築いたということになっています。しかしオオクニヌシは名君でしたから、いったん覇権を確立すれば、後は産業を興し、豊かで平和な国造りを行いました。ところが突如、筑紫(今でいう北九州)から天つ神を名乗る一族が侵略してきます。これに敗れたオオクニヌシは国譲りをさせられるわけです。その際に、この政権交代は高天原での神々の会議で決まっていたことだという理屈で正当化したことになっています。つまり地上を支配するのは荒ぶる神の子孫ではなく、やはり日の神の子孫でなければならないというのです。

 風とお日様の力比べの寓話がありますね。旅人の服を脱がせるのに、風はすごい力で暴力的に服を剥ぎ取ろうとしますが、お日様はただ照り輝いてそこにいるだけで、旅人を暖め、旅人は汗をかいて自然に服を脱ぐわけです。つまり暴力ではなく徳で支配すべきだと言う寓話です。荒ぶる神の暴力的な支配の時代は終り、これからは日の神の徳が支配する時代だというふれこみがあるわけです。とはいいましても実際は、オオクニヌシは徳の支配を行っていたのが、日の神の孫であるニニギノミコトの配下が暴力的に奇襲してくるという錯綜した関係になっています。

 これはオオクニヌシを荒ぶる神とし、ニニギノミコトを日の神の孫にだとすることで政権交代を正当化する屁理屈です。実際の政権奪取は、荒ぶる神となって行うしかできないわけです。そして相手を荒ぶる神だとレッテルを貼る。もちろんオオクニヌシはスサノオの子孫でもありますが、他方で太陽神であるニギハヤヒと同一神ではなかったかともいわれています。「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」と呼ばれていました。つまり平和な統治をするには、太陽政策が必要なわけで、太陽の化身だということになります。ニギハヤヒは物部氏の祖先で河内から大和にかけて支配していと言われます。「ニギハヤヒ」という言葉は朝日が昇るのはスピードが速いことを意味しています。「かけのぼる陽光」という意味ですね。それを祀り、願いをかけていた物部氏の祖先が「ニギハヤヒ」と呼ばれ太陽の化身とあがめられていたわけです。

 実はアマテラスという女神の太陽神信仰は、持統天皇以降の創作だと梅原は解釈しています。女帝時代に相応しく、高天原の主神をアマテラスという女神の太陽神にしたわけです。「ニギハヤヒ」の名前から最初の二文字「天照」を拝借したわけです。全国にたくさんの太陽神信仰の神社があります。アマテル神社ですが、そのほとんどは男の太陽神であるニギハヤヒをお祭しているわけです。そして孫のニニギノミコトに地上の支配権を与えますが、そういう話にしたのは、持統天皇が孫の文武天皇に譲位するための伏線だったのです。アマテラスは卑弥呼や神功皇后のことだとする見解も有力です。つまり日の神をまつっていた当人が日の神の化身とみられていたのです。

 ということはいかに大王が太陽として支配しようとしても、それに従わない連中が各地で反旗を翻せば、大王は今度は荒ぶる神となって、平定に出向かなければなりません。『日本書紀』では景行天皇は熊襲平定のため筑紫に長く滞在していたことになっています。大王は戦争ばかりしていられません。それで皇子が大きくなると自分に代わって平定に出向かせるわけです。

 スサノオとヤマトタケルを結び付けるのが天叢雲剣です。この剣はヤマタノオロチからスサノオが取り出したものです。つまり大地の精霊を宿していて、この剣にはいかなる国つ神も勝てないのです。「天叢雲剣」という名前からみて、この神宝は雷を落とし、雨雲を呼び寄せる雨乞いの剣です。地面に剣を逆さに立てて落雷を誘うわけです。これは嵐を呼ぶという意味では荒ぶる神です。剣という武器の面からも荒ぶる神ですね。でも雨乞いの面からいいますと、農耕の神でもあるわけです。ただ荒ぶる神であるだけでは駄目なので、統治のための治水、灌漑対策も必要です。

 アマテラスとスサノオが姉と弟の関係だということは、統治には徳と暴力の両面が必要だと言うことで、それが倭国の兄弟あるいは姉弟支配の先例とされています。邪馬台国の卑弥呼と弟の支配や、推古天皇と摂政厩戸皇子の関係にも見られます。『隋書』の「?国伝」によれば兄王が夜に神がかりの儀礼を行い、昼間は弟王が実際のまつりごとを行うとなっています。つまり一人は宗教的な儀礼を行う王で、もう一人は実務的な行政を行う王です。後の方は荒ぶる神としても振舞わざるを得ないわけです。これが律令体制では日本独特の二官つまり神祇官と太政官制度になったのです。そして太政官は貴族が占めて、結局象徴天皇制と藤原氏による官僚独裁へと傾いていくことになります。梅原はそこに日本の国家体制の伝統として象徴天皇制があったとし、近代の天皇教に即した皇道主義を日本の伝統と考える日本文化論を厳しく批判しているのです。これは日本と何かを考える国家哲学ですね。

