やすいゆたかのくすのき塾講演集
                                       

                                           2005731日 

                   持統天皇は怖い女か?

       

1持統天皇と天照大神
 日の神に己の想い託してや天孫降臨夢物語る

   香具山(持統天皇) 


 皇室典範では男子にのみ天皇位が継承されることになっていますが、現在天皇の孫に男子がいないので、女子にも皇位継承を認めようということになりかかっていました。ところがそれはまかりならん、天皇制が崩壊してしまうという議論がでてきました。過去にも女帝がいまして何の問題もないと思いますが、女帝というのはあくまで男系男子に引き継ぐまでの中継ぎだったというのです。それで天皇遺伝子説という珍説まで出てきまして、天皇遺伝子は男子しか引き継げないというのです。

 天皇遺伝子が仮に存在したとしても、それが別段優れた遺伝子であったわけでもなく、一般庶民の遺伝子以上にありがたいご利益があって、日本がそれで栄えたというなんの徴もみられません。現在天皇は神ではないのですから、そういう血統を神聖として崇拝し、保存しないと日本は大変なことになるという迷信に取り付かれる必要は全くありません。

 それより無理に男系男子にこだわりますと、室町時代まで遡って遠縁の遠縁を探し出してこなくてはなりません。その方が、象徴天皇家に対する違和感が国民に高まるのではないでしょうか。やはり国民統合の象徴なのですから、お世継ぎというのも、家族としての繫がりがある方がいいのです。それほど遠縁でない方が親しみが持てます。別に女の子が天皇になり、婿養子との間に子供をもうけて皇位継承してもいいわけで、なんの問題もありません。ちゃんと血もつながっているわけですから。

 それにそもそも、天皇の血統は神話まで遡りますと、天照大神が孫のニニギノミコト(
瓊瓊杵尊)に地上支配権を譲って天孫降臨させたという話から始まっています。つまり元は女神ですから女系ですね。このことを指摘した尊王的な学者が右翼から猛烈に反発されています。

 実は持統天皇と天照大神信仰は繫がりが深いのです。
物部氏の祖先神はニギハヤヒノミコトです。『先代旧事本紀』では、天照地照天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてる あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といいアメノオシホミミの子でニニギの兄であるアメノホアカリと同一の神であるとしています。実際に全国にある天照神社のほとんどがニギハヤヒ信仰です。その点からみても日の神を女神とする前に、男神とする信仰があったと考えるのは合理的です。

 六九二年、持統天皇は伊勢神宮に御幸しています。伊勢神宮の信仰は外宮の豊受大神の信仰でした。それは大地の作物を生み出す産土神だったのです。内宮の天照大御神の信仰は、この時に造られたと想像されます。伊勢の二見が浦からの日の出は、大変神々しいものでしょう。その日の神と持統天皇は自らを一体化させたのです。

 伊勢が天照大御神の国であることを持統天皇に教えたのは、実は夢に現れた天武天皇だったのです。次の持統天皇の歌を紹介しましょう。

 天皇崩りましし後八年九月九日、奉為の御齊會の夜、夢のうちに習ひ給ふ御歌一首

明日香の清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡きし波に 潮氣のみ 香れる國に 味こり あやにともしき 高照らす 日の皇子

どうして持統天皇は天照大神を自分と同一視しようとしたのか、梅原猛によりますと、それには二つの理由があります。高天原の神々の主神が女神だと、地上の支配者である天皇が女帝でも不自然じゃありませんね。それから彼女は孫の軽皇子に皇位を継承したかったので、祖母から孫への皇位継承がスムーズにいくようにということで、天孫降臨説話を作らせたということです。他の時期はともかく、少なくとも持統天皇は女系天皇でもいいじゃないかと考えていた節がありますね。
 

2.大津皇子の変
 才劣るわが子可愛やそのあまり秀でし皇子を謀りし愚母かは


   
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  さて今日は「持統天皇は怖い女か?」という題目でお話したいと思います。持統天皇、ご存知ですか?天武天皇の皇后だった人です。名前は鸕野讃良皇女です。天武天皇は672年の壬申の乱で天智天皇の息子大友皇子を倒して飛鳥浄御原宮で即位したのです。天智天皇が中大兄皇子(葛城皇子)で天武天皇は大海人皇子です。ご承知のように645年の乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿父子を倒したのは中大兄皇子と中臣鎌足が中心でしたね。その中大兄皇子こそ彼女の父なのです。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智媛です。

 持統天皇は自分の息子草壁皇子を皇位につけるためにライバルの大津皇子を抹殺したという、怖い女帝のイメージがありますね。わたしは持統天皇をそういう風に見るのは頷けません。それは当時同じ時期に則天武后が聖神大帝という中国で最初で最後の女帝になったので、彼女の強烈なイメージが投影しているのです。なにぶん大津皇子の変は、関係者が皆罪を問われずに大津皇子だけ死を賜ったということで、皇后が草壁皇子のライバルを排除した陰謀のようにみられがちです。

