対談 梅原文学の世界

 

 山辺涼子―現在主婦、元々は日本文学に興味あり。大の梅原猛ファン。やすいゆたか著『評伝 梅原猛―悲しみのパトス』を読み、読者としてアクセス。続編の企画ありということで、いろいろ質問を寄せている。そこで一度対談して、読者の意見を参考に書き直すということになった。

 

              柿本人麿とヤマトタケル説話


                       人麿がヤマトタケルを書きたるや持統の闇に迫りたりしか

                      
                 

 

 

山辺:『評伝 梅原猛―哀しみのパトス』に入りきれなかった梅原文学論をまとめられるということですが、梅原猛が柿本人麿論や縄文文化論からスーパー歌舞伎にワープしたきっかけは何ですか。

 

やすい:宴会の席で市川猿之助に、梅原が苦言を呈したのです。彼は猿之助歌舞伎を高くかっていたのです。近代歌舞伎は古典芸能化して、洗練されすぎています。これでは本来の観客を奇抜な舞台で驚かせる歌舞伎の醍醐味がありません。猿之助はケレンを復活させ派手な立ち回り、宙吊り、早替りなどで観客をワクワクさせる舞台づくりをしていました。これこそ「傾く」からきた「歌舞伎」の原点なのです。しかし台本は古典歌舞伎のままで、現代人の胸に響く名台詞が乏しいのです。もっとシェークスピアみたいな人生を感じさせる名台詞がなくっちゃあということをずばり指摘したのですね。
 

山辺:それで猿之助から「先生、それじゃあ書いてくださいよ」と頼まれたのでしょう。そのお話はしょっちゅうされていて、いい加減耳にたこができていますよ。私がお伺いしているのは、柿本人麿論や縄文文化論からスーパー歌舞伎にワープしたのには、何か必然的なつながりがあるのかということです。

 

やすい: それがつながっているのです。京都芸術大学の学長を辞めてから再度猿之助に頼まれて、本気で書き始めたのです。猿之助にすると社交辞令で頼んだのにこの先生本気らしいということで、驚いたのですが、それが素晴らしいできだった。というのが、当時『古事記』の現代語訳をされていたのです。その時に、オオクニヌシやヤマトタケルが実に素晴らしい文学作品だということで、感銘しているのです。これだけすごい作品を書けるのは、同じ時代にそう何人もいないだろうということなのです。

山辺:柿本人麿が原作者だという説ですね。
 

やすい:ええ、直接的な証拠は全くありませんから、幻視なのですが、だとしたら『水底の歌』の謎が解けるのですね。

山辺:どうして柿本人麿が水刑で葬られたかという理由ですか、それは『古事記』ではなくて、『万葉集』の「高市皇子への挽歌」が原因だと梅原は推測していたでしょう。あたかも高市皇子を大王のように表現しているのが持統天皇の逆鱗に触れたのではないのですか?
 

やすい:そこは微妙ですね。高市皇子は太政大臣だったのですが、彼は大津皇子が謀略で葬られたので、帝位に就こうとすると自分も殺されると恐れたのではないかと思われます。謀略の真犯人は鵜野皇女つまり後の持統天皇だと思われていますが、果たして当時の人々がそう思っていたのか疑問です。
 

山辺:我が子を帝位につけるためなら、ライバルの皇子たちを皆殺しにしかねないような恐ろしい鉄の女のイメージを現代の歴史家たちは抱いているようですが、それは誤解なのですか。

やすい:潜在意識的にはそういう恐ろしい心の闇が潜んでいたかもしれませんが、周囲の人も本人もそんなことは思いもかけなかったのではないでしょうか。そうでないと天武天皇の皇子たちが持統天皇を戴いてその下で皇親政治を行うということはできなかったと思います。
 

山辺:その点では梅原猛の解釈とはずれがありますね。そういえば、大津皇子が失脚しても実子の草壁皇子を帝位につけるのをはばかっていますね。大津皇子を謀略で失脚させた黒幕がいて、それがだれか分からないから、草壁皇子を即位させるのは危険だと鵜野皇女も思っていたということですか。
 

やすい:それもあるでしょうし、草壁皇子の即位を主張すると、鵜野皇女の謀略だったと疑われかねません。彼女は身に覚えがなかったから、疑われるのを恐れたとも考えられます。そして父中大兄皇子を見習ったのか、皇后が即位せずに政治を行っています。「称制」というのです。そして草壁皇子が亡くなったので、だれかが天皇に即位しなければならなくなり、高市皇子が固辞したので、持統天皇になったのです。

山辺:やすいさんの解釈では持統天皇は将来、孫の軽皇子に継がせるために高市皇子に皇位が行くのを阻止しようとして自分が即位したとは解釈しないのですね。
 

やすい:潜在意識ではそれはあったかもしれませんが、もし表立って、是が非でも孫に継がせるために自分が継ぐのだと頑張ったらどうでしょう。いっぺんに皇子たちの信頼を失ってしまいます。むしろ高市皇子に皇位継承を迫ったのではないかと思います。でも裏で皇子たちは謀略者の陰に怯えていたのではないでしょうか。それで危ない役は皇后だった鵜野皇女に任せて、太政大臣になり皇親政治を継続したのです。だから持統天皇は高市皇子に後皇子尊という尊称を与えて、後継者であることを世間に披露していたのです。

山辺:ではどうして皇太子にしなかったのですか。

やすい:太政大臣で皇太子を兼ねるというのはできないのです。太政大臣はあくまで臣下の職ですから、皇太子になるなら、太政大臣にはなれないので、それと分かる呼び名にしておいたのでしょう。
 

山辺:ということは持統天皇と高市皇子に対立がなかったということですから、その対立にからんで柿本人麿が持統天皇の逆鱗に触れることはないわけですね。とすると『古事記』のどの話に逆鱗に触れる箇所があったのですか。

やすい:「ヤマトタケル説話」です。現存の『古事記』には消されてしまっていますが、持統天皇が自分の息子に皇位を継がせるために、天武の他の皇子を抹殺しようとしたと思わせる話が入っていたのではないかということです。梅原は戯曲『ヤマトタケル』の中で景行天皇の先妃の息子を大碓皇子と小碓皇子とし、先妃が病死してその妹が皇后になったとしています。皇后に自分の子が生まれると先妃の子が邪魔になって殺そうとしたわけです。その話が柿本の『古事記』には入っていて、それで逆鱗に触れたのではないかと思います。

 

山辺:それは強引すぎます。第一、もし入っていたとしても削除されているのですから、どうして入っていたと分かるのですか、それは梅原戯曲からの類推でしょう。
 

やすい:全くの幻視ですね。歴史解釈としてはそこまで主張するのなら、作家的想像力で何を言ってもよいということになりかねません。でもこれは梅原文学の世界を論じているわけですから、作家的想像力の領域を論じているわけです。どうして梅原は『古事記』にはない、皇后勢力の画策という話を入れたのか、それはやはり天武天皇の妃に大田皇女と鵜野皇女という天智天皇の娘たちがいて、大田皇女が死去した後、鵜野皇女が皇后になって、天武天皇の死の直後に、大津皇子事件が起こったからです。
 

山辺:梅原猛は鵜野皇女による謀略と思っていたから、戯曲『ヤマトタケル』に皇后の謀略の話を入れたわけですが、先ほどのやすいさんの説明では、当時はだれも皇后の謀略とは思っていなかったわけでしょう。

やすい:ですから、「高市皇子への挽歌」が逆鱗の原因でないとしたら、いったい何かですね。それでもし梅原戯曲の『ヤマトタケル』の皇后謀略みたいな話が『原古事記』にあったとしたら、これは逆鱗に触れただろうということです。梅原説に従って、柿本刑死説を採用しますと、梅原は柿本が書いたらこういう内容になっていたであろう『原古事記』の復元を試みたのではないかと考えたわけです。


