ギルガメシュ』

戯曲『ギルガメシュ』の文学性

        文明と命の意味を問い直しギルガメシュは今日も悶えり

 戯曲『ギルガメシュ』は一九九八年に新潮社から出版された。「この作品は、私が書いた最初の文学作品である」と「あとがき」で梅原は記している。実は戯曲としは『ヤマトタケル』に次いで第二作なのだ。でも「前作はもっぱら市川猿之助さんのために書いたものであり、アミューズメント(娯楽)の要素が多い」ので文学作品とは言えないというのだ。それに比べ、『ギルガメシュ』は「最初から文学をめざしたものであり、小にして私自身のために、大にして人類のために書いたものである」と宣言している。

 『ヤマトタケル』もたんなる娯楽作品ではない。農耕文化による狩猟・採集文化に対する制圧の一環として、ヤマトタケルの熊襲征伐や蝦夷征伐があったという解釈なのである。そして梅原は、縄文時代の狩猟・採集文化を「循環と共生の思想」から高く評価していた。歴史的な必然性はあったとはいえ、大和政権による武力的統合に対しては批判的な眼を持って捉えていて、ヤマトタケルもその犠牲者であるという捉え方をしていたのだ。そのことによって歴史的な悲劇性を見事に表現することができたのである。その意味ではきわめて思想性のある作品であったと思われる。しかしこの「あとがき」の言葉を信用すれば、そのような思想性は、自然に滲み出たもので、それを表現するために作品を書いたのではなかったのである。

 それに対して『ギルガメシュ』は、梅原自身の「循環と共生の思想」に基づいて、大いなる生命の循環に挑戦して、人間文明を樹立したギルガメシュの悲劇を描き、その中で人間の運命や生き方を問い直そうとしたのだ。その意味で思想的な問題意識を軸に作品が構成されている。このことを梅原は「最初から文学をめざしたものであり」と言っているのだ。

 大衆文学と純文学の違いは明確ではないが、多くの読者を獲得するために娯楽性を主に追求したものが大衆文学であり、それに対して文学性を主に追求したものが純文学と言えるだろう。しかしこれは作家の主観的な意図の問題なので、必ずしも大衆文学の方が純文学より文学性が低いとは限らない。山本周五郎や吉川英二の作品は大衆文学だが、芥川賞を獲得した純文学作品よりはるかに高い文学性を示している場合が多いことは、だれしも認めるところだ。

 『ヤマトタケル』は娯楽性を追求していると言うが、それは市川猿之助劇団のスーパー歌舞伎としての面白さを追求しているのであって、あくまで演劇性の追求だから、それは少しも戯曲の文学性を損なうものにはなっていないと思われる。また『ギルガメシュ』も娯楽性において早替わりや宙づりがないとはいえ、それほど他の梅原戯曲と遜色はない。

 娯楽性と言うと、オーバーな表現でけれん味を出したり、宙吊りや早替わりで楽しませたり、せりあがりや回り舞台やどんでん返しなどで変化をつけたりするだけではない。『ギルガメシュ』のように森の神を殺す文明への根底的な問いかけや、黄泉の世界まで尋ねて生と死の意味を問いなおすような、スケールの大きいテーマ自体が、物語がよくできていると、鑑賞者を大いに魅了するものである。楽しませるという意味での娯楽性は、かえってテーマの大きさにこそあるのかもしれない。梅原猛が人気があるのは、常にラジカルに文明や命の意味を問いなおし、それらと実践的にも生き方の上でも格闘しているからなのである。

 この『ギルガメシュ』はスーパー歌舞伎では未だに上演されていない。もっとも根源的で最も現代的なテーマであるだけに、上演されれば大成功を収めると思われる。特に日本は環境問題では関心の強い国で、環境教育の一環として文部科学省が後援すれば、中学高校などで団体鑑賞も組織できるし、また環境庁の後援を取り付ければ、環境問題に力を入れている企業などでもチケットを捌けると思われる。

 中国では日文研にいた卞立強によって中国語に翻訳されて、中国青年芸術劇院により日本に先駆けて北京で上演され、連日満員の大盛況だったそうである。劇団の責任者はダンテの『神曲』に匹敵する大作と惚れ込んだそうである。中国では文明とともに森林が伐採され、黄河流域ではいまや禿山だらけでほとんど森がないといわれている。梅原猛の『ギルガメシュ』は改めて中国の環境問題に警鐘を鳴らしたようで、二年後長江中下流域で大洪水が発生した際、この劇を見た人は「この洪水は長江上流の四川省などで森林乱伐し、森の神フンババを殺したからだろう」と慨嘆したそうである。(梅原猛著作集、第二十巻 小説、月報、卞立強筆「『ギルガメシュ』北京公演、参照」)

 『ギルガメシュ』はやがて世界中で公演されるようになるに違いない。欧米でミュージュカル化されて大ヒットしてから、日本でやっと上演されることになったりすると、日本人の環境意識がいかに低いかということになるので、恥ずかしいことである。
 

三分の二が神、三分の一が人間

                     大いなる命の声に我忘れ、発情するごと筆をとる人

 メソポタミアのウルクの王である主人公ギルガメシュは、すごく強い。三分の二が神、三分の一が人間と言われるぐらいだから、やはりスーパーマンだ。ヤマトタケルも単身敵陣に乗り込んだりして超人的だった。そして梅原猛はヤマトタケルに自分を投影していたのだ。やはりギルガメシュにも梅原自身が投影されている。

 ギルガメシュはキシュの暴君アッガを倒して王位につき、ウルクの町に繁栄をもたらした。そしてさらに森の神フンババを殺して、森を開拓し、豊かな文明を築いたのである。その上、全てを投げ出して黄泉の国に、自分の身代わりに殺されたエンキドゥを尋ねて、連れ戻そうとした。またバイブルのノアにあたるウトナピシュティムに会って、不死の秘密を学ぼうとしたのだ。

 梅原は、戦争で精神的に深い疵を負ったことから、天皇教的な日本文化論の権威に挑戦し、仏教や神仏習合的な文化の再評価を行い、さらに怨霊信仰の意義を見直した。そしてより根源的に循環と共生を原理にする縄文の森の文化の伝統に光を当てたのである。こうして森の破壊によって成立した文明を根底から問いなおそうとしているのだ。つまりギルガメシュに戻って、人間と自然の対立を問いなおそうとしているわけである。そして梅原は常に生と死を見つめ、幾度も精神的あるいは肉体的に死とすれすれを体験して、そこから復活してきては、以前よりも何倍もパワーアップしている。このように死と格闘したという意味ではギルガメシュに近いといえよう。

