本稿は『知識人の宗教観』(三一書房)に所収されているエッセイです。

               循環の思想は人類を救う?

                      ―梅原猛の宗教観―

                               

                    1「天寿国繍帳」のあの世       

 梅原が日本を代表する最大の思想家として認めているのは、なんといっても聖徳太子である。聖徳太子という名は、後世になって付けられた諡(おくりな)である。厩戸皇子が生前の名である。なにしろ彼は、『十七條憲法』を制定した点で光輝を放っている。そこでは日本精神の根本である「和の精神」が宣言されているのだ。これは日本的集団主義の原点ともいうべき「和の精神」で有名である。

『十七條憲法』は第一条で「和を以て貴しとなせ」と宣言した。これは梅原によれば、勢力争いの絶えない豪族連合国家にまとまりを与え、弥生人と縄文人との調和を図ろうとしたものなのである。元々、自然や共同体との融合によって農耕共同体は維持できたのである。

もし共同体内で争いがひどいと、それぞれが自然を勝手に開発し、自然の調和を乱してしまう。だから共同体における和は氏族の繁栄にとってとても大切だったのだ。これを氏族を越えて、国家的なまとまりの為の「和」の精神に発達せることが、厩戸皇子の時代の要請だったのである。特に蘇我氏の支配力の強化に反発した諸氏族をどう取り込むかが馬子・推古・厩戸皇子のトロイカ(三頭立て)支配にとっては、大きな課題だったといえるる。

 事を荒立てない「和の精神」が「あいまいな日本」を生み、非個性的な日本人を生んだという悪評もある。しかし戦後日本の経済的繁栄には、日本的集団主義や「和の精神」が大いに貢献したとも言われている。もっとも現在はそれだけではやっていけない。しかしともかく「和の精神」それ自体がいけないのではなく、「和の精神」の美名の下に議論を封じ込めたり、矛盾を取り繕って改革を先延ばしにしたり、個性を圧殺したりすることがいけないわけである。

自然や共同体との調和や融合を目の敵にする、近代派のシャープな自我の主張も傾聴に値する。しかしそれは調和や融合の恩恵を被っているからこそ言えることで、自然や共同体との調和や融合が破綻してしまえば、元も子もなくなってしまうのだ。

 『十七條憲法』が、衆知を集め、議論をつくして、大王の権威の下に集権的な国づくりを推進しようとしていたものであったことは確かだ。もちろん飛鳥時代は豪族たちの勢力均衡の下で成り立っていたわけだから、役人に登用され、議論に加われる人材はごくわずかの特権者だった。また「詔を承りては必ず慎め」という専制体制が前提にあったのである。梅原はこれを民主主義的だと評価しているが、それは言い過ぎだ。

それでも「凡夫の自覚」を説き、独善を戒めて相手の意見を謙虚に聞くように勧めたり、裁判で地位や財力次第で判決が有利になったり、不利になってはならないとする良心的な態度には好感が持てる。それに仏教に深く帰依しながらも、儒教や老荘思想、法家思想にも造詣があり、それらのよいところを総合しようとする雅量があった。

梅原によれば、『十七條憲法』は仏教・儒教・法家思想を三本柱にして建てられた思想の五重塔である。四六駢儷体で書かれた文章は、一つの思想に偏らず、様々な古典教養を前提にして各家の思想を総合的して書くことが求められていたといわれる。その意味で僧等雅量をもった人物であったと感じられる。

 梅原によれば『十七條憲法』は後世の偽作ではない。なぜなら偽作は所詮偽作であって、本物以上ではないのだ。ところが『日本書紀』に収録されているものは、思想の五重塔になっている見事な文章である。だからこれが偽物である筈がないという論理である。梅原の実感主義の面目躍如と言いたいところだが、偽者のほうが本物より素晴らしいことはありえないという断定は、やはり決め付けでしかない。

 ちなみに『旧約聖書』は実に見事なイスラエルの大叙事詩である。あまりの迫力に圧倒されて、史実と思い違いをしている人が多いが、聖書考古学の最新成果によれば、かなりの部分が後世の創作であり、史実とのずれが大きいとされている。

さて厩戸皇子は熱心な仏教者であり、『三経(勝曼経・維摩経・法華経)義疏』を作成し、その講義を行ったとされている。もっとも現存の『三経義疏』が太子の遺作であるかは疑わしいところだ。ちなみに、当時は中国でも皇帝が菩薩になって、人民を救う為に政治を行うという姿勢を示して、国家統一を図っていた。それで厩戸皇子を菩薩太子として、深く仏教に帰依させ、三経の講義をさせることは大いに意義のあることだったのである。

 厩戸皇子は一緒に暮らしていた膳部妃の亡くなった翌日に死んでいる。二人が病床にあったとき病気快癒のために家族や諸臣が釈迦像を造ったと伝承されている。その時の願文には次の言葉があったのである。

「仰ぎて三宝に依り、まさに釈の像の尺寸、王の身にひとしきを造りまつらむ。此の願ひの力を蒙りて、病を転り寿を延べ、世間に安住したまはなむ。若し是、定業の以に世に背きたまはば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇りたまはなむ」

 病気治癒を仏に祈りながら、同時に、もしこれで死ぬと決まっているのなら、浄土に登らせてあげてくださいという、ちょっと解せない文面だ。それで梅原は『隠された十字架』では後世の偽作説を採っていた。ところが『聖徳太子』では家族の心の揺れと考えて、偽作説を引っ込めたのである。

