やすいゆたかのくすのき塾講演集

                                2007年3月19日

       聖徳太子は架空の人か

 

1イエスは実在したか。
 ローマにもユダヤにもなしイエスなる受難を受けし男の証は

聖徳太子は架空ではないかという議論が流行していますが、19世紀に西洋で「イエス・キリストは実在したか?」という議論が流行したのです。といいますのが、ローマ帝国のイエスの処刑の記録はありませんし、ユダヤ教の記録の中に最高法院でイエスの死刑を決めた等のイエスの存在を明確にする資料がないのです。

イエスが架空の聖人だとしますと、インチキ宗教のために、嘘で固めた福音書を偽造した人々を含め、たくさんの人々が殉教をおそれず、布教したことになりますので、そりゃあないだろうということで、次第にイエス架空説は下火になりました。

たしかにイエスが架空の人物だった可能性は皆無ではありません。とはいえ実在の可能性を完全否定するのも無理ですね。反キリスト者なら、架空の可能性を強調するかもしれません。インチキ宗教と決め付けるために。特にユダヤ人ならユダヤ人によるイエス殺害を否定のためにイエス架空説を唱えるのは分かります。

反対に、キリスト教徒なら、現存する資料から再構成してイエスの実在を主張するでしょう。イエスの実在を信仰しないで、クリスチャンであることは維持できませんから。

第三者ならどうでしょう。イエスの十字架上の死と幻想的復活体験はあっただろうと思うでしょうね。でもさまざまなエクソシズム(悪霊退散)の奇跡や事実としての復活には懐疑的でしょう。

でもイエスが実在したかどうかは事実問題です。実在か虚構かのどちらかですね。両方でありうるとは考えられません。その意味で歴史研究者は客観的実在は存在するという歴史学的唯物論に立たざるをえません。
 同時に歴史研究者は自らの歴史観から資料を再構成して歴史像を構築するしか歴史の説明ができませんので、歴史学的観念論の立場もとらざるを得ないのです。「聖徳太子は実在したか?」を考える場合も同じことですね。

2.聖徳太子架空説の諸説
 蘇我氏の王朝ありきそのことを消さむと造作絵空の君や

1992年に石渡信一郎著『聖徳太子はいなかった』(三一新書)が出て、衝撃を与えました。

彼は蘇我馬子は大王だったという蘇我王朝説だったので、用明天皇は架空の人物で、したがって厩戸皇子も存在しなかったというわけです。彼の説では、昆支―欽明―敏達―馬子―蝦夷―入鹿と大王位は継承されたのですが、蘇我王朝の存在を否定するために『日本書紀』の編纂にあたって、安閑・宣化・崇峻・推古・舒明・皇極という架空の天皇をつくりだしたとしています。

 そういうことがいえるのは、7世紀までは同時代の文字史料がほとんど残っていないので、これらの大王が『日本書紀』の創作でないという確たる証拠はないわけです。

古田武彦の九州王朝説からも聖徳太子架空説が言われます。『隋書』の「日出ずる処の天子」は男王ですね。倭王は姓は「阿毎」、字は「多利思比孤」と名乗ったということです。「ヒコ」は男王です。女王なら「ヒメ」ですから。それで推古女帝に当てはまらないから架空だというわけです。これに対して、女性が大王というのは中国では野蛮だと思われるので、男だということにしたとか、裴世清608年に大王に挨拶したときには相手は男王だったわけですから、皆で騙したことになります。渡来人がたくさんいたわけですから、そんなごまかしがきいたのかどうかは怪しいですね。ちなみに古田説では上宮法皇は天皇でなければならないから、九州王朝の皇帝であり、大和朝廷の太子ではありえないとして、別人説をとっています。

オーソドックスな歴史学界内部から架空説を打ち出したのが大山誠一『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー651999年)です。大山説の特色は厩戸皇子は実在したが、聖徳太子説話は架空だというものです。この発想、実は津田左右吉の実証史学の伝統を踏まえたもので、聖徳太子関係の太子の業績についての史料に信憑性がないので、厩戸皇子は実在したけれど、聖徳太子といわれるほどの人物ではなかったというのです。つまり聖徳太子伝説のほとんどは後世の太子信仰によって捏造されたものだという解釈ですね。その意味では戦後史学の直木孝次郎らの説に近いわけです。

