この論稿は近刊(2005年5月中)『評伝 梅原猛―哀しみ のパトス』の「プロローグ」として書いたものであるが、膨大になりすぎて、没にしたものである。いよいよミネルヴァ書房より出版の段取りになってきたので、改めてホームページで近著の紹介を兼ねて発表することにした。近著の「プロローグ」の内容は全く違ったものになっている。

       

     梅原猛、その哀しみと夢
 

         哀しみの涙の海

        哀しみの涙の海を胸に秘め命の愛しさ語る人かな
 

梅原猛は海である。山や空ではない。大いなる生命の海、悲しみの涙の海である。しかし彼は陰気な沈んだ人ではない。話している時はむしろその反対だ。明るく陽気で人を楽しませる、サービス精神の溢れた人である。彼の話は広く深い知識とウィットに富んだ内容だ。その上、とても分かりやすい平明な言葉で語りかける。だから聴衆は飽きることはない。デリーシャスな時間を過ごすことができるのだ。また彼は対談が得意だ。相手の話をよく聞いていて、しっかり覚えている。だから講演でのネタはたっぷりある。
 

梅原猛第二期著作集刊行を記念して、梅原猛は『法然の哀しみ』を書き上げた。法然は殺された父母の菩提を弔うために、悪人を成仏させることができる「専修念仏」の思想を選んだのである。法然の父は押領使として血で血を洗う修羅を生きていたのである。専修念仏が両親の菩提を弔いたいとする「法然の哀しみ」から生まれたと気づいた時、梅原は法然についてまとめたいと思ったと語っている。
 

私はその話を聞いて、「法然の哀しみ」に思いをいたす「梅原猛の哀しみ」を思った。梅原猛の中に肉親に対する深い哀しみがあって、その心が法然の哀しみに動かされ、『法然の哀しみ』を書かせたに違いないのだ。
 

法然の哀しみは専修念仏という信仰を生んだ。信仰はその人の心の深い涙の海から生まれるものだ。だとすれば梅原猛の信仰、あの世とこの世を往還する「二種回向」の信仰も「梅原猛の哀しみ」から生まれた、そうに違いない。
 

梅原の父も養父母も高齢で亡くなっている。哀しいには違いないが、その哀しみは納得せざるをえないものだ。それにひきかえ生母千代が亡くなったのは、猛が一歳二ヶ月、千代が二十歳の若さである。それも結核で愛する半二や自分の命と引き換えに産んだ猛と引き離されて、孤独の中で死んでいるのである。これは納得できない、納得してはいけないことである。そのことが猛の潜在意識の中でずっと引き摺ってきた哀しみなのである。彼の全ての怒りや苛立ち、哀しみの根源はここにあるのだ。だからこの生母への思いが、彼の信仰の中身を選択させているのだ。
 

法然は両親の魂をこの修羅の世界から逃れさせ、地獄の業火から逃れさせ、阿弥陀浄土の心休まる安穏の世界に送ってあげたいと願っていた。もうこのあさましい殺し合いの世界に戻したくはなかったのである。それだから自分は二種回向でもよいが、両親のことを思うと、この世に戻ることはそれほど強調しなかった。梅原猛は、生母に喪った二十歳の若さを取り戻させて、この世の青春を謳歌させたいと願っていた。だからあの世からこの世に戻ってくる還相回向に力点があるのである。
 

ところで梅原自身は、生母への思いと二種回向の信仰が結びついていることに気づいていない。彼は二種回向説を選ぶ理由には生母のことは一切あげていないのである。だからこの仮説がもし正しければ、私は、精神分析の方法で、まことにおこがましいことだが、梅原猛を本人以上に深く知ったことになる。恐るべし精神分析である。
 

しかし精神分析だけでは説得力がない。もっと状況証拠が必要である。梅原猛は何時から二種回向論に注目したのか。それはアイヌのこの世とあの世の往還論に接してからである。アイヌの往還論であの世から戻ってくることができる信仰を素晴らしいと思って、親鸞の二種回向論に着目したのである。ではアイヌの往還論はどうして知ったのか、それは藤村久和と運命の出会いをし、イオマンテ(熊送り)などアイヌ文化に深く触れるようになってからである。}
 