 だれかが皇后の気持ちを推察して、大津皇子を謀略にはめたことは大いにありえますが、そのことを、夫を亡くして落ち込んでいる皇后にわざわざ相談して行うでしょうか?相談したとしますと、その人は皇后から恐ろしい陰謀家と警戒されますね。わたしは皇后には言わずにやったと思います。

 それに皇后が陰謀の首謀者だとしますと、皇子たちから皇后は裏切り者とみなされますね。皇后が既に絶対権力を掌握していたのならともかく、当時は皇親政治の時代です。天皇が皇族を団結させて、要職につけ、朝廷を運営していたのです。つまり皇子たちが皇后を中心にまとまって政治を相談しあって運営していました。
 
  天武天皇は、679
天武天皇8年)吉野に行幸して、皇后、皇子たちに皇位継承争いを起こさないよう誓わせています。「異腹でも団結して朝廷に尽くす。」と先ず草壁皇子が唱え、他の皇子たちが復唱しました。天皇・皇后も「異腹でも同等に扱う」ことを盟約したのです。これを「吉野の盟約」といいます。この時草壁皇子がリードしたので、681年に立太子しました。大津皇子は皇后の姉大田皇女の皇子だったのですが、大田皇女は壬申の乱以前に夭折しています。年齢も草壁皇子の方が上でした。でも文武に優れていたので大津皇子も有力後継者だったわけです。

 しかし686年に天武天皇が亡くなって、草壁皇子は皇太子だったので24歳だし、すぐに即位しそうですが、どうも病弱というか腺病質、神経質で本人が即位を嫌がったようですね。仕方なしに皇后が称制といって、即位せずに政を行ったのです。その矢先ですね。大津皇子の変は、大津皇子は皇位継承が済む前にクーデターで政権を確立すれば、うまくいくかもしれないという賭けの気持ちがあって、謀略にはまったかもしれません。どうみても才覚が劣る草壁皇子に跪くのは真っ平だと思っていたかもしれません。

 その後、皇后による称制で皇子たちはまとまっていたと思われます。大津皇子が亡くなったので、すぐに草壁皇子か皇后が即位していますと、草壁皇子や皇后に大津皇子の変を陰で仕組んだという嫌疑がかけられて、皇子たちの心が離反したかもしれませんが、草壁皇子は病気で閉じこもり、皇后はみんなに支えられる形をとったので、かえって皇后は権力欲がないように見えたのではないでしょうか。

3.父中大兄皇子への愛憎    
 祖父・母の仇なるかな吾が父はその父のために吾身捧ぐや

                                                                   
           

 持統天皇を恐怖独裁の女帝のようにいう根拠に、幼児期の父への愛憎をあげる人がいます。当時は政略結婚というのが皇族や貴族たちの間では盛んだったようです。中大兄皇子は、645年の乙巳の変に備えて、蘇我氏分断のために蘇我倉石川麻呂に接近し、遠智媛と結婚したわけです。それで大田皇女、鸕野讃良皇女が生まれました。讃良皇女は645年に生まれたのです。

 石川麻呂は大化の改新で大活躍をし、右大臣まで出世しますが、649
4年足らずで異母弟蘇我臣日向(そがのおみひむか)の讒言により自殺に追い込まれたのです。石川麻呂は戦って死ぬより山田寺で自害することで身の潔白を示し、自らの名誉を守ろうとしました。『日本書紀』に彼の最後の言葉があります。

「それ人の臣たる者、いづくにぞ君に逆ふることを構へむ。いづくにぞ父に孝ふことを失はむ。おほよそ此の伽藍(てら)は元より自身(みづから)の故(ため)に造れるにあらず。天皇のおほみために誓ひて作れるなり。今我身刺(むざし)にしこぢられて、横(よこしま)に誅(ころ)されむことを恐る。いささかに望はくは、黄泉(よもつくに)にも尚忠(いさを)しきことを懐きてまからむ。寺にきつる所以は、終の時をやすからしめむとなり」「願はくは我、生生世世に君主を怨みじ」

 翌日326日には一族のもので殉死する者も多かったと言われます。山背大兄皇子の抗議の自殺を思い起こさせますね。もし戦って死ねば、やはり石川麻呂は反逆者だったのかと思われますが、自害して身の潔白を主張しますと、非は忠臣を信用せず、逆臣の讒言を信用した中大兄皇子にあることになります。中大兄皇子は石川麻呂を死に追いやったことを後悔します。