 ところで「ヤマトタケル」説話では、荒ぶる神の方が英雄であり、日の神の御子であるスメロギ(大王)の方が敵役です。これは天皇が敵役になっているだけでは天皇制批判とは言えません。天皇制というのは血筋で天皇が決まるので、徳で決まるのではないという考え方です。ですから当然中には悪逆非道な天皇も登場しますし、景行天皇のように敵役になる場合もあるのです。しかし天皇制では血筋で決まるので、天皇位を巡る勢力争いで内乱になったり、国が滅びると言う危険性が比較的すくないということなのです。悪い天皇が登場して、しかもそれがその説話が作られた時代を当てこすっている場合に、問題になるのです。

 梅原は天皇教のお陰で、恐ろしい戦争を体験しました。それで彼は自分達は戦場で死ぬんだと思い込まされ、多くの人々が殺されたのをみているのです。彼は戦争で死ぬことの意味を求めましたが、それは天皇教の大嘘だったのです。ですから二度と戦争をしないような国にする為に、天皇教と戦後は一貫して対決しています。ヤマトタケル自身も天皇制とその嘘の犠牲者であり、その意味で大和の天皇制に押さえ込まれる熊襲や蝦夷と共通しているのです。

 熊襲や蝦夷も大和朝廷の目から見れば、まつろわぬ人々であり、荒ぶる神ですが、先住民として縄文の森の文化を受け継いでいた人々でした。ヤマトタケルとの運命の遭遇によって彼らは滅ぼされますが、ヤマトタケルは彼等の文化や運命と触れあい、そこから縄文の森の文化を引き継ごうとするのです。梅原は「ヤマトタケル」を弥生文化に基づく国家が縄文の森の文化を融合していく過程での摩擦を描いています。ということは、縄文的森の文化の圧殺が今日の環境危機の背後にあり、縄文文化を取り込むことによって日本文化が自然との共存を図ってこれたということを考えているのです。それは今日的な森の再生、森の文化の復興という課題に大いに光を当てることになりますね。環境哲学、共生と循環の哲学の重要な一環なのです。

                物神の国

 森前首相が「日本は天皇中心の神の国」だと発言して、物議を醸したことがありましたね。あの発言は神社の関係者を集まりで梅原猛の講演の後で飛び出したもので、梅原もその場にいたわけです。梅原は天皇教批判で一貫していますから、「天皇中心の」というところにひっかかるわけです。最初の単著の単行本である筑摩書房から出た『美と宗教の発見』の中で、和辻哲郎の日本文化論を痛烈に批判しています。和辻は「祀る神」と「祀られる神」に分けて、祀る神である天皇が祀ることによって、祀られる側に神聖さが付与されると考えたのです。

 つまり本源的な神聖さというのは祀る側の天皇にあるというわけですね。この論理でいくと天皇が神とするものは神になるのだから、天皇が正義とすれば正義になることになってしまい、これが侵略戦争の正当化の最大の根拠になったということです。「天皇中心の神の国」という発想は、祀る神中心で、本源的には天皇一神教だということになると梅原は批判したのです。

 ところが梅原が天皇教批判の文脈で「天皇だけを神とする」という表現をしますと、日本の神道が天皇を唯一神としたことはないと、梅原を全くの無知のように批判する人がいるのです。またそれを載せる雑誌があるんですね。梅原の和辻批判にある神聖さの根源を祀る神に求める論理でいくと、結局すべての神聖さが天皇からくることになり、天皇一神教じゃないかということなのです。神道が多神教だということを梅原が知らないということはあり得ないのだから、どういう意味で言っているのか、梅原の著作をしっかり読んでから書くべきなんです。

 何故こういう話をするかといいますと、祀る側が選んだものが神だという論理は、フェティシズム(物神信仰)の論理なんですね。この信仰は最も古い宗教形態だといわれています。ド・ブロスという人が規定したのですが、フェティシズムは、人がありふれた物を神に選んで、それに願をかけて祀るのです。その際供物を捧げたりします。でも効き目がなければ、その神を叩いたり、生き物だったら殺したりして攻撃をかけるわけです。崇拝と攻撃の交互運動が特色だということなのです。どういうものが神に選ばれるかというと最も代表的なのが、蛇と石です。ユダヤ教・キリスト教の『バイブル』の「創世記」にはエデンの園が出てきて、蛇に誘惑されますね。あれはカナン地方(現在のパレスチナ)では蛇信仰が盛んで、蛇に自分の子供を生贄に捧げる風習があり、その肉を皆でたべたといいます。ヘブライの人々はその信仰を最も嫌っていたのです。それで蛇は悪役になっています。 

