梅原猛と天皇教

 

一、戦争体験と戦争後遺症

 

自伝文学の傑作『学問のすすめ』(佼正出版)によると、梅原猛は一九二五年、大正十四年三月二十日、仙台で生まれた。両親とも結核に罹り、母千代は猛を生んだ翌年病没した。父半二は学生だったので、彼は愛知県の伯父半兵衛・伯母俊夫婦に育てられたのである。旧制高校時代に太平洋戦争を体験した。せめて恋人の思い出の中に生き続けようと、「はげしい恋」に身を焦がしたが、裏切られたのか「十何年かの恨み」が残った。身近に迫った死の意味を求めて、西田幾多郎ら京都学派の哲学書をむさぼるように読んだのである。梅原は京都学派の高山岩男『世界史の哲学』や高坂正顕『民族の哲学』を読んで、「大東亞戦争」が避けられない正義の戦いであり、戦場での死はロマンチックであることを納得しようとした。それに『世界史の哲学』には、もしこの聖戦を戦わなければ、日本のモラーリッシュエネルギーがだめになると書かれてあったのだ。梅原も多くの戦死した友に遅れじと特攻隊を養成するあらゆる種類の試験に挑戦した。今思えば幸運だったのだが、「私だけがいつも落第した。国家が私の運動神経を信用せず、私に一台の飛行機をまかせるのを危険視し、私の命を惜しんだのではなく、一台の飛行機がどうにも惜しいと判断したゆえであった。」(『哲学する心』講談社)

 一九四五年四月に京都大学文学部哲学科に入学式を済ませると、赤紙(招集令状)がきていた。名古屋で五箇月、軍隊での屈辱的生活を体験したのだ。インテリは、軍隊では体力においても、生活の智恵においても実に惨めな存在だったのである。特に彼は自称「根っからの哲学者、あるいは精神分裂症」だったので、ときどき放心状態になり、迷惑をかけたと何度も半殺しの目にあわされていたのだ。

 除隊後、大学に戻り哲学に打ち込むが、死のことばかり考え、多くの死を見てきた梅原は、彼が「死の哲学者」と理解していたハイデッガーを研究し、坂口安吾、太宰治を読みふけったのだった。こうして四八年から五〇年の後半まで、梅原は「極北の人生」を送った。常人とは思えない、いつ自殺するかもしれないあぶなかっしい状態が続き、親友だった源了圓は「お前はよく生きていたなあ。」と後年つくづくと語ったそうである。
 

梅原は養母が心配して京都に同居してくれるなど、周囲の愛に支えられて、なんとか精神的危機を脱した。それに敗戦の焼け跡から逞しく立ち上がり、日々の生活と格闘している民衆のエネルギーが、梅原に次第に生きる力を回復させたのである。五一年に二六歳で稲垣ふさと結婚、子供もできた。貧しいながらも、信じ合い、助け合う中で、人間に対する愛と信頼が回復してきたのだ。

 

             二、三島由紀夫の死と天皇崇拝

 

 このような戦争体験をもった梅原は、根っからの反戦平和主義者であった。特に五〇年代後半からの再軍備の強化や、彼を戦争に駆り立てた高坂正顕が起草した「期待される人間像」など反動の動きには強い反発を示していた。そして戦後文学のチャンピオンと呼ばれた三島由紀夫が六六年に『英霊の声』を書き、神の背信だと人間天皇を責めたことには特に衝撃を受けたのである。ついに一九七〇年三島は、梅原の表現では「壮絶で滑稽な死」を遂げたのだ。
 

三島は、かつて太宰の死を「女々しく死にやがって」と冷酷に嘲笑していた。梅原によると、三島は「平和と民主主義という自己欺瞞の中で、誇りを失った日本人を覚醒させ、天皇制と武士道への還帰を教えるために、自分(三島)は死ぬのだ」(『哲学の復興』講談社現代新書)と叫び、いかにも日本に警告を与える為に雄々しく自決したように装ったが、彼の市ヶ谷の防衛庁でのバルコニー演説は、あわれにも彼が愛した自衛隊員の冷笑と揶揄でかきけされたのである。彼の死は結局は、現在の世界のやり切れなさと来たるべきものへの恐怖に耐えられない弱者の死だったと、梅原は厳しく指摘したのである。


