梅原猛の『ヤマトタケル』
 

                スーパー歌舞伎の誕生
 

                   けれんにて心捉える歌舞伎にも胸迫り来る金のせりふを

 

 「梅原猛は学会の市川猿之助であり、市川猿之助は歌舞伎界の梅原猛だ」と言ったのは、京大での梅原猛の師にあたる桑原武夫である。梅原は猿之助に「情熱的でわが道を行って、だから孤独で世間からはたたかれる。それにずるさとか自己防衛本能とかはない。こういう生き方が共通しているから、タケルに自己投影できるんですね」と語っている。

 梅原は西洋哲学者なのに、日本古代史の謎にのめり込み、『隠された十字架』『水底の歌』などユニークな「梅原古代学」を形成している。哲学者仲間からは哲学をほったらかして脇道にそれていると非難されていたし、日本古代史の研究者からは荒唐無稽で夢想の産物のようにくそみそにけなされたりしていた。それでも情熱的にわが道を行って、生きた人間の生きざまが分かる独自の古代史像を提供してくれているのだ。

 猿之助は、古典芸能化して本来のおもしろさを失ってしまった歌舞伎に生気を取り戻すために苦闘していた。早替わりや宙吊りなどのさまざまな仕掛けを使い、目を見張らせるような豪壮で派手な舞台造りに挑戦していた。それは古典芸能として個人の芸や演技を見せる歌舞伎界では、品を落とすものとして反発されていたのだ。

 梅原は猿之助歌舞伎こそが、歌舞伎本来の創造的な舞台造りの原点に立つものとして高く評価していた。ただ梅原の不満は、台本の古さにあった。歌舞伎の台本は、台詞まわしの技術などで補っているものの、もともと人生の機微や深い意味を捉えたシェークスピア劇のような名台詞が乏しいということである。そのことを梅原は宴会の席で猿之助に指摘すると、猿之助はそれならと梅原に台本を書くように依頼したのだ。梅原はこの依頼を単なる社交辞令とは受け取らなかったのである。

 まさか学者が歌舞伎台本を書くなんて、たとえ書いても学術論文みたいに堅苦しい、難解なドラマになって、大衆的な猿之助歌舞伎の台本にはならないだろうと思われそうだ。ところが、猿之助は『地獄の思想』以来、梅原猛の研究をよく読んでいたのだ。梅原の作品には歴史の中で人間が描かれている。歴史の中で生きた人間の情念を描いているのだ。どんな夢を抱き、何を守ろうとして人々が苦闘したのか、それぞれの登場人物に感情移入して書いているのである。だから梅原古代学は、たんなる学術書ではなくて、人間ドラマでもあるのだ。それで猿之助をはじめとする芸能人にも幅広く愛読されている。猿之助には駄目で元々の気持ちはあったものの、ひょっとしたらこの先生なら凄いドラマを書き上げるのではないかという期待があったに違いないのだ。

 梅原は次に出会ったときに催促されて、京都芸大の学長を辞めたら書くよとその場を取り繕った。そして実際に辞めてから、辞めたら書くという約束だったでしょうと言われ、本気で書く気になって、歌舞伎台本の書き方の要領を猿之助にたずね、一気に書いてしまったのである。

 それがこの『ヤマトタケル』である。しかしこの台本のまま上演すると、歌舞伎は台詞回しが長いこともあり、九時間にもなってしまうので、猿之助が三分の一ほどに削って、なんとか舞台に乗せたのである。そしたら早替わりから始まって宙吊りに終わる絢爛豪華な猿之助歌舞伎の醍醐味が十分味わえるだけでなく、一つ一つの台詞が人生の意味を感じさせる名台詞の連続で、しかも教訓臭さもなく、役者も観客も大いに楽しめるので、大受けに受けたのだ。これは既成の歌舞伎とは違う新しい歌舞伎だというわけで、「スーパー歌舞伎」が誕生したのである。

 これに気をよくした梅原は『オオクニヌシ』や『小栗判官』『ギルガメシュ』などを書き、さらに歌舞伎台本には飽き足らなくなって、『中世小説集』と『もののかたり』などの短編小説集を世に問うたのである。そして現在長編小説『(仮題)我輩はムツゴロウである』に取りかかり、その序章が『新潮』誌上に掲載された。その全体がもうすぐ出版される筈であった。先にスーパー狂言の『ムツゴロウ』ができて、その台本はまだ入手していいないが、梅原本人の語るところでは、ともかくおもしろい舞台だったそうだ。「『ヤマトタケル』を観て一番泣いたのが梅原猛で、『ムツゴロウ』を観て一番笑ったのが梅原猛だという評判を頂戴した」とご満悦であった。

 

 

                  梅原猛とヤマトタケル

 

            猛こそタケルに似しやただ一人権威に挑みてひるむことなし

 

 梅原は「ヤマトタケル」に自分を投影しているのだ。「タケル」という名前が「タケシ」とその勇猛さにおいて共通している。だから、梅原猛は現代のヤマトタケルのつもりなのである。スーパー歌舞伎は、梅原猛が台本面では単身歌舞伎の世界に殴り込みをかけて、作りだしている。梅原古代学ももちろん単身殴り込みのようなものだ。

 単身といっても、スーパー歌舞伎はあくまで猿之助劇団の歌舞伎であり、それを台本面で助けているだけである。猿之助劇団の力なしでは成り立たない。梅原古代学も藤原不比等を最大の黒幕として歴史を読む点に関しては、上山春平との共同作業が踏み台になっている。その意味では独力で作り上げたとは言えない。しかし活き活きと人間が躍動する梅原古代学の世界は、梅原猛の個性と切り離せないものになっているのである。

 それ以前に梅原は、尊皇思想を日本の精神的伝統の軸として評価する和辻哲郎や鈴木大

拙を批判して、仏教や神仏習合の思想を再評価しようとした。これなども日本思想と言えば、神道や国学に限定していた旧来の権威に対して大胆に挑戦したものとして大いに意義がある。つまり思想家の戦いも新しい時代を切り開く戦いという意味では、ヤマトタケルの戦いと共通するものがあるわけだ。

 とはいえ梅原はヤマトタケルのクマソやエミシそして大江山の山神との戦いを、必ずしも支持しているわけではない。梅原はクマソやエミシそして大江山の山神などを縄文的な狩猟・採集・漁猟民とみている。むしろ縄文の森の文化の意義を強調している梅原にすれば、大和政権による日本全土の統一は、弥生の農耕文化による全国制覇を意味するのだ。それは大変悲劇的な事態でもあるわけである。しかし狩猟・採集中心から農耕中心への産業構造の転換は、鉄製農具や鉄製武器の普及と共に歴史的な必然性を持っていたのだ。我々は西洋人とアメリカ先住民、オーストラリアン・アポリジニとの関係で、西洋人による大量虐殺や土地の強奪、激しい収奪などを非難するが、大和政権による平定は先住民狩りの要素を色濃く残していたという梅原の解釈なのである。

 

             ヤマトタケルの時代


                        大王にまつろはぬ民数あれど草薙の剣たむけやはせむ


 

 オオソドックスな歴史認識では大和政権による全国統一は、三世紀から四世紀にかけて北九州中心の銅剣・銅鉾文化圏と大和中心の銅鐸文化圏のような弥生農耕文化圏同志の覇権闘争に一応決着がつき、北九州の勢力が大和を中心にするオオクニヌシの勢力を、または物部氏の祖先といわれるニギハヤヒの勢力を圧倒して統合したことになっている。邪馬台国北九州説は北九州勢力が邪馬台国であったとし、邪馬台国大和説ではこのオオクニヌシの勢力が邪馬台国であったことになる。ともかく全国を制覇した政権は東国開発の為にも都を大和に置いて大和政権を作り上げたわけである。この農耕文化圏の全国的な政治的軍事的統合が六六三年の白村江の戦い以降になったというのが古田武彦らの九州王朝説である。なお古田説では『魏志』倭人伝では「邪馬壹国」であり、「邪馬臺国」ではない。

