穴の中の哲学者
              ―「吾輩はムツゴロウである」第一章

   ムツゴロウその名で呼ばれし人なれど声もあげずに見殺しきなり

   私には畑正憲という男はどうもインチキ臭いような気がする。彼のニックネームは、「ムツゴロウ」である。たしかに顔かたちがムツゴロウに何処となく似ている。その風貌が愛され、動物愛護家として親しまれてきた。北海道には「ムツゴロウ王国」という動物園とも飼育場ともつかない場所があるらしい。猫を主人公にした映画を作って評判を呼んでいる。その映画には猫が急流で難儀をする場面があるが、実際には撮影で何匹も猫が犠牲にされたらしい。その評判を聞いて、どうも動物愛護家としてはインチキ臭い感じがしたが、諫早湾の締め切りで、本物のムツゴロウの最大の集落が壊滅的な打撃を蒙るという大惨事を前にして、畑正憲がなんらかの阻止行動をとったという話をついぞ聞かなかった。自分のニックネームになっているムツゴロウの事は当然他人事と思えない筈である。彼はその愛称のお陰で随分得をしてきた筈でもある。その彼がこれまでの恩を忘れて、ムツゴロウたちを見殺しにするとは何事か。全く呆れ果てた動物愛護家である。

聞いて驚くなかれ、諫早湾のムツゴロウは一億匹から多くて十億匹のムツゴロウがいたのである。梅原猛の『吾輩はムツゴロウである』「第一章 穴の中の哲学者」にそう書いてある。それが壊滅的な打撃を受ける。どうしてムツゴロウ氏は諫早湾の干潟にはいつくばって、瀕死のムツゴロウを演じてでも、世間にアピールしようとしなかったのか、彼は数億匹のムツゴロウの命よりも、締め切りで干拓され、洪水が予防されることで助かる人命や、その工事で潤うゼネコンの利益の方が大切だと考えているのだろうか。

 第一風水害で氾濫が起るのは、自然の循環である。それで生態系がリフレッシュするのである。その中で自然の恩恵を受けている人間たちは、風水害を折り込んだ生活を営んできた。洪水の予測は可能なのだから、人命の犠牲がでないように対策をとればいい。それを水俣湾それ自体をなくしてしまうようなことで安全にしてしまっても、生命のもとである自然自体を失ってしまっては、何にもならない筈である。

 大規模な土木工事をすれば、その恩恵に浴する者も出てくるが、環境が変化し、破壊されることで様々な被害が生じることにもなる。そこで利害得失が考慮されてプラスの方が大きいという行政判断がなされるわけだ。一度ゴーサインが出て工事が始まっていれば、それを止めて原状回復するには莫大な経費がかかるわけで、中止するのは大変困難になってしまう。しかし干潟環境に対する価値評価はこのところうなぎのぼりであり、渡り鳥の保護や生態系全体の保全を考えれば、政府や県の対応は著しく良識に欠けている。

それに諫早湾干拓で農地を増やすことには、もう意味がなくなっている。米は余って、生産制限をしているくらいで、農地を増やす必要は全くないのである。干潟の自然を守り、周辺の海苔養殖や漁業を守り、干潟を保全した方がはるかに経済的にも意義があるのだ。そういう行政による余計なお世話で大切な湖や湾が破壊された例はたくさんある。八郎潟、中の海などがそうだ。農地が足らずに、国民が飢えに苦しんでいるから、どうしてもやむにやまれない事情で干拓したというのなら、たとえ自然破壊を伴ってもそれなりの選択として評価できるかもしれないが、農地が余って使い道がない荒地になってしまっては、かけがえのない自然に対して言い訳が立たない。

梅原猛は四・五回は諫早湾にでかけて、調査し、干潟の保全を訴えてきた。そして締め切り後の瀕死のムツゴロウを見つめてきた。干潟でムツゴロウが掌の中で死んでいくの見て、彼はムツゴロウの怨霊を引き継いで、『吾輩はムツゴロウである』という長編小説を書こうと決心したそうである。 

