新宗連結成55年記念シンポジウム

よみがえる宗教ー新しい役割を探して
      愛と思いやりに満ちた社会であるために

               発題者 中江サチ(解脱会出版教学部次長)

 解脱会の中江と申します。本部の出版教学部に所属し、主に、機関誌「解脱」の編集に携わっております。解脱会の出版活動としてはこの他、青年層向けの機関紙「YG」、教団の本部や各地の出来事を伝える「ニュースレター」を定期的に発行し、開祖の遺した教えをまとめた教書や思い出等の単行本、各種パンフレット、ポスター等を作っています。私どもの願いは、会員、非会員を問わず、出版物が多くの人々の心に届き、心に寄り添い、人々が仕事や家庭生活の様々な場面において判断力をつけ、安心と希望に満ちた人生を歩む、そのお手伝いができたらと思っております。 

しかし、願いはあくまでこちら側の思いに留まり、現実にはどれほど役に立っているのか、非常に心許ない思いがあります。特に、「縛られるのはごめんだ」「窮屈なことは大嫌い」「何したっていいじゃん、他人に迷惑かけないで自分が楽しめれば」……と、あえて正社員ではなく、嫌になれば何時でもやめられるパートやバイトを仕事として選ぶ若者たちが増えている現状では、正しい言葉、人生の導き、真っ当な考え方などは、「お節介」「ウザったい」「どうでもいいじゃん」などとバッサリと切り捨てられてしまうことが多いのです。 

また、日々、テレビ・新聞等で、身震いするような心の荒廃を感じさせる事件が報道され、世の中は決して平穏ではありません。二十一世紀は「心の時代」、「宗教の時代」と言われているにもかかわらず、私どもの努力が、世の中の要望に応えるものでないことを痛切に感じます。 

問題点はいろいろと考えられますが、なかでも次の三点は「社会における宗教の存在意義はどこにあるのか」ということを考えましたときに、もっとも基本的に大切な検討課題ではないかと思います。 

@ 生き方としての宗教性――生命の尊さをどう伝えるか。 

 解脱会開祖は「生命は人間の全部であり、一番大きな歓びである」と示した上で、「自分自身の生命に対して、日頃感謝を知らぬものは、自分自身を信じない証拠で、感謝も、信用もない自分が、神や仏に一体どうしようと言うのです」と、問いかけています。 

 宗教の始まりは生命の尊重であり、“いのちの尊さ”を伝えることこそ宗教の力であるはずです。しかし今、特に先進国といわれる国々における自殺者の数は増加することはあっても減少することはありません。日本においても年間三万人もの貴重な生命が失われています。また、自然災害以外で生命が失われる事態、つまり殺人がいとも簡単に行なわれるようになり、かつては考えられなかった親殺し・子殺し、小中学生の殺人事件などまでが起こっています。 

 世間には、特に小中学生を含めた若者たちの間では、「人間は死んでもすぐに生き返る」と、《生まれ変わり》を曲解した認識のされ方が流布しているようです。これは多分に、マンガやアニメ、ゲームなどの影響かと思われますが、正しい生命の認識をどう伝えたら良いのでしょうか。 

 単に「これをしたらダメ」「それは間違いだ」と禁止や警告をするのが宗教ではなく、「生命はこんなにも素晴らしいものだ」「生命がある、それだけで感謝だ」と伝えられる力も宗教は持っているはずです。人間生活が始まって以来、様々に培ってきた宗教性を、今の時代にこそ発揮して、「生命の尊さ」を伝えるために、私たちはどのような努力をすべきでしょうか。 

A     役割としての宗教――いかにして世界の平和に貢献するか。 

 世界の平和を乱すものの筆頭は「戦争」と考えられがちですが、では戦争がなければ「平和」かと言ったら、それはあまりにも短絡的な見方でしょう。古今東西、民族の生き残りをかけて争いは繰り返されてきました。生物の原理から言っても「弱肉強食」は避けられないことです。 

 しかしそこに、「協調」「協力」「譲り合い」「助け合い」「知足」といった精神性が社会に行き渡ったら、不必要な争いは避けられるはずです。万物はつながりあって存在することに心を向ける精神性の涵養こそ、宗教が果たす役割であり、平和へのパスポートです。しかし今、宗教はこの役割から逃げてはいないでしょうか。 

 そしてさらに大きな問題として「環境破壊」があります。この恐ろしさは、「戦争」のように目に見え、分かりやすいものの比ではなく、目に見えないところでじわじわと広がる性質のものであり、人々の「悪」とも考えないものの積み重ねによって、気づいた時には、「母なる地球」そのものの変化を促し、徐々に人間生活を脅かし、さらに進めば、地球に生息する様々な生命を絶滅させることにもなるのです。その兆しが、温暖化や毎年何種類かの「種」が絶滅していることなどから感じられます。 

「環境問題」は日頃の人間生活が大きく関わっており、これを正しく、より良い方向へ導くのは宗教の役割です。損得を離れ、ひたすら次世代のために貢献できることが宗教の中にあるはずです。それは何か。何をどうしたら良いのか。具体的な方策を宗教関係者は真摯に練っていかなくてはならない「とき」を迎えているように思えます。

 また、身近な問題として少子高齢化があります。若者たち、特に若い女性たちが結婚を躊躇し、子を産み育てるという役割に喜びを見出せない現状については、「出産は女性だけに与えられた大変尊い仕事」「生命の誕生に直接関われる素晴らしいこと」「他では味わえないほどの深い幸せ」等々伝えることによって、それぞれの教団の方々が割合熱心に取り組んでおられることと思います。 