「追ひて悔い恥づることをなして、哀び歎くこと休み難し。」とあります。後悔先に立たずで、豪族たちの支持を失い、改革は進捗しないことになります。

 これがショックで遠智媛は「遂に心を傷るに因りて、死ぬるに致りぬ」とありますから、気がふれて死んだのでしょうね。自殺したということかもしれません。遠智媛は大田皇女と讃良皇女と建皇子の三人の子がいました。建皇子は母が気が触れたので精神的に発育せずに言葉がしゃべれないまま8歳で夭折したのです。建皇子を不憫に思った祖母の宝皇女(皇極天皇=斉明天皇)が引き取って育てたと言われています。『日本書紀』の斉明天皇の次の歌は夭折した建皇子を偲んでいるのです。

飛鳥河水漲ひつつ行く水の間(あいだ)も無くも思ほゆるかも
山越えて海渡るともおもしろき今城の中は忘らゆましじ

 石川麻呂の死は讃良皇女がまだ4歳ですから、祖父の死を歎き悲しんで母が気がふれ死んでいったことが、幼心に大きな傷となったことは想像がつきます。ただしそこから権力闘争とはそういうもので、権力を守るためには冷徹に邪魔者は消せるぐらいでないといけないということを幼児体験から学び取ったごとく解釈するのはどうでしょう。もちろんそういう人もいるでしょうが、一概に決め付けるのはどうかと思います。

 13歳で大海人皇子の妃になっているわけです。そして草壁皇子を産んだのは17歳です。姉大田皇女が大津皇子を産むより早かったのです。姉妹がともに政略結婚で中大兄皇子のために大海人皇子に嫁ぐということは蘇我倉山田氏がそれだけ中大兄皇子の支配下にあったことを意味しているのでしょうね。やはりたとえ石川麻呂という一族の長を殺されても、中大兄皇子の庇護のもとにしか生きられなかったということでしょう。蘇我氏と中大兄皇子とは複雑な愛憎関係にあったのです。大田皇女や讃良皇女は、中大兄皇子と大海人皇子の関係をとりもつと共に、蘇我氏の生き残りためにも、皇族と結婚して朝廷内に蘇我氏の血統を残す必要があったのです。

4.持統天皇と高市皇子
 御位に就かむとすれば恐ろしき闇の中より魔の手うごめく

       
 

         
                   
 

 

 

 

 

六八九年には草壁皇子は病没してしまいました。そこで皇位が天武天皇の他の遺児たちに継がれてしまうのを嫌がり、自ら天皇に即位したとみられています。草壁皇子の息子の軽皇子に皇位を継がせる為の中継ぎの天皇になったという解釈が有力です。

 当時高市皇子が草壁皇子亡き後、最有力の皇子なのです。それで後皇子尊と呼ばれていました。もし高市皇子が皇位を継承していれば、その次は高市皇子の子である長屋王に移っていくことになったでしょう。そうすれば持統天皇の孫の軽皇子への皇位継承はできなくなってしまいます。

 高市皇子はどうせ自分の方が、鸕野皇女より先に死ぬことはあるまいと考えたのでしょうね。それで太政大臣のポストで我慢することにしたようです。下手に御位に就こうとすると大津皇子のように謀略で殺されるかもしれないと思ったのです。それに高市皇子は、大津皇子事件で、義母の鸕野皇女をそれ程疑っていなかったのかもしれません。

 大津皇子が草壁皇子擁立派の大規模な謀略で非業の死に追いやられたことは、連座した連中がほとんど無罪になっていることから、賢明な高市皇子なら自明のことだったでしょう。次は我が身が危ないと警戒していたに違いありません。

 でもそれは謀略を仕組む悪臣がいて、その悪玉が皇后の知らないうちに事をすすめていたように見えるのです。それは何故でしょう、人はどうしても喜怒哀楽の表現、特に女の涙で騙されてしまいます。義母鸕野皇女は歴史に翻弄された気の毒な女性だという先入見が天武の皇子たちにはあったのでしょう。

 祖父と母を父に殺されたのも同然の鸕野皇女です。その父の要請で、大海人皇子に嫁いだ為に672年の壬申の乱では夫と共に逃げ回ったりしなければなりませんでした。また、弟を殺す側に身をおかなければならなかったわけです。その際、平然と弟の遺体を見て、勝ち誇った笑みを浮かべていたでしようか。内心は笑みを浮かべていたとしても、それでは夫も夫の皇子たちも恐ろしい女だと警戒するに違いありません。女に期待されているのは、家族が殺しあわなければならない歴史の運命悲劇の前に、泣き崩れる姿です。