 ユダヤ教のヤハウェだって元は神の山ホレブであるとか、聖石であるとか言われています。つまり元々はフェティシズムでは蛇とはライバルだったわけです。後に神は石や蛇などではなく、見えざる神だとされるようになり、有限な石や獣を神とすることを最大の神への冒涜とするようになったのです。それでそういう神を冒涜している者は皆殺しにしてもよいという論理になるのです。どうしてそういう論理が必要かと言いますと、カナンの土地に侵攻するに当たって、先住のカナンの人たちは平和に暮らしているわけですから、彼等を襲って、追い払って、自分たちの土地にしなければならない。それを正当化するのに彼らは神を冒涜しているから殺されて当然だという論理が必要だったからです。

 よく一神教は独善的で戦争をするからよくないと批判する人がいますね。梅原もその筆頭みたいな人ですが、私に言わせれば、唯一絶対の超越神、万物の創造主としての神という発想は、すごいアイデアだけれど、その発想を生み出した潜在意識には、この理屈で自分達の行うホロコースト(大虐殺)が正当化されるという思いがあったのです。これはフロイトの精神分析学の自我防衛機制でいう「合理化」です。とはいいましても、だから一神教が間違っていて、多神教が正しいということには必ずしもなりません。

 少し話が逸れましたが、日本は物神信仰の最もさかんな国のひとつです。ですから森前首相も「日本は神の国」というより「日本は物神の国」というべきだったのです。『古事記』の「ヤマトタケル説話」にも物神信仰が色々出てきます。先ほど触れました聖剣「天叢雲剣」が最強の物神です。「ヤマトタケル説話」自体が聖剣説話とも言えるでしょう。つまりヤマトタケル自身が「天叢雲剣」の化身であり、聖剣と一体だと捉えてください。

 ギリシア神話や日本神話では、神々は人間の姿をしていますね。ゼウスは恐ろしい形相で描かれたり、時には牛の姿で現れますが。神像というのはたいがい人の姿です。日本のアマテラスやスサノオも人の姿で描かれます。アマテラスは太陽であり、スサノオは嵐ですから、太陽や嵐を神の姿にして当然なのですが。神々は感情をもった人格的主体として捉えられるところから、その面で同じなので、人間の姿で描かれるようになったと思われますが、それだけじゃなくて人が神に成るということがあったようですね。

 最近ギリシア神話や日本神話の神々を歴史上の民族の祖先の族長と同一視する傾向がでてきました。例えばアマテラスは卑弥呼や神功皇后と同一視されます。だってニニギノミコトの祖母がアマテラスですし、スサノオもオオクニヌシの五代ほど祖先にあたるというわけですから。おそらく鏡を使って太陽神を憑依させていた巫女が、自他ともに太陽の化身だと思い込むようになってアマテラスという人格神になったのでしょう。嵐のように暴れ周り、侵略をする恐ろしく強い男がいて、大蛇の化身の山賊などを退治した。それで嵐の化身としてスサノオと呼ばれたという具合です。

 元々「天叢雲剣」自体が物神なのです。太陽も嵐も物神ですよ。自然の事物や事象はそれが驚くべき存在、一般人の手におえない存在の場合は神として畏怖され、敬われるわけです。そして貢物を捧げられ願いを託されます。この「天叢雲剣」は神であり、覇権を齎す存在です。ですから朝廷はこの剣を宝として秘蔵しているわけです。この剣さえあれば、深刻な内乱や侵略があっても、撃退できるということです。ヤマトタケルは熊襲征伐では、まだこの神剣を持っていません。熊襲の国は大和の男を入れないという交通規制をしていましたので、美しい女に化けて潜入したのです。そして宮殿の造営を祝う祝賀の席で熊襲タケル兄弟に酒をたくさん飲ませて酔わせた上で、兄に抱き寄せられたところを懐の小刀で心臓をグサリ、その上、酔っ払って動けない弟のお尻から一突きです。つまりお釜を掘ったのです。これは痛烈なイロ二―ですね。それにシモネタですから、この話しを聞きますと、大爆笑で盛り上がったでしょう。おそらく作者はネタを考えてきて、宮廷や藤原氏の邸宅で、夕餉の席などで話しを披露したのです。

 最強の男が小娘にお釜を掘られて、男であることを否定されてしまったのです。それで死ぬ間際に最強の勇者にふさわしい「タケル」の名をこの勇敢な小碓皇子に与えることになったのです。名前と共に勇者の魂も移転して、小碓皇子はますます強くなるわけです。小娘の格好をしていても、実は大和の大王の皇子で、熊襲タケルを滅ぼすために単身宮廷に乗り込んで、目的を遂げたのですから、超勇敢です。タケルを名乗って当然だということです。この勢いに押されて、熊襲の男たちはタケル兄弟の仇を取るどころか、たった一人の男に平定されてしまったわけです。もちろん仇をとろうと思えば飛んで火にいる夏の虫ですから、小碓皇子を殺せたはずですが、こんな凄い勇者のいる大和には逆らえないと従ったわけです。あるいはあまりの勇敢さに驚き、神だと思って抵抗できなかったということかもしれません。いやこれは実際にあったことではなくて、もちろんお話ですがね。梅原はそれぐらい凄かったとは思っているようですが。

