やすいゆたかのくすのき塾講演集

200932

日本人のこころ1

 

 記紀の神々
やすい ゆたか

神々の誕生

 御恵み感謝の祈り捧げつつ祟らぬようにと頼むのが神

 日本は豊かな自然なのですが、台風に襲われたり、気象の異変に悩まされたりもします。ですから常に自然の恵みに感謝を捧げ、自然の猛威が起こらないにお願いしていたわけです。それが自然発生的な信仰ですね。それで驚くべき対象や恵みや災害をもたらすものつまり感謝や願いをかける対象が神なのです。それは天体や山川などの事物や自然現象あるいは動植物などですね。人物でも知恵の豊かな高齢者や神かがりするシャーマンや強力の戦士などは神として崇拝の対象になったでしょう。

天の御中主(北極星)の神

 満天の星はめぐりぬ北天の動かぬ星をよりどころにして

 『古事記』の本文の書き出しは「天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神。次に高御産巣日神の神。次に神産巣日の神。」とあります。第一番目は「天の御中主の神」なんと北極星なのですね。

 「天の御中主の神」すなわち北極星信仰を祀っているのは妙見山という山です。岡山県にはなんと12も妙見山があるそうです。日蓮宗では北極星・北斗七星を菩薩にした妙見菩薩信仰があり、これが天の御中主信仰と習合しています。妙見山の妙見神社に祀られているのは北極星ですから、妙見山に登って、北極星に世の平和や旅の無事、家内安全、健康長寿などを祈ったのでしょう。何といいましても天に北極があって、日月星辰の動きが定まり、暦が成り立つのですから、何にもまして中心的な神だと言えます。

 北極星は道教では天皇大帝(てんこうだいてい)あるいは昊天上帝(こうてんじょうてい)とよばれる宇宙の主宰神だったわけです。道教はすでに三世紀には倭国に伝来していたことが鏡からも伺えます。それで元々は天の御中主を主神とする神話体系があり、大王の家系ではその信仰が受け継がれていたことも考えられます。それでいきますと、推古天皇から天皇号を採用したという説も神話体系と調和します。

 太陽神信仰は物部氏のニギハヤヒ信仰がありまして、全国にある天照神社のほとんどはニギハヤヒを祀っていたそうです。天照大神という女神になったのは持統天皇の時代からではないかと言う説もあります。もし元々太陽神が主神だったら物部氏の神の方が、大王家の神より格が上ということになってしまいます。 

高御産巣日の神と神産巣日の神

 天を衝き聳ゆる高木の結界で国生みたるや美斗の麻具波比 

「天の御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身を隠したまひき」と『古事記』にあります。それぞれ単独神で親とか配偶者の神はいないという意味です。「産巣日の神」というのは「結びの神」ということで、「実を結ぶ」など生み出す神ということです。ですから森羅万象が生み出されるにはこの「結びの神」が働いているということなのです。

 平田篤胤は天の御中主の神も含めて造化三神としています。篤胤によれば、天の御中主の神は万物の創造主なのです。その創造の働きを結びの神がしているわけです。でも記紀にはどのように働くかは一切記述がありませんので、何ともいえません。大いなる生命の生む働きを造化三神によって説明しようとしたのでしょうが、それは自然が自ら生み出すがままですから、ムスビの神がしていることは別に見えないわけです。夫婦がまぐわって子を生むという場合も、夫婦がまぐわえば子ができるわけですが、その際にムスビの神の働きは見えません。でもムスビの神の働きなのだということですね。陰の力として働いているわけです。

 どうして高御産巣日神と神産巣日の神があるのか、両者がどういう関係なのかもわかりませんね。自然は常に移り変わり、新たなものを生み出しているのですから、生む働きが大切です。スピノザの神も自然そのものであると同時に、自然の生む働きなのです。何か新たなる物を生み出そうとすれば、大きな壁にぶち当たりもがき苦しまなければ成りませんが、自然自身の生む働きであるムスビの神に身を任せ、ムスビの神と一つになって生み出せばいいわけです。それがムスビの神に祈るということです。

 ところで高御産巣日の神は高木の神として現れます。何百年、何千年も生きているような大木は生命の象徴です。天高く聳え立っていれば、天の裏側にある異界や、神々のいる高天原とも近いわけでそれだけ霊性が強いと感じられます。すべての生命の根源のようにも思われるのです。高天原の天孫族が天下りして地上を統治するさいに、この高御産巣日の神(高木の神)がいろいろ命令を下しています。それで高天原の主神天照大神よりも実権をもっていたようにもみえます。

 彼は娘栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメノミコト)を天照大神の長子天忍穂耳神(アメノオシホミミノカミ)に嫁がせます。その結果生まれたのが邇邇芸命(ニニギノミコト)です。天忍穂耳神が地上支配を命じられますが、それを邇邇芸命に譲ってしまいます。また武甕槌神を派遣して大国主命に国譲りをさせます。また神武東征にあたっては高倉下(タカクラジ)に布都御魂(フツノミタマ)という神剣をイワレヒコに献上させています。

 神産巣日の神はムスビの神として高御産巣日の神と同様の万物創成の働きをするわけですが、どちらかというと大地母神的な神だといわれています。『出雲国風土記』では御祖命(ミオヤノミコト)と呼ばれています。出雲の神々の母なる神としての性格をもっているのです。大穴牟遅(オホアナムジ=大国主命)が八十神たちに謀殺されたときも母神の願いを聞いて、きさ貝比売と蛤貝比売に蘇生させています。そして神産巣日の神の手の指の間から零れ落ちて生まれた小人神である少彦名神を大国主命の国づくりに貢献させています。神産巣日の神が大地母神ですから、その子の少彦名神も農業技術の神です。また医療や酒造りなども教えて、大国主の平和で豊かな国づくりには大活躍したわけです。

 『出雲風土記』には国譲りの話はありません。出雲大社も大国主の国づくりへの貢献のご褒美として神産巣日の神が建造したことになっています。大国主の支配は出雲国だけの話ではなく、甲信越、畿内、山陰、山陽、阿波、讃岐に及ぶ大国だったといわれていますから、『出雲風土記』では扱われないのかもしれません。

 

産土の神

 諸々の命産みにし土ならば土に還りて命産むかは

「ねんねこしゃっしゃりませ 今日は二十五日さ 明日はこの子の ねんころろ 宮詣り ねんころろん ねんころろん 宮へ詣ったとき なんというて拝むさ 一生この子のねんころろ まめなよに ねんころろん ねんころろん」 