 姉の大田皇女が亡くなった時も、これで大海人皇子の第一夫人に成れたと、内心はほくそえんでいたかもしれませんね。しかし表面では頼りの姉をなくして狼狽する哀れな妹を演じなければなりません。そうでなければ夫や皇子たちに恨まれてしまいます。

 鸕野皇女は皇后になり、天皇にまでなったので、いかにも気丈でいつも堂々としていたように受け取られがちですが、それは本質において仮にそうであったとしても、そのような素振りは微塵もみせなかったのではないでしょうか、「ああおいたわしや、義母上は悲しみに堪えて、重い荷を背負ってよくやっておられる」と心から慕われていたのでないか、そんな気がします。でないと皇子たちはみんなで団結して義母上を支えなければと思わないでしょう。

 ただし表面的な演技では、心まで届きませんよ。すぐに本性を見破られてしまうのです。だから鸕野皇女は、真情からそう感じるようにしたのじゃないでしょうか。それは意識的にやれるものではありませんね。無意識に自分を守ろうとする心の働きです。フロイトはこれを「自我防衛機制」と言います。それだからこそ彼女はある意味恐ろしい女なのです。

 それなら草壁皇子が病没した時点で、何故高市皇子に皇位を継がせなかったのかが謎になりますね。草壁皇子は天皇にはならなかったのですから、直系相続の原則では、高市皇子になって当然でしょう。おそらく高市皇子は、大津皇子事件が引っかかっていて、身の危険を感じていたと思われます。鸕野皇女には高市皇子の即位に反対する理由は表向きは、何もなかったのです。

 もちろん内心は草壁皇子に継がせられなかったのが残念でたまらず、草壁皇子の死で皇位がころがりこんで喜ぶであろう高市皇子が憎くて堪らなかったかもしれません。殺したいくらい憎かったかもしれませんね。あるいは自分が天皇になる絶好の機会だと思っていたかもしれません。しかしそんな素振りを見せれば、かえって逆効果で、持統天皇は実現しなかったでしょう。

 鸕野皇女は、真剣に高市皇子に皇位を継いでくれるように頼んだと仮定してみてください。しかし高市皇子はそれを固辞したのです。正体の分らない陰謀団から脅かされ、身の危険を感じていたこともあります。また中大兄皇子のように皇位を継がないで、実権を振るっているほうが改革政治はやりやすいという気持もあったのでしょう。そのことを正直に皇后に告げた。そして「もし許されるなら、私は太政大臣として思う存分実力を示し、父の皇親政治の理想を実践したいのです」と申し出たのです。自分の父中大兄皇子を手本にしたいと言われれば、父を憎みながらも、その決断力、行動力には憧れていたファーザー・コンプレックスの鸕野皇女は、それ以上反対できなかったのではないかとわたしは推理しています。

 「それでは私が天皇になって高市皇子が存分に腕を振るえるように協力しましょう」ということになりました。「その代わり次の皇位は必ず継いでくださいよ」と念を押すことは忘れなかったのです。高市皇子は、「そのお言葉は身に余る光栄ですが、二人だけの話にしておきましょう。臣下である太政大臣が皇太子では格好がつきません」といなして立太子はしなかったのです。しかし後皇子尊と呼ばれていたのですから、実質的な皇太子のようなものでありました。もしここで立太子をしようと動けば、大津皇子を葬った連中が動いて、高市皇子も闇に葬られたかもしれません。それは皇后の心の奥底にある高市皇子への憎悪を代行しようとする、闇の権力者が動くからです。

 

5.不改常典(あらたむまじきつねののり)
 親が子に御位継ぐはよけれども兄弟相続乱の因かは

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   父の本当の理想は安定した律令国家体制でした。その場合皇位継承は、原則的には、皇后の長子への直系相続でなければなりません。何故なら兄弟相続なら、だれが後を継ぐかで兄弟が争い、それが派閥や党派の争いと結びついて国が乱れてしまうからです。しかし大海人皇子は、大和や東海の豪族たちと強く結びついていて、侮りがたいものがありました。だから天智天皇は即位したときも、次は大海人皇子だと公言していたのです。

 大海人皇子は、兄の理想が分っていましたから、兄の息子の大友皇子に皇位継承権を譲って、吉野に引きこもったのです。ところが大友皇子は大海人皇子が恐ろしいから、つい吉野を攻めてしまいました。その時点で大海人皇子は大友皇子を討つ名目ができたのです。おそらく大海人皇子は、そのことを鸕野皇女に語っていたと思われます。