 六世紀の段階でも農耕文化圏にありながら、筑紫君磐井のように新羅等と結合して大和政権に反抗するものもあるが、五世紀にクマソ、エミシ、そして山人を糾合して農耕文化に抵抗する勢力などが、侮りがたい抵抗を続けていたという構図を梅原は描いているのだ。クマソ、エミシと言っても弥生農耕民であった可能性もあり、梅原の解釈が当たっているかどうかは、確証はないが、ドラマ的には縄文的な森の文化の抵抗という図式にした方がずっと盛り上がるのだ。

 ヤマトタケルは『古事記』では十二代の景行天皇の皇子である。ところが梅原猛『ヤマトタケル』ではヤマトタケルの息子がワカタケルになっている。このワカタケルは二十一代の雄略天皇になる大長谷の若建の命とは別人である。でもワカタケルの名を登場させることで、梅原は、おそらく雄略天皇を連想させようとしたのだろう。雄略天皇は倭の五王の武ということになっており、順帝の昇明二年に書かれた「倭王の武の上表文」(宋書倭国伝)に次のようにあるので、ヤマトタケルの英雄伝にイメージ的につながると梅原は判断したのかもしれない。

 

「封国は偏遠にして藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑を き、山川を跋渉して寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北平ぐること九十五国。・・・(私が封じられている国は、宋からは遠い辺鄙な所に国を建てていますが、昔から私の祖先は、国土を平定するために、みずから甲冑を身につけて武装し、山川をかけめぐり、休む暇もありませんでした。そして東は毛人の国五十五国、西は衆夷の国六十六国、北は海北の国九十五国を征服しました。・・)」

 

ところでこの上表文の解釈は難しい問題を含んでいる。毛人は蝦夷(エミシ)を指し、衆夷が熊襲を指すとすれば、梅原戯曲のヤマトタケルの英雄伝に相応しいのだが、邪馬台国は全体三十の国から構成されていた。それが上表文の国数は二百を越えるのだ。それが倭国本体を含まない蝦夷、熊襲、加羅の国数となると、時代の違いを勘案しても、数が合わない気がする。もしこの国数二百が倭国全体だとしたら、毛人は畿内から見て東の諸国を指し、衆夷は畿内から見て西の諸国を指すことになり、毛人、衆夷などもヤマトタケルの英雄伝とは関係なくなるのだ。もちろんこの上表文が『古事記』のヤマトタケルの英雄伝に直接関係しなければならないことはないのだが。

 

                    小碓命の兄殺し
 

             兄殺し命をかけて尽くしたるその真心を父よ知らじな

 

 ヤマトタケルの英雄伝は悲劇である。最後は大和に帰ることができず、霊が白鳥になって帰るのだから。悲劇に相応しく、弟小碓命の兄大碓命殺しがこの英雄伝の発端になっている。『古事記』では小碓命が乱暴なので、兄の手足をひきちぎりこもに包んで河に捨てた、ということになっているのだ。しかしそれなら即刻死刑になるところだが、熊襲征伐を命じられている。そこで梅原は、小碓命の兄殺しにはやむにやまれぬ事情があったと忖度し、その線で創作したのである。

 梅原は『日本書紀』に準拠して、この兄弟を双子の設定にした。一人二役の早替わりの場面を作るにも好都合だ。つまり猿之助歌舞伎では曲芸的なショーを取り込んでおかないと、観客は納得しない。また双子や兄弟は、一人の人間の内面の葛藤を二つの人格にして露わにするという役目を担っている。大碓命と小碓命、兄橘姫と弟橘姫は人間の内面的な葛藤を、兄弟間や姉妹間の愛憎劇として展開する格好の素材なのである。

 大碓命が朝餉の儀式をすっぽかしているので、スメラミコトの機嫌が悪い。小碓命が兄の様子を伺い、説得をしに尋ねたのだ。戯曲では兄は仮病を使って休んでいた。兄の家には、但馬守がスメラミコトに差し出した筈の兄橘姫と弟橘姫がいる。兄橘姫は既に大碓命の妃になっていた。実はこの兄は姉だけでなく、妹までも強引に手篭めにしようとねらっていたのだ。しかし帝に差し出す筈の姉妹を囲っていたのだから、露見すると大変なことになる。

 実は大碓命が朝餉の儀式を休んでいたのは、梅原の創作では、クーデターの企みがあったからなのである。大碓命は日継ぎの皇子なのだから、クーデターをしなくてもよさそうなものだが、それが複雑な事情があるのだ。大碓命と小碓命の兄弟の母は若くして亡くなり、彼らの育ての親である叔母が皇后となっていた。やがて皇后に実子が出来て、それから皇后が、大碓命と小碓命の兄弟を亡き者にしようと企み始めているというのである。食事に毒が盛られたり、狩りに行くと矢が飛んできて、御供の者が死んだりする事件が起こっていて、大碓命がそのことを言っても偶然の事故のように見なされ、真剣に取り合ってくれないというのである。

 やられる前にやるしかない、叔母を殺せば父帝に殺されるだけだから、いっそ父帝を殺して権力を取ろうと大碓命が決意した。そして小碓命は、クーデターへの加担を迫られたのである。もちろん小碓命は断固として父帝殺しを拒絶した。そこで秘密を打ち明けた以上生きて帰せないということで、兄が斬りかかり、もみ合う内に小碓命は兄を斬り殺してしまったのだ。

 

          小碓命、真相を隠し、熊襲征伐を命じられる

                          

                              謀反心抱きし兄を引きちぎりこもに包んで川に捨てにき

 兄の手足を引きちぎり、こもに包んで川に捨てたと報告した。(『日本書紀』には小碓命の兄殺しの話はない)小碓命は、兄大碓命の罪を告発する気持ちにどうしてもなれなかったのだ。小碓命は大碓命とは双子で瓜二つだが性格はまるで違うのだ。兄は思慮深いが行動力がない。弟は短慮だが行動力がある。兄が考え、弟が行動するのである。この兄弟は二人で一人なのだ。父帝に対するクーデターも兄がぎりぎりの思い詰めた結果としての命懸けの決断だったので、その兄を告発することは兄が自分の分も考えてくれた結果だけに、自分自身を告発するような気がしたのである。

 小碓命と大碓命は同じ運命にあった。生き残る為に父帝を殺すか、父を殺すぐらいなら自分が死ぬかで葛藤していたのだ。それが大碓命と小碓命の争いとして展開されたのだ。結局、小碓命は謀叛の心を殺して、自己犠牲の道を選んでしまったのである。

小碓命が一切弁解がましいことを言わないので、スメラミコトは恐ろしくなって死刑にしようとしたが、大臣たちが日頃優しい小碓命を知っていたので、助命嘆願して、その結果熊襲征伐を命じられたのだ。だが単身敵地に乗り込んで殺してこいという命令なのである。

 

        小碓命、女装して、熊襲タケルを倒す

                       タケルなる強き男を倒すには弱き女子に成りて虚をつく


 

 たとえ標的の熊襲タケル二人を殺しても、敵地だから、皆に囲まれて仇を取られてしまう。単身乗り込むなんて、現実的に考えればあり得ないことだ。ただ最強の筈の熊襲タケル二人が殺されたので、熊襲たちはだれもかなわないと思って従ったということだろう。それでも小碓命がスメラミコトの皇子を名乗らなければ、きっと殺されていた筈である。熊襲タケル二人が殺されてしまったので、大和政権と戦って勝てる自信がなくなり、ここは小碓命に従っておいたほうが賢明だと判断したと思われる。

ところで興味深いことだが、猿之助が梅原にこんな質問をしている。

 