「一般に、『古事記』『日本書紀』に関してであるが、継体朝以後の系図の信憑性は高く、いわんや、天智・天武の一、二代前の人物の実在自体を疑う必要はないであろう」(7頁)

この大山の考えに対しては、聖徳説話が造作があるなら、系図に造作がないとは言い切れないのではという疑問も生じますから、何故後世評判の悪い蘇我系の人物を聖人化したのかという疑問も生じます。

3『憲法十七条』は厩戸皇子の作か?
 明けぬれば弟に代わりぬ兄王は四六駢儷いかで綴らむ

大山は、廐戸皇子が、蘇我系の有力王族であり、法隆寺や斑鳩宮を建立したことを認めているわけですが、それでは廐戸皇子は『憲法十七条』を作ったのかというと、それは到底無理だというのです。つまり廐戸皇子が儒教・法家・仏教を深く理解していないと書けないと思われる『憲法十七条』を書くのは無理だったというわけですね。

『日本書紀』には高句麗の慧慈や百済から慧聡などの高僧を招いて、太子に英才教育を施したとあります。大山によると慧慈・慧聡は名前からして対になっていて、いかにも慈悲深く、聡明な渡来僧に教わったということで作り話だろうというのです。つまり架空の人物だということですね。架空の人物でない証拠はだせませんが、僧名としてはいかにもありそうな名前なので、対になっているからといって実在しなかったとは言い切れないですね。

当時は梁の武帝を筆頭に百済の聖明王など、東アジアでは皇帝が深く仏教に帰依して、菩薩となり、その徳で国をまとめ、治めるというやり方が善しとされていたわけです。何分仏教は難しい学問でもありましたから、推古女帝が菩薩になるわけにもいかず、その代わりに摂政の厩戸皇子を菩薩太子に養成するというのは国家的な要請ではなかったかと思われます。

高句麗・新羅・百済の朝鮮三国の側にも半島での覇権争いがあり、倭国を後ろ盾にするために倭国に文化輸出によって接近せざるをえない事情があったと考えられます。それで高僧を菩薩太子の家庭教師役に送り込んだことは十分考えられるのです。梅原猛『聖徳太子』はそのことを強調しています。

『憲法十七条』は四六駢儷体の文章で儒家・法家・仏教の思想の精華が盛られている素晴らしい文章です。梅原の分析では「思想の五重塔」の構造になっています。大山によると夜が明ける前に兄である天が祭りごとをし、夜が明けると弟の日が政をするような国だと遣隋使が報告したので、隋の皇帝はあきれてしまったということです、『隋書』にそうあるわけですが、そんな文化レベルの国がどうして『憲法十七条』のような、最高水準の文章を書けるのだ、そんな筈はないだろうということです。

でも『憲法十七条』は衆知を集めて造られたものであり、廐戸皇子の一人の創作ではないのです。そのことは条文からも分かります。

「十七に曰く、それ事はひとり断むべからず。かならず衆とともに論うべし。少事はこれ軽し、かならずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮びては、もしは失あらんことを疑う。ゆえに衆と相弁うるときは、辞すなわち理を得ん。」

廐戸皇子は、その編集責任者なのですが、渡来僧を中心に法興寺(飛鳥寺)で豪族の選りすぐりの子弟を英才教育しながら作成していったのでしょう。慧慈・慧聡らも大いに智恵を貸したと考えれば書けないと決め付けるのはどうでしょう。

また第十二条に「国司」の語が見えるので、大山は、津田左右吉『日本古典の研究』を参照して推古朝には「国司」がないので、大宝律令が出た七〇一年以降に書かれたとしています。「国司」は、律令制の前の段階で国から地方に派遣されていた役人であった可能性があるという説もあります。

『日本書紀』に収録するにあたって、八世紀の律令国家での役人の心得になるように『憲法十七条』に大幅に手を加えた可能性はあるかもしれませんね。でも和を強調して天皇中心の国家をつくろうとした骨子は厩戸皇子が摂政だった頃に出来ていたと考えるのはあまり無理はないのではないでしょうか。思想内容の解説は次回に回します。
 

4.廐戸皇子が『三経義疏』を書いたのか?
 尊きは智の教へぞ法華義疏隋に送りし僧学ばずや

   