 三島は「天皇崇拝を失ったら、日本人は日本人でなくなる。」と考えたが、梅原に言わせれば、それはとんでもない天皇教である。「天皇制も武士道もつくられた伝統にすぎぬ」(『精神の発見』角川文庫)のである。梅原によれば天皇制は、明治以降に意識的に作り出された日本の伝統であって、決して日本思想の原点ではなかったのだ。つまり天皇制イデオロギーは、天皇制を西洋帝国主義の侵略を免れるために、日本自身を強国化するめの中心点に置き、エネルギーの核としたものだったのだ。

 梅原によれば武士道も天下泰平で尚武の気風が緩んだので、徳川幕藩体制が引き締めのためにつくり出したものであった。それを明治以降も軍国主義の強化の為に温存したのである。梅原は『美と宗教の発見』(筑摩書房)で、鈴木大拙の『禅と日本文化』が死を覚悟する武士道を讃えているのに反発して、戦後日本の永久平和の理想を掲げ、生を豊かにする宗教を求めるべきだと訴えた。

 天皇制を唯一絶対の伝統であるかに思い込む天皇教にとりつかれて、天皇を中心に富国強兵の国造りに邁進した過程が近代日本の歴史であり、その結果が敗戦なのである。天皇制を日本文化の根底においてしまうことは、強いもの統一的なものにのみ価値をおき、その他を無視することにつながるのだ。神社信仰も天皇教を根幹に捉えると、祀られる神々よりも、祀る神=「無の主体としての天皇」に神聖性の根源を求めることになるのである。それが和辻哲郎の『尊皇思想とその伝統』のテーマであり、戦後の『日本倫理思想史』も結局はこれを根幹にしている。
 

 梅原は和辻を批判して、恵みや祟りをもたらす祀られる神々の側に神聖性の根源を求めるべきだとした。つまり神社信仰というのは元々自然崇拝・森崇拝から由来するものだったのに、天皇崇拝はこれを人間崇拝に転倒してしまったということなのだ。(『精神の発見』角川文庫)そこから天皇が祀ることによって、無制限に人間のわがままが許され、自然が無限の富をもたらすかの甘えた幻想が生まれた。また神国幻想から大陸侵攻も、欧米列強との決戦でも何でもできることになる。

 

              三、空ろな帽子―天皇教―

 

梅原は、和辻の場合は西洋の人格主義的な捉え方にとらわれて、天皇という具体的な人格に神聖性の根源を求める傾向が生じたと睨んでいる。ところで天皇教はキリスト教のように過去の伝説的な聖人を信仰するのではない。現に一人の様々な欠点を持って眼前している人間を神とするのだから、全ての信仰を戯画化することにつながるのだ。だから天皇教は日本の古い様々な価値を殺戮した元兇だというのである。(『文明への問い』集英社文庫)
 

梅原は、天皇を神だと信じることの馬鹿らしさが戦争体験で骨身に染みたのであろう。「理由なき死にあえぐ」いうエッセイで、
 

「五銭出せば『戦陣訓』が、三十五銭出せば『国体の本義』が買えた。文部省発行のそういう本には、当時は白い馬にのり羽の生えた帽子をかむり、戦後はいたるところで『アーソオー、アーソオー』ばかりいっていた人間が神であり、その神のために死ぬのは日本国民の義務であると書いてあった。『幸いなるかな信じるものよ、信じるものは救われん』そのばかばかしい神話もひとたび信じさえすれば、さしせまるおのれの死をおのれに納得さすことができる阿片の作用があった。」(『哲学する心』)と回顧している。


 天皇を絶対化し、永遠不滅な神とする発想にマルクス主義も貢献したと、梅原はマルクス主義の責任も追求した。梅原は社会主義の理想に共感を示しながらも、一元的な価値体系に立脚して、マルクス主義に従わない者を不正で、近い将来罰せられるべきだと考えているような党派的な運動が我慢できなかったようだ。このように梅原は、西洋近代的な人格主義、一元論によって生まれた天皇教が、日本の伝統を歪めてしまったと非難しているのである。そして明治ナショナリズムは、このような一元論で多元的な自然崇拝やそれと結びついた日本的な仏教思想などを切捨てた上で、空っぽになったの頭に西洋の科学技術を詰め込んで、殖産興業、富国強兵でひたすら近代化を計ったのであった。

 

                 四、近代天皇教が切り捨てた仏教

 