「ところでヤマトタケルという人は、二十数歳で亡くなる短い生涯の間に西に東に遠征して、ほとんど一人で敵をやっつけてしまうわけですが、本当にそんなに強い英雄というのが実在したんでしょうか。」

 

これに対して梅原は、すっかりヤマトタケルに感情移入していたせいか、次のように応えている。

 

「私はそういう人物が伝説でなく本当にいたと思うな。大和朝廷の日本統一がいいことだったかどうかはわからないけれど、彼の働きを僕は信じますね。ああいう英雄がいなかったら、あの時期に日本は統一国家にならなかったろうと思います。」

 

いかに懲罰的意味があっても、皇子が単身敵地に潜入して、敵の大将を殺し、しかも堂々と敵を従えて生還するなんてことはあまりに荒唐無稽で、そんな無茶な作戦を取る筈がない。(『日本書紀』では単身敵地に潜入ではない)もっとも刺客を放って敵の大将を暗殺することはあっただろう。梅原は自分が孤軍奮闘している姿をヤマトタケルにダブらせているから、ヤマトタケルの実在性への確信は自分の仕事への自信と切り離せないのだ。

 大和の男を入れない熊襲に入るために、小碓命は女装した。まさか強い男が女に化けて潜入してくるとは思わなかったので、熊襲タケルはこの美しい大和の女を抱こうとして、気を許してしまう。小碓命は自らの強い男らしさを隠して、か弱い女を装ったのである。強い男と戦う時は、自らの強さを表面に出してはいけないのだ。わざと弱々しく振る舞い、油断させ、酒に酔わせるなど相手が強さを発揮できないようにした上で、相手の懐に入って、抱擁させて兄タケルを至近距離から刺し殺したわけである。

そして酔っぱらった弟タケルも追い詰められて尻から刺されるが、そこで刺客の名を尋ね、スメラミコトの皇子小碓命だと知ると、勇者の名である熊襲タケルの「タケル」を取って、「ヤマトタケル」と名乗るように頼んだのだ。

 

「この名とともにわれらの魂が、あなたにのりうつり、あなたは強い強い、ますます強い人間になられるでしょう。日本一の強い人になられるでしょう。わが魂よ、強い強い私の魂よ。私の体を離れて、私の名とともに、この命にのりうつってくれ、熊襲の魂を、この皇子にのりうつらせてくれ」と言い遺して死んでいった。

 

 弟タケルは女の姿をした小碓命に背を向けて逃げたので、男としての面子丸潰れである。

それでまるでお釜を掘られるみたいに、尻から剣を差し込まれたのだ。もはやタケルの名に相応しくない。むしろ小碓命にこそタケルの名が相応しいということなのだ。潔く敗北を認めた弟タケルは「タケル」という名を小碓命に捧げることによって、勇ましい魂を引き継いでもらおうとするのである。

アフリカでは戦いで敵の勇者を殺すとその肉を食べて、その勇敢な魂を取り込もうとしたと言われる。また日本でも子供が生まれると、先祖の名前をつけて、先祖の魂が子供に宿ることを願う。この時代に魂の移転という観念が果してあったかどうか、実証するのは難しいのだが、梅原は縄文時代から魂があの世とこの世を往還するという観念があったとしている。

 

戯曲ではカットされた出雲タケル征伐
 

       友と呼び木刀与えてだまし討ち父王の嘘皇子も受継ぐ

 

 熊襲タケルを滅ばして、その名をもらいヤマトタケルを名乗った小碓命は、熊襲タケルの勇猛な魂を引き継いで、パワーアップして帰るが、途中で山の神、河の神また穴戸の神をみな平定し、おだやかにさせて帰るのだ。またヤマトタケルは出雲に立ち寄って、出雲タケルを征伐している。ところが戯曲ではカットされている。(『日本書紀』でもカットである。)どういう意図でカットされたのか分からないが、出雲征伐にはヤマトタケルの性格がよく現れている。

 出雲タケルを殺しに行くのだが、単身で行くので、油断させる為にまず「結友したまひき」とある。つまり友の契りを結んだわけである。それで自分の太刀を赤儔で模造し、一緒に河で水浴びをして、先に上がって太刀を取り替えようと提案し、出雲タケルに模造品を与えてから、太刀合わせを挑み、殺してしまったのだ。

 単身で乗り込む以上、いかなる策も厭わないのは分かるが、この場合は、人の信頼を裏切るあまりに卑怯なやり方である。これでは出雲一族の恨みを買うので、後の統治がやりにくいと思われる。とはいえ出雲タケルが暴君で出雲の国の嫌われ者だったのなら別だが。

 イスラム教シーア派の暗殺教団ではナイフで胸を一突きで殺さなければならなかったので、ターゲットの人物に近づき、その腹心や秘書になって完全に警戒心を無くしてから、ブスリとやったそうだ。それと大和政権の皇子が同じようなやり方をするのは、あまり感心できない。梅原もひどい騙し方だと感じ、英雄伝には相応しくないと思ってカットしたのかもしれない。ヤマトタケルは父王の嘘を批難するが、嘘つきの血はしっかり受継がれていることになる。

 

小碓命の生還と蝦夷征伐命令
 

       兜脱ぎくつろぐ暇もなきものか、蝦夷討てとは死ねと言うごと

 

 景行天皇は、驚いた。小碓命が熊襲タケル征伐で、殺されてしまうと思っていた。ところが熊襲だけではなく、朝廷にまつろわぬ神々や部族の長などもやっつけて、堂々と凱旋してきたのだ。スメラミコト以上に驚いたのが、皇后とその取り巻きだ。小碓命が遠征中に実権を握っていたが、大手柄で凱旋してきたので戦々恐々である。パワーアップして帰ってきたのだから、スメラミコトも小碓命に対する恐怖心を強めたのかもしれない。そこでスメラミコトは小碓命と兄橘姫を祝言させ、早速吉備のタケヒコ(御友耳建日子)を副えて東国の蝦夷退治に行かせるのだ。

 スメラミコトは「東の方十二道の荒ぶる神、また伏はぬ人どもを、言向け和平せ」と命

令した。十二道とは伊勢国から陸奥国まで含む。だから景行天皇の時代には、東国での大和朝廷の権威がかなり弱くなっていたと考えられる。ものは言いようだ、死ねという替わりに、大和政権の支配圏よりももっと大きな蝦夷の国が東にある、その国を褒美としてお前にやるから平定してこいと言われたのである。

戯曲ではこれに対して小碓命は叔母の倭姫にこう言っている。

 

それはほうびではありません。蝦夷の国は大和の天皇の土地ではありませんよ。大和の国はみやびの国です。言魂の幸わう国ですよ。死ねという代わりに、広い広い、大きい大きい、豊かな豊かな国をおまえにほうびにやろうと言われる。すばらしい言葉です。この国は言魂の国です。嘘ばかりの国です。こんな国よりは熊襲の国のほうがずっとましです。あの国では人間が、もっと素直でした。私は熊襲の国に、逃れればよかったのです。」

 

 梅原はここで観念や制度などで人々を支配しようとする大和国家を批判している。大和国家の嘘は、大日本帝国の嘘、天皇教の嘘、大東亜共栄圏の嘘、大本営発表の嘘へと連なる嘘である。素直な感情が支配する熊襲の国の方が嘘がなくてよいというのだ。嘘に関して、梅原が最近取り組んだのが「脳死臓器移植」に於ける「脳死」という嘘である。梅原は、脳死は個体死ではあり得ない、それを脳死ということで臓器移植をやりやすくするのは、嘘だというわけだ。梅原は脳が機能停止した段階で、臓器を提供しようという本人の意思に基づく臓器提供をいけないというのではない。死んでいないものを死んでいることにして、臓器を移植しようとする嘘が倫理的に許せないのである。