ここで注意を要するのが「浄土に登る」という表現だ。仏教の浄土観では、輪廻の川を渡った向こう岸つまり彼岸が浄土である。だから「浄土に登る」という表現はありえない。この浄土観には、日本の土着信仰が現れているのである。

「人間はほんのしばらく(葦原の)中つ国に滞在し、やがて高天原に帰るか黄泉国へ行くのである。人間が死ぬと天の国に行く、そこには先祖たちが多くの神々たちと共に住んでいる。その先祖たちの住む天の国に行くことが古代日本人の願いであった。そして天国に行けば、もう一度われわれは地上に別の身体を通じて蘇ってくることができると信じていた。」(『聖徳太子』第八章 太子の最期)

 太子は膳部妃と同居し、推古天皇の孫で膳部妃より高貴な家柄の橘大郎女とは同居していなかったのである。そして太子の分身ともいうべき釈迦像の両隣には母の間人皇后と膳部妃の像にあたる脇侍が造られたのである。自分の方が高貴と思っている橘大郎女にすれば、自分は無視されたという気持ちになったと思われる。そこで彼女は「天寿国繍帳」を造って太子を偲んだのだ。この「天寿国繍帳」には次のような橘大郎女の言葉が縫い込められていたのである。

「啓すこと恐れあれども、懐ふ心止めかねつ。我が大王、母王と期りたまひつるが如く従遊でましぬ。痛酷ましきこと比なし。我が大王、所告りたまはく、『世間は虚仮し、唯、仏のみ是れ真なり』と。其の法を玩味るに、謂へらく、我が大王、天寿国の中に生まれましつらぬ。而れども彼国の形、眼に看がたし。希はくは図像によりて大王の往生まれましつる状を観たてまつらむと欲す。」(読みは梅原著『聖徳太子』による)

 この『天寿国繍帳』は「世間虚仮、唯仏是真(世の中は仮の宿であり、ただ仏の教えのみが滅びることのない真実である)」という言葉で有名だ。太子が深く仏教的無常観を抱いていたことがよく伝わるからである。この「仏」の意味を橘大郎女は、「仏の教え」という意味ではなく、「仏の住む浄土」と解釈し、この世(穢土)の生活ははかない仮の宿だけれど、浄土での生活は永遠に続くと捉えたのである。しかもそれを「天寿国」という言葉で解釈している。梅原の解釈では、やはり天にあるのだ。その上、梅原の解釈では、欽明帝の血を受けた皇族のみがゆく天寿国だというのである。身分の高い人でないと行けないので、この世で太子を独り占めにした膳部妃は、死後の世界では太子と一緒に暮らせない。身分の高い橘大郎女が死後の世界では太子を独り占めにできるという構図である。

 はたしてこの梅原の天寿国解釈があたっているかは、問題がある。最新のNHKの『聖徳太子特集』によれば、当時天寿国という言葉は高句麗でも使用され。それは阿弥陀浄土を意味していたらしいからである。ただし「天」という言葉があるので、高貴な者だけがいける天上の浄土という解釈を当時の皇族たちが勝手にしていたとすれば、梅原解釈も成り立つことになる。

 こうして梅原は、仏教の思想を研究して聖徳太子の謎に迫っていく過程で、仏教伝来以前の日本独自の浄土信仰を発見したのだ。そして仏教の受容が、それまでの日本人の死生観を根底から覆したのではなく、土着の「天つ国」を浄土と読み替えることによって、仏教の日本化を図ったということなのだ。

 

                         2親鸞の二種廻向

 

 梅原の『地獄の思想』や『仏教の思想』では出てこないのだが、仏教の日本化を探究するなかで、梅原が注目したのが浄土真宗の「二種廻向」の思想である。一九九〇年刊の『誤解された歎異抄』(光文社刊)では、『歎異抄』は入門書としてはいいけれど、「悪人正機説」を中心に親鸞の思想を捉えるは間違いだとしている。浄土真宗の真髄は二種廻向だというのである。

この二種回向の思想も親鸞の独自のものではなく、梅原によれば善導や法然にも有る。『親鸞和讃集』によれば曇鸞に既にある。「高僧和讃」の「曇鸞和尚」の章にこう出ている。

「彌陀の廻向成就して 往相還相ふたつなり これらの廻向によりてこそ 心行ともにえしむなれ(彌陀の廻向は、この穢土から浄土に魂を送って下さる往相廻向と、再び浄土から穢土へと送り返される還相廻向の二種類の廻向がある。)

 

往相の廻向ととくことは 彌陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり(往相の廻向というのは、彌陀が衆生を救われる大悲方便の時節が到来して、第十八願の信と行とを得させると、生死の迷いが、そのまま涅槃のさとりへと転じるのである。)  

還相の廻向ととくことは 利他教化の果をえしめ すなわち諸有に廻入して 普賢の徳を修するなり(還相の廻向とは、往生成仏の涅槃の結果として、他の衆生を教化し利益する力を得させ、往生者は生死の迷界にたちかえって、大慈悲の行を修するのである。)」 

 仏陀は元々修行によって悟りを開き、この苦の世界から逃れて、浄土の境地を得ているわけであるが、浄土に入ったら、もう現世の苦の世界で、もがき苦しんでいる衆生をほうっておくというわけにはいかない。そこで再び此の穢土に戻って、法を説いて、衆生の魂を浄土に送ってくださるということである。