                 夢の中ムツゴロウにぞなりたるか夢の中にて梅原なりや 

『吾輩はムツゴロウである』というが、人間が猫やムツゴロウに身になって考えることなどできる筈がない。所詮人間は人間本位にしか考えられないのではないかという批判もあるだろう。しかし人間と猫、人間とムツゴロウの区別に固執して、自分は人間様だと威張ってみたところで、どうせ短い命である。目くそ鼻くそを笑うようなものかもしれない。人間は人間が作り上げてきた文化をよほど凄いものだと考えているが、やがて時がたてば砂漠や森の中に人間の痕跡も消えていくのである。それに荘周の「胡蝶の夢」のように、夢で胡蝶になった荘周が、目覚めて荘周に帰った時に、それが胡蝶の夢ではないとは言い切れない。つまり大いなる生命はあるいは胡蝶にあるいは猫にあるいはムツゴロウになってあらわれるのであり、人間であるということの意義は、その大いなる生命に立ち返って、すべての事象に身を置くことが出来るというところにあるのである。

 それを試みるということは最も根源的であるという意味で哲学者梅原に相応しい行為である。ムツゴロウの思いをつづる、その行為こそが梅原哲学の文体なのであって、この問題を哲学論文に仕上げたところで、より深い認識が生まれるわけでもないのだ。『吾輩はムツゴロウである』という小説の中でどこまで生命の根源に迫れるかが課題なのである。

もちろん他ならぬ梅原猛が成ったムツゴロウであれば、梅原の思いがそこにこめられている。それは科学ではなく、文学なのだから梅原くさいムツゴロウはムツゴロウではないなどと目くじらを立てないで、梅原くささを愉しめばそれでいいのだ。

 梅原は、他民族の言語が導入される場合に蒙る変化には一定の法則がある筈だと考えて、それをアイヌ語と原日本語の関連を見極める研究に使っているが、この小説でも、人間の日本語がムツゴロウの言語に導入される際の変化の法則を作っている。

 日本国⇒ニイニイ国 長崎県⇒ナアナア県 諫早市⇒イットイット市 有明海⇒アーリアン 筑後川⇒チクチク川 山手線⇒ヤマヤマ線 福沢諭吉⇒フクフクユウユウ

 これらの例から最初の二音を繰り返すというのが法則らしいと分る。ただし夏目漱石がアオメトウセキとなっているのは不思議である。ナツナツソウソウの筈である。しかし言葉は法則に機械的に合致する分野ではないから、目くじらを立てるまでもないかもしれない。福沢諭吉が出てくるのは「独立自尊の精神」という言葉に関連する。この言葉は、一匹ずつ独立してそれぞれの穴に暮らしているムツゴロウのムツ精神の盗用ではないかというのである。ニイニイ国では富や権力のある人間ほどこの精神に乏しく、権力や権威にこびへつらうところがあるそうである。反骨精神において梅原猛は筋金入りだ。敗戦後軍隊から大学へ戻ったとたん、学部一回生のときに田辺元批判の声をあげている。そして卒論には権威ある書物からの引用のない論文を書いて、担当教授から作文だと批評されて食って掛かっている。彼は太宰治に惹かれたが、それは太宰のはちゃめちゃな志賀直哉批判を痛快だと感じたからである。処女作『美と宗教の発見』は鈴木大拙・和辻哲郎・丸山真男などの権威への「宗教的痴呆」という批判である。そして『水底の歌』では賀茂真淵・斎藤茂吉の権威を根こそぎに覆すものであった。

 そういうやすいは梅原猛という権威のちょうちん持ちではないかという批判があるが、それこそとんでもない誤解であって、そのことはこれまでの私の梅原研究の内容を全く理解していない証左である。それに私は『廣松渉「資本論の哲学」批判』で飛ぶ鳥を落とす勢いの廣松渉を批判し、主著『人間観の転換』でマルクス『資本論』を大上段から批判した男である。
 独立自尊の精神に欠ける権力者への追従者ばかりだから、政官財の癒着構造から利権でうごく政治や行政の体質が出来てしまい、諫早湾のムツゴロウがホロコーストされる結果になってしまったのである。もし独立自尊の精神をもっていれば、自分の仕事に誇りをもって取り組んでいるはずである。したがって、その仕事が人間環境を破壊し、大切な干潟の生物たちに壊滅的な打撃を与えると分かっていて、拒否しない道理がないのである。

 カントは、人間は欲望や利害に基づいて生活しており、利権に動かされやすい傾向性をもっているけれど、それが公共の福祉や人間環境に甚大な損害を与える場合には、その傾向性を抑えて、公共の福祉や人間環境を優先することができるとした。そういう良心の議会や裁判所を自分の内心にもっていて、自分自身でつくった自分を律する法に従い、それに背いた場合は、自分自身で自分を裁くことができるとした。それができる独立自尊の自律的人間になってこそ人格があると言えるのだ。人間の尊厳は道徳的主体として人格であるというところにある、とカントは人間の人間たる所以を説いたのである。