 さてこの東国平定には、さぞかし大和の大軍を率いて行ったと思うだろう。(たしかに『日本書紀』では将軍として大軍を率いて東征する。)ところがスメラミコトから授かったのは、さきほどの吉備のタケヒコの他には柊でつくった八尋矛だけである。単身で熊襲を征伐したので、蝦夷も大丈夫だろうという感覚なのである。これでは本当に死ねというようなものだ。その場合、スメラミコトが自分の息子を死に追いやらなければならないのだから、どんなにか断腸の思いで、苦渋の選択をしているのか、息子にその真情が伝わってこないのだ。小碓命にすればスメラミコトの為なら、死ねと言われれば死んでもいいのだ。ただそれが父としての生の心が全く見えないので、どうにも納得がいかないということである。

 

「一度も父上と本当に心を割って話したこともないのです。父上は、大和のあの嘘ばかりの宮廷にいて、嘘で自分の心を武装して、もう本当と嘘の区別も分からなくなったのです。」

 

 梅原は『古事記』や『日本書紀』も八世紀の藤原不比等が女帝と藤原氏の立場を強めるために、捏造したり、修正した話が多いと考えている。天皇の地位そのものが嘘の上にでっち上げられたものに過ぎないという面があるのだ。ともかく父と子として、裸の対話さえできれば、小碓命はそれで満足なのだ。ところで『日本書紀』では父と子の葛藤は、景行天皇と大碓皇子とに現れる。小碓命は熊襲を討ったので、蝦夷を討つのは兄に譲ろうとしたが、大碓皇子は恐れて身を隠すのだ。それでスメラミコトは「まだ敵に出会わないのにそんなに敵をこわがって」と呆れ果て、大碓皇子を美濃国の国造に左遷したのだ。

 叔母の倭姫は小碓命に同情して、小碓命に秘かに心を寄せていた弟橘姫を娶合わせ、翌朝旅立ちにあたって、天叢雲剣と御嚢を与える。倭姫によると生還のためにはこのご神宝の力にすがるしかないという。いつもこの剣を体から離しては駄目なのである。御嚢には火打ち石が入っている。剣や石を神として崇拝する神器・聖石信仰が日本では盛んである。他に蛇や鹿や狼等の獣を神として崇拝する獣神信仰も盛んで、両方まとめてフェティシズム(物神信仰)と呼ばれる。日本は神の国だと森首相がいったが、当時の秋津島は物神の国なのである。

 ところで朝廷にとって大切な神宝を小碓命に与えた責任を、倭姫が問われるのではない

かと小碓命は心配するが、倭姫はスメラミコトも本当は皇子の体を心配しているから、そのことで殺されるようなことはないだろうと言う。そしてお前のことで死ねるのなら本望のように言い、「私だってそなたの叔母でなかったら弟姫と争ってもそなたを手に入れたいと思うものですよ」と洩らす。年配の女の秘かな欲情を描いてみせるところも、倭姫が生きていて、本当に洩らしてしまったようで、梅原戯曲は巧みである。

 

                      草薙剣


        草薙の剣が皇子を呼び寄せて、荒ぶる舞いまふヤマトタケルの


 

 尾張国では国造が歓迎してくれた。その娘みやず姫は小碓命に気がありそうだったが、小碓命は兄橘姫・弟橘姫に気が咎めて欲情を抑えて旅立った。『古事記』では帰りに婚いしようと思って、その約束をしたとある。正妻に気が咎めるというのは、現代的な解釈なのだ。そうしているうち弟橘姫は小碓命を追って来て、とうとう一緒についていくのだ。そこで小碓命とタケヒコと弟橘姫のたった三人で東国十二国の平定の旅をすることになったのである。とても信じられないような話ではある。

 そしていよいよ相模国に着く。梅原は国造のヤイレボとヤイラム兄弟の話を創作している。相模国の国造はヤイレボだったのだが、使いの話では、彼は熊襲の国の新宮の祝いに行ったので、国人に咎められ弟のヤイラムに殺されていたのである。弟のヤイラムは国造になって、大和の天皇に忠誠を尽くしているということなのだ。ヤイラムの館に案内された小碓命は、天皇に歯向かう者はたとえ兄でも殺すのが臣下の道だと言いわけし、ヤイラムが兄殺しを全く後悔していないのに、内心腹を立てていたのだ。

 この日本国における倫理で君に対する忠義と親に対する孝行が矛盾する場合、どちらを優先させるべきかで、君に対する忠義を優先させるのが日本の特徴であるという考えがある。これは中国の儒教とは違う。中国の儒教では『孝経』が最も重視されていて、親に対する孝行が社会関係に適応されたのが、君に対する忠義なのである。大本はあくまで孝行にあるのだ。それにまだ五世紀段階では大和朝廷に対する関係は、あくまで打算的なものであり、従っておいたほうが安全であり、大和の先進文化を吸収できるというメリットがあったから服属していただけである。それゆえ忠義を孝行に優先させる発想は、スメラミコトに対してはなかった筈である。皇子に気に入られるためのヤイラムのへつらいである。

 梅原自身は、戦争体験で深く疵ついているから、戦前の忠君愛国や天皇中心主義に対しては拒否反応が強いのだ。だから天皇の皇子の英雄伝を描いても、天皇と皇子の間の大きな断絶を描くことになるのだ。そして皇子の立場から、天皇権力の絶対性を擁護するときにも、そのことによる親子の断絶を見据えているのである。

 実はこの兄殺しの話は全くの騙しで、皇子を嵌める罠だったのだ。ヤイラムは草深い野の奥に沼があってそこに悪い神がいて、民を苦しめているから退治してくれるように頼むのだ。ただの賊なら自分たちで退治できますが、悪い神なのでどうしても皇子のお力でないとと騙すのだ。スメラミコトは人間となって現れた神なので、神々をも統治し、おとなしくさせることができるのである。

 天皇と言えば神主の親玉みたいに捉えている人も多い。しかし実は、天照大御神の御子として神々と人々に対する支配権を持っているすごい存在だったのだ。現在では天皇は人間で、たんなる国家のシンボルにすぎないと思われている。敗戦までは、日本は天皇中心の神の国で、日本の軍隊は皇軍とか神軍とか呼ばれていたわけである。このような戦前の天皇中心の国家宗教を梅原は天皇教として捉えているのだ。

 野原を行くうちに小碓命とタケヒコは取り残され、ヤイレボとヤイラム兄弟に火攻めにされた。そこで倭姫からもらった嚢を開けると、そこに火打ち石があったので、天叢雲剣で草を刈り(それで草薙剣と呼ぶ)、火を興して対抗したのである。

 

倭の論理と蝦夷の論理
 

            戦にてたとひこの身は朽ちるとも山野を守る心朽ちまじ

 

 そこで現れたヤイレボ・ヤイラム兄弟との対決になる。そして大和政権の正当性についての論争になる。殺し合う前にそれぞれが自己の正当性を主張し合うのが、お芝居らしいところでだ。梅原はこの論争では明らかに滅ぼされる側に同情的である。

 

ヤイレボ「わしは、大和の大君というのが大嫌いじゃ。だいいち、あれは、どこからこられたお方じゃ。天から降ってきた、神の子孫といわれるが、昔から、この地にいられた方ではない。昔からこの地にいるわれわれが、どうして外からきた人間の子孫である大和の大君に従わなければならないのか。われらは表面は、従順をよそおっていたが、内心ではいつも大和を討つことばかりを考えていた。今、われらが、討たねば、われらの仲間は、遠からず滅びてしまう。私は、おまえたちが憎い。」

小碓「何を言うか。この葦原の中つ国を支配するものは、天照大神の子孫に決まっているのだ。」

ヤイラム「誰がそんなことを決めたのだ。」

小碓「それは、はじめから決まっていること、何をかれこれ、ことあげするのか。だいたいおまえたちのような山野に住み、鳥や獣を殺すことを業とする、野蛮な人間は、滅びるのは当たり前だ。」

