対話 哲学入門

源流思想 ギリシア篇

   倫理と哲学の意味

 輪になりて生きる理(ことわり)示したる古今の人と苦悩分かたむ

先生:にいよいよ倫理思想史に入るわけだけれど、その前に「倫理」や「哲学」という言葉の意味を考えてみよう。花子さん英語で何と言いますか。

花子:倫理は@(      )で哲学はA
(           )です。
@(      )は習俗や習慣という言葉に由来し、社会や集団のルールという意味を持ちます。
A(         )はフィロが「愛する」でソフィアが「知」ですから「知を愛する」「愛知」という意味ですね。じゃあ愛知県は哲学の本場ですか?

太郎:「倫」という字は「人の輪」つまり仲間や社会という意味ですね。その「理」はことわりということですので。社会の中での従うべき道理や規範という意味になり、そこから人間としての生きるべき道や人間としての生き方をあらわします。
花子:では倫理と道徳(英語でB(    ))はどう違うのですか?

先生:同じ意味でつかわれているのですが、倫理が人間として歩むべき道であり、社会の規範ですが、道徳は人格としての個人がそれを徳として身につけることを意味します。


花子:ところでA(       )をどうして「愛知」と訳さなかったのですか。


先生:「哲学」という訳語を考案したのは日本近代哲学の父C(   )です。彼はA(       )には謙遜の意味が含まれていると考えました。ソクラテスは自分は「D(      )」つまり知者ではないと言いました。D(     )たちの知は、実は独断論にすぎず、真理でない。しかし真なる知を求めている愛知者ではあるとしたのです。

 C(    )は愛知や愛知学では、物知りや雑学愛好家を思い浮かべられてしまうので、まずいと思いました。そこで「哲」という「賢明な」とか「さとる」という意味の言葉を前につけまして「哲学」とし、物事の根本の原理を究める学問という意味にしたのです。

太郎:それではソクラテスの「無知の知」が活かされていませんね。

先生:そこが問題点ですが、西が求めていたのは学の原理としての哲学でしたので、西としては別によかったということです。

花子:ただ「愛知学」としておいた方が深みは感じられないけれど、オシャレな感じがしますね。

問 上の( @ )〜( D )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい。

西周(にしあまね) 福沢諭吉 ソフィスト philosophy moral ethics 

 

    ミュトス(神話)からロゴス(論理)へ
 

   ミュトスでは納得できぬ民ならばロゴスに叶ふ話聞かせや

花子:どうしてギリシアに最初に@(   )が誕生したのですか?

先生:それはポリスの発展と関係が深いと思います。元々物事のことわりを説明するのに、ポリスの神々のA(  )の形にして説明していました。王や貴族などはポリスを形成した頃神々と人の娘の合いの子だったりして、その威力でポリスを支配してきたのです。でも時代がたつにつれて、神々の子孫だというので、
A(  )で権威づけしても相手にされなくなります。そこでポリスの市民たちを納得させるのに、きちんと筋道のたった納得いく話し方が必要になったのです。


花子:だからどうしてポリスだと皆を納得させなければならないのですか。


太郎:そりゃあ、ポリスは規模が小さいから、しっかり団結しないと侵略されてつぶされてしまいます。また皆に話して納得させられるぐらい小さいということでもあるわけです。

先生:そうですね。いざ戦争となったらできるだけ総動員で戦闘に参加してもらう必要があるので、皆に自分たちのポリスだという自覚をもたせるためにも、B(   )での話し合いというのが大切でした。神話だと信用されないので、よく筋道の通った話で説得するわけです。そこで理屈付けや弁論術が大切になったのです。@(   )はそれが自然や世界に対する捉え方になった時に誕生したということです。

太郎:ところで哲学に入る前に、古代ギリシアの人間観を説明して下さい。

先生:ギリシアの神々はC(      )です。それに対して人間は「D(       )の人間」と捉えられていました。神話では必ず枕詞にこれがつきます。アポロン神殿には「E(         )」という額があるのですが、C(     )がD(       )の人間に啓示しているのですから、どういう意味になりますか。

花子:「お前たち人間は遅かれ早かれ死ぬんだぞ、その事を知りなさい」という意味ですか。


太郎:いつまでも死なないかのように、ノンベンダラリーと暮らしている連中が多いので、時を大切にして、折角生まれてきたのだから、生きているうちに何か生まれてきてよかったと言えるようなことをしておきなさいということで。F(    )の自覚ですね。

先生:死が避けられないという運命においてはだれもが悲劇的な存在なのです。それでギリシアでは運命悲劇が上演されていましたが、その代表作は。

花子:もちろんソフォクレスの『G(        )』です。父を殺し、母と姦淫して不義の子を作るという運命を避けようとすればするだけ、運命のわなに落ちて、予言を実現してしまいます。


先生:開いていても、肝心なことを何も見ることができなかった目玉をくりぬいて、G(      )は放浪しなければならなくなります。しかし人の道を踏み外すことによって、見据えることになった「オイディプスの闇」こそH(   )の自覚であり、人間の尊厳なのです。


問 上の( @ )〜( H )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい。

自我 有限性 哲学 不死なる神 汝自身を知れ 死すべき運命 アゴラ 時は金なり  神話 オイディプス王 

          
  ミレトス学派
     
         
何処より来りしものぞわが命、いずこに還り、廻り廻るや

先生:紀元前6世紀、小アジアにあったギリシア人の植民地イオニア半島のミレトスという町で哲学が誕生しました。この時代は何に対する問が最初の哲学の問でしたか?

花子:万物は何からできているのか、その@(    )(根源物質)に対する問です。

太郎:何故万物が同じ@(    )からできていると考えたのですか?

先生:さあそこが最大の謎ですね。当時の人々はA(    )(宇宙)あるいはB(    ) (自然)を生きた一つの全体として捉えていたと考えられています。大いなる生命ですね。万物は大いなる生命の様々なC(   )なのです。その生命自体はどんなものなのかを考えていたのでしょう。なお@(    )は「根源物質」の他に「原理」という意味でも使われます。ところで最初の哲学者は誰で、彼は何を@(    )だとしたのですか。

太郎:D(    )でE(   )をアルケーだとしました。先生の解釈だとE(   )が生命だということになりますね。

花子:万物は生命の根源である水から生まれて水に帰るというイメージですね。どのように論証したのですか。


先生:それは残っていませんから分かりませんが、島が海から生まれて、海に没したり、湿り気を含むことで種が発芽することなどから考えたらしいのです。


花子:シドニー・シェルダンの『
DRIPPY』は「雨粒」が活躍するのですが、現代版D(   ) ですね。

先生:あれは素晴らしい物語です。英語の苦手な人には是非お勧めですね。あれとZ会の『速読英単語』でうちの娘はセンター試験で9割近くとれるようになりました。一銭ももらってませんよ。(笑)D(   )が先ほどのアポロン神殿の額「汝自身を知れ」という言葉を考えたという話があります。ですからアルケーとしての水は人間がそこから生まれ、そこに帰る人間の本源の姿だということかもしれません。

太郎:でも、水という特定の物質から他の規定された物質が生じるというというのは納得がいきませんね。一番元のものは全く規定されていないものでないと。

先生:そう考えたのがF(       )です。彼は最初のものをG(      )(無限定なもの)と名付けました。それが渦を巻いて様々な物に分かれたと考えたようです。


花子:その無限定なものとは、H(    )ではないかと言ったのがI(       )ですね。彼はH(   )がJ(   )になって水になり、更にJ(   )になって土になるとしました。逆にH(   )がK(   )になると活発になりますから火になるわけです。全ての物はこの土・水・空気・火の混合でできているわけです。

太郎:中国でも気が物質一般つまり@(    )ですね。それが木・火・土・金・水になるわけで、共通していますね。

先生:そうなのです。それはインドのバラモン教の『ウパニシャッド』でも言えます。宇宙の本体であるブラフマンと個物の実体であるアートマンが一体だとしました。アートマンは気息のことで魂を意味します。つまり個物も宇宙も気からできているということですね。インドとギリシアは同じアーリア人ですから、宗教や哲学が似ているのです。

ギリシア語のL(    )という言葉はやはり気息が語源ですが、「魂」とも「命」とも訳せます。魂と命は区別されていなかったようです。

問 上の( @ )〜( L )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい。

水 濃厚 アナクシメネス 様相 空気 アナクシマンドロス 火 アルケー ピュシス   希薄 トアペイロン タレス コスモス 土 エンペドクレス プシュケー


             
調和と闘争
    
           
戦いか調和かいずれ原理なる議論戦い調和せざるや

先生:イオニアのサモス島出身でイタリア南端のクロトンで活躍したのが、三平方の定理で有名な、さてだれですか。

太郎:@(      )ですね。彼はただの数学者じゃなかったのですか。


先生:まだ何学者なんて分かれていませんからね。彼はA(  )がアルケー(原理)だと言ったのです。つまり数的比によって万物ができていると考えたのでしょう。これは凄い発想ですね。そして万物はやはり数的比によってB(        )(調和)してコスモスが安定しているわけです。その調和はC(   )を奏でているとしました。それでコスモスのB(        )を保つために演奏したのです。それで@(     )の教団が音楽で町を支配しようとしたので、住民に襲われたようです。このように数学や音楽というロゴスによって支配しようとしたわけですね。


花子:調和を唱えながら、結局は戦っていたのですね。それじゃあ、戦いを原理にしたD(        )の方が本音で勝負していますね。


先生:ええ、彼はイオニアのエフェソスの暗き人と呼ばれました。「戦いが万物の父である」と言ってますから、戦いによって万物が生まれると考えているのです。


太郎:普通なら戦いでは生まれるより、破壊されたり、滅んだりするのじゃないですか。

花子:彼は「E(        )(万物流転)」で有名ですね。戦いによって、古いものが滅びると、新しいものが生まれるということで、変化は激しく衝突して姿を変えるという意味なのでしょう。彼はF(  )がアルケーだとしましたが、それはまさしく戦いのイメージですね。それだけ貴族階級が権力を維持しようとするのは大変だったということですかね。

先生:F(  )がアルケーであり、それを「魂=命」と捉えていたことになります。そうすると水や土もF(  )がつまり戦いが姿を変えたものということになりますから、表面的には静かに見えても、戦いが内向して中で燃えているわけです。こういう見方は素粒子の運動や原子力などを考えますと、非科学的とは言えませんね。それはまた、死んだ物体ではなく、戦いという事が世界を構成しているというG(      )の源流とも言えます。


花子:彼は戦いによって物の生成と消滅を説明したので「H(     )の父」とも言われていますね。


問 上の( @ )〜( H )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい。

パンタ・レイ 数 火 ヘラクレイトス 音楽 事的世界観 ピュタゴラス 弁証法    ハルモニア 

    有るものは有り、有らぬものは有らぬ

有るものはしかと有りぬ、有らぬもの確かにあらねど、その帰結とは

先生:ヘラクレイトスと同じ時期に正反対の議論をしたのが、イタリアの西岸の@(   )で活躍した@(    )学派の人たちだ。その中心はだれでしたか。

太郎:はい、A(       )です。彼は「B(                )」

と言ったので有名です。確かにその通りですけれど、そこから運動や変化を否定してしまうのは乱暴ですね。

先生:アナクシメネスの濃厚化・希薄化の論理を使っています。空気が濃厚になって水になるとしますと、その分だけ有らぬものがあったのことになり、間違っているということです。また空気が希薄になって火になりますと、そこに有らぬものが入ったことになるので、有らぬものがあったことになり、これも間違いです。だから空気が水になったり、火になったりする変化はありえないのです。

花子:間違いといっても、実際に変化しているのですから、間違いというほうが間違っているのでしょう。

先生:そう考えるのが間違いだということです。つまり人間が見たまま体験したことを真理だと思い込むのはC(    )(思い込み)なのです。運動も間違いです。物が動くのは、有らぬものが有るからそこに移動できるわけです。だから運動もC(    )に基づくものです。また変化がないのでしたら、多様もないということになります。

太郎:結局、あるものはD(    )だということですね。


先生:これがギリシア精神をあらわす「E(        )(一にして全)」です。つまり我々思い込みの世界に住んでいて、運動や変化や多様を見ているが、それは本当の実在ではないのです。本当にあるのは一つのもので、全てに貫いているものです。それを観ることで永遠を感じることができます。


花子:同じ一つのものが全てに貫いていて、それを観るというのは、難しいですね。

先生:ここで倫理の勉強でさっぱりわからないといって根を上げる人が多いのです。ギリシアの世界では建築でも彫刻でも陶器と工芸品でも、どれも洗練された美しさをもっています。どれも同じ一つのものの現われなのです。それを「F(      )」と言います。

花子:そう云えば、日本の仏像や庭園や景色などに一つのものを感じることがありますね。

太郎:この運動否定の論理を弟子のG(    )が論証しました。
「H(                               )」と
「I(                                )」です。

花子:追いついたら、少しは前に行ってしまっているので、追いつけない筈なのでしょう。なのに現実は追い抜いているから、運動という現実はC(   )だって言いたいのよね。


問 上の( @ )〜( I )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい。

飛んでいる矢は止まっている ヘン・カイ・パン  ゼノン 善美なるもの 有るものは有り有らぬものは有らぬ ドクサ アキレウスは亀を追い越せない 一者 エレア パルメニデス 
 


           
四元論とアトム論
  
コスモスはアトムとケノンそれのみか意味・価値・目的いずくにあらむ

先生:土・水・空気・火のどれがアルケーかで議論してきたけれど、結局、どれも独断論だから、どれか一つに決めることをやめるしかない。それでコスモスは四つの元素からできていると唱えたのはだれですか。

花子:はい、シチリア島の@(         )です。彼はA(  )が強い時期には四元が混ざり合って、複雑な事物が生まれ、B(   )の強い時期には四元がそれぞれに分かれているとしました。それが永遠に繰り返されるわけですね。ギリシア人の時間観念は直線的ではなく、C(   )だと言われる一例です。

太郎:牽引と斥排という物理的な現象を感情で表現したところがおもしろいですね。

先生:エレア学派は変化・運動・多様を否定してしまったけれど、それでは世界は説明できないので、彼らが有らぬものとしていたD(  )(空虚)を有ると認め、「本当に有るのはE(   )とD(   )のみである」と言ったのはだれですか。


太郎:はい、トラキアのアブデラにいたF(       )です。彼は形や大きさの違うたくさんの種類のE(   )があって、それがD(    )の中を落下し、色々衝突して様々な現象が起ると考えたのです。


先生:形と大きさだけ違いますが、中身は「有るもの」として同じです。ノッペラボ―のミクロの物体です。そういうものでコスモスを全部説明したのでは、コスモスは生きた全体ではなくなってしまいます。それ自体としてはG(       )(無意味)、H(       )(無価値)、I(      )(無目的)になってしまったのです。


花子:それだけ科学的になったのですね。意味や価値や目的は人間の文化が作り出したもので、自然それ自体には備わっていないということでしょう。


先生:これは大問題ですね。人間環境としての自然を生命や価値からどう捉えるべきか、今世紀最大の課題です。じっくり考えていきましょう。


問 上の( @ )〜( I )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい。

パーパスレス 愛 ケノン バリューレス 円環的 エンペドクレス アトム センスレス 憎しみ
 デモクリトス

         ソフィスト
 

    物事の真は何と問うたれば人それぞれと答えしは誰

先生:紀元前5世紀ごろギリシアのポリスは発達し、次第に市民達の発言権も強まってきました。ミュトスよりロゴスを用いて支配しようとする特権階級に対して、市民たちも弱い議論を強くする@(    )を学んで自分の頭で考え、判断しようとします。そこで知の教師を自称するA(     )(知者)たちがギリシア各地を廻って報酬をとって@(   )を教えていました。じゃあ代表的なA(     )を挙げなさい。

太郎:「B(                  )」で有名なC(       )ですね。彼は真理は人それぞれだと考えました。いろいろもっともな理屈で真理を押し付けられても、それに無理に従うことはないということですね。

先生:真理は絶対的な基準があると考えてはいけないという考え方をD(    )と言います。この部屋が暑いか寒いかはそれぞれの人が体感することです。今20度だから暑くないといわれても、先ほどまで運動場で走り回っていた人には暑くてたまりません。

花子:もう一人はE(        )ですね。彼はF(     )だったようですが、その中身は参考書に書いていません。


先生:彼は「何も存在しない。存在したとしても認識できない。認識できたとしても伝えることはできない」と言ったようです。つまり客観的な真理なんて存在しないし、それは対象とは別の存在である我々には分からないし、その内容を言葉にすれば、言葉と物は違うから伝わらないということでしょう。だから他人のもっともそうな意見に従うことはないので、自分で考えて行動しなさいということですね。

太郎:A(      )たちの中には、G(    )を使ってでも自分の論を通そうとしたり、法や習慣などのH(   )(人為)をI(   )(自然)ではないからと従わなくてもいいように言う者もいて、顰蹙をかうようになってきたようですね。

先生:それまでの自然哲学などの独断論を批判したのは大いに意義がありましたが、今度は自分勝手な議論を展開するようになってしまったのです。だから独断論を斥けながら、みんなJ(        )な真理を積み上げていくにはどうすればよいかということが課題になります。それでいよいよK(       )の登場です。

問 上の( @ )〜( F )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい

ゴルギアス ノモス 普遍妥当的 懐疑主義者 ピュシス 詭弁 ソフィスト 
プロタゴラス 弁論術 ソクラテス  万物の尺度は人間である 相対主義

 

     補充 パルメニデスが分からない!?

先生:パルメニデスがさっぱりわからないという反応が多かったですね。

太郎:現実にある多様・運動・変化を否定してしまうのですから、煙に巻かれたような気になります。

花子:アナクシメネスを前提にしていますが、空気が希薄になって火になるというのも現代人の常識から言って面食らいましたから、それを前提にして、空気が希薄化することは「有らぬもの」が空気に入ったことになるからそれは間違っているといわれても、何をわけの分からないことを言ってるのだろうと思いますよね、当然。

太郎:それに現実にある多様・運動・変化を、本当にはないのだとするのはいかにも強引です。現実に有るということと本当に有る(真実に有る)ということとは、また違うことだと言いたいのでしょう、でもそういう発想は何かオタク的な感じで、現実から逃避して理屈をこねてる感じですよね。

花子:そうそうゼノンの運動否定の微分的な論理も、おもしろいことはおもしろいけれど、実際矢は飛ぶし、亀は追い越されてしまうのだから、そんなこと言っても、言ってるだけという感じがしますね。


先生:もちろん当時の人々もそういうように反発したでしょうね。それで次のデモクリトスのアトム論へと転回したわけです。ですから諸君の反発は至極ごもっともなところがあります。

太郎:まだピュタゴラスの調和とか、ヘラクレイトスの闘争などはすごく迫力があり、物ごとの本質を究めているなという驚きがあったのですが、パルメニデスにはそういう、現実との格闘からくる迫力がなくて、屁理屈だけという感じがしたわけです。

先生:それは私の説明不足や非力ということもあり、申し訳なかったですね。実際パルメニデスを説明しても高校生にはその意義までつかませるのは無理だからといって飛ばしてしまう倫理の先生も多いのですが、私は敢えて挑戦しているわけです。といいますのは、ギリシア人の精神は、「永遠に変らなく有る一つのもの」を真の実在として追い求めているのです。それ以外のものはですから真にあるものではなく、真にあるものの現れにすぎないと受け止めたのです。

花子:アルケー論でいくと、空気がアルケーとしたら火は希薄な空気で、水は濃厚の空気だということですね。

先生:その通りです。でもどれがアルケーか分かりませんね。それは感覚に囚われて見ようとするからだとパルメニデスは考えました。ですから真実にあるものは感覚で捉えるのではなく、真実に有るもの一つのものだという論理で捉えるべきだと考えたのです。そうして始めて目で見える多様や変化や運動を超えて、一つの変らない、動かない真実が有ることが理解できるというわけです。

太郎:ですから、それは言葉で言っているだけでナンセンスだってことですよ。

花子:動かない、変らない一者が有ると言って何になるのですか。

先生:西田幾多郎先生だったら、「さあ、それを考えて私も苦しんでいるのです。あなたもそのことの意味を考えてみなさい」とおっしゃったでしょうね。でもそんなことを言って、「倫理なんて嫌いだ!」と反発されても困ります。元々人間は有限であり、死に向かう存在です。そのことが最大の問題ですね。多様ということはそれぞれが相対的で有限だということです。それで互いに自己を維持し、より長く生きようとして、他の物に働きかけたり、取り込んだりしようとします。それで調和や闘争があるわけです。でも結局は生じたものは全て滅び去ります。

太郎:「パンタ・レイ」とヘラクレイトスは言いました。

先生:過去にあったものは現在にはありません。あるのは記憶や現在に存在する遺物ですから全て、現在に有るものにすぎません。

花子:現在あるものもやがてなくなりますね。だから多様な物、変化する物、動く物は真実にあるものではない、真実に有るものは唯一の不変の不動の一者だということですか。

先生:つまり我々人間は個人の身体的な人格的な我というものに自分を見出しています。それでたくさんいる諸個人の一人にすぎないわけですが、そういう個人はやがて年老いて死んでいきます。動き回り、様々に変身し、立場を変えて、もがき苦しみますが、結局死すべき運命は逃れられません。そういう個人としての自己に同一性を求めていますと、苦しみからは脱却できません。そこで自分が真実にあるものの現われであり、現実の多様の世界、生成消滅する変化の世界は、真実の一者を自分の真実の姿だとさとり、真実の一者に還るための仮の姿にすぎないと考えたのです。

太郎:それじゃあ、今、ここでこうして三人が現に対話しているのも、倫理の授業も、ファルージャの戦闘も、本当は一つの真理が現れるために誰かが考えた設定にすぎないということですか。

先生:ポリスの立場にたってもそうでしょう。みんながそれぞれ勝手に多様なものを求め、勝手に動き回り、変化させようとしたら、ポリスのまとまりがなくなってしまいます。一つの真実を求めてみんなが一つになって不動の立場で変らない姿勢を貫いていくことが求められたのです。それが一つのものが全体を貫いているという「一にして全」という精神です。これを見事に論理化したというので、パルメニデスは高い評価を受けています。人それぞれの多様を超え、時代の変化を超え、場所や立場の違いを超えて、有り続ける一つの真実、これを「普遍妥当的な真理」と言います。当時のギリシア人の表現では「カロカガチア(善美なるもの)」なのです。

はたしてこれで補充になったか、それともよけいに分けの分からないものだと反発されることになるのか、どちらでしょう?

花子:それはプロタゴラスが「万物の尺度は人間である」といったように、人それぞれでしょうね。

        ソクラテス

  
無知の知を生むは問答産婆術鞭の血よりも苦しき術かな


花子:紀元前5世紀末に活躍し前399年刑死した、ソクラテスは、「自分はソフィスト(知者)ではなく、フィロソファー(愛知者)だといったそうですから、ソフィストに対しても批判的ですが、自然哲学に対しても懐疑的だったのでしょう。

先生:彼は自然哲学に取り組んでいましたが、自然哲学の真理は正誤が確かめられないわけですから、独断知に過ぎないと考えました。そこで彼はアポロン神殿の標語「@(         )」に啓示を受けたのです。

太郎:タレスはそれをアルケーへの問いと考えたわけですが、ソクラテスは自然のことより、魂のことを考えなさいという「A(     )」意味だと受け止めたのですね。


花子:魂というのはギリシア語でB(    )ですから、命と同じ意味だったのでしょう。それが内面の心の意味で捉えられたのですか。

先生:弟子のC(    )の対話篇の主人公がソクラテスですから、そこから類推するしかないのです。頭に入った魂はD(   )で、胸に入った魂はE(   )で、腹に入った魂はF(   )とされています。つまり肉体という入れ物に「生命=魂」が入って、考えたり、意志を持ったり、感じたりすることが生きるということなのです。この「魂の三分説」は一応弟子C(    )の説ということですが、ソクラテスもそれに近い事を考えていたかもしれませんね。

太郎:それでソクラテスの言いたいことが分かるような気がします。「大切しなければならないのは、G(                             )」という意味が。つまり頭・胸・腹という物体が考えたり、意志したり、感じたりしているのではなくて、D(   )が考え、E(   )がやる気を起こし、F(   )が欲しがっているのだから、そういう魂を研いて、善く考え、善く意志し、善く感じるようにしなさいということでしょう。物体なら機械的に判断し、決定し、反応するしかないけれど、魂は研くことによって善いものになるということですね。


先生:魂を研くという捉え方は素晴らしいですね。そうすれば魂には何が備わるのですか。

太郎:それがH(     )です。「徳」と訳されています。魂の立派さですね。

先生:H(    )は、それを知ることと一つです。つまりI(      )です。そして徳が身につくことが幸福なのでJ(      )です。そして知っていても実践しなければ意味がありませんので、K(      )です。この三つを強調しました。

花子:ではどのようにして魂を研き、H(    )を身につければいいのですか。

先生:それはその内容をよく知って、実践することによってです。ギリシア人は知を重んじるL(     )の傾向が強いのです。そこで賢人たちは、それぞれ教え込もうとしたわけですが、ソクラテスはその内容をM(    )の吟味にかけ、N(     )の自覚に導こうとしたのです。この方法を母の職業名をとってN(      )を産むO(     )と名付けました。

花子:「ソクラテスはアテネで一番賢い」というアポロン神殿のお告げがあって、無知を自認している自分が一番賢いというのは誤りであることを実証しようとして、賢人たちに議論を求めたとしていますね。ところが賢人達はM(    )の吟味で、自分の議論に含まれている矛盾を認めて、自分の無知をさらけ出さざるを得なかったわけです。それで結局N(     )の自覚においてソクラテスは一番賢いということになってしまったのでしょう。ということは「うちもあほやけど、あんたもあほやで」ということで、すごく非生産的な気もしますね。

太郎:そのソクラテス一流の皮肉をP(       )と言います。独断的な知を退け、皆が無知を自覚して、Q(            )を対話を通して積み上げようというのですから、最も生産的です。

先生:でもアテネの市民の多くは賢人たちの権威を失墜させて、アテネの文化や思想を愚弄しているように思えたのです。それでソクラテスは二つの罪で告発されましたね。

花子:R(             )とS(              
                                    )
という罪です。
先生:賢人たちへの若者の尊敬を損ねると、ポリスの衰退を招くという見方ですね。そしてソクラテスがダイモニオンという内心の声に逆らえないといって対話をしていたので、ポリスの神々を信仰しないで、内心の鬼神を信仰していると思われたのです。

太郎:それにしても対話して相手の独断を暴露したから死刑と言うのはひどすぎます。

花子:有罪なら死刑にしろとソクラテス自身が要求したのでしょう。

先生:ええ、M(     )による吟味ができないということは、哲学の死であり、普遍妥当的な真理が否定され、それに基づくポリスが否定されることです。それはソクラテスの存在の意味を否定することだから、死刑にしてくれと要求したわけです。でもそのような態度は傲慢だと見られて死刑になってしまったわけです。

花子:彼は逃げることができたのに、進んで毒杯を仰いだそうですね。

太郎:それは裁判というのは市民がみんな参加して、みんなで決めた判決だから、法のようなもので、これを守らないとなると、それこそポリスの共同体としての理念が否定されることになるので、ポリスの正義を守るために進んで毒杯を仰いだわけです。