聖徳太子が実在した証拠として『法華義疏』が遺っています。これは廐戸皇子の直筆だとされているものです。ところがこれも怪しいのです。『法隆寺伽藍縁起竝流記資財帳(法隆寺資財帳)』によれば天平十九(七四七)年になって突然出現したのです。「上宮聖徳法王御製」と記され、『法華義疏』に貼付された紙には「此れは是れ大委国上宮王の私集にして、海彼の本に非ず(此是大委国上宮王私集非海彼本)」と書かれてありました。

大山は、「いつ貼付された紙かわからないので、とてもそれだけで聖徳太子の著作と信じる勇気は、すくなくとも私にはない」としています。『日本書紀』には『勝鬘経』『維摩経』『法華経』について講経を行ったという記述があります。だからその講義用にノートである「義疏」を作ったと想像されますね。そこで奈良時代になってから誰が書いたか分からない義疏を入手して誰かが法隆寺に売り込んだ可能性があるのです。大山は行信だろうと述べています。

古田武彦によれば、『法華義疏』には隋の時代に大活躍した天台智の所説が取り入れられていないから、これが真筆なら何のための遣隋使だったか分からないとしています。私もこの古田説はかなり説得力があると思っていましたが、天台智の教説が書物にまとめられたのは、死後だいぶ経ってかららしいので、留学僧たちは耳学問は苦手で古い文章化された教説しか伝えられなかったのかもしれませんね。

梅原猛は天才的な直観と稚拙な誤解が混ざっているところが太子らしいという理由で真筆としていますが、若き留学僧なら、だれにでも見受けられることかもしれません。

それから聖徳太子が天台智の師匠である南岳慧思の後身とされたのは、天台智の教説が『法華義疏』に含まれていない口実に考え出したのかもしれません。それに天台智『法華義疏』に含まれていないの教説が『法華義疏』に含まれていないのら、智の教説を学んでいたとした場合、『法華義疏』が廐戸皇子の真筆でない方が、むしろ聖徳太子実在論にとっては都合がよいことになります。太子の仏教思想については次回にその意義を説明したいと思います

5.法隆寺釈迦三尊像光背銘文は後世の偽作か?

 蘇我氏の栄へ伝ふる法興の元号などて偽作に記せし


法隆寺金堂釈迦三尊像(『聖徳太子論争』市民の古代別巻1)

法隆寺の釈迦三尊像光背銘には、母間人皇后を「鬼前太后」と表記したり、妻の膳部妃を「干食王后」したりしています。首を傾げざるを得ないところがあるのです。もっとも大山によると「鬼前太后」ではなく、「鬼」を暦に組み込み「十二月鬼、前太后」という解読ができるそうです。ちなみに「十二月鬼」とは十二月の鬼の日で、28日のうち第23番目の吉日です。でも『上宮聖徳法王帝説』は「鬼前」を「神前」ととります。

薬師如来像光背銘には、用明天皇が病気になった折、炊屋姫と廐戸皇子を自分の病床に召して、寺を造って薬師像を作くりたいと頼んだけれど、亡くなったので、推古朝になって607年に完成したことが書いてあります。大山が問題にするのは「天皇」「東宮」の語があることです。

「天皇」や「東宮」の言葉は、飛鳥浄御原令によってであり、七世紀末だというのが大山だけでなく、現在の通説です。でも「東宮」が「皇太子」を意味するのは何故でしょう。それは実は廐戸皇子が推古天皇がいた豊浦宮から見て東にあたる、用明天皇がいた池辺宮の南の上宮に住んでいたからではないでしょうか。聖徳太子が皇太子の理想像みたいになったので、聖徳太子を意味した「東宮」が皇太子の意味になったかもしれません。

では問題の釈迦三尊像の光背銘文を引用しておきます。

「法興の元三十一年歳次辛巳十二月鬼前大后崩りましぬ。明年正月廿日、上宮法皇枕病してもやもやもあらず。干食王后仍りて以って労疾し、並びに床に著きましぬ。時に王后王子等及び諸臣と、深く愁毒を懐き、共に相発願し、仰ぎて三宝に依り、まさに釈像尺寸王身なるを造る。此の願力を蒙りて、病を転じ寿を延べ、世間に安住したまわん。若し是れ定業にして以って世に背かば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇りたまわんことを。二月廿一日癸酉王后即世、翌日法皇登遐す。癸未の年三月中、願の如く敬しみて釈迦の尊像并びに侍、及び荘厳具を造ること竟ぬ。司馬鞍首止利仏師をして造らしむ」(原文漢文)