そもそもアイヌ文化に興味を抱いたのは、東北蝦夷文化を探ろうとしたからである。アイヌは東北蝦夷の生き残りとも言われている。何故母なる東北蝦夷文化への関心は何故生じたのか。梅原は一九六〇年代の末ごろから『隠された十字架―法隆寺論―』『水底の歌―柿本人麻呂論―』『神々の流竄』など日本古代史の謎に挑戦していた。日本古代史の基本文献は『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』などであるが、その解読に当たり、基層を成していた縄文文化を知ることは必要であり、そのために本場の東北縄文遺跡や蝦夷文化の名残を東北に尋ねる必要はあった。しかし母なる東北へ関心を持った動機は、もっと直接的に梅原に生母への還帰を強いる体験があったからなのである。


         
『湖の伝説』と生母への還帰

             草麻生を抱きて立てるその母の髪尖りたり湖の祈り
 

それが実は『湖の伝説―三橋節子の愛と死―』(新潮社)なのである。一九七六年三月に三橋節子回顧展があり、三橋節子画集が出身校である京都芸術大学学長(当時)の梅原猛の自宅に寄贈されてきた。三橋節子は癌で利き腕の右手を切断してから、左手で画いたのである。彼女は三歳と一歳の子供を遺して死ななければならなかった。その哀しみを描いたのだ、残された時間は二年間ほどしかなかったが、多くの感動的な作品を遺す事が出来たのである。
 

梅原猛は、幼子を遺して死ななければならない母の哀しみを描いた「湖の伝説」という題名の絵を見て激しく感動しているのだが、自分の生母のことは語っていない。一言も自分の母も一歳二ヶ月だった私を遺して死ななければならなかったのだとは書いてないのだ。まるで自分はそういう不幸とは無縁なように書いてある。

 

「そう思いながらも私は躊躇していた。なぜなら彼女は不幸な人生を送った画家である。片腕を失い、死を前にした彼女の心は想像を絶する。どうしてそういう人間の芸術を私が語ることができようか。不幸な人間の生涯を不幸でない人間が書くのはそういう不幸にたいする冒瀆ではないか。不幸に死んだ人間の魂は、ただ黙祷をささげて、霊の安息を祈ればよいのではないかと私は思う。」(『湖の伝説』新潮社版二五頁)

 梅原猛は本当には生母のことを思い出して、それで感極まっている自分を曝け出すのがはずかしくて、こんなふうに自分は無縁のように書いているのだろうか。だが梅原猛という人物は裏表のない正直な人間だという専らの評判である。本当に生母のことは思い出さなかったのだろうか。どちらとも断定できない。これは本人に確かめるわけにもいかない。もし自分を隠して書いたのだったら、その人の証言も信じるわけにはいかないからだ。

 できるだけ客観的に冷静に三橋節子を見ようとして、意図的に自分の感情を抑制し、隠しているのか、それとも無意識の働きとして自我防衛機制が働いて、生母のことは思い出せないようになっていたのかもしれない。もし後者だとすると、得体の知れないものに衝き動かされるような気持で、三橋節子のことを書いていたことになる。
 

いずれにしても『湖の伝説』を書いたことによって、生母への還帰は確実に起っている。東北文化への関心はこの後始まっているし、自分の人生を振り返り、生母の悲劇を生々しく語り始めていることによって、それは確認できる。梅原猛の自叙伝にあたる『学問のすすめ』(佼正出版)は一九七八年に書かれているのだ。それ以前には生母について本格的には語っていない。私は『湖の伝説』によっていままで意識下に抑制されていた、生母への思いが溢れてきて氾濫が起ったと思う。思想的なブレイク・スルー(突破体験)である。それがアイヌの往還の思想に感動し、二種回向を選択させたのである。そこから生命の循環と共生の思想への共鳴が生まれた。
 