先生:脱走を勧められて、G(                       )
と言ったのです。それにどうして死について何も知らないのに、死を恐ろしいことのように決めつけるのかと言います。もし死が眠りの一種なら、死ほど深い心地よい眠りはないし、もし魂の世界に戻ることなら、先哲たちと議論できるのが楽しみだといったのですね。

問 上の( @ )〜( S )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい

ダイモニオン 主知主義 魂への配慮 福徳一致 プラトン 汝自身を知れ 
問答法
       青年を堕落させた 欲望  普遍妥当的な真理 アレテー  知行合一 エイロネイア   ただ生きるのではなく、善く生きることである。 気概  無知の知 理性 知徳合一   ダイモニオンを信仰して、ポリスの神々を信仰しない。 プシュケー
    

      プラトン1魂の三分説と哲人王政治

   哲人が理想の旗を振りかざしポリス導く王となれかし

太郎:プラトンは、紀元前四世紀前半に活躍したギリシア最大の哲学者ですね。彼は師ソクラテスを殺したアテネの民主主義を恨んでいたのでしょう。

先生:プラトンがどんなにソクラテスを愛していたのかは、彼の著作がほとんど対話篇で、その主人公がソクラテスであることから分かります。貴族出身のプラトンは民主主義は好きではなかったです。その点、民主主義の為に命を犠牲にしたソクラテスとは対極的です。

花子:ソクラテスは民主主義者の殉教者だと言えるのですか。


先生:あらゆる独断や偏見に囚われず、自由に話し合って、みんなが納得できる真理を積み重ねていこうというのですから、それこそ民主主義の精神なのです。ところがプラトンは、『国家』で、「餅は餅屋」という分業の論理で民主主義を批判しています。

 ポリスには理念に基づいてポリスを統治する@(    )と、ポリスを守るA(    )と、ポリスの産業に従事するB(     )が存在するとしています。そしてそれぞれはそれにふさわしいアレテー(徳)を持っている人が相応しいというのです。統治者にはポリスをC(    )(理想)に基づいて指導できるD(    )に秀でたE(    )が相応しいとしました。かくしてそれぞれが徳を発揮し合い、ポリスの調和が実現することがポリスのF(   )の実現です。
太郎:いわゆる「G(       )」ですね。そしてA(     )にはH(    ) の徳に秀でている人が相応しく、B(     )には欲望をきちんとI(    )できることが求められるのでしょう。
先生:その議論は、ソクラテスのところでお話したJ(     )(魂)の三分説に基づいています。つまり頭に入った魂である理性の徳はD(   )で、胸に入った魂である気概(意志)の徳はH(   )、腹に入った魂である欲望の徳はI(  )なのです。そしてこの三つの徳が調和して個人のF(   )の徳が実現するということです。

花子:先生を真似て一首「プシュケーは頭に入りて理性なり、胸は気概で、腹は欲望」
太郎:それではもう一首「アレテーはそれぞれ何と尋ねれば、智恵と勇気と節制なるかな」

 

プシュケー

アレテー

 

階級

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先生:それでK(           )と言えばなんですか。

太郎:もちろん「智恵・勇気・節制・正義」です。

問 上の( @ )〜( K )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい

プシュケー 哲人 イデア 勇気 哲人王政治 正義 統治者 節制 軍人 智恵  生産者 ギリシアの四元徳

           プラトン2 イデア論
   
             
予め頭の中に知の大樹ありて始めてものを知れるや

先生:プシュケー(魂)の中で理性と気概と欲望を、肉体と共に滅びるものと、肉体が滅んでもそれ自身は不滅で天に昇っていくと捉えられていたものに分けてみてください。

花子:最も純粋な@(   )は軽くて天に昇りますが、他の部分は肉体と共に土に還ると捉えられていました。

先生:それで理性はプシュケーの故郷であるイデア界に還るとされたわけです。そこは純粋なプシュケーだけでできているわけです。

太郎:そのプシュケーはA(    )論でいけば最も希薄ですからB( )にあたりますね。プラトンもプシュケーを物質として捉えていたのですか。

先生:太郎君、なかなか核心をつきますね。イデアは英語でアイデアつまり日本語で「C(   )」ですから、物質ではない筈ですね。そのことをはっきり自覚するのは、紀元後になってからの新プラトン派以降だと言われています。
花子:でもプラトンはどうして魂がイデア界に還ると分かったのですか。
先生:おそらく魂はイデア界とD(    )を行ったり来り、つまり往還しているという信仰なんだと思われます。それでこのD(    )で物事を認識できるのは、その物事に付いてのイデアをイデア界で認識しているからだと考えたのです。
太郎:予めイデアを知っていないと、各事物は認識できないということですか?

先生:例えばここに四足の小動物が入って来るとします。その場合にそれが犬か猫か鼬か狸ということを判断するには、それぞれの動物についての観念を予め持っていなければならないでしょう。
花子:それじゃあ、この部屋にアイアイ猿が入って来て、だれもアイアイ猿の観念をもっていなかったとしたら、アイアイ猿は認識できないことになりますね。
太郎:何言ってるんだ。知らないのだから認識できないのはあたりまえじゃないか。
花子:でもイデア界では全てのイデアを認識している筈でしょう。
先生:それはそうですが、すぐには思い出せないだけなのです。D(   )の事物はイデアを模倣したものであって、E(    )ではありません。E(    )は永遠不滅のイデアの方なのです。現実の事物はF(   )によって認識されますが、イデアは@(  )のみによって把握される事物の本質、その理想的な範型なのです。現実の事物はイデアをG(   )しているので、イデアをH(        )(想起)させて認識されるということです。

太郎:人間の魂は、イデア界にいたのでイデアを恋い慕うのでしょう。これをI(   )(恋慕)と言いますね。それと肉体的関係を求めないJ(        )とはどう関連するのですか。

先生:『饗宴』で少年愛の話がでています。
ある美少年とソクラテスが一緒に朝まで過ごしました。ソクラテスはお話ばかりで、肉体的な行為に及びません。少年が不満そうだったので、その言い訳です。美しい少年の肉体を見ても、肉体的愛に溺れているのは低級で、美しい者への精神的愛にまで高めるべきだし、さらには美そのもの、つまり美のイデアへの愛に高めるべきだと語ったのです。それでJ(           )は肉体を求めない精神的な恋愛感情を意味するようになったのです。プラトンのI(    )とキリスト教のアガペー、仏教の慈悲、儒教の仁など様々な愛の形が入試では比較問題でよく出題されます。

花子:あの「イデアのイデアはK(      )」というのはどういう意味ですか。


先生:善というのはそれぞれのイデアが最もよく現れている状態です。それはまた最も美しい状態でもあるわけです。「〜らしさ」が善だと捉えればよく分かります。薔薇の花は萎びていては薔薇らしくありませんね。最も活き活きと美しく咲いてこそ薔薇に相応しいのです。つまりその薔薇は善なる状態(最も〜らしい状態)を想定した時、そのものがよく分かるのです。だから「らしさ」という観念がなければどのイデアもよく分かりません。


太郎:「L(   )の比喩」について説明ですか。K(     )はL(  )であって、それぞれのイデアはK(      )に照らされて見えるようになるのですね。


花子:結局男は男らしく、女は女らしくしていれば、男と女の区別がつくけれど、男か女か分からないかっこうだと男だとか女だとかいうイデアが成り立たないということですね。

先生:ギリシア人はM(      )ですから、区別が体系的に認識できるということが大切でした。そして概念に相応しい形をしているのが一番善であるし、それが美でもあるという感性なのです。ですからギリシア人は洗練された美を求めますが、それはイデア通りの形をあくまで追求しているわけです。

太郎:やはり納得できないのが、予めイデアがないと物事が認識できないという発想です。だってそのイデアは現実界での感覚的な経験なしでも形成できるのですか。


先生:その疑問はもっともです。それは新しい経験が増え、新しいイデアを作る必要が出てくれば、そういう疑問が起りますね。でも物事の区別や認識には予め観念がなければならないということも一面の真理です。イデアのことは,神話に譬えれば分かり易いかもしれません。オリュンポスの山に神々を見た人はいません。でもオリュンポスの山に風の神や雨の神がいるから,風が吹き雨が降るのです。もし風の神や雨の神がいなければ,つまりそういう観念がなければ、頬に当たる抵抗感やひんやり濡れる感覚は,風とも雨とも認識される事はないということです。哲学の認識論は、イデア論(観念論)的方法と経験論(実証主義)的方法の二本柱になっているわけです。


問 上の( @ )〜( M )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい

善のイデア アルケー 現実界 火 観念 プラトニック・ラブ 主知主義   アナムネーシス 感覚 エロス  真実在 理性  太陽 分有

         アリストテレス1エイドスとヒュレー

        
青年は未来を宿すデュナミスか、己を信じて、学べや学べ

花子:プラトンのイデア論を批判したのは、前4世紀後半に活躍した弟子のアリストテレスですね。

太郎:プラトンは@(        )という名前の学園を開きました。アリストテレスはそこで学び、教鞭もとったのですが、晩年はA(       )という名の学園を開設したのです。ギリシアの思想家の中でプラトンとアリストテレスだけは著作がきちんと保存されているのは、学園が数百年続いたからだといわれていますね。


先生:イデアが具体的なB(   )とは別にそれ自体で存在するというプラトンの二元論的な考えは、納得できなかったのです。実際に有るものとしての実体はB(  )です。普遍的本質であるC(     )(形相)はB(   )に内在しているとしました。B(   )はC(    )と材質としてのD(    )(質料)から成り立っているのです。例えば「銀のカップ」は、カップの形や概念がC(   )です。そして銀がD(   )です。そして個物には四つの原因があるといいます。それは形相因と質料因の他に、銀細工師の仕事がE(     )で、優勝者への記念がF(    )に当たります。


太郎:例えば黒板の質料は材木ですね。材木も形相として捉えれば、その質料は繊維で、繊維の質量は蛋白質です。つまり階層を成しています。これは無限に続くのですか。

先生:一番基層に形相がないG(      )を想定しているのです。それは有るものとしか言えません。そしてエイドスは個物の本質に成れているという意味ではH(       )(実現態)と呼ばれます。それに対してヒュレーは本質に成っていないという意味ではI(     )(潜勢態)と呼ばれています。青年はI(       )です。将来どんなH(         )に成れるのかは、自らの可能性を信じ、それを磨き上げるしかありません。ロシア革命の指導者レーニンは、革命の未来を託すべき青年たちにこう述べています、「J(           )」。ロシア革命は巨大な負の遺産を残して挫折しました。現在人類存亡のグローバルな危機を乗り切り、世界統合の新しい時代を切り拓く課題が君たちの肩にのしかかっているのです。これをやり遂げることができるかどうか、まさしく「未来は青年のもの」です。

問 上の( @ )〜( J )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい

第一質料 エイドス  リュケイオン 学べ、学べ、そして学べ 目的因 エネルゲイア  ヒュレー アカデメイア 動力因 デュナミス 個物

          アリストテレス2 徳と幸福

幸せに生きる人なり何事も行為自体を楽しむ人は

花子:形相が実現態だということは、今は質料の中に潜んでいる潜勢的な可能性がやがて花開いて形相として実現することが目指されているわけでしょう。よくプラトンはイデアを求める@(     )で、アリストテレスは現実的な個物の立場のA(     )だと言われますが、アリストテレスにも理想主義的なところはあるのですね。

太郎:アリストテレスは、プラトンのように理想であるイデアをそれ自体で存在する真実在とは考ないで、あくまで個物において実現する形相としたという意味で現実主義なのでしょう。

先生:だから魂に備わっているアレテー(徳)を研きなさいと教えています。魂の徳は二種類あります。

花子:理性に関わるB(     )と情欲(気概や欲望)に関わるC(      )ですね。B(     )は、真理を認識するD(    )とC(    )に関して中庸の判断を行うE(    )
に区別されます。

先生:倫理は習俗や習慣という語源でしたね。ですから身につくまで繰り返して慣れる必要があるのです。その場合に大切なことがバランス感覚です。極端は駄目で、ころあいがいいということです。これを
F(     )(中庸)と言います。ポリスは戦争によって盛衰がきまりますから、戦う「勇気」が大切です。これが不足していると「臆病」で過多だと「無謀」です。つまり「勇気」はF(    )なのです。情欲にF(     )を学ばせるのに理性がコントロールするわけですが、それがE(   )です。これはころあいをはかるので、多ければ多いほどいいD(   )とは区別されるのです。
太郎:人間の幸福は、人間が理性において優れているので、理性のアレテー(徳=卓越性)を最大限に発揮することにあるのでしょう。それは理性を働かせて事物の本質を見出すG(     )(観想)的生活だとしています。

先生:人間の生活を欲望に即した享楽的生活と名誉を目的とする政治的生活と真理を求めるG(    )的生活に分けて、G(    )的生活が最高善でありH(       )(よき魂=幸福)であるとしたのです。

太郎:オリンピア競技で選手と観客と売り子の中でだれが最も幸福かという質問に関して、G(     )的生活をしているのは人間の身体能力の限界に挑戦している選手よりも、理性で批評としている観客の方だというのです、だから観客が最も幸福だということです。

 アリストテレスの幸福論には、実はもう一つあるのです。それは自己目的的な活動をI(         )と呼び、手段としての運動をJ(        )と呼びます。自己目的的な活動をしているときが幸福だというのです。
花子:大学受験という目的のために勉強するのは幸福じゃないけれど、知的好奇心から楽しみで勉強するのは幸福だということですか。仕事でも同じですね。生活のためとか、上司の命令で機械的にしている仕事は幸福じゃないけれど、創意工夫をしながら自己実現として仕事ができたら幸福ですよね。
太郎:たとえ手段のための行為であっても、その行為自身の中に創意工夫によって、楽しみを見出していけば、幸福になれるってことですね。

問 上の( @ )〜( J )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい

エネルゲイア  テオーリア 理想主義 智恵 メソテース エートス(倫理)的徳  キーネーシス     現実主義 思慮 知性的徳 エウダイモニア

 

   アリストテレス3 ポリス的動物と正義論

  
相議して作りし法を守り抜く、そのことなしに人間もなし

花子:アリストテレスと言えば「人間は本性上、@(        )である」が一番有名です。

先生:「A(           )だから」という理由づけがその後に続きます。ですからこれは個人主義的ではなく全体主義的な人間観ですね。つまり社会は独立した個人が先ずいて、その人たちが自分たちの必要から社会を作ったという社会契約説と対極的です。

太郎:社会契約論は近代の社会観でしょう。
先生:元々ポリスは自然の脅威や侵略から身を守るための集住によって人為的に作られたわけです。ですから社会契約説の見本です。そういう考えでポリスを法をノモスでありピュシスでないから守らないなどというソフィストもいたでしょう。アリストテレスの時代になるともっと利権がはびこって、ポリスの団結が難しくなっていたのです。
花子:それでポリスあっての人間、ポリスの為に生き、ポリスの為に死ぬような人間が人間本来のあり方だということになるのですね。
太郎:B(    )(友愛)と正義を強調したのも、ポリスの団結が大切だからですね。

花子:B(    )は同好の者同士が好意を抱くことですが、有用性に基づく場合と快楽に基づく場合と善に基づく場合があり、完全なのは善に基づく場合だとしています。
先生:アリストテレスの正義論は、@(        )の正義論です。先ず第一に全般的正義としてC(              )が掲げられています。次いで部分的正義として、ポリスに対する功績に応じて富や名誉を与えるD(   )正義、裁判などを通して不正な配分を調整するE(    )正義、買占めや売り惜しみを取り締まって市場における公正を守るF(    )正義が挙げられます。

太郎:E(    )正義は現代の「所得の再配分」にも通じているのですか。

先生:主に裁判で不正を是正することを意味しています。「所得の再配分」は下層市民の要求です。アリストテレスは富裕な市民が中心にポリスを運営するG(    )を最も中庸だと考えていたようです。当時のアテネはH(    )で、公共事業などで「所得の再配分」を通して、下層市民の没落を防いでいました。観劇をすれば無料どころか、スポンサーからご褒美がでたのです。アリストテレスにすればH(    )では、ポリスが無知で要求ばかりする貧民に食い物にされていると感じたのででしょう。教養と財産のある人々が中庸の政治をすることをI(      )と言います。それが理想だということになっていました。H(    )が当然のように言われるようになったのは19世紀末頃からです。

問 上の( @ )〜( I )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい

名望家政治 調整的 民主政 フィリア ポリス的人間 配分的 共和政 
ポリスの法を遵守すること 交換的 全体が先、部分は後

          ソフォス(賢人)の知
               
       
樽の中住める棲家は狭けれど心は広き足るを知りなば

太郎:それにしてもポリス中心の人間観、社会観を抱いていたアリストテレスが家庭教師をして教えたマケドニアの王子が、ポリス中心の時代を終焉させ、世界帝国を築いたというのは皮肉ですね。
先生:その時代を代表する思想はその時代がたそがれてお終いになるときに現れるものだということを、19世紀になってヘーゲルが「@(                  
        )」と表現しています。アリストテレスはそれにぴったりですね。ヘレニズム時代になるとポリスに対するアイデンティティは薄れ、A(     )(世界国家)の一員として生きることになります。しかしA(      )を担って積極的に生きるというより、無力感から世界がいかに激動しても魂のB(     )とC(       )を求めて生きるというD(    )(賢者)の生き方を追求するようになります。

花子:E(               )という人が有名ですね。彼は犬のように樽の中で暮らしていて犬儒派とよばれていました。それだけで「F(      )」なんて。

太郎:それはエピクロス学派のモットーでしょう。

先生:B(      )やF(       )は当時の時代精神みたいなものだからこだわらなくていいのです。アレクサンドロス大王が彼に憧れて、樽の所へたずねていき、なんでも褒美をあげようというと、日向ぼっこの邪魔だからそこを退いてくださいといったといいます。まさしく「F(      )」の見本みたいな話です。
 他にも懐疑派のG(   )がいました。ややこしい議論に心を煩わされないために、断定できないことについてはH(     )(判断停止)をすすめたのです。でも二大学派としては快楽主義のI(       )学派と禁欲主義のJ(    )派が挙げられます。

問 上の( @ )〜( J )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい

ストア 足るを知る 樽の中のディオゲネス エポケー ソフォス コスモポリス 
エピクロス ピュロン 安心立命 個人の幸福 ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ

       エピクロス学派―パンと水の快楽
     
      
パンと水楽しき語らいそれだけで肉や魚は要らざるものを

太郎:エピクロスは確かに快楽が@(    )であり、その追求の中に人生の目的であるA(        )(幸福)があるとしましたが、エピクロスが追求する快楽は道楽者の快楽や性的享楽ではなく、苦しみや心の乱れがないことです。理想の境地としてB(        )(煩いなきこと=魂の平静)を目指していたのです。

先生:古代インドや近代ベンサムの快楽主義は快楽の量が多ければ多いほど幸福も大きいという立場ですが、エピクロスの場合は時代の精神が魂の安心立命と「C(      )」という境地を求めていましたから、D(     )だけで心が満ち足りるとしました。そして政治など世間との関わりを避けて「E(       )」をモットーにし、「F(        )」に集まって共同生活を営んでいました。

花子:エピクロスの自然観はデモクリトスのアトム論を継承しているのでしょう。

先生:人間にとって一番魂を煩わせるのは死の恐怖ですね。死はG(        ) が肉体の滅亡によって飛散することだと説明しました。生きている時は死んでいませんし、死ねばG(       )が飛散して自己は存在していませんから、死という状態はないのです。ですから死は存在しないので不安がることはないというのです。

太郎:確かに死は状態としは存在しないとしても、自己が消滅してしまうのが恐ろしいのじゃないのですか。

問 上の( @ )〜( G )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい
魂のアトム 最高善 隠れて生きよ エウダイモニア エピクロスの園 アタラクシア  パンと水 足るを知る


       ストア派―禁欲主義と自然法思想の源流

         
大いなる命と理性解き明かすストアの思想人よ忘るな


花子:エピクロス学派の快楽主義に対してストア派は禁欲主義ですね。英語でストイシズムと言えば、禁欲主義の意味ですから。

先生:エピクロスは人名ですが、「ストア」は人名ではなくて、アテネの@(      )という意味です。そこを語らいながら歩いていたようです。

太郎:それじゃあ、ストア派の元祖はだれですか。

花子:キュプロスのA(    )ですね。彼はなんでも98歳まで元気だったのですが、こけて足の指を折っちゃったのです。それで大地を拳でたたいて、「今いくところだ、どうして私を呼びたてるのだ」と言って、自分で息を止めて死んだそうです。

先生:よく調べていますね。彼らは魂で不滅であるB(    )の部分を尊重していましたので、C(     )に流されないことを善しとしていたわけです。それで「情欲なきこと」という意味のD(      )を理想の境地としていました。

太郎:でも人間はC(    )を充足させることで生きていけるわけで、そんな理想を実現すれば死んでしまいます。

花子:それは短絡的な受け止め方です。C(    )に流されるのではなく、B(  )でC(    )をきちんとコントロールできなければならないという意味です。

太郎:ストア派といえば「E(        )」という格言で有名ですね。この言葉がF(    )思想の源流になっているのですね。

先生:自然を支配し、人間や神々が共有しているB(  )があって、これが全てを形成する原理です。このB(   )の法がF(    )です。ですから自然に従うということはB(   )がC(    )に流されないということになるのです。賢者の場合は今が死に頃と理性が判断すれば、自分で息を止めて自殺すらできるということです。

花子:ストア派はローマ時代にも活躍し、G(    )やH(   )や哲人皇帝I(           )などを輩出し、ローマ万民法にも大きな影響を与えましたね。

先生:法学や政治学のルネサンスは十七・十八世紀に行われ、近代自然法思想や社会契約論、人民主権論が生まれましたが、これらはストア派に源流をもっているのです。また自然観では生きた全体としてコスモスを捉え、時間は永久に循環するとする説が生まれましたので、ニーチェの「永劫回帰」説にも影響を与えています。

問 上の( @ )〜( I )に下の語群から適当な語句を選んで記入しなさい。

マルクス・アウレリウス  情欲 アパテイア 彩られた柱廊 自然法 キケロ セネカ 自然にしたがって生きよ ゼノン 理性

空欄に当てはまる語句

倫理と哲学の意味
@ethics   Aphilosophy  Bmoral  C西周(にしあまね)  Dソフィスト
ミュトス(神話)からロゴス(論理)へ
@哲学 A神話 Bアゴラ C不死なる神 D死すべき運命 E汝自身を知れ F有限性Gオイディプス王 H自我
ミレトス学派
@アルケー Aコスモス Bフィシス C様相 Dタレス E水 Fアナクシマンドロス 
Gトアペイロン H空気 Iアナクシメネス J濃厚 K希薄 Lプシュケー
調和と闘争
@ピュタゴラス A数 Bハルモニア C音楽 Dヘラクレイトス  Eパンタ・レイ F火
G事的世界観 H弁証法
有るものは有り、有らぬものは有らぬ
@エレア Aパルメニデス B有るものは有り有らぬものは有らぬ Cドクサ D一者
Eヘン・カイ・パン F善美なるもの Gゼノン H飛んでいる矢は止まっている
Iアキレウスは亀を追い越せない
四元論とアトム論
@エンヘドクレス  A愛 B憎しみ C円環的 Dケノン Eアトム Fデモクリトス Gセンスレス
Hバリューレン Iパーパスレス
ソフィスト
@弁論術 Aソフィスト B万物の尺度は人間である  Cプロタゴラス D相対主義 EゴルギアスF懐疑主義者 G詭弁 Hノモス Iフィシス J普遍妥当的 Kソクラテス
ソクラテス
@汝自身を知れ A魂への配慮 Bプシュケー Cプラトン D理性 E気概 F欲望
Gただ生きるのではなく、善く生きることである。 Hアレテー I知徳一致 J福徳一致
K知行合一 L主知主義 M問答法  N無知の知 O産婆術 Pエイロネイア
Q普遍妥当的な真理 R青年を堕落させた Sダイモニオンを信仰して、ポリスの神々を信仰しない。
プラトン1魂の三分説と哲人王政治
@統治者 A軍人 B生産者 Cイデア D智恵 E哲人 F正義 G哲人王政治 H勇気      I節制 Jプシュケー Kギリシアの四元徳
プラトン2 イデア論
@理性 Aアルケー B火 C観念 D現実界 E真実在 F感覚 G分有 Hアナムネーシス    Iエロス  Jプラトニック・ラブ  K善のイデア  L太陽  M主知主義
アリストテレス1エイドスとヒュレー
@アカデメイア  Aリュケイオン  B個物  Cエイドス  Dヒュレー  E動力因  F目的因 
G第一質料 Hエネルゲイア Iデュナミス  J学べ、学べ、そして学べ
アリストテレス2 徳と幸福
@理想主義 A現実主義 B知性的徳 C習性的徳 D智恵 E思慮 Fメソテース
Gテオーリア Hエウダイモニア  Iエネルゲイア  Jキーネーシス
アリストテレス3 ポリス的動物と正義論
@ポリス的動物 A全体が先、部分が後だから  Bフィーリア  Cポリスの法を遵守すること
D配分的正義  E調整的正義  F交換的正義  GH民主政  I名望家政治
ソフォス(賢人)の知
@ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ  Aコスモポリス  B安心立命  C個人の幸福   DソフォスE樽の中のディオゲネス  F足るを知る  Gピュロン  Hエポケー  Iエピクロス
ストアエピクロス学派―パンと水の快楽
@最高善 Aエウダイモニア Bアタラクシア  C足るを知る  Dパンと水  E隠れて生きよ
Fエピクロスの園  G魂のアトム
ストア派―禁欲主義と自然法思想の源流
@彩られた柱廊 Aゼノン  B理性  C情欲  Dアパテイア  E自然にしたがって生きよ
F自然法 Gキケロ Hセネカ Iマルクス・アウレリウス 

 

ベーコンとデカルト

1ルネサンス科学

天と地を入れ替えてみて悟りしか宇宙の無限人のはかなさ
開けてみて五臓六腑は変らぬを如何に築きし文明の世

先生:ルネサンスは人間中心主義の思想を開花させ,自然を人間の為に研究し,改造しようとする科学・技術の発展を齎しました。太郎君ルネサンスの三大発明と呼ばれたのは何ですか?

太郎:@(     ・     ・       )です。まず火薬は鉄砲や大砲の発明と結びついて、非西欧世界に対する軍事的優位を確立しました。羅針盤が大航海時代をもたらし、鉄砲と結びついて植民地獲得に貢献します。活版印刷は宗教改革と結びつき,バイブルの普及に大いに貢献したのです。

先生:ルネサンス二大論文というのは分かりますか、花子さん?