 神に近いという面でも梅原はギルガメシュと共通面がある。神をどう捉えればいいのか、いろんな立場があるが、ギルガメシュが突然彗星のごとく現れて、暴君を殺して英雄になり、ウルク王になって強大な権力を誇ったのも、個人としてのギルガメシュに元々そういう力が備わっていたからではなく、時代や社会や人類の中にギルガメシュにそうさせる力が働いたからである。それで、ギルガメシュ自身の人間としての個人的な能力をはるかに越えたような力が、ギルガメシュ自身から発揮されているように見えたのである。それを見て人々はギルガメシュを三分の二は神だと表現したのだ。

 梅原の活躍も、彼がぶつかった問題に没頭して、まるでゲームに夢中になる少年のように、対象の中に自分を投げ込んで、我を忘れて、対象自身が語りだす言葉を聞き取った結果なのだ。つまり梅原個人を越えたところから、世界自身が語るのを聞いているのだ。その意味で梅原は、すでに人間を越えていると言えるかもしれない。こんな書き方をすると、おまえは梅原を神格化する梅原教かと言われそうだが、神という表現が元々大袈裟に聞こえるので適切ではないのだ。だが「大いなる命」を神と考えると、その意志を体現している人や事物は、権現として神の現れとも捉えられる。元々日本人の神概念は、驚きや畏れの対象であり、唯一絶対神的なものではないのである。

 個人的な雑事に追われたり、私的な利害で動いている場合とか、機構や組織の歯車として動かされ、意識しているだけの時には、そこに神性は感じられないものだが、そういうことを精神的に超越したところで、何かに衝き動かされるように、「大いなる命」の声が内心から響いてくることがあるのだ。そういう声に耳を傾けて、我を忘れて、七十五歳を過ぎてなおまるで女性に発情するみたいに執筆している梅原猛には、ギルガメシュのごとく何か神に近いものを感じさせるのだ。

 神に近いものを感じるといっても、決して梅原の説く説が無謬であるとか、欠陥がないというわけではない。かなり直観的なところが有るので、むしろ十分に論証しきれていないものや、思い込みにすぎないものもある。それでも、梅原の説には、細部にいたるまで人間梅原の熱い血が通っていて、そういう欠陥を補って余りある魅力にあふれている。

 

                                             エンキドゥの誕生

          エンキドゥ、奢れる君と戦いて人の力の限り明かせよ

 梅原戯曲ではギルガメシュ王は希代の名君で、人民の信頼は絶大なものがあるが、決して専制君主ではない。それでも余りに強くて賢明なので、いつかは奢りが生じて暴君になるのではないかと恐れた衛兵隊長ギリシュフルトゥルは、大臣イスィムドゥに相談を持ちかけ、祭司長ジウスドゥラに頼んで神にギルガメシュと同じぐらい強い男を作ってもらおうとした。

 梅原は、主人公に自己を投影するためか、ギルガメシュ王を暴君として描かないが、その点、元の『ギルガメシュ叙事詩』とは違っている。『ギルガメシュ叙事詩』では、民衆がギルガメシュ王の専制に手を焼いて、ギルガメシュに対抗できる者を造るように創造の女神アルルに嘆願したのである。月本昭男訳『ギルガメシュ叙事詩』(岩波書店、一九九六年刊)より引用しよう。なお以下できるだけ『ギルガメシュ叙事詩』の内容も紹介しながら検討するこにする。

 「彼女たち(乙女たち、勇士の娘、若者の花嫁)の訴えを神々はしばしば聞いた。天の神々はウルクの君(至高神アヌ)にこう叫んだ。

『御身が、その頭を高く掲げる荒ぶる野牛(ギルガメシュの比喩)を造られた。その武器を取ることにおいて、彼に並ぶ者はない。彼のブック(太鼓とバチ?)によって、その友人たちは立ち上がる。ギルガメシュは息子をその父親のもとに行かせず、昼も夜も荒ぶり猛る。彼こそ囲いの町ウルクの牧者。彼こそ彼女たちの牧者、力ある者、輝ける知者、ギルガメシュは乙女をその恋人のもとに行かせない。勇士の娘をも、若者の花嫁をも。』

 アヌは彼女らの訴えをしばしば聞いた。彼女らは偉大なアルルに叫んだ。

『アルルよ、 御身は多くの人間を造られた。さあ、彼(アヌ)が命じたところを造り給え。彼(ギルガメシュ)の荒ぶる心に立ち向かうように。彼らが互いに闘い、ウルクが安息を得るように。』

 アルルはこれを聞いたとき、アヌが命じたところを心に描いた。アルルは自分の手を洗 い、粘土をつまんで荒野に投げ、荒野で英雄エンキドゥを造った、静寂の生まれ、ニヌルタ(豊穣と戦闘の神)の結び目を。」

 梅原戯曲では、神々は独裁が嫌いなので、ウルクの支配者たちの願いを聞き入れて、アルルにエンキドゥを造らせる。全身毛むくじゃらで、野牛の体に人間の顔がついている。そしてアン(アヌ)の神のようにやさしい心を持っているのだ。そして多少知恵は足らないが、その代わり赤子のような純粋な心をもっていて、女を裏切ることができないばかりか、女の嘘もすべて信じるような、素直な心を持った男なのである。

 野牛の体に人間の顔といえば四本足の半人半馬のケンタウロスを連想しがちだ。でも元の叙事詩の方では、
「その全身は毛に覆われ、女のような毛髪で装われ、その毛髪はニサバ(麦)のようにふさふさと伸びていた。」となっている。おそらく梅原も、野牛の体で毛むくじゃらを連想していただけで、四本足の半人半牛の怪物をイメージしたのではなかったと思われる。
 

奥処を開き、息を捕らえよ

                    獣なる男を捕らえて人とする役目になうは女にしかずや

 エンキドゥは山に棲み、カモシカたちと野山を駆けめぐる。そして罠にかかった獣を助けたり、獣の罠を破壊する。また猟師たちが襲われたりする。それで猟師がウルクに訴えでたのだ。ウルクの宮殿では、どのようにして、エンキドゥを町に連れてくるか議論になる。これは美女に誘惑させて町に連れてこさせるしかないということに落ち着いた。その美女は、三つの条件に叶っていなければならない。先ず王の信頼深い侍女であり、次に怪物の心を魅了する美女であり、そして男に関しては百戦錬磨のベテランでなければならないのだ。この条件にぴったりなのがギランダである。