大化以前の年号がありますね。「法興」です。これは法興寺の建立が始まった588年が「法興」の元年になっているわけです。大化が最初の年号だというのは、蘇我氏の実質的な支配下にあった法興年号を反蘇我氏の時代になって否定したからだとも解釈できます。ということは、「法興」という年号があるのは、645年以降の偽作でない証拠になりますね。偽作なら「法興」年号は書かないはずです。

「天皇」号があるから「法皇」もあるとすれば、「天皇」号が成立したのが、天武天皇以降なら偽作になります。ただ三経の講経によって廐戸皇子は、法の皇と認められたという解釈も可能かもしれません。

大山は天武15年初出の「知識」と、天平6年初出の「仏師」の語が使われていることに疑念を抱いています。しかし、この時代の文字史料は極めて少ないので、他に使用例がないということは、現在のこっていないということを意味するだけで、それ以前に使われなかったことを断定するのは無理です。

病気平癒を祈りながら、もし宿業で亡くなられるのなら、早く浄土に登らせたまえとお祈りしています。よほど重い病と見えたのでしょうが、まだ亡くなっていないのに縁起でもない、こんな文章を書くはずはないとも思われます。それで梅原猛は『隠された十字架』では、後世の偽作説をとっていました。でも、『聖徳太子』では一転して後世の偽作説を引っ込めているのです。つまりこの不自然さの中に一族の廐戸皇子と膳部夫人に対する愛情の深さが感じられるからです。逆にいえば、これが後世の偽作なら、そんな縁起でもないような文章をわざわざ書く筈がないとも受け取れるのです。

6天寿国繍帳も後世の偽作か?
 天寿国天の向こうの国ならず阿弥陀浄土と違わぬものを

   

『天寿国繍帳』は、推古天皇の孫で廐戸皇子の正妻であったといわれる橘大郎女が作らせた刺繍です。廐戸皇子は膳部妃と一緒にくらし、彼女の死んだ二月廿一日の翌日に後を追うように亡くなったのです。それで橘大郎女は、とても悔しい思いをしていたわけです。

梅原の解釈では、死後登ることになっている天寿国というのは相当高貴でないと入れてもらえないらしいのです。つまり膳部妃は入れないが、天皇の孫である橘大郎女なら入れるから、あの世では皇子を独り占めにできることになるのです。こういう女性の哀しくまた切ない思い、狂おしい嫉妬心などがにじみ出ている文章を、聖徳太子の実在を証拠付けるために造作できるでしょうか、それは疑問だというのが梅原の読みですね。

ところがこの梅原の解釈にはNHKのテレビで特集があり、高句麗では「天寿国」は阿弥陀浄土の意味で使われていたらしいのです。とすれば七世紀初頭の倭国では別の意味であったという論証は難しいので、橘大郎女が死後太子を独占できると思っていたという解釈は説得力がありません。

大山はこの刺繍にも疑問を呈しています。天皇号の使用、和風諡号はこの刺繍以外には、現存するのでは『古事記』『日本書紀』しかないので、後世の偽作だというのです。ただし『隋書』には倭王は姓は「阿毎」、字は「多利思比孤」と名乗りましたね。これは諡ではありませんが、この「アメタリシヒコ」と同様の要領で諡を作ったと思われますから、推古朝に和風諡号があったとしても不自然ではないでしょう。

7廐戸皇子の崩日は?
 つま逝きぬ我も逝くべし天寿国その崩日は二つはあらで

『日本書紀』は621(推古29)年二月五日薨去とあります。ところが釈迦三尊像光背銘や天寿国繍帳、『上宮聖徳法王帝説』などの法隆寺系史料は、翌年622(推古30)年二月二十二日を崩日と明記しているわけです。古田武彦はこの食い違いを重大視して、廐戸皇子と上宮法皇を別人と解釈しています。