これは『中国地方の子守唄』の歌詞の一部です。赤ちゃんが無事に生誕1ヶ月目を迎えたことを産土(ウブスナ)神に感謝して報告することを「初宮詣り」あるいは単に「宮詣り」といいます。

 産土の神はムスビの神の普通名詞のようなものです。産む土(スナ)ですから大地が命を生み出しているということです。日本的霊性では土地と土地の神は区別することはありません。強いて言えば、土地の生む働きが産土の神だということです。ですから我々も自分が生まれた土地の神の産む力によって生み出され、生まれた土地の神によって見守られているということです。それで産土の神にお参りすると病気や災難から守ってもらえるという信仰があるのです。

 産土の神はそれぞれの土地の神ですから、村に稲荷神社があれば、それがその村の産土の神です。八幡神社があればそれでもいいわけです。元々は産土の神は村の土地の神でそれぞれの地域ごとに別々の氏神だったのでしょうが、今では各地にある地元の稲荷でも八幡でも天神でも天照でもその土地の産土の神を兼ねているのです。 

伊耶那岐の命と伊耶那美の命の国生み神話

 稲育ち陽輝きて山火噴く吾がまぐはひに賦活せられて

 ムスビの神は高御産巣日の神と神産巣日の神でしたが、そのムスビの営みは国生みと言う形で行われなければなりません。その環境が整ったところで夫婦神が成りましまして、美斗の麻具波比(まぐはひ)をして国生みをするのです。つまりセックスによって国を生むわけです。

 それぞれ単独では何か生み出すのは難しいのですが、対極的なもの同士が、互いを否定しあって、一つになりますと、そこでどちらでもない第三者が生まれるという弁証法的な関係があるようですね。この原理を応用しますと、あるものから新しいものを生み出そうとすれば、そのあるものと対極的なものを比較対照したり、組み合わせてみたりして互いの欠陥を補い合い、長所を伸ばすようにすれば、新しいものができるのです。

 伊耶那岐の命と伊耶那美の命は「この漂へる国を修理め固め成せ」と命令されまして、そこで天下りするための天の浮橋に立ちまして、天の沼矛でかき混ぜました。そしてそれをゆっくり引き上げますと、その先から塩が滴り落ちます。これが積もってできたのが固まった自ずからという意味を持つ於能碁呂島(おのごろじま)でした。そこに天降りしまして、天の御柱を立て、八尋殿をぱっと立てたのです。

 これは何本か柱を立てて神域としたということですね。そしてお互いの体を見まして、できあがっているのだけれど、伊耶那美の命の体には出来上がっていないところが一箇所あり、伊耶那岐の命の体にはでき過ぎているところが一箇所あるので、「この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に刺し塞ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」と伊耶那美の命に誘いをかけたところ、それは善いということでじゃあ善は急げということで、天の御柱を回って出逢ったところで美斗の麻具波比をしようということになったのです。

 梅原猛は、天の御柱を一本の木ではなく、縄文時代の新潟県の真脇遺跡ようなウッド・サークルだったとにらんでいます。と言いますのが、天の御柱が一本なら回っている途中で顔を見合わせて、声を掛け合うことはできないけれど直系七メートルのウッド・サークルならそれが可能だからです。どうして木の周りを回るかといいますと、その木が高木の神なのです。つまり高御産巣日の神なので、生み出すエネルギーを与えてくれるわけです。その周りを回ることで高木の神に刺激を与えて、磁場の磁力を強くしているのです。

 その際、伊耶那美の命が伊耶那岐の命に「あなにやし、えをとこを(本当にいい男だこと)」と先に言い、後で伊耶那岐の命が「あなにやし、えをとめを(本当にいい娘だな)」言ったので。女が先に言ったのがいけなくて、手足のない水蛭子(ひるこ)の神と淡島ができてしまい、いずれも正式の子と認められなかったのです。水蛭子(ひるこ)の神は葦の船に乗せて流されてしまいます。

 それで今度は順序を正しく呼びますと五体満足の子ができたということですから、男女の順序を間違えば失敗するということで、男尊女卑の思想が現れています。最初に淡路島、次に四国、隠岐島、筑紫(九州)、壱岐島、対馬、佐渡島、大倭豊秋津島(本州)で大八島と呼びます。それからたくさんの神々も生みました。あわせて島の数は14、神は35柱です。

 それから天の鳥船という名の楠の船の神、穀物の神である大宜都比売(おおげつひめ)を生み、そしてとうとう火の神である「火の迦具土(ほのかぐつち)」の神を生んでしまいます。なにしろ火の神ですから御陰(みほと)が焼かれて病気になり、ついに神避(かむさ)りつまりお隠れになったのです。

 伊耶那岐の命は「いとしい妻の命を子一つには替えられない」と妻の遺体のもとにつっぷして泣きました。その涙が泣沢女(なきさわめ)の神に成ったほどです。その遺体を出雲と伯耆の境の比婆の山に葬りました。そして怒りが収まらないので、十拳(とつか)の剣を抜いて迦具土の神の頸を斬り落としたのです。

 これは身勝手ですね。だって火の神が生まれてしまったのは、自分たちの美斗の麻具波比があまりに情熱的過ぎて、その摩擦熱で御陰が火をふくぐらいだったからでしょう。それを火のせいにするのは責任転嫁ですね。

 それにしてもセックスをすべてを生み出す根源においたということは、日本神話の驚くべき特色ですね。大八島を生み、穀物を生み、海や山や火を生んでいます。まあ生むはたらきだからセックスだろうという発想でしょうね。セックスが生きる活力と創造のエネルギーを与え、自然の造化と一体化する営みだったのでしょう。

 伊耶那美の命と伊耶那岐の命の「美斗の麻具波比」と、獣や人間の日々の性の営みを切り離して捉えてはいけません。セックスをしている時は、我を忘れ、すっかり伊耶那美の命と伊耶那岐の命の原点に戻っているのです。人々は自分たちのセックスによって子ができるだけでなく、稲が育ち、陽が輝き、山が火を噴くと思っていたのではないでしょうか。  