 「律令国家では直系相続が理想で、兄弟相続を続けてはいけないのだ。だから私は、その考えに基づいて吉野に引いたのだ。ところが大友皇子は、そのことを幾ら言っても信用してくれないのだ。この道理が分らないようでは、大友皇子では理想の律令国家はできない。だから私が討たれてやるわけにはいかないのだ」と言って、正当防衛権を行使して、大友皇子を討伐したと推理できます。もっとも天智天皇が病死ではなく、
なお『扶桑略記』には「一云」として、山科に行幸した際山林に入ったまま還御せず、崩所を知らず、とあるので、謀殺された可能性もありますが。それなら話は別ですね。

 鸕野皇女が皇后の長子への直系相続にこだわり、この原則を元明・元正の両女帝が「不改常典(あらたむまじきつねののり)」と強調したのも、それが「壬申の乱」の精神だったからなのです。一見、壬申の乱は直系相続を否定して兄弟相続にしたように見えますね。もしそうなら持統天皇は天武天皇を裏切り、父天智天皇の仇をとったことになります。でもそれでは決して天武の皇子たちの理解を得られないことになるでしょう。

 それでは直系相続を守るために適当な継承者がいない場合、あるいは幼少の場合中継ぎで女帝を立てるのは、不改常典から言っていいでしょうか。それは不改常典についての当事者の受け止め方次第でしょうね。

 大海人皇子は兄弟相続は争いの因だという立場で僧となって吉野に籠りました。皇后の時には鸕野皇女は皇后の長子が引き継ぐのが最も不改常典からいって望ましいと考えて、草壁皇子に継がせようと思ったけれど、本人の意志や体調もありそれはできなかった。

 草壁皇子が亡くなって、やはり親から子という場合、皇后はまだ即位していなかったので、天武からその子へですから当然高市皇子だということになります。しかし本人が断ったために、その気になるまでの中継ぎとして皇后が引き受けたわけです。それは先例としては舒明天皇の没後の皇極天皇ですね。中大兄皇子が成人するまでの中継ぎのつもりでした。

 次に696年に高市皇子が亡くなったので、次はだれにするかです。これが大変難しい。『懐風藻』という漢詩集によりますと、そこで群臣会議がありまして次の皇太子をだれにするか議論があったのですが、大友皇子の第一皇子、葛野王(かどのおおきみ)の次の言葉で決まったのです。これが不改常典ですね。

「我が國家(みかど)の法(のり)と為()る、神代より以来、子孫相承けて、天位を襲げり。若し兄弟相及ぼさば則ち乱此より興らむ。仰ぎて天心を論らふに、誰か能く敢えて測らむ。然すがに人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり。此の外に誰か敢へて間然せむや」

 
これを解釈するのに、天位を継ぐのは親子であって、兄弟ではないということですね。天皇は持統天皇ですから、子がいないわけです。同母では兄弟というのもいません。持統天皇は中継ぎだから、天武天皇からの親子相続というのでしたら、天武の皇子たちが軽皇子よりも優先順位が上だということになります。状況からいってそれはおかしいですね。では兄弟が天武の皇子たちに当たるとすれば、天位は草壁皇子か高市皇子にあったということになります。実際そういう解釈をする人もいます。持統天皇は即位していなかったという説です。でもわざわざ高市皇子に後皇子尊という尊号を作ったというのは、作り話にしたら出来過ぎですね。

 それに高市皇子が天皇だったら親子相続では当然、長屋王が皇太子になったはずです。草壁皇子が天皇になっていて、死後天皇位が空位で、その皇位を継ぐ話だったら、一応つじつまはあいますが、これも後皇子尊と高市皇子が呼ばれていたわけがわかりません。

 ですから子孫相承を直系相続を意味すると捉え、兄弟相続を傍系相続と捉えれば葛野王の発言で軽皇子に相続されるのが当然と分かります。これは今日重大な意義がありますね。つまりあたりまえですが、持統天皇を基準に相続しているからです。男系天皇制という意識はなかったということです。男
系天皇制説の人は女帝はあくまで中継ぎでしかないという前提があるのですが、それは後からとってつけた解釈だったのです。

 持統天皇は高市皇子に対して期が熟するまでの中継ぎのつもりだったのが、彼が死んだ以上皇位継承は、持統天皇からの継承だと考えているわけです。そうでないと兄弟争いになってしまうので不改常典の趣旨にも反しますから。ちなみにこの際には男系云々の議論は全くなかったわけです。

 それでは文武天皇から首皇子(聖武天皇)へと皇位を継がせるための、元明天皇、元正天皇の二女帝は明らかに中継ぎだったのではないでしょうか。ええ、たしかに中継ぎだということで皇位を継承したわけですが、それは別に男子が天皇でなければならないとか、男系遺伝子を守るためではありません。子孫に継承していくために適当な有力な皇位継承者が直系でまだ幼い首皇子しかいなかったので、皇統に連なる女性が中継ぎとして登板したわけです。