 元の叙事詩ではギランダではなくシャムハトという名前になっている。シャムハトは宮殿付きの聖娼だった。ギルガメシュは、狩人に聖娼シャムハトを連れていかせ、エンキドゥにあったら奥処を開かせて誘惑させるように命令する。叙事詩では聖娼シャムハトは、エンキドゥを捕獲するための餌にすぎないのだ。でも梅原は戯曲では、ギランダを非主体的な単なる餌としてだけ表現することはできなかった。

 梅原戯曲では、ギルガメシュの夢占い役でもある王妃エメサルは、恥ずかしいことをやらされるのを断るようにギランダに言うが、ギランダは、自分はいやしいこと恥ずかしいことばかりしてきたのだからと開き直るのだ。そして怪物を手なずけて人間にして町に連れてくるのは自分しかできないむつかしいことだから、やりがいがあると考えたのである。それにエンキドゥはギルガメシュに劣らずやさしくて、素晴らしい男かもしれないと期待に胸を膨らませるのだ。

 エンキドゥはただ力が強いだけではなく、セックスも超人的だ。そしてまだうぶなこともあり、フェロモンには感じやすい。それでベテランの色気むんむんにかかったらイチコロなのだ。叙事詩ではフルルム山で狩人にこう言わせる。

 「『あれが彼だ、シャムハト。かいなを解き、奥処を開け。彼にお前の秘処を捕らえさせよ。ためらわず、彼の息を捕らえよ。彼はお前を見て、近づいて来よう。彼がお前の上に横たわるように、着物を脱ぎ広げるがよい。かの未開の男に女の業を行え。彼のもとで育ったその動物たちは彼によそよそしくなるだろう。彼の愛の行為がお前に注がれよう。』」

 世界最古の文学作品に、すでにこれほど大胆な性表現があったのだ。これは壁面に粘土板に書かれて、公表されているのである。この場面を描いた絵も出土しているのだ。エンキドゥは、六日、七晩高ぶったまま性交を続けた。ギランダはエンキドゥの激しい愛の行為にすっかり忘我の境地で快楽に酔いしれていた。その上、エンキドゥはとても優しかった。おいしい果実を取ってくれ、魚を焼いてくれた。そして口移しで水を飲ませてくれたのだ。ギランダは女としての幸せを満喫した。エンキドゥは人間の女と寝てしまったので、人間の匂いがついてしまいカモシカは、耐えられなくて離れてしまったのだ。こうなればギランダがウルクにエンキドゥを連れていくのはたやすいことになった。

 

                                             エンキドゥ対ギルガメシュ

                                    戦いに疲れて男は座り込み涙流して抱き合ひき

 ギルガメシュは夢を見た。天から星が落ちてきて、それを持ち上げようとしたが、動かなかったのだ。そして大きな斧が宮殿の前の広場にあって、彼はそれに近づき、口づけをする。するとその斧から血が吹き出して、ウルクの町は血で汚されたというのだ。もっとも叙事詩では血が吹き出すという下りはない。

 戯曲では、夢を解釈するのは王妃エメサルの役目である。エメサルは、星の落下は何かとんでもないものが生まれる印だと言う。そして斧は王にとってとても大切のもので、それを使って王が戦をし、その結果誰かが死ぬだろうと説明した。

 叙事詩では夢を解釈するのは、すべてに通暁する賢明な母リトマ・ニンスンである。彼女は夢を、ギルガメシュの勇敢な仲間がやって来ると解釈したのだ。その仲間というのが、山で最強の力と勢いを持っているというのだ。そしてギルガメシュはそれを女に対するように抱き、それに愛を注ぐだろうというのが彼女の解釈だった。これは母だからできる解釈だ。王妃エメサルなら、まさか自分の夫がエンキドゥとホモセクシュアルの関係になるという予言はできない。

 そういうわけで、梅原戯曲ではギルガメシュとエンキドゥの同性愛は描いていないのだ。梅原は主人公に自分を投影するタイプなので、自分が受け入れられないものを描くのは難しいのだ。叙事詩ではエンキドゥへの愛に固着しているので、地の果てのその向こうの冥界まで出かけていくのだと感じられる。でも、梅原戯曲では冥界への旅も命の秘密を探り、ウルクを不死のパラダイスにしようという王としての使命感からくる要素が強い。その方が生と死の問題を正面に据えられると思ったのだろう。ただエンキドゥとの同性愛が絡んでいるほうが、物語のおもしろさという点では上かもしれない。

 戯曲では、ギランダはエンキドゥを王宮に連れてくることができたのだが、エンキドゥをわが夫として紹介したのを衛兵隊長にからかわれる。そこで逆上したエンキドゥが暴れまわった。結局ギルガメシュとエンキドゥの一騎討ちになるが、なかなか決着がつかなかったのだ。ところが突然エンキドゥが地面にひれ伏し、ギルガメシュに降参して、家来にして下さいと頼むのである。

 エンキドゥがもし勝てば、エンキドゥはウルクの王に成れるだろうか。それは無理だ。家来たちは王の仇を取って手柄を立てようとする。生まれたての野獣のようなエンキドゥの味方をするものはいない。そうすると、エンキドゥはギランダとの幸せを失なってしまう。負けて、ギルガメシュの家来に成っておく方がはるかにいいわけである。

 叙事詩ではエンキドゥがギルガメシュに挑戦する動機や、闘いを放棄してギルガメシュに臣従するにいたる心の内ははっきりとは描かれていない。恐らくシャムハトを愛してしまって、獣たちと離れ、そして強敵ギルガメシュと力の限り戦わなければならなかったので、戦う者の孤独が闘いの疲労と共に身にしみたのかもしれない。そして強者どうし相手への憧れが芽生えたのかもしれない。それはギルガメシュも同じことだ。

 「彼は疲れ切って、座って、泣いた。彼の眼は涙で溢れた。彼の腕はだらりとし、その力は抜けた。彼らは手を取り合った。彼らは抱き合い、恋人同士のように互いに手を取り合った。ギルガメシュはエンキドゥに言葉を語って、言った。友よ、なぜあなたの眼は涙で溢れるのか。」

 

