新宗連結成55年記念シンポジウム

よみがえる宗教ー新しい役割を探して
           新しい役割を探して

                    発題者 熊野隆規 立正佼成会立川教会長

みなさん、よろしくお願い致します。

新宗連加盟教団、立正佼成会で、教会長のお役を頂いております、熊野驪Kと申します。

担当させて頂いております教会は、東京駅から西に中央線で約一時間。真如苑のご本部もあります商業都市の立川、一橋大学を中心とした文教都市である国立、そして、立正佼成会の霊園がございます、農業地帯と新興住宅が混在しています東大和の三市を担当する立川教会でございます。 

私の場合は、布教現場をお預かりする役ですので、学者でも、評論家でもありませんので、今回、新宗連事務局からご指名いただいて、ちょっと戸惑いもありました。この遠大なるテーマを前に、一体何を発表させていただけばよいのか、かなり悩みました。 

むしろ、「新しい役割を探して、もがいている」のは、この私の方ですので、今、お預かりしています布教現場での実情を生のまま、ご報告させていただくことが役目だと思い、その後、先生方からご示唆をいただければことを楽しみに参加させていただきました。

さて、ご存知のように、私どもの会は仏教系、とりわけ法華経を基盤とした在家教団です。信者同士が刺激し合い、癒し合う中で、仏教真理を元にお互いの苦悩を滅しあうこと。そして、現実生活の中に身を置きながら、仏さまの人格に少しでも近づこうと自分と向き合っています。信者さん相互が研鑽し合い、教会道場にて他のために尽くす菩薩行の稽古を繰り返し、日ごろの生活に活かそうとしている集まりです。 

信者さんの年齢も広範囲で、ゆりかごから墓場まで。また、同じ教えを頂いているとは言え、在家ですので、その境遇や価値観も千差万別ですから、ご自身の身の置き所に応じて、苦悩や関心事も本当に異なります。 

昨日のご飯のおかずでもめた夫婦喧嘩の話から、国際問題にどう取り組んだらよいかに関心を示す方まで、さまざまです。そして扱う心の領域も地獄から極楽までという状況で、先ほどまで天女と話をしていたかと思うと、その隣りには、怒りに満ちた鬼のような方が、治まらない気持ちを何とかして欲しいと、順番待ちしている毎日とも言えます。 

私の場合、布教現場に出て、まだわずか二年ですので、充分なご報告は出来ないかと思いますが、あまり先入観や固定観念のない視点で、自分なりに布教の先端で「感じていること」「困っていること」そして「願っていること」を、整理させていただきたいと思います。 

まず、お預かりしています信者さんの抱えている問題に触れ、感じることの第一に、戦後、私たち大人が選択した価値観により、家庭や青少年に予想外のゆがみや不具合が生じていることです。そして、それをどう立て直すかということに共に苦労しています。 

私たち大人は、戦後、数々の生き方の選択を行いました。それは、簡単に言えば、核家族化、都市化、情報化、高所得化、高学歴化、豊かで贅沢な暮らしの獲得、電化製品やアイディア商品への依存、寿命の延長、お金中心主義、美食化という選択です。その結果、私たちは、便利でスピーディーで、手軽で、わずらわしくない文化的な生活を手に入れました。しかし、それらは、戦前・戦中満たされなかった欲求の反動ともいえます。国民全体が貧しさや不便さから脱却したいという強い意思の表れでもありました。 

 ところが、その快適さの中には、知らず知らずのうちに、心地よさと共に、「なるべく面倒を排除し、楽して得取ろう」と望んでしまう、心の毒のようなものも含まれていました。そして、それらが六十年の歳月をかけて徐々に、魂に蓄積していったような気もいたします。 

戦前の不便で窮屈な生活の中に含まれていた、ちょっと苦い良薬も一緒に手放してしまったとも言えるのではないでしょうか。ちょっと大変だけど、工夫する、知恵を働かす、骨を折る、わきまえる、手間隙かけて手塩にかける、辛抱する、思いやることを、大人たちは倦厭し億劫に思い、しがらみと箍をはずして、簡単で自由な道を選択しました。その大人たちが育てた子どもたちは、今、見事にそれらの感覚を増幅・増大し、想像以上の社会問題となって、のしかかってきています。 

直情的で異常なまでに残忍な家庭内の殺人、周到かつずるがしこい詐欺事件、金銭感覚や性風俗の乱れ、社会規範の崩壊、高齢者や弱者への介護放棄や虐待、心の病の増加などに現れています。長年の心の生活習慣病が、二世代に渡り、濃度を増し、その考え方や生活習慣に蔓延し、この十年ぐらいは、はっきりとそれが発病し、ごくごく普通の家庭にもそれが押し寄せている感が致します。 

これらの問題がいたるところで噴出し、これではいけないと国民全体が感じ始めた今、宗教に求められる役割は大であると感じます。もちろん、手に入れた便利な暮らしを捨て去ることは難しいでしょうが、心を代償に境遇や環境を整える時代を経て、何かおかしいぞという気づきの中から、心の根っこを整える時代がやってきたのだと思います。ピンチを頂かないと変われないのであれば、この状況は日本が大きく変われるチャンスであるともいえます。 