山辺:ところがやすい解釈では鵜野皇女の謀略はなかったわけだし、だれもそれを見抜けなかったのですから、柿本版『原古事記』にも皇后謀略の話はなかったことになりますね。


やすい:それが柿本人麿だけは、皇后の謀略を疑ったのです。それで皇后謀略の話を入れました。

山辺:たとえ入れてもだれも気づかなかったでしょう。まさか鵜野皇女がそんなことをするとは思わなかったのですから。

やすい:それがすぐに気づく人がいるのです。その人物こそ謀略の張本人ですが。

山辺:では藤原不比等がこれは大津皇子事件のあてこすりだと気づいて、持統天皇に告げ口したということですか。もしそうだと確かに逆鱗にふれますね。身に覚えのない嫌疑をかけられているのですから。

やすい:柿本刑死が事実だとしますと、何かそれだけの原因がある筈で、それが「高市皇子への挽歌」でないとすると、私にはどうも「ヤマトタケル説話」の柿本版が梅原戯曲に近かったのではないかと思えてくるのです。

山辺:ではどうして柿本はやすい説では無実の持統天皇への嫌疑を抱いたのですか。
 

やすい:ところで山辺さんはどうして謀略の真犯人を藤原不比等だと思われたのですか。

山辺:それは藤原不比等が持統天皇の腹心のような立場にあり、孫の文武天皇(軽皇子)に養女の宮子姫を嫁がせ、その子首皇子にやはり娘の安宿媛(光明子)を嫁がせて、外戚としての地位を固めたでしょう。そして律令や『古事記』『日本書紀』の編纂でも大きな力を発揮したといわれます。藤原氏が支配する体制を作り上げたわけで、当然、大津皇子事件も、その一里塚でまず皇親政治に打撃を与える陰謀だったと思われます。

やすい:つまり天武天皇の皇子たちによる皇親政治の継続か、藤原氏を中心とする太政官中心の貴族官僚独裁かという二つの勢力が対立していたわけです。不比等は持統天皇と結びつくことで、直系相続を口実に藤原氏に近い天皇を実現し、皇親政治の勢力を牽制してきたのです。皇親政治の勢力が天皇になりそうになると、謀略やテロを用いてでも権力を奪取し、防衛するというやり方です。

山辺:では柿本人麿は、持統天皇への嫌疑をどうして抱いたのですか。

やすい:やはり高市皇子の死に疑問を持ったのでしょうね。病死だったかもしれないけれど、英邁な皇子が天皇にならずに、腺病質な草壁皇子や軽皇子などばかり皇位につけたがっているようにみえたのでしょう。高市皇子を天皇に熱心に推しているように見えるのも、実は巧妙な演技で、陰では藤原氏に密かにテロや恐喝をやらしているのではないかと感じたのでしょう。人麿は神である天皇が親政をする形を理想と思っていたのです。それを持統天皇は藤原氏と結合して形骸化させようとしていると見抜いたわけです。

山辺:実際にそうではなかったのですか。

やすい:鵜野皇女にすれば、皇子たちが皇位をめぐって権力闘争をしており、陰謀をめぐらしているように思ったかもしれません。それを抑えるためにはしっかりした律令と官僚体制が必要だと考えました。それで近江京の旧官僚貴族を復権させて、勢力均衡をねらったのでしょう。人麿にはそれが神としての天皇の支配を否定する論理に見えたのです。
 

山辺:皇后の陰謀が「ヤマトタケル説話」にあったかどうかは確かめようがありせんが、他にヤマトタケル説話が七世紀末の投影ということは言えますか。
 

やすい:大津皇子を大碓皇子のモデル、高市皇子を小碓皇子のモデルとしますと、梅原戯曲では大碓皇子はやむを得ず乱へ追い詰められます。高市皇子は大変英明な皇子で文武共に優れていたのですが、持統天皇の腹心の藤原不比等の存在で思うような政治ができません。そして結局帝位に就けずに身罷ったのです。高市皇子が神としての統治を実現する方法は何か、それが当時活発になった蝦夷の乱を鎮めて、東国の豪族と結合し、大和を窺がうというやり方です。

山辺:でも蝦夷征伐には皇子は行ってませんね。

やすい:蝦夷の勢いは凄かったので、皇子が征伐軍を率いても反対にやられてしまう危険性が高かったのです。あくまでヤマトタケルという理想像を描いて、高市皇子をダブらせたかったということでしょう。まあこういう推理は、あくまで柿本人麿研究と戯曲『ヤマトタケル』につながりがあるとしたらということが前提です。

 

                           熊襲征伐とヤマトタケルの誕生
 

                          単身で熊襲に乗り込み首を取るこの勇者こそタケル名のれや

 

山辺:梅原戯曲では、大碓皇子は叔母である皇后から命を狙われていると気付きました。でも、叔母を殺しても父帝から処罰されると考えて、クーデターを考え弟に打ち明けたところ、拒否されます。そして争いになって、小碓皇子は兄を殺してしまったわけですが、それであまり乱暴なので、熊襲征伐にやられます。しかも単身で乗り込まされたのです。これはあまりに極端ですね。
 

やすい:罰として熊襲に殺させるということです。でもひょっとして見事に熊襲を成敗してくれれば、それはそれでもうけものだということでしょう。

山辺:熊襲は大和の男を入れないので、舞姫に化けて潜入するという筋書きは楽しいですね。でも敵の中に単身乗り込んで行けば、たとえ暗殺に成功しても生きては帰れない筈ですね。
 

やすい:だから荒唐無稽な筋書きだと思われるでしょうが、そこにスサノオ信仰が絡んでくるのです。そのことは後で触れます。ドラマの構成としてよくできているのは、派手な立ち回りの前には、その緊張とのコントラストを考えて、笑いや宴会の場面を入れることになっています。熊襲の任新宮の落成記念のパーティですね。そこで舞姫に化けた小碓皇子が華麗に舞うのです。

山辺:強い男を倒すには、もっと強い男というのでは、単身ですからとても熊襲の男たちをやっつけられません。そこで逆にいかにも弱そうな女に化けて油断させるのですね。女の色香で蕩けさせ、ヘベレケに酒に酔わせて腰が立たないくらいにしてしまうという作戦ですね。

やすい:敵の大将首を取ろうとしたら、その至近距離まで飛び込む必要があります。それには女に化けで敵の胸の中に抱かれるというのが一番確実です。

山辺:兄タケルを刺し殺した後は、スーパー歌舞伎では派手な大立ち回りになりますが、『古事記』では弟タケルは兄がやられたのを見て、逃げ出すことになっています。

やすい:やはりスーパー歌舞伎はショーですから、立ち回りを楽しんでもらう必要があります。一人で熊襲の男たちを次々になで斬りにしていく場面ですね。そういう超人的な百人斬りを見せる場面です。でも文学的にはそれでは面白みがありません。ヘベレケに酔っていて男たちは戦闘能力や思考能力をほとんどなくしていて、突然の兄タケルの死にパニックで逃げ出すのです。でも足がもつれて逃げられない。小碓皇子は弟タケルの尻から剣を突き刺すわけで、剣で釜を掘られるのです。
 

山辺:ゲー、気持ち悪いですね。つまり戦わずして逃げたものだから、男としては失格で、それで剣で釜を掘られたということですか。
 

やすい:かよわい娘と見えたのが単身熊襲を征伐に乗り込んだ勇者で、最も豪勇に見えた弟タケルが尻を向けて逃げ出して釜を掘られる弱虫だったという大逆転です。こうゆう弱者と強者が逆転するというところが見せ場なのです。

