新宗連結成55年記念シンポジウム

よみがえる宗教ー新しい役割を探して

   4光であり愛であり命である、そしてあなたである
             
               コメンテーター やすいゆたか 哲学者 立命館大講師―

    聖丘に花の光ははかなくも命の祈り胸に響けり 

 コメントを仰せつかりました〈やすいゆたか〉でございます。立命館大学や大阪経済大学で哲学思想関係の講師をしております。哲学というのはやればやるほどわからなくなるもので、私は還暦を過ぎたこの歳にになってやっとソクラテスの「無知の知」を実感しております。ソクラテスは結局無知のまま死んでしまいましたが、私はここから生きなければと思っております。というわけで正直宗教について何も分かっておりませんが、でもお話したいことはたくさんあるのです。

 中江さん、「生命の尊さ」どう伝えるかということで悩んでおられますね。戦争・環境破壊・家庭崩壊・ゲーム感覚の殺人など生命がガラクタのように扱われています。熊野さんも指摘されておられますが、戦後貧しい時代を体験して。必死に築き上げた資本主義社会が、便利な機械をはじめとする物質的富を積み上げて、それを神にしてしまったのです。でもそこに生命が感じられないのですね。命を削って積み上げたのだけれど、だからほんとうは富は大いなる生命の現われのはずなのに、ばらばらに切り離されていて、生命を喪っているのです。富は人間同士を貨幣に還元して支配する商品という疎外された姿になっているのです。

 ですから資本主義を放置しておきますと、生命が吸い取られた冷たい社会になるのは必然的ですし、格差もどんどん拡大して大変なことになるので、政治や文化が介入して、いろいろ是正していかなければなりません。そういう意味では宗教の役割は大きいわけです。 資本主義の粗野な唯物論に反発して、宗教は物質万能と対極の精神主義というか、内面的な祈りへと傾きすぎることがあります。そこにやすらぎや救いがあるのでしょうね。でも、物とのかかわりを忘れてしまいますと、実際は生命からの逃避になってしまいます。内面の生命としての祈りは、大いなる生命と繋がるためには、外に物として現れなければならないのです。

 「千の風になって」という歌では「私の墓の前で泣かないで下さい。」「千の風になって」「雪になって」「鳥になって」「星になって」と歌われます。

 物は実は元来魂であり、神であったわけです。物部氏は武器を掌る(つかさど)と共に、神を祭っていたわけですね。物とは魂なのです。それが私有され、排他的な富として大いなる生命から切り離されたら、生命のない物として扱われるわけです。

 家の近くに富田林のPL教会がありまして、八月一日に世界一の花火が見れるのです。パッと開いて、パッと消える、きれいですよ。それからドゥーンという音が胸にぶつかってくるのです。命の美しさ、はかなさ、尊さがそれで実感されるわけです。これって宗教の原点でしょう。ついでに近所びいきでPLの宣伝になりますが、PL高校の野球は、すごい感動を作り出してきたのです。命の素晴らしさ尊さを実感させるという意味で大きな役割を果たしています。 

生命というものは内面の祈りが外に出てきて形をつくる、それははかなく消え去るものだけれど、生命の現われなら、消えないものを感動としてみんなの心に残すということでしょう。それが歓喜なんです。梅原猛先生は『歓喜する円空』という本を出されましたが、祈りが仏の姿をとって現れるという歓喜ですね、これはすべてのものづくり、芸術、スポーツにも普遍できることですね。

 つまり物にするというのは実際の物づくりもふくめて何らかのパフォーマンスでもいいわけで、一時はやったような文化祭というような大掛かりのものから、祈りの場に音楽や舞踊の要素を取り込んだり、「フリーハグ ズ」を組み込んだりでもいいわけです。キリスト教会では「主の平和」と呼びかけあって挨拶をしますね。そのとき肩を抱き合うようにするとかでもいいと思います。愛がここにあると実感できれば、それが癒しをもたらします。

 
   宗教は阿片ではなく葛の湯か濁世の毒を解きて癒せよ 

ともかく私が言いたいのは、宗教は麻薬では駄目で、解毒剤でないと駄目だということです。つまり現実の社会の生産の場が生命を生む生産をしていないで、生命すなわち魂を殺している、だから教会や寺院で生命を取り戻さなければならないのです。そのためにはささやかなパフォーマンスでもいいから、一緒に命の感動を生み出す演出が必要なのです。

 キリスト教の礼拝は聖餐式といって主イエスを食べる儀式です。パンがイエスの肉、ワインがイエスの血ですが、聖なる命をいただくというのはすごくキリスト教徒には精神的な支えになっていたようですね。これは実はイエスの復活とつながる秘密があるのですが、それはさておき、どの宗教でも食をふるまうということが大切です。布施の原点に、教えと命を与えるということがあると思います。