 アオメトウセキの『吾輩は猫である』の真の作者はトウセキではなくて、名無しの猫であったと、ハチハチゴロウが言う。つまり『吾輩がムツゴロウである』の真の作者もムツゴロウのハチハチゴロウである。つまり梅原にはムツゴウロウの怨霊がとりついているのだから、梅原は書かされているのであり、真の作者はムツゴロウなのである。それでハチハチゴロウからすれば、名無し猫のゴンベエはあまりに飼い主クシャミ先生の側にたって語りすぎている、それが不満だ。

というのが、クシャミ先生は被害妄想から自分が実業家の金田から監視されていると思い込み、逆監視のためにゴンベエを使ったのだが、問題が解決すると用無しになったゴンベエ猫はビールに酩酊して甕の中で溺死している。これはクシャミ先生の願望でもあったという。実際、クシャミ先生はゴンベエが咽喉に餅をつまらせてもがき苦しんでいてもわらいころげていたぐらいで、動物を愛護する気持などさらさら無く、ただ利用していただけなのである。

人間に絶滅されかかっているムツゴロウのハチハチゴロウからすれば、人間に対して甘い見方のゴンベエの姿勢はまことにはがゆいものがある。やはり猫などの家畜にはそういう人間への媚がしみついているのかもしれない。
 

                      浄き国入らむがためにムツゴロウ惜しまず棄てしか美大なる身を

  そこでハチハチゴロウはムツゴロウの歴史を語る。歴史区分は近現代史と古代史と神話である。まず近現代史であるが、それは約1万年前から始まっている。現代史は約50年前からで、盛んに大規模な干潟の埋め立てが始まってからである。

 この
1万年間はほとんどニイニイ国の干潟は変わらなかったという。ムツゴロウはアーリアン海の干潟にのみ生息していた。小規模な干潟の埋め立ては、かなり以前からなされていたが、その場合は、干潟の一部が陸になった分だけ海に新たな干潟ができて、ムツゴロウはそこに移転すればよかったらしい。

 ところがこの
50年間の干潟の埋め立ては急速なので、新たな干潟ができる間がないのである。特にこの20年間では干潟が半減してしまったということだ。それに干潟が残っているばあいでも、何億匹ものムツゴロウが絶滅している例もある。チクチク川河口のカラメカラメという干潟だ。もちろんトビハゼやシオマネキなども絶滅した。ゴカイすらほとんどいなくなって、鳥たちも寄り付かなくなったらしい。その原因は工場排水や生活排水で汚染されてしまったからである。

 近現代史というが、近代史はほとんど変化がなかったわけで、ムツゴロウにとっては平穏な時代が
1万年続いていた。それが現代史にあたる五十年間でムツゴロウは大規模干拓と汚染で絶滅の危機に瀕しているということである。このまま事態が進行すれば遠からず絶滅は避けられない。イットイット湾のムツゴロウの最大集落はもうわずかしか生き残っていないのだ。ハチハチゴロウはそれを釈迦の言葉をつかって「火宅の民」と表現している。もう干潟はぼうぼう燃えている家のようなもので、まさになくなろうとしているのである。

ムツゴロウが「火宅の民」になったのがムツゴロウ自身の身から出た錆ならば、ムツゴロウ自身も自業自得と諦めもつくだろう。これはひとえに人間というわがままで愚かな動物のせいなのだから、その怒りや怨みはおさまりがつかないのも当然だ。それでハチハチゴロウは人間もやがて「火宅の民」になる、いやもうなっているかもしれない。因果はめぐって、干潟という環境を破壊したつけはきっと人間にも回ってくるだろうと予言している。
 
  これは森の破壊にも言えることである。農耕・牧畜の時代に入ると人間は森の伐採を始めた。それが文明の開始でもあった。それ以来森 が伐採され続け、後わずかしか残っていない。熱帯雨林や冷帯林も今世紀中に地上から姿を消すだろうといわれている。森を伐採してしまうと、森の動植物は根こそぎ絶滅させられてしまう。そして森という環境によって保たれていた生命の循環が壊れていき、気候も砂漠化して人類も生きる場所を喪失していくのである。これこそ自業自得である。今、ムツゴロウの叫びに耳を傾け、干潟や森を守らなければ人間自身が絶滅することになるのである。