花子:一つは地動説を説いたコペルニクスの『A(                   )』ですね。もうひとつはさて、ニュートンの『プリンキピア』かな。

先生:ニュートンは17世紀ですね。解剖によって人体と高等動物の類似を鮮明にしたB(         )の『ファブリカ(人体構造論)』です。両方とも1543 年に発表されたのです。近代的な世界観・人間観の成立にこれらは重大な意義を持っています。

太郎:近代的な世界観は,コペルニクスの後、ケプラーの惑星運動の法則とC(    )の落体の法則を統合したD(     )の慣性の法則および万有引力の法則のように,天体と地上の統一原理をもとめる方向に発展し,物体間の関係として数学的・物理学的に説明しようとする傾向を強めました。これは又E(                   )が論証した無限の宇宙空間を前提しましたから、翻って人間存在のはかなさが強調され,実体としての霊魂の救済が求められたのです。

花子:それがF(       )の「人間は考える葦である」という言葉になるのですね。B(        )の『ファブリカ』はどんな影響を与えたのですか?

先生:それまで人間と他の動物は、全く構造が違うと思われていたのです。二足と四足の違いもありますが、『バイブル』の影響で獣は人間に支配されるために作られたと思っていましたので、次元が違うと考えられていたのです。でもB(    )が解剖しますと、外見はかなり違うのに、構造は哺乳類ではほとんど同じなので驚いたわけです。肉体的にはほとんど変らないのにどうして人間だけ、言葉を自由に操り、文明を築くことができたのかが不思議ですね。それで肉体と魂は別で、神が魂を置き入れたというデカルトのG(       )が唱えられることになるのです。

問@(    )〜G(    )に当てはまる適当な語句を記述しなさい。
ベサリウス 心身二元論 ニュートン 天球の回転について 
火薬・羅針盤・金属活版印刷 ガリレオ ジョルダーノ・ブルーノー パスカル

      2ノヴム・オルガヌム

何事も割り切りてぞ捉えたる人にありがち種族のイドラ
井の中に篭りて世間狭くする己の洞窟抜け出し海へ
運命といふ言の葉に惑わされ運命信じて未来なくさじ
権威ある学説なれど己が眼で確かめるまで信じまじきを

先生:@(         )と言えばだれですか、花子さん?

花子:もちろんA(                    )15611626)です。彼は,主著『B(                 )(新機関)』で,主観は様々な思い込みに陥入り易く,客観を正しく捉えられないでいると指摘して,「C(            )」に注意を促しました。

先生:イドラというのは偶像という意味です。英語ではアイドルですね。アイドル歌手というのは本物の歌手というより、まがいものの歌手なのです。その方がアイドルに熱中するミーハーにとっては、自分と同一視できるからいいのです。

花子:でもこの場合はまがいものというよりも思い込みや偏見ですね。まとめてきましたから発表します。

 (1)「D(              )」―人間の種族に属することから生じやすい偏見です。人間は「地球は球形である。」というように何事も割り切って典型的な形で捉えようとします。でも厳密に計測すれば球形ではありません。科学・技術的には割り切って捉えていますと失敗の原因になります。

(2)「E(              )」―各個人はそれぞれ特有の体験や教育環境からくる固有の洞窟を持っています。それでどうしても事実を歪めて受け止めてしまうのです。

(3)「F(             )」―人間間の交際に言語を使用せざるを得ないところから,言語による偏見が起こります。例えば「運命」や「原子」という言葉があれば,誰もその存在を実証していないのに,それに対応する実在が有ると思い込みます。

(4)「G(              )」―シェークスピアなどのお芝居は台本が良くできているので,とてもリアリティが感じられます。それと同様にプラトンやアリストテレス等の権威ある学説は論理構成が見事ですから,つい感心してしまい,実際の事実と照らし合わせるまでもなく真実だと思い込まされてしまいます。そこに偏見が生じるのです。

太郎:彼は実証が不可能で実用性のないギリシアの学問を退け,
「H(                                                                         )」として「知は力である」という立場で、自然を支配するために自然の法則性を見出そうとしました。

先生:彼が展開した科学方法論はI(         )ではないJ(               )でした。それは次の「三つの表」に整理して法則を確かめるもので,これによって科学技術の飛躍的発展が計れると確信していたのです。

(1)K(          )ー肯定的事例を洩らさずに表にする。
(2)
L(          )ー否定的事例を洩らさずに表にする。
(3)
M(          )ーある条件では肯定的事例だが,別の条件では否定的事例になる現象を洩らさず表にする。

花子:なるほど、これら三つの表から,どのような条件においていかなる法則が成り立つかが実証されるのですね。

先生:こうして自然の秘密を暴き自然を支配しようとすることは,神を懼れない罪業だとする非難に対して,神が隠した自然の秘密を暴くのは,神から与えられた能力によって神を讃える事であるとしたのです。しかし自然に対する支配は健全な理性と正しい信仰に導かれなければ人間の幸福を増進する事にならないと警告しています。人間の自然に対する支配によって形成された近代の物質文明が,深刻な人間疎外を齎しているのを鑑みますと,ベーコンの人間中心主義的で実用主義的な科学論にも反省の必要がありそうです。

問@(    )〜M(    )に当てはまる適当な語句を記述しなさい。
イギリス経験論の祖  程度の表  自然は服従することによってでなければ,征服されない。
洞窟のイドラ  新しい帰納法  存在の表  市場のイドラ  フランシス・ベーコン 
欠如の表  種族のイドラ  単純枚挙  劇場のイドラ 四つのイドラ 
ノヴム・オルガヌム
 

解答

ベーコンとデカルト
1.ルネサンス科学 @火薬・羅針盤・金属活字印刷 A天体の回転について 
Bベサリウス Cガリレオ Dニュートン Eジョルダーノ・ブルーノ Fパスカル
G心身二元論 

2.ノヴム・オルガヌム @イギリス経験論の祖 Aフランシス・ベーコン 
Bノヴム・オルガヌム C四つのイドラ D種族のイドラ E洞窟のイドラ 
F市場のイドラ G劇場のイドラ H自然は服従するのでなければ、征服できない。
I単純枚挙 J新しい帰納法 K存在の表 L欠如の表 M程度の表

 

                      3.方法的懐疑

果てしなき懐疑の末にたどり着く「懐疑する我」確かなりしか

花子:ベーコンに連なる学派が@(              )ですね。あくまでも実験と観察の結果のみを信用するというのが特色です。

先生:ええ社会契約論で活躍するA(        )やB(     )などが含まれます。

太郎:@(              )がC(     )で実験・観察の結果から法則を導き出したのに対して、D(          )は絶対確実な真理から定理をE(   )して真理の体系を構築しようとしたのでしょう。

先生:その筆頭がF(       )(1596 1650)です。彼は1637年の『G(        )』で彼の学問の方法を説明しています。真理を展開するためにはH(                  )から出発すべきです。そのためには少しでも疑わしいものは真理ではないとして斥けなければなりません。これを「I(            )」と呼びます。

太郎:ふだんは全く疑いもしないことでも、H(                  )にたどり着くためにあえて疑ってみるということですね。

先生:先ずJ(         )です。つまり眼に見える現実ですね。ときには見間違えということがあるでしょう。それでJ(         )が心に描かせるものは存在しないと想定します。

花子:華のように麗しい私が先生の目の前にいるということも疑わしいということですか。

太郎:そりゃあ大いに疑わしいよ。「確かに見た」という目撃証言も絶対確実とは言えないということですね。

先生:次に幾何学をはじめとする全てのK(          )も間違う可能性があるので偽なるものとして投げ捨てます。

花子:<ガリレオは二等辺三角形の両底角が等しい>のは、人間においてだけでなく、神においても正しいと言っていますよ。

太郎:絶対確実なものにたどり着いて、そこから神を証明して、その上で言えることです。まだ絶対確実なものにたどり着いていないのですから、そこでのK(          )は絶対確実とはいえないということです。

先生:そして目覚めているときにもつ全ての思想がそのまま眠っているときにも現れるので、どの思想も真とは言えないとして,精神に入ってきたものは全て真ではないと仮想しました。

花子:もう何も残っていないでしょう。絶対確実なものなんて。

太郎:ところがあるのです。それはすべてをL(                         )です。これだけは、疑っている以上疑えないのです。

先生:パチパチ、よく勉強していますね。そうなのです。そうデカルトは確信したのです。それで「M(                      )」という真理をN(                  )に据えたのです。

花子:なんだか納得いきません。確かに疑っていた以上、疑っているということは疑えないのですが、それが私が疑っていたということは、どうして言えるのですか。まだ神さえ証明できていないのに、O(                )がどうして確実なのですか?

太郎:じゃあ誰が疑っているの?疑ったり、考えたりするのは「我」しかないだろう。

先生:これはすごい疑問ですね。デカルトに尋ねてみないと。確かに絶対確実なものを求めると言っても、疑ったり考えたりしていることは確かでも、その主体が存在するというのは飛躍のような気もします。ただデカルトがそう考えたのは、ラテン語やフランス語の構造からきたかもしれません。もちろん無意識にですが。その場合の「コギト」は動詞「考える」の一人称単数現在なのです。つまり考えるという行為の中に「我」が含まれてしまっているのです。

太郎:だから考えている以上、考えている我は確実だということになったということですか。

先生:そこでこのコギトは、「我思う」がP(      )、実体化されて「考える我」という意味になるのです。そしてコギト(考える我)はあらゆる物質に依存しない実体としてのQ(            )だということになります。

花子:ということは、身体や頭脳があって、それらが考えているのではなく、「R(       )」があって、それが考えているということですね。

太郎:考えている以上、私の頭脳が働いているのが確実ということではなく、頭脳は感覚的現実だからまだ確実ではなく、コギトが考えていることが確実だということですか。

先生:ええ、そうです。そして彼はコギトにS(           )はすべて真であると認めることにしたのです。

問@(    )〜S(    )に当てはまる適当な語句を記述しなさい。
絶対確実な真理  ホッブズ  明晰判明なもの  主体化  ロック  演繹 
イギリス経験論   疑っている私の存在  大陸合理論  考える我  哲学の第一原理 
精神的実体  デカルト  我という存在  数学的論証 
コギト・エルゴ・スム(我思う・故に・我有り)   感覚的現実  方法的懐疑 
方法序説  帰納法

            4生得観念としての神

完全な神という名の観念を不完全なる我、つくり得ざらむや

花子:@(      )からコスモスの全てを演繹するということになりますね。さしあたり何をコギトから演繹するのですか?

先生:次に彼は疑っているコギトは完全でないことに気付きます。A(              )は完全なものの存在に依存している筈です。だからコギトが存在するなら完全なもの即ち神も存在することになります。実はこの論証はB(                  )が懐疑論者に対して行った批判に含まれていたのです。

太郎:きちんと引用していたのですか?引用がなければ剽窃でしょう。

先生:私はこの話を広島経済大学の渡部宏太郎先生に伺ったのですが、そう言わないと私も剽窃ですね。引用はなしです。また完全なものの観念,すなわちC(         )は不完全なものに依存できないので,不完全なものであるコギトが作り出すことは不可能だとしました。だからC(          )は完全な存在である神がD(         )にコギトに置き入れたE(           )だということになるのです。こうして神の存在を証明したのです。

花子:それにしても納得できません。F(       )である神が、不完全なコギトの存在によって論証されているというのは完全ではないことになりませんか。

太郎:そんなことを言ったら神は完全だから、その存在は自明で疑いの余地のないものになってしまいます。しかしもし神が自明の存在なら、信仰の対象ではなく、従って神ではないことになります。デカルトは、不完全なものは完全なものによって支えられていると言った段階で既に完全なものである神を前提しています。本当はコスモスが不完全で有限な事物からだけ構成されているのではないことの論証が必要だったのでしょう。

先生:既に太郎君はデカルトを超えているね。ところで、この神の観念がE(           )だというデカルトに対決したのがイギリス経験論のG(       )です。彼は、神がE(         )でないという証拠に,未開人や東洋人でC(       )を持たない人が存在し,西洋でも幼児には明確でないとして,C(      )はH(                )な観念だとしました。こうしてG(    )は人間は生まれつきは「I(                 )」であって,「J(                    )」形成されると主張し,K(                    )を確立したのです。

問@(    )〜K(    )に当てはまる適当な語句を記述しなさい。
イギリス経験論  考える我(コギトホワイト・ペーパー  ア・プリオーリ  神の観念  ロック 完全者  アウグスティヌス  生得観念  ア・ポステリオーリ  あらゆる観念は経験から  不完全なもの

5主観・客観認識図式

客観の事物に己の情念を置き入れまじき理を知りたくば

先生:デカルトによれば,神は人間にいつも@(      )を与えるとすれば,完全者としての神の定義に悖ることになりますので,感覚的な現実もコギトに「A(             )」であれば実在性を持つことになります。

>花子:あんなに懐疑的だったのに神を証明してしまうと今度はあっさり、感覚的現実まで認めてしまうのね。

太郎:感覚的現実というのは、イギリス経験論が実験と観察の結果確かめたものだけ信じると言う場合の実験と観察の結果ですよね。デカルトがこれを疑ったのは凄かったのですが、見掛け倒しですかね。

花子:感覚的現実がA(          )なら、それは確かだというのは、神に支えられてこそだと釘をさしているわけですね。そうしておかないと、実験と観察の結果が一人歩きして、無神論的な近代科学が成立してしまいそうですからね。

先生:ええその通りです。考える我がB(         )であるのに対して、物質もまた神に支えられていることでC(         )として認められるのです。

花子:C(         )という表現はなじめませんね。物質には延長的な性質があるということでしょうが、それはたとえば、長さや体積や質量が有ると言う意味ですか。

太郎:逆に言えば、精神をそのような量的あるいは感覚的なもので捉えてはいけないということですね。

先生:ええ、そうです。こうしてD(           )を峻別しました。そして客観的な事物を主観を交えずに認識する科学的なE(                         )を確立したのです。その結果,認識対象としての自然は,主観的な情緒や意志や目的を持たないF(            )に脱色されてしまいました。単なるG(                  )としてしか対象を捉えられない傾向が,近代のデカルト的合理主義の問題点だと言われています。これがH(        )をもたらしたというのです。

花子:I(     )というのが観る側で、そこに精神・意志・感情が属し、J(     )というのが観られる側で、自然・物質・対象が属しているという図式ですね。

問@(    )〜J(    )に当てはまる適当な語句を記述しなさい。
主観・客観の認識図式  人間疎外  精神的実体  主観 機械的な物体や手段 客観
偽りの表象  精神と物質  明晰かつ判明  機械的な自然  延長的実体                  

         
6物心二元論

魂は頭のてっぺん主座にして巡れる情報巧みに読み解く

太郎:ベサリウスの『ファブリカ(人体構造論)』を踏まえて、デカルトは人体と動物の身体には本質的な差異はないとしたのですね。

先生:ええ、そうです。物を神が造られた精巧な@(    )として捉えました。人間も身体だけを捉えればやはり@(        )に違いないのです。しかしそれがいかに発達したとしても,人間のようにA(    )を状況に応じて使い分けるようになれるとは考えられないとし,きっとB(     )が頭脳の中のC(        )を主座にして,身体と結合しているに違いないと推理したのです。この考えを心身二元論と言います。

花子:心身二元論とD(           )は違うのですか。

先生:同じことです。D(          )は、精神的実体と延長的実体によって世界ができているということですね。それが身体において心身二元論の形で結合しているということです。この考えと徹底的に対決したのがE(         )の人間機械論です。彼はデカルトの動物機械論を更に徹底し,人間の言語を使った思考活動もF(                  )の物質的運動として説明し切りました。つまり精神的主体は身体とは別ではないというのです。

太郎:それは頭脳が考えるということですか。

先生:外界からの刺激が記憶として残り薄れ行くメモリィつまり残像ですね。これがF(                 )の正体ですが、それが活発に物質的な運動を繰り広げて、互いに引き合ったり、反発しあったりして、外界の情報が整理され、どう反応すべきかが決定されるのが思考た゜というのです。人間の場合、G(                     )が他のイマジネーションの記号として作用することで言語が形成されたとしています。

花子:それが精神的実体ではないのですか。

先生:ええ、でもデカルトとは違い物質という延長的実体の活動として捉えられているでしょう。デカルトの言う精神的実体は物質ではない、延長をもたないものですから、デカルト的な意味での精神的実体として存在するわけではないのです。ホッブズによれば人間は欲望を充足することによって自己保存するH(          )であり,I(    )はその自己制御機能に他ならないのです。

問@(    )〜I(    )に当てはまる適当な語句を記述しなさい。
イマジネーション   理性  自動機械  言語  音声のイマジネーション  欲望機械   霊魂   松果腺   物心二元論  ホッブズ
 

 

大陸合理論とイギリス経験論  

           
                   
1スピノザの汎神論


             永遠の相の下にて眺むれば塵芥すら神の現れ


先生:大陸合理論はデカルト(15981650)の他に誰が挙げられますか?

花子:それは@(        )16321677)とA(               )(16461716)です。デカルトと合わせて三大哲学者です。

太郎:@(         )の主著は『B(      )』(1675年完成)です。彼はC(           )を神とし,神の無限の様態として万物を合理的に演繹するD(        )を展開しました。

花子:D(      )て何ですか?万物が神だということですか。それなら自然神信仰ですね。

先生:そうなのです。神を必然的法則によってE(          )を産出するF(          )だと捉えたのです。つまり自然自身の生み出す働きが神だということです。ブルーノー的にG(            )を説きますと,神の存在する場所が無くなる恐れがありますが,スピノザ的に宇宙自体がH(          )だとすれば,この問題は解決します。しかしヘブライズム的な超越神論の放棄になりますね。そして自然は全くI(                     )に支配されたものだということです。

太郎:延長的実体のことばかりで、精神的実体の話はないのですか?

先生:これは失礼。延長と同様に精神もC(          )である神の属性として演繹されますからJ(        )は平行しているのです。そこで人間精神は必然的な連関を「K(                          )」認識することになり,神へのL(      )が生じるとしたのです。この神へのL(        )が最高の善であり,最高の徳であると説きました。何故なら神への愛こそ,神の人間に対する愛が人間の中で最高に高まったものなのですから。


問@
(    )〜L(    )に当てはまる適当な語句を記述しなさい。
ライプニッツ  永遠の相の下に  所産的自然  宇宙の無限  機械的な必然的法則
エチカ 知的愛  能産的自然  スピノザ  神の属性  物心両面  汎神論  唯一実体

 

     2ライプニッツのモナド論


     窓はなく自己関心に閉じこもりコスモス映じて調和に生きるや


太郎:ライプニッツ(1646 1716)は,『@(       )論』で。神が創造されたのはアトムではなくて、
@(       )であり,宇宙は無数の@(       )によって構成されていると捉えました。

花子:@(      )はアトムとどうちがうのですか?

先生:それはアトムと違って延長を持ちません。A()です。それぞれのモナドはB(     )であって独立しており,C(       )て影響し合うことはありません。つまり近代市民たちのように,D(                     )に閉じ籠もっているのです。しかし互いを映し合い予定調和的に結合して,それぞれの視点からE(            )しているのです。スピノザが,近代の合理主義的思考である機械論的な必然論と見なされるのに対して,ライプニッツは近代市民社会のF(                           )を反映していると評価されています。それでG(          )や古典派経済学などのように,モナド的な個人の集合として社会を捉える観方を「H(             )」と呼ぶのです。


問@
(    )〜H(    )に当てはまる適当な語句を記述しなさい。

質的な形而上学的点  モナド 実体  窓がなく  絶対的な自己関心  全宇宙を表象 
個人主義の論理  社会契約論  モナド社会論
 

      3ロック・バークリー・ヒューム

     
観念が生まれし元は経験や事物は畢竟感覚の束
 

先生:イギリス経験論を確立したのは誰でしたか、太郎君。

太郎:「全ての観念は経験から」と『@(           )』で唱えたA(     )16321704)です。

花子:彼は,デカルトが『神はB(          )である。」としたのに対して幼児や東洋人の例から神観念の生得性を否定したのでしたね。

先生:そうです。彼は観念形成が感覚を比較吟味するC(     )の働きに依存する事を強調して,人間をできるだけ理性的に捉えようとしたのです。これは人間を欲望機械として捉えたD(         ) (15881679)に対抗する人間観です。

太郎:イギリス経験論もベーコンのE(                )で法則的な認識を確立しようとしたのですが、これはデカルト的なF(                    )に基づく合理的な法則性の認識とはずれがあるのですか。

先生:ロックの『全ての観念は経験から、生まれつきは白紙」という立場は、経験にすべてを還元しようとするG(         )を発達させます。この立場がデカルト的な主観・客観認識図式の固定化を批判する立場を生むのです。

花子:つまり客観的な実在としての事物が先ずあって、それが観念に投映されるのではなくて、人間のH(      )を整理することによって事物の観念が生まれたということですか。

先生:ええ、そういう方向にいくのです。ロックの「すべての観念は経験から」という言葉を突っ込んで考えますと、知覚に基づく経験なしに事物の観念も生じないということになりますね。そこでI(           )16851753)は、「J(                            )である」と、K(       )の立場に達したのです。つまり意識の外部に客観的な事物がまずあって、それが知覚されるのではないというのです。逆に知覚の内容を反省する事によって、客観的に事物が存在すると考えているだけだということです。

太郎:それでは客観的な実在としての事物がまずあって、それを知覚しているのではなくて、知覚の連鎖が事物や世界を構成しているのだということですか?

花子:とすれば、知覚や経験それ自体が存在だということですね。でもどうして様々な種類の知覚像が現れ、それが様々に変化するのか、その原因となるものが必要です。

先生:バークリーにすれば、その原因がL(   )だということになるのです。

太郎:大陸合理論なら神は、数学的な理性を持っていて、機械的必然性で世界は動いているみたいに捉えていたのでしょう。でもイギリス経験論の場合は、経験や知覚の総括として法則性が帰納されるので、新しい未知の経験が加わったりすると不安になったでしょうね。


先生
:それはいえるかもしれませんね。あらゆる観念は経験に依存することになりますので,客観的事物の法則性や存在は既成の経験からM(         )に帰結されたものに過ぎません。ひょっとしたら経験の仕方が突然変化するかもしれないのです。だから「N(                                                     )」とも言えるのです。このような徹底したO(         )を唱えたのは『P(        )』を著したQ(         )171176) す。この発想はカントの批判哲学の成立に決定的な影響を与えたのです。


問@
<(    )〜Q(    )に当てはまる適当な語句を記述しなさい。
唯心論 明日の朝太陽が東から昇るとは限らない。生得観念  ホッブズ
 
新しい帰納法  蓋然的  ヒューム  神 ロック 経験主義   経験  
バークリー
 人間悟性論  存在することは知覚されてあること 
悟性
  主観・客観認識図式  懐疑論  人性論 

 

    社会契約の思想


社会契約とは何か


個人あり生き残るためあいともに契約むすび社会つくりし


太郎:イギリス経験論の@(     )やA(    )は、B(      )でも有名ですね。ところでB(     )というのはどういう考え方なのですか。

花子:まずC()がいて、それぞれ自分の力で生きていこうとしますが、恐ろしい侵略者、凶暴な野獣などによって絶滅の危機に見舞われました。それで自然権の根本であるD()を守るためにみんなで社会を作ろうというE(  )をします。その際、F(   )に統治権を託すわけです。F(   )は、人民に代わって統治を行い、人民が平和的に生きていけるようにするわけです。

太郎:それじゃあ、社会契約というより、国家契約ですね。ところでそういう社会契約は、歴史的には本当に行われたのですか、全くのフィクションでしょう。
 

先生:ええ、社会と国家の区別はありません。B(     )を批判する人にはフィクションだといいますね。G(    )は『パトリアーカ(家父長制論)』で、王権は家父長権のようなもので、社会契約によらずに神から授かったものだから、不可侵だとしました。

花子:G()のH(     )に対して、王権は神授ではなくて、社会契約によるのだと社会契約説で批判したのではないのですか。絶対王政から市民革命という歴史の流れと、H(     )からB(    へという思想の流れが照応しているのですから。

先生:絶対王政から議会政治、選挙権の拡大による民主主義の発展をふりかえりますと、絶対王政は古い思想で、民主主義と調和しやすい社会契約説の方が新しい思想だと誤解されがちです。でも17世紀に身をおけば、民主主義はギリシア・ローマの古典的な思想で、絶対王政の方がI(      )の登場による中央集権国家のシステムとして斬新です。 

太郎:そういえばホッブズは社会契約説だけれど、絶対王政に肯定的だし、フィルマーの方がホッブズより後ですね。ところで社会契約にいたるまでの状態をJ(    )というのですが、これは論者によって違いますね。
 

( @ )から( J )にあてはまる適当な語句を次から選んで記述しなさい。

自然状態 フィルマー 社会契約説 近代主権国家 ホッブズ 契約 王権神授説 
主権者 独立した諸個人 ロック 自己保存権

 
         
自然状態ははじめから戦争状態か?
 