                  無意識としての生母

       命さえ惜しからざらし恋故に生まれし吾も恋に死なまし
 

だから『湖の伝説』の以前には、生母は無意識として潜在的に働きかけていたに過ぎない。しかしそれは決して、梅原猛にとって決定的な意味を持たなかったということではない、逆である。無意識の働きであるからこそ、それは抗いがたい衝動であったのだ。
 

周囲の大人たちは半兵衛と俊が猛の実父母ではなく、養父母だということは知っていて、口止めされていたので、猛に接する態度に不自然なところがあり、それが幼少時の猛の引きこもりの原因になった。オタク的な野球盤ゲームに閉じ篭ったのである。これが梅原が後年学問の世界に引き篭もって梅原学を形成するパワーの源泉になっている。


 中学生になって出生の秘密を打ち明けられるが、彼は養父母との関係が壊れるのを恐れて聴かなかったことにしようとした。しかし実父母の事情が分かると、猛の精神に強く作用するようになる。彼が京大新聞に応募した懸賞論文の恋愛論では、命がけの純粋な恋愛を求めているが、それは実父母の命がけの恋愛からの影響かもしれない。また自分の誕生が親族から歓迎されなかったこと、母の命を奪った結果になったことから、自分が生きていることに対する罪責感を無意識の内に抱いてしまった。これがタナトスを強める結果となる。戦争が済んでも死から離れられなくなったのである。潜在意識の中には、母の死と引き換えに自分の生があるのだから、自分が死んだら母が生き返るかもしれないという幻想があったかもしれない。しかし一方で若くして死んだ母の命を引き継いでいるという思いから、母の分まで生きようとし、人の何倍も活躍するパワーを命の源である生母からもらっているのである。 
 

彼は『隠された十字架―法隆寺論―』で、法隆寺が聖徳太子の怨霊を鎮魂し、封じ込める寺であったという驚嘆すべき説を唱え、『水底の歌―柿本人麻呂論―』では歌聖と呼ばれた柿本人麻呂も水刑で殺され、その怨霊を神として鎮魂されているという説を唱えた。いずれも梅原猛ならではの大胆仮説であるが、この梅原の怨霊に対する感受性は天才的である。これもこの世に対して思いを残して死んだ生母の霊が、梅原に対して怨霊的に働いたからかもしれない。生母千代は猛を死の世界に誘う死霊として夢に登場していたかもしれないし、交替を迫っていたかもしれない。あるいは結婚の許可を養父に求める夢を見たかもしれない。いずれも本当の怨霊というよりも、梅原の夢の世界での出来事に他ならないが、梅原の怨霊アンテナの感度を極めて感じやすいものにしたと推察される。
 

そう何もかも生母へのコンプレックスによって梅原を説明してしまうと、梅原をマザコン人間に貶めてしまい、人間のスケールを小さく印象付けてしまうのではないかという忠告を、政治学者の捧堅二や哲学者の田畑稔から指摘された。たしかに梅原猛は独立した人格であって、それに対して生母が与える影響は極めて限定的である筈である。家庭のみではなく、学校や社会、彼の生まれ育った環境や時代から影響されている。戦時下の屈辱的な体験や戦争後遺症から、天皇教に反撥して、梅原日本学が形成されたことは、私自身が「梅原猛と天皇教」(『知識人の天皇観』現代思想研究会編、三一書房刊所収)という論文で指摘したところである。
 

しかしマザコンというのは如何なる大人物であろうが免れることが出来ないコンプレックスである。その人物の偉大さは、マザコンを昇華し、自分の学問や事業や人格形成の糧に出来るかどうかにかかっているのだ。梅原猛にとって生母は、死へのタナトスであるとともに、根源的な生命力である。それは縄文の森であり、母なる大地、哀しみの涙の海である。大いなる生命の共生と循環を語るとき、母なるものの根源性にしっかりと根ざすことが大切なのだ。

                       嘘偽りの無い社会

           親と子にまさか偽りあろうとは、父が伯父にて叔父が父とは

 