大山によると、『日本書紀』は法隆寺系史料を参照していませんので、『日本書紀』成立の時点では法隆寺系史料は存在していなかった筈であることになります。もし法隆寺に聖徳太子史料があったなら、『日本書紀』は聖徳太子を格別に重視し、神格化して取り上げているのですから、法隆寺を調査した上で書いた筈だからです。この点は大山説で最も説得力があるところです。

大山によると、『日本書紀』の聖徳太子伝の仏教的説話の部分を担当したのは道慈という留学僧だったようです。廐戸皇子は百年前になくなった上、子孫も死に絶えてしまったので、命日は伝わっていなかった。そこで道慈は、弥勒信仰で共通する聖徳太子の没日を玄奘三蔵法師の命日に合わせたというのです。もし廐戸皇子が聖徳太子といわれるほどの偉人ならきちんと崩日を調べたはずだというのです。

梅原は崩日については法隆寺系の二月二十二日が正しいとしています。『日本書紀』の編纂にあたっては法隆寺系史料を引用できなかったわけですね。何らかの事情で法隆寺に入れなかったのか、書紀編纂時に聖徳太子系史料が法隆寺になかったのかも知れません。そこが法隆寺系史料が後世の偽造と見なされやすい弱点でもあります。

 

8天皇号は何時から使用されたか?
 天皇と呼ばれし君の初めなる推古女帝か天武天皇

 

推古天皇

大山が法隆寺関係資料に信憑性を疑う最大の根拠「天皇」「法皇」「東宮」などの用語があることです。最近天皇号は天武朝以降に初めて使用されたはずだという説が有力になってきたのです。つまり推古朝の文字史料自体が極めて少ないわけで、「天皇」などの語は法隆寺関係資料以外にはないわけです。しかしそれ以外に例がないことがこれらの史料が偽造であることを決定づけるでしょうか。ただ言えるのはこれらの史料しかないということだけのはずですね。
 では何故天武朝になって天皇号の使用が開始されたといえるのでしょうか。その論拠は、中国で、唐の高宗の上元元年(674)に、君主の称号が一時「皇帝」から「天皇」に代わったことです。その情報が、天武朝(672686)に日本に伝わり、持統三年(689)に編纂された飛鳥浄御原令において正式に採用されたのではないかといわれているのです。最近(1998年)、奈良の飛鳥寺の近くの飛鳥池遺跡から「天皇」の語を記した木簡が出土しましたが、その年代は、天武・持統朝ということです。しかし中国の方が日本より先に天皇号を使用したということは言い切れません。
 「天皇」は、本来は、中国の伝統思想である道教において、宇宙の最高神とされた存在でした。熱心な道教信者であった高宗にいたって君主号を「天皇」とすることになったのです。天武天皇も道教には関心が深く「八色の姓」でも「真人」という道教の言葉を使っています。
 しかし日本でもすでに三世紀の三角縁神獣鏡に道教の絵や銘文があります。道教の最高神である天皇を日本の方が先に使っても不思議はないのです。特に推古朝では隋と対等外交をしたかったわけですが、同じ称号を使うのを憚って「天皇」号を使用したとも考えられます。
 天皇号が単なる模倣なら唐が天皇号をやめれば倭国もやめたはずですね。天が、『隋書』にある「阿毎(アメ)」の漢字にあたるとすれは、天は大王の姓か別称だったことになる。また「阿毎多利思比孤」は「アメタリシヒコ」と読むとすれば、「天として足りる男子」という意味になり「天子」に匹敵します。この天に王号をつけるさい、道教風に天皇としたとも考えられるわけです。そうだとすれば「天皇」号が倭国の方が先行したことになります。そうなら倭国は当初は唐に対しては天皇号は使わなかったでしょう、もし使っていれば、唐が倭のまねをすることになり、屈辱でしょうから。でも半島諸国に対して使っていたという可能性はありますね。
 
梅原説では、
「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙なきや」という言葉には隋に対する対等意識の目覚めが表現されているので、この時代に「日本」や「天皇」という用語が生まれたとしています。つまり聖徳太子が日本を作ったというわけです。

    

太子の母穴穂部間人(あなほべのはしひと)大后の眠る御廟に、太子と、前日に亡くなった妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)が合葬され三骨一廟となっています。神亀元年(724)聖武天皇の勅願で、太子御廟の東西に、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺とする、その規模6(660)四方に及ぶ大伽藍が建立されました。この墓も後世作られたという説もあります。

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