ホッブズ
     人が皆野獣のごとく牙むかばリヴァイアサンをつくりて守らん
  ロック
  お互いに富と人格認め合い仲良く生きるが自然状態
  貧富の差生まれて互いに侵し合う修羅の世とぞなりぬるかな

  ルソー
  土地区切り、剣を持ちて争える、農耕・冶金が不幸の元かは

花子:ホッブズの『@(      )』によりますと、人間の身体は欲望を充足させることで動くA(    )です。つまりB()が一番人間の自然権の中で中心なのです。それで理性は欲望を充足させるための自己制御機能でしかありません。だから理性より欲望によって動くので、どうしても少ない富を奪い合うようになってしまいます。

太郎:それでホッブズは、自然状態ではどうしても「C(             )」になってしまうというわけですね。

花子:それに対してロックの『D(      )』では、人間の悟性は自己保存のためには争いよりも協調のほうがよいことを判断できるので、自然状態では、互いのE()を尊重し合っていたというのです。

太郎:それでは社会契約する必要はないじゃないですか。

先生:ええ、そうなんですが、ロックによりますと、貨幣が発生してF(     )ができますと、盗みや強奪がおこり、私有財産を争奪しあうことになります。それが大規模になりますと戦争にもなりますね。それで主権者に生命や財産を守ってもらうために、自然権の一部をG(  )して統治権を与えたということなのです。

花子:18世紀フランスのルソーは『H()』で自然状態を論じ、『I(     )』で社会契約説に基づく国家のあり方を論じています。それによりますと、原始状態では、人間はJ(  )して暮らしていました。だから言語もなく、財産もありませんでした。しかし困り果てた人を見ると、K(  )から助けずにはいられなかったのです。それで助け合うことから、一緒に助け合って暮らすようになり、言語が生まれ小さな集落も生まれたわけです。いわゆる未開状態ですね。この段階までは神も予定していたのですが、その後は人間が勝手にしたことで、その結果不幸な結果になったというのです。

太郎:それがL(     )によって土地を区切って奪い合うということですね。それにM (  )によって武器を作ったので戦争が起こります。それで社会契約が必要になったということでしょう。


( @ )から( M )にあてはまる適当な語句を次から選んで記述しなさい。
農耕や牧畜 社会契約論 万人に対する万人の戦争状態 貧富の格差 人格と財産 冶金 市民政府二論 リヴァイアサン 人間不平等起源論 欲望機械 孤立 信託 共感 自己保存権

 
            
ホッブズの『リヴァイアサン』
 

             リヴァイアサンの絵

巨大なるジャイアントなり村守る、瞳凝らさば無数の人あり

各々が欲望機械の人なれば、集まりつくれる国家も機械か


花子:ホッブズの主著は『@(       )』ですね。この書名はA(        )の名前だそうですね。それとホッブズの社会契約説とはどう関係があるのですか。

太郎:A(        )のように強大な国家ということで、リヴァイアサンは国家の強大さを象徴しているわけですね。

先生:それが単なる象徴じゃないんです。本の表紙にでっかい巨人が剣をもって村を守っている絵が描かれているのです。ですからB()なのです。

花子:怪獣といっても恐竜みたいなのではなくて、人間なのですね。

先生:しかもよく見ますと、その巨人はおびただしい数の人間たちによって構成されているのです。


太郎:つまり国家は国民によって作られた組織体だということですね。それが主権者の意思に統合されて人格を持っているように見えるので、人間に譬えているのでしょう。 

先生:私は譬えじゃなくて、国家をC(       )だと捉えていたと解釈しています。元々各個人の身体を欲望によって動く機械と捉えていたわけです。しかも神が造った自動機械だという認識です。それらが合体してより人工の大なる機械人間を作ったわけですね。ですからホッブズによれば、D(        )なのです。

太郎:もしそうだとしますと、国家以外の企業や学校やさまざまな団体などの組織体も人間だということになりますね。

先生:それで19世紀から法人という概念が生まれ、組織体も法的人格をもち、権利や責任を持つものとされています。もっともどこまで比喩として捉えられ、どこまで本気で人間として捉えられているかは微妙ですが。

花子:国家が生きた人間だとしますと、主権者は意志を決定する中枢であり、人民はその他の器官を構成する細胞みたいに位置づけられますから、主権者の意志に人民は絶対服従だということになりますね。

太郎:それに人民がE(   )を気に食わないから取り替えようとしても、国家が生きた人間なら、首を取り替えたら死んでしまいます。国家の死はF(    )の逆戻りで、人類の破滅を意味しますから、G(  )はいけないというホッブズの立場にうまくあっていますね。

先生:もともと社会契約説は、社会(=国家)は契約で作ったものだから、人民のH(       )を守れなくなれば、廃止したり、作り直してもいいのだという考え方だったのです。それをホッブズは、国家は生きた人間だとすることで、契約の破棄は国家の死になるので、自分の生命を脅かされる場合を除き絶対にしてはならないとし、絶対王政であってもG(  )はしてはならないとしたのです。主権者は人民と国家意志を決定するI(      )を交わしています。ですから主権者の決定は、人民に代わってなしたものだというのです。ですから手や足が頭の決定に逆らってはいけないように、主権者の決定したJ(       )は人民自身だとして認め、決して逆らってはならないということなのです。

<花子:J(        )が人民だというのなら、本人の利害に反する決定を主権者がしたばあい、人民はそれを本人の意志に反するとして取り消す権利はないのですか。

先生:国家も人間だというわけですから、個人の身体で頭脳が決定する意志は身体全体の意志だということです。身体の各部位はそれに文句をつけてはいけないということです。

( @ )から( J )にあてはまる適当な語句を次から選んで記述しなさい。
国家意志の本人 主権者 革命 人工機械人間 国家は生きた巨人 
永久代理契約  地上最強の怪獣 戦争状態 自然権 
国家も生きた人間の一種 リヴァイアサン


  ロックの道具としての国家

   
主権者に信じて託せり統治権、耐え難ければ革命に起つ

太郎:ロックは悟性が欲望をコントロールして、互いの人格と財産を尊重するという人間観を前提にしたうえで、貧富の格差から生じた@(         )として国家が必要になったというわけでしょう。ですから国家はあくまで道具であって、国家自体が生きた全体であったり、人間であったりということはないのでしょう。

先生:ええ、そうですね。社会の調整役として主権者があり、そのもとに官僚機構や軍事、治安組織があるわけです。人民は統治権を主権者にA(  )しているわけです。もし主権者が人民に耐え難い圧政を行えば、人民は元々、治安の維持と公共の福祉のために統治権を A(  )したわけですから、B(    )を解消し、主権者を取り替えるのは、当然の人民の権利だということです。

花子:ホッブズはC()の際に、フランスに亡命してイギリスの皇太子の家庭教師をしていた王党派です。それに対してロックはD()で活躍した議会派ですから、そういう立場の違いが理論にも反映しているわけですね。

先生:ただホッブズ自身は王党派だったことが多いけれど、古代ギリシア・ローマにあこがれて政体を変更してはいけない、首のすげ替えはE(    )だといっただけで、絶対王政でなければならないとはしていません。主権者が一人は王政で、少数が貴族政、多数が民主政ですね。各国にはF()があるからそれを変えてはいけないということです。

太郎:ロックは議会制民主主義の立場だったのでしょう。

先生:議会主権を強調しましたが、G(     )の導入には反対しましたから、民主主義者ではありません。ただし人民に革命権を認めているという意味では究極的なH()は認めているということですね。しかし実力行使の革命権を認めているのは、人民全体に投票権を認めていないからなのです。G(     )ならば、政府のやり方が納得できなければ、選挙で政権を交代させられるので、実力行使による革命の必要はないのです。


<( @ )から( H )にあてはまる適当な語句を次から選んで記述しなさい。
普通選挙 ピューリタン革命 社会契約 利害調整のための機関 国家の死 信託
人民主権 固有の政体 名誉革命

          ルソーの『社会契約論』

   諸人よ私的利害はさておきて、皆の幸こそ共に語らむ
激論を交わして決めし一般意志(のり)ならば、守り抜くこそ真の自由か


花子:ではルソーはどのように社会契約を論じたのですか? 彼は@(                 )で、王政など認めないのでしょう。

先生:ルソーの場合、大変大胆で独特の発想ですから、慎重にみきわめましょう。彼の説明は農耕と冶金によって土地争いから戦争になってしまって、それで社会契約で社会をつくることになるわけです。その場合、まず必要なのは、共倒れになる戦争をやめて、A(                    )でどうすればみんなが仲良く平和に暮らせるようになるか話し合うべきだとしたのです。

太郎:みんなが集まるとかえって収拾がつかないから代表を選んだほうがいいのじゃないですか。

先生:ルソーに言わせれば、自分が加わっていない話し合いの結果に従うというのは奴隷と同じだということです。話し合いに加わってこそ、その結果に責任が持てるわけです。ですから「B(          )」ということです。

花子:でも物理的に全員参加は無理でしょう。

先生:それが古代ローマには人民集会があって、町内ごとに全市民が参加して決議を行っていたそうです。それをルソーはヒントにしました。ともかくルソーには真の法律というものは、国民の総意によって作られたものでなければならないという確信があったのです。 

太郎:しかしたくさん集まりますと、かえってみんな勝手なことばかり言ってまとまらないじゃないですか。

先生:実際はそうですね。でもルソーの考えでは、それはそれぞれが自分の利害に基づいて発言するからなのです。それぞれのC(    )に基づいて、その妥協として出来上がったD(    )は、結局強いものが有利に決まってしまって、不満が残り、平和になりません。ですからE(    )は棚上げにして、みんなが幸せになるにはどうしたらいいかという立場で発言しなければならないことにするのです。

太郎:『日本国憲法』でも「F(       )があって、国会議員は、自分の私的利害は棚上げにして、国民全体のために議論しなければならないということがありますね。

先生:ええ、『日本国憲法』にもルソーの思想の影響があるのです。ルソーは、国民全体の幸福のために必要な情報と知恵を寄せ合って話し合えば、その結果総意として最善の策が決まるに違いないと考えたのです。

花子:その総意のことをG(     )というのでしょう。

先生:ええ、そうです。ですからG(    )こそH(    )であり、それに基づかない国家は真の国家ではないということです。ですから代議制によって決定された議会の意志は真の法律ではないということです。そしてこのG(    )に従うのが社会状態におけるI(    )であり、J(    )であるというのです。

太郎:それではルソーからみれば当時のフランスやイギリスは真の国家ではなかった、まだ社会契約がなされていないことになりますね。

先生:それであるべき国家を作ろうとしたK(      )を生む思想的土壌になるわけです。

花子:しかしいちいち人民集会を開いて決めていたら、日頃の政治などはできませんね。 

先生:ええ、ですから立法に関してはA()でG()を決めるべきだけれど、それに基づく実際の行政は、それぞれの国家の規模などにふさわしい政体をとればいいのです。フランスみたいな大国では当然王政がふさわしいということです。ですから人民集会が開かれていなくても、国民の総意を受け止めて、国民全体の福祉のため政治を行っていれば行政としてはまだましなわけです。

.( @ )から( K )にあてはまる適当な語句を次から選んで記述しなさい。
フランス革命 全体意志 社会的自由 立法権は譲渡できない 市民の道徳的義務
特殊意志 直接民主主義者 一般意志 真の法律 国民代表の原理 全員参加の人民集会私的利害

             ドイツ観念論哲学

                                  カント 

               観念論とは何か?
 


     対象となりし事物は感覚と思惟が作りしものにあらずや 

太郎:フランス啓蒙思想の次は@(                 )ですね。ところで観念論というのはどういう意味なのですか?

花子:プラトンのA(       )も観念論の一種でしょう。イデアという範型というか本質を宿しているから、すべての事象は成り立っているという考え方ですから。

太郎:デカルトなどは、主観は精神的実体で、客観は延長的実体ということで、B(          )になっていましたね。それでも観念論なのですか。

先生:精神的なものと物質的なもののどちらを根源的なものとして捉えるかで、観念論か唯物論かを区別しますと、A(      )は観念論の典型ですね。デカルトのB(          )は、二元論という点ではバランスをとっていますが、「C(        )」を第一原理においてすべて展開しているという意味では観念論です。

花子:ではドイツ観念論はどういう意味で観念論なのですか?先生:それはD(            )が同一であるという意味で言われます。それで、ドイツ観念論はE(           )なのです。(笑い)

太郎:思惟が存在とが同じだということは、対象である実在を思惟が正しく認識するという意味ですか。対象と認識内容が違っていたら、間違った認識だということですから?

先生:それなら別に観念論でなくてもいいわけでしょう。認識というものについて考えますと、普通は認識対象としての事物と認識内容としての意識は、事物は身体の外にあり、意識は中にあるというように別物と考えられていますね。それがドイツ観念論では実は対象であるF(    )と捉えるのです。

花子:「意識」ではなくて「思惟」ではないのですか?

先生:意識には感覚から思惟までが含まれていますね。物事の本質まで捉えると思惟に当たります。「何々はしかじかである」というのが思惟ですから。ですから厳密にいえば、感覚から思惟まで使って世界を構成しているという立場がドイツ観念論だと捉えていいでしょう。

太郎:それにしても感覚や思惟が物質を構成できるのですか?

先生:それはイギリス経験論のところで、バークリーやヒュームになると、事物も経験に還元されて、結局G(                              )だということになりましたね。それを踏まえているといえます。

問.( @ )から( G )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
事物は感覚の束 事物は意識によって構成されている ドイツ観念論 思惟と存在 
物心二元論 イデア論 考える我 同一哲学

        『純粋理性批判』

 
 ものごとをそれは何かと見極める理性は神に及びうるかは


花子:カント(17241804)1781年に『@(                  )』を世に問いました。題名の「純粋理性」を「批判」するというのはどういう意味ですか?

先生:「純粋理性」は後に出てくる「実践理性」と区別される「理性」です。だから物事を認識する理性ですね。欲望を充足し、利益を獲得するためにどうすればいいか考える理性も含まれます。「A(         )」という言い方もあります。そして「批判」は「B(        )」です。A(         )で何でも証明できるというのは間違いなのです。宗教的なことはA(        )で証明すると矛盾だらけですし、道徳を科学的に理屈づけるのも見当違いです。「純粋理性」が適用できる範囲をはっきりさせたのが『@(                )』です。

太郎:ということは理論理性が認識できるのは、客観的な事物の世界だけで、主観的なC(             )は認識できないということですか、それではデカルトと同じですね。

先生:そうじゃないのです。客観的な事物を我々は、D(     )と思っていますが、カントはそれは我々に現れたE(    )でしかないというのです。だからD(       )は認識ではないというのです。

花子:?物が現れたのが現象でしょう。だったらE(    )がD(     )ではないのですか?

先生:カントの場合は主観・客観の認識図式にこだわりますから、現象としての事物の性質が主観の感覚に属しているので、D(      )ではないというのです。

太郎:難しいですね。さっぱり分かりません。

先生:それでは、カントの認識論におけるF(                )について説明しましょう。

.( @ )から( F )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
物自体 現象 コペルニクス的転回 純粋理性批判 精神的実体 理論理性 限界付け

 

        認識論のコペルニクス的転回

 
   感覚をカテゴリーにて統合し構成したるが事物なりしか

花子:コペルニクスといいますと、天動説から地動説に@(       )を180度ひっくり返した人ですね。

先生:ええ、それに匹敵するような革命をA(       )にもたらしたと、カントは自負しているのです。私もだから人間論の分野ではコペルニクス的転回をもたらしたと宣言しているのですが、なかなか相手にされません。

太郎:先生の人間論のお話はいずれ暇ができたらうかがうとして、カントの認識論の大革命についてお話ください。

先生:カントによりますと、それまでの認識論はB(           )でしたが、カントはC(      )を唱えたのです。B(        )はこう考えます。客観的な事物が、鏡のような主観の意識に投映して像を結ぶわけです。その像が事物と一致していたら、その認識は正しいということです。それに対してC(       )はこう考えます。客観的な事物は主観が対象からもたらされた刺激によって、自らのD(              )したものだというのです。

花子:模写説が対象から主観へというのに対して、構成説は主観が対象に網をかけるみたいなので、方向が逆だからE(                   )なのですね。

太郎:それに模写説では認識されているのはF(               )としての事物ですが、構成説では主観が自分の生理的な感覚で作り上げたG(      )でしかないということですね。自分の生理的感覚を自分に含めるとしたら、見えているのは自分自身のH(         )でしかないということになりますね。

先生:そうなのです。宇宙の星を見ているといっても、それは網膜が感光しているわけで自分のI(           )なのです。するとJ(                   )だというバークリーと同じですね。それじゃあ客観的実在が存在するというのは疑わしくなってしまいます。そこでカントは、その事物を客観的実在としてのK(               )だという意味でB(      )にしたのです。

花子:なるほどイギリス経験論がヒュームのようなL(       )になってしまったのに対して、かろうじてM(       )で支えたのですね。でもM(       )は認識できないのですから、実在だといえないでしょう。

先生:それが理性批判の一つなのです。理性はなんでも認識できるみたいにすべてを説明しようとします。認識できなければ存在しないみたいに思うのです。でもそれは理性の思い上がりで、理性が認識できるものは限られています。現象としての事物の背後に、その事物となって現れた元の物自体がないと断定するのは理性の独断だということなのです。

.( @ )から( M )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
懐疑論 生理状態 認識論 物自体 コペルニクス的転回 事物は感覚の束 現象 物自体の現われ 世界観 客観的実在 
感覚を素材に構成 模写説(反映説) 構成説 生命活動 

      感覚の形式としてのカテゴリー(範疇)
 
        物はみな時空の中に現れぬ、そは感覚のカテゴリーかは

太郎:でも事物の性質には人間の感覚によって捉えられるものと、感覚には依存しないものがあるでしょう。たとえば@(                   )などはあきらかに感覚に左右されない事物自身の性質ですよね。A(               )のように感覚には依存していません。だから事物を主観の感覚でしかないというのは言いすぎじゃないのですか?

先生:ピンクの色眼鏡をかけますと、すべての物がピンク色に見えますね。ピンクは実は物の性質ではなくて、眼鏡の色だったのです。ですからすべてピンクに見えたら、それは物がピンクなのではなくて、眼鏡か眼がピンクに染まっているのではないかと疑うべきです。
 
それと同様にすべての事物は時間的・空間的・質量的に存在しています。だから時間、空間・質量というのも事物の性質としてB(     )しているけれど、実は人間が事物を捉えるC(             )つまりD(                  )であって、物自体の性質ではないとカントはいうのです。


花子:ますます分かりにくくなってきました。人間は物事を時間的存在として、空間的存在として質量的存在としてなどいくつもの存在として捉えるわけですね。としたら、そうして捉えられているのは客観的な事物の性質でしょう。それだけ物自体が認識できているのではないのですか?

先生:難しいと思いますが、繰り返し読んで、しつこく質問して、苦しみぬいて理解してください、カント哲学で苦しんだということが人生で大きな意味を持つのです。カントに言わせれば、それらが感覚である限り、主観に現れた自らの生理的な五官の感覚でしかありませんから、それで捉えられない物自体の性質はいくらでもありうるわけです。

太郎:たとえば時間・空間で人間は物を捉えるけれど、物自体はE(                    )であるかもしれないということですね。

先生:そうなのです。我々は時間空間の感覚で世界を捉えていますから、すべてのものは時間的にも空間的にも有限です。諸行無常・諸法無我でしたね。ところがカントによればそれは人間のF(             )、G(       )のことなのです。物自体にはそういうものを超越したH(                     )があるかもしれない。それはI(                           )、ないとはいえないというのです。

花子:物自体の他にも認識できないけれど、ないとは言い切れないものはあるのですか?

太郎:たとえば、J(                     )も認識できないけれど、存在しないとは言い切れないものに入るのですか?

先生:その通りです。それらは存在すると認識できないけれど、存在すると想像できる世界つまりK(       )に属しているとカントは考えました。

花子:それじゃあ、K(         )には純粋理性では通用しないので、別の理性が必要ですね。

先生:ええ、魂も現象界に関しては純粋理性で対応しますが、可想界にはL(           )で対応するのです。

.( @ )から( L )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
神だとか魂だとか カテゴリー(範疇) 可想界 実践理性 色や音や臭い 感覚の世界 純粋理性には認識できないけれど 
時間空間を超越した存在 現象界 永遠で聖なるもの 現象 感覚の形式 時間・空間・質量 
 

     『実践理性批判』その1道徳性とは何か?

 
    欲望や利害を求めて行へば、法に適へど道徳性なし
  よき事を好みてすればなけれども、いやいやすれば道徳性あり 

太郎:@(               )などは可想界に属していて、それは実践理性で対応すべきだということですが、カントは1788年に『A(                )』を世に問いました。実践理性とはどうしたらうまく目的を達成できるかを考える理性ですか?

先生:違います。そういうのは功利主義やプラグマティズムでいうB(          )です。カントは功利的に「どうすべきか」ではなくて、道徳的に「C(              )」を問題にしているのです。人間は欲望を実現し、利害を貫くためにいろんなことをしようとします。これを「D(        )」と呼びます。それは別に言われなくてもするわけですから、まったくE(       )はありません。

花子:自分のためだけではなく、人のためにもなることすると道徳性があるわけでしょう。

先生:厳密に言いますと、それは違います。公共性のある行いの決まりや慣習を広い意味で「法」としますと、カントによればそれは法に叶っているという意味でF(       )ではあっても、E(       )ではないのです。道徳性は、自分の欲望や利害に向かうG(                        )ところに認められるというのです。つまり我慢してみんなのために行わないと道徳的ではないわけです。

太郎:ずいぶんひねくれていますね。じゃあ、お年寄りの笑顔を見るのが好きな人が、自分の喜びで進んで、お年寄りに席を譲ったり、いろいろお世話をしてあげても、道徳的じゃないということですか?

先生:そうなのです。シラーという大詩人がカントの『純粋理性批判』はすばらしいが、いやいやいいことをすれば道徳的だけど、自分の喜びでいいことをすれば道徳性がないという『A(                )』はどうも納得がいかないと言ったそうです。だから神は自分の喜びでいいことをされるので神には道徳性はありません。自分の欲望や私的利害を棚上げにして、H(                )しなければならない場面で道徳性が生じるとカントは捉えているのです。

花子:ということは行為の内容で道徳性を評価するのではなく、自分を抑えて義務に従おうとするI(            )で道徳性を評価するわけですね。あまりに形式的すぎますね。

先生:そういわれますね。要するに「無条件に善なのはJ(      )だけである」わけです。だからカントの道徳説を「K(          )」というのです。人命救助などの善行も動機が利己にあれば、道徳性は認められません。それでL(         )を追求するのは傾向性だから道徳性はありませんが、L(         )を犠牲にして、M(          )や公共の福祉に尽くすのは道徳的だということになります。

.( @ )から( M )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
何をすべきか 動機主義 実践理性批判 公共性を優先 道徳性 傾向性 御公儀 物自体、神、魂 行為の動機 道具的理性 他人の幸福 適法性 自分の幸福 傾向性を抑制して義務に従う 善意志

  

       『実践理性批判』その2定言命法 

自らがなすべきことを決するに、たれもがなすべきことをえらべや 

花子:じゃあ、「@(    )」というのは公共性の観点からなすべきことを言うのですか。

先生:ええ、それがA(                 )だということです。命令には「B(          )」と「C(           )」があります。「D(                             )」というのが仮言命法です。「もし腹が減ったら飯を食え」とか「もし一流大学に合格したければ勉強せよ」というようなもので、そうしたければだれでも命令されなくても、傾向性ですからそうするわけです。それに対して「E(                     )」というのが定言命法です。実践理性の命令はこの定言命法の形をとる法則としてF(         )と呼ばれます。

太郎:「無条件に」にということは、自分の欲望や利害は棚上げにしてということですね。それってルソーの「G(          )」を連想します。

先生:それはすばらしい連想です。カントはルソーが大好きで、『H(          )』を夢中で読んでいて、それで日課の散歩の時間が狂ってしまい、町の人がびっくりしたそうです。それぐらいカントは几帳面な性格だったそうです。だから定言命法で一番中心なのが「I(               )が、常にそして同時にJ(                   )として妥当しうるように行為せよ」というのです。

花子:「意志の確律」というのはどういう意味ですか?

先生:幾通りかの行為の選択肢があって、どれを選ぶか、自分の意志で決定するのが「意志の確律」です。その場合に、ルソーの言った「G(         )に従え」というのと同様に、自分の傾向性を抑制して誰もが常になすべきだと考えられる行為をしなさいということです。

太郎:ルソーの場合は、全員参加の人民集会で一般意志を形成するのですが、カントの場合は、自分のK(        )で人民集会に参加している気持ちになって、自分の傾向性を抑制して公共性の立場にたって行動せよということでしょうか。

先生:全くその通りです。しかし何もそういう道徳性だけで行動せよといっているのではありませんよ。L(       )に叶っていれば、自分の欲望や利害に基づいて行動していてもいいのです。でもいざというときに、自分の行動が公共性に反してしまったり、公共性のために自己犠牲的に行動しなければならない事態になったときに、自分の傾向性をきちんと抑制できるかどうかで、その人の道徳性が試されるのです。

.( @ )から( L )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
もし〜ならば---せよ 適法性 一般意志 義務 エミール (無条件に)---せよ 心の中 汝の意志の確律 道徳法則 仮言命法 
普遍的立法の原理 実践理性の命令 定言命法
 

『実践理性批判』その3目的の王国 

たとへ身は手段の王国(くに)にありとても、魂(こころ)は常に目的の王国

花子:ということは、自分で自分を律する法律つまり@(         )を自分に制定して、それを守れる人が偉大だということですね。

先生:そうです。A(        )によって自分を律することを「B(    )」といいます。
B(    )できてこそ本当のC(    )なのです。自己を律する人間の主体性が「C(     )」なのです。人間の尊厳は,「D(           )」によって主体的に行動するC(    )たるところにありますから,カントは
「E(                    )は、決してF(           )としてのみ扱われてはならず,それ自身が同時にG(    )として扱われるべきである。」と説きました。 

太郎:ということは、人格を手段としてもいいわけですね、人格を手段にするのはけしからんという人もいるようですが。 

先生:現実のH(         )は欲望や利害で結ばれています。人々は交換の原理で互いの労働や労働の成果を提供し合って、互いに手段にし合って生活しているわけです。つまり「I(            )」の住人なのです。ですからそれはいけないとはいえません。ただ互いに手段にし合うだけでは、人格の尊厳に心打たれる魂と魂のふれあいが通いません。ただ生活のため、私利私欲のため他人を利用するだけでは、互いにJ(    )でしかなく、心と心の暖かい関係は存在しませんね。それではせっかく人間として生まれてきても、本当に人間として生きたことにはならないわけです。互いの人格を目的にし合ってこそ、魂のふれあいが感じられるのです。

花子:ラーメン屋さんが生活費を稼ぐためにラーメンを売り、お客をその手段にするだけではなく、お客がラーメンをおいしそうに食べるのを見て、作りがいや生きがいを感じるとき、お客を目的にしているわけですね。

先生:そうです。互いに人格として尊重し合う社会を「K(           )」と呼んで,常に「K(            )」の住人のように生きるべきだと説いたのです。 

太郎:カントは国際平和機構の設立を提唱したといわれますが、「目的の王国」と関連ありますか? 