黄泉国

 相見むと黄泉比良坂こえゆけど櫛投げつけて逃げ戻りこぬ

  神は死なないというのはギリシア神話では神の定義みたいなものですが、日本神話ではそういう定義はありません。でも神々の死は物語としては存在しても、では死んでしまった伊耶那美の命は現在存在しないのかといいますと、男に対して女が存在し、一般に陽に対して陰が、プラスに対してマイナスが存在する限り、伊耶那美の命は原理として存在し続けるわけです。

 ですから伊耶那美の命の神話的な死は、死後の世界である黄泉国(よもつくに)を神話として生むための死だと解釈できます。夫伊耶那岐の命は、伊耶那美の命に逢いたい気持ちが募ります。そして地下にある黄泉国に行って、「いとしい妻よ、まだ二人で作っている国は出来上がっていないから還ってきてくれ」と頼みますが、「もう私は黄泉戸喫(よもつへぐひ)してしまったから、還れないの」というわけです。つまり黄泉の国の食事をしますと、黄泉の国の住人になったので、この世には戻れないということです。

 黄泉の国は地下ですから、その食事というのは土と混じってしまうということでしょうね、だからもう生き返れないわけです。食事を普通の食事のように解釈しますと、黄泉の国もこの世もあまり変わりなく、ちゃんと肉体を持ち、食事で栄養を摂って生きていることになります。

伊耶那美の命は、「せっかく来てくれたのだから、黄泉神(よもつかみ)になんとか生き返らせてくれるようにかけあってみましょう。でも黄泉国を出るまでは、私を絶対見ちゃ駄目よ」と言いました。ところがなかなか還ってこないので、待ちきれなくなって様子を見に行ったのです。すると伊耶那美の命には蛆がわいてごろごろ鳴っているのです。体中に雷が居て鳴っているのです。それでぶったまげて逃げ帰ろうとしたわけです。

なんとか逃げおおせて、伊耶那岐の命は、黄泉国の入り口の黄泉比良坂に千引の岩という千人かがりでないと引けない岩を置いて塞ぎました。悔しくてたまらない伊耶那美の命は「そんなことをするなら、一日に千人を殺してやる」と呪ったのです。それに対して伊耶那岐の命は「それじゃあ、一日に千五百人分の産屋(うぶや)を建てよう」と言い返したのです。こうして一日千人死ぬけれど、千五百人が生まれるようになったということです。 

身禊

 身禊して大禍津日を拭えるや直毘靈のはたらきにより 

 黄泉国の穢れから身を清めるために筑紫の日向の橘の小門(おど)で、伊耶那岐の命は身禊(みそぎ)をします。一文字で「禊」とも書きます。神道では穢れを洗い流します。罪も洗い流します。身そぐを「身を削ぐ」と解釈して、罪や穢れのついた体を削ぎ落とすというように解釈することもできます。

 神道では「祓(はらえ)」も行います。祓は主に罪を祓うわけですが、身の穢れを祓うという言い方もします。伊耶那岐の命の身禊も禊と祓の両方をしています。先ず黄泉の穢れがついた持ち物や衣服を投げ捨てていますが、これは祓に当たるわけです。それで十二神が生まれています。中臣氏が神道を仕切るようになってから祓いが神道のパフォーマンスの中心になっていますが、大麻(おおぬさ)というひらひらのついた細い棒を振って、罪や穢れをその風で吹き飛ばせるでしょうか。

 罪や穢れを祓うのですから、ただ払いのければいいというのではありません。魂振(たまふ)るといって、魂を振動させて、払いのけるわけですね。

 さていよいよ禊です。適度の流れの中つ瀬に潜りまして、穢れをとりますと、それは八十禍津日(やそまがつび)の神、大禍津日の神になります。これらの神は穢れからできた神なので、いろいろ禍をもたらすわけです。そしてこの禍を直そうと流れがきて、きれいになりますね、この神が神直毘(かむなおび)の神、大直毘の神と言います。

 本居宣長は『直毘靈』でわが国である本朝は皇国(すめらみくに)であるとします。そして皇国は天照大神の生まれた国なので、直毘靈の活躍する国だとしています。しかし、いかんせん、中国はわが国で居心地が悪くなったが移り住みました。そして賢しらな知恵で人々をだまして儒教などを盛んにしたのです。それを素直なわが国は有難がって取り入れたものだから、神の大御心のままに生きる惟神の道(かむながらのみち)が廃れてしまった。そこで我々が国学を盛んにして惟神の道に戻そうとしているのは直毘靈の働きなのだというのです。

 

天照大神・月読命・須佐之男命の誕生

 母恋し荒ぶる神は泣き喚き大海原の水も干れたり 

 さて滌(すす)ぎの時に、安曇系の海の神である綿津見の神、住吉系の海の神である筒の男(つつのを)の命が生まれます。そしていよいよ三貴神と言われる天照大神、月読(つくよみ)の命、建速須佐の男(たけはやすさのお) 命が誕生します。

 伊耶那岐の命が左目を洗うと太陽神で女神の天照大神が、右目を洗うと月神で男神の月読の命が、鼻を洗うと暴風神で男神の建速須佐の男の命が誕生したのです。

 伊耶那岐の命は、この三柱の素晴らしい神を得て大変喜び、天照大神は高天原の支配し、月読の命は夜の世界を支配し、須佐の男の命は海原を支配しなさいと命じたのです。もっとも『日本書紀』では素戔嗚尊(スサノオノミコト)には天下を治めるよう命令しています。
 ところが須佐の男の命だけはその命令に従わないで泣き喚いていたのです。それで山の木は枯れ、海や川はすべて泣き干されてしまったというのです。そこで伊耶那岐の命が問いただすと、私は母のいる黄泉の国に行きたいと泣き喚いているのだと言うわけです。

 つまり伊耶那美の命は、須佐の男の命にとって母にあたるわけですね。三貴神は禊による誕生で須佐の男は伊耶那岐の命の鼻から生まれたわけですから、単為生殖の筈ですね。黄泉の国に逢いにいって穢れた結果だから、ふたりの子であるということになっているのかもしれません。それにしても一度もあったことのない母にそれほど逢いたいものでしょうか。ともかく母への想いの激しさを表現しているのでしょう。

 母子関係の欠落による満たされない想いが、須佐の男を荒ぶる神にしているのです。天照や月読はそんなことはないのですが、須佐の男に出たわけです。まあ母が居ないということの哀しみでみんなが暴れるわけにいかないので、末っ子に凝縮して爆発したのかもしれません。