 それで凱旋して帰ってきたヤマトタケルが、今度はすぐに蝦夷征伐にいかなければならない。そこで伊勢神宮に立ち寄って祈願したのです。その巫女であった叔母さんの倭姫が天叢雲剣と火打石を授けたのです。剣も石も物神の典型です。この神剣はただお宮に飾っていても役に立たないわけで、蝦夷征討につかってこそ、覇権の象徴なのです。でもこの剣を使いこなせるのは、天下一の勇者でなければなりません。この剣が神として活躍するに相応しいような、剣を人格化したヤマトタケルでないと駄目なのです。太陽とそれを祀る巫女が同一視されてアマテラスになり、嵐と嵐のような豪傑が同一視されてスサノオになるように、天叢雲剣とヤマトタケルは同一視されているのです。

 これは宗教的意識ですから、悟性からみてそんな馬鹿なと思わないで下さい。剣とそれを持つ人とは別の存在で両者が同一ということは悟性的にはあり得ません。しかし宗教意識では天叢雲剣は自分の分身であるヤマトタケルを呼び寄せ、ヤマトタケルは天叢雲剣を得て自らの本領を発揮できるのです。そしてヤマトタケルが天叢雲剣が覇権の象徴であったことを実証するわけです。

 ヤマトタケル伝説が神剣伝説である証拠に、ヤマトタケルはこの剣の他は、部下は一人だけで蝦夷を征伐しますし、火攻めにあったときに、この剣で草を薙いで、火打石で迎え火を起し、敵を倒します。石も守り神としての役目を果したのです。草を薙いだので草薙剣とも呼ばれるようになります。そして伊吹山の神と戦う時に、草薙剣をミヤズ姫のもとに置いてきた為に、氷雨に打たれて死ぬことになってしまいます。つまり神通力がなくなっていたのです。もうヤマトタケルがヤマトタケルでなくなっていたということですね。だから逆にヤマトタケルと草薙剣は一体だったと分るのです。それで辞世の歌に「嬢子の 床の辺に 吾が置きし つるぎの太刀、その太刀はや」と歌ったのです。

 新羅の皇子で天日矛という人物がいて、倭国に帰化して神功皇后の祖先になりますが、彼の場合もその名前から云って、神剣の化身かもしれませんね。私は個人の身体と事物の同一視という観点から物神信仰を捉えなおすと、ド・ブロスのフェティシズム論とは全く次元の異なる宗教形態として物神信仰が捉え返されるのではないかという予感がします。そしてこれは人間観の見直しとも繋がっています。ただ個人の身体だけでなく、事物も含めて人間を捉え返す「人間観の転換」の萌芽が潜んでいるからです。

 縄文の森の文化を大切にするという意味でも、物神信仰はヤマトタケル説話は貴重な素材を遺しています。先ほどの辞世の歌の前にこうあります。

「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣、 山隠れる 倭し 美し。

(大和は素晴らしい国だ。重なり合って、青垣のようになっている山々に囲まれた大和は実に麗しい。)

命の全けむ人は、 畳薦 平群の山の 熊白儔が葉をうずに插せ その子。

(命に溢れている人は、山深い平群の山の熊のように大きな白儔の葉をかんざしにさしなさい、お前たち。)

はしけやし 吾家の方よ 雲居起き来も。

(なつかしいわが家の方から雲が立ちのぼっているよ。)」

 幾重にも山々が垣根になって守っている大和は実に美しいということで、難攻不落の大和を表現しているわけです。病人にとっては帰るのはなおさら難しいのです。そして山林は縄文の森でもあります。森との共生によって大和は守られるという意味でもあります。ですから、森の生命に守ってもらいなさいというのです。ところが命に溢れている人は、つい油断してしまい、自分の生命力だけで生きている気になってしまいます。すると古く縄文時代から熊のようにでかい白儔の葉をかんざしにして、さしておくと病気にならないという呪いなどは、まったくの迷信だと思って、髪に挿そうとしなくなります。そんなふうに、慢心して自然の神を蔑ろにすると命を縮めることになるのです。

 この熊樫の葉を簪にして挿しておくというのも樹木や葉に対する物神信仰ですが、森の命への信仰でもあります。つまり個々の樹木や葉に宿る個々の命ではなく、森全体の命、自然全体の命に我々の命も繋がっているということです。この大いなる生命とのつながりを忘れると、長生きできないわけです。生命の循環と共生の哲学がここでも顔を覗かしています。

 もちろん天叢雲剣もヤマタノオロチつまり大地から取り出された、大いなる生命の化身ですから、これを置いて戦えば、命は持たないわけです。それでこのすぐ後に「わが置きし剣の太刀、その太刀はや」という辞世の歌に続くわけです。