先生:大いにあります。国際社会の関係も人格同士のように互いに国家同士が尊重し合うべきだと説き,L(               )としての国際平和機構の設立とその下でのM(                )の構築を目標とした『N(                  )』を著し,恒久平和の実現を目指したのです。 

.( @ )から( N )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
自己立法 単なる手段 集団安全保障体制 目的の王国 道徳法則 人格 市民社会 恒久平和 目的 実践理性 永遠平和のために 自由 手段の王国 道具 
自己および他者の人格 自律 
 

    『実践理性批判』その4 道徳の要請としての宗教 

たとえ身は現象界に朽ちるとも永遠(とわ)の魂清らに輝く

花子:実践理性は「何をなすべきか」に応えるだけですから、結局神の実在や魂の不滅は証明できていませんね。

先生:その通りですね。カント自身はたとえ神が存在せず,魂も肉体と共に滅びるとしても,あくまで@(        )に対する尊敬の気持を失わなかったでしょうが,現世の現象界の遍歴を終えた魂が,不滅であって,魂だけの世界で傾向性に邪魔されずに清らかな永遠の交わりを出来ることを,A(       )の要請として求めたのです。つまり宗教はB(           )として成立するのです。 

太郎:結局、神や魂の不滅は理性で認識するものではなく、信仰すべきものだということですね。ただし人間の理性で認識できないからといって存在しないとはいえない、とすれば、現象界を超えた可想界に、C(           )なものとして神や魂や物自体があると信じたほうが、いいということですね。 

花子:しかしそういうD(    )に支えられなければ、道徳的に生きられないというのは情けないですね。 

先生:カント自身は道徳法則を崇拝していましたから、たとえ神がいなくて、魂が不滅でないことが分かっていても、道徳的に生きたでしょうが、市民社会はどうしてもE(       )にながされやすいわけですから、人々が道徳性を見失わないためにも、不滅の魂を信じ、現象を超えたC(         )で聖なる世界の住人でもあるという自覚をみんなが持つためには、F(    )が不可欠だと思っていたでしょう。 

.( @ )から( F )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
宗教 エターナル 道徳法則 実践理性 道徳からの要請 信仰 傾向性

 

                       ヘーゲル
 

  
          フィヒテー自我(絶対我)の哲学 

    
  屈辱の亡国の世にドイツ人自我に目覚めて祖国築けや
 

先生:ドイツ観念論の流れを哲学者名で言ってください。

太郎:@(    )⇒A(    )⇒B(     )⇒C(     )です。

先生:ではA(     )1762〜1814に入ります。
彼は、カント哲学では理論理性(純粋理性)と実践理性が、D(     )的に対立していたのが不満で、実践理性の優位の立場に立って、実践理性をE(   )として捉えて、この対立を克服しようとしたのです。

花子:ということは現象界も実践理性であるE(   )が構成しているのですか。

先生:自我というと個人のもののように思われるかもしれませんが、人間全体の自我の現れ、また存在の根源にある理性の現れとも言えますね。この大いなる理性(神と考えてもいい)を自我の本源の形であるF(     )と捉えれば、F(    )が自己を実現するために個々の人間に宿ったのが個人の理性である自我だといえます。

太郎:どのようにして自我は絶対我の現れだということを示せるのですか。

花子:それは個々の人の使命を自覚して、果すことでしょう。

先生:そうです。絶対我は君たち一人一人に、それぞれ重要な使命を与えています。それを自我が自覚して皆が果していけば、全体として絶対我が自己を実現することになるのです。しかしそれは簡単なことじゃありません。困難な阻害物を乗り越えていかなければならないのです。この阻害物は、自我が自己の課題を達成するために自我自身がG(    )として設定したものです。自然環境や社会環境もG(    )として現れます。しかしこれらも自我がそれを克服して自己実現するために絶対我が作り出したものです。

太郎:それじゃあ、自我はわざわざ自己実現の阻害物を自分で作り出しているのですか。

花子:存在と思惟が同一なドイツ観念論ですから、本来一つなんですね。

先生:そうです。合理論のスピノザでも神は唯一実体だったでしょう。すべては神の現れと考えれば、個々人も自然もすべて神の現れです。ただその神をドイツ観念論では意識活動の中で主体的に捉えようとしたわけですね。当時ドイツはフランスのナポレオンによって侵攻されていました。それは遅れたドイツの現実です。そこでドイツ民族の自覚を訴える演説、『H(            )』を行ったのです。 

問.( @ )〜( H )に適当な語句を選んで記述しなさい。
非我 カント シェリング  絶対我 ドイツ国民に告ぐ ヘーゲル 二元論 フィヒテ 自我 



         
シェリングー美的観念論とロマン主義


  ローマンなパトスによりて我と汝(なれ)この断絶をいざ乗り越へむ

先生:@(     )1775〜1854に入ります。@(     )は主観と客観、精神と自然の断絶をA(     )が包括しているとし、存在と思惟を同一と捉えるB(   )哲学を強調しました。

太郎:存在と思惟が同一だというのはどういう意味ですか。

先生:カントの場合は、物自体は認識できませんから、現象界にだけ限定しますが、すべての感覚を素材に構成された思惟の産物が現象としての事物ですから、その限りで存在と思惟は同一です。フィヒテの場合も、非我である自然や他の人間も自我が作り出したものです。シェリングではC(      )によって対象的な自然の中にA(    )を美的あるいは知的に認識できるとされています。それは断絶しているように見える精神と自然がA(    )の現れとしては同一だからです。

花子:感覚的に美を感じるのは直観的だという気がしますが、知的な認識は直観では無理ではないですか。

太郎:いや、プラトンのイデアの場合でもそうでしたが、予めインプットされているので、ほとんど見た瞬間に猫だとか犬だとか分りますよね。

先生:そうですね。悟性的に物事を知覚し、判別する場合と法則や道理を認識する場合は違うでしょう。その点、ヘーゲルはピストルのように真理を認識してしまう@(     )を批判しました。

花子:シェリングが直観を強調するのは当時のD(       )の思潮が背景にあるのでしょう。

太郎:D(      )というのは情熱で、不可能を可能にする、壁を乗り越えていくという感じですか。

花子:ロマンというのは長編小説や恋愛の意味にも使われますね。

先生:そうですね。哲学におけるD(      )の代表がシェリングです。主観と客観、精神と自然、有限者と絶対者の断絶をC(     )で乗り越えるのですから。 

問.( @ )〜( D )に適当な語句を選んで記述しなさい。
同一 ロマン主義 絶対者 シェリング 知的直観 

 

          
ドイツ観念論哲学の完成者ヘーゲル

     
古き世の終わりを告げて馬上ゆく世界精神まばゆく光る 

先生:いよいよヘーゲル(1770〜1831)に入ります。ヘーゲルは哲学者の中でもエベレスト山のような存在です。難解という意味でもね。彼は1789年フランス革命の時にシェリングたちと祝杯を上げたのです。そして1807年イェナの町にナポレオンの進駐を目撃、「馬上の@(      )が行く」と言いました。そして同年『A(        )』を仕上げました。そこでは「意識の発展」が展開されています。

太郎:意識⇒自己意識⇒理性⇒絶対知と発展するのでしょう。絶対知はB(      )のことでしょう。B(      )が哲学体系を展開するのでしょう。

先生:ヘーゲルの哲学体系は『C(    )』⇒『D(     )』⇒『E(     )』と展開します。まず『C(    )』では「有⇒本質⇒概念」として物事の論理の把握が深まります。その論理が現実化したのが自然です。『D(     )』は「無機的⇒有機的⇒人間的」自然と発展して精神に到達するわけです。そして『E(    )』では精神が「主観的精神⇒客観的精神⇒B(     )」と展開していきます。

花子:F(       )というのは個々人の主観として働いている精神のことですね。 

太郎:客観的精神は社会や歴史の中で展開する精神ですね。それはG(  や   や   )の形で現われるわけでしょう。

先生:そしてB(     )は宗教や芸術や哲学として展開するわけです。

問.( @ )〜( G )に適当な語句を選んで記述しなさい。

精神哲学 絶対精神 法や道徳や人倫 自然哲学 世界精神 精神現象学 論理学 主観的精神 


             
即自⇒対自⇒即且対自  

 
   丸裸生まれたままは人なれど、己を知らでまだ即自なり
 世にもまれ己をみつめて人として自覚を得たらば対自なるべし
    人の世の闇と光を知り尽くし己の道行く、即且対自や

 

太郎:何故そういう「@( ⇒    ⇒ )」という展開をするのですか。

先生:それはヘーゲルの弁証法の一つですが、「A(   ⇒   ⇒   )を理解してもらう必要があります。

花子:B(    )は自分に即すると書きますが、諸個人の精神の場合は、精神が人間のそれぞれの主観的な意識の形をとって、客観的な文化や制度や事物の形になっていないといういうことですか。

先生:その通りです。意識は意識の形にとどまっているのですから、自分に即する即自です。客観的精神は、法・道徳・人倫という形で個々人を超えた社会の決まりや制度の形で存在する精神ですから、精神が個々人の意識の外にあって自分に対しているのでC(  )なのです。精神の外化です。

太郎:絶対精神は客観的精神である社会や歴史を総括して自らの思想に昇華したものなのですね。それで即自でありながら対自でもあるわけです。つまりD(      )です。こうして絶対精神が絶対精神に還帰したわけですね。

先生:一つずつ即自・対自・即且対自の展開は覚えられないでしょうから、次のような例で理解しておけばいいでしょう。我々はオギャーンと生まれたらそれだけで人間なのだけれど、それだけではB(  )的に人間を生きているだけです。それを人間とは何かを客観的にC(   )化して捉え返す必要があります。そして更にその認識を自己の思想にして、いわば血肉化してD(     )的に人間を生きることが求められます。 

問.( @ )〜( D )に適当な語句を選んで記述しなさい。

対自 主観的精神⇒客観的精神⇒絶対精神 即且対自 即自 即自⇒対自⇒即且対自 

 

       

                   
自由の発展としての世界史            


   
自らが生きし時代に行き当たる課題を果たすが自由なるかな 

花子:客観的精神は、人倫で国家にまで達すると世界史として展開するのでしたね。世界史も精神の展開として捉えられるのですか。

先生:ヘーゲルは精神の本質を@(    )として捉えています。国家というのは、既に法という主権者の意志が通ることですから、自由の実現なのです。そしてヘーゲルのいう世界史は国家の発展史です。だから世界史の精神であるA(     )は@(    )の発展史として自己を展開するということになります。

太郎:世界史で習いましたが、『歴史哲学講義』では、東洋専制は一人の自由、ギリシア・ローマは貴族・市民の自由、近代西洋は万人の自由というように発展すると捉えたのでしょう。

花子:ということは、その時代、その社会で実現できる自由は限られているということですね。

先生:「B(    )なものはC(    )であり、C(     )なものはB(   )である」といいますからね。理性の自己展開が現実を生み出していて、現実は理性の自己展開として理性的なものなのです。だからヘーゲルに言わせれば、いろんな気に食わないものや問題があっても、それは理性の発展する過程だと納得して、現実的に取り組むしかないわけです。それにヘーゲルのいう自由の意味は、「自由はD( )である」といいますから、やりたいことを恣意的に選択できるといういみではなく、必然性にそって行えばうまくいくということです。

 

問.( @ )〜( D )に適当な語句を選んで記述しなさい。

現実的 必然性の洞察 世界精神 自由 理性的 

 

         
ヘーゲル弁証法のイロハ

 
  
花なれどつぼみのままで咲かぬなら、花を花とは呼ばれぬものを
     人の世の矛盾見据えて、発展の道筋つかみ熱と光を
 

太郎:対立や矛盾が発展の原動力だというのが、@(     )の特色ですね。

先生:そうなんです。全ての存在は自らの内に対立や矛盾という否定的契機を抱えていて、それで運動や発展があるのです。例えば、種があるとします。種がいつまでも種だと種じゃないわけで、種でなくなる否定的要素によって、否定されて芽になります。種が「A( )」としますと種でなくなる要素が「B( )」ですね。その否定との対立・矛盾を解決して、つまり「C( )」で、より高い次元の芽に発展するという論理です。

花子:弁証法は「D( )」じゃないのですか。

太郎:それは肯定を正といい、否定を反といい、否定の否定を合と言い換えているだけで同じことでしょう。E( )という言い方もありますね。


先生:矛盾対立をより高い段階で解決することをF(       )といいます。止揚と訳しています。低次での対立していた両契機が高い段階保存されているという意味が含まれています。種は花の要素を含んでいるので、また花が咲くわけです。


太郎:マルクスの場合だと資本主義のG( )は資本主義のままでは解決不能だから、H( )をI( )が打倒して、J( )を実現するという発展図式を弁証法の例にしたわけですね。

先生:我々が生きているということは、生き物を殺して、それを食べて生きているのだから、生は死という否定を含んで成立しています。この死の契機がやがて優勢になって、死ぬわけですが、それは食べられて他の生になるとか、子孫の生に継承されるのです。このように弁証法は物事のすべてにわたって適用できるので、物事の根本的な見方として重要です。我々は自分が、社会が人類がどんな矛盾を抱え、どのように発展したり、滅んだりするのか考えておくことが生きるために大切です。

 

問.( @ )〜( J )に適当な語句を選んで記述しなさい。
(正―反)⇒合 矛盾 否定 資本家階級(正) 肯定 (定立(テーゼ)−反定立(アンチテーゼ))⇒統合(ジンテーゼ) 
労働者階級(反) 否定の否定 共産主義社会(合) 弁証法  アウフヘーベン


 

         
人倫の弁証法ー家族・市民社会・国家ー
 

  
愛(いと)しさに自然の契りに結ばれて作りし家族、愛の人倫

    
糧得むと業の一つを分かち持つ、市民社会は欲の体系
          争える市民社会を調整し、理性で築く人倫の国
 


花子:客観的精神の「法・道徳・人倫」の関連が難しくてよく分かりません。

先生:同感です。(笑い)精神の本質は「@(   )」でしょう。自由を客観的な現実として打ち立てるためには、なんでも勝手にしなさいではいけませんね。

花子:ホッブズによれば「万人の万人に対する戦争状態」になります。

先生:そこで最低限の禁止事項や義務を規定する「A( )」によってはじめて「自由」が成立します。しかし自由だとは自覚できていませんから、即自的な自由です。法は強制ですから、そのままではかえって不自由ですね。そこで法の内容を自らの良心にてらして納得する「道徳」として主体化するのです。そうすれば自分の意志にかなっているので対自的な自由です。カントはこの良心のB( )にとどまっているというのが、ヘーゲルのカント批判です。

太郎:カントは時代や社会の相異を考えず、同じ普遍的な道徳を求めていましたね。ヘーゲルはその時代や社会に相応しいものとして法や習俗を主体化しC( )で生きようとしたわけですね。

花子:その人倫というのがよく分からないのです。人倫というのがD( ・ ・ )でしょう。

先生:人間同士が支えあって暮らしていく共同体をE( )といいます。そこには既に法や習俗を主体化して共同で自由を生きているわけで、だから即且対自的な自由です。そして人倫の即自は、自然的関係で結ばれた夫婦とその子で形成されるF( )です。その原理はG( )です。しかしこれを維持するには、家産が必要です。そこで外に出て、H( )での分業や協業に参加して、富の分配を受けなければなりません。その原理はI(     )です。契約によって自由を実現しているので、対自ですね。そこでは競争や闘争があり、かえってJ( )に見えます。この市民社会での利害の衝突を調整する、最高の人倫がK( )です。国家は理性的に法と正義で市民社会を調整するので即且対自の段階です。

欲望の体系 国家 市民社会 人倫の立場 家族・市民社会・国家 家族 人倫の喪失態 法 道徳の立場 自由 人倫 愛
 
 

解答

ノヴム・オルガヌム
 @イギリス経験論の祖 Aフランシス・ベーコン 
Bノヴム・オルガヌム C四つのイドラ D種族のイドラ E洞窟のイドラ 
F市場のイドラ G劇場のイドラ H自然は服従するのでなければ、征服できない。
I単純枚挙 J新しい帰納法 K存在の表 L欠如の表 M程度の表

哲学入門@ソクラテスの弁明 A方法序説 B実存主義とは何か Cソフィーの世界 D星の王子様 Eドリッピー 

方法的懐疑
@イギリス経験論 Aホッブズ Bロック C帰納法 D大陸合理論 E演繹 Fデカルト G方法序説 H絶対確実な真理 I方法的懐疑 J感覚的現実 K数学的推理 L疑っている私の存在 Mコギト・エルゴ・スム(我思う・故に・我有り) N 哲学の第一原理 O我という存在 P主体化 Q精神的実体  R考える我 S明晰判明なもの

生得観念としての神
@考える我(コギト) A不完全なもの Bアウグスティヌス C完全なもの Dア・プリオーリ(先天的に) E生得観念 F完全者 Gロック Hア・ポステリオーリ Iホワイト・ペーパー  Jあらゆる観念は経験から Kイギリス経験論

主観・客観認識図式
@偽りの表象 A明晰かつ判明 B精神的実体 C延長的実体 D精神と物質 E主観・客観の認識図式 F機械的な自然 G機械的な物体や手段 H人間疎外 I主観 J客観

物心二元論
@自動機械 A言語 B霊魂 C松果腺 D物心二元論 Eホッブズ Fイマジネーション G音声のイマジネーション H 欲望機械 I理性

 

スピノザの汎神論 @スピノザ Aライプニッツ Bエチカ C唯一実体 D汎神論 E所産的自然 F能産的自然 G宇宙の無限 H神の属性 I機械的な必然的法則 J物心両面 K永遠の相の下に L知的愛

ライプニッツのモナド論
@モナド A質的な形而上学的点 B実体 C窓がなく D絶対的な自己関心 E全宇宙を表象 F個人主義の論理 G社会契約論 Hモナド社会論

ロック・バークリー・ヒューム
@人間悟性論 Aロック B生得観念 C悟性 Dホッブズ E新しい帰納法 F 主観・客観認識図式 G経験主義 H経験 Iバークリー J存在することは知覚されてあること K唯心論 L神 M蓋然的 N明日の朝太陽が東から昇るとは限らない。 O懐疑論 P人性論 Qヒューム 

社会契約の思想 社会契約とは何か
@ホッブズ Aロック B社会契約説 C独立した諸個人 D自己保存権 E契約 F主権者 Gフィルマー H王権神授説 I近代主権国家 J自然状態 

自然状態ははじめから戦争状態か?
@リヴァイアサン A欲望機械 B自己保存権 C万人に対する万人の戦争状態 D市民政府二論 E人格と財産 F貧富の格差 G信託 H人間不平等起源論 I社会契約論 J孤立 K共感 L農耕や牧畜 M冶金 

ホッブズの『リヴァイアサン』
@リヴァイアサン A地上最強の怪獣 B国家は生きた巨人 C国家も生きた人間の一種 D人工機械人間 E主権者 F戦争状態 G革命 H自然権 I永久代理契約 J国家意志の本人

ロックの道具としての国家
@利害調整のための機関 A信託 B社会契約 Cピューリタン革命 D名誉革命 E国家の死 F固有の政体 G普通選挙 H人民主権 


ルソーの『社会契約論』@直接民主主義者 A全員参加の人民集会 B立法権は譲渡できない C特殊意志 D全体意志 E私的利害 F国民代表の原理 G一般意志 H真の法律 I市民の道徳的義務 J社会的自由 Kフランス革命 

フランス啓蒙思想@エミール A自然に帰れ B科学的理性 Cヴォルテール Dディドロ Eダランベール F百科全書 Gフランス唯物論 H人間機械論 

カント 観念論とは何か?
@ドイツ観念論 Aイデア論 B物心二元論 C考える我 D思惟と存在 E同一哲学 F事物は意識によって構成されている G事物は感覚の束 

『純粋理性批判』
@純粋理性批判 A理論理性 B限界付け C精神的実体 D物自体 E現象 Fコペルニクス的転回 
認識論のコペルニクス的転回@世界観 A認識論 B模写説(反映説) C構成説 D感覚を素材に構成 Eコペルニクス的転回 F客観的実在 G現象 H生理状態 I生命活動 J事物は感覚の束 K物自体の現われ L懐疑論 M物自体

感覚の形式としてのカテゴリー
(範疇)@時間・空間・質量 A色や音や臭い B現象 C感覚の形式 Dカテゴリー(範疇) E時間空間を超越した存在 F感覚の世界 G現象界 H永遠で聖なるもの I純粋理性には認識できないけれど J神だとか魂だとか K可想界 L実践理性 

『実践理性批判』その1道徳性とは何か?
 @物自体、神、魂 A実践理性批判 B道具的理性 C何をなすべきか D傾向性 E道徳性 F適法性 G傾向性を抑制して義務に従う H公共性を優先 I行為の動機 J善意志 K動機主義 L自分の幸福 M他人の幸福

『実践理性批判』その2定言命法
@義務 A実践理性の命令 B仮言命法 C定言命法 Dもし〜ならば---せよ E(無条件に)---せよ F道徳法則 G一般意志 Hエミール I汝の意志の確律 J普遍的立法の原理 K心の中 L適法性 

『実践理性批判』その3目的の王国
@道徳法則 A自己立法 B自律 C人格 D実践理性 E自己および他者の人格 F単なる手段 G目的 H市民社会 I手段の王国 J道具 K目的の王国 L集団安全保障体制 M恒久平和 N永遠平和のために

『実践理性批判』その4 道徳の要請としての宗教
@道徳法則 A実践理性 B道徳から要請 Cエターナル D信仰 E傾向性 F宗教 (プリントではEが二つあるので後のほうをFにしてください)

フィヒテ
@カント Aフィヒテ Bシェリング Cヘーゲル D二元論 E自我 F絶対我G非我 Hドイツ国民に告ぐ

シェリング
@シェリング A絶対者 B同一 C知的直観 Dロマン主義

ドイツ観念論哲学の完成者ヘーゲル
@世界精神 A精神現象学 B絶対精神 C論理学 D自然哲学 E精神哲学 F主観的精神 G法や道徳や人倫

 
即自⇒対自⇒即且対自@主観的精神⇒客観的精神⇒絶対精神  A即自⇒対自⇒即且対自 B即自 C対自 D即且対自


自由の発展としての世界史
@自由 A世界精神 B理性的 C現実的 D必然性の洞察

ヘーゲル弁証法のイロハ
@弁証法 A肯定 B否定 C否定の否定 D(正―反)⇒合 E(定立(テーゼ)−反定立(アンチテーゼ))⇒統合(ジンテーゼ) Fアウフヘーベン G矛盾 H資本家階級(正) I労働者階級(反) J共産主義社会(合)

人倫の弁証法ー家族・市民社会・国家ー
@自由 A法 B道徳の立場 C人倫の立場 D家族・市民社会・国家 E人倫 F家族 G愛 H市民社会 I欲望の体系 J人倫の喪失態 K国家

 

 

         イギリス功利主義(18世紀〜19世紀)

   労惜しみ時を惜しんで最大の利を求むるが功利主義かな


先生:それでは当時のイギリスに目を転じて見ましょう。


花子:イギリスでは産業革命が
18世紀後半から盛んになってきましたね。当時のイギリスの支配的な思想は何ですか。産業革命によって@(    )が確
立したわけですから、@(      )ですか?


太郎:資本主義というのは思想ではなくて、経済体制です。利潤増大を原理にする経済体制ですから、それにふさわしい思想とすればA(    )があげられますね。


先生:イギリス経験論の延長線上にイギリス功利主義が位置付けられます。


太郎:B(        ⇒     ⇒         )の流れですね。


花子:太郎君予習してきたのね。じゃあ功利主義を英語で何というのか分かる?


太郎:利点をメリットというから、メリッティズムなんちゃって。


花子:ブー。メリットは利点だけど利益追求主義というのが功利主義だから有用性を意味する
utilityから作られたutilitarianismが功利主義です。
功利主義者はa utilitarianです。

(      )に当てはまる語句

資本主義 アダム・スミス⇒ベンサム⇒J.S.ミル 功利主義 
 

       アダム・スミス(17231790

    
嘆くのは億千万の民の死か身内の不幸そはしかざるや

先生:ではアダム・スミスから入りましょう。


花子:アダム・スミスと言えば
1776年『アメリカ独立宣言』の年にでた『@(     )』を書いた経済学の父でしょう。それがどうして功利主義思想にも入っているのですか。

太郎:『A(      )』といえば「B(      )
an invisible hand」ですね。市場では政府が干渉しないで、C(   ・     )(自由
放任主義)いくほうがいいという立場です。自由競争を行えば神の見えざる手が働いて最も効率的に富が増大するという原理ですね。富を増大させるということも功利ですから功利主義に入るのですね。


先生:そうです。その場合、諸個人は市場においては経済的な私的利害を優先させるものだという人間観が前提されています。この人間観は「D(       )」と呼ばれています。


花子:私的利害に囚われない人も多いでしょう。


先生:そういう例外的な行動も国民経済全体を計量すれば「大数の法則」で無視できるわけです。ですから科学としは問題になりません。それにアダム・スミスは、たとえ中国で大災害が起って何億人が死滅してしまっても、それは少しは話題にのぼるかもしれないが、近親者の不幸ほどは歎かれることはないだろうという趣旨のことを言っています。

 そして『E(     )』では、共感が取り上げられていますが、これも助け合いの動機としてでなく、他人が貧乏でみすぼらしいのを見ると嫌な気持がするので、自分もそういう眼で見られたくないので、できるだけ裕福なように見せびらかしたくなって富を追求するのだとしていますね。アダム・スミスの労働価値説などは政経分野に譲りましょう。 

(      )に当てはまる語句
ホモ・エコノミクス 見えざる手 道徳感情論 諸国民の富 レッセ・フェール   

        ベンサム(17481832

     
快求め苦を遠ざける本性は人を支配す二人の主権者
      人は皆平等なれや求むるは最大多数最大幸福

太郎:ベンサムと言えば主著は『@(                 )』です。
「A(          )」で有名ですね。

花子:その場合に、一人一人は平等の価値を持つということが大前提でしょう。大豪邸に住む貴族も街に溢れる浮浪者も一人一人は平等なのです。


先生:ベンサムは特権的な貴族階級に反発していました。人間を全て平等と置くことで、幸福まで原理的に計量可能だということになり「B(     )」までしているのです。

太郎:ベンサムの思想の中心原理は「C(    )」ですね。そこから説明して下さい。


先生:太郎君、分かっているじゃないか、自分で説明してみてください。


太郎:おやそれは先生のお仕事じゃないですか?