 この三貴神は、室伏志畔の幻視を借りれば、畿内―天照、出雲―須佐の男、筑紫―月読というように、地域国家の神話のそれぞれ主神であったのかもしれません。

 

天照神話のなぞ

 天の日と巫女と鏡は三つにして一つなるかな天照女神よ

 神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ)つまり大和朝廷の初代大王神武天皇の曽祖父が邇々芸命(ニニギノミコト)でその祖母が天照大神にあたるわけですから、歴史上の人物としても天照大神に該当する人物が存在したのではないかと考える人もいます。つまり神と人間を峻別するのではなく、太陽神信仰で太陽と自己を一体化して捉えていた人物が天照大神として存在したとみなすのです。

 天照大神を祀る神社には御神体として鏡を祀っていますね。鏡は天照大神の分身のようなものです。光つながりで分身になるわけですね。ですから天照が憑依するシャーマンも天照の分身であるとみなしていいわけです。そこで太陽神信仰はいつからあり、天照大神はいつから存在したのかが問題です。

 もちろん縄文時代から太陽信仰はあったと思われます。しかしイワレヒコの五代前の人物となるとこれは難しいですね。邪馬台国の卑弥呼が日の巫女であったと名前から想像されますから一番ふさわしいのです。『日本書紀』では別名が大日 貴(おおひるめのむち)になっています。 は霊と女を合成した和製漢字です。つまり巫女という意味ですね。日はヒミコと読めるのです。おそらく『日本書紀』を書く時に、『魏志倭人伝』を参照したので、卑弥呼を念頭において天照大神の話を考えたのでしょう。でも彼女は三世紀中頃に亡くなっています。イワレヒコの大和政権はその頃までにはできていたはずですので、年代的にもっと古い人でなくてはならないでしょう。

 太陽神が女神だったのは持統天皇からだという解釈があります。つまり『古事記』の編纂にあたって持統天皇が孫の軽皇子に皇位継承がしやすいように、天照大神を女神にして、天照から孫の邇々芸命に天降りして地上を支配するように命じたという説話にしたという説です。ただその説ですと、それまで太陽神は女神でなかったという証拠が必要です。

 新羅の王子の天日矛が太陽神が寝ている娘の陰に陽射しを刺して妊娠させ生まれた玉を手に入れたら美しいアカルヒメになったので、妻にしたのですが、文句を言うと父の国へ還るといって倭国に逃げたのです。そこで王子の地位を捨てて倭国に追ってきて帰化したという説話があります。これでは太陽神は男ですが、いかんせん新羅が舞台ですね。

 またイワレヒコが東征した時に河内や大和は饒速日命(にぎはやひのみこと)が支配していました。彼自身が駆け上る太陽を意味する太陽神の化身です。つまり男神だったわけです。そしてイワレヒコに帰順しまして、物部氏の祖先になっているわけです。天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日が正式名ですので天照という名もニギハヤヒの一部を取ってできたと想像されます。

 それに物部氏は軍事と祭祀で大和政権で重要な役割を果たしていたといわれていますから、天照は元々男神だったという説は説得力があります。全国の天照神社のほとんどが元々はニギハヤヒ信仰だったとも言われています。もし太陽神が主神ですと、物部氏の祖先神が主神だということで大王家の方が物部氏より宗教的に格下になってしまいます。

 ですから、太陽神は主神ではなく天御中主や高御産巣日を中心にする神話体系があったと考えられますね。それを物部氏が蘇我・物部戦争で衰え、さらに乙巳の変で蘇我宗家が滅んで、中臣氏が祭祀を仕切るようになって根本的に神話体系を変えて、女帝の時代に相応しく天照を女神で主神にするということになったのかもしれません。

 ただしそれはあくまで七世紀から八世紀初めの政治情勢によって記紀の記述が大きく左右されているという前提にたっての推理です。『日本書紀』は本文だけでなく一書によればということで多くの文献から引いていますね。これだけの本に書いてあるのだから、そこから歴史を構成してくれという意味かもしれません。もっともそれも為政者のお得意の誤魔化しである可能性もありますが。 

天照信仰と儒教および仏教の影響

 剣より愛の光と暖かき慈悲で包める徳の支配を

 日本神道の成立は文献的には、中臣氏の神道までしか遡れないでしょうが、『古事記』『日本書紀』などの伝承を検討しますと、元々は天御中主や高御産巣日、神産巣日などを主神にした神話体系を持っていた時期が先行したと思われます。あるいは月読命も中心的な役割を果たしていたかもしれません。

 なぜなら、『隋書倭国伝』には「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、いう我が弟に委ねんと」とあります。倭王は宗教的な儀礼は夜のうちに行っていたと見られるからです。それに道教の天皇大帝信仰の影響もあったでしょう。

 それが天照大神を主神とする太陽信仰中心に変わったのは、儒教と仏教の影響が考えられます。儒教では徳によって治める徳治主義が強調されます。武力で覇権を確立して治める覇道に対して、王者の仁徳で人民を安んじる政治が求められるわけです。

 元々はスサノオが武力で人民を統治する形が、想定されていまして、『日本書紀』のようにスサノオが天下を治めるはずだったのです。ですから地上に王権ができるとしますと、スサノオの子孫が治めることになるはずで、大国主の統治はその線に沿っていました。しかしスサノオは嵐の神であり、武力で支配するわけです。

 ところが天照は太陽神ですから、暖かい陽光を降り注ぎ豊かな稔を与えてくれる徳治政治です。イソップの北風と太陽の比喩のように、仁徳で支配するのが正しい政治のあり方だということです。それで太陽神の子孫が天下を治めるべきだということに変わってしまったのです。

 太陽だって日照りの災害をもたらすから一概に言えないのですが、もう一つは仏教の影響ですね。それによって太陽がさらに慈悲の本体のように捉えられたのです。聖徳太子の時代に浄土教の信仰が入っていました。『天寿国繍帳』は、推古天皇の孫で廐戸皇子の正妻であったといわれる橘大郎女が作らせた刺繍ですが、死後天寿国つまり阿弥陀浄土に太子は往生しています。阿弥陀如来の梵名 はアミターバで無量の光という意味です。つまり光の仏なのです。