ところが末法の世になると、だれも自力としての修行は貫けなくなる。そこで彌陀の本願に頼って、浄土に魂を救いとっていただくのである。これが「往相の廻向」である。しかしこれは絶対他力であるから、浄土に救いとっていただいた魂が悟りを開いたわけではなく、本当にこれで仏になったとは言えない。

それに現世ではまだ衆生が、罪業の深さに苦しんでいるのだから、これを見捨てておいて、自分だけ仏顔はしていられない。そこで浄土にいった魂は、衆生済度の願を阿彌陀仏と共有する。そうすれば再びこの穢土に戻って、衆生の魂を救済することになる。これが「還相の廻向」である。

 ところでこの二種の廻向の思想を、梅原は、浄土に往生した人が再び生まれ変わって穢土に誕生することだと解釈している。この解釈は問題を孕んでいる。もし「還相の廻向」で現世に誕生できるとしたら、その時はまた赤ちゃんからやり直しである。そうすると時は末法なのだから、阿彌陀浄土での修行の成果も忘れ、また絶対他力で阿彌陀仏にすくい取ってももらう必要がある。それではせっかく「往相の廻向」で浄土に掬い取られ、底で修行した意義はどうなるのだろう。

 それに「還相の廻向」をした菩薩が、浄土で充分修行を積んで、現世に戻っても最初から次生で必ず成仏できるほどの菩薩になっていたとしたら、どうだろう。阿弥陀浄土はもうかなり前からあった筈だから、親鸞の時代にはもう既に沢山のそういう阿弥陀浄土から戻された菩薩が存在することになってしまう。阿彌陀仏は善人も悪人も往生させる。だからそれまでに無数の人々が阿彌陀浄土に往生し、「還相の廻向」で現世に戻された筈だ。そうだとすると、悪人正機説にみられるような性悪説は不要になってしまう。梅原も親鸞の悪人正機説の重要性を否定しているわけではないから、一貫しない。

 「高僧和讃」にも「普賢の徳を修する」とあるのだが、『教行信証』「信の巻」「証の巻」を読むと、「還相の廻向」はあくまで浄土で得た力を現世に現すのが趣旨だと分かる。「還相の廻向と言ふは、利他教化地の益なり」とあるが、「利他教化地の益なり」の意味は「自分が滅度のさとりを開いて、自利成就した上に起こすところの他の衆生を教化する地位にある菩薩のはたらきのこと」である。そしてその教化の仕方は「大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の薗、煩悩の林に廻入して、神通に遊戯して」行うのである。

これは正しく仏や菩薩のはたらきかけのことだ。「応化の身」とは註によると、「仏・菩薩が衆生を救うために、相手の根機や性情に現ずるさまざまな姿」なのである。仏・菩薩だからこそ「神通に遊戯して」さまざまな霊験を現すことができるわけなのだ。これなどは菩薩が人として現れて霊験を示すというよりも、菩薩が神通力で霊験として現世に現れると解釈した方がすっきりする。野に咲く花に、赤子の笑みに、昇りゆく朝日に、恵みの雨に、そして人の親切に仏・菩薩の慈悲を感じて信心に誘われることもあるのかもしれないのだ。

 また「還相とは、かの土に生じ已りて奢摩他(寂静)・毘婆舎那(観察)・方便力成就することを得て、生死の稠林に廻入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かへしむるなり」という表現だと、浄土で得た法力を使って、菩薩が一切衆生に法を説き教化されるようにも受け止められるが、末世の僧侶はそのような力を自力では持っていないから、菩薩は絶対他力の法を説く僧侶それ自体として生まれ変わるのではなくて、僧侶に正しい教えを説かせる力を与えていると解釈した方が自然とも思われるのだ。

 しかし『親鸞和讃集』では恵心僧都源信も法然聖人源空も、かつて釈迦の説法を聞いたとされている。法然の本地は道綽や善導だと言われたとされているのだ。そして法然聖人は勢至菩薩を示し現し,阿弥陀如来の姿を現されたと讃えている。聖徳太子などはインドでは勝鬘夫人であり、中国では恵思禅師や南岳大師であったとされている。そして百済の聖明王も聖徳太子の前身だったというのである。

こうした生まれ変わりの発想は、久遠の本仏が何回で生まれ変わり、一切衆生を救うまでこの世に現れるという『法華経』の発想です。だとすれば、高僧はむしろ仏の境涯に近くなり、自らの凡夫に自覚に徹した親鸞の絶対他力と矛盾してしまう。そして二種廻向で凡夫も浄土で菩薩になった者の生まれ変わりなら、凡夫を悪人とするのは説得力に欠けます。そうしますと『親鸞和讃集』では親鸞自身に『法華経』信仰と阿弥陀信仰の矛盾が現れて、論理的に破綻を見せていると言えそうである。

 梅原は、浄土に魂を送ってくださる「往相廻向」と、浄土から穢土に戻してくださる「還相廻向」の「二種廻向」を蓮如も正しく解釈していると『御文』を紹介しているが、これも穢土に再誕生するように解釈するのは無理があります。蓮如の『御文』でも、「穢国にたちかへりて」から「変通自在をもて、・・六親眷族を心にまかせてたすくべき」だとしている。これは穢国に生まれ変わり、赤ちゃんからやり直すという発想ではやはりないようである。