山辺:それで弟タケルは「タケル」という名前は恥ずかしいから、本当に勇敢な小碓皇子に捧げますということで、タケルという名前をもらって、ヤマトタケルが誕生したということです。
 

やすい:名前は単なる記号ではなく、名前自体に命が宿っていると考える信仰です。これは言葉に霊が宿るとする言霊信仰の一種です。熊襲タケルの魂はヤマトタケルの中で生き続けることができるということになります。
 

山辺:ところでやはり納得いかないのが、熊襲の男たちですね。ヤマトタケルにあっさり帰順してしまっています。御頭の仇をどうして取らないのですか。相手は一人なんだからみんなでやっつければいいでしょう。
 

やすい:それは『古事記』には書かれていませんが、スサノオ信仰があったからだと思われます。つまり単身熊襲の中に乗り込んできて、二人の首領を征伐してしまったのですから、これはただものではないぞということです。日本では驚きの対象が神ですから、この男は神だ、それも荒ぶる神スサノオだということになるのです。
 

山辺:相手は神だからいくら束になってかかっても勝てっこないということですか。
 

やすい:荒ぶる神スサノオは吹きずさぶ嵐のイメージです。また嵐のように襲って殺戮し、略奪していく侵略者です。何もかも壊して、荒ぶる神の去ったあとは建物は破壊され、田畑は土砂で押し流され、屍が累々と積まれています。下手に逆らわず、早々に帰順して、被害を最小限に止めるのが得策なのです。

 

山辺:小碓皇子の超人的な勇気を見て、さすがの熊襲も震え上がり、スサノオの神が現れたと思ったのですか。小碓皇子はスサノオの神の化身だと捉えたのでしょうか。『古事記』にはヤマトタケルはスサノオの化身だとは書いていませんよね。
 

やすい:後にスサノオが八岐大蛇から取り出した天叢雲剣を手に入れて大活躍をすることになりますから、『古事記』ではその時代のスサノオの役割を与えているわけです。日本の神々というのは、死んでしまったわけではありません。天照大神は太陽として毎日恵みの光で照らしていますし、スサノオの神も現在でも様々な天変地異や暴風雨あるいは戦争などとして現れているわけです。ですから人間に化身して現れると捉えていたとしても不思議はありません。

 

山辺:じゃあヒンズーの神々が人間に化身して現れるのと同じですね。ということは単身熊襲に乗り込んで平定した英雄もひょっとしたらいたかもしれませんね。スサノオ信仰が熊襲にも浸透していたのなら。
 

やすい:梅原猛は、ヤマトタケルは伝説でも、そういうヒーローがいたから列島の統合ができたのだと語っています。実際、梅原猛自身が単身で日本文化論、仏教、国文学、日本古代史、アイヌおよび縄文文化論、そして歌舞伎や狂言などに殴り込みをかけて、それぞれの領域で既成の限界を突き破り、金字塔を打ち立てる業績をあげているのですから、現代のヤマトタケルと呼べるのかもしれません。

 

                            言霊の国大和
 

                        大和より蝦夷の国は大なるを二人で取れとは死ねとかわらじ

 

山辺:大和に凱旋する帰路に、多くの地方を帰順させていますが、その代表的なのが出雲タケルの征伐です。これも単身で行いました。そのせいでしょうか。相手とまず友達になり、信用させておいて、相手の剣と自分のヒノキで作った偽の太刀を交換させて、その上で太刀合わせをしようといい、相手が太刀を抜けないところを切り殺してしまっています。この卑怯な騙まし討ちのことは、梅原戯曲ではカットしていますね。

やすい:ええ、小碓皇子は帝を始め大和の国は嘘が多いことを嘆きますが、出雲タケルに対しては嘘の塊で、大変あくどい感じですね。さすがに梅原もこれの扱いには困ってカットしたようです。これでは嘘が嫌いな裏表のない清明心の代表みたいなヤマトタケルという人格の統一性がとれません。もし柿本人麿が「ヤマトタケル説話」を書いたとしたら、この部分は以前からの伝承としてあったのでしょう。大和朝廷の覇権は高天原での神々の決定によるものだから、その覇権に抵抗するものは無条件に悪なので、どんな卑怯な手を使って殺してもよいという論理です。
 

山辺:大和に凱旋して、ご褒美に、兄の大碓皇子が父帝に献上せずに自分の妃にしていた兄橘姫と弟橘姫の姉妹を妃に迎えます。でも、父帝は皇后の勢力への遠慮もあり、都に小碓皇子を置いておくと、内紛になりかねないし、権力を奪われかねないと警戒して、すぐに蝦夷征伐に向かわせますね。


やすい:そこで『古事記』では父帝が「なお吾を既に死ねと思ほしめすなり」と小碓皇子は嘆きます。それを伊勢神宮の斎宮をしていた叔母の倭比売に訴えているのです。


山辺:この場面こそ大津皇子の事件を彷彿とさせますね。謀反の嫌疑で捕まる前に、大津皇子は伊勢に行って姉の大伯皇女に逢っています。ということは大津皇子は、謀略に感づいて、身の危険を感じ、伊勢に行って東国勢力との連係の可能性を探っていたことになりますね。小碓皇子も叔母にただ泣き言を訴えただけでなく、ことによったら東国との連係が可能かどうか尋ねたかったのかもしれませんね。

やすい:ですから柿本作だとしたら大変あてつけがましい作品だということになります。ただ梅原戯曲では父帝の嘘を問題にしていますね。父帝は本当は蝦夷に撃たれて死んでくれた方がありがたいと思っているくせに、小碓皇子に大和の国よりも広大な蝦夷の国をくれてやると恩着せがましくいうのです。蝦夷の国は大和の支配下にないのに。だから言葉だけ美しく語っているけれど、ようするに蝦夷に討たれてこいということでしかないのです。それを物は言いようで、凄い褒美をくれるみたいですね。従者は吉備臣タケヒコただ一人をつけただけなのに。


山辺:梅原は「言霊の国」という表現を使って批判していますね。レトリック次第で汚いものでもきれいに見えるということでしょう。でもレトリックと言霊とはだいぶ違うような気がしますね。まだ「タケル」という名前だとその名前の人がとても勇ましいとか心理的効果ありますね、言葉によって力が増幅される場合に言霊というのじゃないかしら。

やすい:レトリックで誤魔化す場合と、言葉自身に本質的な力があるという信仰とが未分化ですね。井沢元彦は梅原の影響でしょうが、「言霊の国日本」という表現で日本文化を批判的に扱っています。二人だけで蝦夷征伐にやっておいて、「蝦夷の国を褒美に取らす」とはあまりに馬鹿にした話だということでしょう。
 

山辺:でも熊襲征伐は一人でやったのですから、蝦夷征伐もできると思われたのじゃないですか、熊襲ばかりか出雲まで平定しているのですから、みんな小碓皇子のことをスサノオの化身と思っていたでしょうから。

やすい:それはそうかもしれませんね。父帝としてスサノオの化身かどうか見極めたくて蝦夷征伐を命じたかもしれません。でも本人にしたら、父帝が朝廷内でどんな力関係にあって、息子に兵もつけずに蝦夷征伐をさせる羽目になったのか、その苦しい胸のうちを打ち明けてくれないのが情けないのです。しかもきれいな言葉で誤魔化そうとする、それがたまらない。本当にやむにやまれず自分に死ねというのなら、父のためなら死んでもいいのです。どうして父と子なのに本心を打ち明けてくれないのか、それが歯がゆいということですね。