ヤイラム「おまえたちのほうがはるかに野蛮だ。おまえたちがもってきたのは、鉄と米、われわれが自由にさまよっていた土地を仕切って米を作る。われわれが狩りに出たスキに、おまえたちは土地を占領し、田にして、米とやらを作る。それをとりかえそうとすると、われらを鉄の武器でおいはらう。おまえたちの宝は米と鉄だけだ。しかし、われわれはちがう。人間の心の中に宝があることをわれわれはずっと前から信じていた。今ではわれらの中には、そういう信仰がある。それをおまえたちは、鉄と米で人間の心の中にある美しい宝を滅ぼしてしまったのだ。」

タケヒコ「この野郎、よくも俺をだましたな。」

ヤイラム「だますのは、大和の悪党共のお家芸だ。わしたちは、少しだけおまえたちを見習ったにすぎない。」

(ヤイラムとタケヒコ戦う。ヤイレボ、小碓と戦う。立ち回り、しばらく。タケヒコ、ヤイラムを殺す。小碓、ヤイレボを殺す。)

ヤイレボ「あっ、いけない。やられた。負けた、また負けた。残念だ、残念だ、やがてわれらは滅びるだろう。しかし、われらは間違っていないのだ。たたってやる。七度生まれ変わって、たたってやるのだ。小碓よ。ヤマトタケルよ。おまえは、大和へ帰れない。わしの恨みでおまえを大和に帰れないようにしてやるぞ。」

小碓「このえびすめ、口だけは達者だな。この嘘つきめ、思い知るがよかろう。」

 

 大和政権の正当性は、高天原の神々の会議で天照大神の孫のニニギノミコトに葦原の中つ国の支配権が与えられたということに根拠がある。とはいえそれは大和政権が一方的に唱えている理屈にすぎないのだ。高天原の神々の会議などだれも知らないのだから。元々大和地方は大国主命系の国があって、ニニギノミコトの曾孫のカンヤマトイワレヒコが九州から東遷してきたのだ。そして武力で大和を平定し、大和政権を打ち樹てた。そしてその時に高天原の神々の会議で元々決まっていたと言い出し、それを根拠に支配の正当性を主張したのである。

 ようするにヤイラムたちにとっては、カンヤマトイワレヒコとその子孫たちに支配される何の謂われもないわけだ。でも実際にカンヤマトイワレヒコたちの畿内侵略が成功してしまえば、征服者たちが自分の都合のよいように書いた高天原の神々の会議の結果に従わざるを得ないのである。

 

             滅ぼされた側の論理
 

  森壊し、海を汚して拓け行く、文明の果てに瓦礫の山あり

 

 小碓命は、鳥や獣を殺して生業にしているような野蛮な連中は滅びて当然と吐き捨てる

ように言う。『日本書紀』で景行天皇は蝦夷をこう表現している。

 

「男女親子の中の区別もなく、冬は穴に寝、夏は木に棲む、毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることでは獣のようであるという。恩は忘れるが怨みは必ず酬いるという。」

 

 これに対してヤイラムたちは、鉄と農耕の世界が、神々の住んでいた森を切り開き、獣や植物との命の循環を断絶させてしまったと告発している。代わりに米や布や金属を中心にした物品の循環が原理になってしまって、そこには命が感じられないのだ。人間の心にある大切な宝をなくしてしまったと、ヤイラムは嘆くのである。

 狩猟・採集民は鳥や獣を殺しているので野蛮だというのは、表面的な見方だ。彼らは鳥や獣を決して乱獲しない。むしろアイヌでは熊をカムイ(神)にしていたように、大切に保護している。魚や木の実などもとって、自然の食物連鎖、生命循環の範囲内で狩猟をしているのである。それに対して、農耕民は森林を伐採して、鳥や獣が棲息できる環境自体をなくしてしまうわけだから、それこそ大虐殺である。その意味では農耕民の方がはるかに野蛮なのである。森を切り開いて田にすることが文明なら、文明は野蛮よりもひどいということである。近代人はその田さえ工場や宅地に変え、海や空気すら汚してしまったのだ。鳥や魚や木や草を殺しつくし、人間自身も滅ぼしかねないようになっているのである。このように文明が発達し、啓蒙が進めば進むほどかえって野蛮になることをホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』と表現したのだ。

 梅原は湾の堤防を締め切られ、絶滅しようとしているムツゴロウを主人公にした長編小説に現在取り組んでいる。共生と循環の思想を人間を越えた生き物の目から訴えようと苦闘しているのだ。小碓命はヤマトタケルとなってヤイラム達山の民、森の民、海の民を平らげていくが、その戦いを通して、滅び行く人々の叫びを聴いたのだ。そこに都で権力闘争に明け暮れているスメラミコトとはズレがあるのだ。

 小碓命は皇子として父スメラミコトのために戦わなければならない運命(さだめ)にありながら、そのスメラミコトから疎まれ、利用され、犠牲にされているのである。大和政権の論理を肯定して、熊襲・蝦夷を平定しながら、大和政権への恨み心が強くなっているのである。それでもヤイレボ・ヤイレム兄弟はヤマトタケルをだまし討ちにしようとしたので、ヤマトタケルはこの卑怯な兄弟を成敗したのだ。とはいえこの兄弟がウソをつくのはヤマトのやりかたを見習ったに過ぎないのだ。

 梅原は農耕民による列島支配を歴史の必然と捉えながら、森の民への深い思い入れをしている。そこが演劇としても悲劇的な感動を高める効果があるのだ。熊襲や蝦夷を大和朝廷に従わないケシカラン野蛮人で、ヤマトタケルはこれをやっつけた正義の味方で英雄という勧善懲悪の英雄伝では、子供騙しの体制翼賛劇になってしまっただろう。

 ヤイレボはヤマトタケルに成敗される際に大変悔しがる。「われらは間違っていないのだ。たたってやる。七度生まれ変わって、たたってやるのだ」と叫んだ。これは恨みを残して死んでいったものは、怨霊となって祟るという信仰である。梅原は『隠された十字架』をはじめ、日本の伝統文化の中で怨霊信仰を再評価しているのだ。

 大国主命を祀った出雲大社、大物主を祀った大神神社、早良親王達を祀った御霊神社、菅原道真を祀った北野天満宮などの天神などはみんな怨霊を鎮魂して、逆に怨霊に守ってもらおうという信仰である。稲荷神社も狐を祀っているということだが、元々は狼信仰だったそうだ。人間は狼や狐の住処を森林の伐採で、どんどん無くしてしまったのだ。だから滅ぼされた狼や狐たちは人間に恨みを抱いている。それで人々を襲う狼もいるわけである。狼を大神として祀ることで、守ってもらおうとしているのである。

 怨霊信仰は大変むしのいい信仰である。自分たちが滅ぼした相手を神として祀れば、祟らないどころか、祀る人々を逆に守護してくれるという信仰なのだから。ヤイレボは死に際にヤマトタケルに呪いの言葉をかけた、大和に帰れないようにしてやると。そして結局、この呪いが効いたのか、ヤマトタケルは大和を直前にした三重で死んでしまったのである。ヤマトタケルは自らが犠牲になって、悲劇の死を遂げた。これだけ熊襲や蝦夷を侵略したのだから、ヤマトタケルが犠牲になる必要があったのかもしれないのだ。

 

   弟橘姫の入水
 

   燃ゆる火の恋にしあらば君が為吾が命さえ捧げまほしを

 

 相模の走水から船にのって武蔵の国に向かう途中で嵐になる。トスタリという占い師によると、海の神に小碓命の一番大切なものを捧げないと、海は静まらないと言うのだ。小碓命にとって一番大切なものはと言えば、それは弟橘姫である。弟橘姫を犠牲にして、海神に捧げるとみんな助かるというのだ。小碓命は断固拒否しようとしたが、事情を知った弟橘姫は海に入って海神の妃になりましょうと承諾したのだ。『古事記』では次のように記されている。

 