末法思想の発想では、罪業の強い末法の凡夫はもう自力では信心に目覚めることすらないのだ。浄土から還相される仏・菩薩(亡くなった六親眷族を含む)の働きかけで信心に導かれるというのが「還相廻向」なのである。この点は、信仰を信仰主体の決断ではなく、神の恩寵だと捉えるキリスト教の考えと共通していると言えよう。

 梅原はこう書いている。「日本の基層の考え方だと、子孫になって帰ってくる。つまり血の原理によって帰ってくる。ところが、浄土真宗の場合は、法の原理によって、念仏信者としてこの世に帰ってくるわけです。だから、これはたいへんいい考え方ですね。念仏を唱えれば、楽しい極楽浄土へ必ずいける。そしてまたこの世に帰ってこれる。帰ってきたらまた念仏を唱えて、また極楽浄土へいく。この世とあの世の無限往復、これが二種廻向の考え方ですが、このことを蓮如はまことによく理解している。」(『共生と循環の哲学』)

 梅原は、「二種廻向」が日本の基層の死んだらあの世に行き、しばらくあの世にいたら、また子孫になってこの世に生まれ変わるという信仰に近いと解釈したわけなのだ。もっとも親鸞の「二種廻向」は個人的なもので、家族になって生まれ変わるということはない。でも梅原の解釈は、日本の基層の思想に親鸞の思想を我田引水する解釈なのである。

 ちなみに現在の東本願寺では「二種廻向」についてどんな解釈をしているのだろうか、若き教学担当の僧侶の話では、浄土を死後の世界として実体的に捉えること自体、親鸞の本意ではないということである。浄土を心の拠り所にすることを「往相廻向」とすると、浄土を心の拠り所にして生きる姿が人々に浄土への思いを起こさせることが、「還相廻向」だということである。

 では梅原は本気であの世にいって、又、この世に戻ってくることを信仰しているのだろうか。実は、梅原は戦後長くニヒリズムに陥り、宗教なんかみんな嘘っぱちだと思っていた。もちろん死後の世界としての極楽浄土なんかまるで信じていなかったのある。しかしさすがに還暦以後、二度の癌の手術を行って、死を身近に感じるようになり、親鸞の二種回向の思想に惹かれたのである。(本書、序章「梅原猛大いに語る」参照)

彼が「二種廻向」の根拠にしている科学的事実は、遺伝子の不死なのだ。個体は死んで生き返らないけれど、その魂ともいうべき遺伝子は生き残って、子や孫として再生するので、死んだ人が蘇って来るというのも、あながちでたらめじゃないということであろう。子の場合は親はまだ死んでないので生まれ変わりという実感はないが、孫や曾孫などになるとだんだん実感が出てくるわけである。自分は死んでも自分の遺伝子はこうやって生き残り、生まれ変わってくるんだなあって感じたのだ。どうも梅原は孫が自分にどんくさいところまで似ていて、それでひとしおそのことを実感したようある。

 でも遺伝子の不死に基づく「二種廻向」は、浄土に行くわけではないから、還ってくる際にも、浄土での修行の成果を示すことはできない。個体は死んでも種は死なないとか、個体の気質や性向が別の個体に再生するとかの事実と、「二種廻向」との間には相当の距離があるように思われる。

 

       3イオマンテとミアンゲ

 

 「二種廻向」の浄土と聖徳太子の死をめぐってでてきた「天の国」や「天寿国」の間には、親近性が感じられ.。梅原は、仏教伝来以前の「天つ国」と「黄泉国」という「あの世」観を基にして、仏教の浄土思想が受容されたとみているのだ。ところが日本古来の「あの世」観念だと、あの世に行った魂はしばらくあの世で生活してから、再び「この世」に戻ってくるのである。仏教では、輪廻の輪を越えて、再び生まれ変わることのない涅槃(ニルバーナ)に行くともう帰ってこないから、浄土からの「還相廻向」というのは、本来の釈迦仏教からは外れている。でも浄土真宗では、浄土に迎え入れられてから、衆生を救おうとする菩薩になるという信仰であるから、衆生を救うための「還相廻向」という考え方が成立するのだ。これを梅原は、この世に生まれ変わることだと解釈して土着信仰と融合していたというわけだ。

 ところで梅原が、この世とあの世の往還運動を日本古来の生死観だとした根拠はなんだろう。それは、『日本人の「あの世」観』(中央公論社刊、一九八九年)によると、アイヌと沖縄の説話にある。本来なら、日本の昔話などにたくさんそういう生まれ変わり的な話が出ていそうだが、とにかく梅原が注目したのはアイヌと沖縄なのである。

しかしアイヌが日本人かどうかという問題がある。金田一京助は、日本語は、格や人称を助詞によって表す膠着語であり、アイヌ語は人称接頭語をとる抱合語であるから、全く別の民族だとしたのである。もちろんアイヌ語には日本語と共通する言葉がたくさんあるのだが、それは和人との接触によってアイヌ語に移入したものと解釈したのである。これに対して梅原は、日本語にも人称接頭語をとる抱合語的な用法があるとし、体の部位を表現するような基本語までも共通語が多いのは、やはり異民族語とは言えないのではないかとしている。この梅原の指摘は重要である。

