箕面ラジオ 対談「梅原猛の哀しみ」
 

田辺:新年おめでとうございます。田辺聡と申します。私は専門学校関係のPR雑誌をつくっている者ですが、哲学・思想関係に関心がありまして、「やすいゆたか」さんのホームページが眼にとまり、なかなか充実しているようなので、掲示板などに書き込んでいるうち、すっかり親しくなり、今日は「梅原猛論」についてお話を伺うことになりました。「やすいゆたか」さんは一九四五年生まれ、立命館大学ご出身で、現在母校で非常勤講師をされながら、執筆活動を行っておられます。著書にマルクスの人間観の限界を指摘された『人間観の転換』(青弓社刊)、フランシス・フクヤマの歴史終焉論をヤスパースの世界統合論から批判された『歴史の危機』(三一書房刊)、キリスト教とカニバリズムの関係から復活信仰の成立を解明された『キリスト教とカニバリズム』(三一書房刊)『イエスは食べられて復活した』(社会評論社刊)など多数執筆されています。最近は梅原猛さんに関心をもたれて『梅原猛―その哀しみと夢―』を書かれているのですが、これはホームページでは読めても、まだ出版されていませんね。

 

やすい:あけましておめでとうございます。ご紹介いただきましたやすいゆたかです。梅原論の出版ですが、梅原先生は出版するようにと勧めてくださっているのです。ただあまりに分量が多すぎて、出版社の方がとても無理だということで、三分の一ぐらいの量に圧縮しないといけないのです。最初から書き直したほうが早いので、その態勢を整えようとしているところです。

 

田辺:表題に「哀しみ」とありますが、これは梅原さんの最近作の『法然の哀しみ』から由来しているのですか。

 

やすい:ええ、そうです。法然が「南無阿弥陀仏」と念仏さえ称えたら、それだけで極楽往生できるという「専修念仏」という根本思想に到達した原因を追求したものです。

 

田辺:法然の父漆間時国は押領使という仕事できれいごとですまない仕事をしていたので、両親が法然の比叡山に修行中に十五歳の時に殺されてしまったらしいですね。その菩提を弔うのに、ただ「南無阿弥陀仏」と称えるしかなかったのでしょう。

 

やすい:法然は十歳で出家して十五歳で見込みありということで、黒谷の叡空の元に入山するのですが、その折に両親に挨拶にいくと、励まされるどころか、父はもうすぐ殺されるから菩提を弔ってくれるようにと息子に頼んだのです。法然は必死に御仏に両親の命を守ってくれるよう祈っていたのですが、その半年後に予言通り明石定明という武士に夜討をかけられ両親もろとも殺されているのです。

 

田辺:それで両親を救ってもらおうとすれば、修行やさとりでなくただ念仏をとなえるしかないないということですね。それは「法然の哀しみ」ですが、「梅原猛の哀しみ」というのはどういうことですか。梅原さんも専修念仏なんですか。
やすい:梅原先生が仏教で一番惹かれているのが、親鸞の「二種回向」の信仰です。

 

田辺:阿弥陀仏の慈悲の力でこの穢れた世界から、阿弥陀仏のおられる浄土に迎え入れられるのが往相回向で、浄土から煩悩で苦しんでいる人々を救うためにこの世界に戻されるのが還相回向ですね。梅原さんはあの世にいってもまた戻って来たいと思っておられるのですか。

 

やすい:ええ、もう七十八歳ですからね。もうすぐ人生も終りで、それでおしまいではさみしいので、何度でもこの世に戻ってこれるほうがいいといわれています。それは正直なところでしょうが、私はそう希望してもそれを簡単に信仰できるものとは思いません。信仰はもっと、そう信じないとおられない、深い哀しみから由来すると思うのです。その点、法然の哀しみは強烈ですね、梅原先生の場合はやはり、生母との関わりがあると思うのです。

 

田辺:梅原さんが一歳二ヶ月の時に生母千代さんは二十歳で結核で亡くなられていますね。

 