 梅原がムツゴロウの瀕死の姿に重ねてみているのは、人間自身の瀕死の姿である。確かにムツゴロウと人間は違う、別の種類の動物である。ムツゴロウは干潟の珍魚にすぎない。たとえムツゴロウが絶滅したところで人間の絶滅に結びつけるのは大人気ないと思われるだろうか。人間がムツゴロウを好物として乱獲した結果、ムツゴロウの個体数が激減したというのなら、まだ救いはある。漁獲制限をして、稚魚を放したりすればよい。それがムツゴロウの棲息場所としての干潟を無くしてしまうというやり方なのだから、問題なのである。ムツゴロウの環境世界全体を丸ごと破壊するやり方なのである。ムツゴロウも人間も大きな生命循環を構成しているのだから、それは同時に人間自身の環境世界をも破壊しているわけである。ムツゴロウも白熊も虎も滅びつつあるのに人間は大丈夫というわけにはいかないのだ。


 次にムツゴロウの古代史だが、約3万年前から約1万年前の海進期のことである。地球の温暖化の時期で氷河や氷山の氷が溶けて、陸のうちの沿岸部が水没する結果となった。その結果干潟同士のつながりは分断化されてしまって、各干潟が孤立化してしまったのである。その際水没した干潟にいたムツゴロウの大部分は他の干潟に避難することができずに、干潟と共に滅んだと言われている。ムツゴロウの古代史は大変な受難の時期だったのである。


 梅原がわざわざ古代史で温暖化による海進期を取り上げたのは、
21世紀は人為的な温暖化が深刻な地球環境危機を惹き起こす時期だといわれているからであろう。温暖化による氷河や氷山の溶解で海進がすすみ、干潟はもちろんのこと、三角州平野や珊瑚礁の島々などが水没してしまう危険が叫ばれている。ムツゴロウの古代史での温暖化は、循環的な氷河期・間氷期の繰り返しの中での温暖化である。これは自然現象であって、まだ諦めもつくが、2021世紀の温暖化の進行は全く人為的なものである。干拓や汚染だけでなく、人為的な温暖化による海進によってもムツゴロウは壊滅的な打撃を受けるわけである。20世紀末には温暖化防止条約までできたのだけれど、環境よりも景気対策に重点を置くアメリカがこれを反故にしてしまい、効力を発揮できない状況である。そして中東問題がこじれて環境問題への国連の取り組みはなかなか機能してくれない。この調子だと軍事面、経済面、環境面のすべてにわたってグローバルな人類的危機が深化し、カタストロフィに直面する危険が大である。

 このように古代史を振り返っても、ムツゴロウは人類の危機を象徴し、人類に先駆けて滅び去ることで人類に自らの痴愚と過ちを悟らせる犠牲的な救世主であることがわかるのだ。だとすると我々は犠牲になったムツゴロウを十字架にくくりつけ、これを崇拝するムツゴロウ教を興さなければならないことにならないだろうか。さしずめ梅原はその初代教祖にふさわしい。


 さて第一章を締め括るのが「ムツゴロウの神話」である。このムツゴロウの神話こそムツゴロウ教の聖典にふさわしい。神話には科学的根拠ももちろん史料的根拠もない、ただ人間の信仰が作り上げた想像力の結晶である。しかしそれを信仰する者には宗教的な真実があるのである。

 
  干潟の動物は他にもたくさんいる。それらも人間の犠牲になって滅亡しつつあるわけだ。その中でムツゴロウだけが救世主に選ばれる理由はどこにあるのか、それは独特の風貌と生態によって耳目をひくところにある。彼らは魚のくせに泥の上を這いまわり、大きな目玉を突き出して、穴の中に閉じ篭っていたりする。そして彼らは珪藻を食べて生きる聖なる修行僧のような食事に自足している。この珍しさ故に梅原は何故ハゼの一種が陸と海の中間の干潟にのぼり、人類の贖罪の十字架になろうとしているのかと問うのである。


 そこで梅原は、干潟はムツゴロウにとって浄土であったのではないかという仮説を立てている。例によって大胆極まりない仮説である。我々のような常識的な発想しかできない人間が推理すればこうである。ムツゴロウも魚だから当然海の中を泳いでいたはずである。浅瀬で海底の砂に潜って隠れるのが得意だったのだろう。ところが隆起によって環境が干潟に変わってしまったので、それに適応するために進化したのであろう。


