小説「おようの尼」

 

「おようの尼」のあらすじ

尼なれど世の荒波を渡るには金にも色にも欲(おも)ひつきまじ

 スーパー歌舞伎の戯曲を書いてから、梅原はついに小説に挑戦した。それが『中世小説集』(新潮社、一九九四年刊)と『もののかたり』(淡交社、一九五五年刊)である。それは『御伽草子』や『今昔物語集』などから素材を取っているが、自由に作り変えているのだ。その中から瀬戸内寂聴も解説で一番好きだとしている「おようの尼」と「首」を取り上げて論じてみよう。

 何をやってもうまくいかず、すっかり世の中が嫌になった男が嵯峨の清涼寺に参ったとき、彼同様みすぼらしい風体の男に、観想念仏の修行に誘われた。観想念仏は、西の空に沈み行く夕日を思い浮かべ、次に極楽浄土の水を、次に大地を、そして樹木を、池を、高楼を、阿弥陀仏の台座を、そして阿弥陀如来をという順番に観想する。そして最後には自由自在に極楽浄土を思い浮かべることができるようになるというものである。そうなれば、自分は必ず極楽浄土にいけるのだと確信できるようになるのである。

 ところがこの修行は大変難しいのだ。観想で現れた極楽浄土の金銀瑠璃は、たちまち糞尿の山に変わり果てる。この十三段階で極楽浄土を思い浮かべる十三観は彼には無理なようなので、彼の師は、沈みゆく夕日を観想する落日観を勧めた。夕日だけではなく月も星も花も葉も男も女も落ちていきます。この落日観ですっかり煩悩が洗われて、いつでも三日月が落ちてゆき、秋風が吹いているさまを観想できるようになり、落日観が完成したのである。

 彼の落日観の完成を喜んだ師は、安心して極楽往生できると、彼に見届けさせて、崖から飛び下りたのだ。でも別れ際の師の寂しそうな表情が気になり、劇的な死に方は避けようと思った。そこで落日秋風坊になって嵯峨野で侘住まいをするようになり、生に対する意欲を少しずつ減らして、何もせず、食までも減らして、自然死を待ったのだ。

 このまま終わると単なる浄土教の観想念仏の解説にすぎない。現世的には全くのペシミズムで、死による救いがあるだけの自殺宗教ということになる。しかしこういう宗教は広がらない。自ら命を絶っていくので、信徒の数はあまり増えないのだ。やはり現世の生に喜びを見いだせるような宗教でないと困りものだ。

 師や落日秋風坊は結局、生きる喜びとは縁のないまま、寂しく生きて、寂しく死んでいくのだ。それはとても不幸な人生だが、浄土教は、それを極楽浄土という幻想の未来を与えることで、納得させようとしたのである。でもせっかく様々な喜びを感じる五官を備えているのに、その喜びを味わうこともなく死んでしまうことに、何の未練もないのだろうか。五官を備えていても喜びを感じられなかったのに、死んで五官を失っても果して意識はあるのだろうか。五官は生きられるだけ生きて、精一杯の生命の充実を体得した上で、納得して死にたいと心の底では願っている筈である。

 そこで現れたのが「御用の尼」である。大きな布袋を頭に乗せた六十歳過ぎの尼姿の老婆が、落日秋風坊のあばら家に雨宿りということで突然現れたのだ。「御用の尼」は一応尼はしているが、小物の唐物の珍品などを売って生計を立てているのである。女はずぶ濡れになった着物を着替えたり、十両で仕入れた鼈甲の簪を大納言の奥方に三十両とふっかけて、「まけろ」と言わせて、半額の十五両で売り、結局五両もうけたという自慢話をした。そのうえ帰りには、雨宿りのお礼だといって、木魚をプレゼントしたのである。

