新宗連結成55年記念シンポジウム

よみがえる宗教ー新しい役割を探して

5共苦する神ー21世紀のヒューマン・インターフェイス

    コメンテーター 石塚正英 歴史・哲学研究者 東京電機大教授

 東京電機大学の石塚正英と申します。大学では「技術者倫理」などを講義しております。本日は、なにとぞよろしくお願い申し上げます。熊野さま、それから中江さま、このたびのシンポジウムに相応しい、有意義なご発題を戴き、ありがとうございました。それでは、お二人のお話しに関しまして私なりに多少のコメントを行いたく存じます。要点は以下のものです。 

第一に<苦しみやマイナーの共有精神から>です。これは、価値観やライフスタイルの多様化に対して宗教はどう向き合うか、とりわけ宗教的無関心や非宗教的な社会諸領域と何をどのように共有していくのか、という問題です。そして第二に<二一世紀に求められるヒューマン・インターフェイス>です。これは、宗派をこえた存在としての「私たち」とは誰をさすのか、また、尊重したり感謝したりする相手と「私たち」はどのような関係にあるのか、という問題です。その2点とも、お二人のお話しで軸となっていました。 

T 苦しみやマイナーの共有精神から

1.平和の代償 

 正月の三日、NHKテレビで作家の五木寛之さんと塩野七生さんの対談をみました。五木さんが、日本における昨今の自殺者数に言及しました。ベトナム戦争で戦死した米兵の数と比べてなんと多いか、生命の大切さを語っていました。苦しい時代、戦争の時代にはらう命の犠牲、という切り出しでした。それに対して塩野さんは、日本社会の自殺現象を、平和の時代にはらう犠牲、といっていました。五木さんは、平和にも代償が必要なんですかねェ、と洩らしていました。塩野さんによれば、ローマ帝国の偉大さは、万民法で異邦人に寛容をしめしたことなのです。 

 それに対して五木さんはこう言いました。仏教国ブータンの素晴らしさは、物質的でない豊かさを国是にしたところだ、と。そのあと、五木さんが訪れた地インドによこたわる涅槃のブッダ石仏が映し出されました。平和の代償は、人命でなく物質にするのがいいに決まっています。貧困の共有とまではいいませんが、我慢や苦しみの共有<共苦>は、今後、多種多様な価値観・ライフスタイルを決定づける要因になりましょう。 

 けれども、昨今はそれと反対の傾向に拍車がかかっています。例えば、昨年の秋にある家電メーカーが、一〇年間フィルターを掃除しなくても強い吸引力を維持できる掃除機を発売しました。この製品は人びとの享楽心をいっそう刺激し、ひいては資源の奪い合い激化をさそい、平和を損ねるのではないかと危惧します。もはやこれは平和の代償でなく、豊かさの代償ということですね。 

2.豊かさの代償 

 人は衣服を着るようになった結果、寒さに耐えられなくなったと言われます。人は視力補強のため眼鏡をかけだした結果、ますます視力を弱めたとも言われます。さらに人は、軟らかい食べ物を口にするようになった結果、顎の発育不全が顕著になったと言われます。こうした現象は農業国や農村よりも工業国や都会に多くみられます。 

 農業国・農村と工業国・都会とで、人々の生活様式は異なります。前者において人々は、生活の資は、その多くを自然界から五体を動かしてじかに得ています。これに対し後者において人々は、地域的な繋がりを持たずに生活し、自然界で他と協調してでなく、市場で他と戦って勝ち抜くという競争原理を基本に生活の資を得ているのです。自然環境の只なかにある農村では、自然と地縁に働きかけない生活は不可能です。それに対し都会では、人工環境に生活維持とコミュニケーションの手段を組込んだうえで快適な独居生活を楽しんでいます。 

 でも、地球環境の破壊は止まるところを知りません。したがって、現代文明の未来は、農業国・農業地域の歴史性や特殊性を考慮したうえで、都市と農村のほどよい多極分散的共存を実現できるか否かにかかってくるでしょう。それが実現されれば、近未来の子供たちは隣接しあう都市と農村双方の環境に親しみ、不快あっての快適を知り、各々別個の、しかし双方そろって調和のとれる生き方を体験するようになるでしょう。そして、機敏で寒さに強く、遠くまで見ることのできる、しっかりした顎をもつ人に成長し、他者と握手し合って互いのぬくもりを伝えあうことでしょう。 

3.握手し合ってぬくもりを伝えたい 

 チャップリンの無声映画に「街の灯」というのがあります。チャップリン扮する一人の貧乏紳士がいて、ある花屋で働く盲目の娘さんに惹かれます。娘さんも手のぬくもりを通じてその紳士の優しい心に触れていきます。何とかしてその目を治してあげたいと、日夜仕事に明け暮れます。成り行きでヤバイことまでしでかしつつ、ついに彼女の治療費を捻出することができたのです。目の見えるようになった娘さんは、毎日花屋さんの店先で心優しい紳士を待つのでした。ある時、一人の薄汚れた紳士服の男が彼女に近寄りました。彼女はその男に小銭の施しをするだけでした。でも、その男の手に触れた刹那、娘さんは、目の前の貧乏男が彼女のためにすべてをなげうってくれたあの心豊かな紳士であることを悟るのです。 