山辺:梅原猛は嘘が嫌いですね。それも家族の中での嘘が一番嫌いでしょう。だって父が伯父で叔父が父だった、その親子関係自体が嘘だったというのが、トラウマみたいなものですから。明らかに父帝は皇后勢力のせいもあるけれど、小碓皇子に背かれ殺されることを恐れていたわけでしょう。それで兵をつけずに蝦夷征伐に発たせたのでしょう。
      

               天叢雲剣は大八嶋の霊
 

                   大八嶋 その霊として取り出せる 剣の御名は 天叢雲

 

やすい:小碓皇子も倭比売の反応次第では、父への反発もあるので、乱に起ちあがったかもしれませんね。倭比売は小碓皇子に、天叢雲剣と火打石を持たせて、蝦夷征伐に行くようにすすめたのです。天叢雲剣というのはスサノオが大八嶋(日本列島)を意味する八岐大蛇から取り出した剣です。この剣こそ、大八嶋全体を一個の生命とするとその魂や霊にあたるものです。

山辺:剣に霊が宿るということですか。

やすい:いや剣自体が霊だという説です。この説は梅原説ではありませんよ、念のために。この霊剣は神として祭られます。霊や魂は、精神の一種で、物質とは対極的な存在だと思われがちです。それは日本では精神と物質の二元論ではないのです。霊は玉であり、物質の一種なのです。霊魂は「物」と呼ばれ肉体が死んでも壊れないで生き続ける物質なのです。
 

  日下部吉信著『ギリシア哲学と主観性』によりますと、ピュタゴラス以前のギリシアの哲学者たちは、霊を精神の一種ではなく、自然的存在だとしています。
 

山辺:霊魂が物というのは意外といえば意外ですが、そういえば物部氏の「物」というのが武器と魂の両方の意味があり、軍事と祭祀の両方を職掌にしていたという話を聞いたことがあります。
 

やすい:そうなんです。ですから剣自体が霊であり、崇拝の対象としては神なのです。それにスサノオがこの剣をもって大八嶋に覇権を樹立したので、剣自体が覇権という意味を担います。そして剣とスサノオは一体のものとして捉えられるけです。
 

山辺:ええ?天叢雲剣自体が荒ぶる神であるスサノオだということですか。
 

やすい:元々天上はアマテラス、地上はスサノオという分業ですね。ですから地上を支配する王権はスサノオによって樹立されます。ところがこれは暴力による支配ですね。それではいけない、徳で支配すべきであるということになり、アマテラスの子孫が地上を支配すべきだということに変わります。
 

山辺:高天原の神々の決定ですね。そんな神話を信じておられるのですか?
 

やすい:いや、全く史実を反映していない可能性もありますが、この神話から出雲系のスサノオが樹立した政権が近畿・中国・四国あたりにまず存在し、筑紫にできたアマテラスの孫ニニギノミコトの政権が侵攻してスサノオの子孫オオクニヌシに国譲りを迫ったという解釈が成り立ちます。
 

山辺:武力で侵攻したのなら、ニニギノミコトこそ荒ぶる神スサノオじゃないですか。
 

やすい:実際はそうですが、イデオロギーではオオクニヌシの政権は荒ぶる神の子孫だから、日の神の子孫に国譲りをすべきだという論理なのです。
 

山辺:ではオオクニヌシの国には日の神信仰はなかったのですか?


やすい:いや、そうじゃあありません。オオクニヌシ自身が天上と地上を照らす昇り行く日の神ニギハヤヒの尊でもあるという説があります。ですから、これはあくまでも勝てば官軍ということで後から、負けたほうを荒ぶる神だから日の神に負けた方がよかったのだということにしたのでしょう。梅原は『オオクニヌシ』という戯曲も書いているので、ここでは深入りは避けましょう。
 

山辺:それにしても神と人と物という別々の存在が一つだという発想は面白いですね。キリスト教の三位一体を連想します。
 

やすい:イエスは人だけれど神が人となって現れたものとされます。ヒンズーの化身の神に近いですが、キリスト教ではマリアの処女受胎を介して、聖霊が神からマリアに下り人間の体をまとって現れたのが人となった神イエスです。ですからイエスは聖霊を宿すことによって神なのです。聖霊が神とされることで、キリスト者も聖霊を授けられれば永遠の命に連なるとされます。どうして聖霊がキリスト者に授けられるかご存知ですか。
 

山辺:さあ生憎私は仏教徒なので分かりません。

やすい:主イエス・キリストの肉を食べ、血を飲むことによってです。
 

山辺:ぎょ、あ、なるほどそれってミサでしょイエスの肉だといってパンを食べ、血だといって赤ワインを飲むんだ。
 

やすい:だから聖霊といってもパンやワインという物に宿って運ばれるわけです。元々は物が霊だった名残かもしれません。この問題では『キリスト教とカニバリズム』(三一書房)『イエスは食べられて復活した』(社会評論社)で詳しく論じていますのでそちらを参照願います。

山辺:日本の場合は霊が物に宿るのではなく、物が霊なんだということですね。というより物と霊が未分化なのですね。

やすい:ギリシア語のプシュケーは魂と訳されるけれど、命とも訳される。つまりプシュケーも生きた物質なのです。

 

               火の中の恋

      燃ゆる火の火中に立ちて吾を呼ぶ君の言葉に命ささげむ

 

山辺:弟橘姫が追ってきますね。蝦夷征伐に女性同伴なんて、悠長な話ですね。戦なのに足手まといになりませんか。

やすい:ねえ、たしかにおかしいですね。でもタケヒコと二人しかいないので、まさか蝦夷征伐軍だとは思われない。まして女性も同伴すれば警戒されずに済むかもしれません。道中の奇襲が一番怖いので、かえってカモフラージュできてよかったかも。


山辺:弟橘姫にしたら道行心中の気分でしょうね。どうせ何百万という蝦夷相手に軍勢もなくて勝てるはずがないので、必ず戦死するだろう、そのときには一緒に死ねたら本望ぐらいにしか思っていません。
 

やすい:相模の国は、ヤイレボ、ヤイラムという蝦夷の兄弟が国造なのですが、ヤイレボが熊襲と結託して大和に背いたので、弟ヤイラムが兄を成敗したとだまして油断させます。そして沼にすむ「いとちはやぶる(暴威をふるう)神」がいるから成敗してくださいと頼まれ、でかけると、野に火をかけられ火攻めにあうのです。

山辺:ふと思ったのですが、小碓皇子一行は総勢三人で各地の国造らの館をめぐっているわけですね。ということは蝦夷征伐というより、巡察使みたいなものでしょう。皇子に東国の巡察を命じたわけですね。だから軍勢はつけていないわけだ。それが大変危険を伴っていたので、説話としては蝦夷征伐のお話になったのですね。


やすい:そんな、興ざめするような解釈は困りますね。でも実際にはそう考えれば、納得できますね。東国の蝦夷たちは大和朝廷の勢いが強い時期には、貢物を差し出して、大和朝廷に服しているのですが、大和朝廷の勢いが衰えたり、東国で戦争や飢饉があったりするとどうしても貢物が途絶えます。すると中央から使いをよこして事情を問いただすわけですね。その場合に大和朝廷に背くこともよくあるわけで、騙まし討ちにされることもあったでしょう。ともかく蝦夷たちにすれば、大和の権力は西の方からやってきて、かってに覇権を宣言し、重い貢を取り立てるわけで、有難くもなんともない、理不尽な侵略者なのです。ところが大和の連中は自分たちの権力の根拠を神話で飾り立てたり、いかにも野蛮人に恵みをもたらしているかにいうわけで、従わないのが悪いかのように思い込み、蝦夷にもそう思い込ませようとするのです。
 

