やすいゆたかのくすのき塾講演集

200983

日本人のこころ2

 

神仏習合
やすい ゆたか

一、役行者の修験道

 法力で鬼神たちを掴まえてこき使いたり役行者は

 役の行者つまり役小角(えんのおづの、六三四年伝〜七〇六年伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者です。通称は役行者(えんのぎょうじゃ)です。『孔雀王呪経』を修行して、空を飛ぶなどすごい法力を得たといわれています。822年の『日本霊異記』によれば、役行者はこの法力で 鬼神を使役して金剛山と葛城山の間につり橋をかけようとしますが、一言主命に謀反だと讒訴されまして、伊豆島に遠流にされたといわれています。 後に一言主は仕返しに『孔雀王呪経』の呪力で縛られて『霊異記』執筆の時点で縛られたままだったといわれます。

 孔雀王は毒蛇コブラを食べる孔雀を、女性の明王に神格化したものです。孔雀明王が前生で僧であったとき毒蛇にかまれ死んだので蛇毒を除く誓願を立てたとされています。後年になりますと、孔雀明王は毒を持つ生物を食べる=人間の煩悩の象徴である三毒(貪り・嗔り・痴行)を喰らって仏道に成就せしめる功徳がある仏 だという解釈が一般的になり、魔を喰らうことから大護摩に際して除魔法に孔雀明王の真言を唱える宗派も多いのです。孔雀明王を本尊としたとした密教呪法は 「孔雀経法」とよばれます。真言密教において孔雀経法による祈願は鎮護国家の大法とされ最も重要視されたのです。

 一言主命は『古事記』では雄略天皇の一行とで会った時に、雄略に名を問われ、「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えたところ、大王は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げたといいます。一言主神はそれを受け取り、大王の一行を見送った、とあります。ということは、大王一行が葛城山中に無断に立ち入ったので、身ぐるみはがされてしまったということですね。

 さすがに『日本書紀』では出会って、一緒に狩りをしたことになっています。そして『続日本紀』では雄略と獲物を争って、怒りに触れ、土佐に流されたことになっています。ともかく葛城では強盛を誇っていたのでしょう。それを呪術でやっつけて 縛り付けたままということですので、神道に対する仏教の優位を示す話ではあるわけです。

  ただし役行者が元祖の修験道自体は、山岳信仰が起源です。つまり山自体が霊的な存在なのです。山に入って修行することで霊力が養われるということですね。 山が霊的存在だということは自然信仰ですから、仏教か神道かといいますと。神道に分類されます。それが真言密教と結びつきますと、山の霊力も孔雀明王の力もすべて大日如来の現われだということです。

 それに大日如来信仰自体が仏教なのに、宇宙の本体であるブラフマン(梵天)や太陽に対する信仰に近いですね。弥勒(マートレーヤー)菩薩信仰もミトラという太陽神信仰が仏教に入ったものだとされています。阿弥陀仏も無量寿光という光信仰です。もともと仏教も神道の一種、外来の神として 日本に導入されたわけですから、一言主命を『孔雀王呪経』で呪って使役したというのは、外来のグローバルな神でローカルな神を支配下においたというようなものと受け止めていいでしょう。

 ともかく修験道は山岳信仰と真言密教が習合していたのです。

                
二、泰澄の白山信仰

 白山の頂に立ち龍神の背に現らわるる観世音かな

 役小角の流れを汲んだのが泰澄という白山信仰を始めた人です。泰澄(たいちょう、六八二年〜七六七年)は、奈良時代の修験道の僧で越前国麻生津の出身です。泰澄は、養老元年水神・竜神として信仰されていた白山姫を717年に白山妙理大権現と称して祀りました。

 「権現」は仮の現れという意味です。泰澄は717年(養老1)4月、白山々麓伊野原で天女の夢告を受け、それより白山天嶺絶頂(てんりょうぜっちょう)に登り、持念したところ池から九頭龍が出現し、さらに持念するとそれが十一面観音となって現れました。つまり水の神・龍神である白山姫の本地もともとの姿は十一面観音だったということです。ですから泰澄は本地垂迹思想の先駆けと評価されるわけです。