 念のために云っておきますと、梅原が熊樫の葉信仰や神剣信仰を森の思想、生命の共生と循環の思想に通じるものとして奨励しているわけではありません。そうではありません、梅原だって葉を髪に挿しても長生きできるとは思っていませんし、天叢雲剣を持っていると天下無敵の豪傑になるとはさらさら思っていません。そうではなくて、熊樫の葉や神剣信仰の中には森の思想、生命の共生と循環の哲学が籠もっているということなのです。それを知ることによって、縄文や弥生、古墳時代の人々とも我々は共感でき、彼等の生き方からも大いに学ぶことが出来るということを言いたいわけです。

               言霊の国

 「ヤマトタケル説話」は英雄説話ですから、ヤマトタケルは英雄です。彼は大和朝廷に従わない熊襲や蝦夷を平定し、倭国の強大化を図ったのですから。しかし熊襲や蝦夷の討伐がはたして正しいことなのか、望ましいことだったのかについては、梅原猛の戯曲は大変懐疑的です。しかし農耕文化の普及と共に、巨大な水利工事や土地争い、富の蓄積がなされ、統一王朝が出来上がっていくというのは歴史的な必然性があります。森の文化を基礎にした熊襲や蝦夷の文化では、権力が集中せず、統一王朝の形成は無理です。

 しかしこの列島は約一万年続いた縄文時代には、巨大な森の生命の共生と循環のなかで自然は見事な調和を守ってきました。それが弥生時代以降の農耕の普及で、平地の森林はほとんど伐採されてしまったわけです。それでも稲作水田耕作が主たる形態でしたので、山林や湖などが保存され列島の緑ゆたかで苔水のしたたる自然環境がある程度まもられてきたわけです。そして近代の工業化の進展や林業や農業の衰退で、現在環境破壊がひどくなり、縄文の森の文化を見直そうという声が高まっているわけです。その先頭になって頑張っているのが梅原猛です。

 大和朝廷による列島の統合支配は歴史の必然だったとはいえ、乱暴な侵略ですから、熊襲や蝦夷が朝廷の力が緩めばすぐに従わなくなるのは、むしろ当然です。神武東征がたとえ事実だったとしても、勝手に神々の会議での決定を口実に正当化できるものではありません。それはアメリカ合衆国と同じ論理ですね。ようするに大和朝廷や後の日本国を神聖視し、その観点から、それに従わない賊として熊襲や蝦夷を征伐の対象にしているのです。アメリカ合衆国がアメリカン・インディアンの土地に侵略して建国した合衆国を神聖視し、その邪魔になるインディアンを保護区に監禁したのと同じです。

 梅原戯曲はヤマトタケルを英雄として描きながらも、彼に討伐される熊襲や蝦夷の方にむしろ同情的です。ヤマトタケルは何も好き好んで熊襲や蝦夷を討つのではなく、父帝の命令により、また皇子の立場からやむを得ず戦いに出かけるわけです。しかも兵隊をつけてもらえず単身死を覚悟で敵陣に乗り込むのです。それで大和朝廷や父帝に殺されるという意味では、熊襲や蝦夷と同じ境遇であると言えます。

 父帝が、熊襲討伐から帰ったばかりのヤマトタケルを早速、蝦夷征伐に部下を一人つけただけで、旅立たせたので、これではいかにも早く死ねといっているようだと小碓皇子は歎きます。ヤマトタケルは伊勢で叔母の倭姫にこう言います。 
それはほうびではありません。蝦夷の国は大和の天皇の土地ではありませんよ。大和の国はみやびの国です。言魂の幸わう国ですよ。死ねという代わりに、広い広い、大きい大きい、豊かな豊かな国をおまえにほうびにやろうと言われる。すばらしい言葉です。この国は言魂の国です。嘘ばかりの国です。こんな国よりは熊襲の国のほうがずっとましです。あの国では人間が、もっと素直でした。私は熊襲の国に、逃れればよかったのです。」

 つまり父帝はヤマトタケルが恐ろしいわけですね。でも弱みを見せれば、失脚につながるし、皇后勢力の圧力もあるので、美辞麗句でごまかすしかないのです。そこがヤマトタケルには歯がゆいところです。ヤマトタケルは、父帝への兄のクーデター計画に参画するくらいなら、死んだ方がましだと思って、兄とトラブルになり、兄を殺してしまったぐらいですから、父が本心でぶつかってくれば、心が通い、父子の協力でよい国造りができる筈だと思っているのです。でも父帝は本心を明かさず建前のきれいごとで自らの本音を隠すのです。父帝が息子を死なせなければならないギリギリの事情があるのなら、その断腸の思いを打ち明けて欲しいのに、それならいつでも父帝のためになら死んでもいいのです。それを嘘で誤魔化し、褒美をやろうと言う。これでは父に裏切られているわけです。