 梅原は、徳川幕府のキリスト教禁教政策によって押しつけられた近世の檀家制度によって、仏教は行政機構に組み込まれ、すでに葬式仏教となって形骸化していたことを指摘している。(『仏教の思想』角川文庫)そのうえ、明治新政府は一八六八(明治元)年に「神仏分離令」を発令し、各地で廃仏毀釈運動が起こった。破壊されたのは神宮寺の仏像だけではない。寺院や寺院の仏像の破壊、藩による寺領の没収なども起こったのだ。これに対抗する仏教徒側の護法一揆も起こった。やがて騒ぎは収まり、信教の自由は認められたが、これで神仏習合は廃れたのである。奈良時代の行基たちから始まったと考えられる神仏習合の思想こそ、日本の伝統的な仏教だったのだ。

 「明治の天皇教は天皇みずからが神であることを宣告させてしまった。」(『文明への問い』)しかもこの天皇教は仏教から分離され、「本来高度な宗教である仏教を」捨て、「まったく素朴な国王崇拝の宗教に代えよう」としたのである。それは仏教信仰が形骸化してしまっていて、だれも仏教の深い教理を理解していなかったからできたことなのだ。仏教の教えはつまるところ仏像を拝んだら御利益があるとか、南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生ができるとか、南無妙法蓮華経を唱えれば法力があるとか、座禅をすれば悟りを得れるとか、どれも極めて単純で便利な迷信のレベルだと思われていたのだ。


 天皇教が切り捨てた仏教の中身を知るには、梅原の仏教理解の内容を要約しておく必要がある。正確を期したい方は梅原の『仏教の思想』(角川文庫)を読まれることをすすめたい。仏教は倫理的な悟りを求める釈迦の原始仏教から出発して、慈悲で生きとし生けるものを救済しようとする大乗仏教となった。これがインドから中国、朝鮮半島を経て日本に伝わったのである。釈迦の説いた原始仏教は、無我の真理を悟るために全ての欲望への執着を捨て去ろうとするものだから、虚無的な禁欲的な教えに思われたのである。こんな厳しい教えでは、全ての人々が帰依して救われるのというわけにはいかない。


 龍樹などの初期大乗仏教では、すべての物や欲望は本来空でしかないが、空は現実には物や欲望として現れるから、人間は物や欲望への関わりを通して、その執着から脱却するしかないと、節度ある欲望肯定の立場を打ち出した。更に物や欲望を意識に還元する世親などの唯識論が展開されると、自らの意識を統御することによって世界を涅槃として捉えることができるとされる。これがヨーガの立場である。

 そして更に世界と一体化した如来の意識にあっては、世界は如来の慈悲の光に照らされた法の顕現に他ならないと説かれたのである。つまり一木一草に到るまで如来の現れであることになるのだ。この煩悩の世界がそのまま涅槃であるという、欲望を素直に肯定する煩悩即菩提、常楽我浄の境地が『涅槃経』では謳歌されるのだ。世界と一体化した如来は宇宙の本体仏として捉えられ、毘盧舎那仏と呼ばれる。この信仰が『華厳経』に書かれてあり、奈良時代に最も権威があったのである。
 

そして人格的に人間に法を説いた宇宙の本体仏が大日如来と呼ばれるのである。密教は大日如来の教えを奉じているのだ。『華厳経』や『大日経』の信仰は、日本の汎神論的な自然信仰と融合しやすかったのである。元々仏教は異国の神への信仰として輸入されたものだ。仏陀は唐・天竺・朝鮮諸国で広く信仰されている普遍的で強力な神だと思われていたのである。それを理解しようとすれば、日本の神々への信仰が物差しになるので、両者を調和させようとしたのはむしろ当然である。こうして日本の神々も大日如来の現れだという本地垂迹説による神仏習合が定着したのである。
 

これによって自然の神々は、単なる意識から独立した対象でしかないのではなく、宗教的意識と融合したのだ。また宗教的意識は単なる主観的な信心から自然への謙虚な信仰へと発展したのである。鎌倉新仏教では信心の内面化が追求されたが、神仏習合の否定や神道の排斥にはならなかったのである。


 近代天皇教は神仏分離によって、仏教を主観的な信心へと閉じ込め、自然の神々を天皇権力の恣意に従うように統合する試みである。そうしておいて学校教育を通して天皇崇拝を強制し、仏教を偶像崇拝や葬式儀礼、呪文信仰でしかないと軽視して、専ら西洋の科学的知識の詰め込み教育を行った。梅原は『仏教の思想』で、貶められてきた中国と日本における仏教の展開を分かり易く概説して、その豊かな思想的内容を紹介しているのだ。

 