山辺:でも農耕文化が列島に広がり、文明が発達する過程としては、大和朝廷による東国支配の確立は後戻りできない必然的な過程ですね。
 

やすい:それは結果論ですね。元々大和にはスサノオからオオクニヌシに至る政権があったわけですね。それが倒されて新大和政権ができたわけです。東国には東国の王権ができて、それが強くなる場合だって考えられます。


山辺:でも大陸から鉄の技術などが入ってきますから、どうしても近畿や筑紫の王権が強盛になる傾向が考えられますね。

やすい:日本海や太平洋があって海岸沿いに強力な王権ができる場合もあり、一概に歴史の必然性だと決め付けるのは禁物です。もちろん列島が農耕文明の普及で急速に一元化していくことは歴史の発展過程として必然的だといえるでしょうね。


山辺:『ヤマトタケル』という悲劇は、そういう大和朝廷による統合化の過程で滅ぼされ、平定された人々の恨みを、ヤマトタケルが一身に背負って犠牲になるところにあります。ヤマトタケルも大和朝廷の帝の皇子ですが、帝や権力中枢から疎んじられ、迫害されているという意味では征服される人々と同じ悲哀を共有しているわけです。それでも大和朝廷のために日本統合の礎にならなければならない。熊襲や蝦夷に同情しながら、彼らを討伐し、自ら彼らの恨みを引き受けて犠牲になるというところが感動を呼ぶわけですね。
 

やすい:あれあれ、そこまでいうと終わってしまいますよ。それで火攻めにあうけれど、そこで愛する人の名を呼ぶのです。「弟橘姫!」
 

山辺:弟橘姫にしたら、「待ってました」ですね。「いよいよ私の時が来た。It’s my time.」「一緒に死ねるわ」ということでしょう。切ないですね、一緒に死ぬためについていくなんて。でもそれが彼女の幸せなんですから。
 

やすい:大和で待っていても、東国で殺されれば骨も何も帰ってきませんからね。それより命果てようとしているその時に、自分の名を呼んでもらえたら、このために自分は生まれてきた、本当に愛に燃え尽きて死ねるのだということですね。この瞬間が永遠の意味を持つわけです。人生長ければ幸せってものではない。短くても、真実の愛を感じれば、この上ない幸せかもしれません。でも助かってしまいますが。
 

山辺:天叢雲剣を抜いて、周囲の草を薙ぐのですね。そして火打石を取り出して、迎え火を熾します。すると火は蝦夷たちの方に向かい、結局ヤマトタケルは相模の蝦夷平定に成功します。それでこの剣は「草薙剣」と呼ばれることになります。

 

                    弟橘姫の入水

  
         弟姫の袖は乾かじ水底のタイタンの宮やすらけくやは

 

やすい:相模での火攻めを草薙剣と火打石で乗り切った、ヤマトタケルの一行ですが、走水で海を渡る際に海神の怒りに触れ、船が沈みそうになります。トスタリに占わせますと、これは海神の怒りだから、それを鎮めるのには、ヤマトタケルが最も大切にしているものを海神にささげなければならないというお告げだったのです。

山辺:それはもちろん弟橘姫ですね。「私が皇子に代わって海の中に入りましょう。皇子は遣わされた使命を果たして、帝にご報告してください」といって、海に入ったのですが、その際たくさん畳を重ねて、あたかも海神に小碓皇子にするように入水しました。その時の辞世の歌が「さねさし相模の野の 燃ゆる火の 火中に立ちて、問いし君はも」です。
 

やすい:絶体絶命のピンチの時に、命の限りに私の名を叫んでくれたのだから、これ以上の幸せはない、いつでもあなたのために死ねますということですね。この歌は素晴らしい。実に素晴らしい、文字通り命かけて燃えた恋ですね。こんな感動的でドラマチックな歌を詠めるのは柿本人麿しかいないかもしれません。本当に「永遠の今」を謳いあげているのです。もうあの時に燃え尽きているのかもしれません。
 

山辺:でも、海神への御輿入れということで畳をたくさん積み上げて盛り上げていますね。梅原戯曲では、このままヤマトタケルの妃でいても、正妃にはなれないのだから、海神の正妃になったほうがいいみたいな強がりを言います。本当はヤマトタケルと離れたくないのだけれど、八重畳に乗っかっているうちに、強がりだけではなく、本音の台詞のようになってきます。その方がヤマトタケルが安心すると思ったからかもしれませんが。
 

やすい:やはりそこが女心の微妙なところですね。正妃かどうかで立場がまるで違います。ただ愛情だけでは済まされない問題で苦しまなければならないのです。それがこれから入水という時に、生へのこだわりとして出てきます。地位とか権力とか名誉とか、それがあれば威張って、楽して生きられます。そこにあくまでも生に固執せざるを得ないという人間の本性のようなものが感じられます。
 

山辺:弟橘姫が海神の妃になったことが、最後の白鳥の行方と絡んできます。実に巧みな劇構成になっていますね。

 

                 裳の裾に月立ちにけり

  
          
君待ちしその苦しみをたれそ知る吾が裳の裾に月立ちにけり

 

やすい:このようにヤマトタケルは何度も生命の危機をかいくぐりながら、草薙剣や火打石に守られ、タケヒコや途中で家来になった蝦夷のヘタルベ少年に支えられながら、ある時はスサノオとして屍の山を築き、またある時はよく実情を聞いて恩恵を施して、東国の蝦夷たちを大和朝廷に帰順させることに成功して帰途につきます。

山辺:天叢雲剣やスサノオとの一体だという見方だけで見ていると、すごく勇猛で恐ろしいようにみえるけれど、実態は巡察使だったということで、熊襲や蝦夷の生活を見て、現地の人々と話し合って、その人情に接していたという面も見れば、ヤマトタケルへの見方も随分変わってきますね。
 

やすい:これまでヤマトタケルといえば荒唐無稽なスーパーマン的ヒーローでおよそ史実とはかけ離れているとみられてきましたが、フィクションには違いないけれど、数人の巡察使が命の危険を冒して、辺境を巡察していた史実を英雄物語にしたものだと受け止めれば、リアリティはありますね。
 

山辺:尾張まで帰ってきて、尾張の国造の家に逗留します。その娘の美夜受比売(ミヤズヒメ)と結婚するお話がすごく面白いですね。

やすい:傑作です。蝦夷征伐にでかける際にも立ち寄っています。尾張は非常に戦略的に重要なのです。もし尾張の国造が、父帝に通じていますと、暗殺されたり、東国の蝦夷と共に挟み撃ちにされたかもしれません。でかける際にも尾張の国造の娘と結婚話があったのですが、大和で兄橘姫・弟橘姫と結婚したばかりなので、さすがに気が引けて帰途にまた立ち寄ってその際に結婚しようと思ったのです。

山辺:ひょっとしたら、父帝を警戒していた小碓皇子の子とだから、尾張の国造が父帝と結託して自分を暗殺しようとしていたら大変だと思って、ミヤズヒメに夜這いをかけるのを躊躇したのかもしれませんね。夜這いの床で待っているのは刺客ということもありえますから。
 

やすい:ミヤズヒメは期待して待っていたようですね。「美夜受比売」という名前からしてそうですから。それはさておき、地方豪族は中央の皇族や貴族と深い結びつきをつくりたいわけです。特に小碓皇子みたいな皇位継承権の順番の上の方の皇子と外戚関係を結んでおくと、中央権力を掌握できることになる可能性も芽生えてきます。ですから姫は大切にカードとして採ってるのです。
 