 もっともこの所伝は、本地垂迹思想の発達した平安中期以後の潤飾があり、菩薩号や本地仏の配当などは、その思潮に応じて生まれたのであろうとも解釈されています。ともかく、仏僧である泰澄が白山を開き、白山明神を奉祀したことは確かでしょう。そういう意味で仏と神を祀るという神仏習合は行われていたわけです。

 725年(神亀2)、行基菩薩が白山に登り、泰澄に会って白山の霊応を問い、再会を再度に約して別れたという伝えもあります。ですから泰澄から行基へと神仏習合が発展していくことになります。
 

           三、行基菩薩と八幡神信仰

 八色の旗をなびかせ大仏の造立かなへと都へ入りぬ

 『扶桑略記』『八幡宇佐託宣集』『宇佐八幡宮縁起』などの諸書によれば、欽明三二年に八幡神が菱潟の池の辺に鍛冶翁(かじのおきな)として初めて現れたといいます。また大神比義(おおみわひぎ)という人物がこれを奉祀し、五穀を断ち、三年の祈念後、示現を乞うと、神は三才の小児の姿と現じ、託宣し ました。すると、最初辛国(からくに)の城に八流の幡とともに、天降り「日本の神となって衆生を済度しようとねがい、神と現れたのであり、われは日本の広幡八幡である」といったということです。

 ただし、それが釈迦如来の化身だとか、応神天皇であるとかと欽明天皇の時代に言ったとは考えられません。それでおそらく元々は新羅からの渡来系氏族であった辛嶋氏の氏神のようなものであったと思われます。八幡というのも旗をたくさんなびかせてご神体にするのが新羅ではあったので、そこから由来しているという解釈もなりたちます。鍛冶翁というのは辛嶋氏が新羅から鉄の精錬法を伝えたということで、それで氏神が鍛冶の翁なのでしょう。

 これが仏教と結びつくのは、全国に大仏造立の勧進を行ってい行基菩薩が、精錬技術をもつ辛嶋氏や応神天皇への信仰を広めようとしていた大神氏などに働きかけて、大仏造立に八幡神を参加させようとしたと解釈できます。つまり九州の精錬技術の動員の意味もあって、八幡神を大仏造立の応援に奈良の都に迎えるという一大セレモニーを挙行したわけです。そのために八幡神の格上げを図る為に応神天皇だったことにしたということですね。

  鍛冶の翁が三歳の小児になったというのは、誉田別皇子(応神天皇)が母である神功皇后の胎内ですでに新羅攻めの霊力を発揮したという伝承があるので、鍛冶の翁に見えるのは垂迹(あらわれ)に過ぎず、その本地はまだ幼児にすぎない誉田別皇子(後の応神天皇)なのだということです。そういうことで、大仏造立の大仕事には 皇室の祖霊の加護があるということです。

 もちろん応神天皇の時代には仏教は伝来していませんから、八幡大菩薩と呼んで熱心な仏教徒であるかにするのは無理があります。でも神になった以上は常に今の時代を生きているので、大仏造立に参画して、大菩薩にもなったのです。 応神天皇だったことにした理由は、聖武天皇の時代は新羅との関係が大変緊張していまして、新羅を侵攻すべしという意見も強かったわけです。鎮護国家の仏教や神道を求めるわけですから、八幡神にも新羅に対する軍神としての役割が求められたということでしょう。

 八幡神は隼人の乱の鎮圧についても大きな役割を果たしたとされていますから、新羅に対しても同様の活躍が求められたのです。それで八幡神は鍛冶の翁であるだけでなく、応神天皇でもあるということになるのです。そして応神天皇といえば、その母の神功皇后もセットになるわけですね。好都合にも八幡神にはヒメガミ信仰がありました。それは辛嶋氏の女性のシャーマンを神格化したものです。ヒメミコと考えれば卑弥呼を連想できますね。このヒメガミと神功皇后をダブらせると八幡神は実はホンダワケの皇子だったということになるのです。