                  四、近代天皇教が隠蔽した怨霊信仰

 

 祀られる神々よりも「祀る神=天皇」の方に神聖性の根源があるという立場の天皇教では、祀られる神々の側の威力や文化伝統を正当に評価できない。梅原は日本思想の伝統を見直すとき、聖徳太子にしろ菅原道真にしろ、神として祀られている文化人には、権力によって潰された人々が多いのに気がついたのだ。「神々になる特権を不幸な文化人に限定することで、政治と文化のバランスを保っていた」(『哲学の復興』)のではないかと考えたのである。梅原は『古事記』神話を「アマテラスによって代表される祖先神の崇拝とオオクニヌシによって代表される怨霊神の鎮魂という二種の祭事を前提にした神話」(『学問のすすめ』)だと解釈したのだ。


 祀られる神に怨霊が多いのは確かである。飛鳥地方にはたくさんの神社があるが、そのほとんどは天皇の祖先神ではない。大神神社(三輪山)など主要な神社は大物主命(大国主命に祀られる神)が主神として祀られている。出雲大社や金比羅神社も大国主命や大物主命とを祀っている。つまり天皇の祖先と言われている勢力が、自分たちが滅亡させた政権の王の怨霊を祀って、祟りを防いでいたのである。『古事記』では大国主命は国譲りの条件として出雲大社をつくってくれれば、他の神々を率いて一緒に天皇にお仕えしましょうと、祟るどころか、天皇への服従、協力まで申し出ているのである。


 梅原が最も注目を浴びた著作は『隠された十字架―法隆寺論―』(新潮社)であろう。現存する日本最古の木造建築といわれる法隆寺が再建されたものかどうかを巡って、明治以来論争が行われてきた。これは若草伽藍と呼ばれる旧い寺跡が発見され、決着がついたが、どうして再建されたが問題だった。梅原は死後、山背大兄皇子をはじめ一族を虐殺された聖徳太子の怨霊を鎮めるためだったとしたのである。その論拠として、梅原は次の六つを挙げている。


@中門に柱があり、しかもその門はいつも閉ざされている。

A金堂には太子一族の等身大の仏像が祀られ、しかも昔は密閉されていた。

B七三九(天平十一)年から一八八四(明治十七)年まで、太子の等身大の夢殿の救世観音が白布でぐるぐるまいて、厨子の中に閉じ込められていた。それは藤原四子が疫病で死んだ翌々年である。

C毎年二月二五日に聖霊会が、五十年に一度大聖霊会が大々的に催される。

D『日本書紀』はあまり一人の人を英雄視しないのにもかかわらず、聖徳太子だけが生まれたときから聖人扱いで、天皇でもなかったのに、法王とか大王とかいう称号が用いられている。

Eまた梅原は、五十年毎に壬申の乱での天智一族の悲劇、藤原四兄弟の疫病死という形をとって、聖徳太子が祟ったとされる度に、白鳳や天平の仏教ルネサンスが起こり、結局仏教と対立していた筈の藤原氏が最も熱心な仏教の護持者になったことを指摘している。

(『聖徳太子』小学館)

 

                 五、不比等の『古事記』『日本書紀』

 

 梅原は、近代天皇教が捏造した「天皇制が唯一絶対の日本の伝統である」というフィクションに挑戦した。古代に完成した律令国家ですら、藤原不比等が編纂した『養老律令』では、実は天皇権力は象徴的なものであって、藤原氏らの太政官に実権があったというのが梅原の解釈である。(『海人と天皇―日本とは何かー』朝日新聞社)そして天皇の絶対権力を保障するために作成された筈の『古事記』『日本書紀』も、実は陰の編纂者は不比等であって、藤原氏が陰で政権を掌握しやすいようにする潤色がいろいろなされているという。


 本居宣長は、彼が解釈した『古事記』をそのまま史実だと信じた。近代天皇教は、日本は万世一系の天皇が支配する国だというフィクションを金科玉条としたから、第二次世界大戦前の歴史学は『古事記』『日本書紀』に大きく制約されたのである。津田左右吉が実証史学の立場から、律令国家の都合で創作したものだと指摘したことは、その意味で画期的で勇気あることだったのだ。