 「そこより入り幸でまして、走水の海を渡ります時に、その渡の神、波を興てて、船を廻して、え進み渡りまさざりき。ここにその后名は弟橘比売の命の白したまはく、『妾、御子に易りて海の中に入らむ。御子は遣さえし政遂げて、覆奏まをしたまはね』とまをして、海に入らむとする時に、菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重を波の上に敷きて、その上に下りましき。ここにその暴き浪おのづから伏ぎて、御船え進みき、ここにその后の歌よみしたまひしく、

 

 さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて、問ひし君はも。


 かれ七日の後に、その后の御櫛海辺に依りき。すなわちその櫛を取りて、御陵を作りて

治め置きき。」

 

 『古事記』には弟橘姫の入水を海神への輿入れとは直接書いてないが、ありったけの畳を重ねた上に載せて入水するところから、単にこれを皇子の身代わりとだけ受け止めるのではなく、梅原はこれを輿入れとも解釈した。そして皇子が弟橘姫を犠牲にするのを忍びないものだから、その精神的負担を軽くしようとして、海神に見初められて海神の皇后になれることを誇りにして畳に載って海の藻屑になって消えていったのだ。そして嵐が収まり、七日後に弟橘姫の櫛を海辺で見つけて、御陵を作って櫛を収めたのである。

 梅原は弟橘姫が海神の皇后に成れることを誇る台詞を、ただ小碓命の精神的負担を軽くする為の強がりだけに止めずに、かなり本気も交えて語らせた。小碓命の正妃にはなれないし、皇后にもなれないことが、やはり不満だったことを吐露させたのだ。おとなしい弟橘姫の本音の部分が今際の際で出てくるのだ。そして海神への輿入れの儀式として入水を美しく素晴らしいものに飾って、盛り上げるのである。そうすることで、台詞が作者自身にも思いがけない形で、登場人物が一人歩きすることになり、本当に生きた舞台になってくるのだ。つまり戯曲というのは、作者の創作に止まっていてはいけないのである。作者が自分が書いていることを忘れて、登場人物に書かされているようにならなければ、本当に素晴らしい作品にはならない。

 弟橘姫を犠牲にして生き残ったということは、小碓命にとって深い精神的な疵となる。そしてどうして一緒に死ねなかったか、俺は卑怯者だ、意気地なしだ、生きる値打ちがない者だと悔やむのである。

 

 

             襲の裾に月立ちにけり
 

    血のにじむ想い重ねて君待ちぬ裳の裾にまで色にいでしか

 

 かくしてヤマトタケルは関東の蝦夷を平定し、甲斐や信濃を回って、尾張の国に帰ってきて、国司の娘のみやず姫と結ばれる。国司の娘なら皇子が蝦夷征伐の帰りに寄れば、皇室との縁戚関係を持つために本人の意志など関係なく閨を共にさせられるのだ。ところが梅原戯曲ではみやず姫の気持ちを大切にするのだ。元々これから蝦夷平定に行く際によった時には、みやず姫は皇子に心惹かれて抱かれたがっていた様子なのに、小碓命は兄橘姫・弟橘姫に気兼ねをして手を付けなかったことにしている。ところが蝦夷征伐の帰りに小碓命がよるとなると、みやず姫は、自分が政略結婚の犠牲になるのを嫌がるのだ。そして小碓命に自分が一番好きだと言わせ、今後は戦で人殺しをするのは止めるようにすると約束させたのだ。

 もちろん古代の国司の娘がそんなことを言える筈はない。梅原もそんなことは分かりきっているのだ。ではどうしてそんな現代っ子的なみやず姫を登場させたのだろう。そこが梅原のおもしろいところである。猿之助劇団のファンや梅原ファンには女性が多いのだ。女性たちは、みやず姫を男の政略の犠牲に喜んでなるような非主体的な女性に描かれるのは嫌なのだ。梅原戯曲ではどの女性もそれぞれの自我や主張を持ち、自分の思いを存分に語ろうとするのだ。自分の存在をアピールしようとするのである。そう描くことで、女性の観客に共感を得ることができるのだ。古代の女性だからといっておしとやかに描いていたのでは、それが作者の女性観のように受け取られ、嫌われてしまう。あくまで戯曲であり、歴史研究ではないだから、観客の共感と感動を呼ぶように描くということが大切なのである。

 かくして婚礼の祝いとなった。その席で立ち上がったみやず姫のはかまの裾に血がついていた。月経の血である。月経の血を見せるのは最も恥ずかしいことで、汚れたこととされていたが、小碓命はみやず姫に恥をかかせまいとして、お祝いの月が立ったといって、風流な歌を作り、舞を舞ってめでたい話にするのだ。女性に対するデリカシーである。

 

「ひさかたの 天の香具山 利鎌に さ渡る鵠 弱細 手弱腕を まかむとは 我はすれど さ寝むとは 我は思へど 汝が著せる 襲の裾に 月立ちにけり(天の香具山に夕方に、とんでいる白鳥のくびのような、弱く細いおまえの腕、そのなよなよした腕と私の腕をくみ合わして、おまえを抱こうと思って帰ってきたのに、おまえとゆっくり寝たいと思ってきたのに、おまえの着ているはかまのすそに月が立っているよ)」


 これに対してみやず姫も返歌を作って舞う。

 

「高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経往く うべなうべな 君待ち難に 我が著せる 襲の裾に 月立たなむよ(私は日のように輝いている命様のお帰りを今か今かとお待ちしていましたが、命様はお帰りにならず多くの年がたって行き、多くの月が立って行きました。多くの月が立って行きましたので、あなたを待って、私のはかまの裾に月が立つのも無理はありませんよ。)」

 

 「月経」という汚れたイメージのものを「月が立つ」という美しいイメージに変換することで、昇華している。そこに小碓命の優しい感性があふれている。本居宣長も「伏す猪の床」といえば無粋の極みのような猪でさえ、風流を感じさせるものだと歌の効用を賛美している。返歌の方はウィットにあふれているのだ。待ちくたびれて「月日が経った」ということと「月経になった」ということを掛けているのである。なかなかうまいかけ言葉だ。ところでせっかくの婚礼に月が立ってしまって、セックスはしなかったのかというと、それがしているのである。「かれここに御合ひしたまひて、その御刀の草薙の剣を、その美夜受比売のもとに置きて、伊服岐の山の神を取りに幸行でましき」と『古事記』に書いてある。

 

                 嬢子の床の辺に
 

   まぐわひの嬢子の床はめくるめく剣忘れて山にむかいぬ

 

 「草薙の剣」がなければ、蝦夷征伐はできなかった。ヤマトタケルは、草薙の剣を差し引いては、無敵ではないのだ。草薙の剣という神がついていて、はじめてヤマトタケルはどんな敵でも倒せたわけである。ところがヤマトタケルはあまりにスーパーマン的な活躍ができたものだから、それは自分自身の力だと思い込んでしまったのだ。熊襲タケル征伐の際には草薙の剣を持っていなかったので、そう考えるのも無理はないかもしれない。息吹山の山神ぐらいなら、素手でもやっつけられるだろうと慢心してしまったのである。

 梅原戯曲では、慢心と油断の原因は朝廷側の態度の急変にもある。帝は心の曲がった皇后の話を信じて、小碓にはたいへん悪いことをした、小碓は私を許してくれるだろうかと心配しているというのである。なんと皇后が十日ほど前に急死したという設定なのだ。ヤマトタケルが奇蹟的に蝦夷を平定して、凱旋するということで、皇后との確執が心配されたのだが、もうヤマトタケルが朝廷でも実権を握れる条件ができたのである。

 帝はヤマトタケルに、ご苦労ついでに息吹山の山神退治を依頼する。ヤマトタケルは手柄をもう一つ加えさせてやろうという、帝の有り難い思し召しだろうと、気軽に引き受けたのである。帝はやはりヤマトタケルに戻られるのが嫌だったのだろう。実権を握られるに決まっているし、退位を迫られるのを恐れたようである。ひょっとして息吹山の山神退治で失敗して、死んでくれればいいのだがという思いがあったのかもしれない。

