2005年6月12日(日)京都新聞朝刊 読書欄より

 
やすいゆたか著 『 評伝梅原猛―哀しみのパトス 』
 
秘められたパトスを再現出 …

  日下部吉信

 やすいゆたか著 『 評伝梅原猛―哀しみのパトス 』 の公刊をうれしく思う、本書は梅原猛氏について著されたはじめての本であり、本書の公刊によってようやく梅原氏が一個の研究の対象になったような気がする。対象となったものは、もはや意識を呪縛(じゅばく)することはない。これによって梅原氏の呪縛から解放される人は少なくないのではないか。少なくともわたしの周辺には今なお梅原猛氏の呪縛の内に生きる者が少なくないのである。
 やすいゆたか氏は梅原氏のあのどちらかといえば異常ともいうべき創造活勅の根底に生母への想(おも)いを見る。自分の生存と引き換えに梅原氏に生を与えた母の哀しみと執念のようなものが梅原氏の意識の深層に秘められていて、それが怒りや悲しみ、怨霊(おんりょう)といった歴史上のパトスに感応して、あの尋常ならざる仕事になったと見るのである。
 やすい氏のこのテーゼに梅原氏目身は必ずしも同意するわけではなく、「やすい氏のい うことが正しいかどうかは私自身にもよく分らない」と語っているが、本書を読んで、ある個所などでは「涙を流したほどである」とも漏らしていることからして、やはりポイントを衝いた分析といわねばならないのではないか。要するに本書は『 法然の哀しみ 』 ならぬ、『 梅原猛の哀しみ 』なのだ。
 それにしても本書がこのようなテーマで書かれた書が往々陥りがちな私小説的なものに堕していないのはなぜであろ。それは要するに本書が梅原氏のバトスを追体験させるからであろう。本書は処女論文「私の恋愛観」から『 法然の哀しみ 』にいたる梅原氏の哲学、歴史、宗教関係の著作を克明に追い、それらの著作に秘められたパトスを再現出させているのである。それらを追体験することでわれわれはまたもや狂おしい想いに苛(さいな)まれざるをえないわけであるが、これが一冊の本として対象となっているということがありがたいのである。本書によってわれわれはようやく「梅原猛という現象」を客体として捉(とら)えるのである。


(日下部吉信・立命館大教授)ミネルヴァ書房・二九四〇円)


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