 ちなみに華厳宗の宇宙の本体である仏の毘盧遮那仏やそれが人間に対して法を説かれた姿の大日如来も本体は光であるとされます。ですから飛鳥・白鳳・天平時代の仏は無量の光を降り注ぐ太陽のようなイメージで捉えられていたわけです。この仏教の圧倒的影響が神道にも及んだとしたら、主神が北極星や月から太陽に変わったということは十分ありえる話ですね。

 日本は縄文時代から太陽神信仰が盛んだったといわれています。暦などを考える時に日の出の方向、日没の方向とかが重要ですし、もちろん太陽が昇らないと生活が成り立ちません。農耕が中心になった弥生時代はなおさら太陽信仰が行われます。物部氏の祖先のニギハヤヒは生駒山や三輪山に昇る太陽を信仰していました。ただし、ニギハヤヒも天孫族出身ですから、彼自身が太陽神の化身となって河内・大和に君臨したのは、地元の人々の信仰に融合したからだと思われます。

 大和における古墳時代の古墳の並べ方も日の出の方向太陽の方向にあわせていたと言われますから、太陽神信仰が尊重されなかったわけではありません。しかし天孫族の部族としての神話体系の主神には天の御中主が座っていたらしいということですね。それはおそらく天孫族が海人出身であったことと関わるのではないでしょうか。

 航海においては星が頼りで、位置の変わらない北極星は天を支配、自分の周りを巡らせて天の秩序を統合し、とりわけ航海の安全を守ってくれていたわけです。

 

誓約(うけい)

 スサノオの十握剣アマテルが食べて生まれし神は女神か

 さて月読み命については穀物神を斬り殺す話ぐらいしかでてきません。天御中主と共に夜の世界では重要なので、元々はいろんな話があったでしょうね。物語文学は『竹取物語』から始まりますが、『竹取物語』は月読み命を主神にしていた筑紫の国つまり九州王朝の終焉を素材にした物語であろうという幻視を室伏志畔はしているのです。

 記紀神話は天照大神とスサノオの命の確執を中心に展開します。この神々の確執をバックにオオクニヌシの命がニニギの命に国譲りするという話につながるのです。

 スサノオが母イザナミを慕って海や川を枯らすほど泣き喚く、暴れると建物もみんな壊れてしまうというので、そんなに母の住む根の国に行きたいなら勝手にしろと追放されることになるわけです。これは母性に役割の重要さを思い知らされる話で、スサノオが暴れん坊のわりにはどこか憎めないのはそのせいでしょう。青少年の非行問題でも背景に必ず家庭の崩壊があり、母性や父性の欠如があると指摘されていますね。

 スサノオは根の国に行くことを姉の天照に報告しようと、高天原に昇ります。高天原つまり天孫族の出身地がどこであったかがよく問題になります。神話的には天に在るわけですが、歴史的にはやはり朝鮮半島か対馬、壱岐あたりから進出してきたと考えられます。加羅(任那)がもっとも有力ですね。

 ということは半島は天照の下に治まっていたのだが、列島は自然災害や戦争が多くてなかなか治まっていなかったということかもしれません。それでスサノオが半島に上陸したということで、天照としては高天原をスサノオに蹂躙されては大変だと戦支度をして出迎えるのです。ですから半島側から見れば、列島は野蛮な土地であり、スサノオが暴れている土地である。しかしいつかはスサノオを根の国においやって、やがて天照の権威で治めなければならない土地だと考えたのは当然だったかもしれません。

 スサノオに対して天照は戦支度で出迎えたので、スサノオは姉に報告しに来ただけで侵略の意思はないとし、そんなに疑うのなら誓約(うけい)をしようと言います。つまりお互いの持ち物を交換し、相手の物を食べて神を生み、自分の持ち物から生まれた子供が女だったら自分の勝ちで、侵略の意図のないことの証明だとしたのです。

 そこでスサノオの十握剣(とつかのつるぎ)を天照が食べて、天照は多紀理比売(たきりひめ)、市寸島比売(いちきしまひめ)、多岐都比売(たきつひめ)という航海安全の宗像神社の三女神を生みました。そして天照の八尺の勾玉(やさかのまがたま)をスサノオが食べて、天の忍穂耳(アメノホシオミミ)の命、天の菩比(アメノホヒ)の神など五柱の男神が生まれて、スサノオの勝ちだということになります。

 この誓約で生まれた子供は生んだ神の子ではなくて、生まれる材料になった持ち物の所有者の子なのです。ですから宗像三女神はスサノオの娘であり、五柱の男神は天照の子供だということになります。それだけ十握剣はスサノオと一体であり、八尺の勾玉は天照と一体だったということになります。スサノオは嵐であり、そして天孫族の列島での王スサノオの身体であると共に十握剣でもあるのです。天照は太陽であり、天孫族の半島での女王天照の身体であると共に八尺の勾玉でもあるということです。

 これは古代人の心性にとっては当然のことかもしれません。愛着を持って使っている道具、弓矢とか土器とか、自分が誰にも負けないと思っている織物とか、料理などその人の命が感じられる物は、その人自身でもあるわけです。どうしても近代人は人間を身体的個人として捉えがちなので、古代人の「物」感覚を理解するのはむつかしいのです。

 しかし天照はスサノオの地上支配権を認めないで、自分の子供の天の忍穂耳の命に地上支配をさせようとします。でも彼こそ、スサノオから生まれた子なのです、そのせいか天の忍穂耳の命は息子のニニギの命に天降りさせて地上支配させようとするのです。現代人の感覚からはスサノオから生まれた天の忍穂耳の命はスサノオの子でありその子ニニギやイワレヒコはスサノオの系統ですね。ですからオオクニヌシから国譲りさせるのは筋が通りません。  

天の岩戸

 日隠れ絶望の闇襲えども笑い転げば光射しきぬ

 誓約でスサノオが勝利したので、彼は勝った、勝ったという名前を自分が生んだ天照の御子である天の忍穂耳の命につけています。正式名は「正哉吾勝勝速日天の忍穂根尊(まさかあかつかちのはやひあまのおしほねのみこと)」です。

 天照にすれば、スサノオに侵略の意図がないのなら、根の国にいくということはもう分かったから、さっさとおそらく加羅のことだと思われる高天原からは立ち去ってほしいところですが、居座っています。