先生:そりゃあ教育に対する誤解です。教師は知識を教え込むのではなくて、引き出すことが大切なんです。
educationeduceつまり「引き出す」ことなのですから。

太郎:「自然は人類をD(   と   )という二人の主権者の支配下においた」ということは、つまり、人間は苦痛を避け、快楽を求めるように造られているということですね。そして苦痛を減らし、快楽を増やす対象がE(  )で、苦痛を増やし、快楽を減らす対象がF(  )です。G(   )とはより多くの善を獲得することで、H(   )とはより多くの悪を背負うことです。


花子:カントの善は道徳法則に従うことですから、自己の幸福を求めるのは道徳的には善ではありませんでしたね。

先生:そうなんです。それにベンサムは快楽を求める快楽主義ですが、I(     )の快楽主義とは大違いですね。


花子:I(       )は「水とパンの快楽」ですから、欲望が肥大しすぎるとかえって不幸になるので、必要最小限でも満足できるわけですが、ベンサムはJ(  )功利主義ですから、多ければ多いほど幸福だということになってしまいます。


先生:その計算方法ですが、快楽という主観的なものを客観的基準を設けて計ろうというものです。「K(    ・    )・確実性・遠近度・多産性・純粋性・範囲」の七項目を設定していました。

太郎:でも獲得や到達に苦労や手間がかかればかかるほどその喜びが大きくなりますから、実際には計量はできません。苦痛を避けて快楽を得るという発想自体が貧しいですね。

花子:でも分かりやすいし、庶民的な説得力はありますね。

太郎:「A(            )」という形で民主主義のイメージを分かりやすくした役割は大きかったかもしれませんね。

(      )に当てはまる語句
エピクロス 強烈度・継続度 最大多数の最大幸福 悪 快楽計算 不幸 快楽と苦痛 善 道徳および立法の諸原理序説 幸福 量的 功利の原理

 

                          J.S.ミル(18061873
               
          幸福は我が身にあるも他人事も厳正中立ナザレのイエスか

                 

先生:J.S.ミルの中頃に活躍しました。父ジェームス・ミルと区別してJ.S.ミルと書かないと試験では駄目ですよ。主著は『論理学体系』
『@(      )』『A(      )』『B(     )』『代議政体論』と多岐にわたっています。


太郎:
19世紀になると産業革命の結果として大量の労働者階級が生まれ、厳しい搾取と不安定な雇用で苦しめられていましたから、スミスのようにただ私的利害を追及すればプライス・メカニズムでなんとかなるとか、ベンサムのように快楽量が大きければ幸福だとかいうように単純にはいきませんよね。

先生:
19世紀はダーウィンとC(    )の世紀と言われるくらいですからね。労働者階級が階級として成長して、搾取や窮乏に対して団結して立ち上がり、資本主義体制を倒そうとするまでになりました。言い換えればそれだけ社会の矛盾は深刻だったのです。J.S.ミルはD(      )主義の立場に立って経済学や倫理学を展開していたのです。

花子:ベンサムが量的功利主義と言われるのに対して
J.S.ミルはE(         )といわれるのはどうしてですか。

先生:
J.S.ミルはベンサムのF(       )を認めた上で、精神的快楽と物質的快楽では質的に精神的快楽の方が上だとしています。
「満足せるG(  )よりは、不満足なH(  )である方がよく、満足せるI(   )よりも、不満足なJ(       )の方がよい。」
 またこういう表現まであります。「畜生の快楽をたっぷり与える約束がされたからといって、何かの下等動物に変わることに同意する人はまずなかろう。馬鹿やのろまや悪者のほうが自分たち以上に自己の運命に満足していることを知ったところで、頭のいい人が馬鹿になろうとは考えないだろうし、教育ある人間が無学者に、親切で良心的な人が下劣な我利我利亡者になろうとは思わないだろう。」

太郎:
J.S.ミルは、「K(             )」が功利主義の精神を最もよく表現していると主張していますね。
「L(          、            )」という格言です。これがどうして功利主義なのですか。


先生:ベンサムの功利の原理では快楽を求め、苦痛を避けようと行動するのは、自分自身の欲望の充足のように見え、利己主義のようにみえるでしょう。


太郎:ええ、当然ですね。


先生:ところでベンサムは「最大多数の最大幸福」が目標だとしています。その場合に自分一人の幸福を求めているわけではありません。


花子:お城に住む貴族も浮浪者も皆一人として数えた上での、多数の幸福ですね。だからそれは単なる利己主義ではありません。自分を幸福にするのも、他のだれか一人を幸福にするのも同じ値打ちがあるわけですね。


先生:その考えを利己と利他に関するM(       )と言います。


花子:自分を幸福にする場合相手は一人だけだけれど社会や自然に働きかけて、貢献する場合には相手はたくさんになるから、利他主義の方がかえって功利主義にかなっていることになるのかもしれませんね。


先生:それで
J.S.ミルはこういいます。「N(   )があらゆる行動の格律の基本原理であり人生の目的であるという私の信念は微動もしなかったけれども、N(   )を直接の目的にしないばあいに却ってその目的が達成されるのだと、今や私は考えるようになった。自分自身のN(   )ではない何か他の目的に精神を集中する者のみが幸福なのだ、と私は考えた。たとえば他人の幸福、人類の向上、あるいは何かの芸術でも研究でも、それを手段としてでなくそれ自体を理想の目的としてとり上げるのだ。このように何か他のものを目標としているうちに、副産物的にN(   )が得られるのだ。」

花子:今年のセンター試験に
J.S.ミルの自由論がでていたそうですね。

先生:「O(      )の原則」です。つまり他人に迷惑をかけない限りたとえ愚行とおもわれることであっても、何をしてもかまわない自由です。彼は個性の発現を尊重しているのです。ヘーゲルの「P(      )」が自由だという捉え方とえらい違いですね。


太郎:
J.S.ミルの論理学はイギリス経験論の系譜だからQ(     )でいいのですか。

先生:いいところに気付きましたね。Q(    )で見出した命題がきちんとR(    )で展開できなければならないというのが、
J.S.ミルの論理学なのです。両者の統合です。
 

(      )に当てはまる語句

功利主義 ナザレのイエスの黄金律 帰納法 論理学体系 必然性の洞察 厳正中立 マルクス 演繹法 汝自身を愛するように,汝の隣人を愛しなさい 
ソクラテス 豚 他者危害 功利の原理 論理学体系 愚か者 社会改良 質的功利主義 幸福 経済学原理 人間 

解答

イギリス功利主義
 @資本主義 A功利主義 Bアダム・スミス⇒ベンサム⇒J.S.ミル
C諸国民の富 D見えざる手 Eレッセ・フェール Fホモ・エコノミクス G道徳感情論 

ベンサム
 H道徳および立法の諸原理序説 I最大多数の最大幸福 J快楽計算 K功利の原理L快楽と苦痛 M善 N悪 O幸福 P不幸 Qエピクロス R量的 S強烈度・継続度 


J.S.
ミル @経済学原理 A功利主義 B論理学体系 Cマルクス D社会改良 E質的功利主義 F功利の原理 G豚 H人間 I愚か者 Jソクラテス Kナザレのイエスの黄金律 L汝自身を愛するように,汝の隣人を愛しなさい M厳正中立 N幸福 O他者危害 P必然性の洞察 Q帰納法 R演繹法

 

                    科学的社会主義
 

マルクスの三つの源泉たずぬればヘーゲル・スミスにフレンチレッズ


先生:ロシア革命の指導者@(     )は『マルクス主義の三つの源泉』を書いていますが、さあその三つの源泉とはなんでしょう。


花子:ハイ、先ずA(    )哲学です。資本主義の矛盾が共産主義を生むというのはB(    )弁証法の適用ですよね。それからえーと……。


太郎:フランスの社会主義・共産主義でしょう。それから……。


先生:ドイツ、フランスときたから次はイギリスの経済学です。


花子:イギリスの経済学は資本主義の理論でしょう。


太郎:なるほどね、資本主義の理論であるイギリスの経済学を批判的に研究して、資本主義がどんな矛盾を抱えていて、崩壊するのかを解明したのですね。


先生:その成果がマルクスの主著『C(     )』です。アダム・スミスやリカードのD(     )説を批判的に継承して、E(      )理論を形成し、労働者の労働に対する搾取の構造を解明しました。そして労働者の窮乏化の必然性や利潤率が傾向的に低下することなど論証しました。また資本主義体制が循環的な恐慌によってやがて崩壊する運命にあることを説いたのです。それらは必ずしも全てが当たっているとは言えませんが、資本主義を科学的に解明したものとして大きな影響力を最近までもってきました。

 

(       )に当てはまる語句
資本論 ドイツ観念論哲学 レーニン 投下労働価値説 ヘーゲル 剰余価値


           マルクス

   
資本家も己が疎外の姿なり、すべては主体のあり方に帰す
   
文明を作りし罰かプロメテウス岩に縛られ内蔵抉らる
   嵐をも巻き起こしたり温暖化わが身に返る疎外ならずや
 

太郎:先生の世代は若い頃はたいていマルクス主義者だったのでしょう。

先生:それは大袈裟ですが、確かに知識人にはマルクスの権威はすごかった。立命館大学に入学したころ、日本史クラスの歓迎会では、先輩たちが「アルプス壱万尺」をもじって「マルクス壱万尺」にして歌っていたので面食らいました。私は上から権力を革命でとって、社会主義を押し付けるより、下から協同組合を積み上げるという方が好きでしたから、マルクス主義者を自称したことはありません。もちろん大きな影響は受けています。特に学生時代は若きマルクスの疎外論に熱中していましたね。


花子:@(   ・      )(
18181883)、近代で最大のお騒がせ男(笑い)はユダヤ系ドイツ人でしたね。お父さんはユダヤ教からキリスト教に改宗しています。マルクスは大学では法学を勉強したのに哲学で学位をとっています。ライン新聞の編集に当たっていたのですが、プロイセン国家から睨まれてフランスに亡命しています。

先生:パリで
1844年に書いたノートが『A(   ・   )草稿』です。若きマルクスのB(   )論がそこで展開されています。これは二十世紀後半の現代思想全体に大きな影響を与えました。B(   )はエントフレムドゥンクというドイツ語の翻訳です。英語ではalienation
です。これは実はヘーゲル哲学の用語なのです。絶対精神が自己を先ず論理学として展開しておいてから、自然や社会の中で自己を展開して最後に絶対精神に還るでしょう。これが自己を自己に疎遠なものとして外化して、外にあるものの中に自己を見出して自己に還るので絶対精神のC(      )だというのです。

太郎:マルクスの疎外論は、D(         )の疎外論からきていると参考書にはありますが。


先生:D(         )はヘーゲルの疎外論をひっくりかえしたのです。つまり絶対精神を神と解釈して、ヘーゲルは神が自然や社会や人間精神を生むというけれど、それは全く逆で、人間が自分たちのE(      )を実感できないので、それを神として自分たちの外にだして他者として崇拝しているのではないか、だから神は人間のC(      )なのだということです。疎外された人間の類的本質である神は、人間から他者化されているので人間に対して隔絶された絶対的な力として人間を支配するのです。それで人間の類的本質こそ神だということになります。だから、彼の哲学はF(          )と言われています。マルクスはフォイエルバッハに感銘しました。そして、それを現実の矛盾に適応したのです。つまり自己疎外論をG(   )の論理で展開したのです。そこで「四つの疎外」が展開されています。


〔1〕H(         )−人間は自分たちが生み出した生産物が,自分たちのものにならないで,自分たちから独立し,自分たちに敵対して自分たちを苦しめる「H(           )」に陥っています。この生産物には広い意味では文明もふくまれます。人間が生み出した文明は人間から自立し、一人歩きして、人間の手におえないものになり、人間に対立して人間を苦しめています。
〔2〕I(       )−生産物からの疎外が起こるのは,労働が自由な活動ではなく,強制された苦役として無理やりやらされる「I(      )」に陥っているからです。
〔3〕J(          )−生産物や労働からの疎外が起こるのは,「類的本質からの疎外」によるのです。つまり人間は労働することを本質的な特長にしています。労働によって自己の能力を発揮し,自己実現できるのです。本来は目的である筈の自己実現活動が自己喪失活動としてなされており,実際の目的である生活手段を獲得する為の手段でしかないのです。これが「J(            )」という意味なのです。
〔4〕K(          )―もし人間同士が身内と見なすことができていたら,「J(         )」も起こらなかったでしょう。自分が作った物が人々の欲求を充足することに自己実現を感じ,生きがいを感じられる筈です。ところが両者は互いにできるだけ少ない労働で,他人のできるだけ多くの労働の成果を支配しようとしていますから,相互支配であり,対立的な関係にあるのです。労働自体が類的な共同として実感できないのです。この相互支配,敵対的な人間関係が「K(         )」です。

太郎:どうして先生はこの若きマルクスの疎外論に惹かれたのですか。

先生:それは
20世紀前半までの階級闘争というのは、労働者階級が資本家階級を搾取されているので憎んで倒してやろうというもので、敵視と憎悪の感情が剥き出しだったのです。ところがマルクスの自己疎外論では、労働者は自分で自分の首を締めているのだということになります。そして資本家も労働者自身の疎外を他者の姿で表したものですから、本当は自己の疎外された姿なのです。資本家だって資本主義体制の中で利潤追求に血道を上げないと生きられない疎外された存在なのです。ということは革命は憎しみからではなく、愛によって行われるということですね。なんとL(         )に溢れた思想だと感動したわけです。

花子:それが疎外論がなくなって、憎しみの理論になってしまったということですか。

(       )に当てはまる語句
ヒューマニズム カール・マルクス 生産物からの疎外 フォイエルバッハ 類的本質からの疎外 自己疎外 経済学・哲学 

人間からの疎外 労働からの疎外 労働の疎外 人間学的唯物論 類的本質 疎外
 

         『フォイエルバッハ・テーゼ』

 
対象(もの)すらも実践として主体なり、西田ビックリこれぞマルクス
    内在の理念にあらず本質は社会つくれる関わりの和ぞ
    反省は猿もできるぞ「哲学者」、解釈のみで変革忘るな
 

先生:いや、それは誤解かな。@(           )は社会主義に到達する必然性を科学的に解明するもので、決して憎しみの理論ではないつもりでした。ただし親友A(      )とともに唯物史観を確立するとB(     )論は影を潜めてしまいます。でも晩年になって古典経済学への批判に集中していた時期には、B(    )概念がまた使われているので、マルクス解釈をめぐっていろいろ論争があります。

太郎:あのマルクスの哲学・倫理学分野の最重要文献は『B(           )』だと聞いたことがあるのですが、それはどういうことですか。

先生:それは言えていますが、そのことは参考書や教科書にでていないので、授業ではやりませんから、興味ある人だけ付録として聞いてください。

「(1)これまであったあらゆるC(     )(それにはフォイエルバッハのものも含まれるのだが)の主要な欠点は、D(    )や現実や感性が客観あるいは観照という形式のもとでだけとらえられていて、人間的な感性的行動、すなわちE(    )として、主体的にはとらえられていないということである。」
 このテーゼには西田幾多郎もビックリです。D(   )としての事物は、人間の身体の外にあって、他者の姿をとっていますが、カントに言わせれば主観の感覚が構成したものでしたね。フィヒテは自我が自己の障害として作り出したものでした、マルクスは自己の実践の姿だとF(    )に捉え返すべきだというのです。
「(6)フォイエルバッハは宗教的本質をG(         )に解消する。しかし、G(        )は個々の個人に内在する抽象物ではない。現実には、それはH(                )(アンサンブル)なのである。」
 マルクスは労働を人間の本質として捉えていましたが、ここでは人間の本質をH(                    )として捉えるべきだとしているのです。

花子:それではマルクスは人間の本質は何だと言っているのですか。


先生:この解釈をめぐっては大論争が展開されています。私の解釈としては、マルクスは、人間の本質はI(   )だと言いましたが、思惟や社会性が本質でないと言ったわけではありません。マルクスがこの文脈で言いたいのは、「人間の本質は〜だ」と理念にして、それで現実を批判しても仕方がないということです。現実には社会的な諸関係の総和に規定されて人間は生きているわけですから、先ず社会的諸関係から捉え返していくべきだということで、サン・シモンやJ(    )と共通していますね。


太郎:つまり理念としては労働、思惟、社会性などが本質だけれど、現実的には社会的諸関係の総和が本質だということですか。


先生:その解釈は深いですね。本質は一つと勘違いしない方がいいと思います。

「(11)哲学者たちは世界を単にさまざまにK(   )ただけである。問題なのは世界をL(    )ことなのである。」これなどは陽明学の「知行合一」に通じていますね。実践しないのなら世界は個々人の心の持ち方次第でどのようにでも解釈できますが、世界の中で苦悩し、苦闘して世界を変えなければならないとなると、人間たちの実践の諸関係としてきっちり認識しなければなりません。

花子:哲学者というのは日光のサル軍団のサルですね。「反省だけならサルでもできる。」


太郎:おいおい、先生も自称哲学者なんだから、そりゃあ失礼だよ。それにただああでもないこうでもないと解釈したり議論ばかりして何もしないのは、哲学者に限ったことじゃない。他人事じゃないんだ。
 

(       )に当てはまる語句
解釈 類的本質 対象 変革 社会的諸関係の総和(アンサンブル) 労働 コント 疎外 唯物論 科学的社会主義 エンゲルス
実践 主体的

           唯物史観の成立

     
存在に生みだされたる意識なり、意識が存在生むのではなく
     経済の根っこが有りてその上に政治文化の花が咲けるや
           

花子:マルクスやエンゲルスは唯物論者だと言われますが、「@(   )」とはどういう意味なのですか。『広辞苑』にはこう書いてあります。
「精神に対するA(   )の根源性を主張する立場。従って物質から離れた霊魂・精神・意識を認めず、意識は高度に組織された物質(脳髄)の所産と考え、認識は客観的実在の脳髄による反映であるとする。」

先生:マルクス主義の哲学は、ヘーゲル弁証法を批判的に継承していますので、B(           )と後世から呼ばれています。マルクス自身の@(    )の特徴は「人間のC(   )がそのD(   )を規定するのではなくて、人間の社会的D(   )がそのC(    )を規定する」という命題によく示されています。


太郎:金儲けばかり考えるから資本家になるのではなく、資本家だから金儲けのことばかり考えるのだということですか。しかし金儲けのことを一生懸命考えないと資本家になれないし、成っても成功しないのじゃないですか。要するに意識を生み出す土台には、物質的な経済関係があるというとらえかたが@(   )なのでしょう。


先生:これらを踏まえてマルクスとエンゲルスの共著『E(   ・        )』や『F(       )』ではG(      )の立場を確立したのです。政治や法律,思想や文化などはH(       )であって,経済的なI(   )に規定されています。その事に無頓着に変革の旗手になったつもりでも,世間はびくともしません。


@(      )〜I(        )に当てはまる語句
ドイツ・イデオロギー 唯物論 存在 共産党宣言 弁証法的唯物論 土台 意識 物質 上部構造 唯物史観 

            
史的唯物論の定式

       生産の力が伸びて桎梏になりし関係滅び去るのみ

太郎:経済的な土台はどういう矛盾を抱えているのですか。

先生:各時代の生産様式は漸次発達する@(    )と,その時代を通じて変化しないA(      )の矛盾を抱えています。生産関係が生産力の発展に大きな障害になった場合に,生産関係の変革がなされ新しい生産様式の時代が誕生するのです。上部構造はこのような土台の変化に対応して変化するのであり,その時代の課題を正しく認識していないと有効な思想にはなれないのです。


花子:歴史の発展段階をどのように認識していたのですか。


先生:生産関係は生産手段を所有している階級が,生産において生産手段を所有していない直接生産者階級を支配する関係なのです。これは生産力の発展段階によって五段階に区分されます。

(1)無階級社会であるB(        )
(2)C(       )―奴隷所有者が奴隷を品物のように支配
(3)D(       )―封建領主が土地を領有し、土地を占有している農奴を土地に縛り付け年貢をとって支配。
(4)E(       )―資本家が土地・機械・原材料などを資本として所有し、労働者の労働力の使用権を商品として買い取って、生産を支配し、剰余価値を搾取して利潤を蓄積する。
(5)F(       )―生産者であり消費者でもある労働者が共同社会を形成する。

花子:すると新しい共同体である共産主義では矛盾がなくなり、発展しなくなるのじゃないのですか。


先生:歴史の前史が終わり、人類の共同社会の歴史が始まるとしていました。階級対立はなくなっても、新しい社会には未知の矛盾があると考えていたのでしょうね。こうして歴史はギゾーが言ったように「G(         )」であること,その結果として共産主義社会到来の必然性が科学的に主張されたのです。

@(      )〜G(        )に当てはまる語句
中世封建制 歴史は階級闘争の歴史である 古代奴隷制 生産力 共産主義 生産関係 近代資本制 原始共同体 


                   剰余価値理論

       
働かぬ人の分まで働いて、搾り取られて身も痩せるかな
       一日の生活費だけ働いて、はいさよならではおとといおいで             

郎:@(    )を搾取するというのはどういう意味ですか。

先生:労働者はA(      )としての自己と家族のB(            )を賃金として保障されれば、働きますが、それだけの価値を生み出しても、まだ労働から解放されません。それでは資本家の取り分である@(       )は生み出されないからです。ですから賃金分にあたるC(       )を超えてD(       )を働き、剰余価値を生産しなければなりません。この剰余価値がE(       )の全ての源泉になるというわけです。

@(      )〜E(        )に当てはまる語句
資本家の利潤 労働力商品 剰余価値 必要労働時間 最低限度の生活費 剰余労働時間
                  物化・物象化(物件化)・物神崇拝


    
商いの品物の同士が人として関わり合うのは神秘ならずや
    労働が生みし価値が自立して資本となりて我を苛む
    人と物その区別にぞこだわりて価値はつかめぬマルクスの穴

太郎:先生のホームページでは@(    )やA(                )についてかなり論じられているようですが。

先生:ええ、でも高校倫理では一部の教科書にしか出ていません。関心のある人だけ次の説明を読んでください。授業ではほとんど触れません。


 
 マルクスは労働力が商品化され,物として売買される人間のB(            )を批判的に捉えています。そして人と人の関係が物と物の関係に置き換えられ,物と物が人間に代わって社会関係を取り結ぶ@(    )を商品の価値形態や貨幣形態あるいは資本の諸形態を論じながら問題にしています。このように資本が人間から自立して自らの論理で発展し,人間を包摂し,支配することも@(    )として批判されます。この現象は経済に限らず,政治,法,社会,文化の諸現象にも制度や機構や価値観が硬直化し,C(        )して人間に対して不当に呪縛的に支配する形で見られます。

 また物が人間の社会関係を背負って,人間的な価値や権威を発揮する場合に,マルクスはこれをA(       )だと批判しました。商品は人間の労働の価値を本質的な属性としているので,人々に物神崇拝されているというわけです。つまりマルクスは服という商品は服という事物としては,使用価値でしかないのだけれども,商品とみなされる限りで,人間労働の価値をD(       )ので社会的価値として認知され,取り引きされるというわけです。そこには人間でないものを人間とみなすE(   )があるというわけで、資本主義社会の文明が発達すればするほど未開人の宗教であるA(           )に陥っていると言う批判なのです。

 マルクス主義は社会主義世界体制の崩壊によって,かなり衰退していますが,現代ヒューマニズムとして「物化・物象化・物神性」論は重要な影響力を保っています。

@(      )〜E(        )に当てはまる語句
 
物化・商品化  フェティシズム(物神崇拝) 倒錯  自立的展開  物象化  身に受け取る

 

解答
科学的社会主義
@レーニン Aドイツ観念論 Bヘーゲル C資本論 D投下労働価値説 E剰余価値

マルクス@カール・マルクス A経済学・哲学 B疎外 C自己疎外 Dフォイエルバッハ E類的本質 F人間学的唯物論 G労働の疎外 H生産物からの疎外 I労働からの疎外 J類的本質からの疎外 K人間からの疎外 Lヒューマニズム

『フォイエルバッハ・テーゼ』@科学的社会主義 Aエンゲルス Bフォイエルバッハ・テーゼ C唯物論 D対象 E実践 F主体的 G類的本質 H社会的諸関係の総和(アンサンブル) I労働 Jコント K解釈 L変革

唯物史観の成立@唯物論 A物質 B弁証法的唯物論 C意識 D存在 Eドイツ・イデオロギー F共産党宣言 G唯物史観 H上部構造 I土台 

史的唯物論の公式@生産力 A生産関係 B原始共同体 C古代奴隷制 D中世封建制 E近代資本制 F共産主義 G歴史は階級闘争の歴史である 

剰余価値理論@剰余価値 A労働力商品 B最低限度の生活費 C必要労働時間 D剰余労働時間 E資本家の利潤 

物化・物象化(物件化)・物神崇拝@物象化 Aフェティシズム(物神崇拝) B物化・商品化 C自立的に展開 D身に受け取る 
E倒錯  

 

 

              実存主義     

1自由の哲学

何々と規定されたるその前に吾自由なり己を選ぶ

先生:いよいよ、実存主義に入ります。実存主義を分類するのは有神論か無神論かでします。 

太郎:有神論的実存主義は、19世紀にはデンマークの@(      )(1813-55年)で、20世紀ではドイツのA(       )(18831969年)です。 

花子:それじゃあ無神論的実存主義はまかせてください。19世紀はドイツのB(   ) (18441900年)です。20世紀になりますとC(      )(18891976年)とフランスのD(     )(19051980年)ですね。 

太郎:実存主義というのはどういう思想なのですか。 

先生:産業革命以後資本主義と官僚制が急速に発達しました。巨大な社会組織の下で諸個人はE(  と    )を喪失し,物化・商品化・部品化・画一化・平均化されるようになったといわれています。人間を主体的な人格的存在として捉えていた人々はこのような状況をF(     )の状況だと告発し,人間性の回復を叫びました。マルクス主義はその原因を資本主義体制に求め社会変革によって人間性の解放を実現しようとしました。一方その原因を主体性の喪失に求めた実存主義はG(    )の回復を追求したのです。 

花子:「H(  )existence」という言葉は「本質」という言葉と対極でI(  )という意味なのでしょう。 

太郎:本質づけられた存在だと、個的存在である以前に同じ本質のものの集合に帰属していますね。それに対して実存は本質付けられる前の個別の立場だということになりますね。

先生:事物存在は本質的な規定において存在していますね。机だとか薔薇だとか太陽だとかのように。ところがJ(    )は自ら何であるかを主体的に選び取る存在です。 

花子:人間も人間としては本質的存在ではないのですか。猫や犬と同様に。 

先生:人間の場合は、自分が何かと考える場合に、自己のアイデンティティは何かを問い掛けます。ですから人間一般であることをいくら確認しても、自分が分かったことにはなりません。その前に規定されていない現存在あるいはH(   )であるというのです。 

太郎:例えば教師だとか生徒だとかに決まっていますよね。そういう意味では本質づけられているのではないのですか。 

先生:それでも「教師」や「生徒」とは何か、事細かく決められていて、すべてマニュアル通りやらなければならないということになりますと、教師はティーティングマシン、生徒はラーニングマシンになってしまいます。あとはいかに効率的に教え込むかということになってしまいますね。 

花子:それでいろいろ教え方を工夫されているわけでしょう。

先生:もちろん人間も職業をもち、与えられた社会的任務を決まり通りに果すという面をもっていますからね。しかし教師は自己の頭脳内に記憶した知識をコピーさせるだけの仕事なのでしょうか。実存主義は、そこで簡単に教師はこうだと決めつけないで、苦悩するわけです。 

太郎:常に新たな教師像を打ち出し、既成の教師概念を壊していくということですね。

先生:ええ、そんなことを言えるだけのことはできていなくて申し訳ありませんが、そういうことですね。常に既成の本質規定に囚われることなく、新たな人間存在の可能性を打ち出していくのが実存的な生き方なのです。また教師や生徒である枠組に囚われすぎるのも実存的ではありませんね。 

花子:人間存在をK(   )だと捉えていることになりますね。 

先生:「実存」という言葉の意味も個々の実存哲学者によって個性がありますから、具体的にキルケゴールから入りましょう。 

@(   )〜K(   )に当てはまる語句を次から選んで記入しなさい。

実存 ヤスパース 自由 ニーチェ サルトル 人間存在 人間疎外 ゼーレン・キルケゴール 主体性 現実存在 個性と主体性 ハイデッガー  

 

ゼーレン・キルケゴール

2キルケゴールの大地震

神呪い不義犯したる父なれば、吾呪われし罪の子なるを
張り裂けし思いも知らで咎むるや乙女心を弄びしと
 

太郎:キルケゴールはファーザー・コンプレックスだったという話ですね。 

先生:ゼーレンの父は毛織物商で商売に成功して大変な資産家でした。同時に大変敬虔なキリスト教徒だったのです。ゼーレンはそんな父を尊敬していました。でも父はゼーレンに打ち明け話をして、それでゼーレンは大変ショックを受けたようです。これを「キルケゴールの@(    )」と言います。キルケゴールという苗字は貧しくて墓場にすんでいたからついた「墓場」を意味する言葉だそうです。

 父は少年時代は貧しかったので牧童をしていましたが、大変寒い上に落雷に襲われ恐ろしくなって、子供の自分をこんな目に合わせる神をA(   )ものだと打ち明けました。それに父は苦労して商売に成功し、資産家になりましたが、奥さんに先立たれて淋しかったので、女中だったゼーレンの母にゼーレンを産ませてしまったというのです。父はゼーレンの母を正式に入籍させましたから。ほほえましいエピソードと捉えてもいいのですが。ゼーレンは神を呪うのは悪魔の血を引いているからだと思い、しかも結婚もせずに子供を造った不義の子と考えたのです。別段そのせいではありませんが。兄たちが次々病死してしまったのです。それで神に呪われていると感じたのです。 

花子:お父さんもそのことで罪の意識がつよかったのですか?