やすい:梅原猛の自叙伝にあたる『学問のすすめ』に詳しいのですが、父半二は愛知県内海町 出身の東北大学の学生で、仙台の魚屋さんに下宿していて、その娘だった千代さんと恋に落ちたのです。しかし梅原家は、学生の分際で自由恋愛などとんでもないということで、結婚には猛反対だったのです。二人はその苦しみからか結核にかかってしまいました。

お医者さんは結核の体で子供を生むのは母胎に危険だということで、おろすことを勧めたのですが、愛する人の子を殺すことは出来ないということで、死を覚悟で子供を生んだのです。

 

田辺:命がけで子供を生んだのに、それでも梅原家は結婚を認めなかったのですか。

 

やすい:父半二も結核に罹っていて、実家に戻って治療中でした。当時の地主の家では結婚に関しましては、なかなか厳しくて、子供が出来たけれど許されずに里子にだされるようなことがよくあったのです。珍しい話ではないようですよ。千代さんは結核なので子供とも引き離され、東京の姉の家で療養中に亡くなったのです。

 

田辺:梅原さんはそのことを何時知られたのですか。

 

やすい:結局、梅原家で戸主の半兵衛・俊夫婦が猛を養子として育てることにしました。本人には実子と思い込ませていたのです。この親子関係にも嘘があるということが、彼の心の疵になりますが。中学生になってからやっと知らされたようですね。でも猛本人は養父母が実父母以上に親身になって一生懸命育ててくれたものだから、自分を産んで死んでしまった母のことなんかより、そちらの方が大切だと思って、できるだけ考えないように意識下に仕舞い込んでいたようなのです。

 

田辺:実父の半二さんは快復されたのですか。

 

やすい:ええ、東北大に戻り、結局、トヨタ自動車の研究所長になられたそうです。しかし、いろいろ物心両面から支援はしてくれたようですが、別の女性と結婚して家庭をもたれたので、家族として暮らせなかったのです。

 

田辺:実母千代さんのことがどういうきっかけで、意識にのぼってきたのですか。

 

やすい:無意識とはいえ、そういうショッキングなことは彼の青春時代や大人になってからの生き方や仕事の上にも大きな影響を与え続けていたと私は分析しています。でもそれは無意識として働いていたことです。それが五十歳の頃に三橋節子画集を見たのです。特にその中に『湖の伝説』という題名の絵がありました。この絵です。

 

田辺:鬼子母神のような母が自分の二歳ぐらいの子供を大きな手でしっかり抱きしめている絵ですね。足元には白鳥が死んでいて、鳥の群れが西の空に一列に飛んでいきます。まるで異界を目指すように。彼女の髪は鋭く尖っています。幼い子供を遺して死ななければならない母の哀しみが凄い迫力で迫ってきます。

 

やすい:この絵は三橋節子が京都美大出身なので、三橋節子の遺作展を記念して出版されたもので母校の学長だった梅原猛の自宅に送られていたものです。最初に感動したのは、梅原猛の妻ふささんだったのです。

 

田辺:梅原さんは自分の生母のことを思い出したくなかったのですね。

 

やすい:ええ、そうなんです。本当は他人事じゃあない筈ですよね。彼の生母は二十歳の若さで、一歳二ヶ月の息子を抱くことも出来ずに、孤独の中で死ななければならなかった。三橋節子よりずっと不幸です。三橋は利き腕の右手を癌で切断したけれど、夫の助けもあって左手だけで余命二年間子供たちに絵のメッセージを遺す事ができました。彼女はその二年間で今までには画けなかった名作をたくさん遺せています。節子やその子草麻生やなずなの方がずっと幸せなんです。梅原猛はその事に気付くまいとしていました。そして彼女の伝記を書きます。その時に幸福な人間が不幸な人の伝記を書いてもいいものかどうかという迷いの言葉をわざわざ記しているのです。

 