 第二次世界大戦後の歴史学は津田の創作説を継承し、『古事記』『日本書紀』の史料的価値を否定してしまったのだ。梅原は、『古事記』『日本書紀』こそ律令国家形成期の政治的現実を反映している鏡として非常に重要な史料であると捉えている。その意味で戦後歴史学を強く批判しているのだ。古田武彦との違いは、古田が『古事記』『日本書紀』に大和政権成立期の歴史的現実の潤色された反映を実証的に見出そうとするのに対して、梅原は七世紀、八世紀の歴史を解読する鍵を方法論に基づく直観によって見つけようとするところにある。歴史偽造の内容を明らかにすれば、歴史偽造期の歴史が見えてくるというのである。


 もちろん古代史は文献資料が極めて乏しく、考古学的資料の意味を解読する際にどうしても歴史学者の思い込みが入りやすい分野ではある。それで『古事記』『日本書紀』がどれだけ史実を歪めているのかが極めて不明確なのだ。だから、歴史偽造者の正体を突き止め、その意図と潤色内容を確定することは大変な困難を伴う作業になる。不比等の主導で律令国家が完成したと捉える梅原は、次のように潤色内容を推理した。

 

@アマテラスが神々に対する支配権を持つのは、七・八世紀の女帝の時代の合理化ではないか。またそれは藤原氏が陰で二重権力支配を行うのに好都合だったのではないか。

Aアマテラスが孫のニニギノミコトに地上支配権を与えようとするのは、女帝持統天皇が孫の文武天皇に皇統を継承しようとし、女帝元明天皇が孫の聖武天皇の実現を計ったことを合理化するものではないか。またこれは不比等が女帝を担いで実権を握ろうとする企みをも正当化するものではないか。

B『古事記』ではスサノオを反逆罪で出雲に流刑したが、これは大津皇子に死を与えたこと共通している。皇親などの特権階級といえども、八虐の罪を犯した場合は死罪も免れないという法の下の平等の律令精神が投影しているのだ。

Cオオクニヌシはオオナムチとかヤチホコなど多くの別名を持っていて、出雲大社に祀られているが、これは大和の土着の神々をオオクニヌシという名でひとまとめにして出雲に流したのではないか。そしてタケミカズチやフツヌシなど国譲りをさせた軍神たちと中臣氏の祖先神アメノコヤネとヒメカミの四神を一緒に奈良の春日大社に祀って、みんな藤原氏の祖先神というとにした。これはまさしく政権を独占しようとする藤原氏の野望を反映していたのではないか。

 

 『神々の流竄』(集英社文庫)は、出雲地方が古代においても過疎地で文明が開けていなかったことを前提していたので、鉄剣が大量に発掘されるなど、古代出雲王朝の存在が注目されることになり、再考を余儀なくされている。それに大和地方全体を鳥瞰すると、オオクニヌシ系の神社の方が多いのではないかと思われるから、邪魔な神々を流竄したという議論は無理がある。むしろ打倒した相手や相手の国ツ神を祀って、自分たちの守護神にするという怨霊信仰の論理で説明した方がすっきりしている。それ以外の論点は、『古事記』が秘本であったことを考え合わせると、たしかに説得力がある見事な推理である。でも記紀以前の資料に乏しく、変造の内容を突き止めることはできない。たとえ不比等が梅原の睨んだように稗田阿礼であったとしても、不比等の水面下の工作の内容が、梅原の推理通りだと断定することはリスクを伴うかもしれない。

 

                           六、女帝の国

 

 古代律令国家は天皇中心の中央集権国家であり、天皇の権力は絶大であったと思われがちである。この古代天皇制への憧れが、天皇制を日本の唯一絶対の伝統だと信じ込む天皇教の源泉であるから、はたして古代の天皇はどれだけの実権を持ち、どのような支配を行っていたのか、その実態を明らかにすることは、天皇制に対する冷静な認識を与える上で重要である。梅原の『海人と天皇』は、律令国家における推古即位の五九二年から称徳没の七七〇年までの一七八年間の内、女性の天皇の期間が八四年間もあった女帝の時代を、リアリズムの手法で見事に捉えている。


 梅原によると「天皇」と「日本」はセットで、いずれも最初の女帝であった推古天皇の時代から使用され始めたのである。推古の即位は、五九二年に蘇我馬子が祟峻天皇を殺害した後で、馬子の責任を追求しないという合意のもとでの傀儡政権の誕生を意味したと思われるのである。翌年聖徳太子が摂政となり、馬子・推古・太子のトロイカ体制での天皇中心の律令国家形成を目指すが、あくまで馬子の実権の下で行われたのである。