 梅原は、縄文時代人と弥生時代人とは身体的特徴がかなり異なるので、縄文人は古モンゴロイドに属し、弥生人は新モンゴロイドに属するのではないかという説を採用している。それでいくと東北や南九州・沖縄は古モンゴロイドが多いのだ。他方、近畿を中心に新モンゴロイドが多いようである。縄文時代の文化が残存しているのは古モンゴロイドの居住している辺境の地域ではないかということになり、アイヌや沖縄こそ縄文文化を継承している可能性が高いと捉えているのである。

 アイヌと沖縄の共通のあの世観を、梅原は『日本人の「あの世」観』で次の四つの命題に集約している。

@あの世は、この世と上下・左右・昼と夜などが全くあべこべの世界である。しかしそれは鏡に映った姿のようで、この世とあまり変わりはない。あの世には、天国と地獄、あるいは極楽と地獄の区別もなく、従って死後の審判もないのだ。アイヌではあの世は、山の上、天の彼方にあるが、沖縄ではニライ・カナイ(海の果て)にある。

A人が死ぬと、魂は肉体を離れて、あの世に行って神になる。あの世では自分の家族の先祖たちの霊がまっていて、一緒に暮らすのだ。極悪人やこの世に恨みを残した人は、あの世に行けないが、遺族が霊能者を呼んで供養すれば、あの世に行けるようである。

B人間だけでなく、すべての生き物には魂がある。死ねばその魂は肉体を離れてあの世に行けるのだ。特に、人間にとって大切な生き物は、丁重にあの世に送らなければならないとされている。

Cあの世でしばらく滞在した魂は、やがてこの世へ帰ってくる。誕生とは、あの世の魂の再生に過ぎないのである。このようにして、人間はおろか、すべての生きとし生けるものは、永遠の生死を繰り返すということなのである。

 梅原によれば、アイヌのイオマンテ(熊送りの祭り)は、縄文人のあの世観を伝えている好例である。熊は人間に熊の肉という「ミアンゲ」をもってこの世に現れたマラプト(客人)なのだ。「ミアンゲ」は「身をあげる」という意味で、人間は仔熊を捕まえて大切に育て、ちょうど美味しくなったら、その肉をいただくのである。アイヌの日常の食事は木の実、山菜、魚だから、お祭りの日にいただく熊の肉は最上の御馳走だったのである。熊の肉を食べ、血をすすって熊と人の一体を誓う。そして酒・魚・穀類等の土産を供えて熊送りの儀式を、夕暮れに行うのだ。この世の夕暮れはあの世の朝にあたるのだから。

 あの世では熊も人間の姿をして、家族生活を営んでいるといわれている。そこでイオマンテであの世に戻ってきた熊が、人間に歓待され、大切に育てられて、土産もどっさり貰ってきたと報告すると、熊の家族はそれはよかった、それなら来年は私がミアンゲをもって、つまり熊の姿になっていこうかということになる。おかげで、毎年熊がどっさり取れるということになるのだそうだ。

この梅原の報告には、ちょっとひっかかるところがある。あの世では食生活はないのだろうか。あまりこの世と変わらないのなら、熊や他の動物たちが人間の姿をしていたのでは、あの世での人間の食生活は困ってしまう。もし熊と人が一体で、しかもあべこべの原理でいくなら、この世での熊はあの世で人間、この世での人間はあの世で熊となるなら良く分かる。あの世で熊が人に食べられて、この世に送られ人間になる方が一貫するのだ。   

これは、梅原に文句を言ってもしかたがないが、あの世からこの世に送られる方法がはっきりしない。やはりあの世でも死んで、送られてこの世やってくるとすべきではなかろうか。そうでないと循環がうまくいかない。人間は自分が熊になってあの世で人間に食べられると考えるのは、人肉共食を連想するので嫌なのだろうか。

何を言ってるんだ、死は肉と霊の分離だから、あの世では霊だけが暮らしているんだというように思われる方も多いだろう。それならあの世では食生活は必要ないことになる。しかしそれもおかしな話で、肉体がないのにどうしてあべこべでこの世とあまり変わらない生活が成り立つのだろう。着物を左右反対に着るというが、霊だけなのにどうして着物を着る必要があるのか。この世で不完全だとあの世で完全とか言って、葬式で茶碗を割るが、あの世ではやはり茶碗にご飯を入れて食べるのではないのか。

『日本人の魂―あの世を観る』(光文社,一九九二年刊)で梅原はあの世の食事についてこう述べている。「『古事記』に黄泉戸喫(よもつへぐい)という言葉がでてくるが、黄泉の国のものを食べるという意味であり、あの世のものを食べたら、もうこの世には帰れないという。ご先祖様としっかり手を握り、あの世のものを食べた人間は、あの世の住人として過ごさなければならない。あの世の人になりたくなかったら、ご先祖様の手を握ってはいけないし、ご先祖様の出されるあの世の食物を食べてはいけないのである。」(梅原猛著作集13『現代に生きる』三七〇頁)

死は肉と霊の分離かもしれないが、その霊があの世で暮らすためには、やはり肉をまとい身体として存在しなければならない。そうしてはじめて口があってものが言えるし、耳があって声が聞こえるのである。つまりあの世では死んでいるのではなくて、生きているのである。つまり彼岸で生まれるのである。それは再び受肉するということである。

キリスト教でも死後の生に関して、復活に際して肉体も復活するのか、それとも天国では霊だけで生きるのかで論争がある。カトリックは霊だけの存在は考えられないとし、肉体の復活を唱えている。イエスの復活が肉体を伴ったことが、その有力な論拠になっているのだ。