山辺:近所の豪族なんかにかどわかされたら大変だということですね。何重にも垣をつくって籠もらせておくのでしょう。

やすい:日本は今やフリーセックスの国としては北欧をはるかにしのぐといわれています。その伝統は古代からあったということですが、一方では大事に一族の浮沈に関わる宝として、唾をつけられないように守っていたことも想像できます。やはり貞操価値はあったのです。特に皇位継承などが絡むので、自分の子供かどうかは気になりますからね。それで『古事記』に出てくる、歌の起源はスサノオが串灘姫について歌った歌です。

「や雲立つ 出雲八重垣。妻隠みに 八重垣作る。その八重垣を」と謡っています。
 

山辺:ということはミヤズヒメは女性としての喜びを知ることなく、箱入り娘で育てられ、やっと小碓皇子が訪れたので女の花を咲かせるチャンスだったのですね。それが小碓皇子に敬遠されてしまった。そしてほとんど生還の望みのない蝦夷征伐にでかけられた。そりゃあ哀しいですね。そして一縷の望みを抱いて皇子の生還を待ち続けていたわけでしょう。それはそれは苦しいことでしょうね。
 

やすい:はたして何ヶ月、何年かかったか想像もつきませんが、まさしく一日千秋の想いで待ち焦がれていたのでしょう。その苦しい思いを「君待ち難に」と表現しています。
 

山辺:ミヤズヒメの想いが天に通じたのか、ヤマトタケルは見事に蝦夷を平定して凱旋してきます。そして目出度く婚礼ということになって、裳の裾に月のものが付いてしまう。まったく興ざめですね。
 

やすい:ヤマトタケルも弟橘姫を失くして哀しい思いをしていたのですが、大偉業を成し遂げていよいよ大和に凱旋するという前で、尾張まできたわけです。そして都では皇后が逝去していて、ヤマトタケルに対抗できる勢力は崩壊しています。帝もヤマトタケルの力に頼るしかないわけです。つまり都に帰れば、朝廷の実力者になれるわけですね。その後ろ盾としても是非とも尾張の国造との娘との結婚は成功させたいわけです。ところが残念なことにミヤズヒメが月経になってしまった。まことに残念至極ですね。
 

山辺:そこで残念な思いを歌にして、舞ながら謳いあげます。「ひさかたの 天の香具山 利鎌に さ渡る鵠 弱細 手弱腕を まかむとは 我はすれど さ寝むとは 我は思へど 汝が著せる 襲の裾に 月立ちにけり(天の香具山に夕方に、とんでいる白鳥のくびのような、弱く細いおまえの腕、そのなよなよした腕と私の腕をくみ合わして、おまえを抱こうと思って帰ってきたのに、おまえとゆっくり寝たいと思ってきたのに、おまえの着ているはかまのすそに月が立っているよ)」

やすい:この歌は穢れの代表みたいに思われていた月経を月が立つという美しいイメージに変換して昇華しています。歌というのは醜いもの、汚いもの、無粋なものでも綺麗なもの、優美なもの、雅なものに変換できるという働きがあります。たとえば本居宣長によりますと、無粋の極みみたいな猪でも「伏す猪の床」という言葉を聴くととても風流なものに思えてくるのです。

山辺:懐かしいですね、大学時代に習いました。『徒然草上』第十四段に「和歌こそ、なほをかしきものなれ。あやしのしづ・山がつのしわざも、言ひ出() でつればおもしろく、おそろしき猪()のししも、『ふす猪の床(トコ) 』と言へば、やさしくなりぬ。」とあります。

やすい:その元の歌は「かるもかき 臥す猪の床の いを安み さこそ寝ざらめ かからずもがな」(後拾遺・恋四#821)で和泉式部の歌です。大意は「枯れ草をかぶって寝る猪は寝床で安眠するというが、それほど熟睡できなくてもいいが、このように恋に思い悩まず寝られたらいいのに」という意味でしょう。しかし「伏す猪の床」は猪という無粋なものを風流な物に変えようとして作った歌ではありません。それは歌の効果として、そうなったわけですね。とこが「襲の裾に 月立ちにけり」では、穢れとして忌み嫌われている「月経」を「月が立つ」という風雅なイメージに直接変換しようとして成功しています。その意味ではこの歌の方が素晴らしいですね。

山辺:これに対してみやず姫も返歌を作って舞います。
 

 「高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経往く うべなうべな 君待ち難に 我が著せる 襲の裾に 月立たなむよ(私は日のように輝いている命様のお帰りを今か今かとお待ちしていましたが、命様はお帰りにならず多くの年がたって行き、多くの月が立って行きました。多くの月が立って行きましたので、あなたを待って、私のはかまの裾に月が立つのも無理はありませんよ。)」

やすい:とても切なくて激しい想いですね。あなたの帰りを待っている苦しみで裳の裾にまで、血が滲んできましたよということです。しかも君を待つ月日が経つと、月経の「月が経つ」をかけています。苦しく切ない胸のうちを見事に美しいイメージに変換しています。まさしく命の叫びですね。これは相当な歌人の歌ですから、柿本人麿が疑われるのも無理がありません。

山辺:月経というのはすごく忌み嫌われていました。たとえば女人禁制の山がありますね、あれは女人が登れば、月経の血で汚されることを恐れたのです。最近では大阪の太田知事が土俵に登るのを拒否されていますが、元元あのタブーは土俵が月経の血で汚されるのを恐れているのです。ですから、結婚も流すしかなかったのでしょう。それをこの命の叫びの歌で、すっかり心が通い合い、深く愛し合ってしまったので、月経の血まで風流になり、思いを遂げることができましたね。


やすい:ええ、だから歌の効用を強く打ち出している、ここにも柿本人麿の匂いがします。命の叫びが歌になり、歌が命の喜びを生み出していく、人間にとって情感を歌に表現することで、意味だけでなく感情や想いが伝えるということが意かに大切かよくわかります。
 

山辺:梅原戯曲でもこの相聞歌のところはすごく盛り上がるのですが、スーパー歌舞伎の舞台では、時間的に無理で飛ばされてしまっていたのが残念です。

 

                   嬢子の床の辺に
 

            何ゆえに神なる剣置きたるや嬢子の床の辺名残惜しさに

 

やすい:梅原戯曲では、結婚式というかこの相聞の場面は、ウイットの効いた歌や台詞で笑いを取っています。これは後に続く伊吹山での悲劇とのコントラストを狙っているのです。しかも後の悲劇の種をまいています。

山辺:ミヤズヒメは結婚に条件をつけていますね。本当は皇子に対して地方豪族の娘が注文をつけるなんてありえないでしょうが、戦を止めることを条件に結婚を承諾しているのです。それは戦に出かけた夫を待ち続けることの悲哀をこれ以上感じたくはないということでしょう。普遍的な女の願いですね。

やすい:梅原の戯曲に出てくる女性は耐え忍んだり、ただ従順なだけの女性ではありません。自分の意思と意見をもってぶつかってくる女性です。その方が女性客の共感を呼びますからね。梅原猛の読者やスーパー歌舞伎のファンには女性の方が多いのです。またはスーパー歌舞伎はエンターテイメントですから、観客の共感できるような内容でないと困るのです。古代の女性だから自己主張しないというのでは、女性客は納得しません。

山辺:戦を止めてくれといわれたので、伊吹山の山神と鬼たちを平定に行くのに草薙剣をミヤズヒメとのめくるめく一夜を過ごした床の辺に置いていきます。恐らく戦わないで、話し合いで解決しようとしたのでしょうね。