 ついに自分の苦労が報われ、認められる時が来たと思った時、人間は全能幻想の虜になり、慢心と油断でつまずいてしまうものなのである。みやず姫から、殺生を止めるという約束をさせられたことも手伝って、素手で山神に立ち向かい、できれば殺さずに改心させようと思ったのかもしれない。結局自分の守り神である草薙の剣を持たずにでかけたのが、致命的な結果になる。次の辞世の歌を遺している。

 

 「嬢子の 床の辺に 吾が置きし つるぎの太刀、その太刀はや。」

 

                  息吹山の山神


         積年の恨みの的に山神は身を弾にして砕け散るなり


 梅原戯曲では息吹山には鬼の一族が棲んでいる。それを支配しているのが山神と女神の夫婦神(『古事記』には女神は登場しない)なのである。鬼は元々はずっと昔から日本にいる人間だったのだが、天つ神の子孫と名乗る人々に追い払われて、山の中に逃げて鬼になったというのだ。そして元々はこの鬼たちと同じ土着民だった人々も、大部分は朝廷に従って里に住み、山に逃げた人々を鬼と呼んで、差別し、石を投げたり、捕まえると首を切ったりしている。それで余計に鬼の側の憎しみも強くなり、里を襲って略奪や誘拐をしていたのだ。里の女をさらって輪姦し、鬼の女にしてしまうようなこともしていたという。飢饉のときなどは人肉を喰っていてかもしれない。もちろん飢饉のときに人肉を食らうのは鬼に限らないが。

 山神にとっても、大和朝廷は不倶戴天の敵である。特に縄文の森の文化を守ってきた蝦夷たちを征伐したヤマトタケルを、山神は最も憎んでいたのだ。農耕が広がると、次第に森の木が伐採され、山がはげ山になったり、段々畑になったりするからだ。さらに文明が発達すると、現代のように無残にも山が削られ、その土で海が埋め立てられ、その後が宅地や工場になる。

 ヤマトタケルの来襲の知らせに鬼たちは恐れおののく。何故ならヤマトタケルは天の叢雲の剣を持っているからだ。梅原の解釈では天の叢雲の剣が強力なのは、土着民たちの祖先の霊がついているからなのである。それで蝦夷や息吹山の鬼たちは逆らえずに、滅ぼされるしかなかったのである。元々スサノオの命がやまたの大蛇の腹から取り出したものだ。やまたの大蛇は、「八股の大蛇」で山脈を「八股」と見たもので、山の神という解釈もある。もっと大胆に豊秋津島全体の神とみなしてもよいかもしれない。八股の大蛇の腹から出た剣は、だから豊秋津島の霊それ自体なのである。

 ところがヤマトタケルは慢心して素手で息吹山に登っていく。天の叢雲の剣を持たないヤマトタケルなら勝てない相手ではないと山神や鬼たちは喜んだ。

 

山神「そうか、傲慢か、さすがのヤマトタケルの命も、傲慢という人間の病気にかかったのか。人間は、少し力をもつと己の力におぼれるのじゃ。他人の力や、幸運によって、ひとかどのことをすると、すぐに人間はそれが自分の力でできたように思うのだ、そういうことが続くとすぐに、人間は自分は何か特別の力をもっていると思うようになる。わしは、ヤマトタケルの命にはそういうことはあるまいと思ってたいたが、ヤマトタケルの命もやはり人間じゃった。傲慢という、人間を滅ぼすもっとも重い病気にかかったんだ。」

 

 もちろんこの台詞には梅原自身の自戒が込められている。梅原の研究や創作を育んできた日本の伝統文化、日本の自然、古代の人々の思いが、梅原に語りかけ、呼びかけてくれているのだ。決して梅原個人が勝手に、古代人の思いを形作ることなどできない。天の叢雲の剣である縄文人たちの霊の叫びを謙虚に聴くことなしには、梅原の仕事は魂が抜けてしまうのである。

 山神は白猪に化けて現れた。タケヒコに捕らえられ、殺されそうになったが、ヤマトタケルは白猪を山神の使いと見なし、殺さずに後を追えば山神のところへ行けるだろうと殺すことに反対した。白猪に化けた山神は一行を罠にかけ、女神が特別の呪術で雹(大氷雨)を降らせて、ヤマトタケルは倒れてしまったのである。雹にやられて高熱を出したのだ。女神はこの呪術で精力を出し尽くして死んだ。そして山神と鬼たちがヤマトタケル一行に戦いを挑んだ。山神はヤマトタケルには敵わないが、捨て身の突進を食らわして、病身のヤマトタケルに致命傷を与えて、死んでいったのである。弱者が強者に立ち向かって、強者を倒そうとしたら、その攻撃で自らも死ぬのはもとより覚悟の上なのだ。それでも自らの生きた証として、自らの誇りのために命を犠牲にしたのである。

 主人公はヤマトタケルなのに、山神たち滅ぼされていく神々や人々の捨て身の抵抗の戦

いが、観客の胸に共感を残すように演出している。もしヤマトタケルが無事大和に凱旋して、めでたしめでたしで終わったら、ヤマトタケルのことが憎たらしくなる。たしかに大和政権の覇権の確立は、歴史的な必然であったかもしれない。その意味でヤマトタケルの歴史的業績は偉大であった。それを無視すれば英雄劇にならないけれど、でもその為に滅ぼされていった人々の側の思いが切り捨てられては、紋切り型の勧善懲悪の体制翼賛劇になってしまい、たんなる活劇で民衆の悲しみが胸に残らないのだ。

 弱者の捨て身攻撃というのは、実に恐ろしいものである。それを如実に示したのが二〇〇一年の九月十一日の同時多発テロである。アメリカは武力で対抗する頭しかないようただが、それはアメリカ帝国の墓穴を掘ることにもなりかねないし、人類滅亡の結果を生みかねない危険な反応である。なぜなら大量破壊兵器が小型化・低廉化し、国際テロ組織や宗教カルトですら、自爆攻撃と結びついたら、ハルマゲドンを起こしかねない時代に突入しつつあるからである。

 

                    大和し美し

 

    美しき大和の国へ帰らばや雲立ち上るは吾家の方や

 

 深傷を負ったヤマトタケルは、三重県の鈴鹿郡の能煩野で遂に力尽きて亡くなる。そこで大和を偲んで歌った「思国歌」が心をうつ。ただし『日本書紀』ではこの歌は父景行天皇が熊襲征伐された時の歌になっている。

 

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣、 山隠れる 倭し 美し。

(大和は素晴らしい国だ。重なり合って、青垣のようになっている山々に囲まれた大和は実に麗しい。)

命の全けむ人は、 畳薦 平群の山の 熊白儔が葉をうずに插せ その子。

(命に溢れている人は、山深い平群の山の熊のように大きな白儔の葉をかんざしにさしなさい、お前たち。)

はしけやし 吾家の方よ 雲居起き来も。

(なつかしいわが家の方から雲が立ちのぼっているよ。)

 

 「まほろば」は「ひいでた所」とか「よい所」という意味である。「まほし」が「欲しい」という意味なので、手に入れたい豊秋津洲の心臓部という意味があるのだろう。そこが山々に囲まれ、守られていて、なかなか入れないのだ。ヤマトタケルは西国や東国を平定したけれど、最後の大和を目前に息吹山の大氷雨に打たれて、大和に入ることが出来なかったということである。だからこそ青垣のようになっている山々に囲まれた大和の国は、実に美しいと感じるのだ。ヤマトタケルの覇権への夢が最後に暗示されていたのである。それだけにそれが叶わなかったことの悲劇性が印象的だ。