一貫した教義を作らなかった神道では、死後の生について首尾一貫した説明がないのはむしろ当然である。ましてイオマンテで、送られた熊があの世で人間として生活しているとすれば、その人間がこの世で人間だったあの世の熊を食べるなどというアベコベ物語をきちんと残さなかったのは無理もない。しかしあの世の食生活の存在を認めれば、人間はあの世の人間を熊として食べているという隠されたカニバリズムに到達せざるを得ないのだ。そして人間はあの世で熊に成っていることになる。これは隠されたトーテミズムなのだ。

 

        4山川草木悉皆成仏

 

 梅原によれば、縄文時代には人間や熊ばかりか、すべての生きとし生けるものが魂をもっていると信仰されていたわけである。動物だけでなく、植物や、家や家具なども霊が宿っているのだ。それであの世での生活に必要なものは、この世から送ってあげる。その際、壊したり、燃したりするのである。そうするとあべこべの原理であの世では完全な形になって送られてくるということになる。現在でも葬儀の際に、お茶碗を壊す。アイヌでは家を壊したりもするようである。

 縄文文化の遺跡は集落趾と貝塚からなるが、貝塚というのは縄文人のごみ捨て場だという解釈は間違っているそうだ。貝やその他の動物の墓場であったという解釈が正しい、と梅原は考えている。そこではまた再生するようにあの世に送ってあげていたのである。そしてその儀式は、食糧を確保するには不可欠な営みと考えられていたということだ。つまり縄文人はこのような生命循環の儀式を通して、自然との共生を図ろうとし、あの世に送る量を調節して、自然とのバランスを保ってきたということである。

 縄文人は、人間だけが霊的存在だとか、他の動植物や自然物は単なる人間の為の手段だとかのような人間中心主義者ではないと、梅原は言う。生きとし生けるものはすべて霊的な存在なのだから、大切に世話し、有り難く命をいただいて、一体化し、丁重に送ってあげるべき存在であったのである。これは人間と自然、人間と動植物、人間と環境を機械的に切り離した上で、対象として客観的に捉えて、法則的に認識し、支配コントロールしていこうという文明人の立場と根本的に異なっている。この文明人の立場が、いかに自然を破壊し、人間の存在を含め、地球生命を破滅へと追いやりつつあるかを、梅原は真剣に警告しているのである。

 このあらゆるものが霊魂具有的存在だというアニミズムの立場は、仏教の受容に当たっても強くその教義に影響を与えたのである。元々仏教は、バラモン教などのすべての事物に自性(抽象的な実体性)があるというアニミズム的発想を批判することによって成立したと言われている。無我の真理を知り、自性を否定して、縁起の法を悟り、生きとし生けるものへの無量の慈しみの心を起こすことで、法と一体化し、あるがままに生死を受容して生きることをすすめたものである。ところが梅原のように一切衆生に霊魂の具有を認め、その実体性に固執するのは、明らかに仏法の根本的な否定ではないかという批判が仏教原理主義者によって唱えられているのである。

 「四法印」では、「一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」と言われます。これはすべての仏教の前提です。次のような意味です。「すべては苦である。それは一切の事象や事物は行くものであって、滅びないものは何もないのだ。それを滅びないものだと思って、物や個人の自我に固執するから苦になるのである。すべての物や事象は縁起の法の現れであって、それ自体には自性はないのだ。この無我の真理を悟ったならば、煩悩の炎が消え去り、心静かな境地に達する事ができる。」ここで言われていることは、諸々の事象や諸物は自体存在ではなく、関係存在であり、縁起の法の現れだということである。だからこれらを自体存在として捉えて、囚われてはならないけれども、同時に法の現れとして、肯定的にも受け止めるべきだということになるのである。

 四法印を囚われない批判的自我の確立と考えてはいけない。それでは自然や諸物に対立して自我を実体化させることになってしまう。囚われない精神は諸事象や諸物の精神でもある。法は木や風や人や鳥や虫の生死を生きて、その縁起を示しているのだ。それら個々の事象や事物を離れて法はないのだから、一切衆生が法の現れだということは否定できない。それが『涅槃経』でいう「一切衆生悉有仏性」の意味である。「仏性」を何か滅びない実体の如く考えて、そう言うのではない。だって衆生には自性がないからこそ、仏性だといえるのであるから。仏は法と一体化した意識です。この意識は対象的な意識ではなく、対象と一体である「対象としての意識」なのだ、だからこそ一切衆生こそ無我の真理の現れであり、仏そのものの姿であるわけである。

 天台本覚思想でいう「山川草木悉皆成仏」も、山川草木が無常の法の現れであるという意味である。そうだからこそ山川草木の成仏が語れるのである。決して一つずつの事物に不変の実体があるという意味ではないのだ。逆に縁起の法、無常の法、無我の真理の現れとして、滅び去る物だからこそ、あるいは滅び去ってこそ、山川草木が成仏するのだととらえるべきである。あるいは無常の存在であるからこそ、そこに存在することの喜びに輝くのである。そして葬送によって滅び去ったことを確認することで、葬送されるものが法の現れとして仏性をもっていたことが確認されるわけである。そして個々の事象や個物は縁起の法に基づき、様々な事象や個物を誕生させる機縁となるのだ。こうして滅んだものと、その縁で生じたものに同一性が見いだされれば、個としては滅んでも類としては滅んでいないことになり、これが復活や再生として捉えられるである。