やすい:それは相手が悪かったですね。鬼と呼ばれているのですから、熊襲や蝦夷のように単にまつろわぬ人々ではすみません。里の人たちから見れば、かなり異質の人間離れした存在だったと想像されます。時折里に降りてきて、農家を襲って略奪し、男を殺し、女子供を誘拐して一族の欠員を補っていたのです。鬼と呼ばれるぐらいだから、人肉まで食べる場合もあったと噂されていたようです。ですから大和朝廷に帰順する気はないのです。そこへ神剣を置いてでかけたものだから、これはヤマトタケルをやっつける千載一遇のチャンスだと受け止めたのです。

山辺:彼らは全員玉砕戦法できましたからね。捨て身の妖術で氷雨を降らせて、ヤマトタケルに深傷を負わせ、次々とヤマトタケルに突進するぶちかまし戦法です。さすがのヤマトタケルも致命的なダメージを受けてしまいます。神剣さえあればこんなことにはならなかったのに、えらい油断でしたね。
 

やすい:やはり都からの情報で、政敵の勢力が崩壊して、蝦夷征伐の戦果をもって都に凱旋できるという見通しがたったので、ほっと安心し、伊吹山の敵など数の上ではたいしたことはないので、簡単に片がつく自分を過信したのでしょうね。うぬぼれが出ると人間は失敗するものです。

山辺:それだけではなく、ミヤズヒメに戦を止めてと頼まれて、戦から逃れたくなったということもあるでしょう。自分を戦に駆り立てる神剣からも逃れたかったのではないですか。
 

やすい:それは大いにあったでしょうね。天叢雲剣を持っている限り、自分はスサノオとして朝敵を討ち滅ぼさなければならない。熊襲も蝦夷も伊吹山の鬼たちも自分と同様に大和の朝廷から疎んじられ、抹殺されようとしてきた自分と同類ではないか、ああもう戦は真っ平だと心の中で叫んでいたのかもしれません。大和に戻って実権を掌握したら、みんながのびのびとそれぞれの文化や暮らしを安心して送れる平和な国にしようと思っていたのでしょう。
 

山辺:彼はヤマトタケルからスサノオから天叢雲剣から逃れて、小碓皇子に戻った。そうするととても大江山の山神や鬼たちの玉砕戦法から身を守ることはできなかったのですね。

やすい:やはり神剣あってのヤマトタケルであり、ヤマトタケルは神剣の分身だったのです。それで辞世の歌が、「嬢子の床の辺に 吾置きし剣が太刀 その太刀はや」です。ですからヤマトタケル伝説は神剣伝説だとも言えますね。


山辺:神剣という場合、それはただの剣ではなくて、スサノオやオオクニヌシやヤマトタケルとして現れる覇権としての人間の物語だということですね。
 

やすい:そうなんです。神剣は神であると同時に人間なのです。それはまずスサノオという最初に地上に覇権を打ち立てた人物です。そしてヤマトタケルですね。彼らは生身の人間でもあります。でも生身だけではスサノオやヤマトタケルとしては不十分です。生身の人間が剣に引き寄せられて、剣の人格的な担い手になったのです。かくして神剣は人格を持つ主体となったのです。

山辺:剣が人間だというと、天日矛が思い浮かびますね。新羅の王子で日の神の娘であるアカルメ姫を追って大八嶋に渡来し、各地に朝鮮式山城を築いたそうです。
 

やすい:朝鮮式山城が築造された時期が、白村江の戦い以降かどうかで、議論があります。それはさておき、物が人間であると同時に人間が物なのです。物を人格を持たない物体みたいに捉えてはいけません。天叢雲剣の人格がスサノオ、ヤマトタケルなのです。人間を身体およびそこに宿る魂の人格で捉える西洋的な人間観とは違っているかもしれませんね。
 

山辺:ということは、天叢雲剣と言ってもその物体としての剣だけを思い浮かべてはだめで、神剣伝説として語られる総体が天叢雲剣なのだということですね。


                   やまとは国のまほろば
 

          まほろばの大和の国に帰らなむ、雲居起ち来る吾が家の方へ

 

やすい:深傷を負ったヤマトタケルは、三重県の鈴鹿郡の能煩野で遂に力尽きて亡くなりました。そこで大和を偲んで歌った「思国歌」が心をうちます。ただし『日本書紀』ではこの歌は父景行天皇が熊襲征伐した時の歌になっています。

山辺:引用しておきましょう。「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣、 山隠れる 倭し 美し。(大和は素晴らしい国だ。重なり合って、青垣のようになっている山々に囲まれた大和は実に麗しい。)」この「倭」はこの四世紀に近畿の大和を指しているのか、それとも筑紫のことではないのかで論争が尽きないようですが。
 

やすい:ええ、私の友人にも九州王朝説の人が多いので、邪馬台国大和説をとっている梅原猛ばかり研究しているのに対して反発もあるようです。歴史というのは史料があってそこから何が読み取れるかですね。
 

山辺:史料の信憑性も問題です。『古事記』『日本書紀』は時の権力者の意向で歴史を都合よく偽造しているでしょうから。

やすい:そういうことも考慮しながら、史料から何が見えるかを論じているのです。今のところまだ邪馬台国がどちらにあったとも断定できません。倭の中心が筑紫か畿内の大和かも決めかねます。ですから一応、梅原猛の作品を読む場合は、畿内大和に邪馬台国や倭国の中心があったことを前提にしています。そうしているからといって、九州王朝説が正しい可能性も否定しているわけではないのです。どちらかに旗色を鮮明にしろと言われても、まだ私自身いずれとも確信できていない以上仕方ありませんよね。

山辺:この歌の「倭」を「やまと」と読むのは記紀の読み方ですが、「やまと」というのも筑紫にあるわけですね。こういうことが疑問に思えるのは、景行天皇は筑紫に長くいたようですね、それがヤマトタケルの頃は畿内の大和にいます。次の成務天皇は畿内で、ヤマトタケルの皇子の仲哀天皇はまた筑紫です。この時代にそんなに都を畿内と筑紫でころころ変更できたのでしょうか。

やすい:熊襲の動きもありますし、朝鮮半島の情勢もあり、大王が筑紫に居なければならない時期もあるとされます。『たたなづく 青垣、 山隠れる 倭し 美し。』の箇所などは畿内の大和の方がぴったりともいえます。今は梅原論ですので、その疑問は棚上げにしましょう。

山辺:「命の全けむ人は、 畳薦 平群の山の 熊白儔が葉をうずに插せ その子。(命に溢れている人は、山深い平群の山の熊のように大きな白儔の葉をかんざしにさしなさい、お前たち。)」この箇所の解釈は、高校生の時に苦しんだことを覚えています。「命に溢れている丈夫な人は、自分の生命力を過信して、大きな樫の葉を頭に挿しておけば元気に長生きできるという呪いを馬鹿にして、葉を捨ててしまうけれど、人の命ははかないもので、大自然の命に守られているのだから、馬鹿にしないで頭に挿しておきなさいよ」という意味なのですね。大いなる生命の循環と共生を謳いあげているのでしょう。
 

やすい:もちろん迷信には違いないけれど、樫の葉をお守りにすることによって、大自然の大いなる生命によって自分の生命が養われ、守られているという想いがこの呪いには籠められているのです。梅原自身は何もこの呪いを信じているわけではありません。


山辺:その後に「はしけやし 吾家の方よ 雲居起き来も。(なつかしいわが家の方から雲が立ちのぼっているよ。)」とあります。最後に臨終という間際になって、なつかしの我が家に帰りたいという気持ちは切実でしょうね。もう少しというところで失敗して傷つき、力尽きて死ななければならなくなったのですが。雲は霊の姿だといいますから、家族の霊がヤマトタケルに「帰って来いよ」と呼んでいるように思われたのでしょう。それで大和に帰りたくてたまらない。その想いがいっぱいのまま死んで行きました。