                                     森の神フンババ

                           今日もまたギルガメシュとなりフンババを殺し殺して命削れリ

 森の神フンババを退治しようという大それた企みをどういう理由で考えついたのか、ということを叙事詩には書いていない。梅原戯曲では、森の守り神を殺すことで、森を開発し、木材を家屋や船作りに利用したり、森を田畑や牧場に変えてしまおうとしたのである。ウルクの町にさらに豊かな文明をもたらそうとすれば、森を切り開かなければならないとギルガメシュは考えついたのだ。でも森には守り神のフンババがいて、森に侵入する人間を殺すので、フンババを追い出すか、フンババを殺すしかないのである。

 梅原は文明の原点をこの森の神フンババ殺しに見いだしている。森の中で、その生命の共生と循環である生態系を守るなかで、自然と調和した文明を築くのではなく、森の木を切り倒し、森のなかに住んでいた動植物の生態系を完全に破壊してしまうのが文明と呼ばれたのだ。森を伐採すると、森の持っていた保水能力もなくなるから、気候が乾燥化してしまう。結局田畑の維持も難しくなってしまうのだ。このように森を破壊して出来た文明は、やがて森を破壊が進むと砂漠に飲み込まれて消滅してしまう。それはメソポタミア文明だけでなく、インダス文明も、森林伐採が原因で、滅亡してしまったのだ。

 ギリシアも豊かな森林だったのが、建築や造船が発達して森林が伐採された。その結果、ギリシアはほとんどの山地ははげ山になってしまった。こうして次々と森林伐採がすすんでしまった。中国のゴビ砂漠も、万里の長城を築く際に、木を切り倒してそれを燃料にして大量に煉瓦を焼いたからできたのだと言われている。

 現在、日本は先進国の中では森林が多いことで有名だ。森林伐採が環境に与える影響を考慮して、厳しい規制を守っているからである。しかし紙や材木の消費でも日本は膨大な量を占めている。だから自国の森林を伐採しないかわりに東南アジアの熱帯林を札びらを切って、伐採させているのだ。既にタイやフィリピンの熱帯林はほとんど消滅した。現在はマレーシアやインドネシアの熱帯林を伐採させている。この調子で行くと五十年後には地球上から熱帯林は消滅するといわれているのだ。

 直接森林を伐採しなくても、西ヨーロッパ工業地帯から排出されるC0x やN0x が偏西風に乗って起こす酸性雨の被害で、東ヨーロッパの森林は壊滅状態のようだ。中国や韓国などの工業地帯から出るC0x やN0x が、日本の森林を壊滅させる危険がないのか、それが大陸には黄砂現象が起こり、これが弱アルカリ性なので中和されて激しい酸性雨になっていないのである。しかしそれは今のところということに過ぎない。今後ますます中国・韓国の工業化が進展すれば、黄砂だけでは中和しきれなくなるといわれている。そうすれば日本の森林も伐採しなくても壊滅してしまうことにもなりかねないのである。

 現代の森の神フンババ殺しの結果、地球上の森林が消滅すれば、現代の機械文明の崩壊を意味するかもしれない。我々が紙を大量に消費し、それを分別して再利用せずに焼却してしまっている行為自体が森の神フンババ殺しなのである。それほど直接に係わっていなくても、日本の産業社会の再生産に加わっている限り、フンババ殺しに加担していないとは言えないのだ。 

          森の戦い

                 森の木と獣たちとの敵となり戦い挑みぬ命のもとに

 森の木を伐採し、そこを農地や人間の住居に変えることが、ギルガメシュ王の目的だが、そのことが進歩であり、人間生活を豊かにすることだと思い込んでいたのである。そこが縄文時代の森の共生と循環の論理との違いなのだ。縄文時代には森全体の樹木を中心にする植物との共生があった。人間が樹木を切ったりする場合でも、切った樹木の分だけきちんと樹木が再生できるかどうかにかかっている。それ以上の伐採はタブーになっていた。ところが弥生時代以降は、平地は鎮守の森を残してどんどん伐採していった。家畜以外の動物との食物連鎖も少なくなる一方だったので、森林の減少と共に野生の獣は絶滅していった。それゆえ人間の存在は、森の木々や獣たちにとっては最も恐るべき、憎むべき敵となってしまったのである。

 大気の神エンリルは、香柏の森をまもる為にフンババを人々の怖れの的としたのだ。エンキドゥは野性児だったので、フンババの恐ろしさを知っていた。それでギルガメシュのフンババ殺しを思いとどめようとした。戯曲ではエンキドゥは強く止めた。

カミサマコロス、イケナイ、イカナイ」「カミサマ、ツヨイ、オウサマ、シヌ、シヌ」

 この点叙事詩では、エンキドゥの言葉はもっと詩的で迫力がある。

「香柏の森の守り手、フンババの声は大洪水、その口は火、その息は死だ」

それでも結局、エンキドゥはギルガメシュが殺されるのを放っておけないので、付いていくことになった。

 叙事詩では、フンババを倒すことを倫理的に悪いとエンキドゥが思っているわけではないようだ。叙事詩の作者も、森の神殺しを倫理的に非難しているわけではない。ギルガメシュは太陽神シュマシュに焼き粉を献げ、フンババ殺しに助言や加勢をしてもらっている。ギルガメシュとエンキドゥが一緒にフンババを攻撃し、更にシュマシュが十三種類の風でフンババを弱らせる。さすがのフンババも弱りきってギルガメシュに命乞いするが、エンキドゥはギルガメシュにその言葉に耳を貸さずに、殺してしまうように忠言したのだ。これではギルガメシュが文明のために森の神を殺し、森林を破壊したという環境問題にからむ話にふさわしくない。

 戯曲では、環境問題にふさわしく、森の守り神フンババが人間の侵略に対して立ちふさがる。そして五鬼や獣たちがフンババの下に団結して、人間たちの侵略に立ち向かう。その獣たちのなかに、エンキドゥの仲間だったフルルム山のカモシカたちがいたものだから、エンキドゥは戦意を喪失して逃げてしまうのだ。ついにギルガメシュとフンババの一騎討ちとなり、最初はギルガメシュが優勢だったが、フンババは体から光を発してギルガメシュを倒した。そして翌日フンババの主神であるイナンナに捧げる為に、一番高い杉の樹の上に縛りつけられたのである。イナンナは、若い、美しい男をいたぶってゆっくりとなぶり殺しにするのを見るのを最大の楽しみにしている女神である。