 落日秋風坊とおようの尼は両方とも僧ではあるが、生き方はまるで逆だ。秋風坊は極楽浄土を憧れてまじめに観想念仏に取り組んでいた。それに対しておようの尼は、まるで仏道修行には関心がない。だから僧としての生き方では、秋風坊の方が断然上だ。でも人間としての生き方としては、どうだろう、秋風坊は人生から逃避しようとするペシミズムに陥っていた。その点、おようの尼は、商売に情熱を燃やし、何とか生活を自力で打ち立てようと、必死で頑張っていたのである。工夫や努力次第でどうにか暮らしは立っていくものだ。何度か失敗しても、そこから教訓を学びとって、工夫を重ねれば生きていく道は開けてくるはずである。それを途中で放棄して、極楽往生に逃避するのは情けない気がする。


 それからというもの、その女はしばしば尋ねてくるようになった。そして米や野菜や果物や鹿の肉などの食物を置いていくのである。それでついつい欲望を絶ち、食物を減らして自然死していく落日秋風坊の予定が狂って、かえって太っていった。落日観も三日月は太陽のように赤くまんまるになり、秋風は春風に変わっていたのだ。

 そしてとうとう「おようの尼」は、嫁さんまで世話してやろうといいだした。極楽往生する際には葬式だって出さなくてはならないから、葬式を出してくれる女房が必要だと説得される。それがおようの尼にはいい心当たりがいるというのだ。落ちぶれ公家の娘で病がちの両親を見ているうちに、母親にも父親にも死なれ、そのせいで嫁に行き遅れて、今は二十歳半ばで天涯孤独の身の上だというのである。

 落日秋風坊はこんなみすぼらしい坊主のところへなぞ、来る女が有るはずないと言うと、それがもう相手には話してあって、行かず後家になるよりは、可愛がってくださる方に嫁いで、一所懸命仕えたいと見込みのありそうな返事をもらっているということなのである。こうしておようの尼は早々に話をまとめあげて帰った。彼はそれまでに知った女はひどい女ばかりで、女には懲りていたはずだった。でも女の言った、公家の娘でまだ見ぬ孝行娘に、彼は恋をしてしまったのだ。そしてその娘が現れる日を今か今かと待ち焦がれていたのである。でも二月ほどおようの尼は姿を見せなかったのである。

 二月して秋風の頃におようの尼が現れ、孝行娘が「一生独りで父母の供養をする」と言いだしたので説得に時間がかかっていたと言い、やっと説得したから十日後に嫁を独りで来させると言ったのである。そして婚礼用の布団を、おようの尼と秋風坊がわりかんで出し合うことになったのだ。秋風坊は自分の葬儀代にとっておいた一両を、おようの尼に渡した。結局、嫁入りの前日も当日もおようの尼は登場し、準備具合を見ていった。嫁入りの当日、秋風坊は不安をまぎらわそうと、待ってるうちに酒を飲みすぎた。おようの尼は秋風坊に布団を敷き、灯を点けないように指示しておいたのだ。

 おようの尼と入れ替わりに孝行娘が現れ、あいさつを交わし、三・三・九度の盃を交わした。そして無事新婚初夜を終えて、あくる朝目覚めて一緒に寝ていたのが、孝行娘ではなくて、六十過ぎのおようの尼だったという話である。そしておようの尼は、開き直った。結婚して一緒に暮らすことを提案したのである。「わたしは商売もうまいし、お前さんの独りや二人食わすのはわけもないこと。いい女房じゃないか。ワッハハハハ、オッホホホホ」と笑った。ひょっとしたら彼は自分の心のどこかで、その娘がおよう自身であると、すでに気づいていたのではないかと思った。


                   おようの尼の恋 

           還暦を過ぎて余生となりぬとも生きる証しぞ燃ゆる想いは

 おようにとっては、お金には不自由しなかったものの、やはり天涯孤独の人生では寂しかったのだろう。そして観想念仏で独り寂しく死んでいこうとしている僧にも、性格は正反対でも自分と共通する孤独の影を認め、世話を焼いて慰め、元気づけようとしたのかもしれない。いくら気丈にたくましく生き抜いているようにみえるおようでも、本当は励まし、元気づけてくれる連れ合いがいないと、心の張りが保てないだろうから。おようは僧との絆を造っていくことを通して、六十過ぎて心細く成りはじめた自分自身を元気づけていたのである。