 命に溢れている者は、自分を不死身のように思って、それを挿しておくとお守りになるという言い伝えの熊白儔が葉を簪にしてさしておこうとしないけれど、人間の命ははかないもので、単身で熊襲や蝦夷をやっつけたほどのヤマトタケルでも、天叢雲の剣を忘れると大氷雨に打たれてやられてしまう。そうなのだから自分の体力や権勢を過信するのはお止めなさい。ちゃんと熊白儔や天叢雲の剣などのフェティシュ(物神)の加護に頼りなさいという忠告である。

 梅原戯曲では、熊白儔の葉の効用を馬鹿馬鹿しい迷信だと大碓命が笑い、小碓命がそれ

を聞いて、熊白儔の葉を捨てて踏みにじった思い出を語らせる。賢い兄は韓の国の博士に学び、この国の古い神々を軽んじていたのだ。その兄が若死にし、小碓命も倒れたのも自分の国の神々を軽んじた祟りかもしれないというのである。自分の国の神々と言っても、縄文時代からの熊白儔や大蛇や熊などの素朴な物神達のことである。これは大和政権の正当性、熊襲や蝦夷征伐の正当性を問い直すような、根源的な自己否定につながる疑問である。しかしこのような疑問もヤマトタケルが自らの命を投げ出して、大和政権の為に英雄的に戦ってはじめて、体験できたことなのである。

 もしこのヤマトタケルの悲劇の意味をしっかり学びとって、大和政権が森や湖や河や空や海や獣たち、野の草花を大切にし、狩猟採集民から知恵と心を学びとり、共生することができれば、平定され、滅ぼされていった人々の魂を鎮めることもできるのである。ところがそういう方向にはなかなか行かず、特に近代になってからは、公害先進国といわれる程の自然破壊が進んでいる。梅原は今こそヤマトタケルの悲劇の意味をしっかり学びとるべきだと叫んでいるのである。

 そして「はしけやし吾家の方よ」と自分の家族への思いを募らせている。その方向に雲が立ちのぼっている。雲は様々の姿を取るので、見るものの思いを写して愛しい妻子の姿が目に浮かんでいるのかもしれない。最後に英雄ヤマトタケルも思うのは妻子のこと、家庭的な幸福なのである。それさえあれば帝に手柄を認めてもらえなくてもいいとさえ思えるのだ。それで帰りたい思いがよけいに募る。そしてその絶頂でヤマトタケルは死ななければならなかった。ああ、あの時に「嬢子の 床の辺に 吾が置きし つるぎの大刀、その大刀はや」という後悔の念を歌い終えて臨終を迎えたのである。

 

        更に天翔りて

 

       白鳥は更に何処に天翔けるその後追いて嬢子かけるや

 

 ヤマトタケルが重い病だと知って、兄橘姫は幼いワカタケル(『古事記』ではワカタケルは弟橘姫の子であり、兄橘姫とヤマトタケルが結婚して子をもうけたとの記述はない)を連れて、能煩野まで着いた。『古事記』では妃も御子も沢山きたようだ。臨終に間に合わないが、戯曲ではなんとか間に合わせる。『古事記』では能煩野に御陵を作っている。そして御陵の回りの田に親族が腹這いになって廻り、大声をあげて泣きながら、こう歌った。

 

「なづきの 田の稲幹に 稲幹に 蔓ひもとろふ ところづら(周りの田の稲の茎に、稲

の茎に、這いめぐっている蔓芋の蔓です。)」

 

 ヤマトタケルの霊は能煩野に葬られるのに我慢できなかった。そこで大きな白鳥(八尋白智鳥)になって、御陵から飛び立つのだ。そして浜の方に向かって飛ぶ。后たち御子たちは竹の切り株に足を取られ、傷だらけになりながら、痛みも忘れて泣きながら追いかけたのだ。そしてこう歌った。

 

「浅小竹原 腰なづむ。 虚空は行かず、足よ行くな。(小篠が原を行きなやむ、空を飛

んでいけずに、歩いていくもどかしさ)」

 

また海水に入って、追いかけると、波に腰をとられてもどかしい思いをした。

 

「海が行けば 腰なづむ。 大河原の 植草、 海がは いさよふ。(海の方から行けば

 大川の草のように、波に腰をとられてもどかしい)」

 

 白鳥はまた飛びたち、磯に戻っていたのである。その時に后たちや御子たちは、こう歌

ったのだ。

 

「浜つ千鳥 浜よ行かず 磯伝ふ。(浜の千鳥は、浜からは行かずに磯伝いますよ)」

 

これは海の彼方へ飛んでいってしまえば、追いかけられないので、磯伝いに飛ぶように、白鳥にお願いしているのだ。そこで梅原戯曲では、兄橘姫が白鳥が弟橘姫のいる海へ行ってしまわないように、と執拗にお願いする設定にしている。

でも海に行きそうなので、兄橘姫はワカタケルと一緒に入水しようとする。それに気づいたのか、白鳥は陸に戻り、磯伝いに河内の志幾に飛んでゆくのだ。そこは梅原戯曲では兄橘姫の里だということになっている。でも『古事記』では兄橘姫の里は三野の国の筈だし、梅原戯曲では第一幕では但馬の国だった筈である。この辺が少し混乱が感じられるところである。

 兄橘姫は、河内の志幾にスメラミコトと同じ規模の墓をたて、スメラミコトと同じ葬儀を行って葬るようにスメラミコトから命令される。またワカタケルは、ひつぎの皇子の次位につき、ひつぎの皇子の急死でひつぎの皇子になる。こうしてヤマトタケルは完全に名誉回復し、ヤマトタケルの時代が来たのである。それから更に、ヤマトタケルの霊は志幾の古墳から抜け出し、白鳥になって天翔けるのだ。今度こそ大和に向かったのでだろうか。それとも永遠に天翔ける鳥となったのだろうか。梅原戯曲はそこで終わる。

 白鳥は大和に帰れなかった。ヤマトタケルの子孫は大和制覇の戦いを継承しなければならなかったとしたら、歴史ドラマの続編が書かれなければならない。『古事記』では、景行天皇の後を継いだのは景行天皇の皇子のワカタラシヒコであり、成務天皇という諡になっている。ヤマトタケルの皇子でその次のスメラミコトになるのは帯中津日子の命である。ヤマトタケルの命が垂仁天皇の女である布多遅の伊理毘売と結婚して、生まれた御子なのだ。

景行天皇は百三十七歳、成務天皇は九十五歳で亡くなったようである。成務天皇は志賀の高穴穂の宮に居た。そして帯中津日子のスメラミコトは仲哀天皇と諡されているが、なんと山口県の穴門の豊浦の宮と筑紫の訶志比(香椎)の宮で政治をしていたのである。『日本書紀』では成務天皇の後を仲哀天皇が継ぎ、熊襲征伐のために豊浦や香椎の宮に移ったことになっているが、『古事記』ではそういう記述がない。『日本書紀』ではそのあたり、疑問がでないように取り繕ったとも考えられるから、やはりヤマトタケルの命は、大和では認められなかった可能性があるのだ。

大和では成務天皇の大和政権があり、これに対抗してヤマトタケルの命の遺児である帯中津日子が北九州に政権を作っていたと解釈できるのである。ところが帯中津日子は熊襲との戦いにばかり気を取られ、肝心のヤマト制覇に乗り出そうとしなかった。そこで神の怒りでということになっているが、息長足媛(諡は神功皇后)が帝を呪い殺し、新羅に遠征して、その勢いでヤマト制覇に乗り出して、成功するのである。このような『古事記』解釈だと、景行天皇との和解はなかったことになる。『ヤマトタケル』の終わらせ方もまた違う形になっただろう。でも父子の断絶と和解という形をとることで観客も納得できるので、終わり方を救いがない形にすることはできなかったのだろう。ちなみに『日本書紀』では、景行天皇は高潔で道徳の見本みたいな名君として描かれている。

 

 

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