田辺:それは本当に生母のことを思い出していなかったのですか、それとも敢えて、思い出していないようにふるまっていたのですか。

 

やすい:そのことが心理学的には最大の問題ですね。

 

田辺:本人に確かめられていないのですか。

 

やすい:もし本心を隠して書いているのなら、先生に質問しても否定されるだけです。それにそういうことは尋ねられたくないでしょう。ともかく意識的に抑えたのか、無意識の自我防衛機制が強力に働いて抑えたのか、伝記『湖の伝説―三橋節子その愛と死―』には梅原猛は、自分の生母のことは一言も触れていません。

 

田辺:でも幼子を遺して死ななければならない母の哀しみが充満していますから、当然感情としては自分の生母のことがあったでしょうね、たとえ無意識としても。

 

やすい:もし、一言でも自分の生母の事に触れていたら、失敗作に終わったでしょうね。

 

田辺:感情に流されてしまって、冷静に三橋節子のことを評価できなくなりますからね。

 

やすい:そうなんです。確かに三橋節子は死をみつめ、幼子を遺して死ぬ母の哀しみを絵にしていることで素晴らしい感動的な作品を遺したわけですが、ただそれだけではないんですね。彼女の悲劇的な運命が彼女の独特の絵の世界を生んだということに止まらないのです。その事を通して、彼女は絵画に方法論的な革命をもたらしているのです。そのことを梅原は気付ききちんと評価しています。もし自分の生母もなんて言って、感情に溺れていたらその事は気付けなかったかもしれません。

 

田辺:三橋節子の方法論的革命とはなんですか。

 

やすい:それは『田鶴来』という作品の解説で詳しく展開されているのですが、一つの画面の中に異なる時間が組み合わされて一つの物語やテーマが語られるという技法です。鶴を矢で射る場面と下に斃れている鶴がいて、その鶴が別の鶴の首を羽の中に抱きかかえているのが描かれているでしょう。それは一年前にその猟師が射止めた鶴の首なのです。その鶴の妻が大切にちぎれた首を抱いていたのです。その鶴たちの夫婦愛の強さに驚いて、猟師は自分の罪に目覚め、夫婦で祈っている場面も入っています。

 

田辺:なるほど一つの画面に見事に異なる時間が調和していますね。そして一つのテーマが打ち出されています。

 

やすい:日本画には絵巻物という伝統があって、絵巻の中で物語が展開します。それに前近代の絵画には宗教や道徳のテーマが描かれて、絵で諭すようなところもあったのですが、近代では、絵画は芸術として宗教や道徳から独立し、絵としての美しさ、構成美のようなものが評価されるようになりました。そうしますと絵巻物もなくなります。

 

田辺:そう言いますと、昔の日本画には四季の変化を一つの画面に表したような風景画もあったようですね。

 

やすい:『田鶴来』は異なる時間を組み合わせて一つの画面で物語を構成する物語絵を確立しているわけで、これは画期的です。それに宗教や道徳を絵のテーマとして復権しているところも、近代芸術の枠を打ち破っていると言えますね。それは三橋が子供たちに伝えたい思いがあって、それを絵本の形にもしていますが、この絵の場合は何枚も描く時間がもったいないので、一つの絵に構成するという方法をとって成功しています。でも物語絵という技法が分かっていなければ評価されないわけで、展覧会では特賞にならないのです。

 

田辺:審査員は物語絵という頭がないし、その物語も知らないので、感動がよくはつたわりません。それで美的構成だけで点をつけてしまう、でも物語絵は物語絵として評価されるべきだということですね。梅原さんはその評価基準を確立されたわけだ。

 

やすい:近代画の芸術至上主義は、元々絵が本来持っていた思いを伝えるという働きを無視したところに成立してしまいました。でも我々が感動する絵は思いが伝わってくる絵なんですね。その意味で三橋節子は近代画の限界を突破した革命的な意義があるといえます。

 