太郎:お父さんにすれば、自分が神を呪わなければならないほど惨めな境遇から這い上がってきたことを息子に知って欲しかっただけでしょう。ゼーレンの母との逸話も懐かしい思い出て、後で籍を入れているので罪の意識なんてないでしょう。 

先生:私もそういう解釈だったのですが、最近読んだ本にはどうも父が神に呪われていると感じていたらしいですね。彼の宗派がキリストを殺し裏切った人間の罪を深く追求する宗派でした。それで自らの罪を強く意識してこの話を語ったとされています。悪魔とか不義の子だとかいうことで罪の深さを実感して、罪人を救うために人となった神イエスにすがるという信仰のありかたなのです。そのためにゼーレンは、どうせ神に呪われているのだからと自暴自棄になってB(   )するようになります。 

太郎:そのゼーレンを救ったのが少女C(     )でしょう。彼はレギーネを幸せにしようと思い直して放蕩をやめ学問に打ち込みますが、突然婚約を彼の方から破棄してしまいます。 

花子:そんな、どうしてですか。 

太郎:だって、彼は悪魔の血を引く罪の子です。そんな自分がレギーネを幸せできるはずがないと考えたのです。相手を幸せにできる結婚でなければナンセンスです。本当に愛しているのならば、相手を不幸にさせる結婚なんてできないはずです。 

先生:恐らく彼は激しく慟哭し、悶え苦しんだと思います。それでも主体的に生きる人間ならば、ここで決断をしなければならないと、一方的に1840年に婚約を破棄したのです。  

太郎:でも世間は彼の「D(   、   )」の主体的決断の苦しみなんか全く意に介さずに、乙女心を弄び、一方的に婚約を破棄したひどい男として中傷したのです。 

先生:それは1846年のことです。「コルサール」という大衆向け新聞が、キルケゴールから低俗だと批判されていたので、興味本位に人身攻撃をかけてきたのです。そこでいかに世間が主体の苦悩を理解できないか、水平化された大衆の虚偽性を思い知ったのです。 

@(   )〜D(   )に当てはまる語句を次から選んで記入しなさい。あれか、これか  放蕩  大地震  レギーネ 呪った  

3主体的真理

そのために死ぬことをすら吾願ふ主体の真理吾は知りたし  

花子:キルケゴールと言えば、客観的真理より。@(       )が大切だといったのでしょう。 

先生:1835年8月1日、彼は日記に、こう記しました。 

 「私に本当に欠けているものは、私は何をなすべきか、ということについて、私自身、はっきりわかっていないということだ。・・・つまり、私自身の使命が何であるかを理解することこそが重要なのだ。すなわち神は、私が何をなすべきことを本当に欲しておられるのか。これを知ることが重要なのだ。私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生きそして死ぬことを心から願うようなA(   )を見い出すことが必要なのだ。・・・

 さあサイコロは投げられた。私はルビコン河を渡るのだ!きっとこの道は私を闘争へと導くだろう。しかし私はそれを拒絶はしないだろう。」 

花子:太郎君には命をかけられるような@(      )はありますか。 

太郎:それが見付かっていれば、そっちの方に突進していたかもしれない。それは恐らくかなり勉強しないと掴めないから、それで勉強しているのかも。でもそれが掴めたら、やはりそれを実現するために勉強しなければならないとは思うけど。

先生:一度きりの人生だから、何かそのために生き、そのために死ねるようなA(    )(理念)を持って生きられるかどうかは、その人の人生が輝いて見えるかどうかということと深く関わっているのかもしれません。 

太郎:そのことと「自己がB(  )である」ということは繋がっていますか。 

先生:それは同じような意味でしょう。イデーを持って生きるということは、自分を精神として捉えているということでしょうから。キルケゴールは「自己とは自己自身に関わる一つの関係である」と捉えています。


@(   )〜B(   )に当てはまる語句を次から選んで記入しなさい。主体的真理 イデー 精神  

4実存の三段階 

若さゆえ美と快楽に酔いしれどやがてむなしき朝迎へむ

身に負いし荷の重さゆえ甲斐ありき己の非力知りてはかなし

人は皆神より離れ罪にありその絶望にあがき苦しめ 

花子:キルケゴールは「実存の三段階」について論じていますね。
「@(       )⇒A(       )⇒B(        )」の三段階です。
 

太郎:まず@(     )ですね。快楽と享楽の中で「C(        )」求め続ける段階です。この段階は絶望を知らない絶望の段階とありますが、どうしてですか。 

先生:キルケゴールの絶望は、「D(                 )」をいうわけです。その意味で絶望は罪ですね。快楽と享楽の中で「C(        )」求め続ける段階では、神のことなど考えていませんから、即自的に絶望なんです。でも絶望は忘れられているわけです。 

花子:絶望は意識だから忘れていれば意識されていないので絶望といえないでしょう。

太郎:もし神とのつながりを感じていれば、快楽や享楽の方にいかないわけだから、のっけから神とのつながりはあきらめているということでしょう。 

先生:おそらくそうでしょうね。そうとしか解釈できません。この快楽や享楽の追及は限りがありませんし、同じ事の繰り返しで感覚的に新鮮味がなくなり、挫折してしまいます。ついに絶望の自覚にいたり、次の実存に飛躍するのです。この絶望による質的飛躍をなんといいますか。 

花子:ヘーゲルの弁証法の向うを張って、E(        )ですね。J,S,ミルの「質的功利主義」を意識しているのでしょうか。 

先生:さてどちらが先だったでしょう。微妙ですね。

花子:第二段階のA(       )は道徳的義務に生きようとします。何か社会的な責任や家庭的責任を背負って、それを生きがいにして生きようとするのです。これも絶望を知らない絶望の段階からはじまるわけです。そして責任が重くなって背負いきれなくなるし、完全に道徳的義務など果たせるものではありません。無力感にうちのめされて挫折せざるをえないというのでしょう。そうしてまた絶望を自覚して、次の段階に飛躍するということです。哀しくなりますね。 

先生:そうですね、そういう意味では悲哀の哲学といえるかもしれません。そしていよいよB(       )の段階になるのです。自分が絶望つまり罪そのものであることを自覚して、神の御前にただ一人立つE(     )の実存です。そこではじめて主体性の回復がなされるということです。

太郎:神に向かってしまうということは、人生に絶望して、主体性をなくしているからではないのですか。 

先生:それは無神論からの批判です。ニーチェはキルケゴールを世界に背を向け天上しか見ていない背世界者として批判しています。有神論ではむしろ神に還ることが主体性なのです。 

花子:天上に昇りたいということですか。 

先生:死ぬことではありませんよ。神と共に生きるということです。『G(       )』では死の問題が正面に据えられます。『新約聖書』ラザロの病気が重いのですが、イエスは「この病は死にいたる病にあらず(This sickness is not unto death,)」と言われたのです。このことを肉体的な病気によってたとえ肉体が滅んでも、精神は滅びないということだと解釈しているのです。本当に恐ろしいのは精神が滅んでしまう病です。それがH(    )です。つまり人間が神とのつながりを失ってしまうということです。 

太郎:でもキルケゴールの論理だとみんなH(   )しているのだから、どうしてそこから脱却できるのですか。 

先生:それはやはりH(    )によってしかありません。人間は神を信じないという罪に落ちているのです。それで救われないでもがき苦しんでいるわけですね。その人間を神は憐れに思って人類の罪を贖うためにイエスという人間に身を落とし、人類の罪をみんな背負って十字架についてくださった。そのイエスの愛にすがるしかないということです。 

花子:でも、それが信じられないのでしょう。

先生:その絶望を自覚して、直視し、もがき苦しむ中で信仰がうまれるということでしょうね。  

@(   )〜H(   )に当てはまる語句を次から選んで記入しなさい。
死にいたる病 美的実存 神から離れていること 倫理的実存 絶望 宗教的実存  質的弁証法 単独者 あれも、これも 

 

ニーチェ 

5アポロンとディオニソス
民衆の生のエナジー昇華して現れいずる造形の美
 

太郎:@(     )(18441900 は,キリスト教の牧師の子で、古典ギリシアの文献学者だったのですね。

先生:そうです。それでギリシャ悲劇の成立を論じた『A(      )』を著したのです。造形的なB(         )と音楽的なC(             )の総合としての悲劇の誕生を解明しました。感情的・音楽的なものをディオニソス的と形容し,民衆の生のエネルギーを象徴しています。民衆の生のエネルギーは十年に一度程の周期で大きなうねりがあって,群衆化して乱舞狂乱する事があり破壊的行動も起こりました。このエネルギーを昇華し,造形的な建築,彫刻などアポロン的と形容されるものが生まれたのです。このようにギリシア文化の構造をダイナミックに捉えたのです。 

花子:「悲劇」におけるディオニソス的なものアポロン的なものとは何ですか。  

先生:悲劇は合唱隊がディオニソス的要素です。合唱隊の要素を民衆的なエネルギーの象徴と解釈したところが新鮮です。アポロン的要素が舞台的な造形やドラマの構成です。 

@(   )〜C(   )に当てはまる語句を次から選んで記入しなさい。
悲劇の誕生 ディオニソス的なもの ニーチェ アポロン的なもの
 

6超人への橋梁()

憧憬の矢を放たなむ彼の岸へ没落ねがひ過渡(かと)を超へなむ 

花子:ニーチェと言えばヒットラーが一番尊敬していた思想家ですね。ナチスの元祖みたいで恐ろしいという人もいるのでしょう。 

先生:ヒットラーがニーチェの大ファンだったことは確かですが、ニーチェは人種主義的な傾向もなかったし、反ユダヤ主義者でもありません。ただヒットラーの指導者原理の思想的基礎にはなったかもしれません。

太郎:二十世紀の実存哲学者のハイデッガーはナチス党員だったそうですね。 

先生:ええ、ハイデッガーはナチスによる第三帝国の栄光に参画しました。しかしだからといってハイデッガーの哲学がナチスの哲学であったわけではありませんし、彼がとなえた「死の先駆的決意性」つまり死を予め決意することによって、本当に生きることができるという立場が間違っているわけでもありません。 

花子:ニーチェを勉強することがナチスに惹かれる原因になりませんか。  

先生:ナチスの恐怖独裁原理や人種主義、反ユダヤ主義などに対しては民主主義と人権を守る立場からしっかり批判をできなければなりません。ニーチェの思想にもナチスとの親近性があれば、きちんと指摘しておく必要があるでしょう。 

太郎:@(   )の登場を期待する思想が、ヒットラーを指導者に押し上げる役目を果したかもしれませんね。  

先生:それはそうでしょうね。しかしニーチェは、みんなが向上を目指すことによって。@(   )が生まれると考えました。彼は現代文明が人間を堕落させ,衰弱させていることを嘆き,あくまでも向上を求め人間の限界に挑戦する生き方を
『A(                 )』で説きました。
 

太郎:人間は動物と@(   )の間の絶壁に架けられた橋であり,一条の綱なのですね。  

先生:つまり「人間の本質は動物から超人へのB(   )である」ということです。彼方の岸に憧憬の矢を放ち,C(  )を敢えて願っても過渡を生きるべきなのです。

花子:「C(   )を願う」というのはどういう意味ですか。  

太郎:ジョギングする人は多いけれど、毎日五キロ以上走っている人は少ないでしょう。走り過ぎると足を傷めるし、根気がいるものですから。その中でもフルマラソンができる人はごく一部です。そのうえトップランナーを目指すとなると大変な努力と危険が伴います。高橋尚子はQちゃんと呼ばれていますが、お化けという意味ですね。人間を超えた体力、気力を持っているからです。その彼女でさえ、体力の限界に苦しんでいます。どうしても故障は避けられないということですね。しかし、没落を恐れてばかりいたら、栄光は手に入らないわけで、敢えて限界に挑戦し、突き抜けようとしているのです。そういう姿勢はあえて「C(   )を願う」という表現にぴったりですね。 

先生:人間にとって猿は嘲笑の対象です。蛆虫も嘲笑の対象です。でもニーチェは人間は猿よりはまだ猿,蛆虫よりはまだ蛆虫だと言います。何故なら蛆虫や猿は進化の途上にあり,ベクトルは上を向いていますが,人間は進化の頂上にあり,ベクトルは下を向いているからです。だから人間の方が猿や蛆虫よりベクトル的には劣っていることになります。人間は自らの限界に挑戦して人間以上の@(  )を目指してこそ,蛆虫や猿よりも尊い人間であり得るというのです。

花子:でも進化の頂上にある者が,なお自らの限界を乗り越えるのは至難の技ですね。

先生:Qちゃんのように、常に危険を伴います。一条の綱の上は,進むに危うく,退くに危うく,佇立する(じっと立っている)に又危ういと言います。しかし敢えて危険に挑戦し,自らの可能性の限界を乗り越えようとする多くの人々の没落に支えられて,始めて人間は文化を向上させ,超人を生むことができるのだと考えたのです。

太郎:しかし本人は既成の人間の限界を超えたと思っていても、なかなか世間は評価しないものでしょう。青色発光ダイオードのようにそれがすぐに応用されて莫大な利益を会社にもたらせば別だけど、その人が生きている間は評価されない場合も多々あるようですね。 

花子:中村さんの場合も会社が出した報償金は二万円だそうで、裁判では会社に与えた利益は6百億円と認定されましたね。結局示談では84千万円に減っちゃったけれど。

先生:思想の領域だと、実に悲惨です。キルケゴールはほとんど親の財産を食い潰しながら言論活動をしていました。世間の大多数の評価はさんざんで冷笑の的だったのです。でもマニアみたいな人がいて、その人が全部ドイツ語に訳したら、死後ドイツで高名になったのです。ニーチェも生きている間は無視されていました。あれほど名文の『A(                            )』でも生前にはそれほど評判は呼んでいないのです。 

@(   )〜C(   )に当てはまる語句を次から選んで記入しなさい。 没落 ツァラトストラはかく語りき 過渡 超人  

7神は死んだ!人間が神を殺したのだ。

しがらみは隣人愛の十字架か釘打たれては挑み得ざりき 

太郎:ニーチェは超人を目指していただけに没個性的な非主体的な平均的な大衆からの反感に嫌悪をもって見下していますね。 

先生:ええ、キリスト教徒達や社会主義者達は@(          )(劣等感による妬みからくる怨恨)から向上しようとする人々を非難し,隣人愛の十字架に磔にしようとしていると感じていました。 

花子:隣人愛を否定しているのですか。孤独な魂だったのですね。 

太郎:というより、小市民が家族や共同体的なつながりで、身を寄せ合い暖めあって生きていますね。そこで互いに慰めあって、隣人間での義務や責任を分かち合い、それさえこなしていればそれで十分みたいな関係にあるわけで、これでは向上や力の充実というものはありません。互いに駄目にし合っているわけです。隣人愛の十字架に磔にし合っているのでは駄目だということでしょう。そういうしがらみを断ち切って、あくまで自己の可能性の限界に挑戦せよということですね。 

花子:「A(          )人間が神を殺したのだ。」という言葉があってニーチェは無神論的実存主義だと言われますが、どういう意味でしよう。 

先生:キリスト教徒や社会主義者は隣人愛と平等に基づく価値観を説きますが、実際は利己主義的に振舞っています。もし神が存在しているとしたら,決してできないような振る舞いをキリスト教徒たちは普段しています。隣人愛などお構いなしにいかに他人を蹴落として自分が成り上がり,富や名誉を手に入れようと私利私欲のために競っています。ところが日曜日になるといかにも敬虔なキリスト者で隣人愛に満ち溢れた人格のように振る舞っているのです。つまりとっくに神は死んでいるよ、自分たちで殺したじゃないかというわけです。  

太郎:あれ?「神を殺す」ということは、人間が神によって本質づけられることを拒否して、自由に主体的に生きるということじゃなかったのですか?  

先生:ええ、その通りです。それを神が存在しないことを要請する「B(              )」というのです。ですから自分たちがきれいごとで掲げていた神に従って生きることを止めて神を殺したのだから、そのことを開き直って、自由に生きる出発点にしなさいということです。  

@(   )〜B(   )に当てはまる語句を次から選んで記入しなさい。 要請的無神論 ルサンチマン 神は死んだ

 

8能動的ニヒリズム

罪に落ち神を無して生きしなら、己の旗を掲げて進めや             

先生:「神は死んだ。」のですから,人間は形而上学的な背後の世界(彼岸や霊界のことか)に価値を求めるべきではありません。生きた全体である大地の意義に忠実であるべきです。「@(        )(より強く生き,より大きな影響力,支配力を発揮しようとする意志)」を持って,常に成長しようとする生命の差し潮となるべきなのです。彼は既成の価値の無効を宣告し、A(        )の時代の到来を告げました。その上であらゆる価値の価値転換をめざす「B(            )」の立場を打ち出したのです。 

太郎:神の死はC(          )の崩壊を意味していると言われますが、どういう意味ですか。 

花子:ストア派以来のC(           )観というのは、D(   )が実体として存在していて、それが自然や社会を貫いていると捉えていたわけです。そのD(   )を神や人間が共有していると考えていたのでしょう。そんなD(   )なんかフィクションだよとニーチェは宣告したのでしょう。 

先生:それぞれの宗教や文化の違い、民族の伝統や社会の仕組みなどで、時代により社会によりさまざまな価値観がありました。どの価値観がすぐれているなんて原理的に言えないという立場が「E(            )」です。フランス革命の挫折以降は次第に普遍妥当的価値に対する信頼が揺らぎ、価値相対主義が強くなってきました。「神は死んだ!」となれば、キリスト教的価値観は崩壊し、一人一人が自分の力で自分が生きていくための新しい価値の表を作り出さなければならないということになります。  

太郎:そんなことになれば、百人百様の価値がぶつかり合うことになり、秩序が成り立ちませんね。 

花子:強者の権利を唱えた社会ダーヴィズムの影響もあったのですか。  

先生:平等や民主主義では、それぞれが自らの力を最大限に伸ばしていくということよりも、それを制限して、最大多数の最大幸福を求めることになります。ニーチェは人間は平等だという理念を受け付けません。強いものは権力を極め、科学者は知を極め、芸術家は美を極める。そして大衆は超人が素晴らしい文化を創造するために奉仕するというような捉え方ですね。それぞれの能力や個性に応じて分相応の貢献をすればよいということです。それぞれが自分の分相応な価値観をもてば、調和が可能になるわけです。ところがキリスト教や社会主義では、強いもの、高貴なもの、才長けたものに対してルサンチマンで潰そうとするのでけしからんということになります。  

太郎:価値相対主義は西欧的な価値観を独善的に押し付けることに対する批判としてはよく分かりますが、平和や人権や環境など人類共同の価値の確認も大切ですね。 

先生:もっともこれらの価値相対主義の傾向は「現代」という時代が,帝国主義戦争と革命の時代であり,分裂と抗争の時代であったことの表現だとも考えられます。西暦二千年代にはグローバルな危機を克服する為に人類的統合が進展し,普遍妥当的価値が再確認されることになるかもしれません。見方次第では1985年以降既にそういう新世界秩序の形成の時代が模索されているとも言えます。 

@(   )〜E(   )に当てはまる語句を次から選んで記入しなさい。ニヒリズム 価値相対主義  普遍妥当的価値 理性 権力への意志 能動的ニヒリズム 


               9永劫回帰

神なきに為・価値・意味を持たざりきコスモスはただ永劫回帰か 

花子:ニーチェには,「@(      )」という言葉がありますが、輪廻転生を認めているのですか。 

先生:ニーチェは天国や地獄,彼岸や輪廻転生などは認めません。『ツァラトストラはかく語りき』で綱渡りの場面があります。高い塔と塔の間を綱渡り人が,一歩一歩慎重に熟練した技で渡っていますと,突然一方の塔から五彩の服を来たピエロのような男が綱の上を走り出て,前を行く綱渡り人に,「足萎え,我が行く道を妨げるな!」と呼び掛けます。驚いている綱渡り人の頭上をひらりと飛び越えて,前方の塔へ駆けていったのです。驚愕した綱渡り人は均衡を失い数十メートル下の地面に落下しました。「助けてくれ,ツァラトストラ,悪魔が地獄へ私を引いていく!」と懇願しますと,「安心しろ,悪魔もいないし地獄もない,汝は危険を職業にし,常に限界に挑戦して立派に生きて,それ故に死ぬのだから本望だろう」と慰めたら,綱渡り人は安心して,ツァラトストラに感謝して息を引き取りました。 

花子:それじゃあ有限な一回限りの人生を、人間の限界に挑戦しながら、没落を願って生きるのがいいわけですね。 

先生:実存主義では一度きりの繰り返しのきかない人生だからこそ,主体的な決断の下に自由に自己を選択して生きるべきだと考えます。ニーチェも有限な一回だけの生命が前提です。しかし,彼はこう考えます。コスモス全体は、神が存在しないのだから、それ自身ではなんの目的も価値も持たない無意味な存在である。だから生命の循環を機械的に無限に繰り返すことになっている。つまり我々は
「@(      )」によって無限に全く同じ人生を繰り返すことになるのです。ニーチェはこの「@(       )」をも自己の運命として積極的に受け入れることを「A(    )」とよび、B(          )にしています。  

太郎:無目的・無価値・無意味な存在だから機械的に無限な繰り返しになってしまうのは何故ですか。それに人間が目的や価値や意味を付与して事物を動かせば、同じ繰り返しではなくなってしまうのではないのですか。

先生:それは鋭い突っ込みですね。まず閉じたコスモスの内の事物が互いに関係しあって運動しているとしますと、それは巨大な関数で表されると仮定できます。その関数に基づく運動が一巡すると最初に戻っていることになります。ところで人間の意志がそれに介入してずれを生じさせるとしましても、その意志自体が関数の中から生じたとすれば,すべての意志的行動も関数の中に織り込まれてしまっていることになります。もちろん実際にはそういう循環は超天文学的な数字になりますから、あまり意味のあることとはいえません。それより神の死により、無目的・無価値・無意味になっている存在を引き受けなければならないのです。「無用の用」を思い出してください。無用だからこそ用があるという発想ですね。我々がいかに自ら新しい価値の表を打ち立て、世界を創造していくかが問われているわけです。二十一世紀に生きる我々がコスモスをキャンパスにしていかなる素晴らしい絵を描けるかということですね。それが問われているわけです。  

@(   )〜B(   )に当てはまる語句を次から選んで記入しなさい。超人の資格 運命愛 永劫回帰 

 

10精神の三態変化

荷を背負い力をつけしその上で、否定叫びて、創造に戯むる 

太郎:彼は精神の三態変化を説きました。「@(   ⇒  ⇒   )」と変態する(metamorphose)のでしたね。 

先生:まず重荷を進んで背負うA(       )の精神を持つべきです。多くの責任や任務を引受け,自分に大きな課題を課して,それと格闘し,自らの能力を高め,力を付けるべきです。しかし既成の体制や価値の束縛の下では,やがて自己の力を伸ばし,発展させる事は出来なくなり,衰退せざるを得なくなります。そこでより強く自由に生きようとする精神は,既成の体制や価値を否定して,自由を獲得し王になろうとするB(    )の精神に変態するのです。全て権力や体制を否定した後で,精神は否定や破壊に飽きて,創造を求めます。最後に創造や破壊の遊戯で,聖なる肯定を行うC(   )の精神に変態するのです。 

@(   )〜C(   )に当てはまる語句を次から選んで記入しなさい。幼児 獅子 ラクダ ラクダ⇒獅子⇒幼児

 

カール・ヤスパース

11機械と大衆の時代                                
戦争と革命の嵐吹き荒れぬ二十世紀よ吾は生きしや
 

太郎:20世紀こそ実存主義の時代ですね。だって20世紀は@(        )の時代と呼ばれ、文明そのものが危機に陥ったのですから、人間とは何かが根底的に問い直されたわけでしょう。  

花子:人間とは何かが疑問だったということは、一体どう生きればいいのかみんなが思い悩み、決断を迫られたということですか。 

先生:そうですね。資本主義が高度に発達してA (             )になり、これが資源と市場を求めて植民地の再分割競争を繰り広げていました。対外的にはB(       )として現れて、勢力争いをしていたわけです。国内的には周期的恐慌に見舞われます。そして労働者階級は政治的に成長して巨大な労働組合や社会主義政党が勢力を誇るようになっていました。 

太郎:二十世紀には二度も世界戦争が起こり、社会主義革命が起こって世界体制を形成し、世界資本主義を脅かすまでに発達しましたね。そういう激動の中で人々は難しい政治選択を迫られ、戦争や革命に参加せざるをえなかったのでしょう。ところで二十世紀の代表的な実存主義哲学者だれですか?  

先生:C(           )18831969) とD(              )18891976) それにフランスのE(         )19051980)です。C(           )は現代を『F(            )』で機械・技術の支配する「G(            )」の時代,精神分裂症の時代だと規定しました。二十世紀が始まる頃から独占資本主義の支配が強化されて,重化学工業が発展し,大量生産・大量消費の時代に入り,H(     )な商品が作られ,誘導された流行に乗せられて消費させられました。すべてが平均化・H(     )・唯物化され精神は自己自身に意味を持たず,無力化・I(        )してしまったのです。  

@(        )〜I(         )に当てはまる語句を次の中から選択しなさい
戦争と革命  手段化  ハイデッガー  独占資本主義  サルトル  画一化  帝国主義  機械と大衆  現代の精神的状況  ヤスパース  

 

12限界状況

逃れ得ぬ乗り越えられぬ壁ならばもがき苦しめ生きし証ぞ 

先生:流行に合わせて惰性的に生きると楽なのですが,人間である以上,「@(        )」にやがて直面せざるを得ないのです。それは逃れることも乗り越えることも出来ないA (     )なのです。ヤスパースは「B(               )」の四つを@(        )の例に上げています。 

太郎:@(          )に真剣に立ち向かい、乗り越えていかなければいけないということですか?  