 このような個物と法の一体性の自覚こそが『華厳経』の「一即全」「全即一」の立場なのだ。これは法と一体化した仏が、法の現れとして一切衆生でもあるという法身仏の立場であるが、この法身仏の立場で人間に法を説かれたのが、真言宗で信仰されている大日如来だということである。大日如来からすれば、諸仏・諸神・森羅万象みんな大日如来の現れでないものはないのである。煩悩としての自らの存在が、法それ自体としての仏の姿だとしたら、煩悩即菩提だということになり、生命の欲望の大いなる肯定の思想が生まれるのである。

 梅原は、天台本覚思想によって仏教とアニミズムが融合していることを認めている。実際、本地垂迹説に基づいて仏教は神道を取り込んでいった。そうすると仏教の原点である諸事象や諸物に自性を認めないという縁起の思想と矛盾する。八百万の神々という多元論的な世界観に陥ってしまうのである。もちろん一元論的な世界観にも問題があるだろうが、それぞれが神々として不滅の実体として捉えられたのでは、無常や無我の真理は無意味になってしまうのである。また神々の勢力争いやヒエラルヒーを認めることになってしまい、無秩序な闘争の原理や強者の原理あるいは天皇制支配の原理を合理化することにもなりかねないのだ。

日本仏教が神道を取り込みながら、自己のアイデンティティを守るためにアニミズムや神道に対してどれだけ批判的距離を保つことができたのかが、反省されなければならないだろう。その辺りの詰めの甘さが梅原にもあるのかもしれない。そこを仏教原理主義者に攻撃されているわけである。

 もちろん人間中心主義に対する反省もあって、アニミズムやフェティシズムが再評価され、神道を縄文時代から森や森の動物に対する自然信仰や、独特のあの世観から見直す視点は重要である。それらから学んで、生命循環の思想や、自然との共生の道を探るべきであることは言うまでもない。しかし自然の諸事物を尊重し、「生命への畏敬」を取り戻す事と、それらを不滅の実体として捉えてしまうことはきっちり区別すべきである。アニミズムやフェティシズムから学ぶべき自然への態度を強調するあまり、アニミズムやフェティシズムへの批判の視点を忘れてはならないのである。そうでないと仏教原理主義者に、だから日本仏教は仏教にあらずと断定されることになるのだ。

 

               5森の思想は人類を救う

 梅原は『森の思想が人類を救う』(小学館、一九九一年刊)で、二十一世紀における人類の危機を三つ上げている。@核戦争の危機 A環境破壊の危機 B精神崩壊の危機である。       

東西冷戦が終結したので、米ソ(ロ)二大超大国間での核戦争の危険は少なくなったものの、どんな事情で核兵器や毒ガス兵器など最終兵器を使用する戦争が勃発するかもしれないのだ。実際、オウム真理教のようなカルト教団が、ハルマゲドン(最終戦争)を引き起こそうとしたくらいだから。

二〇〇一年九月十一日の「同時多発テロ」は、アルカイダという国際的なテロ組織が世界資本主義の中枢であるニューヨークの世界貿易センタービルと覇権国アメリカ合衆国の軍事的中枢ペンタゴンをアメリカの旅客機を使って自爆テロで破壊することができることを示したのである。もし彼らが生物化学兵器や小型核兵器を入手していたら、事態はもっと恐ろしい結末をむかえていたであろう。

環境破壊の危機も深刻である。本格的な工業化が遂に発展途上国にまで及び、特に中国・インド等の大国の工業化が急テンポで進展しているから、カタストロフィ(大崩壊)に向かってひた走っている感がある。

 梅原は、森を破壊して農地や牧場を造り、城砦や都市を建設する農耕牧畜文明の登場によって、この滅びへの過程は開始されたとしている。狩猟・採集の文化は、森やそこに住む動植物の生命の連環が保たれてこそ可能なのだ。ところが農耕牧畜文明は森を破壊し尽くすまで発展を止めません。シュメールの都市国家ウルクの王ギルガメシュは森の神フンババを殺した。メソポタミヤもインダスもギリシアも森を破壊しつくし、その発展のピークに達して、自然のバランスが崩壊し、何も実らなくなって崩壊したのである。十八世紀から現在に至る広義の産業革命の時代は、地球規模で森・湖・河川・海を破壊し尽くそうとしている。梅原は、日本に豊かな森が残っており、縄文の森の思想が基層文化に残っていることを誇らしげに語るが、それは日本の森を伐るかわりに東南アジアの熱帯雨林の森を伐っているからこそできているのだ。それに中欧・東欧の森が酸性雨で絶滅に瀕しているが、それは西欧の工業地帯のせいなのである。偏西風が窒素酸化物や硫黄酸化物を運ぶので、中国の大気汚染がまだ日本の森に酸性雨の被害をそれほどもたらしていないのは、黄砂で中和されているからだといわれている。ということは、ある限度を越えると日本の森林も酸性雨でやられてしまうということである。