田辺:ともかく『湖の伝説』で梅原さんは生母千代への思いが溢れてくるのを必死で抑えていたのだけれど、テーマがテーマだけに、当然、それは心の堤防を突き破って大氾濫を起こしますよね。それはどの作品にはっきり現れるのですか。

 

やすい:そりゃあ、『湖の伝説』を書いている中ではっきりしたと思いますが、その後、梅原猛の自叙伝にあたる『学問のすすめ』の中で生母のことが語られています。それから彼は、当時『水底の歌』『歌の復籍』など柿本人麻呂論に取り組んでいたのですが、突然「母なる東北」に『日本の原郷』を求めて蝦夷文化に取り組み始めるのです。仙台を拠点にね。

 

田辺:まさしく生母への回帰ですね。蝦夷文化と二種回向論はつながるのですか。

 

やすい:蝦夷文化とアイヌ文化の関連ですね。東北にはアイヌ語の名残の地名が多くあります。アイヌ文化の遺跡みたいなのも青森あたりにあるのだけれど、蝦夷文化とはっきりは区別できません。

 

田辺:蝦夷とアイヌは別なのですか。蝦夷が蝦夷が島に渡ってアイヌになったのでしょう。

 

やすい:そういわれています。それで梅原先生は北海道のアイヌ文化を調査されたわけです。

そこで藤村久和というアイヌ文化の研究者と運命の出会いをします。彼は梅原先生より十五歳程若いのですが、梅原猛は彼をアイヌ学の師と仰いでいます。梅原猛には恩人はいても、他に師と言える人はいないのです。相当彼の研究態度に感銘したのでしょう。

 

田辺:アイヌのコタンに入って、アイヌに成り切って、アイヌの宗教まで信じ込んでユーカラなどを研究されているのでしょう。

 

やすい:ええ、彼がアイヌ人の往還の思想を梅原猛に吹き込んだのです。この世とあの世があって、死んだら魂はあの世にいって、そこで先に死んだ家族と再会し、何世代かたったら子孫になってまたこの世で誕生するという生死観です。それはとても素晴らしいと梅原先生は大いに感銘されたのです。

田辺:親鸞の「二種回向論」に似ていますね。先にアイヌの往還思想への共鳴があって、親鸞の再評価につながったということですね。

 

やすい:親鸞の主著である『教行信証』に二種回向論が浄土真宗の真髄だと書いてあります。でも一九六〇年代の梅原猛は『仏教の思想』で親鸞の『教行信証』を解説した時は、「二種回向」には一切触れておられません。つまり若いときには死後の世界なんかあるとは思っていなかったのです。来世に望みを託すことはできなくなった、「神無き時代」を生きているのだというニーチェ的な発想が強かったのです。

 

田辺:それが『湖の伝説』をきっかけに生母への還帰が自覚されて、生母に青春を取り戻してあげたいという想いから、アイヌの往還思想が素晴らしいと感じるようになったというわけですね。はっきり梅原さんは生母をこの世に生まれ変わらせて、青春を取り戻させてあげたいと語られているのですか。

 

やすい:何しろ梅原猛の著作量は膨大ですし、対談の記録などにも目を通して調べ尽くさないと、その趣旨の発言があったとも無かったとも断言できませんが、私の読んだ限りでは、そこまではっきりとは書いたり、言ったりはされていません。ただし梅原先生は、『ギルガメシュ』という戯曲を書かれています。その中にこんな話がでてきます。古代シュメールのウルクの王ギルガメシュは、ディルムントの森の守り神フンババを殺して、その木で建物や舟をつくり、田畑や牧場を作って人間たちの生活を豊かにしようとしました。そのために野生児で凄く強い親友のエンキドゥに加勢するように頼みます。エンキドゥは森の神を殺すのは反対だったのですが、加勢しないとギルガメシュがやられてしまうので、仕方なしに加勢したのです。