 梅原は嘘が嫌いなんです。彼は天皇教の嘘によって戦争に狩り出され、屈辱を味わった経験があります。彼らは天皇は神であり、世界を天皇が中心になって一つの家族のようにする人類協和の時代を切り拓くのだという美辞麗句のもとで野蛮で残虐な侵略戦争に加担させられたわけです。天皇のためなら死んでもよいという気持にまでさせられたわけです。しかし戦争が終わってみれば、それは全くの嘘で奇麗事は侵略のための口先だけの大嘘にすぎなかったわけです。しかしこの嘘は高天原の神々の会議でニニギノミコトの地上支配権が決まっていたという嘘があって、それを引き摺っているのです。

 国民を騙して戦争に追い込むという権力者のやり方は、今回の米英によるイラク侵攻でも見られましたね。確たる証拠もないのに大量破壊兵器を持っているという嫌疑をかけて、国民の恐怖心を煽り、侵攻したのです。たしかにフセインの恐怖独裁政治はよくないし、国際テロリストに核兵器や毒ガス兵器などが流れたらと思うと恐ろしい気持になるのは分りますが、それで国連は査察しているわけだから、結果が出るまでまてばいいわけです。第一米英が無感覚すぎるのは、彼らは自分達だけが正義だと独断し、正義だから自分達は大量破壊兵器を持ってもいいんだと考えていることです。そういう兵器の存在自体の恐ろしさや、独善の恐ろしさというものを分かっていない。イスラム過激派にすれば、それに対抗できるのは自爆テロしかないじゃないかということになるのです。

 父と子の間の嘘、家族の嘘というものが、梅原猛のトラウマなんです。つまり最も根源的な心の傷です。彼は伯父・伯母夫婦を実の父母だと思い込まされて育てられたのです。養父母は実の父母以上に愛情を注いで彼を育てました。彼は心底から感謝しているのですが、本当に幸福を考えるのなら、実の両親の結婚を認めてくれればよかったわけです。そしたら両親が心痛から結核にかかり、生母を二十歳の若さで死なせることはなかった筈です。

 梅原は実父とも葛藤を抱えていたといわれています。その内容はよく分かりませんが、彼の父はトヨタの研究所長を長く勤め、相当成功した人で、猛の活動も随分支えてくれて感謝しているようです。『ヤマトタケル』の内容から察するに、実父は後妻をもらって、家族を作っていて、結局猛は養父母の家督も継がなかったし、実父の家族にも成れなかった、「父とは腹を割った話ができなかった。」というヤマトタケルの台詞には、猛の父への気持がこもっているわけです。父は後妻に遠慮して猛との距離を埋めようとしないという不満があったのかもしれません。問題は、家督をつげるとか、財産がどうのというようなことではありません。梅原猛は別に家督も財産もどうでもいいんです。彼は成功者だし、まあ怖い者なしです。でも一番哀しいのは、嘘があるということですね。何もかもぶちまけて、そこにひとつも嘘がなければ、かけがえのない肉親ですから、「お父さんあなたの為なら死ねますよ」というメッセージが『ヤマトタケル』にはこめられているのかもしれません。これって哲学ですね。

 生きるためには殺さなければなりません。でも日常的には食物連鎖で食べたり食べられたりする形で、命のやり取りがあります。だから人間同士で斬り合いをしているわけではありません。とは言いましても、人間が生きるということは、やはり自然的に生きるだけでは駄目で、社会的にも生きなければなりません。社会的な命のやり取りで人間同志の殺し合いや、生き残りをかけた、ポストの奪い合いなどがあります。「聖母たちのララバイ」という歌がありましたね、「この都会(まち)は 戦場だから 男はみんな 傷を負った戦士」 というの、あの歌みたいな現実もあるわけです。そんな時、女は「どうぞ 心の痛みをぬぐって 小さな子供の昔に帰って 熱い胸に 甘えて」と癒しやひとときの休息の提供者みたいに岩崎宏美は歌っていたけれど、敗残し、負傷した男たちを抱えて、女がジャンヌダルクのように剣を持たなければならない時代です。もう、戦士に性別なんてないんです。

 家族の中でだって、だれかに犠牲が生じる場合もありえます。その際、親が子のために、子が親の為に死ななければならない場合もあり得るわけです。本当に死ぬのではなくて我慢したりすることもあります。その時に、嘘やごまかしで表面的な奇麗事にして取り繕うから、そこに葛藤や憎悪が生じるのです。

 国家が国民に犠牲を強いたり、血を流させることもありますね。政治家や権力者が国民を騙して、国民を凶悪な殺人者にしたり、生贄にしたりしてはいけないのです。小泉純一郎は構造改革をやり遂げると言ったけれど、それは各企業が、各職場が、各個人がどうしてもやらざるを得ない、やらないと生き残れないことです。八方塞の状況にあるのは国民ひとりひとりで、まさしくヤマトタケルになって単身斬り込まなければならないのは、国民ひとりひとりかもしれないのです。政府は後押しはできても、政府が出来ることは限られています。小泉純一郎を首相にすればできるというわけじゃない。自分が構造改革をやるんだと言い過ぎると嘘になってしまいます。彼は本当は「構造改革をする」といわずに「構造改革をしなさい」というべきだった。そのノウハウや心がけを募り、国民に知らせ、また進捗状況を点検する体制を整えるということにすべきだったのです。