梅原猛の夢について語ろう。彼は嘘が嫌いである。嘘偽りのない社会がいいと思っている。彼は臓器移植それ自体は、本人の自発的意思であれば、尊い行為であると思っている。しかしいわゆる「脳死」を死と認めるのは反対である。そこには明らかに血が通い生きている人体を、臓器移植をし易いように死んでいるといって誤魔化そうとする、嘘偽りがあるからだ。まだ生きているけれど、既に脳は不可逆状態で死に向かっており、意識は認められない、現在の医学水準では助かる見込みが無いから、臓器を提供して別の人体を死から救おう、本人もそういう場合には移植して欲しいと生前に意思表明していたからというのなら、そこには嘘偽りの無い利他の美しい精神があり、生命の尊重という観点からも何ら異議はないのである。ところが「脳死」を個体の死と呼びたい人たちは、生きているなら、臓器移植は殺人になるのでできないというのである。問題は殺人か殺人でないかではないのだ。言葉の問題ではなく、命の問題なのである。命は個体的であると共に個体を超えたものでもある。これは大いなる生命の共生と循環に深くかかわっているのだ。
 

梅原猛は『ヤマトタケル』というスーパー歌舞伎の戯曲で、大和は嘘偽りの国だとヤマトタケルに告発させている。熊襲タケルを滅ぼして凱旋した、ヤマトタケルに父大王は、ヤマトより大きな蝦夷の国を与えるから、蝦夷を滅ぼしてこいという。家来を一人与えただけで、そう命じたのである。これでは蝦夷の国を与えるのではなく、死んで来いというようなものだ。きれいな言葉で褒美を与えたようにいいながら、その実ヤマトタケルに死ねといっているのだ。


実は猛も肉親に嘘をつかれている。それも子供にしたら最大の嘘である。だから嘘が一番嫌いなのである。その嘘とは、半兵衛と俊に養父母であることを隠して、実父母であるとして育てられたことである。それは猛を愛するが故であり、猛もその事を決して批難しているわけではない。養父母の愛は、実父母以上であった。猛は心底から養父母に感謝している。しかし養父母が実父母の結婚を認めていてくれたら、猛の両親は結核にならずに済んだのではないか、生母は二十歳で乳飲み子をおいて死なずに済んだのではないか、そうした思いは心の隅にも全くなかっただろうか。養父母はその事にうしろめたい気持があり、献身的に猛を実の子以上に愛したのではなかったのか。
 

地主の家は格式が高い。養父半兵衛は「町の最後の旦那はん」と呼ばれて尊敬されていた。地主の家を継いだので自らの大学進学を断念して、身代わりに弟を大学に進ませたのである。その弟が学業をおろそかにして下宿先の娘に手を出したのが許せなかったのである。こういう家の格式や体面、あるいは倫理的な規律にこだわって、頑固に結婚を認めない風潮が地主の家では珍しいことではなかったようだ。だから地主制に対する恨みが梅原にはあり、梅原猛の戦後の反天皇教の思いの底には、町の天皇であった地主に対する反撥があったのかもしれない。『地獄の思想』で取り上げられた近代の文学者は、宮沢賢治と太宰治だけである。いずれも地主の家に生まれて自らの家に反撥しながら、経済的にはその家に依存していた境遇にあった。彼らへの共鳴には決して語られることがなかった梅原自身の家に対する割り切れない思いが込められていた、そう解釈するのは無理があるだろうか。
 

                 トーテミズムと往還思想
 

             あの世では人のこの身が熊になり、あの世の熊がこの世で人かは
 

天皇教を中心に日本文化の伝統を捉えると、自然信仰や怨霊信仰が抜け落ちてしまうし、仏教も省みられなくなってしまう。命を生み出す母なる大地や森の信仰こそ日本文化の基層にあるものである。生母への還帰によって梅原は母なる縄文の森の文化を見出した。そこに生命の共生と循環の思想を見出したのである。ヤマトタケルの霊は鳥になって夢の翼を広げ、母なる東北の蝦夷の地に舞い降りたのかもしれない。

 