 おようは六十過ぎて、二十以上も若い男に惚れてしまったのだ。五十歳までで上がってしまうと、女性はそういう色恋のことには関心がなくなってしまうように思われがちだ。もちろん個人差はあるが、「女は死ぬまで女」という言葉もあるぐらいなのだから、気に入った男がいると、だんだん放っておけなくなるもののようだ。六十過ぎて鬱病などで病院通いをしていて、担当の医師が気に入ると、日頃落ち込んでいても、積極的に通院するようになり、その際、みだしなみなどに異常に気をつかったりするものなのだ。少しでもいい女に見られたいという意識が潜在的に働くのであろうか。

 でも実際には、おようのように二十以上も若い男に、献身的に世話を焼き、そして嫁を世話するといって、うまく若い女に化けて床を共にし、まんまと女房に納まってしまうというのは、至難の技であろう。そこがこのお話のおもしろいところだ。このお話は全くのフィクションではあろうが、老女が若い男を言葉巧みに翻弄して、釣り上げることに成功した夢のような話として、老女たちの願いを叶えているのである。それで痛快に感じておもしろいのだろう。

 うまく女房に納まっても、相手がなにぶん自殺志望の僧だから、食わしてやらなければならないし、気苦労も大変である。しかしそれだけに自分がついていて心の支えになって立ち直らせることに張り合いがあるというものだ。

 男の方もおようの尼に来てもらっていたお陰で、食料に事欠かなかっただけでなく、随分孤独を癒された。生きていることがまんざらでもなくなったので、食欲も湧き、太ってきたのだ。ほとんど死んでいたところが、生きることの喜びを感じることができるようになっていたのだ。まさしく「地獄に仏」のような形でおようの尼に救われたと、言っても過言ではない。それでこの僧もおようへの精神的依存が深くなっていたのである。おようなしでは生きられないような気持ちは、どこかで恋愛感情に近いものがあるのだ。それでおようが若い女に化けていたと分かっても、それほどショックを受けなかった。むしろ「彼は心のどこかで、おようが紹介するといった娘が実はおよう自身だということにすでに前から気づいていたのではないかと思った」のである。

 二十一世紀前半には高齢化がピークに達する。高齢者が多くなると、高齢者もそうそう社会の世話にばかりなっていられない。高齢者でも働ける人は大いに働いて、社会に貢献すべきである。また、ボランティア活動などにも積極的に参加すべきだ。そして高齢者同士の助け合いや交流も大いに行なうべきである。高齢者が文化面でリードすべきことも多い。そして高齢者も枯れてばかりいないで、青春を謳歌することがあって当然である。高齢者の恋愛や性生活がおおいに見直されることになるだろう。その意味で「おようの尼」はトレンディーな作品と言えるかもしれない。

         
                     おようと猛の養母

                  梅原におようと俊はタブルやと尋ねてみると大爆笑なり

 世間の評判では、おようはどうも瀬戸内寂聴をパロったものらしいが。この「おようの尼」という短編は猛自身の体験とどう関連しているのでだろう。おそらく院生時代に精神的に落ち込んで、落日秋風坊と同じように死ぬことばかり考えていた一九五〇年、養母の俊が心配して上洛し、上京区 今出川黒門通りに一緒に住んでくれた体験と結びついているのではなかろうか。それで「精神的にやや立ち直る」とあるから、家庭的な愛情に飢えていたことも猛の落ち込みの原因だったかもしれない。それで養母の世話で翌年一月、二六歳の年に四歳年下の稲垣ふさと結婚した。妻ふさは養母俊の代わりだったのである。