  誓約に勝ったからしたいほうだいしてもいいと勘違いしたのか、春は種を重ね播きし、田の畔を壊したりしました。秋には馬を田に放して田を荒らしたのです。そして新穀を神にお供えする新嘗祭の最中にその部屋で糞をしました。そして機殿にいた天照に馬の皮を剥いで御殿の屋根に穴を開けて投げ入れたのです。一書では稚日女尊(わかひるのめ)が機を織っているところに投げ入れたので、驚いて機から落ちた稚日女尊が事故死してしまったのです。

 そこで頭にきた天照大神は天の岩屋に入って、磐戸を閉じて籠もってしまったのです。その結果国中常闇になってしまったのです。いわゆる皆既日食の神話化です。日食は一時間あまりで終わってしまうものだということを知っていれば、大騒ぎすることもなかったのでしょうが、まだ文字の記録のない時代でしたので、慌てふためいたのです。

 この世に光をもたらす太陽神の死と再生は非常に重大な宗教的テーマでした。太陽の死と再生は三種類あります。先ず毎日の日没と日の出です。日の出を拝むという風習がありますが、再生してくれた太陽神に感謝するわけです。饒速日命は駆け上る太陽の神ですが、これを仰ぎ見て、恵みに感謝して祈るわけです。

 次に一年の太陽の死と再生です。一番光が弱くなった冬至を、太陽の死と再生の日とするわけです。イエスの聖誕祭が、冬至のすぐ後に設定されたのは、太陽神信仰で太陽の誕生日とされていたからです。キリスト教は、イエスは世の光であるとして、イエスと太陽を同一視させ、太陽神信仰の人々を取り込もうとしたわけですね。

 そして最後が日食における太陽の死と再生です。突然の太陽の死は世の終わりのごとく思われ、大変な恐怖を与えたでしょう。そこでいろんなことをして太陽をよみがえらそうと試みるのです。

 高御産巣日の神の子で深く考えて知恵に優れた思金(おもひかね)の神にアイデアを求めます。するとまあドンちゃん騒ぎを天の岩戸の前でして、みんなが楽しそうに大笑いしていれば、天照にすれば、自分が隠れてこの世が暗闇になってみんな困っているだろうと思っていたのに、どうしたことだろうと顔をのぞかせるに違いない、その瞬間に怪力の手力男(たぢからを)の神にこじあけさせようという作戦です。

 その際、主役はストリップショーをした天の宇受売(あめのうずめ)の神です。古代人は鈿(花簪)を刺す巫女をウズメと呼んだようです。それで大きな桶をうつ伏せにしてそれを舞台にして踊ったのです。鏡を前にぶら下げて、それを見ながら踊ったということですね。これは大変大胆な発想ですよね。太陽が隠れちゃうと、どうしても暗い発想しか出ないと思いますが、底抜けに明るい、プラス思考の発想です。

 この踊りで太陽を甦らせようという蘇生のパワーがあるのです。性は命の源泉ですべてを生み出すわけですからね。これが神楽や芸能の原点になります。「巧みに俳優(わざおぎ)をなし」と『日本書紀』にあることから、俳優の元祖だといわれています。それで芸能の神として車折神社(くるまざき)に祀られているのです。

  それから踊りという面では、中世の踊念仏も一心不乱になりますと、大変しどけない格好になったようで、それで評判を取ったようですね。天の宇受売の芸風を受け継いでいたようです。それにしても芸能の元祖がストリップというのは驚きですね。そしてその技が観衆を楽しませ、笑わせるところにあったということも興味深いところです。ストリッパーやコメディアンといった人々はどうしても低く見られがちですが、天の宇受売神話を読めば勇気付けられ、誇りを持てるのではないでしょうか。喜びを与え、命を甦らせるのは性欲を刺激し、笑いを呼ぶ我々なんだ、我々こそアーチストの原型なんだと。

 天の宇受売は国津神の猿田彦と結婚して、道祖神になります。男女ペアで道端に祭られている同祖神は夫婦和合と豊穣の神として農民に信仰されてきたのです。事件の発端になったスサノオは罰にたくさんの財を供出させられ、鬚とと手足の爪を切られ、御祓いをされて、追放されたのです。

 『古事記』ではスサノオは海原の支配を命ぜられたとありますので、海洋の対馬や壱岐に拠点をもっていたかもしれませんね。でも『日本書紀』では列島の支配を命ぜられているようですから、筑紫や出雲に拠点があったかもしれません。ともかく列島から半島に舞い戻って暴れた倭寇のはしりが一世紀に既に居たということですね。確かに『新羅本紀』にはそういう記事があるのですが、『三国史記』の編纂が李氏朝鮮によるものですから、信頼できる史料に基づくのかどうか疑問視する人も多いようです。

 

八岐大蛇伝説

 スサノオが八岐大蛇の尾を斬りて取り出す剣天叢雲

 さて高天原から「神逐(かむやら)ひ」で放逐されたスサノオは、出雲の国に天降ります。そこで肥の河の上流で足名椎(あしなづち)と手名椎という老夫婦が童女を置いて泣いていました。そのわけは、自分たちには八人の女の子がいたけれど、毎年八岐大蛇が来て食べてしまった、今年もこの子を食べに来るので泣いているというのです。それでどんな姿か尋ねますと、目は赤いタンバホオズキのようで、体は一つなのに、頭と尾は八つずつあります。その長さは八つの谷と八つの山に渡っているというのです。

 そこでスサノオは自分が八岐大蛇を退治するので、その娘を嫁にくれないかというのです。それで名前を聞かれ、天照の弟のスサノオだと明かして、承知させます。そして娘を櫛に変えて髪にさし、老夫婦に酒をつくらして八つの酒船を用意しておいたのです。八岐大蛇は酒には目がないらしくて、大酒を食らって酔いつぶれてしまいます。それで十握の剣で首と尾を斬りおとしてしまいます。すると肥の河は血の河になったといいます。

尾を斬っていますと剣がはこぼれしたので、何かあると取り出しますとそれが見事な剣でした。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼びます。八岐大蛇の上にはいつも雲が群がっていたからだそうです。これは雲を呼ぶ剣という信仰もあり、嵐を呼ぶ男スサノオに相応しいですね。また雨は農耕には不可欠ですから、雷を呼び雨を降らせる剣として支配者として必要な農業祭祀の道具ともいえます。

もちろんこの剣は天下を剣で治める覇権の象徴です。八岐大蛇は出雲の八氏族の象徴といわれます。出雲を剣で平らげた話だということですね。また出雲地方だけでなく、大八島全体が八岐大蛇と考えれば、この剣は列島全体の霊だということになります。ですから地の国を支配する覇者が持つに相応しい剣です。剣自体が列島の霊であって、剣に霊が宿っているのではありませんよ。