 熊襲や蝦夷の国は狩猟や採集を産業の中心にしていた。森の中に住んで動植物との共生と生命循環によって生活していたのだ。森を切り開き、そこに棲んでいた動植物を根絶やしにして、一種類の穀物だけを栽培する農耕中心の生活とはまるで違う。そこでは全ての命が互いに食物の連鎖を作り支えあって棲息している。人もその一員である。トーテミズムの盛んな部族は特定の動物と自分たちの部族を同一視し、自分たちはその動物の生まれ変わりであり、その動物は自分たちの生まれ変わりだと思い込もうとする。こうして特定の動物との間にこの世とあの世で生命循環の環をつくるのである。縄文時代の生命のこの世とあの世の往還思想はこのようなものだったと想像されるが、梅原は現存するアイヌのユーカラやイオマンテの風習から、あの世を霊界として解釈している。

                 縄文時代のあの世霊界説への疑問
 
 
                さかさまの他にはこの世と変わりなきあの世といえど腹はすくのに


 霊界というと霊だけの世界のようである。例えばプラトンは魂の故里をイデア界としたが、霊だけの世界というのがあり得るだろうか。ところでアイヌのあの世とこの世の往還思想では、あの世とこの世は左右・上下なとがさかさまの反世界だが、あの世はこの世とあまり変わりがないという。あの世では先にいった先祖たちが待っていて、同じ家族と暮らせるという話だ。ところがアイヌの伝承では熊の霊はあの世では人間の姿をしていることになっている。この世にやってくるときに熊の霊は肉をミアンゲとして持参するのである。だからあの世では霊だけの暮らしだということになる。しかも霊においては平等で、みんな人間の姿をしているというのだ。
 

 霊に姿があるのだろうか。しかもみんな人間の姿をしているのなら、人と熊が区別できないように全ての動植物が相互に区別できなくなり、この世とあの世は大違いだということになる。とすればこの世に相似しているあの世という伝承が崩れてしまうことにならないだろうか。


 あの世がただの霊界ではなく、肉を持つこの世と同じ自然界と考えられていた証拠に、あの世にも食事があるとされ、この世からあの世にご馳走をイナフに載せて送ると、あの世では何倍にもなるそうである。このご馳走もそれぞれの料理の霊のようなものを食べるのであって物質的ではないと解釈するのだろうか。それは苦しい説明だ。食べることが出来る霊は物質と区別できないのではなかろうか。
 

やはりあの世もこの世と同じ自然界であって地の果てや海の果てで世界は折れ曲がっていて、天は天井のようになっている。この世の天の裏側があの世の天である。とすればあの世は上下が逆さまになっており、左右も逆になる。だから雨は、この世からみればあの世では雨が下から上に降っていることになる。しかしあの世に行ってしまえば、雨は上から降っているように見えるし、この世は天上にあることになる。アイヌにはこのような伝承があるのだ。とすればことさらあの世を霊だけの世界とみなす必然性はない。あの世から帰ってきた霊がセックスの際に母の胎内に入るとされているように、この世からあの世にたどり着いた霊もあの世の父母のセックスで母の胎内に宿ると考えればよいのである。
 


               
   あの世を含む生命の共生と循環


                      大いなる命の輪にて共に生く、その理を胸に生かまし


  梅原のあの世が霊界だという説は、アイヌの宗教のあの世観である。つまり梅原はアイヌ文化は、縄文文化をそのまま保存していると思い込み、縄文時代からあの世を霊界とする信仰があったと誤解したのである。確かにアイヌも狩猟・採取経済であるという点では縄文文化と相似している。しかし東北蝦夷の時期に浄土教文化の影響を受けているし、和人相手だけではなく、大陸とも盛んに交易している交易民族なのである。霊における平等も交易における商品の平等観念の反映かもしれない。縄文文化も交易があるが、ウエイトがかなり違うと思われる。