 しかし、高齢化の問題はどうでしょうか。直接の痛みを目の当たりにしながら、宗教は心の底からの平安を伝えきれていないことが多いのではないかと思います。 

 子供がいないとか遠くに住んでいるとか、親子の心が通わなくなって断絶状態にある、といった事情の中で、夫が妻を、妻が夫を、自分自身も腰が痛い、足が痛い、糖尿病があるなどの、決して健康とは言えない身体で介護しなくてはならないといった老老介護の現状。 

 一人娘で他家に嫁いだため、六十歳を過ぎた今、両家の両親の介護にほとんどの時間を費やし、疲れ果てているといった、子供の側の現状。 

 さらに心が痛むのは、何らかの事情で一人暮らしとなったお年寄りです。「年金だけだは暮らしていけない。病気になっても医者にかかるお金がない。生きていてもどうしょうもない。早くお迎えが来ないだろうか」とつぶやくお年寄りに、どんな言葉をかけてあげられるでしょう。また、結婚も出産もあえて拒否し、一人が生きてゆくことを選択した方を、「自業自得だ」と突き放してしまうことができるでしょうか。 

九州の前原で「コスモポート」という健康道場を主催なさっている吉丸房江先生は『アリとキリギリス』のお話にたとえて、こんなことをおっしゃっています。「『アリとキリギリス』のお話は、コツコツと働き続けてきたアリが正しくて、遊んでばかりいたキリギリスが間違いだ、というだけのお話ではありません。冬になって動けなくなったキリギリスをアリは、夏の厳しい暑さの中で働けたのは、キリギリスさんがとてもいい声で歌って、楽しませてくれたおかげだよと、一生懸命に介護し、安心と幸せの中であちらの世界に見送ったのです」。 

私たち宗教者は、このアリの心を持ち続けたいものだと感じます。 

 日本は、平成22年には超高齢化社会を迎えると言われています。高齢者の生き方、安心や希望をどこに持つか、歳をとっても、寝たきりになっても、今に感謝できる精神性は、宗教こそが培えるのではないでしょうか。 

B 「祈り」の価値を伝える――唯物思想からの脱却。 

 あらゆる宗教の基本である「祈り」こそ、混迷する社会を救う大きな力です。教団によって「祈りの対象」「祈りの方法」「祈りの言葉」など、様々な違いはありますが、そこに込められた、「見えない大きな存在」への「おかげ」「感謝」、そして「畏れ」は共通するものであり、この「祈り」が人々の心に当たり前のこととしてあったら、あたたかい世の中が実現されるはずです。 

 ただ、「祈りが今の人に通じるはずがない」とか、「祈り、なんて言ったら古臭い人間だと思われるのではないか」などと、宗教者自身に思い込みがあるのではないでしょうか。 

 希望がないわけではありません。各地の有名な神社仏閣では、近年、初詣の若者が随分増えたと言っています。卑近な例で言えば、東京巣鴨は「おばあちゃんの原宿」として有名ですが、近頃は「おばあちゃんらしいおばあちゃん」よりも、若者たちの姿のほうを多く見かけます。「とげぬき地蔵」の「高岩寺」では、お地蔵さんの身体を洗う順番を待つ長い列の中に若いカップルがたくさんいて、自分たちの番が来ると楽しそうに二人でお地蔵さんの身体を洗い、晒しの手拭で拭いているのを見かけます。 

 また、「新宿の母」に代表される「占い」「手相」「姓名判断」や神社仏閣の「おみくじ」などに群がるのは、中高年より若者のほうがずっと多く、最近ではインターネットによる「お参り」に人気が集まっています。 

 このような現代の風潮を見るにつけ、目に見えないものに対する敬い、畏れ、といった思いは世代を超えて、「潜在的にある」はずだと考えられます。「唯物思想が蔓延した現代に宗教は通じない」と思い込み、宗教活動を躊躇するのはいかがなものでしょう。ただ、確かな「祈り」を伝えるために、私たちはどんな行動、どんな方策をとったら良いのか、世間をよく見て、人々が何を求めているのかよく確かめて、研究してゆく必要がありそうです。 

 様々な思惑を超えて、今こそ宗教者が、本来の宗教が果たす役割に立ち戻り、身の周りのできることから実践、実行していかなくてはならないことを痛感します。私ども解脱会では、「信仰」を「真の行ない」、つまり「真行」ととらえて、私たちを生かし、導いて下さる神仏を「信じて仰ぐ」と共に、神仏が示して下さる「真の行ない」を足元から行なっていくことを目指しています。 

今、より良い社会を目指して、政治も経済も、教育においても、様々な試行錯誤を繰り返しながら努力しています。けれど根底において、現代社会の歪みをただし、「愛と思いやりに満ちた社会」をつくっていけるのは「宗教」であると信じます。

人々の心に届く宗教、人々の心をあたたかくする宗教、人々の人生をより充実したものにする宗教、そして誰もが楽しんで生活できる社会にお役に立っていく宗教を目指すために、私たちは何ができるか、何をすべきか、宗教者がそれぞれの教団の壁を越えて、大空のもとで協調、協力していけたら素晴らしいことです。 

その意味で、私はこのシンポジウムに大きな期待を寄せております。

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