 しかし梅原は、ムツゴロウは海中での生活に耐えられなくなり、そこから脱出してムツゴロウにとっての浄土である干潟での生活を神に願ったのではないかというのだ。もちろんムツゴロウ自身は干潟なるものを知らない。だから海中での海獄的生活から逃れることを神に願って、干潟に上げられたというのである。その際に、ムツゴロウは持てる富の全てを捨て去らなければならなかった。ほらバイブルに「富める者が神の国に入るよりはラクダが針の穴を通る方がずっとたやすい」とあるではないか。しかし魚であるムツゴロウにどんな富があるのか、裸で泳ぎまわっているだけではないかと言われるかもしれない。そこがムツゴロウ教の教祖梅原の想像力の見せ所である。なんとあの不恰好の極みのようなムツゴロウはかつてはこの世の魚で最も大きな最も美しい魚であったというのだから、全く吃驚仰天である。


 魚の中で最も巨大で最も美しい魚だったのなら、最も幸福な魚だったのではないかと思われるかもしれないが、それは考えが浅すぎる。軟骨魚の残党であるサメが、最も巨大で美しい硬骨魚であったムツゴロウの祖先を敵意をもって殺すために食い殺した。それから哺乳類であるイルカも巨大で美しいムツゴロウを捕まえてはなぶりものにして、殺戮を愉しんだのである。


 一方、ムツゴロウは、かつて最も巨大で美しい魚だったころ、イワシやアジやサバを餌にしていた。ムツゴロウはそれらの魚はムツゴロウの餌になるために生まれてきたのだと思い込んでいたのだが、それがどうも違うらしい、ムツゴロウがサメやイルカを恐れるように、彼らもムツゴロウを恐れていたのだ。しかしそれらを食べないでは生きていけないのだ。かくして弱肉強食の穢海を厭い、ムツゴロウは弱肉強食の無い世界を強く憧れ、そういう浄い世界に連れて行ってくれるように、血の涙を流して神に頼んだのだ。

その結果、ムツゴロウは最も巨大で美しい体を犠牲にし、卑小で醜い魚に変身して干潟を這いまわり、珪藻を食べ、穴に潜って暮らすようになったのである。そこはサメやイルカや巨大魚は入れない、弱肉強食の世界ではないので、卑小で醜くても食べられずに済むのである。ただし鳥に食べられることがある。歳をとって反応が鈍くなったムツゴロウが逃げ切れずに餌食になるらしい。これは過剰になりがちなムツ口の調節になっている。それで鳥供養といって、自発的に鳥にみずからの肉を食べさせる風習すらあるという。だから梅原によると鳥はムツゴロウの天敵ではないという。

この「ムツゴロウ神話」は宮沢賢治の『よだかの星』の下敷きにしている。梅原は日本近代文学で一番傾倒しているのが宮沢賢治である。ただしよだかは天上の星になる。それは世間を完全に超脱している。ムツゴロウは干潟の小動物になって、この世界に止まるために、人間の環境破壊の巻き添えを食って、人間の罪を背負って犠牲にならなければならないのである。しかしその犠牲によって人間たちが罪に目覚め、大いなる生命の共生と循環の哲学を悟って、地球環境を再生するか、それともムツゴロウの滅亡が人類滅亡の予兆だったことになるかは、まさしく我々人間次第なのである。

 最後に飛び出した目玉のことに触れている。ムツゴロウは小魚に食べられほど卑小なのだが、そのために穴に避難して、目玉を突き出していつもあたりを見回しているらしい。それがあのユーモラスな目玉になった原因と思われるが、梅原は「ムツゴロウ神話」で、初めて陸を見た時に、その緑に驚いて目玉が大きくなったとしている。そこで驚きが人間の根本感情だとしたデカルトを引き合いに出して、哲学者がもっとも尊重する感情が驚きだとしたら、驚きをもっともシンボリックに示しているムツゴロウこそ最も哲学的な動物だという。

ムツゴロウが最も哲学的であるのは、彼らの存在が、人類を大いなる生命の共生と循環に立ち返らせるための、贖罪の十字架であるという意味で、最も根源的な人間への問かけになっているということにあることを確認するのは読者には蛇足かもしれない。「ムツゴロウよ、許したまえ、人類を大いなる生命の共生と循環へ、生命の森、浄らかなる干潟へみちびきたまえ、アーメン」

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