 このような八幡神と応神天皇の結合、それと仏教との結合を主導したのは、辛嶋氏や大神氏の側からだったでしょうか、それとも行基菩薩や聖武天皇の側からだったでしょうか。今となってはどちらからと決定できないと思いますが、やはり仏国土の建設を本気で夢見、めざしていた行基と聖武天皇のコンビの指導的役割は大きかったでしょうね。

                                          四、神宮寺

 神ですら苦界にありてあえぎたり、共に歩めり仏の道を

六道輪廻の思想でいけば、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を無限に輪廻転生するということです。神は天人にあたりますので、やはり輪廻の輪からは逃れなれないのです。この輪廻する世界が苦界であり、この輪廻の世界から脱却して、涅槃の境地に入ったのが仏陀です。

  ということは仏の方が神より高い境涯にあるということになります。神も苦界にあって、煩悩に苦しんでいるということですね。それで神々も仏の救済を求め解脱を欲しているということです。

  715年には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されました。つまり気比大神を菩薩として崇拝したのです。その後鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設されたのです。また、宇佐八幡では、僧形八幡大菩薩像がつくられたわけです。

 奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がりました。そのほか若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神々も8世紀後半から9世紀前半にかけて、どんどん仏道に帰依したがる苦悩する神々が 現れたのです。おそらくそうでもしないと、神道だけでは信徒たちは離れていったのだと思われますね。

 これらの苦悩する神々を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになったのです。

 経済的な背景として、地方の豪族たちは共同体の首長であり、共同体をまとめあげるために氏神を祭祀してきたわけですが、共同体が崩壊して氏神信仰が薄れていきますと、新たな地方の地縁的つながりをつけるためには仏教のほうが相応しかったのかもしれません。

 神道から仏教に信仰の重心が移っていくというのは、神道のどういうところに物足りなさを感じ、仏教のどういうところに魅力を感じるからなのでしょう。おそらく仏教側に立って言っていると思いますが、こういう説明をする人がいます。

 神道の罪や穢れに対する対処は、禊や祓ですね。祓いたまえ、浄よめたまえということでそれで、おしまいですね。なにかおざなりな感じです。大乗仏教では罪によって地獄に落ちたり、輪廻の世界、苦界をさまようわけです。その苦しみから解脱するために、善行を積んだり、修行をするということですね。

 古代的世界では共同体の首長が祭祀を行い、あるいは共同体全体として神に頼っているわけですが、律令制に基づく土地公有制が形骸化して、首長層が領主化し、私的利害に基づいて行動するようになりますと、それに基づく利害対立が深刻になり、多くの犠牲者もでますし、没落する人もたくさんでます。欲望の虜になってがむしゃらに戦っていかなければ、家族や一門が凋落することになりかねません。それでいやおうなしに罪におちるということがあります。そういう罪も報いも私的なものですから、共同体的な氏神信仰では救済されないような気がするわけです。

 仏教ですと、罪に堕ち、そこから善行や修行で抜け出すのも、私的な個人的なことですから、鎮護国家の仏教としてだけでなく、個人的な魂の救済として仏教の方が説得力が出てきたのではないかというわけです。

               五、本地垂迹

 日の神は大日如来におわさぬや神も仏のかりそめにして

 話を聖武天皇に戻します。聖武天皇は行基菩薩に帰依しまして、行基菩薩を聖徳太子の生まれ変わりではないかと思いました。あるいは逆に、行基菩薩から聖武天皇が聖徳太子の生まれ変わりだといったのかもしれません。ともかく日本を仏国土にするという聖徳太子の理想を実現しようという情熱に聖武天皇は燃えていてたのです。