ともかく梅原は、あの世も含めて、動植物を含む大いなる生命の循環と共生を構想した。それを弥生文化以来の人間中心の農耕文化に対する反省の上に立って行ったのである。そしてこの問題は決して日本だけの問題ではないのである。日本はまだ稲作という豊かな水が必要な穀物栽培であったため、山林による保水が必要で、緑豊かな、苔水の滴る山野を守ることができた。しかし世界に目をやれば大規模な森林伐採で多くの古代文明は滅亡しており、近代の住宅・パルプ資源の補給のため亜寒帯や熱帯の森林伐採が続いている。まさに地球環境の危機に陥っているのである。


  森林やそこに住む動植物の生命を全く無視し、人間中心主義にたって、大虐殺を続けている人類に対して、梅原猛は、戯曲『ギルガメシュ』通して、人間の命と森の命とは同じ大いなる生命の環の中にある一つの命を構成しており、森の神フンババを殺し、森や動植物を絶滅させれば人間の命もなくなるということを警告しているのだ。

                     一神教と多神教の対話の可能性


                  一と多の溶け合いてこそ叶ひたる命の法(のり)に変わらぬものを


 梅原猛は人間中心主義の発生を単に近代的な機械文明の過ちとしてだけでなく、人間の文明の原点においている。森の神の殺害は、人間が自分の生命の源である自然への崇敬をやめ、人間だけの守護神を超越神や唯一神として崇拝する信仰を生み出す元になった。そして自分たちを守る超越神だけが唯一の神であり、山や森や湖や川や海、そして獣や家畜や穀物などを神として崇拝してはならないというのである。梅原はこういう独善的な超越神信仰、唯一神信仰が排他的・好戦的な性格を持つのは当然だと、その危険性を指摘する。また唯一神信仰は独善的だから、他の唯一神信仰とも近親憎悪的な本家争いを非妥協的に繰り広げる。しかし唯一神信仰はやがて抗争に疲れ果てる。そして一神教にかわる新しい原理を求めるようになるから、その時のためにも、多神教的な原理を用意しておかなければならないと力説している。
 

とはいえ唯一神信仰同士の戦いは人類の破滅を齎すかもしれない。その前に多神教の方から一神教との対話を進めて、独善的な一神教を変質させ多神教的な一神教を提示すべきだと私は思う。そのために苦闘したのが西田哲学である。また一神教の中に多神教的な生命の共生と循環の思想を取り込もうとして遠藤周作は『深い河』を書いた。大いなる生命を原理にするとき多神教と一神教は融合する。浄土教の阿弥陀信仰は、無量寿光つまり光の信仰であるが、光は生命のシンボリックな表現である。イエス・キリストは世の光とも呼ばれている。生命と光と愛これらは全ての生きとし生けるものに内在する永遠なるもの、神的なるものであり、その意味で多神教的なアニミズムであると同時に、大いなる生命の一神教でもあるのだ。梅原猛の生命の共生と循環の哲学も、多神教と一神教の融合という発想を取り込むことによって仕上がるのではないかと私は予想している。

                         聖徳太子信仰の復興


                              和の国の栄えの基示したる憂いの御霊嘆き聞かじや

  梅原猛は、現代における聖徳太子信仰の復興者でもある。彼は『隠された十字架―法隆寺論―』で法隆寺が聖徳太子の怨霊を鎮魂し、閉じ込めるために再建されたという衝撃的な仮説を唱えた。この世に深い恨みを残して死んでいった人の怨霊が祟るという信仰は、日本では自然神信仰とならんで重要な信仰だった。出雲大社の大国主信仰、三輪山の大神神社の大物主信仰、菅原道真が祭られた北野・大宰府の天満宮などが代表的であるが、更に早良親王や大伴家持らを祭った御霊神社などが有名である。狼や狐などを神として祭っている稲荷神社も人間によって環境を破壊され、滅んでいった獣たちの怨霊を神として祭っているという解釈も可能だ。しかし聖徳太子は神として神社に祭られたのではない。仏教寺院に閉じ込められたというのである。それは聖徳太子が日本におけ仏教の開祖のような位置におかれていたからであろう。
 