 そこに世界と人間の将来を憂える森の哲鳥フクロウが訪ねる。フクロウは明日ギルガメシュがなぶり殺しになることを伝え、死んだら魂が天に昇るなどということはなく、完全な無だと教える。そして自然を支配しようなどとする人間の営みを無意味だとさとした。そしてフクロウはエンキドゥにギルガメシュの居場所を教えて、救出させたのだ。それでエンキドゥは一緒にフンババと戦うことになった。

 再びフンババとの対決となったが、フンババが自分を八つ裂きにしてイナンナに献げようとしていたことを知ったギルガメシュは、もう神を殺すことに対する後ろめたい気持ちがなくなり、フンババを悪魔だと断定して、今度はギルガメシュ側からも光を発してフンババを倒したのである。互いに発光しあって戦うのはいかにもポケモン的な発想である。

 

                                                     神殺しの罪

           神を生むその心にぞ神殺す心潜めり人の性(さが)かは

イナンナは家来のフンババを殺されて、その仇を討とうとギルガメシュのあとをつけてきた。でもギルガメシュは若くて美しく、魅力に溢れていたので、王妃エメサルに化けてギルガメシュのベッドにもぐり込む。でも見破られてしまった。イナンナはかまわないから続けようと誘うが、ギルガメシュはイナンナの悪い評判を聞いているのでとても抱く気がしない。

 というのがイナンナは、彼女が愛した牡馬を、しまいには虐待して殺してしまったのだ。そして彼女が愛した牧童に毎日赤子を殺すことを命じたうえ、ついには彼を狼に変えてしまったのだ。イナンナは、彼女が愛した男をいじめ抜いて殺してしまうサディストだったのだ。イナンナにすれば相手の男たちも、十分楽しんで死んでいったのだと言う。だがギルガメシュはマゾっ気はなかったので、断ったのだ。

 イナンナは、女として侮辱されたと感じたので、仕返しの為にアンの大神に「天の牡牛」を借りて、ウルクの宮殿の屋根をこわして天の牡牛を侵入させた。これに立ち向かった衛兵隊長は倒されてしまう。エンキドゥとギルガメシュは協力して、天の牡牛を殺したのである。

 かくして神々の会議でフンババ殺しと天の牡牛殺しが審議された。天の牡牛事件は、不問に付され、フンババ殺しに関してギルガメシュかエンキドゥのいずれかを死刑することになったのだ。そしてアンの大神の決断で、罪はギルガメシュの方がはるかに重いが、エンキドゥを殺されれば、ギルガメシュは良心の呵責に苦しんで、自分の罪を反省するようになるかもしれないから、エンキドゥを死刑にすることになったのだ。

 エンキドゥの死刑は、叙事詩では次第に病が重くなっていく形をとるが、戯曲では突然天からの稲妻によって執行される。アンの神のお告げで大祭司を通じて、フンババ殺害の罪でエンキドゥを罰するという連絡があった。ギルガメシュは、フンババ殺害の主犯は自分であり、エンキドゥは元々フンババ殺害に反対していたと訴えたのだ。そしてギルガメシュを助ける為に出くわしたフンババとやむなく戦ったと弁護した。しかし神々の裁判の結果は変えられないというお告げがあった。

 もっとも叙事詩では、フンババの命乞いに対してエンキドゥはギルガメシュに檄を飛ばしている。

「友よ、フンババが言う言葉に耳を貸すな、その嘆願を聞き入れてはならない。彼を絞り上げよ。彼を撃ち殺せ。彼を粉々にして抹殺せよ」

この言葉を入れると助命嘆願に説得力がなくなるので、戯曲には入っていない。

 

                                           ギルガメシュの旅立ち

                   吾が愛しエンキドゥは土くれやそが定めなり吾また同じや

エンキドゥの死は、ギルガメシュに深い喪失感と罪責感を与えたが、それと共に死に対する恐怖にとりつかれる。叙事詩にはこう書いてある。

「ギルガメシュは彼の友エンキドゥのため、いたく泣き、荒野をさまよった。『わたしも死ぬのか、エンキドゥのようではない、とでもいうのか。悲嘆がわが胸に押し寄せた。わたしは死を怖れ、荒野をさまよう。ウバラ・トゥトゥの息子、ウトナピシュティムのもとに出立し、急いで赴こう。」「わたしはどうして黙し、沈黙を保てようか。わたしが愛したエンキドゥは粘土になってしまった。わたしも彼のように死の床に横たわるのだろうか。わたしも永遠に起き上がらないのだろうか。」

 ウトナピシュティムは『バイブル』では「ノアの方舟」のノアに当たる。彼は百歳までこの世にいたけれど、神々によって不死の生命を与えられて、生きたままあの世にいったのだ。それゆえギルガメシュはウトナピシュティムに会って、生命の秘密を聞き出して、あわよくば永遠の生命を得て、ウルクの人々にそれを与えたいと考えたのである。


 西へ西へ行き、太陽の落ちるところを目指していくと、双子山になっているマーシュ山に着く。その二つの山の間を通っていくと、死者が行くあの世に到達する。そこには三途の川があって、その川が三つに分かれるところにウトナピシュティムが居ると言われていた。ギルガメシュは十五年をかけて旅をする覚悟で出かけたのだ。

 

                                                     死者の国にて

            攻め取りてたとひ善政おこなへどその民草の怨みかさぬる

 十年の歳月をかけてやっとマーシュ山の近くまでたどり着いた。太陽が東に沈む地の果ての向こうに来たのだ。マーシュ山の入口には門があり、閉まっている。さそり人間とその妻が門番をしていた。ギルガメシュは生きた人間なので入れてもらえないところなのだが、神の匂いがするので、自分の代わりに誤ってあの世に送られたエンキドゥのことを聞いてもらえたのだ。そして「地獄の沙汰も金次第」という諺どおり、持参した金を渡して目こぼししてもらったのである。

 川辺の茶店で女主人にウトナピシュティムに会って、永生の薬をもらいたいという話をした、女主人は、人間は死ぬからこそ、はかない命を大切に思い、生活を楽しもうとして、そこに幸福が見いだせるものであり、不死になればかえって生きる甲斐をなくしてしまう。だから早くお帰りなさいと諭された。でもどうしてもウトナピシュティムに会わせて欲しいと頼み込み、三途の川の船頭のウルシャナビを紹介してもらった。