 生まれ変わりというのは、元々が聖徳太子で、聖徳太子は死んだけれども、その霊は行基か聖武天皇になって現れたということですね。「本地」つまり本(もと)の本来の姿は聖徳太子でその現われが行基や聖武天皇だという論理です。現れのことを「垂迹」というのです。

 聖武天皇は仏教中心の国造りを進めるに際して、神道の神々を無視するわけにもいけません。天皇の権威自体が神道に由来しているのですから。それで一番手っ取り早いのが神道の神と仏教の仏を同じものの言い換えみたいに同一視することです。

 『大神宮祢宜延平日記』におもしろい記事があります。742年(天平14)11月伊勢国へ聖武天皇が行幸された節、天照大神が聖武天皇に夢のお告げをしているのです。自分は日輪であり、だから大日如来にほかならない、つまり本地は廬舎那仏(大仏)であるから、仏法に帰依したいといったというのです。これが本地垂迹説の萌芽を示す最初の史料です。

 ただし『大仏造立の詔』がでたのは翌年ですから、この時点で聖武天皇の構想の中に既にあったのかどうかが問題ですね。

 大日如来(だいにちにょらい)の梵名はマハー・ヴァイローチャナ (महावैरोचन [mahaavairocana]偉大な光照者)です。摩訶毘盧遮那(マカビルシャナ)のという意味でもあるのです。密教において宇宙そのものと一体と考えられる法身仏です。その光明が遍く照らすところから遍照、または大日というわけです。ですから「大日=太陽」ではなく、太陽より大きな、影が出来ないよう太陽ということです。でも素朴に大日如来は太陽のことで天照大神と同一であると一般には捉えられていたでしょう。聖武天皇に大仏造立構想が既にあれば、そういう夢のお告げがあっても不思議はありません。

 しかし考えようによっては、天照大神を主神にする神話体系自体が、仏教の影響で成立したとも言えます。元々太陽神信仰は、生駒山や三輪山から昇る太陽ニギハヤヒ命を崇拝していました。これは男神だったのです。イワレヒコ(諡号神武天皇)の東征で屈服させられてニギハヤヒ命は、物部氏の祖先となります。日の出の太陽を遥拝する祭祀を取り仕切って、自分を日の出の太陽の化身のごとく言っていた男がニギハヤヒ命を名乗っていたのでしょう。

 ですから天照大神という女神はいなかったかもしれません。女神の太陽神としては新羅からやってきたアカルヒメがいますが、それはとても主神的なものではありません。それに女性のほとに陽が射してそれで生まれた玉が変身してアカルヒメになったので、太陽自体は男神であることになっています。

 ともかく太陽神は主神でなかったとしたら、主神は天御中主つまり北極星だったと考えられ、大王家は北極星信仰を中心にする氏族だったわけです。ところが仏教導入によって、毘盧遮那仏も大日如来も阿弥陀仏も弥勒菩薩もまぶしい光の信仰で、光の弱い北極星より太陽のほうが魅力的になってきたのです。しかし物部氏が実力があった時期は神道改革ができなかったわけですが、蘇我物部戦争で物部氏が衰退してしまって、太陽神を女神天照大神として大王家の祖先神だったことにできるようになったと推察できます。

 つまり天照大神が大日如来や阿弥陀如来の神道版として作られて、それで主神の坐にすわったということです。その意味では本地垂迹説は、発想としは天照大神が主神になった時点まで遡ることになります。もちろん仏教用語として一般に本地垂迹説が定着するのは、平安時代の後半からでしょうが。

 本地が仏で垂迹が神の表を示しておきましょう。

天照大神 = 大日如来、十一面観世音菩薩
八幡神 = 阿弥陀如来 = 応神天皇
熊野権現 = 阿弥陀如来
日吉 = 天照大神 = 大日如来
市杵島姫 = 弁才天
愛宕権現 = 秋葉権現 = 地蔵菩薩
素盞鳴 = 牛頭天王
大国主 = 大黒天
東照大権現(徳川家康) = 薬師如来
松尾 = 薬師如来
 

 



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