             歌の起こり

 もうひとつ「ヤマトタケル説話」には「歌の起こり」というテーマがあります。これも人間にとって根源的なことですから哲学的ですね。歌の起源は分りませんが、『古事記』によりますとスサノオが「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」と歌ったのが最初の歌になっています。

 櫛名田比売(くしなだひめ)を八股大蛇から守ったスサノオは、聖なる霊でもある雲がたくさん立ち上って何重にも垣根を作っているように見えるので、「雲かたくさんでる出雲に何重もの垣根のある立派な家を作って妻を取り込める、その八重垣の家を守りなさい、いとしい妻よ」というような意味と思われる歌を作ったのです。

 『古事記』の原作者を柿本人麻呂としますと、こういう歌も柿本人麻呂が作ったことになるのでしょうか。それとも古くからの伝承なのでしょうか。それは人麻呂がどの程度まで書いていたのか分りませんので、何ともいえませんね。ヤマトタケル伝説は柿本人麻呂が伝承を元に手を入れて作ったと考えられます。その中の歌も素晴らしいのは、人麻呂の手が入っているからかもしれません。

 弟橘媛が嵐を鎮めるために海に入水する際、「さねさし相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」と歌ったのです。戯曲では「私は嬉しゅうございます。皇子様は、私をこの旅に連れてきてくださった。焼津で火に囲まれたとき、私は皇子様と死ねる幸せでいっぱいでした」となっている。「火攻めにあって皇子といっしょに殺されかけた、その想い出があるから、自分はあなたの為ならいつでも死ねます」ということです。

 つまり弟橘媛にとって幸せてとは何かということです。大王の皇子は多くの女性を妻にしますから、いつも何人かの内の一人に過ぎないわけです。それが蝦夷との戦いの旅に同行を許されたわけです。ということはこの戦いは生きて帰れる見込みはほとんどないのだから、一緒に死ねるならそれもよいという感じで、道行心中に近い形だったのです。それを弟橘媛は願っていたわけです。実際には草薙剣と火打石のお陰で助かったけれど、それはおまけみたいなもので、火の中で、自分の名前を呼んでもらえたので、その刹那に永遠の幸せを感じたということなのです。こういう刹那に永遠を感得するのを「永遠の今」といいます。『法華経』では「久遠実成の時」といいます。哲学や宗教では最も重要な課題です。今この瞬間において永遠を体得するということですから。

 でも人間はあさましいと言うか、凄まじい存在ですね。梅原は弟橘媛の臨終を海神への輿入れに変えてしまいます。犠牲の筈の入水が海神への輿入れという華やかな儀式に転換し、畳をたくさん積んでその上に乗ってこれから海神の花嫁だ。そこでは私が皇后だとはしゃがせるのです。最初は皇子に心配させないための強がりの台詞のつもりだったのが、だんだん本気の台詞になってきた、作家を離れて登場人物が一人歩きを始めたと語っています。それはやはり生への執着でしょう。皇后の地位などという現世的な欲に執着して死んでいくのです。それが同時に小碓皇子への思いやりにもなっているところが哀れを誘います。

 歌の起こりは歌垣からくるという説があります。男女が顔を見合わせないで、里山などで歌を詠んで受け答えをするのです。最初は歌と言っても決まった形がなかったでしょうが、次第にととのってきたということです。素晴らしい問いかけや絶妙の応答が返ってくれば、歌垣が盛り上がり、胸が熱くなったでしょうね。問答の形をとっているのが美夜受媛との相聞歌です。これは戯曲でもそのまま宴会での舞を伴う歌になっています。

 東国の平定の旅は尾張から始まって、尾張で終わるのですが、尾張の国造はヤマトタケルを歓迎し、娘のミヤズヒメとまぐわせようとします。国造などは大王や皇子が立ち寄ると、外戚になるために、娘を差し出そうとするものなのです。でもヤマトタケルは往路では兄橘媛・弟橘媛のことを気遣って遠慮したわけです。蝦夷征伐が大成功で帰りに立ち寄った時には、勢いがさかんですから当然ミヤズヒメを抱く気は満々だったのです。ミヤズヒメもヤマトタケルに気があったれど、戦は伊吹山の山神退治を最後にすることを婚礼の条件にするのです。

 国造の娘が皇子にそんな条件などつけられる筈もありませんが、そこは梅原の女性客へのサービスですね。家庭を守り、夫や子供との平和な暮らしを大切にしたいという女の強い思いをミヤズヒメに代弁させているのです。ミヤズヒメの要求を戯曲に入れたことで、自分の意見を言える女性像への共感を誘い、これが梅原や猿之助歌舞伎への女性たちの思い入れを強くしました。梅原読者には中高年の女性が多いのです。彼女たちの思いに照準をきちんと合わせているところが憎いでですね。