 スサノオはこれを高天原の天照に献上したとあります。これは後に三種神器の一つとして朝廷の天皇の資格のように言われます。それでスサノオから天照がもらったことにしないと困るわけです。でもどうして献上するかその理由が分かりません。

それに『日本書紀』では、五代の孫に献上させていますから、すぐに献上したわけではありません。後にオオナムチがスサノオから生剣を盗んでいます。これが天叢雲剣だった可能性もあります。だとすると国譲りの際にニニギの命に献上されたということでしょう。

 スサノオは根の国に行くはずなのに櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚して、なかなかそれどころじゃなくなります。ついに心が清清しくなった出雲の須賀に宮を作ります。そこに雲が立ち上ったので、御歌を詠みます、この歌が現存する最古の歌といわれています。 

「や雲立つ 出雲八重垣。 妻隠(つまご)みに 八重垣作る。 その八重垣を。」 

これは妻を奪われないように八重垣で囲んだということですが、同時に非常に大きな要塞を築いたということで、出雲を拠点に勢力を張ろうとしていたことが分かります。そしていろんな女性と結婚して神々を生んでいます。その中には、大年の神や宇迦の御魂の神など重要な神がいます。これらは農業の神ですので、次は農業の神々を取り上げましょう。 

 

農業の神々

 次々と口からご馳走吐き出しぬ保食の神に穢れなけれど

 農業に関係する神々と言えば、ほとんどの神々が多かれ少なかれ関わっています。天の真ん中にいる天の御中主があってはじめて、天体の運行が成り立ちますから、農業には欠かせません。高御産巣日の神、神産巣日の神および各地の産土の神々も、物を生み出す神として農業の生産を支えています。もちろん美斗の麻具波比で日々頑張っている伊耶那岐の命と伊耶那美の命の生む働きがあって、作物も実るのです。猿田彦大神と天の宇受売の神のご夫婦も同祖神として子作りと豊作に貢献しています。

 三貴神と言われる天照大神、月読の命、須佐の男命も当然農業では重要です。天照大神が居られないと陽が射さないので作物は全く実りませんね。月が出るので暦が成り立ちます。農業には大切です。スサノオは雨を降らせますから農業には大切です。また洪水で土が入れ替わり、豊穣をもたらします。

  またスサノオを祀ることで風水害などの災害からまぬかれることもできるのです。日本では疫病神や貧乏神、各種の祟りの神などを祀って、災難を免れようとします。祀れば災難や祟りをもたらす神は、我々を守護してくれるといことになっています。ですから天変地異に悩まされている日本の農業では荒ぶる神々も大切なのです。

 さてもっと直接農業に関する神々を見ていきましょう。先ず『日本書紀』にある保食の神(うけもちのかみ)です。三貴神のうち天照大神はさっさと高天原に昇られました。そこから葦原中国には保食の神がおられるから見てきなさいと月読み神に命じられたのです。

  保食の神は月読尊を歓迎して食事を差し出したのですが、陸を向くと口から米の飯を、海を向くと口から魚が出てきます。そして山を向くと口から毛皮の動物が出てきたのです。それを月読尊に出したものですから、「口から吐き出したものを喰わせるのか、けがらわしい」と言って、剣を抜いて保食の神を殺してしまったのです。

 そのことを月読尊が姉に報告しますと、天照は「お前は悪い神だ、お前とはもう会いたくない」と言って、夜と昼に分かれてしまったという説話です。なかなか兄弟姉妹仲良くとは神々でもいかないものですね。それで天照が天熊人という神に供える米を作る人に保食の神の様子を見にやりますと、死体の頭から牛馬が生まれ、額の上に粟が生まれ、眉の上に蚕が生まれ、眼の中に稗が生じ、腹の中に稲が生じ、陰部に麦と大豆・小豆が生じていたのです。こうして家畜を飼い、穀物を栽培し、養蚕をして生糸を生産するという農業の起源になったということですね。

 これとほとんど同じような話が『古事記』ではスサノオと大気都比売(または大宜津比売おおげつひめ)の関係でも起こります。スサノオがオオゲツヒメに何か食わせてくれと注文しますと、鼻口尻からいろいろ美味しそうなものを取り出したのです。でもスサノオはやはり「キタネエーなもう!」と怒って殺してしまったのです。そうしたら頭に蚕、眼から稲種、耳に粟、鼻に小豆、陰(ほと)に麦、尻に大豆が生じたのです。

 インドネシア・セラム島のヴェマーレ族の神話にはココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女が登場します。彼女は様々な宝物を大便として排出して、村人に配ったら、村人たちは気味悪がって彼女を殺してしまったのです。そして、死体を切り刻んであちこちに埋めました。すると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となったということです。それで神の死体から食物が生じる話をハイヌウェレ型神話といいます。インドネシアからいったん中国に伝わり、中国から日本に伝わったらしいのです。

月読み神やスサノオの神は、ただ体から出てきたものを食べさせるというところだけ見て、穢れていると思ったのです。まあ浅はかな神々です。保食の神もオオゲツヒメも大地母神のようなもので、大地を人の姿の神にしているのです。大地のいろんな穴から出てくる生き物を我々は食べているわけで、それで口や鼻や耳や尻や陰から出てくるわけです。それを穢いというのなら大地から生まれてくるものは何も食べられません。肉食動物は草食動物を草食動物は草を草は土や空気から水や養分を得て生きていますね。ですからすべて土から生まれています。そういう生命の循環を象徴しているのです。それを穢いといって食べないばかりか、その神を殺したりするのはとんでもないことだという寓話です。

しかもその神を殺すことで五穀や家畜などが生じてくるということですね。それは食べることは殺すこと、つまり命をいただくことなのだということでしょう。そしてその命を燃やして生きているわけです。大地女神の体を食べていろんな植物や動物が生まれてくるということですね。そして殺して食べてばかりでは駄目で、最後には殺されて食べられるわけです。そうして大地に戻り、また生まれてくるという循環があります。

我々は五穀や家畜を食べる時に神の体をいただいているのだと、ありがたい感謝の気持ちを持つべきなのです。そして食べられてまた産土の神に還るということですね。そういう自覚がないと、無自覚に自然を人間の欲望のままに荒らしてしまうことになってしまい、神なる生命に預かることもできなくなってしまいます。