虐げられ、哀れな最期を遂げた怨霊には、この世に遺した思いが深いだけに強大なパワーがあるとされる。これを放置しておくと大きな祟りがあるが、神や仏として祭り崇敬を捧げると、自分たちの守り神になってくれるというのである。たとえ祭るのが怨霊になった人の加害者であってもだ。梅原猛は、法隆寺に巨額の寄進をしている人物が巨勢徳太であり、彼が太子の相続者であった山背大兄皇子を襲った軍勢の指揮者であったことから、法隆寺が太子の怨霊鎮魂の寺であることに気づいたのである。だから中国の権力闘争でみられるように、滅ぼした政敵の墓まで暴き、屍に鞭打つということはないのである。むしろ子孫に恨みを残さないように怨霊を神格化して和解するのだ。敵に与えた恨みを恐れ、その思いに手を合わせるというのは、虫のいいところはあるが、やはり思いやりの精神であり,和の精神である。聖徳太子こそ『憲法十七条』にみられる「和の精神」の権化として信仰されているのである。
 

倭国は「和の国」である。弥生時代以降は千々に乱れた時代と、地方の諸国をまとめ上げることが出来る良い王が出でよく治まった時代が繰り返されたと思われる。倭国をまとめ上げるには圧倒的な武力や呪術だけでは不十分である。それぞれの豪族が納得して大王に従うことができるためには、互いに情報と智恵を出し合って話し合い、だれもがベストだと思われる内容をまとめて大王の命令として発表し、みんなで責任を持って実行するのである。
 

その際、『憲法十七条』は、独善を戒める「凡夫の自覚」を説いている。衆知を集め、審議をつくして最善の決定を行うためには、自分だけが賢いとか、尊いと考え、人の意見に謙虚に耳を傾けることを忘れてはならないのだ。みんな御仏の前では凡夫に過ぎないように、互いに謙虚になり、尊重しあってこそ、いい考えがまとまるのである。「和」は「環」に通じる。「環になって話し合う」ことから和と繁栄がうまれるのである。聖徳太子が豊耳と呼ばれたのは、多くの人の訴えを同時に聞いたという超人業のことではなく、多くの人々の考えをよく聴いて、それを参考にして皆が納得する一つの案をまとめることができたという意味であろう。
 

    宗教と道徳の教育

            命をも捧げし愛に護られし君が力に限りあらむや

 梅原が聖徳太子を好きなのは、彼の怨霊が法隆寺に封じ込められていることを発見したからではない。日本で仏教を最初に深く理解した人物であるというだけでなく、儒教・仏教・道教・法家などの思想を学び、それらを『憲法十七条』に組み込んで、思想的対話と融合を実践し、しかも日本的な和の精神でまとめあげ、日本的集団主義の原理を据えたということにおいてである。日本人は世界平和を語る時、対話の精神をこの『憲法十七条』から引いてくることが出来るし、独断専行や官僚主義がはびこったら、『憲法十七条』をもって戒めとすることが出来る。戦後の日本企業の集団主義経営は『憲法十七条』の精神が活かされて、一時は世界経済を先導したこともあったのである。現在陥っている日本経済の深刻な衰退も『憲法十七条』の精神を学びなおすことによって、立ち直れるかもしれないのだ。
 

聖徳太子といえば、政治に宗教や道徳を持ち込んだ元凶として、政治は科学だとする近代政治学者からは評判がよくないかもしれない。もちろん特定の宗派による政治支配や党派によるイデオロギー支配は、排除すべきである。それらは信教の自由を脅かし、自由な発想を抑圧して社会に一元化と停滞をもたらすものであるから。とはいえ政治や経済の基礎に宗教や道徳があるのであって、近代法体系の基礎には近代自然法思想があり、普遍妥当的な価値観に基づく基本的人権の思想がある。そして近代議会制民主主義や近代資本制の基礎には自由・平等な独立的諸個人により社会が構成されているとするモナド的市民社会論があり、自由・平等・博愛を掲げる市民道徳がある。またそれに適合した宗教としてプロテスタンティズムの展開がみられたのである。
 