花子:@(          )は乗り越えられないのよ。だから@(        )なの。

先生:そうなのです。@(        )に生きることを受入れ,逃げないで@(        )と格闘してこそ真に生きる事でができるのです。C(                 )によって真の自己の「実存」に目覚めます。そのことで同時に壁の向こうにこの自覚に導いた「D(              )」の存在を知るのです。 

花子:乗り越えられない壁に立ち向かうことを逃避し、E(         )に生きようとしがちですね。  

先生:人によって壁は,F(               )です。だから人間は本質的に孤独です。でも限界状況への挑戦で互いに励まし合い,逃避しないように共同できます。これが「G(                      )」つまり「H(              )」なのです。 

@(        )~H(         )に当てはまる語句を次の中から選択しなさい。
死・苦しみ・罪責・争い
   個性的で単独的   超越者(神)       限界状況    娯楽や流行    愛しながらの戦い   絶望・決断・回生   実存的交わり

 

13包括者

見るもののも見られるものも包み込むコスモスにして吾なる存在(もの) 

先生:ヤスパースは見るものと見られるものの対立を包括し,全意識や全存在を包み込む「@(        )」を捉えようとします。存在そのものである@(        )はA(      )・超越者であり,われわれがそれである@(        )はB(                                   )です。

花子:マルクスも「意識はC(                       )である」と言ったそうですが、意識は感覚であると共に意識対象の感覚への対象化でもあります。
その意味でD
(                       )は包括されて,@(        )の両面として把握されるのですね。主観・客観の統一ですね。

太郎:実存的に「E(                           )」のが全ての意識や存在の有り方と捉えるのでしょう。その他の有り方は反省や推論の中にしかないということでしょう。

先生:ええ、その意味で現存在は@(        )です。また意識は常に統合された意識として,その時代や社会に特有の精神としての有り方を示します。あらゆる意識や存在はその時代の精神的な課題を背負った,精神的な存在なのです。その意味でF(      )も@(        )です。しかし意識や存在がF(      )を帯びるのは,G(            )に真摯に立ち向かっているH(     )の意識や存在である限りですから,H(     )こそが@(        )なのです。 

花子:つまり意識は常に何らかの事象として現れ, 「A(      )」の姿をとって現れますのでA(      )は全ての意識や存在を包括しています。そして真に実存する意識にとっては,A(      )はF(      )であると共に,超越者(=神)が示されているI(      )だとヤスパースは捉えているのでしょう。 

先生:ええ、超越者はそういう形でしか存在しません。つまりG(          )に立ち向かうH(     )の苦悩と救済として超越者を感得することが,それ自体最も深いH(     )なのです。 

@(        )〜I(         )に当てはまる語句を次の中から選択しなさい。
現に・今・ここに有る
   世界   精神    実存   見るものと見られるもの 限界状況  
暗号  現存在・意識一般・精神・実存   意識された存在 包括者

マルティン・ハイデッガー

14世界・内・存在

部屋ありて人の入りたるにはあらで部屋は人の有り様ならずや 

先生:@(        )18891976)の代表作は『A(           )』です。彼は,フッサールのB(        )の影響を受け,現に今ここにあるC(      )として先ず人間を捉えます。人間以外の存在でも現に今ここにあるわけですが,そのことを意識し,問題にするわけではありません。

太郎:人間だけが現に今ここにあることを対象化し,自らの有り方を常に問い返し,D(              )するということですね。  

先生:現存在はまず「E(                      ) 」という在り方をしています。ここに先ず教室という世界があって,そこにドアを開けて,外から中に入って来て,それから世界の内に存在するというのではありません。われわれが存在する仕方が「E(                      )」だというのです。例えば教室内,道路上,家庭内,職場内,公園内というような世界内という有り方,つまり常に世界と共に世界内でのつながりの中で存在するという有り方をしているのです。 

花子:世界内に存在する限り,あらゆる物も人も互いに「F(       )」としてG(    )をこなす存在であり、そしてその連関で互いに配慮しあいながら生きているということですね。 

先生:ええ、G(    )を何とか粉していればよく,流行に合わせ,他人と協調していればよいわけです。しかしそれでは主体性を喪失したH(          )としての生き方にI(      )してしまいます。 

@(        )〜I(         )に当てはまる語句を次の中から選択しなさい。
世界・内・存在(
In-der-Welt-sein)   用在     現存在    現象学    ハイデガー   世人(das Mann)   頽落 存在と時間    役割   主体的に決断 

 

15死の先駆的決意性

予め死を運命(さだめ)よと思いなし人は始めて生きるにあらずや


先生:そこで「@(      )」意識が重要な役目を担います。人間はA(       )であり,死すべき運命にあります。死から逃避しようとしても, 死は必ずやって来ます。むしろ「B(           )」によって自己の真の存在に目覚めることが大切なのです。「C(         )」というアポロン神殿の標語は、不死なる神からD(            )の人間に投げ掛けられた言葉ですから,人間よ!自らの人生のE(    )を自覚し,F(    )のかけがえのない人生を,自ら
G(                   )して選び取りなさいと諭しているのです。 

太郎:なるほど、死というものがなければ,また人生がF(    )でなければ,人間はなにも無理に仕事をしたり,勉強したりはしませんね。どうせ不死なのなら,食べたりすることも面倒くさいに違い有りませんね。

花子:それに価値を求め,美を追求し,家族を大切に思うのも,fall in loveして命を燃やすのも, 人生がF(    )で,有限であればこそ,そこに意義を見出し,納得したくなるからでしょうね。つまり真に生きるとは,死を予めG(                   )して始めて可能になるのでしょうね。 

@(        )〜G(         )に当てはまる語句を次の中から選択しなさい。
主体的に決断    有限性   時間    一回限り   死の先駆的決意性 有限者 死すべきモイラ(運命)   汝自身を知れ 

 

16存在者と存在の区別

自らの存在の意味問はむとて存在者の吾煌き散れるや 

先生:ハイデッガーは「@(      )とA(       )の区別」にこだわります。B(   )である人間は単なる@(      )ではなく,A(       )の開示なのです。 

花子:「死の先駆的決意性」を契機に、自分のC(    )を自覚するのですね。 

先生:ええ、それがD(          )という原義の実存をもたらすのです。 

太郎:全てのものは@(      )であり,今まで哲学は@(      )について語ったきただけだった, とハイデガーは指摘していますね。しかし生成したものは必ず滅び去るわけで。「何処より来たりて, 何処に去るのか」「何故, はかなく滅び去るしかないのに,生じなければならないのか」これらの根源的な問いにB(    )である人間は苦悩せざるを得ない、このA(       )の意味を問おうというわけですね。  

先生:ええ、このE(       )の中で自らの存在の意味を求めて, 人間は
C(      )へと自己を投げ出していきます。二十世紀は戦争と革命の時代です。「第三帝国の栄光」を掲げたナチスに共鳴して
, その為に自らの生命を捧げることこそが存在の意味を明らかにする行為だとハイデガーは決断して, ナチスに入党しました。実存とは語源的に「D(          )」という意味であり, それは@(      )とA(       )を区別して, B(    )の存在を開明することだとしています。 

@(        )〜E(         )に当てはまる語句を次の中から選択しなさい。
現存在
   歴史的運命   存在者   実存の苦悩 存在   存在の明るみに立つ

         ジャン・ポール・サルトル

           17 実存が本質に先立つ

   吾思ふ故に吾のありしなら吾は自由の意識ならずや 

先生:@(     ) 19051980年)の著作『A(           )』(1943) での
「B
(      )」は,ハイデガーの場合とは全く違います。@(        )もデカルトのようにC(       )から出発します。人間はなによりもまずC(       )でありD(      )だというのです。しかし私のD(   )は常になにものかについてのD(   )ですから,
D
(   )の対象であるB(    )を指しています。このB(    )は事物ですから,その対極であるD(   )は「E(   )」だとされます。F(          )としての人間は「E(   )」なのです。
 

太郎:彼は『G(                     )?』で,実存主義をF(          )としての人間の立場に立ちきること,つまりH(                )だと規定していますね。 

先生:そうなのです。事物存在は予めI(     )が決まっているのに対して、人間存在は事物である前に,D(   )だというのですから,「J(                           )」のです。それで人間は自分がいかなる存在であるか自分自身で決定し,選択しなければなりません。ピコのいうように「一定の住所も顔かたちも特性も与え」られていません。
K
(          )に任されています。 

花子:とはいえ状況の方から人間は「L(                )」に限定され,I(     )を規定されそうになります。でも人間は事物のように限定されることに耐えられない自由な
F
(          )なのですね。 

先生:自分の置かれている現状や自分の知的技能的タレントを越えて,自分のイマジネーションが飛翔して作り上げた〔ありたい,あるべき,本当の〕自分を求めてしまいます。いわば人間は「M(                         )」のです。そこで人間は自分を規定する状況にNon!という否定の叫びをあげて,N(      )しつつある自己に『O(      )』し,
P
(          )に取り組まざるを得ません。  

@(        )〜P(         )に当てはまる語句を次の中から選択しなさい。
存在被拘束的
   存在と無   状況変革   自由意志   事物化   意識存在  嘔吐 
実存主義とは何か
  実存が本質に先立つ    自由の刑に処せられている      存在  意識    本質   ヒューマニズム   サルトル  コギト(我思う=自我) 

 

18アンガージュマン

人間はペーパーナイフーにあらざらめ己を択ぶ主体ならずや 

先生:@(        )と言いますと,A(    )が客体である自分の外部の状況に、
B
(                 )立ち向かって変革しようとするように理解されがちですが,サルトルもC(          )に状況を捉えますから,状況は主体自身の置かれている状態です。つまり自分自身の置かれている状況の変革であり,自己変革に他ならないのです。 

花子:しかしそれは同時に世界の変革でもありますから,この@(        )への自己投企は社会的な参与つまりD(               ) (拘束され巻き込まれて社会に主体的に関与すること)として行われるのでしょう。 

太郎:だから他者をひいては全人類を巻き込む形で展開されますね。それで自由を求める行為は、常にE(                  )  を負っているとまで言いますね。それから
F
(                  )の比喩というのはどういうことですか? 

先生:F(                  )はF(                )として作られます。だから、作った人間によってF(              )として本質付けられているのです。それと同様に、もしも人間が神の被造物であるのなら,「F(              )の比喩」のように人間もG(                   )ことになります。それでは人間はH(           )として,自分を主体的に選び取ることが出来ないのです。  

花子:だから神が存在すれば、ルターの場合ように人間はI(         )でしかないのでしょう。それでサルトルにとってはJ(             )は人間が人間である為の,つまり自由である為の存在の条件なのですね。 

先生:ええ、そのようにJ(              )を求める無神論をK(             )と言います。 

@(        )〜K(         )に当てはまる語句を次の中から選択しなさい。
要請的無神論
    人類に対する責任  状況変革   アンガージュマン   ぺ一パ一・ナイフ  
自由な意識   主体    神の非存在  主観・客観的に   神の奴隷  本質が実存に先立つ  現象学的

 

19『沈黙の共和国』

フランスが最も自由で在りし日は、ナチスの軍靴響きし日々か 

では、サルトルは『沈黙の共和国』で実存思想の精髄を衝撃的に語っているので紹介しておきましょう。 

「われわれはドイツ人に占領されていた間ほど、自由であったことはかつてなかった。毎日毎日われわれはものを言う権利を始めとして,一切の権利を失っていた。毎日毎日われわれは面と向かって侮辱され,それを沈黙して受け入れなければならなかった。  

 われわれは労働者として,ユダヤ人として,または政治的囚人としてひとまとめにして移送されていった。いたるところで、壁の上でも、新聞の中でも、映画の画面でも、われわれはわれわれの抑圧者たちがわれわれに受け入れさせようとした.胸の悪くなるようなくだらないわれわれ自身の画像に出合った。そしてすべてこうゆうことのために.われわれは自由だったのである。  

 ナチの毒液が、われわれの思想の中までも染み込んでいたからこそ、正確な思想はどれも、それぞれひとつの征服であった。全能な警察がむりやりわれわれの口を閉じさせようとしたからこそ、どの言葉もすべて原理の宣言としての価値を帯びた。われわれが追い詰められていたからこそ、われわれの挙動はみな厳粛な拘束の重みを持っていた。

−−−−そして.われわれの誰でもが自分の生命と自分の存在とについて行った選択は、真正の選択であった。それは死に直面してなされたからである。それはいつも『−−−よりはむしろ死を』という言葉で言い表すことのできるものだったからである。 

 そして私はここでわれわれの間のエリートたち、つまり本当の抵抗者たらのことを言っているのではない。四年間を通じて、夜と昼とのあらゆる時刻に、『否』と答えた、全てのフランス人のことを言っているのだ。  

 こうして自由そのものの基本的な問いが提起されたのだ。そしてわれわれは、人間が自分自身について持ち得る最も深い認識の境目まで連れていかれたのである。というのは人間の秘密は彼のエディブス・コンプレックスでも、その劣等コンプレックスでもなく、彼自身の目由の極限,拷問と死とに抵抗する能力なのだからである」 

(パッペンハイム著,粟田賢三訳『近代人の疎外』岩疲新書より)

空欄解答

実存主義
@キルケゴール Aヤスパース Bニーチェ Cハイデッガー Dサルトル E個性と主体性 F人間疎外 G主体性 H実存 I現実存在 J人間存在 K自由
キルケゴールの大地震
@大地震 A呪った B放蕩 Cレギーネ Dあれかこれか
主体的真理
@主体的真理 Aイデー B精神
実存の三段階
@美的実存 A倫理的実存 B宗教的実存 Cあれもこれも D神から離れていること 
E質的弁証法 E単独者(番号誤植) G死に至る病 H絶望 
ニーチェ 
アポロンとディオニソス

@ニーチェ A悲劇の誕生 Bアポロン的なもの Cディオニソス的なもの
超人への橋梁
@超人 Aツァラトゥストラはかく語りき B過渡 C没落
神は死んだ!人間が神を殺したのだ。
@ルサンチマン A神は死んだ! B要請的無神論 
能動的ニヒリズム
@力への意志 Aニヒリズム B能動的ニヒリズム C普遍妥当的価値 D理性 
E価値相対主義
永劫回帰
@永劫回帰 A運命愛amor fati B超人の資格 
精神の三態変化
@ラクダ⇒獅子⇒幼児 Aラクダ B獅子 C幼児 
ヤスパース
機械と大衆の時代

@戦争と革命 A独占資本主義 B帝国主義 Cヤスパース Dハイデッガー Eサルトル F現代の精神的状況 G機械と大衆 H画一的 H画一化 I手段化
限界状況
@限界状況 A壁 B死・苦しみ・罪責・争い C絶望・決断・回生 D超越者(神) E娯楽や流行  F個性的で単独的 G愛しながらの戦い H実存的交わり
包括者
@包括者 A世界 B現存在・意識一般・精神・実存 C意識された存在 D見るものと見られるもの E現に・今・ここに有る F精神 G限界状況 H実存
マルティン・ハイデッガー
世界・内・存在

@ハイデッガー A存在と時間 B現象学 C現存在 D主体的に決断する 
E世界・内・存在 F用在 G役割 H 世人(das Mann)  I頽落
死の先駆的決意性 
@時間 A有限者 B死の先駆的決意性 C汝自身を知れ D死すべき運命 E有限性 F一回限り G主体的に決断 
存在者と存在の区別
@存在者 A存在 B現存在 C歴史的運命 D存在の明るみに立つ E実存の苦悩 
ジャン・ポール・サルトル
実存が本質に先立つ
@サルトル A存在と無 B存在 Cコギト(我思う=自我)D意識 E無 F意識存在 G実存主義とは何か Hヒューマニズム I本質 J実存が本質に先立つ K自由意志 
L存在被拘束的 M自由の刑に処せられている  N事物化 O嘔吐 P状況変革
アンガージュマン
@状況変革 A主体 B主観・客観的に C現象学的 Dアンガージュマン E人類に対する責任 Fぺ一パ一・ナイフ G本質が実存に先立つ H自由な意識 I神の奴隷 J神の非存在 K要請的無神論
 

 プラグマティズム

パース

 1確信に至る「四つの方法」
 
思い込み権威や理屈の巧みさは頼るべからず科学にしかずや
 

太郎:マルクス主義、実存主義ときたら次は@(       )ですね。これはアメリカ合衆国で起こったので、フロンティア精神と関係があるのですか。 

花子:それはおおありでしょう。フロンティア精神の旺盛なアメリカ合衆国では,近代社会の諸矛盾に取り組む姿勢は実用的で合理的でしたからね。個々の社会矛盾を解決可能問題として立てて、その課題を最も効果的に解決する手段を求めたのです。 

先生:カントは,道徳的な動機に基づくA(         )な態度を、効果を重視するB(           )な態度より尊重しました。これに対してC(     )(18391914)は、道徳的な動機など確かめようがないので、科学的に論じても仕方がないと考えました。それにひきかえ、どのようなD(  )をとればどのようなE(  )があるかは、実証的に論じることができるので、科学的に有意味だとしたのです。それで自らの立場を「@(           )」としました。 

太郎:それじゃあ、イギリス功利主義の延長上にとらえていいのですね。 

花子:C(     )自身は利己主義的な利益追求主義に見える功利主義には反発していたのでしょう。あくまでも科学的な意味でD(  )とE(  )の関係を探求していたらしいですよ。

先生:ええ、それは言えますね。でも思想的な流れとしては、やはり功利主義のアメリカ版でしょう。彼は疑いや迷いから確信に至るには次の「四つの方法」があるとしました。 

(1)「F(      )」−個人の願望や恣意が信念確定の決め手になります。人間はだれしも死にたくないと思っています。でもかつて何百億の人類も全て死にました。それでも永遠の生命を信じようとすれば、たとえいったん死んでも、また甦ったり、輪廻転生を繰り返すと考えたり、死後の世界が存在すると信じ込もうとします。

(2)「G(       )」−権威に対する忠誠が信念確定の決め手になります。ベーコンの「劇場のイドラ」はこれにあたります。権威がカリスマ性を帯びたり、それを信じないと権力的に抑圧されるような体制になっていますと、自分の安全の為に信じておくことになります。

(3)「H(       )」一形而上学的な方法です。頭の中だけで論理一貫した理論を組み立てて,それを基準に現実を評価し,断罪する方法です。確かに論理的には欠陥がなく、正しく思われますが、実は実験・観察等できちんと検証されていない「机上の空論.」です。これは筋が通っていることが信念確定の決め手となっています。

(4)「I(       )」一同一条件の下では同一の結果に到達せざるを得ない科学的実験に基づく方法です。主観の認識が客観的な事物の諸性質と一致していることが信念確定の決め手なのです。パースが主張したのもこの方法です。


太郎:へえー、このパ一スの「確信に至る四つの方法」は,べ一コンの「四つのイドラ」,即ち@種族のイドラ.A洞窟のイドラ.B市場のイドラ一C劇場のイドラと対比させて覚えておくと便利ですね。
 

@(    )〜I(     )に当てはまる語句を次から選択しなさい。
プラグマーティッシュ(実用的) 権威の方法  効果 プラグマティズム  行動   先天的方法  プラクティッシュ(実践的) 科学的方法  パース   固執の方法   

                    
2プラグマティズムの格率

   パン食ひて肉の味がせぬのならパンを肉とは言わまじものを

花子:パースはプラグマティズムをどう定義していたのですか。 

先生:「観念を明晰にする方法」という論文ではつぎのような
「@(        )」を示しています。太郎君読んでください。
 

太郎:「あるA(  )の概念を明晰に捉えようとするならば、そのA(  )がどんなB(  )を、しかも行動と関係があるかもしれないと考えられるようなB(  )を及ぼすと考えられるか、ということを考察してみよ。そうすればこうしたB(  )についての概念は、そのA(  )についての概念と一致する。」 

先生:この説明でキリスト教の聖餐式をたとえに使っているのです。聖餐式(せいさんしき)はキリスト教会で,キリストの肉であるC(  )とキリストの血である葡萄酒をいただく儀式です。キリストの肉体であるとされる教会の中での,キリストと信徒の合一の儀式なのです。しかしC(  )は味、形、色、舌触り、諸成分、その他どれをとってもキリストの肉とは思えません。葡萄酒も同様です。C(  )の味,,,舌触り,諸成分をなしていれば、だれもがこれはC(  )であり、キリストの肉ではないと分かる筈です。C(  )だと分かっていながら、無理にキリストの肉だと言い張るのは間違いです。ですからパースの場合は、D(       )との一致が真理なのです。C(  )をキリストの肉と見なして扱っておけば,宗教的儀式には都合がよいからという実用的B(  )だけから、「C(  )=キリストの肉」を真理と見なすような乱暴な事は決してしません。 

花子:それじゃあキリスト教にとっては実用主義的ではありませんね。プラグマティズムといえば、何かD(       )や真理は棚上げにして、実用的であれば良いみたいな考え方のように思っていたのですが。 

先生:その意味ではパースの場合は、科学的実験に基づきますから、ベーコンに近いですね。 ある概念例えば「猫」という概念の対象について様々な特徴が報告されますが、それらを観察や実験を通して確かめます。このようにテストによって真偽が確かめうる概念だけが有意味な概念なのです。この共同の確かめによって人々の「猫」についてのE(          )が、描という概念の意昧なのです。 この方法で人間という概念を確定しますと、人間はF(  )活動の連続であり、F(  )は
G(  )に他ならないから、「人間はG(  )である」ことになりました。人間とは事物が他の事物を指し示す、H(         )のことだというわけです。
 

太郎:それは独特の人間論ですね。 

先生:人間を身体的な枠内にとどめないで、事物の性質として捉え返しているわけですから、人間観におけるI(         )ですね。 

@(    )〜I(     )に当てはまる語句を次から選択しなさい。
事物の知的性質  客観的実在  効果  思考 コペルニクス的転換  
一致した観念の総和  記号  パン  プラグマティズムの格率  対象

               ジェームズ

                            3.根本的経験論

対象が事物と観念(ものとおもひ)に分かれたるそれ以前なる生そのまんまかな

太郎:「プラグマティズムの旗手」と呼ばれたのが@(    )(18421910)ですね。彼は著書
『A(         )』で「主観・客観の認識図式」を克服し、絶えず流動する意識の流れを「B(    )」と呼んだということですが、B(    )てどんな経験でしょう。
 

先生: C(       )に分かれる前の生の経験ですね。C(        )はB(    )を主観・客観の認識図式からD(        )したものに過ぎないとしたのです。 

花子:そういう経験では認識内容と客観的事実が一致するのが真理だというパースの
E(            )が通用しませんね。
 

先生:そうですね、既成の真理観を覆したので、@(    )の経験論は
F(           )と呼ばれます。パースはジェームズがプラグマティズムなら,自分はもはやプラグマティズムではなくて、G(          )だ主張しました。それがややこしければ自分の立場をパース主義と呼ぶようにと言ったのです。

太郎:なるほどそれで真理は主観の判断と客観的事実の一致ではなくて、
「H(         )。」とされたのですね。
 

先生:ええ、要するに概念や理論がそれを使って行う人間の行動に、有効に役立っておれぱ、それだけ真理性があるという立場なのです。『I(         )』では、神を信じる事による安心立命から神への信仰は有用であり、その限りで真理であるとされているのです。撤底的に経験に即するF(            )に立つなら、客観的実存としての神は倒錯的な存在で,あくまで神も宗教的な経験としてしか存在できない筈です。

@(    )〜I(     )に当てはまる語句を次から選択しなさい。
真理は有用性にあり  純粋経験  ジェームズ プラグマティシズム
根本的(ラディカル)経験論   宗教経験の諸様相   反省的に解釈
プラグマティズム   事物と観念   科学の方法

                                          4道具主義的理性

セオリーも所詮は道具にあらざるや真理の不変に囚わるるはたれ 

太郎:プラグマティズムの大成者は@(    )(18591952)ですね。彼は1919年に来日して講演したそうですね。そのときの講演をまとめたのが『A(     )』(1920)でしょう。どういう主旨だったのですが。 

先生:彼は、 B(             )は問題解決のための仮説であり,「C(   )」であると捉えたのです。B(                )が妥当で価値があるかどうかは、C(    )としての有用性にあるのだと説いたのです。そこで彼のこの立場をD(      )と言います。  

花子:なるほど、私たちが今日ぶつかっている問題の解決に何の役にも立たないようなC(    )として古くなったB(                )はもう必要ないというわけですね。ところが真理は不変だと思い込んでいるので、なかなか現実に即して,
B(                )を組み換え発展させることができません。それではいけないということですね。
 

太郎:確かにマルクス主義者や実存主義にすれば、真理は自己のアイデンティティにかけて守り抜き、実現すべき目的なので、それを C(    )として捉えるのは冒涜と写ったでしょうね。 

先生:ええ、マルクス主義者は革命的な生き方こそが目的で、実存主義者は主体性こそが問題ですからね。理論の有効性は二の次になりがちだったのです。ただ理論が
C(    )になってしまうと、効率性や便宜性が自己目的になって、目的のためには何をしても良いことにならないかという批判も生じます。
 

花子:でもそれは水掛け論でしょう。だってマルクス主義者こそ革命という目的のためなら暴力や戦争を選択するわけですし、実存主義者の主体的決断というのも、恐ろしいことを主体的に決断しかねないですからね。 

太郎:全くその通りですね。結局理論の有効性や合理性は、マルクス主義や実存主義も追求せざるを得ないわけですから、だれもが多少なりともプラグマティストたらざるを得ないといえますね。 

先生:それは同感です。彼は知性の役割について『E(            )』で興味深い分析を示しています、既成の習慣が円滑に機能して、人々がそれに対して上手く適応できている時には、F(          )を用いる必要はないのです。しかし障害にぶつかった際には、環境との安定した関係を回復しようとする衝動が現れます。これに刺激されて、知性は過去を振り返り、未来を展望して新しい条件のもとでの新しい習慣を作り出そうとします。この主体が「F(           )」なのです。
「G(                                     )」という活動によって「H(      )」が創造されるのです。そしてこのH(      )の絶えざる成長こそが「I(   )」なのです。
 

@(    )〜I(     )に当てはまる語句を次から選択しなさい。
習慣⇒衝動⇒知性⇒新しい習慣  道具主義(instrumentalism)  哲学の改造 
人間性と行為   善 知識・概念・理論   創造的知性   道具   人間性  
ジョン・デューイ

                        5民主主義と学校

           学校は知識詰め込む場にあらで共に学べや地域の問題 

太郎:デューイは@(    )をプラグマティズムの立場から基礎付けたのでしょう。 

先生:彼は「A(                    )」のどれもが個々の行為を導く生活の道具であり,何が善であるかは人により時により異なるのだという
「B(        )」の立場を表明しました。
 

花子:それからC(        )は社会改造の為のD(      )と協カを通して行われるものだとしましたね。  

先生:ええ、彼のE(            )の立場は、ソ連のマカレンコの教育学とお互いに影響しあったようです。彼はF(    )を、社会の構成員全員が成長するために協力し合って、科学的に問題を解決する事だと捉えました。自由と平等だけでなく、
G(            )の原理が重視されます。
 

太郎:デューイは、民主主義社会ではH(                      )自身が教育過程だと捉えています。ですから教育は問題を整理・系統付け,その解決方法を探究させ,その過程で知識と道徳を体得させるものですね。 

先生:ええ、学校は,I(            )の場であり,決して暗記と試験によって受動的に学習する場ではないのです。このようにデューイは民主主義社会の形成の為の進歩的な教育思想を打ち出し,第2次大戦後の日本のJ        )に多大な影響を与えたのです。  

@(    )〜J(     )に当てはまる語句を次から選択しなさい。
人間性を創造する過程   徳・快楽・幸福・人格の完成   教育の民主化  
価値多元論   寛容と同情   集団的な問題学習   民主主義の倫理  
民主主義の原理    集団主義教育    人間性の成長   集団的な実践

 

穴埋め解答

プラグマティズム
1確信に至る「四つの方法」

@プラグマティズム  Aプラクティッシュ(実践的) Bプラグマーティッシュ(実用的)  Cパース D行動 E効果 F固執の方法  G権威の方法 H先天的方法 I科学的方法

2プラグマティズムの格率
@プラグマティズムの格率 A対象 B効果 Cパン D客観的実在 
E一致した観念の総和  F思考  G記号  H事物の知的性質 
Iコペルニクス的転換

3.根本的経験論
@ジェームス  Aプラグマティズム B純粋経験  C事物と観念 D反省的に解釈  E科学の方法  F根本的(ラディカル)経験論  Gプラグマティシズム  
H真理は有用性にあり  I宗教経験の諸様相

4道具主義的理性
@ジョン・デューイ   A哲学の改造  B知識・概念・理論  C道具  
D道具主義(instrumentalism)  E人間性と行為  F創造的知性  
G習慣⇒衝動⇒知性⇒新しい習慣   H人間性  I善

5民主主義と学校
@民主主義の倫理  A徳・快楽・幸福・人格の完成  B価値多元論  
C人間性の成長   D集団的な実践  E集団主義教育  F民主主義の原理  
G寛容と同情  H人間性を創造する過程  I集団的な問題学習  J教育の民主化

 

 

 

 




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