 ウトナピシュティムが立派な宮殿に住んでいるというのは間違いだった。川辺の見すぼらしい小屋に住んでいたのだ。ウトナピシュティムとその妻がいたのだが、何分彼らは耄碌していて要領を得なかった。それでも「ノアの大洪水」の話などを聞かせてもらえたのである。ところで『バイブル』よりも『ギルガメシュ叙事詩』の方が古いのだ。『バイブル』の「ノアの大洪水」の話は、この「ウトナピシュティムの大洪水説話」が元になっている。そして死霊に会うにはこの中庭にいればたくさんやって来ると教えてもらえたのである。

 死霊たちにとっては、生きた体を持っているギルガメシュがとても恨めしいのだ。ましてや、ギルガメシュに対して恨みの気持ちを懐いている死霊は、ギルガメシュに辛く当たる。まずシュメールのキシュのアッガ王の死霊が登場する。彼は生前は悪逆無道な暴君だったので、ギルガメシュに討伐されたのだが、でもアッガ王の死霊は、自分がそれほど悪いことをしていたという自覚がないのである。ギルガメシュという悪者の侵略者に殺されたと恨んでいたのだ。

 隋の皇帝の煬帝は、高句麗との戦争や黄河と揚子江を結ぶ運河建設で人民をおおいに苦しめた。でも若い頃は仏教に深く帰依する菩薩天子として名君の誉れが高かったそうだ。高句麗に対する侵略も、主観的には、世界平和の実現のために脅威を取り除こうとしたからかもしれない。巨大運河の建設も決して人民を苦役で苦しめるために行ったのではなく、飢饉を防ぎ、国を豊かにするために行ったのであろう。それがあまりに性急すぎて人民を苦しめる結果になり、反乱を招き、最悪の暴君のレッテルを貼られたのかもしれないのだ。

 ギルガメシュも叙事詩では娘たちの初夜権を要求していて、それが民衆に嫌がられているが、王は自分を神聖な存在だと思っていたので、初夜権の行使による祝福は、娘たちを幸せにして、王と人民の一体感を強め、王国の繁栄をもたらす行為と受け止めていたかもしれないのだ。それゆえ王の神聖な義務と心得ていたのかもしれないのである。

 ギルガメシュ王が、いかに善政をおこなっていたとしても、ウルク以外のシュメールの人々は、ウルクによる支配と感じるので、いろいろ不満や悔しい思いもあった筈なのである。それでシュメールの人民の中には、ギルガメシュ王を恨んで死んだ人もたくさんいたということに、ギルガメシュ王は死霊たちにあってはじめて気づかされたのである。この話は是非ともアメリカのブッシュ大統領に読んでもらいたいものである。

 

                                              父母の死霊との出会い

                   ゆるされぬその恋証し生まれこぬ吾は背負うや不孝の罪を

次にギルガメシュの両親の死霊が現れる。叙事詩の方では母親はニンスンでギルガシュの夢の謎解きをする。つまり生存しているのだ。ところが梅原戯曲では、ギルガメシュは物心ついたころから父母のことは知らなかったのだ。他人に育てられ、だれも父母の話はしてくれなかった。あの世に来て始めて、死霊となった父母に出会ったのである。ところが父母はきまり悪そうにしている。別の死霊が代わりに説明するところでは、ギルガメシュの母は夫が有りながら、ギルガメシュの父である別の男と不倫してしまい、その結果ギルガメシュが生まれたことが発覚して、父と母は石打ちの刑で殺されてしまったというのである。

 ギルガメシュは自分が生まれてしまったために、父と母の不倫が発覚し、殺されてしまったことを知り、父母の死に対する罪責を感じたのだ。

「私は生まれてきたときから、大きな罪を犯してきたのか。私がこの世に生まれてきたために、私は父と母を殺してしまったのだ。」

もちろん子供に罪があるわけではない。父母は「私たちが悪いのだ」とギルガメシュの罪を否定した。この一言しか父母は語らなかった。どこかギルガメシュに対して、この子ができたばっかりにという恨めしい気持ちが残っていたのかもしれない。

 この話には梅原猛自身の出生の話が投影しているがその内容は何度も紹介しているので割愛する。それで猛は自分を産み捨てるような結果に追い込まれた父母を父母として素直に認めることができなかったのだ。と同時に自分の誕生が母の青春を奪ってしまったことに、罪の意識を感じたのである。

 母の死は自分の誕生が原因だとしたら、自分は母の青春を奪ったことになり、自分は生まれない方がよかったのだという、自己の誕生、自己の生への否定の意識すなわちニヒリズムに支配されるようになり、そして死への衝動にかられるようになった。なぜなら梅原自身は自覚していなくても、自分の死が母の復活につながるのではないかという思いが潜んでいたからである。

 梅原は聖徳太子はじめ怨霊信仰の研究で目ざましい成果をあげた。日本人の信仰の中に怨霊信仰がいかに重大であったか、梅原は非常に熱っぽく説いている。自覚的にか、無意識的にかはわからないが、彼自身が実母の怨霊に悩まされ続けていたからなのではないか。もちろん猛の実母が猛を恨んでいることはあり得ない。それは逆恨みにもほどがある。でも母の死霊の生きたかったという強い思いが、猛に死霊・怨霊信仰の伝統を掘り起こさせた、大きな力になっているとは言えるだろう。

 

                                           エンキドゥは恨んでいた

                  死に人の霊の世界をさまよひて人の心の沼の底知る

梅原戯曲では、次にエンキドゥの死霊が登場して、ギルガメシュに恨みごとを言う。やはりフンババ殺害の主犯はギルガメシュなのに、手伝わされただけの自分が処刑されたのはどうにも納得がいかなかったのだろう。あれほど深い心の友の筈のギルガメシュのことを、自分は助かって、エンキドゥを殺すようにアンの神に手を回したと疑っていたのである。

「おれはお前を恨んでいる。俺は、森で楽しくカモシカと遊んでいたのに、それをお前は、女を使ってだまして、ウルクへ連れて行った。それは、俺にフンババを退治させるためだった。俺はお前にだまされて、フンババを殺し、そして天の牡牛を殺した。もちろん、お前が主犯だ。俺はお前の手伝いをしただけだ。それなのに、お前はアンの神に手を回し、自分は助かって、俺を殺すようにしむけたのだ。お前は悪い奴だ。俺はすっかりだまされていたのだ。ここに来て、よく考えて、始めてお前のたくらみが分かった。お前は、本当に悪い奴だ。俺の人生を無茶苦茶にしてしまった。」