 
馬子の死後は、その子蝦夷と孫入鹿が権勢をふるった。皇極女帝も蘇我氏の傀儡でしかなく、それが不満で六四五年、中大兄皇子がクーデターを起こして蘇我氏を退け、女帝を退位させたのある。中大兄皇子は、自分は即位せず、孝徳天皇が即位したが、中大兄皇子と中臣鎌足の権勢が強く、孝徳は孤立して憤死した。そして六五五年、皇極が重祚して斉明天皇となって女帝が復活したのであった。女帝の没後、なおも七年間も中大兄皇子は即位せず、称制を続けたのだ。結局天智天皇として天皇自身が親政を行ったのは三年間だけであった。


 天智の没後、六七二年に壬申の乱があり、天武天皇の時代になった。この頃天皇を現人神として信仰するようになったと言われている。天武帝は絶対権をふるい、皇子たちを重要な政務につける皇親政治を理想にしていたのだ。ところが天武は病気がちとなり皇后が代理することが多かったので、天武没後、四年間の称制を経て、六九〇年に皇后が即位し持統天皇となった。彼女は孫の軽皇子に皇位を継がせかったので、ライバルの皇子たちを粛清したのある。そして孫である軽皇子の最大のライバルであった高市皇子の没後、六九七年に持統は孫に皇位を譲ったのだ。


 しかし文武天皇は在位十年、二五歳で夭折してしまう。文武の母阿閇皇女は文武の息子首皇子がまだ七歳と幼すぎるので、帝位が傍系にいかないようにと考え、自分が即位を宣言して七〇七年に元明天皇になったのである。これは天智が大友皇子に皇位を継承させようとした「直系の皇位相続法」の原理を楯にしたのである。元明は「天地と共に長く日月と共に遠く改むまじき常の典」と形容し、持統の文武への継承もこれに基づいていたとしている。


 この「不改常典」に基づく首皇子への皇位継承は、首皇子の母方の祖父にあたる藤原不比等の利害と一致するのだ。その中継ぎとして元明とその娘元正の即位があったのある。それに彼女たちは退位後も、持統天皇に倣って太上天皇つまり上皇として天皇と同格の地位にあった。藤原不比等が『大宝律令』や『養老律令』を編纂するさい、持統上皇や元明上皇の立場を尊重して、また彼女たちを利用する為に、唐の律令にはみられない「太上天皇」という地位を加筆したと梅原はみている。梅原によれば、彼女たちは不比等の高度な学識に基づく政治力に依存していて、不比等とのプライベートな繋がりを深めていたのだ。不比等は女帝たちに皇位継承ライバルの皇子たちを粛清させて、皇族を弱体化させた上で、自分の娘たちを皇位継承者に嫁がせて、権力の中枢を独占しようとしたのだった。

 

                      七、妃となった海女

 


 『海人と天皇』で最もワクワクするのが、文武天皇夫人で聖武天皇の母である宮子の物語である。安珍・清姫伝説で有名な道成寺の縁起伝説に、「宮子姫伝説」がある。昔、海底から怪しい光がするので、それを海女だった宮(あるいは宮の母)が取り出したら、一寸八分の黄金のミニ千手観音像だった。その御利益で宮の毛髪の生えなかった頭にふさふさと生え、「髪長姫」と評判になったのである。その話を聞きつけて、藤原氏は宮を養女にし、あまりに美しかったので文武天皇に輿入れさせたのである。そして首皇子を生んだが、宮子はノイローゼ状態になり、三七年間わが子に会おうとしなかったということある。文武天皇は宮子が千手観音像の事を気に病んでいたので、文武天皇の勅願でミニ観音像を大きな観音像の腹中に納めて、祀る寺を造営することになったのである。これを担当した紀道成(あるいは藤原道成)は、日高川で寺の造営の為の材木を運んでいる最中に筏から落ちて一命を落として、紀道神社に祀られたのだ。そしてできた寺を道成寺と呼ぶそうだ。


 この伝説は、文献的には宮子が不比等と賀茂朝臣比売との娘ということになっているので、ただのおとぎ話ぐらいに扱われていたのだが、考古学的調査、美術史的調査により、出土品や伽藍の規模が南都の五大寺に匹敵するもので、勅願寺であってもおかしくないことになったのだ。梅原は宮子が不比等の実子だったら腑に落ちないことが、伝承通り養女だったら、説明がつくことがいくつかあるとしている。


 