この森の神を殺したことによって、神々の裁判が天上で行われ、ギルガメシュの方が主犯なのに、彼は罪を問われずに、エンキドゥが死刑になってしまうのです。それでギルガメシュは死霊の国まで出かけて、エンキドゥを取り戻そうとします。エンキドゥを私の身代わりにするのは不当だというわけです。この設定でも、自分が誕生したために母千代が二十歳の若さで死ななければならなかったことに対する原罪意識のようなものがあるのが分ります。

 

田辺:それは強引な解釈ですね。だって『ギルガメシュ叙事詩』という原型があるわけで、そこに既にその話があるわけですから。

 

やすい:いやそういうあの世から取り戻したいという設定に彼が感動しているということが言いたいのです。それに叙事詩にはない設定があります。叙事詩では母は生きていて、夢占いなどをしてギルガメシュ王を支えていますが、戯曲では、死霊の国で両親の死霊にめぐりあって出生の秘密が分る話があります。両親ともギルガメシュ王を産んですぐに処刑されているのです。何故なら、ギルガメシュ王が生まれたことで、不倫がばれて、母の夫から告発されたのです。これは王の両親が不倫したことによって、処刑されたのですから、ギルガメシュには何の責任もないのですが、王は自分が生まれたことによって両親が死ななければならなかったというので、原罪意識を感じているのです。もっとも戯曲『ギルガメシュ』では、両親を連れ戻そうとはしませんが。しかしそういう話の中に、彼の生母をあの世から取り戻したいというやむにやまれぬ感情が感じ取れるのです。

 

田辺:母への思いは確かに重要ですが、『法然の哀しみ』などは法然の場合は父との関わりにウェイトがありますね、梅原さんの場合は、父半二との葛藤は作品に影響を与えていませんか、『ヤマトタケル』などは父子の対立と和解が重要なテーマですね。

 

やすい:ええ、確かに。養父半兵衛に対しては、実父以上に親身になって育ててくれたことに強い恩義を感じています。でも地主で町の最後の旦那さんと言われた人で、家父長として仕切っていた。実は猛の両親が結婚できず、母千代が悲劇的な最期を遂げたのも地主の家が原因です。終戦直後、大学生の頃の梅原猛は太宰治に傾倒しますが、それは太宰が地主の息子で、随分家との葛藤があったことが背景にあるのです。戯曲『小栗判官』では小栗判官は照手姫と恋に落ちて、家の許可無く結ばれたことに対して、照手姫の実家によって殺されます。このルール違反で殺されたことに対して、小栗判官は納得していますが、私は、この問題が胸にわだかまっていたと思うのです。還暦過ぎてからやっと、この戯曲を書いて、結婚を許さないことで悲劇を招いた養父や、自由恋愛で生母を死なせる結果となり、半二自らも結核に苦しみ、必死に立ち直って、立派になった実父を受容できたのではないでしょうか。ただ言葉の行き違いというか、腹を割って真情で語ってほしかった。『ヤマトタケル』から受ける感想としましては、父との関係で猛が求めていたものがよく分る気がしますね。

 

田辺:『湖の伝説』をきっかけとする生母への回帰があり、これが縄文やアイヌ文化への再評価に繋がったということはよく分かりましたが、そのことで梅原哲学はどういう展開を見せることになったのですか。

 

やすい:それを説明する前に、それ以前を振り返って置きませんと、展開が分りません。戦後死の哲学から脱却して生の哲学を求めて、笑いという感情を探求し、そこから笑いの文化の東西比較とか考えているうちに日本文化論に入っていきました。それは既成の日本文化論が忘れていた大乗仏教を基盤にする日本文化ですね。梅原から見ますと、既成の日本文化論は天皇教的な偏向を脱却できていなかったのです。だから神道でも自然より天皇が中心だった。仏教や神仏習合に基づく自然崇拝というのは低く評価されていたんです。天皇教によって戦争に狩り出され、青春を犠牲にさせられた世代として、梅原は日本文化論から天皇教的な偏向を払拭するために鈴木大拙や和辻哲郎という権威を批判していました。