梅原猛は現代直面している人類的な危機の基層に道徳や宗教の欠如、つまりニヒリズムや科学万能主義の蔓延を見出す。猛の母は結核に罹って、命の危険ももろともせず、猛の命を守って産んでくれた。利他的な自己犠牲的な母の愛こそ全ての道徳の基礎であると梅原は言うのだ。動物たちはそれを自然に実践している。ところが今の人間の母の中には、子供を愛することも出来ない者がいる。母親による幼児虐待の増加に唖然とさせられる。
 

日教組は道徳教育を否定したと梅原は日教組を批難するが、厳密には日教組が否定したのは道徳教育を独立した教科で行うことである。つまり各教科の中に生活指導や道徳教育はあるべきだという立場である。しかし道徳性を失った生徒たちに教師たちは手を焼いている。彼らは授業を妨害し、学力低下は深刻である。この現状を見るとやはり独立した教科としても道徳教育は必要であったといえるかもしれない。
 

バイブルでは労働は、アダムとエバが禁断の木の実を食べた罰として捉えられており、労苦であるが、日本では労働は自然との交流であり、自己実現であり、社会貢献であり、生きがいでもあった。そのような労働観が忘れられ、生活のための自己犠牲でしかなくなっている。しかも家族のために働くという価値観も弱くなり、妻子を育てたり、両親を扶養したりすることに生きがいや喜びを感じられない若者が増加している。利他的な行為によって、どんな精神的な充実感や生きがいや喜びがもたらされるか教えられていないのである。結婚年齢の高齢化、離婚率の増加、老人の一人暮らしが増加しているのだ。これでは労働意欲が低下し、質的にも劣悪化し、日本経済の衰退を招くのも無理はない。
 

道徳的な項目を各種の聖典や寓話や説話から抜き出して、道徳教科書を編集し、それを覚えさせたからといってどれだけ道徳心に身につくものか分からない。戦前のような忠国愛国と滅私奉公の教育勅語ではだめだが、体験学習を大胆に取り入れながら組織的系統的に道徳教育を行う必要はあるだろう。
 

宗教教育は独善的、排他的なものになってはいけないが、各宗教の生死観やコスモロジーを知ることは、大切である。近代日本人は宗教的痴呆状態にあり、自らの生死観やコスモロジーを真剣に追求することがないので、それだけ人生の意味を深く考えることが出来ないし、個体の生を超えた大いなる生命や自然に対する畏敬の念、崇敬の気持も育たない。各宗教の経典や宗教書には、我々が深く学ばなければならない生死観・コスモロジー・生命論がある。またそれらに接することで、我々を生かし育み、包んでくれるもの、我々がそこから生まれそこに帰っていくものへの敬虔な感情が育まれる。
 

また森の神フンババの殺害が、地球環境の破壊につなかっているように、二十一世紀の「生命の共生と循環」を原理にするにふさわしい宗教とは何かも、宗教間の対話によって探求しなければならない。グローバル化の時代は、民族の混在と融合の時代であり、学校や職場で建設的な宗教間対話が行われ、相互理解と融合が次第に深まっていくことが求められる時代である。梅原猛は孫の通う洛南中学校で、宗教と道徳の授業を特別に担当し、それが朝日新聞社から出版されて、宗教教育、道徳教育のサンプルを提供してくれている。
 

梅原猛は生母からもらった愛と命を、この世に恨みを残して死んだ怨霊たちの鎮魂のために燃やし、諫早湾の瀕死のムツゴロウにも注ぎ、育ちゆく孫たちの未来の魂の教育にも注いでいる。そしてテロと戦争の憎悪の悪循環を断つべく、多元的なものの見かたの調和を説く和の精神を強調している。宇宙の奇跡である命の惑星、地球の未来を守るために「大いなる生命の共生と循環の哲学」の構築へと向かっている。梅原猛の夢は壮大で、はてしない。しかし二十歳の青春を犠牲にし、自らの命を猛に捧げた母の愛に見守られているのだから、彼にはまたまだ無限大の力があるのだと私は信じたい。

 

 

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