 養母俊は実の母以上に献身的に猛に尽くしていた。もちろん養母俊と猛の間には母子関係を超えたようなものはなかったが、俊の猛を立ち直らせようとする思いはとても熱いものがあったから、猛はそれに圧倒されて生きようとする気持ちが出てきたわけである。そしてやっと「精神的にやや立ち直」ったかに見えた時に、俊は猛に嫁取りを勧めたのである。養母俊は愛知県に家庭があるから、猛のために京都でそれ程長く同居できる筈はないのだ。それで嫁を持たせようしたのである。

 俊は嫁に猛を託したわけだから、とても心残りだったと思われる。性的な関心は全くなくても、できるなら自分が三十歳ほど若返って、猛の嫁になって、側にいてやりたいと思ったかもしれない。猛も俊に代わってふさが嫁に来ても、果してうまくやっていけるのか不安だっただろう。猛は当然、俊が自分に与えてくれていたのと同じような愛情をふさにも求めてしまいそうになったではないか。その意味では、猛も性的な関心なしに俊にずっといて欲しいと思ったかもしれない。

 養母俊と猛はあくまで母子関係だから、その関係を変えるわけにはいかない。そして猛の精神的危機に同居して救ってくれただけに、母子関係の絆は改めて強固なものになったわけである。でも嫁と入れ替わるという時点で、母と妻とを同一視するという倒錯が、潜在意識の中で強く作用するようになったかもしれない。猛の夢の中で、妻を抱いているつもりが養母だったというような、とても口に出しては言えないような体験があったかもしれないのだ。もしそういう夢を見たような体験が潜在意識の中に残っていると、「おようの尼」の話が梅原の体験と係わっていることが理解できる。

 フロイトの精神分析学にいうエディプス・コンプレックスでは、母親への性的固着がきわめて精神発達に重要な役割を果たす。猛の場合は、幼児期の母子関係は養母俊との関係だった。猛は養母の乳を飲んだわけではないが、きわめて緊密な母子関係で育てられたようである。その上、中学に至って実母でないと分かったのだから、顕在意識では養母への性的関心は人一倍抑圧されていたとは言え、潜在意識の中では俊へは憧れに近い感情を秘めていたとしても、決してアブノーマルとは言えない。

 これは後日談になるが、とある懇親会で「およう」と「俊」をダブらせる見解を梅原にぶつけたところ、「俺がばあさんを抱きたかったというのか」と言って、大爆笑になった。

 

       「首」

              夏の夜に鉄の柱とまぐわいて鉄の玉生みし女ありけり

 『中世小説集』の冒頭の短編は「首」という怪奇物語である。おそらくこれが冒頭を飾っているということは、梅原自身が最も気に入っているのかもしれない。かなり奇想天外な物語になっているのだ。備前の国に地頭として赴任した二階堂正清の話である。備前の国は古墳が多く、平安時代から盗賊が横行し、古墳も盗掘されはじめていた。正清は右筆の円光を連れて古墳を訪れ、沢山の鉄製品を盗掘して持ちかえらせた。そしてそれらを溶かして、鉄の柱を造らせたのだ。三ヵ月かかって、見事な鉄の柱ができたのである。

 ところがその形は、先の頭が丸くてつるつるしていて陰茎に似ていた。でも名工に言わせると最も美しい柱の形を追求した結果なのである。最も美しいタワーの形を追求した京都タワーも陰茎の形をしていると物議を醸したことがあった。陰茎の形は生産力を象徴するためかよく使われるのである。御神体の形が陽根(=陰茎)になっている道祖神が街道筋にたくさんある。この鉄の柱も古墳に祭られた人々の霊が宿って、不思議な力を現すかもしれない。

 この鉄の柱は、その内に郡司の娘であった地頭の正妻の部屋に置かれ、夏の涼を取るのに使われていたのである。正妻はこの鉄の柱を一目見たとき、「この柱には霊がいるわ」と目を輝かせていたのだ。ある日正妻は鉄の柱にもたれてしどけない恰好でうたたねをしていたが、それがとても色気があって、地頭は欲情にかられて襲おうとした。ところが、正妻はもう五年間も構ってくれていなかったので、いまさらなによとばかり。拒絶したのである。