 

田辺:怨霊信仰を重視するというのも、天皇教的な日本文化論が隠蔽していたものを再評価するという意義があったのでしょう。

 

やすい:そうなんです。初代の神武天皇、平安京を開いた桓武天皇などは明治以降、橿原神宮や平安神宮などの立派な社に祭られるようになりますが、それ以前はそれほど信仰の対象にはなっていません。つまり天皇よりも早良親王、菅原道真といった怨霊の方が大々的に神として御霊神社や天満宮に祀られていたわけです。出雲大社も大国主命という滅ぼされて大和朝廷に怨みを持つ神の霊を祀っているわけです。怨みを持つ霊をお祀りすれば、崇りを防げるだけでなく、かえって守り神になってくれるというのが、日本の怨霊信仰の特徴ですね。

 

田辺:そういう怨霊の中に聖徳太子と柿本人麻呂という二大文化人を加えたのが梅原古代学の業績ですね。

 

やすい:それが歴史学と国文学に与えた影響は計り知れないものがありますが、実はこの怨霊に対して梅原は独特の怨霊アンテナを持っているのです。

 

田辺:まさか聖徳太子や柿本人麻呂が怨霊とは誰も気付きませんものね。

 

やすい:それは生母に対する原罪意識と天皇教への怨みですね。彼は生母のことはできるだけ考えないように意識下にしまいこんでいました。でも自分は母の死と引き換えに誕生した。そのために母は二十歳の若さで死ななければならなかった。孤独で惨めに死んでいった生母を思うといたたまりません。でも猛には何の罪もありませんから、考えても仕方ないことです。でもやはり無意識の内に自分が奪った母の命を取り戻すには、自分の死と引き換えでなければならないという思いがあったのかもしれません。それが彼の戦後のペシミズム、死への哲学につながっているのです。

 

田辺:もう戦争が終わったのだから、後は明るく生きたらいいのに、いつまでも死への思いを抱き続けていた、それには生母が無意識のうちに死への衝動、つまりタナトスとして働いたからだという分析ですね。

 

やすい:その通りです。戦争はおびただしい死をみせました。平和になったからといって、それらの死を忘れて明るく生きろといわれても、そう単純にはいかない、どうしても戦争や死の意味を引き摺って問い続けることが大切です。ですから生母の無意識のタナトスとしての働きだけに還元するのは問題ですが、私は生母への想いが無意識だがそうとうウェイトがあったと思うのです。だから養母俊が一緒に住んでくれて危機を脱したわけです。

 

田辺:聖徳太子が怨霊だと気付いたのも、生母への想いと関連しているという分析ですね。

 

やすい:法隆寺は聖徳太子の怨霊を閉じ込めるために再建されたという解釈です。確かに法隆寺には死の匂いがたちこめていて不気味な感じがあります。だからといって、だれも聖徳太子を怨霊とは気付かなかった。それを怨霊と結びつけたのは、彼独特の怨霊アンテナです。それで思い当たるのは生母の子供を遺して死ななければならない哀しみですね。そして戦争で死んでいった人々の悔しさです。後の方は梅原猛独自のものではありません。私は高校生の時に、猛が恋をして失恋しているわけですが、その恋も彼の両親の命がけの恋に影響されていると見ています。命がけでないと本当の恋ではないという想いがあった。彼は運動神経が鈍くて軍人になっても足手まといにしかなれないという劣等感がありました。だから戦争で名誉の戦死ができないわけです。それならどうせこの戦争で皆死ぬのだから、自分は恋に死にたいと思ったのではないか、その命がけの思いに圧倒されて、恋人は彼から逃げて、彼の友人に取られてしまったそうです。

 

田辺:どうして命がけの恋だったと分るのですか。

 