食事の時きちんと手を合わせて、いただきますと言って食べていますか。我が家では五歳の孫娘がいて「ごはんありますか」と言いますと、みんなで「ありますよ」といいます。すると「では手を合わせて、ご一緒に、いただきます」といいます。保育園の給食でやっているようです。それだけでとても有難い気持になるから不思議ですね。

 

大年神

 正月の神は稔りを持ち来る恵方に向かいて門松立てむ

日本の昔話に「かさこ地蔵」と言う話があります。「正月様がいらっしゃるちゅうに、餅この用意もできとらん」という台詞があります。この正月様はスサノオと大山津見の神の娘である神大市比売(かむおほちひめ)との間に生まれた大年神(大歳神)のことです。

毎年恵方(えほう)の方角からやってくる来訪神なのです。ですから恵方神とも呼ばれます。年神をお迎えするために門松を立てますが、神の依代(よりしろ)にするためです。恵方は五種類あって年によって変わります。

年の十干

方 角

西暦年末尾の数字

甲・己の年

甲(寅卯の間)

東北東

4 または 9</< td>

乙・庚の年

庚(申酉の間)

西南西

0 または 5

丙・辛の年

丙(巳午の間)

南南東

1 または 6

丁・壬の年

壬(亥子の間)

北北西

2 または 7

戊・癸の年

丙(巳午の間)

南南東

3 または 8

  正月がやってくるのは当然のことで喜んで迎えるのはおかしいと思いませんか。それが違うのです。「年」という言葉には稔という意味があり、年神はだから豊作をもたらす穀物の神なのです。「祈年祭(としごいのまつり)」は豊作を祈願する祭りなのです。

ですから正月の祭壇には米俵を飾ったり、鏡餅を飾ります。これは年神へのお供えとされていますが、元々は稲自体が神様だということですね。弥生時代の建物は、人間の建物は竪穴式住居なのに、米の倉庫だけは立派な高床式になっていますね。もちろん湿気を防ぐためですが、神である稲を祀っていると考えれば、稲の住居の方が人の住居より立派なのも納得がいきます。それだけ命の源泉として稲は神聖視されていたということです。

新年は新しい年神の年なのです。つまり穀物は毎年収穫され、その年の穀霊は死に正月に新しい穀霊が誕生してやってくるという死と再生の繰り返しなのです。我々も穀霊と共に去年の自分は死に、新しく誕生したつもりなって生きることが大切です。

 

宇迦之御魂神と稲荷信仰

 手を合わせいただきますと元気よく感謝の気持ちで命いただく

宇迦之御魂神(倉稲魂神ウカノミタマノカミ)も穀物の霊である神です。伊勢神宮で天照大神の御饌(ミケ)の神として食糧を調達している豊受大神もそうです。まあ穀物の神々は元々は穀物自体が神ですから、各地で発達し、それぞれの名前で呼ばれていたのでしょうが、次第に統合されていったのでしょう。宇迦之御魂神も大年神と同じ父母から生まれたとされます。

 宇迦之御魂神は稲の神なので稲を成らせるということで稲荷神とも呼ばれ、稲荷大明神として四万から五万もあると言われる全国の各稲荷神社で祀られています。稲荷神社はもちろん豊年をもたらす農業の神社なのですが、産業が発達し、商工業がさかんになってくると、商工業の守護神にもなり、開運をもたらす福の神にもなります。ですから都会の中にも稲荷神社は沢山作られています。

 そういう柔軟な性格は、地域と共にある神社の性格からきている面もあるでしょう。つまり何神社であれ、その地域では産土の神として機能しますから、その地域が都市化すれば商工業の守護神にもなりますし、同じ地域の出身者が多くなると出身地の稲荷神社も進出してくるわけです。江戸には稲荷神社が犬の糞ほどあったと言われています。

ところで稲荷信仰には二種類あると言われます。それは宇迦之御魂神を稲荷神とする神道系で伏見稲荷神社が総本社です。もう一つは仏教の鬼神陀枳尼天(ダキニテン)を稲荷神とする真言密教系の稲荷信仰です。円福山 豊川閣 妙厳寺(えんぷくざん ほうせんかくみょうごんじ)が本山です。

 真言宗が稲荷信仰を取り入れるようになったのは、東寺を建造する際に秦氏の協力で伏見の稲荷山から木材を調達した縁があり、稲荷神社を東寺の守護神としました。それで宇迦之御魂神を、白狐にまたがる仏教の陀枳尼天と同一視したわけです。狐は田の神の使いとされていたので、陀枳尼天は田の神つまり宇迦之御魂神だということですね。

でも陀枳尼天は元々はインドのヒンドゥー神でした。恐ろしい人食いの女神だったようです。そもそもは農業神だったのですが、やがて性や愛欲をつかさどる神とされます。そして遂に人の心臓を食らうようになります。仏教では大日如来の化身である大黒天が、調教し、死んだ人間の心臓しか食べなくなったのです。そこで心臓にありつくために人間の死を半年前に予知できる能力を身につけたといわれています。

この縁で狐が神の使いとして稲荷信仰で重要な役割を果たすようになります。皆さんも稲荷神社といえば狐を祀った神社という印象が強いでしょう。先に仏教系の稲荷信仰に狐が導入され、その後神道系でも宇迦之御魂神の使いとして狐信仰が起こったわけです。最初は使いと言うことだけだったのが、狐の神霊を伏見稲荷神社では命婦神(みょうぶしん)と呼んでいます。そして宇迦之御魂神が多忙なので、命婦神がご利益を与え、福を授けると言われています。

狐と言いますと妖術を使って人を騙したり、いろいろ害を与えるイメージがありますが、それは中国が起源だというわれます。平安時代以降に陰陽師や修験道の者が狐を使った呪術を行い、狐に悪いイメージを与えたらしいのです。しかし私は狐も怨霊だと思いますね。なぜなら人間たちは次第に山を開発し、狐たちが棲みにくくなっています。それで人間に恨みを持つ狐が祟ると恐れられたのではないでしょうか。そこで狐を稲荷神の使いとし、命婦神として神格化することで、その怨霊を鎮撫すると共に、人間を守ってもらおうとしたのではないでしょうか。そういう要素も気づかないうちに習合している気がしますね。


 




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