今はまだ、大人たちや親たちが困っています。もし、もう一世代見送られれば、それが世間の常識と、当たり前に摩り替わり、ボーダーがますます下がり、誰も困らなくなってしまう恐れもあるでしょう。この三十年が、一件一件のお宅の抱える問題に耳を傾け、個別対応をさせていただくタイムリミットのように感じます。 

これまでのように、教団全体の目標をいかに総合力で達成するかという、情報・方針発信型の取り組みも必要でしょうが、信者個々の言うに言われぬ苦悩をいかに教団が個別に、かつ丁寧に聞き取り、感じ取り、教団や教会の総合力で個別の手当てをさせていただく、個別受信型の受け皿が、準備できるかどうかが鍵となるような気がいたします。 

  さて、次に長年精進された幹部の高齢化に伴う、信仰継承の問題です。戦後の貧困、病気、家庭不和や人間関係のもつれから始まった家の信仰は、そのご本人のご精進により、一応の治まりを見せ、多くの方が救われました。しかし、それらの家庭でも、過去の救われの伝承がなされなければ、時の経過と共に、敢えて信仰活動を継続する動機が希薄になってくるのは当然です。

入信・入会したご本人は、救われたことが有り難く、熱心になればなるほど、家を捨てるぐらいに信仰活動に没頭されますが、過去の問題に距離があった家族や、救われた後に誕生した世代にしてみれば、その功徳や利益が伝承されず、なぜそんなに一生懸命やるのか、疑問も起こることでしょう。むしろ、「教団・教会に使われているのではないか」など、懐疑的になることも避けられません。「お袋がやるのは構わないよ、でも俺たちは巻き込まないでくれよな」と、けんもほろろな息子夫婦の姿を拝見しますと、悲しくなってまいります。 

教団・教会が、ご本人を取り巻くご家族にも違う角度でつながりを持ち、参拝しないご家族にも間接的に功徳や利益を感じていただく機会が必要と感じます。参拝されるご本人だけが有り難いだけでなく、信仰活動を通じることで、そのご本人自身が家族にとって有り難い人になれるアシストも必要と思います。 

併せて、従来の入り口に加え、新たな動機付けの入り口作りも必要でしょう。それが何かは、簡単にはわかりませんが、戦後の恵まれない時代に動機付けの核となった「貧困・病気・争い」という入り口は残しつつ、現代人の気質に合った手立ても必要な気がします。 

テレビ番組の「オーラの泉」に登場する江原啓之さんや三輪明宏さんが織り成す、スピリチュアルトークが、もてはやされる様子や、細木和子さんの占いをベースにした人生訓に群がり、アイ・モードサイトにアクセスする件数はかなりのものとうかがいます。自分の人生苦に対し、「そっとそれを聞いてくれ、ねぎらいと癒しで包んでくれる。そして、自分も気づいていなかった奥の心を言い当ててくれ、勇気と安心をベースにした自分の知らないプラスアルファを与えてくれる。加えて、きっと大丈夫と動機付けのささやきをしてくれる。」そんな個別のアプローチを求めているように思います。それは、深く、細やかで、微妙なタッチが要求される作業ともいえましょう。 

その人の人間性の長所・短所を洞察し、短所の部分を指摘し、立て直しのために、その原因部分を封じ、我欲を滅してゆく禁欲束縛的宗教も、絶対的な苦悩を持っている人には、ついていけるのでしょうが、その領域ではない人々や、宗教の入り口部分で迷っている人たちにしてみれば、ライフスタイルを拘束され、あれこれと人格をいじられる宗教活動は、現代人が嫌う厄介で面倒なものとして映ってしまうケースもあるのでしょう。 

次に宗教活動における「感動」の創出です。社会資源が豊富になり、よりすごいものに慣らされた私たちは、より強い刺激を求める時代に入りました。併せて、世間全体で偽りの行為が横行し、隠蔽、内部告発、発覚、謝罪の場面をよく見かけます。そして、人間の煩悩を逆手に取った、巧妙かつ予想外な振り込め詐欺事件が後を絶ちません。昨年末も都道府県知事や企業の談合・汚職が頻発し、年明けには一夜にして納豆が消え去ってしまった某テレビ番組の捏造事件もありました。食品メーカーや家電メーカーの製造責任の低下により、極端なお詫び広告が並びます。朝夕のテレビが映し出すニュースは、組織代表者のお詫び・謝罪の嵐となってしまっています。しかも、その謝罪も形式的で、言い訳や開き直りに近い様相があり、子供達が、「このおじさん、謝っていないよ。だって、紙を読んでるだけだもん」と、見抜かれる始末です。 

この状況を毎日見せ付けられれば、国民には組織や人に対する不信感が蔓延し、厭世観や、ものごとをツイツイ疑る感性が、培われてしまいます。「なかなか信じられない時代」の到来ともいえます。 