6.持統天皇と藤原不比等
 この人と並べて優る人ぞなき藤原の世の基固めぬ

                
           

さて持統天皇の時代にもっとも台頭してきたのは、藤原不比等です。なんと驚くべきことに持統天皇は『扶桑略記』によれば藤原邸で即位したことになっていますし、694年には藤原京に遷都しています。もっとも『扶桑略記』に書いてあることをどこまで信用してよいかは問題です。

 でも都の名前が藤原京というのですから驚きですね。これは藤原氏から付けた都の名ではなく「藤井が原」に造ったので藤原宮、あるいは藤原京と呼ぶわけです。もともと井戸があって傍らに藤の木があったそうです。それで「藤井が原」という地名ができたそうです。でも藤原不比等に特別の好意がなければ、藤井宮、藤井京になっていたでしょうね。

 中臣鎌足が雷に打たれて、病床に就き死ぬ間際に藤原姓を天智天皇から賜ります。壬申の乱では、藤原氏は近江京の大友皇子の側につき、その後天武天皇の親政期には冷飯を食わされていたわけです。藤原史(不比等は尊称のようなもの)は、
689(持統3)年、31歳の時直広肆(従五位下)の高位でデビューしました。同年草壁皇子は薨ずる直前に愛用の佩刀を不比等に遺贈し、息子皇子(文武天皇)のことをよろしくと託したそうです。

 元々鎌足のことを天武天皇が尊敬していたということが重用の理由ですが、それにしては持統天皇の時代になって正式にデビューしたのはやはり、壬申の乱のしこりでしょうか。それにしても早速持統天皇の側近中の側近になったのはどうしてでしょう。もちろん不比等と呼ばれるぐらい頭がよくて、有能だったからですが、それだけでは説明できません。実は不比等は鎌足の実子ではなく、中大兄皇子の御落胤だったという説があるのです。

 『興福寺縁起』によれば母は鏡王女で天智に召され、のち鎌足の正妻となったのですが、鎌足に譲られた際に母は妊娠していて、もし女の子が生まれたら中大兄皇子が引き取り、男の子が生まれたら鎌足の子として育てることになっていたといわれています。そうでないと家族同然のような不比等の異常な重用ぶりは説明できません。つまり不比等は持統天皇の異母ですが、実の弟だった可能性があるのです。あるいはそういうことにして重用したとも考えられますね。藤原不比等は持統天皇に寵愛されていたということで男女関係を想定する人もいますが、わたしは皇子たちをまとめなければならない手前、そんな反発を買いそうなことはしなかったのではないかと思っています。

 わたしはどうも不比等たちは大津皇子の変を陰で演出した張本人ではなかったかと睨んでいます。鎌足以来中臣氏は謀略はかなりの得意で、組織的に訓練して諜報・謀略の陰の軍団を持っていたと思われます。中臣鎌足は百済王家の出身だといういう説もありますが、そう云われるぐらい藤原氏と百済系渡来人との関係は親密だったようですから、高度な大陸の諜報技術や組織を使って、情勢を有利にし、勢力を拡大していったようです。脅かし、挑発、偽手紙、替え玉その他さまざまな手を使って追い詰め、すでにいろんな証拠がでっちあげられて謀反の計画が偽作され、先手を打たなければ殺されると思い込ませるぐらいはできたでしょう。

 こんなことをいいますといかにも藤原氏は悪玉と決め付けているようですが、不比等には彼なりの律令国家の理想像があり、その実現のために邁進していたのです。彼らにとってなんとしても切り崩さなければならないのは、皇親政治の体制です。天皇中心の律令国家づくりには二つのタイプがあります。ひとつには天皇を中心にその周囲を皇子たちでかためた皇親政治の体制です。これに対して藤原不比等たちは貴族官僚による貴族官僚独裁体制をめざしていたのです。

 皇親政治派にすれば、貴族官僚独裁は有力豪族が実権を握り、天皇を傀儡(かいらい)にして高位高官を独占し、政権を私物化し、腐敗堕落の政治に落ち込むということです。貴族官僚独裁派にすれば、天皇親政は英邁な天皇に当たればいいのですが、そういう例はほとんどありませんから、独善的で思い込みの激しい天皇が国家を台無しにしてしまいます。しっかりした皇子たちが補佐すればまだましですが、皇子たちは世継ぎ争いを始めてしまい、結局安定しません。それより整ったした官僚体制を作り上げ、よく教養や才覚を身につけた貴族官僚がしっかり支え、天皇は印璽だけでよいようにしておくのが、一番安定した強大な国家権力を構築できると考えたのです。