 ところが奇怪にも正妻は妊娠したのだ。どうも正妻は夢の中でこの鉄の柱とまぐわっていたらしいのである。それで鉄の柱の子を孕んだというのだ。そして実際に、鉄の玉が生まれたのである。鉄の柱と人間の女が、まぐわって間の子の鉄の玉を産んだという発想は、実に奇想天外だ。ついに無機物である鉄とも人間は間の子を造ったのである。でも考え様によれば、鉄が人間の生活に割り込んでくることによって、人間生活は随分変わった。人間の考え方も、鉄から強い影響を受けている。エッ、鉄に考え方などないって、とんでもない「鉄の意志」とか言うではないか、断固とした信念を貫く剛い考え方である。

 そこで地頭は、正妻の子である鉄の玉を立派な武士にしようと提案した。それを刀に作り替えるために鉄の柱を造った名工に名刀を造らせたのである。一年少し経って、やっと名刀が出来上がったが、この名刀は人の力を借りて物を切るのではなく、名刀自身の力で物を切るのである。だから刀を抜くときに自分の首が近くにあると、これは切り心地がよさそうだと、首を切られてしまうのだ。

 刀剣が神として不思議な力を発揮するという説話は、『古事記』に八股大蛇の体内から取り出された天叢雲剣(=草薙剣)の話がある。草薙剣は、ヤマトタケルの蝦夷征伐で大活躍するが、この草薙剣を「乙女の床の辺」に置いてでかけために、氷雨に打たれたのがもとでヤマトタケルは死んでしまった。そしてこの神剣は帝の覇権のシンボルになったのである。

 人間が造った筈の刀が、人間から自立し、自分で人間の首を切るというのはマルクスの『資本論』で展開されているフェティシズム論と同じ論理である。マルクスによれば、そのような物が価値を持ったり、社会的な力を発揮するのはあり得ない倒錯なのだ。しかし物が商品として価値を持つのは抽象的人間労働の固まりがガレルテ(膠質物)としてつきものになってとりついているからだと、マルクスは説明した。「首」では、人間の怨霊や特別のパワーが作り上げた物には、霊がとりついてそれなりのオカルト的な力が備わることもあるかもしれないという設定なのである。

 それにこの刀は人の本当の心を写すのだ。心からの笑顔で刀を見ると、笑顔が刀に写るが、表面は笑顔を繕っていても、心の中で怒っていると、怒った顔が写るのである。恐らくこの刀は人間の心を見抜く力を持っているのであろう。それは人間の心が刀の中に乗り移っているからだと思われるのである。

 この名刀を地頭は執権に献上して、執権に取り入り出世しようと考えていた。ところがこの名刀は夜中に「ククク、ククク」とむせび泣くのである。この名刀は、右筆によれば、雌雄対の刀なので、雄であるこの名刀が自分の連れ合いの雌の名刀と引き離されているのを悲しみ、連れ合いを求めて泣いているのである。そこで名工が雌の名刀を隠していると睨み、名工を捕まえに行かせるが、名工は雌の名刀を持って逐電した後だったのだ。

 数年後、出羽の国にその名工がいることが知れた。そこで地頭は右筆に命じて、刀を取り戻し、名工を連行させようとした。名工は雌の名刀を持って出羽に逃げ、出羽で名刀造りをして有名になっていたのである。そしてもう十分多くの名刀造りが出来たので、何時死んでもよい、雌の名刀と共に自分の首も差し上げると言って、自ら雌の名刀で自分の首をはねたのである。

 この辺の、名工がいともあっさり自分の首を差し出そうとする理由が、どうもよくは飲み込めない。理由としては捕まるよりは、首を差し出した方がましだということだろう。でもこれは表面的な理由で、名工は雌雄の鉄の柱の霊に心が支配されていたのかもしれない。それで鉄の中に戻りたいと願っていたのだろう。