 でもこの死霊の恨みがましい言葉は、果して本音なのか。ウトナピュシュティムが後に解釈するところでは、多少そういう恨み心を持っているにしても、本心はギルガメシュからエンキドゥに対する執着を断ち切らせて、あの世から早く帰らせるために思いやりから言っている言葉かもしれないのだ。

 ギルガメシュの父母も「私たちが悪いのだ」と一言いったきりだったが、本当はギルガメシュが尋ねてきてくれたことを、言葉が出ないほど喜んでいたのかもしれない。それにギルガメシュが尋ねてきてくれたお陰で、王の両親ということが分かり、もう人目を避けて暮らさなくてもよくなったのだから、ギルガメシュもよいことをしてあげたのだとウトナピュシュティムが言ってくれたのだ。

 梅原は、人の心の中には相反する感情が並存するものだと捉えている。そしてその両方とも嘘ではないのだ。その場、その時の状況に応じていずれかの感情の波が大きくなり、言葉や行動になって現れてしまう。そしてその感情の現れ方のパターンが、一定の特徴が認められるときに、その人の人となりが見えてくるわけである。

 こうして死の世界を彷徨い、死霊たちと対話するなかで、ギルガメシュは人の心の裏表や内面に潜んでいる葛藤が分かり、生の意味や死の意味をより深く見つめることができたのである。これは日常の生をただ管理されたり、慣習化されたしきたりどおりに暮らしているだけでは見えてこないということだ。死とぎりぎりのところで格闘して、死に染まり、死を克服することによって、はじめて人生の真実が掴めるのかもしれない。

 ところで叙事詩でもマーシュ山の向こうでエンキドゥと再会するのだが、その場面の描写は残っていない。ギルガメシュがブックとメックという木製品の王者のしるしのようなものを、誤って冥界に落とす。それを僕のエンキドゥが取りに冥界に下った。その際、ギルガメシュが与えた注意事項を守らなかったので、エンキドゥは冥界に閉じ込められてしまったのだ。それで冥界への穴を開けて、エンキドゥの死霊を救い出したのである。

 叙事詩ではエンキドゥは少しもギルガメシュを恨んでいないのだ。ギルガメシュのためなら、冥界でも恐れずに降りていくのだから。それに冥界というところがあるのだが、それは地獄のようなイメージなのだろう。死霊が全員行っているわけではないようだ。そこで冥界の様子をエンキドゥは報告するのである。

「あなたが触れ、あなたの心が喜んだわが身体、このわが身体を古着のように虫が喰う。あなたが触れ、あなたの心が喜んだわが口、このわが口は大地の裂け目のように塵で満ちている。」

 ようするに虫に食べられ塵に苛まれるような恐ろしい冥界というイメージなのだ。死の現実がそのまま表現され、実感されている。ふたたびエンキドゥの身体を抱くことはできないということだ。やはりマーシュ山の向こうにエンキドゥを尋ねていったのは、ギルガメシュの中で潜在的にうずいているエンキドゥへの同性愛的な執着があったからなのである。しかしこの部分は叙事詩の残存状態が悪いので、文脈的に理解することは困難である。

 

                                             不老不死の妙薬

              悪魔にも神にも勝ちしヒーローも太刀打ちできぬは眠気なるかな

ウトナピュシュティムは大洪水からもう数百年たっているのに、大洪水の時の記憶は確かだ。ギルガメシュが始めて出会ったときはそうとう耄碌しているように見えたが、いつしか顔色といい、声といい、青年のように元気だった。きっと不老不死の妙薬を飲んでいるに違いないと、ギルガメシュは確信した。でもウトナピュシュティムの話では、百歳になったときエンキの神がやってきて、もうお前はこの世での仕事はなくなったから、あの世に行ってもらうが、お前にはひどく世話になったから、お前を死者の仲間には入れたくない。だから生きたままあの世で死者たちの番をして欲しいと頼またということだ。

 それ以来エンキの神は、あの世で番をしているウトナピュシュティムのところに五十年に一度訪れた。その時に不死の薬をもらっているのではとギルガメシュは疑ったが、ウトナピュシュティムは否定する。そして死ねないのは神々の世界から追放されていたエンキの神を匿ったことに対する罰ではないかというのである。数百年間も婆さんと二人で実に侘しい生活を送っているのは罰でなくてなんだろうという。人生は短くてすぐに終わってしまうのは辛いものだが、ウトナピュシュティムのように数百年間侘しく生きても終わらないというのもかえって苦しいかもしれない。

 ウトナピュシュティムは、あくまで不死の妙薬をほしがるギルガメシュに、不死の妙薬を持っているウルクを紹介しようと言う。ただし七日七晩眠らなければ、不死・永生の薬を貰えるということだ。そこで疲れている筈なのに、ギルガメシュは、すぐにその試験を受けると言い張る。そしていよいよ眠らない試験が始まるが、毎朝婆さんがパンを焼いて訪れるだけの監視体制なのである。極端な話、朝だけ目を覚ましていれば合格である。それで油断してギルガメシュは寝てしまった。しかもよっぽど疲れ果てていたと見え、なんと七日七晩すっかり眠り続けてしまったのである。

 おそらく二十四時間体制で監視されていれば、ギルガメシュは頑張って七日七晩目覚めつづけていたにちがいない。監視がなくて、寝てもよかっただけについ眠ってしまい、すぐに目覚めなくてもよかったので、かえって熟睡してしまって、日頃の睡眠不足の反動で七日七晩曝睡してしまったのである。十年間かけてここまで出かけてきてしまったのに、徒労だったということになる。ウトナピュシュティムはギルガメシュのあしらい方をよく分かっていたのだ。

 すべての人間に勝ち、悪魔にも神々にも勝ったギルガメシュが、自分の体の中の眠りなどという他愛ないと思っていた敵には負けたのである。小石に躓いて、そのために死んでしまうこともある。何が人生の幕引きになるか誰にも分からない。それに眠りは死を象徴するものである。眠らなければ、頭がフラフラし、知恵も強さもまるで発揮できないのだ。目覚めている為には眠らないわけにはいかないように、生きる為には死ぬことを避けられないのである。

 ギルガメシュはエンキドゥの救出にも、不死の薬の入手にも失敗したので、このまま帰るわけにはいかないと言った。そこでこんどはアピュスの淵から若返りの草を取ってくるようにウトナピュシュティムに薦められる。それでどっさり若返りの草を積んで船に乗ったのだが、なんと蛇に全部持っていかれてしまう。