 貴族官僚独裁は、太政官中心の政治ということですね。天皇が政治に介入しないように、女性天皇が貴族官僚にとっては好都合なのです。ですから女帝を実現させ、それを維持するのに藤原不比等は大いに陰で支えたと推測されます。また女帝も皇子たちにまかせておけない気持ちもありました。賢い皇子たちに牛耳られないように、不比等を相談役にしておく必要があったのです。もちろん持統天皇にはこの路線対立は自覚できていませんから、貴族官僚たちは皇親政治を支えてくれているのだと思っていたわけです。

 天武天皇が病気がちになり、やがて死後、称制になっていく過程で、不比等をはじめとして近江朝の貴族官僚たちをつぎつぎ復権させ、重用していきます。いよいよ本格的な律令国家体制作りが行われたわけですが、この過程を天皇中心の皇親政治の衰退と嘆く人々もいたわけです。柿本人麿の悲劇はこうして起こるべくして起こります。

7.柿本人麿の何が逆鱗に触れたのか
 人麿は女帝の心を疑ひてヤマトタケルであてこすりしや

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持統天皇は吉野にたびたび御幸しています。称制をはじめて五年目の六九一年から七〇一年までで実に三十三回も吉野の神仙境に遊び、山の神や川の神と交わって自らも神となろうとしていました。それで柿本人麿を伴って、天皇を神と讃える歌を詠ませています。
吉野の宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作る歌

やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 國見をせせば 疊づく 垣山 山神の 奉る御調を 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり、逝き副ふ 川の神も 大御食に仕え奉ると 上つPに 鵜川を立ち 下つPに 小網さし渡す 山川も 依りて 仕ふる 神の御代かも
 反歌   山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも(万葉集)

 柿本人麿は歌人として仕事で天皇を神と謳っているだけでしょうか、それとも本気で天皇が神としての大御心で皇国(すめらみくに)をしろしめすことを理想と考えていたのでしょうか。わたしはやはり歌人はロマンチストですから、天皇は神であって欲しいし、純粋に民の幸せを願って人民を大切にする政治をされる方だと信じたいタイプだと思います。そのように思い込んで心をこめて、天皇を神と讃美していたはずです。

 なのに柿本人麿は持統天皇の逆鱗に触れて、流され鴨島で水刑にされたというのが梅原猛の『水底の歌―柿本人麿論』です。では天皇を神と讃美していたのにどうして天皇の勘気に触れてしまったのでしょう。

 その原因を「高市皇子への挽歌」に求めています。それは皇太子だった「草壁皇子への挽歌」よりずっと激しくて、哀切です。しかも「やすみししわご大君の天の下申し給へば万代に然しもあらむと」とあります。これは高市皇子が元気で天皇になれれば万代までうまくいったのにという思いが篭められていると梅原猛は解釈します。

 その上、短歌を添えています。

「ひさかたの天知らしぬる君ゆゑに日月も知らず恋ひ渡るかも」

という歌です。地上で天皇になれなかったので、今は天上を支配しているだろうというのですから、これは先になくなった草壁皇子を無視しているともいえますね。だからこれはかなり持統天皇の逆鱗にふれただろうというのです。それに草壁皇子への挽歌で

「あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも」

とありました。日は持統天皇を月は草壁皇子を指しているのですから、「日月も知らず」は「時を忘れて」という意味ですが、持統天皇と草壁皇子のことは忘れてしまったという裏の意味があると取られることになります。わたしはこの裏の意味を意識的に籠めて歌ったのではないと思います。つい書いてしまったのですね。無意識にやっています。皇子への挽歌というのは、非常に重大な意義を持っていたでしょうから、みんな覚えているはずです。意識的に天皇や皇太子をシカトするような挑戦的な歌を詠めるはずはありません。

 ところでこれは公然とは問題になりませんでした。だから『万葉集』にも載っていますし、歴史でもそういう筆禍事件は記録されていません。そういうつもりはなかったと言い逃れられてもなお罪を問うのは、非情すぎると天皇の評判を落としますね。ですから梅原猛はなにか破廉恥行為や不倫などで罪を問われたり、不正をデッチ上げられたのでないかという幻視をしています。

 たしかに高市皇子への挽歌は、持統天皇の逆鱗にふれかねなかったかもしれませんが、わたしはそれは決定的ではなかったと思います。なぜなら高市皇子を後皇子尊とまで持ち上げ、半ば公然と次代の天皇のごとく扱っていたのは持統天皇自身です。だからその突然の死で驚いて、激しい愛惜の想いから草壁皇子への挽歌を忘れて、誤解を与える表現になっても、それほど怒りを天皇は、表せなかったと思います。それより逆に表面的にはこの歌に激しく感動して涙されたかもしれないとさえ思います。