 精神崩壊の危機は更に深刻だ、と梅原は訴えている。梅原は、デカルトは「思惟する自我」を哲学の根底に置くことで、人間の自然支配を完成させたとしている。もはや宗教や道徳を棚上げにして、人間理性だけが一人歩きしてしまっているのだ。それで欲望の無限充足をひたすら追求することになってしまったのだというのである。でもデカルトは普遍妥当的真理を追求しているだけ、まだましである。この普遍妥当的真理は、人間だれしも理性をもっており、その理性で判断する限り、最低限一致できる自然法があるという認識を保持している。そうだとすると核戦争の危機や地球環境問題や資源問題、さらには精神崩壊の危機に瀕したときに、人類は衆知を集めて真剣に議論して、力を合わせて解決しようとすることにも成り得る筈である。

 私に言わせれば、ニーチェが普遍妥当的真理や人類共通の理性はギリシア人のでっちあげだとしたことに、より重要な精神崩壊が見られると思われる。「神は死んだ!」というニーチェの宣言は、普遍妥当的価値の崩壊の宣言だったのだ。そうすると後は各人が自らの力で生き抜くしかなく、「権力への意志」という形で強者の論理が貫かれることになるのである。ニーチェが、普遍妥当的価値の名の下に西欧的キリスト教的価値観の支配が合理化されていたことを暴露した意義は大きいのだが、これに対置すべきものとして彼が用意したのは、既成の価値を総否定して、新しい価値の表を造り上げることだった。共通の理性を否定した以上、自分が作り上げた新しい価値表を力ずくで押しつける以外にないのである。

 梅原はマルクス主義を戦いと憎しみの権化の如く非難している。たしかにマルクスにも敵に対する憎悪から、不適切な感情的表現もみられる。またマルクス主義を標榜するコミュニスト達のやりかたは、梅原が嫌ったように、暴力革命や革命的テロルに傾きがちなところがあった。しかし現代思想を総括して、新世紀の人類を導く思想を打ち立てる為には、マルクス個人の感情的な表現やマルクス主義の運動がその後陥った破産と、マルクス自身の思想は区別すべきである。

マルクスが目指したのは主観的には、階級闘争を根底的に止揚して、人類の共同を実現するという普遍性の立場である。彼がプロレタリアートという特殊性に立脚したのは、その中にこそ根底的に特殊性を止揚する契機を見たかったからに他ならない。それに対してニーチェの場合は、この「権力の意志」が人間の限界に挑戦するという志操の高さでしかないのではないかとも思われる。

 梅原はニーチェの「永劫回帰」の思想が、生命循環の思想だと言うが、ニーチェは運命的にコスモスの大循環が機械的必然として同じ個人を生み出すと説いたのである。そこに森や動物たちとの共生や生命への畏敬の感情は見いだせない。それよりも「貫徹されたヒューマニズムは貫徹されたナチュラリズムであり、貫徹されたナチュラリズムは貫徹されたヒューマニズムである」と説いた若きマルクスの方が、生命の共生と循環を説いていると言えるのではないだろうか?もちろん我々はマルクスからもニーチェからも現代に生きるものを学びとったらよいのであり、二者択一の問題ではない。

 実際、梅原は社会主義世界体制の崩壊を踏まえて、次は世界資本主義体制の崩壊を予告した。そして資本主義の貨幣物神信仰、貧富の格差が限りなく拡大するシステムだというマルクスの資本主義批判を支持しているのだ。

 現代の人類の危機を根源的に捉え、克服するには、「抽象的な意識的自我」「個人の身体的欲望」「私人的な利害」「階級的な利害」「国民国家的利害」更には特殊人類的利害をも超えて地球生命全体の循環と共生の立場に立ち返ることが、原理的には必要なのである。その為には文明の原理を根底的に問いなおすべきだ。森や湖や海や空を破壊しないで、その中での生命の連鎖を守ってきた狩猟・採集時代の人々の営みに学び直すことは大切である。このことを改めて再確認させてくれる梅原は、農耕と冶金の発明が人類の不幸の元凶だとしたルソーの役割を現代において果たしているのである。

 とはいえ我々は、狩猟・採集時代に生きているのではない。高度産業社会、情報化社会、高度資本主義社会に生きているわけだ。そして近代国民国家の時代が終焉して、グローバルな政治的経済的統合が目指される世界史の転換点に生きているわけである。我々は農耕・牧畜以来の自然破壊文明を反省し、西欧的な近代的自我の傲慢を脱脚して、「循環と共生の立場」を打ち出すためにも、人間自然関係の根源的な見直しが求められているのである。

 その場合、霊魂が万物に具有されているだとか、人間と他の生き物が同じように尊いというだけでは、説得力はない。そして人間はコレラ菌とビフズス菌では平等に扱えない。あくまでも人間中心的な地球環境の保護や改善に取り組むしかないわけなのだ。澄んだ空気、清い水、沢山魚や海草が住める海にしようというのも、それが人間にとって必要だからである。それでも人間の利害と自然環境を対立的に捉えて、二者択一を迫るのではいつまでも自然破壊の地獄から逃れられない。

 人間と自然という対置を止揚して、地球環境全体を人間存在として捉え返すべきなのある。人間また人間は個体的な身体的存在に止まらず、自然環境を自己の身体的な存在に変革しているから、自然は人間の非有機的身体としての性格を付与されているのである。こうして人間は自己自身を自然として認識し、自己の意識を自然の自己意識として反省できる能力を持っている。それが個体的な欲望や利害、社会的な私的利害によって歪められ、覆われてしまっているのだ。現代の人類的危機にあたって、地球環境全体を人間存在として捉え返す「人間観の転換」が自覚されつつあるのだ。梅原猛の「循環と共生の哲学」もその観点から評価すべきであろう。

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