 この婚礼の条件を受け入れたことから、心理的に伊吹山の山神に対する戦意の低下につながり、緊張感がゆるんで草薙の剣を置いて出かけるという致命的な油断につながったわけですから、ドラマの展開としてもミヤズヒメの要求は大きな意味があります。

 さてこれから婚礼で盛り上がるという時に、ミヤズヒメの裳の裾に赤いものがついていたのです。婚礼に水をさすような月経の血です。普通なら女が人前ではしたないと咎められるところですし、興ざめしてしまい場が白けるものですが、そこを小碓皇子は機転を利かして、舞を舞ってこう歌います。

 「ひさかたの 天の香具山 利鎌に さ渡る鵠 弱細 手弱腕を まかむとは 我はすれど さ寝むとは 我は思へど 汝が著せる 襲の裾に 月立ちにけり(天の香具山に夕方に、とんでいる白鳥のくびのような、弱く細いおまえの腕、そのなよなよした腕と私の腕をくみ合わして、おまえを抱こうと思って帰ってきたのに、おまえとゆっくり寝たいと思ってきたのに、おまえの着ているはかまのすそに月が立っているよ)」

 これに対してみやず姫も返歌を作って舞いました。

 「高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経往く うべなうべな 君待ち難に 我が著せる 襲の裾に 月立たなむよ(私は日のように輝いている命様のお帰りを今か今かとお待ちしていましたが、命様はお帰りにならず多くの年がたって行き、多くの月が立って行きました。多くの月が立って行きましたので、あなたを待って、私のはかまの裾に月が立つのも無理はありませんよ。)」

 月経の血は女性の穢れの象徴のようなもので、女性が霊山・霊場などの聖なる場所に立ち入るのを禁止される口実にされてきました。土俵に女性が上るのを嫌うのもそれが関係かあると言われます。そのような忌み嫌われていたものを「月が経つ」を「月が立つ」に転換することで、婚礼の祝いに月が昇ってきたといういかにもめでたいイメージに昇華したのです。この皇子の優しい機転に感謝して、ミヤズヒメは、皇子の帰りを待ちくたびれたので「月日が経った」のも当然だ、つまり「月が経った」のも当然だと応えたのです。そこにはいとしい人を待ちわびる血のでるような女の思いが籠もっていますね。

 両方とも語呂合わせによるイメージの転換、昇華ですが、そこでは鬱積した思いの丈を歌にすることで、晴らす効果があります。また不浄なものを浄化し、無粋なものを風流なものにする働きがあるわけです。本居宣長も「伏す猪の床」という歌の言葉で、無粋の筆頭のような猪でさえ、風流を感じさせる歌のはたらきを讃えています。

 ヤマトタケルにとって凱旋の前に尾張でミヤズヒメと婚礼をするというのは、大変大きな意味を持っていたかもしれません。熊襲や蝦夷を平定して大和に入るわけですし、皇后の勢力は皇后の死によって壊滅してしまって、ヤマトタケルが凱旋すれば、実権はヤマトタケルのものになるわけです。その際、尾張の国造との縁は大きな後ろ盾を得ることなります。

 またミヤズヒメにとってもこの機会を措いて、女の幸せを掴むことはできないのです。つまり国造などの地方豪族は中央の実力者と結合することで、勢力を保てるわけですから、娘が皇子と婚礼をしてくれなければ困るわけで、そのために普段は、八重垣の中に箱入り娘として大切に育てているわけです。ですからこのチャンスが不吉な月経でふいになっては大変な不幸ですね。ふたりの相聞歌はその意味で互いの人生がかかっています。

 そして何より互いに相手を欲しがっています。燃える思いがあるわけです。それを月が経ったということで諦めることはできない。その張り裂けそうな命の叫びが歌や舞になって素晴らしい舞台をつくっています。ですから歌というのもそういう命の叫びがあって生まれてくるのです。燃える思いを閉じ込めないで表現して、ぶつけないといけないのです。歌は命の叫びであり、命を輝かせるためのギリギリの表現です。生きるために歌うのです。歌うことで命が輝くのです。このように歌の意味を根底的に捉え返すのも哲学ですね。

 でもなかなかこれほど素晴らしい表現はできないでしょう。燃える思いはあっても言葉にはなりません。それでは伝わらないし、思いが叶わない。ですから、いろんな歌を覚え、日頃から自分の思いを歌にする習慣を身に付けておかなければならないのです。それが教養ですね。果たしてどれだか哲学的に語れたのか、大いに不安ではありますが、梅原猛は最低これぐらいのことは、戯曲『ヤマトタケル』の哲学として語りたかったのではないかという、私の解釈です。ホームページにも掲載しますので、感想や注文があれば、ホームページの掲示板にも投稿願います。

『オオクニヌシ』の哲学講義

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