 わたしはあくまで持統天皇は皇親政治のまとめ役のつもりで行動していたという前提に立っています。その場合だれを世継ぎにするのかでもめないように心を砕いていたわけです。皇后の息子で大津皇子より年長だから草壁皇子、次に順番として高市皇子ですが断られたので、その気になるまでの中継ぎで持統天皇、次の天皇のしるしに後皇子尊の尊号、高市皇子没後は持統天皇の直系血族で軽皇子ですから、筋は通っています。そこからは邪魔者は消せということは出てきません。

 ただ高市皇子が死んだショックで柿本人麿が異常なまでの思い入れをしているのが気になりますね。ひょっとして高市皇子の死で人麿は皇親政治の危機に気づいたのではないでしょうか。大津皇子や高市皇子などの文武の誉れ高い皇子が亡くなり、次の皇位は腺病質だった草壁皇子の幼い遺児にいくというので、これでは神としての天皇の大御心による政治にはならないのではないか、高市皇子亡き後は、藤原不比等らの貴族官僚たちが律令国家を食い物にするのではないかと気づいたのです。

 それで結局持統天皇は皇親政治から貴族官際独裁への橋渡しという役割を担っていたと考えました。持統天皇は藤原不比等に利用され、大津皇子や高市皇子に皇位がいかないようにしたことになります。わが子や孫に皇位につかせるためアマテラス神話まで作らせたわけですからね。そこでひょっとして持統天皇は表向きは公明正大のように振舞いながら、実際は陰では有能な皇子たちを葬っていたのではないかという推理がはたらいたのです。

 それで人麿は持統天皇の反応を試すために、ヤマトタケル説話を創作したのでないかというのが私の幻視です。これが実は持統天皇の逆鱗に触れる作品だったのです。ですから現在は改作されて問題の箇所は残っていません。ただし梅原猛の戯曲『ヤマトタケル』には、皇后の陰謀が示唆されているのです。

 柿本人麿がヤマトタケル説話を創作したしたという確たる証拠はありません、でもあまりに見事な作品です。それにその中の歌がすばらしい

「さねさし相模の小野の燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」

とか痺れますね。梅原猛は同時代にそれほどの文学者がそう何人もいないということで、『古事記』の創作部分には宮廷歌人である人麿の役割は大きかったとにらんでいます。

 梅原猛の戯曲が柿本人麿の原作の消された部分とどうして同じだと言えるか疑問でしょう。梅原は人麿に成りきって書いているのです。それで人麿の想いが乗り移っています。戯曲『ヤマトタケル』では兄大碓皇子と弟小碓皇子の兄弟を、彼らの亡母に代わって皇后に納まっている叔母が暗殺しようと企んでいるけです。それでやられる前にやろうと大碓皇子はクーデターをたくらみます。叔母を殺すと父帝に殺されるので、父帝を殺して帝位につこうとするわけですね。小碓皇子はその計画を打ち明けられて協力を断ったので、兄に殺されそうになり、逆に兄を殺してしまい、それで兄殺しで罪を問われて熊襲征伐を命じられるという筋書きです。

 この叔母と叔母の勢力の陰謀というのは現在の『古事記』にはありません。あったかもしれないけれど削除されたのです。梅原猛が創作で復活させたわけです。彼が柿本に成りきって当時の世を憂えて書けばそうなったわけです。

 つまり叔母の皇后は鸕野皇女で、兄大碓皇子は大津皇子、弟小碓皇子は高市皇子をモデルにしているのです。兄弟の年齢などは実際とは逆ですが、露骨にそのままにすればあてこすっているとだれでも気づいてしまいます。それでは不敬罪に問われやすいですね。持統天皇は柿本人麿にこの話を聴かされたときには気づかなかったと思います。彼女は私の推理では全く陰謀には加わっていませんから、でも一緒に聴いていた藤原不比等は皇后をあてこすっているのだと気づいたのです。だって彼がいろいろ陰謀を陰でやっているのですから。それで不比等は持統天皇に、この物語はそういう持統天皇をあてこする意図があるのだと解説したわけです。

 これにはさすがに持統天皇も頭にきますよね。まったくの濡れ衣、冤罪です。人麿はそんな疑いの目で自分を見ていたのかと思うと怒りは収まりません。おそらく別の破廉恥罪か、不倫の罪、あるいは不正事件にひっかけて流罪にしたのでしょう。

 もちろん持統天皇も人の母です。わが子がかわいい、孫に継がせたいと思わなかったことはないでしょう。でも天武天皇の志を守り、皇親政治をまとめ、不改常典に則る皇位継承を貫いてきたわけで、後ろ指を差されなければならないことはしていないわけです。でも藤原不比等をあまりに信用しすぎたので、実際には貴族官僚独裁体制としての律令国家の方向へと変質していったわけで、人麿の恐れていたとおりになってしまったのです。

 

 

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