@『続日本紀』では、宮子は「夫人」なのに、紀朝臣竈門娘や石川朝臣刀子娘は「妃」になっている。不比等の権勢を考えると、宮子の方が格が低いのは矛盾している。

A同じ不比等の娘の光明子は聖武天皇の皇后になっているのだから、この格差も宮子が養女だったということで納得できるのだ。

Bいくら病気でも一度もわが子に逢えないのは不合理である。宮子が養女で不比等に道具として使われたとすれば説明が付くというのだ。

C聖武天皇は、元明天皇の孫、文武天皇の子だったから、帝位について当然なのに、元明・元正の中継ぎを置いた後、皇位を継ぐ際も極めて遠慮がちに受けているが、それは母方の出自に問題があったとすればよく分かるのだ。「不改常典」にはたとえ母方の出自が卑しくても、直系を優先するという含意もあったということなのだ。

D賀茂比売が宮子の実母だったら、賀茂氏は聖武帝の外祖母の縁で出世していた筈である。その形跡がみられないのは、養女説を裏付けるといえるだろう。

F聖武天皇が光明皇后に対して頭があがらなかった上、藤原氏に対して疎遠な感情を抱いていたのも母が藤原不比等の実子ではなく、養女だったことから説明がつくのだ。

G聖武天皇は藤原広嗣が、僧玄ムと光明皇后との不倫を告げても聞き入れない。広嗣が僧玄ムと吉備真備を除くよう乱を起こした時に、乱が鎮定される前に、突然聖武が都からエスケープしたのも、母の出自からくるコンプレックスの現れとも解釈できるのだ。

 

 梅原は、律令国家全盛期の聖武天皇ですら、海女の子であるという出自コンプレックスから天皇親政を貫徹できなかったと指摘した。古代天皇制の実像が絶対の権威からほど遠いものだったことを明らかにしたので、梅原は、天皇制を唯一絶対の日本の文化的伝統と崇める天皇教を鋭く批判していたのである。


 とはいえ聖武天皇は全国に国分寺や国分尼寺を建て、東大寺の大仏の建立を発願した。それに強引に恭仁京・難波宮・紫香楽宮に遷都させたのだから、やはり天皇が本気で決意すれば、皇后も太政大臣も藤原氏でも逆らいきれなかったのである。この面に注目すれば、天皇の権威は絶大だったともいえるだろう。しかし梅原は、天皇教への「恨」の思いが捨てきれないものだから、不比等が敷いた天皇権力の形骸化のレールの上を進まざるを得なかった聖武の限界を、浮き彫りにすることにこだわったのである。


 

                    八、道鏡と孝謙上皇


 道鏡と孝謙上皇の凄まじい性的スキャンダルを、ポルノ作家でもないのに、日本を代表する学者である梅原が堂々と取り上げたのである。梅原も耽読した坂口安吾は、神の子として神聖に育てられた孝謙上皇は、性的にも純潔で犯しがたい存在であったとしていた。孝謙上皇が道鏡に帰依したのは、宗教的な高潔さに魅かれたからであって、決してスキャンダラスな下半身の欲望ではなかったと弁明したのである。そして道鏡に譲位しようとしたのも、道鏡が天皇家の血を引いていたからではないかと推理していたのである。


 こうして坂口は、道鏡と孝謙上皇の関係をエロ本の泥沼から救い出し、最高のプラトニック・ラブの雛形に昇華したのだ。梅原も孝謙上皇と道鏡との関係を巨根願望に還元する淫乱的伝説は、後世に女性天皇を斥けるために作られたものであるとしている。とはいえ、両者の関係を愛人関係とは捉えているのであって、安吾のようにセックス抜きのプラトニックなものとはしていない。梅原は、天皇家の人々を特別な神聖な人格として捉えることができないのだ。梅原自身が天皇を神聖な人格だと信じ、その為に自分の生命すら捧げようとして、悲惨な屈辱と恐怖を味わい、精神がぼろぼろになって死ぬことばかり考えたぐらいに疵ついたのだから。こういう体験は原体験であり、拭いようがない。無意識的に作用するものである。


 それに僧玄ムの先例がある。玄ムは光明皇后とだけではなく、聖武の母宮子ともスキャンダルがあるのだ。宮子は聖武を生んでから、「幽憂に沈み久しく人事を廃す」(『続日本紀』)状態だったが、が見事に治癒したのだ。それが性的な方法であったことは、興福寺の焼失で再建する時に、四恩堂だけ造らなかったのは、そこが玄ムと宮子の密通の場だったからと『興福寺流記』にあることから分かる。梅原はこういう話は作って作れるものではない、興福寺にとってこのスキャンダルが相当痛手だったから根強く伝承されたとみているのである。