やすい:熊襲や蝦夷を征伐するのも元々は家族の平穏で幸福な生活を守るためだったかもしれません。いよいよ臨終となれば、名誉や地位よりも家族の笑顔が見れれば何も思い残すことはないという人も多いようです。ヤマトタケルのような大英雄でも、結局求めていたのは家庭の幸福だったということですね。

 

                   さらに天翔けりて

        白鳥はさらに天翔け夢追ひぬ後追う媛に想いつなぎて

 

山辺:死んでいったん能煩野に埋葬されますが、霊は大きな白鳥になって飛び立ちます。霊が白鳥になるというのはどういう状態なのか疑問なのですが、霊だから白鳥の姿をしているだけで、こうやって抱いてみると実体はなかったりするのですか。でも霊は物だって言われていたので、霊が白鳥の体になっているのですか。
 

やすい:梅原はそのことについて語ってないと思いますが、私の解釈では、古代の信仰では霊は物ですから、白鳥になったということは白鳥の肉体になったということです。もちろん遺体全部が白鳥になるのではなく、生き物の肉体には滅びない部分があって、それが霊ですね。その霊が変態するのです。


山辺:ではその霊の元々の姿はどういう姿だったのですか。


やすい:恐らく勾玉の形だと考えられていたのではないでしょうか。勾玉は何かに似ているでしょう。

山辺:胎児ですね。流産か何かで、小さな胎児の姿を見て、これが霊だと思ったのですか?
しかし霊は不死の筈なのに流産の胎児は死んでいますよ。

やすい:恐らく胎児が霊なのだけれど、空気に触れる瞬間に、気体になってしまった部分と胎児の遺体になってしまった部分に分かれた。遺体になってしまえばもう霊ではないですが。そのあたりはよくわかりませんが、縄文時代から勾玉信仰があるので、翡翠から霊を取り出したと考えていたのではないでしょうか。ただ翡翠の勾玉は、霊としての呪い的な効用はあるけれど、そのままではまた人間として生まれ出ることはできません。そのためにはいったん異界へ行って、そこで生まれ変わらなければなりません。

山辺:異界に行くには白鳥になっていくのですか。
 

やすい:ヤマトタケルの霊は大白鳥になったけれど、何になるかは決まっていないようですね。ヤマトタケルはスケールが大きくて、心が純白なんのです。つまり裏表とは二心とかなく、汚れていないということでしょう。だから大白鳥がぴったりです。人によっていろんな鳥や蝶々になっていく場合もあるようです。異界には山の頂上から行く場合は空を飛んでいくのですが、海も天とつながっていますね。天の裏側に対称的に異界があるので、海からもいけます。その場合は魚になっていくのです。
 

山辺:魚になるには水葬にしてもらって、魚に食べられれば、いいかもしれませんね。

やすい:いったん魚から生まれて、魚の姿になって異界に行くというのもありと考えたかもしれません。ともかく霊が鳥や魚になるということです。

山辺:そういえば鳥葬というのもかなり一般的だったのでしょう。鳥に食べてもらう。それが鳥になる方法かも。

やすい:ただ霊も物というより、物に憑依する憑物として捉えられれば、鳥や魚に食べられて異界に運ばれるというのでいいのですが、より原始的には霊は直接物であって、大白鳥や魚自体が霊だということです。その場合はどのように鳥や魚に変態するのかという変態のメカニズムは説明抜きですね。
山辺:そういえばパフテスマのヨハネに洗礼を受けて、イエスに聖霊が鳩の姿で舞い降りますね、あの場合も鳩自体が聖霊のようですね。

やすい:あれはヨハネの巧みな演出でしょう。聖霊が降るというのを目に見える形にして確信させようとしたわけです。元々ユダヤ教では聖霊は目に見えないものと考えられていたと思います。それでは洗礼を受けても聖霊が宿ったとは思えません。鳩を巧みに操って受洗者に聖霊が宿ったと確信させたわけです。信仰としては未開返りですね。

山辺:ところでヤマトタケルは、能煩野の墓から浜に向かって飛んでいきますね。梅原戯曲では、弟橘姫が海にいるので海の方に飛んでいくのだと兄橘姫が解釈して、それなら息子と一緒に私たちも海に入ると脅迫しますね。必死で引き止めて、河内の兄橘姫の実家の方に行ってもらうのです。白鳥は弟橘姫に未練があるためか、浜沿いに河内に行きます。このあたりはきちんと整理できていないようですね。だって国偲歌では大和に帰りたいわけで、当然、白鳥は大和を目指すべきなのに、海に行こうとする。そして止められたら今度は河内です。
 

やすい:河内の志幾で白鳥の御陵を作ってもらってそこに鎮まっていたのだけれで、さらにその地を飛び立って、どこかへ飛んでいったようです。

山辺:どこかって大和ですか、それとも異界ですか。

やすい:スーパー歌舞伎では「天翔ける心、それが私だ」の名台詞があって宙吊りがあるのですが、実はあれは梅原戯曲にはないのです。それはともかくヤマトタケルの霊はこの世に未練をのこしています。大和に凱旋して、理想の国造りがしたいのです。しかし白鳥の姿でかえっても何もできません。

山辺:梅原戯曲では、息子のワカタケルが第一後継者が死んだので、第一後継者になり、ヤマトタケルの時代になるということで、まだまだ改革はできていないけれど、一応ハッピーエンドじゃないのですか。

やすい:父帝と小碓皇子との断絶と葛藤は、一応和解させていますね。そこがエンターテイメントで、本格的悲劇としての完結になっていません、最後は父と子はヤマトタケルの犠牲を踏まえて和解することにしないと観客は納得しないのかもしれません。だってお芝居で父と子が断絶したままで終わったら、実際の家庭での断絶も和解できないのかなと思うでしょう。そういう悲観的な印象をもって帰るのは、客もつらいですよね。でも芸術としたらどうかな。


山辺:そういえば、梅原は『ヤマトタケル』は「もっぱら市川猿之助さんのために書いたものであり、アミューズメントの要素が多い。」と『ギルガメシュ』の「あとがき」に書いていますね。

やすい:最後に大江山の山神や鬼の退治を頼んだのも、ヤマトタケルに都に凱旋されると実権が奪われるので、ひょっとしたら油断してやられるかもしれない可能性を期待していたかもしれません。実際、『古事記』では景行天皇の後、志賀の高穴穂の宮を都にした成務天皇はヤマトタケルの皇子ではありません。やはり景行天皇の皇子なのです。その後ヤマトタケルの皇子の仲哀天皇が下関の豊浦の宮や筑紫の香椎の宮で支配しています。ですから景行天皇はヤマトタケルの息子には継がせなかった。それに成務天皇にはワカヌケの王という立派な皇子がいたわけです。ヤマトタケルの皇子は筑紫に行って、そこで畿内の朝廷に対抗して、朝廷を立ち上げたかもしれません。
 

山辺:ではヤマトタケルの霊である大白鳥はどこへ行ったのですか。
 

やすい:それは分かりませんが、それに第一、ヤマトタケル説話自体がフィクションですから、歴史的事実としてどこへ行ったかなどと論じるのは論外です。これは全く私の幻想ですが、フィクションとしての『古事記』の展開に沿うなら、河内葛城に飛んでいって、そこで葛城高額媛(カツラギタカヌカヒメ)に取りつくのです。
 

山辺:どうすれば葛城高額媛に取りつけるのですか。
 

やすい:それは私の戯曲、といっても『ヤマトタケル』の続編のつもりで試作した、『オキナガタラシヒメ物語』をお読み下さい。ヤ
マトタケルから神宮皇后伝説へとつながっていきます。もちろん歴史的事実としてでなく、歴史物語としてですが。

 

 

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