やすい:本人がそう言っているわけではありませんが、戦後学生時代に京大新聞の公募論文で「私の恋愛観」というのに応募して、見事に一位で掲載されたのです。それを読めば分ります。このようになんでも生母に対するこだわりつまり生母コンプレックスから説明するものですから、私に対して、梅原猛をマザコン人間の典型にして卑小な人間に貶めることになるというとんでもない批判があるのです。

 

田辺:精神分析というのはどうしても家族関係論が根底にきますからね。しかしその人物が偉大なのはマザコンでないことにあるのではなく、マザコンを昇華して普遍的な価値を創造するところにあるのでしょう。その意味では生母コンプレックスの精神分析は大いに意義があるのじゃないでしょうか。

 

やすい:そういっていただければ救われます。私も何も戦争や天皇教、既成の学問的権威、教条的なマルクス主義歴史学等々に対する格闘など梅原猛の戦いを無視しているわけではなく、大いにその意義をかたっているつもりです。しかし一番琴線に触れるのがやはり生母への想いなんですね。そこに行き当たる。だからいつも彼は生母に守られていたとも言えますね。その意味では幸福な人です。

 

田辺:それで梅原日本文化論は『湖の伝説』での生母への回帰が、氾濫のように起って、縄文アイヌの森の文化を視野に入れ、この世とあの世の生命循環を含む、大いなる生命の共生と循環の哲学へと展開していくことになるわけですね。

 

やすい:生母への回帰から東北の母なる森でしょう。それは縄文の森からさらにディルムントの森へと展開し、森の神フンババを殺した文明の根源的な意味を問うことになります。

母なる森はさらに生命の母なる海へと繋がっているのです。「海」という字は母を宿しているでしょう。うちのワイフは梅原猛はイメージで言えば山でも川でも空でもなく「海」だというのです。限りない優しさと哀しみを宿している命の海、涙の海ですね。

 

田辺:山の森がなくなったら海で魚が取れなくなると言います。また海の魚が川に上がって森を育てる。カナダの森は鮭が遡上してそれが養分になって育つと言いますね。海に関連して梅原さんは『吾輩はムツゴロウである』という長編小説に取り組まれていますね。

 

やすい:干潟は埋め立てや汚染でどんどん破壊され、死んでいっています。諫早湾のムツゴロウは数億匹もいたそうですが、今はほとんどいなくなったでしょう。ムツゴロウには何の罪も無いのです。それなのに人間という愚かな動物の犠牲になって滅びようとしているわけです。人類の罪を背負って犠牲になっているのですから、身代わりですよね。キリスト教的にいえば、ムツゴロウは自分の身を犠牲にして人類に罪を目覚めさせようとしているのかもしれません。ムツゴロウを通して、罪に目覚めた人類が、大いなる生命の価値にめざめ、生命の共生と循環を取り戻そうとするなら、ムツゴロウは救世主、キリストなんです。十字架にムツゴロウの骸を括りつけて許しを乞う、ムツゴロウ教が必要かもしれません。それはともかく、梅原猛はムツゴロウの怨霊を引き継いで『吾輩はムツゴロウである』を書いているわけでして、ムツゴロウの今は人類の明日だと考え、ムツゴロウを絶滅から救い、死から取り戻すことで、人類の明日も守れると思っているのです。

 

田辺:生母千代さんにしても、アイヌにしても、ムツゴロウにしても犠牲になり、滅び行くもの、弱者ですね。そういう弱者への哀しみ、愛情がとても篤い。そういう弱者も含めた生命の尊さとつながりを大切にするというところに、人類の未来がかかっているということでしょう。そういう弱者を踏みにじり、森や海をこれ以上壊していけば当然人類には未来が無いわけですから。

 

やすい:生母への想い、梅原猛の哀しみは、滅び行く森への哀歌であり、ムツゴロウへの祈りであり、果てしなき涙の海ですね。でも彼は決して負けていない、彼は大いなる生命への讃歌を歌う人でもあるのです。彼は哀しみを背負いながらも、生命の讃歌を歌い、創造の悦びに燃えて、頑張っていますからね。
 

 

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