 孝謙が天皇だったときは、皇太后である光明皇后と藤原仲麻呂が紫微中台という皇太后の政庁を造って二重権力を作り、天皇には全く実権がなかった。道祖王を皇太子から下ろし、舎人親王の第七子で立場の弱い大炊王を皇太子にすれば、後は用済みとして七五八年譲位させられたのである。しかし二年後光明皇太后が亡くなると、孝謙上皇の立場が強くなった。彼女は病気を治してくれた道鏡とフォール・イン・ラブして、舞い上ったのだ。そして淳仁帝の咎めに対して逆上し、クーデター宣告に等しい「大事親決の詔」を下したのだった。


 孝謙は上皇として紫微中台の最高権を握っていて、天皇より格が上なのである。しかも血統が淳仁よりよいのだから、淳仁は恭しく上皇に従うべきなのに、「仇の在る言のごとく言ふまじき辞も言ひぬ。為まじき行もしぬ。」と怒っている。それに自分は菩提心を起こして道鏡をいとおしいと思っているだけで、すこしもやましいところはないと開き直っている。そしてこれからは天皇は「常祀小事」を行いなさい、私は国家の大事と賞罰を行いますと宣言したのである。仲麻呂がつくった皇太后支配の体制を、孝謙は最大限利用して、淳仁・仲麻呂(恵美押勝)体制に牙を向いたのである。恵美押勝は塩焼王を擁立して挙兵したが、敗死してしまったのだ。そして淳仁帝は淡路に流され、廃帝されたのだった。

 

                  九、聖と俗のアンビバレンツ

 

 孝謙上皇は七六四年に重祚して称徳天皇となり、天皇親政を行った。彼女は適当な人材がいないとして皇太子を決めず、道鏡を太政大臣禅師や法王にまで出世させ、やがては天皇にしようとしたのである。坂口安吾は道鏡をやんごとなき生まれと推理したが、梅原は「出自のはっきりしない一介の僧」と断定している。そして『水鏡』『日本紀略』『古事談』などから、孝謙上皇と道鏡との関係が、異常に強い淫欲と巨大な一物の関係として噂されてきたことを詳しく紹介しているのだ。その上で梅原はこれらの伝承の信憑性はともかくとして肉体関係は否定できないだろうとしている。


 梅原は、他方で道鏡への譲位を国家と宗教の一体化の象徴として、聖なる行為として称徳が捉えていたと見なした。まさしく称徳という女の中で、仏への帰依と肉体の快楽が両方とも究極まで追求された果てに、聖と俗とのアンビバレンツ(両義性)の極致に、道鏡への譲位が位置づけられていたのである。それは聖なる血統と海女の卑しい血統の合一としての彼女の実存の不安の現れなのである。彼女の体内の海女の血が、同じ体内の天皇や藤原氏の血を呪っていたのではないかと、梅原は述懐している。


 彼女は、聖武から天皇位を授かる際に「王を奴と成すとも、奴を王と云ふとも汝のせむ
まにまに」と言われたと主張したのだ。この思想は絶対権を意味すると共に、血統の神聖視に基づく貴族制度を否定しかねない過激な思想を含んでいるのである。実際、彼女は「八色の姓」を崩壊させようとして、高位の姓をどんどん与えてしまったのである。その究極の形が、どこの馬の骨かわからない一介の祈祷僧に天皇位をくれてやるという行為であった。それは、考え方次第では仏教の絶対平等思想の理念に叶っていると言えるのである。


 梅原は、この『海人と天皇』の聖と俗のアンビバレンツは、不比等が企んだ天皇を律令国家体制の「象徴」として位置づける試みの結果だと言いたいのあろう。このように生身の人間に神的な権威や専制的な力を与えようとする試みは、常に長続きせずに破綻している。そして日本という国は、天皇の権威を単なる象徴に止める象徴天皇制こそを本来伝統にしているのことを示したのだ。近代日本の天皇教は、天皇を唯一絶対の伝統的権威として神格化することで、戦時下の暗い青春を梅原にもたらし、拭いがたい心の疵を残したのだ。しかしこの天皇教への「恨」が、梅原古代学に豊穰な実りをもたらしている問題意識の核になっているのではないかと思われのである。

 

(この論稿は三一書房刊一九九六年刊『知識人の天皇観』に収録されたものを改訂したものである。)

 

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