                               ギルガメシュ王の帰還

     死霊住む果てなる国より還りきて神にわびつつ命はてなむ

 ウルクの町を旅立って二十年後、ギルガメシュは病で衰弱しきって、ウルクの町にやっとの思いでたどり着いた。アンの神殿で倒れている病人がギルガメシュだと気づいたのは、ギランダだった。エンキドゥを救出し、不死の薬を入手して戻ると公言していただけに、そのどちらも失敗したギルガメシュにすれば、ウルクの町に手ぶらで帰るのは王としての誇りが許さない。それに予定の十五年が過ぎたので、旅立ちの時に王妃の胎内に宿っていたギルスドゥ王子が即位し、ギルガメシュ王の葬儀が盛大に行われてしまっていたのである。

 今更死んだ筈の王が戻ったのでは、かえって迷惑をかけると思い、ギルガメシュはギランダに妻子には知らせないように頼んだのだ。もちろんギルガメシュは妻子に一目会いたい一心で地の果ての向こうから帰ってきたのだ。しかしシュメールに入って新しい王の評判を聞き、ウルクがすべて順調にいっていると聞いて安心した。それなら名乗り出て迷惑をかけるまでもないと思ったのである。それじゃあどうしてアンの神殿に訪れたのだろう。それはどうしてもアンの神に伝えて欲しいことがあったからなのだ。それはギルガメシュが間違っていたということである。

 ギルガメシュは人間の為に文明を造った。運河、畑、牧草地、都市、文字、国家を造ったのだ。それはとても偉大な事業だったのだが、それはあくまでも人間の幸福の為だけを考えてのことだった。つまり人間の幸福のためならいかなるものを犠牲にしてもかまわないと考えていたのである。神々も獣たちも森の木々も人間の文明が栄えるためには犠牲にしてもかまわないという考えだった。香柏の森の守り主フンババ殺害も、このような人間中心主義の帰結だったのである。

 既にディルムントの森は肥沃な麦畑や、羊を飼う牧草地に変わっていた。人々の生活は飛躍的に豊かになったのだ。フンババ殺害に反対していたウルクの人々も、この文明の勝利に、ギルガメシュ王の先見の明を讃えていたのである。しかしギルガメシュは、それが太古からの森を破壊し、無数の生き物を大虐殺することだったと反省していた。

 狩猟・採集の生活をしていれば、獲物となる動物は、その生息数が一定に保たれる範囲で捕らえられ、殺されるだけだが、森林を伐採してしまえば、そこに生息していた動物は絶滅させられてしまうのだ。それでも森林はディルトムントだけではない。地上の森林のほんの一部を伐採しただけである。人間が豊かに暮らすためには、それぐらいいいじゃないかとウルクの人々は考えたのである。
 そのような考え方が誤りであったことに、ギルガメシュは気づいたのだ。

「しかし、何百年、何千年後に、また何千、何万のギルガメシュが出てきて、森の神を殺して、そこに棲む無数の生き物の生命を奪ってしまう。すると、やがて森はなくなり、地上には人間と、人間によって飼育される動物と植物だけしか残らないことになる。それは荒涼たる世界だ。そして、おそらくそれは、人間の滅びに通ずる道だ。」

 実際、ギルガメシュの予測通り、メソポタミア文明は森林の伐採による乾燥化、砂漠化によって滅亡してしまった。メソポタミア文明だけでなく、インダス文明も森林の伐採が原因で滅亡したのだ。この森林伐採は拡大しつづけており、このままでは熱帯森の伐採であと数十年で地上から熱帯森が消滅する。熱帯林の減少は二酸化炭素を増加させ、地球温暖化を促進している。また森林が宅地や工業地に変わることで、オゾン層の破壊や酸性雨の増加で、人類文明自体の存続も危なくなりつつあるのだ。人間中心的にまわりの自然環境を破壊し、地球環境を破壊することは、結局は人類全体を破滅させることを意味する。何故なら地球環境は人間を含んでいて、地球環境の破壊は、人間自体の破壊だからである。それは自然による破壊者に対する仕返しでもある。言い換えれば、神の審判とも言えるわけなのだ。

「ギランダ、お願いだ。大祭司に、アンの神へ私の言葉を間違いなく伝えてくれとお願いしてほしい。ギルガメシュ王は自分の行為を反省している。人間が人間だけのことを考えて神々を殺したり、他の生けるものの生命を奪うだろう。そのときは遠慮なく前のような大洪水を起こして、人間の傲慢を戒めて、人間を反省させてほしい。しかし人間を絶滅させはしないように。このことをよくアンの神に頼んでくれるよう、そう大祭司に申し伝えてくれ。」

「人間の傲慢」は、人間が自然を対象的に認識し、その法則性を見いだして、自然を人間にとって都合よく改変することができるので、人間が自分を自然の外にある自然とは別の存在であるかに思い上がっているところに生じる。しかし対象化された自然、人間に外的に捉えられる自然は、表面的な外面だけの自然であり、大いなる生命としての自然の本当の姿は見せていないのだ。自然とは区別された人間というのも、人間の本当の姿ではないのである。事物との関連の中に埋没している人間に過ぎず、大いなる生命の現れとしての真の人間ではないのだ。

 またギルガメシュは、エンキドゥを生き返らせることや、不死の妙薬や若返りの葉を手に入れることにも失敗した。つまり永遠の生命を獲得することは、いかに三分の二が神といわれたギルガメシュといえども許されていなかったのである。生命はある個体的な身体に永続するものではない。個人としては死に、土に帰るだけである。でも新しい個体の中に生命は受け継がれるのだ。親の生命は子に受け継がれ、食物連鎖によって食べられた個体の命は、食べた個体の命として燃え生きるのである。人間は食べることしか考えない。自分が食べられるということを忘れているのである。自分が食べる動植物の命をいただいて、大いなる生命の現れとして生きているわけである。

 個体という有限な生命の限界を超えるには、大いなる生命に帰らなければならないのだ。それが個体的には死であり、食べられることに他ならないのだ。土葬で土に帰ったり、水葬で魚に食べられたり、火葬で空気に帰ったりしても、大いなる生命に帰ることには変わりない。大いなる生命というのは生物学的な生命概念を超えて、地球や太陽や宇宙を包摂したような生命の循環運動を指しているのである。森の守り神フンババを殺して、その罰として親友を殺され、死の恐怖にかられて生命の謎に迫るため、地の果ての向こうの死者の国を尋ねたギルガメシュは、そこで大いなる生命の循環と共生の思想を学んだのである。

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