 ところが奇怪なこともあるもので、出羽から帰途の途中、名工の首は少しも腐食せず、日に日に生き生きとしてくるではないか。右筆は恐ろしくなって、そのまま地頭のところに首を持って帰った。地頭が風呂敷を開けるとその首は、生きているようで、地頭を恨めしげに睨み付けたのだ。それで地頭は、首を壊そうとしたが、その首は鉄で出来ているように、火で焼いても焼けず、刀で切っても切れない。相変わらず地頭を恨めしげに睨んでいるのだ。

 そこでこれを鉄の祟りだと天竺の古典から悟った右筆は、鉄の柱と雌雄の名刀をもう一度融解させて、そこに首を入れると、鉄の首も溶けて、成仏するだろうと進言した。ところがそれでも首だけは溶けなかったのだ。そこで右筆は、仕方なく、自分も僧なので自分の首を切って、釜に入れてくれれば、説得して名工の怨念を清算してみますと言った。

 右筆は、地頭に育ててもらった恩を感じて、怨霊に祟られた主人の危機をわが身を犠牲にして救おうとしていたのである。この辺りも少し物語の展開に無理があるような気もしたが、おそらく右筆自身が怨霊にとりつかれてしまって、そう言っているのかもしれまない。地頭は右筆の決心が固いので、仕方なく右筆の首を切り、釜に入れたのだ。ところが十分ほど二つの首がにらみ合った後で、突然天地が轟くような大きな笑い声が起こったのである。それで地頭は右筆に成仏するように説得するといったのに、二人で大笑いするとは何事かとなじった。すると二つの首はニャッと笑って地頭の方を見たのである。

 地頭はあざ笑われて、怒り、釜の中に首を差し出して、「おまえたちを八つ裂きにしてやりたいわ」と叫んだ。すると地頭の首が胴体から離れて、釜の中に落ちてしまったのである。そして三つの首がにらみ合い、しまいに噛みつきあい、釜の中は阿鼻叫喚の修羅の巷と化したのだ。そして二、三時間の闘いののち疲れ果て、静かになった。血みどろで誰の首か分からなくなっていたが、三者ともかすかな笑みを浮かべたまま、煮えたぎる鉄の湯に溶かされ、跡形もなく消え去ったということである。

 鉄の祟りが、鉄を弄んだ名工と右筆と地頭に及んで、三人は鉄の中に取り込まれたのである。人間は鉄を自然の中から取り出し、人間の生活を豊かにするために利用してきた。鉄製の農具や狩猟具、武器などが造られたのだ。それによって人間たちの生活は飛躍的に進歩した。大変便利になったのである。特に近代工業の発達は、鉄を主な資源にして巨大な機械文明を作り上げたのだ。しかしそれは人間社会に戦争や事故、様々な労働災害や人権侵害をもたらしたし、生命の共生と循環に基づいていた地球環境の破壊を進行させ、今や人類の存続さえも未曾有の危機に見舞われていると言われているのだ。

 自然を自分たちの欲望充足の為に、私利私欲の為に弄び、大いなる生命の共生と循環を省みないならば、自然は大いなる生命の力で反撃することになるのだ。鉄もあまりに身勝手な人間共の仕打ちに対して、抗議しているのだ。しまいに名刀は自分から人間どもを切ることになるし、自分たちの争いや、目的の為に悪用する者たちに切りかかるのである。

 またこれまで鉄器の使用によってさまざまな思いをしてきた過去の人々の心が、鉄の中に宿って、鉄をますます身勝手に悪用しようとする現在の人々に、祟りを引き起こすのである。このような人間疎外の問題を見事に、能を連想させる中世の怨霊話に結晶させているのである。しかも芥川龍之介を思わせるタッチで巧みに描いているところなどは、梅原の始めての小説にしては見事というほかない。

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