人間同士の信頼関係を醸成することも容易でなくなり、ちょっと「感心」するぐらいでは、「ほー」とか「へぇー」とか「ほんとかなあ」程度にしか響かない。信ずるという領域にまで行くには、より深い「感動」のゾーンにまで行き切らないと、情動作用は期待できない状況といえます。量と質の面において、「こんなことまで、してくださるとは」という、ふれあいが求められている気がいたします。 

しかし、そこには作為的なものや意図的なものが混じっては、お仕着せになり、怪しい気持ちが湧いてしまうでしょう。濁った時代だからこそ、本物のまごころしか生き残らない、通用しない、ピュアな時代が到来したとも、裏返しには言えるでしょう。 

情報化時代の到来と共に、Google等の検索エンジンを生かし、いながらにして、よりよいもの、より安いもの、よりすぐれたものを検索できる時代となりました。今後、ますます商品やサービスを手に入れる際は、素人でも多くの情報から検索、研究、比較、選択する時代となり、勢いで物を手にしない情勢になってくるでしょう。今までは、ひょんな出会いによって宗教が選択されてきたこともありましたが、これからはいろいろな情報により本質が問われ、比較・選択される傾向はより進むものと思われます。 

そして、最後に宗教と生活資源の接近が迫られると思います。

社会制度の進化と各産業分野の業態の見直し、また先進技術分野の進歩により、従来は個別の枠組みを保ってきた各分野が、お互いに接近し、重なり、凌駕し再編成される時代になってきました。同業種の連携や合併ではなく、他分野とのコラボレーションや協働が目に付きます。もう、社名を見ても何屋さんかわからない時代ともいえます。 

しかし、いろいろな要素が交じり合う世の中になりつつあるにもかかわらず、以前、宗教だけはこの傾向からやや外れ、独自路線を歩んでいるような気がいたしますが、時代はそれを許すのでしょうか。医療と宗教、教育と宗教、人生儀礼と宗教、科学と宗教、食文化と宗教、環境問題と宗教、外交や防衛と宗教など、盛んに議論はされていますが、日本の現状は、世界の国々から見れば、宗教性が排除される生活形態に移行しつつあるように感じます。 

教育現場はもちろんのこと、各家庭でも食生活や年中行事にまつわる習俗についても宗教性はだんだん薄まり、必然的に仏壇や神棚が減り、死者の弔い方もドライになってきています。家族関係でも、つながりが希薄化し、お互いに信じられない恐怖心だけが残り、畏怖の念が損なわれているのが現状です。 

政治や一部の分野とだけコミットするのではなく、各界との交流を重ね、各分野が生み出す形あるものの中にそっと宗教的メッセージや霊性の向上につながるものを埋め込む作業をする必要があるのではないかと思います。 

無意識に生活する中でも自然と心が耕され、やわらぎ、やさしくなり、豊かになる。宗教組織に身を置かずとも、日本に住み普通に生活していれば、そうなれる縁づくりにも目を向ける必要が迫られているような気がいたします。 

とりわけ医療分野と教育分野には、より深く繋がる必要があるでしょう。布教現場でまず切っても切れないことは、子育てと病気、そして死の問題です。単に宗教法人が病院や学校を経営することが社会貢献になるという量的拡充の発想を一歩進め、より宗教系の強みを前面に出した医療や教育のあり方が効果を発揮すれば人々は見逃さないでしょう。 

医療と心の手当ての関連や、精神的修行との相乗効果についての共同研究。訴訟問題や過重労働等で減少する産婦人科・小児科医療についても、母子や家族の心の育成を行うプログラム治療の開発。また、長寿王国日本ならではの認知症回避の宗教的アプローチの研究。そして、宗教教育の有無による人間形成や学業への影響や効果など。無宗教による諸機関との違いを明確に現象で出してゆく運営のサンプルがあれば、あらゆるものが宗教を取り入れる時代になってくるのではないかと感じます。またそうなればと願っています。 

宗教の門をくぐった人だけが心の面について限定して救われるという、垣根のある救いをほどき、人間にまつわる各分野に導入可能な、教えや修行が出前されることが、待ち望まれているような気がいたします。 

そうなれば、日本人特有の宗教を持たない人が健全であるかの錯覚は消え、無宗教であることを誇らしげに語る国民性は変化するでしょう。そして、宗教界も、社会の諸問題に対し、常に後追いで距離を置いた注文を付けるスピーカーに終わるのではなく、社会問題に具体的に取り組める宗教になれるのかもしれません。 

たとえば、体を治しながら心も耕される。学業に励みながら人格の形成も促される。食事をいただきながら心の栄養も摂取できる。家に住みながら霊性が開発され、テレビを見ながら優しくなれる。そんな、日本という国、地球という星を創れたなら、意識しないでも全部に宗教心が溶け込んでいる世界がやってくるような気がいたします。 

各界の研究開発者が、新宗連に宗教的エッセンスを求めてやって来て、嬉々としてそれを持ち帰る。宗派を超えた連合体だからこそできる夢のようなお話ですが、実現すれば楽しいことだと思います。

ご静聴ありがとうございました。

 

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