 でも実際には司祭や僧侶が自分の体を食べさせるわけには行かないので、その代わり心づくしの食事を作って与えるということがあれば心が通うと思うのです。これは簡単なようで難しいですよ。もちろん宗教によっていろんなバリエーションが考えられますが、本格的な食事を出す場合があってもいいですし、饅頭一個、煎餅一枚、お茶一服だっていいわけです。でもそれで命をいただいたと思えるものを出そうと思ったら、命がけですよ。

 すぐに僧侶や祭司が作らなくても誰かにやらして自分は祈祷が専門みたいに、分業で発想したら駄目ですね。もちろん僧侶・祭司という聖職が必要かどうかは別問題ですが、私が言いたいことは、宗教は社会で失われている命を取り戻す場として、機能しなくてはいけないということです。だから一緒に作って一緒に食べてもいいわけですね。そうすれば家に帰って食事を作る、職場に行って生産やサービスや事務ををするときもそういう思いを忘れないようにということに少しは繋がるわけです。

     有り難いお説教の言葉より涙流して共に苦しむ 

熊野さんのお話で個々の信者さんの苦悩にどう個別的に対応するかということで、悩んでおられますが、とても個々の信者さんの悩みにまで、事細かには、宗教が自らの教義で高踏的に答えを与えられるものではないのじゃないかと存じます。一緒に悩んで、共に歩む「共苦」という立場に立つことです。息子さんに自殺された六十代の方が告白されているのですが、いろんな人に慰めや励ましをもらったがますます苦しくなるだけだったのです、でも藤田友治さんは話を聞いて何も言わずに一緒に泣いてくれ、肩を抱いてくれたそうです。それで自分の気持ちが理解してもらえたと思って気持ちが軽くなったそうです。ちなみに藤田さんは私の最も大切な友でしたが一年半前に手術の失敗で急死されました。
 

    ありがとうその一言で言霊か手段の国も目的の国 
 

宗教で魂つまり命を取り戻して、その心を社会生活に還元し、社会に奉仕するということが大切ですね。それは家庭生活にまた職場での生活に魂を取り戻すということです。

 私は母が大好きでした。でも一つだけ批判的に見ていたことがあります。私の母は学校の先生でしたが、物を買ったりしたときは金を払ったのだからといって「ありがとう」と言いませんでした。でも成人してから気づいたのですが、物やサービスの対価でお金を払ったとしても、そのおかげで生きているのですから、「ありがとう」というべきだったのです。「ありがとう」の言葉がなければ、商品と貨幣の関係になってしまい、魂と魂のつながり、命の関係にならないのです。「ありがとう」は命を取り戻す宗教的な祈りの言葉なのですね。

 また「いただきます」という言葉は「命をいただきます」という意味だという小学生の詩を読んで衝撃を受けたことがあります。大いなる生命の循環の中で、他の命を燃やして、我々は生きているのであり、やがて大いなる命の中に食べられて還るわけです。命をいただいているという自覚の下に食べるということが大切ですね、つい忘れがちですが。そういう言葉の意味を家庭や学校の会話の中で確認しあうということが大切なのです。
 

   魂のすすり泣きする世にありて祈りの人よ起ちて歌えや

特に今日の状況では医療や教育や環境や政治の現場に「生命の尊重」「人格の重視」「環境の再生」「恒久平和の実現」といった「大いなる生命」の「循環と共生」の立場を浸透させなければなりません。そのために宗教が各分野につながりを深めたり、進出されることは大いに期待されます。

 特に冷戦終焉後は宗教や文化の違いを意識した「文明の衝突」が危惧されております。宗教者が宗教的対話を促進して、恒久平和への道をつける上で大変重要な役割を担っています。一神教同士の近親憎悪に対しても、仏教や神道は第三者の立場からも和解の道を示すことは可能でしょう。もちろん一神教と多神教の宗教的和解というものも対話を通して可能です。 「三つのL、すなわち光(Light)=愛(Love慈悲)=生命(Life)」を根底において捉えれば、一神教と多神教と仏教は十分相互理解が可能なはずです。すくなくとも激しく憎しみ合うことはなくなるはずです。

 そして大いなる生命の現れとしての地球環境の危機に対して共同の取り組みを行うのは、生命の尊重を原理にする宗教者の神聖な義務です。宗教者が、地球環境危機を唯物思想にかぶれた信仰心の欠如にのみ原因を求め、もっぱら説教によって地球環境を守れと高踏的に託宣をたれているだけでは、信頼を築くことはできないでしょう。具体的な車社会からの脱却などの生活改善や、緑化運動や教育研究機関などの組織作りやさまざまな啓蒙運動を率先して行うことが必要です。マルクスは、「哲学者は様々に解釈してきたにすぎない。肝心なのは変革することだ」と既成の哲学者を喝破しましたが、「宗教者」も哲学者の二の舞では困ります。

 

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