 手のぬくもり、これは何にも替えがたい愛情と共生の絆です。私は、一〇数年前に恩師の一人が危篤に陥ったとき、ライフワークの研究テーマ「モルガン」を恩師の耳元で叫びつつ、すでに感覚を失って久しい右手を必死に擦りました。まわりにいて先生の容体を気遣っている親族・教え子の方々は言いました。「そちらの右手でなく、こちらの左手なら感覚が残っていますから気づかれるかもしれません」と。でも、私はとっさに感じたのです。いま亡くなろうとしている人物の全生命はいまやこの右手のペンだこに集中している、と。この人物のライフワークであるモルガン研究は、右手にもったペンから創り出されたのです。このでっかいペンだこと私のまだ小さいペンだこを擦りあわせて、私は恩師とのわかれのひとときを過ごしたのです。 

4.五感のおごり 

 「五感のおごり」という言葉があります。「耳の聞こえない人は音楽を楽しむることができない」、「目の見えない人は絵画を理解することができない」とする発想は「おごり」に通じます。ある曲を楽しみある絵画を理解するということは、耳や目が自由か不自由か、だけではすまされません。音楽に親しみ絵画を理解するとき、耳や目の不自由な人は別の感受性でもって目や耳の自由な人と共鳴しあい、雰囲気を共有しあっているのです。ある感受性をもたないでいる人がそれを補うことなくしかもそれをもっている人と心を一つにするものは、いったい何でしょうか。 

 楽しさとか嬉しさとかの感情、共感だろうと思います。その楽しみを、ただ聴覚や視覚が備わっているだけで味わえると思うのは、「おごり」というものです。耳の聞こえない人は他の感覚を総動員して聴覚を意識します。例えば、幼児に高熱を煩い光と音の世界を失ったものの生きる道を見出した「奇跡の人」ヘレン・ケラーは、一九二一年頃、ヤッシャ・ハイフェッツの弾くヴァイオリンの先に指で触れつつ、直接手に伝わる振動で音楽を感じとりました。その有様は映像に残っています。(「二〇世紀の大演奏家たち」NHK第三チャンネル、二〇〇〇年一二月三一日放映)その映像をみて、私はすでに亡くなっている彼女と苦しみを共有できた心地がしました。 

5.死者との共苦 

 戦中に検挙され一九四五年に獄中で亡くなった哲学者の三木清さんは、たしか五〇歳を過ぎた頃、「死んだらどうなるか」について次のように述べています。最近あまり死が怖くなくなった。というのも、自分の一番尊敬している人・最愛の人の多くが亡くなり、この世ではもう絶対に会えない。可能性はゼロだ。けれど万が一死後の世界があれば自分はその人たちに再会できる。この可能性はゼロと言い切れない。大切な亡き人に会う可能性がゼロのこの世よりはその可能性のゼロでないあの世を不安がることはいらない。そう考えると、自分は死が怖くなくなった。(『人生論ノート』新潮社) 

 三木さんは、死についてこのように自分を納得させています。だれかが、こう反論するかもしれません。死んだならすべて無になるだけで、恩師や最愛の人に会えやしない、と。この言い分は、三木さんには通用しません。なぜって、もし最愛の師や友、両親や伴侶が既に無に帰しているのなら、自分だけそうならないよう願う人はいるでしょうか。恩や愛が確かなものであれば、師や友、両親や伴侶と同じ運命<死者との共苦>にわれも身を任せてこそ心安まるのです。 

U 二一世紀に求められるヒューマン・インターフェイス 

1.神々と人とのインターフェイス 

 前近代の民間信仰において主役を演じる神々の多くは、七福神に象徴されますように、何らかのご利益的機能をもった神さまでした。また、だれもが知っている障害神にダルマがいます。もと達磨大師という修行僧だったらしいこの神は、信徒たちにまえもっていじめられます。片目しか開けてもらえないのです。そうしておいて、もし願い事をかなえてくれたならもう一つの目も開けてあげよう、という仕儀なのです。人間たちの大願を成就させなければ片目のままどころか、下手をするとどこぞに打捨てられもします。それに対して、まず願い事をし、もしそれをかなえてくれないとわかってからいじめにあう神に、てるてる坊主がいます。このお方は、翌日のお天気しだいでは無残にもくびをぶった切られるのです。童謡唱歌にこうある。「てるてる坊主てる坊主、あした天気にしておくれ。それでも曇って泣いたなら、そなたの首をチョンときるぞ」。 

 人間の残酷さはいまに始まったことでありません。民間信仰における神々とのインターフェイスにおいて、人々は昔から神様にも体罰を加え、ときに障害者にしてしまうのでした。また、民間信仰における神様には、悟りの境地に達しているとは到底思えないようなレベルのものがいます。えばりん坊や寂しがりや、はては罪を犯す神々までいますね。古今東西の民間説話や神話には、人間世界と同じように様々な価値観や性向をもった神がみがたくさんいるのです。それもそのはず、神話の世界はそれを創り出した人々の社会を反映しているからです。人間たちはそうした人間味あるれる神々をしたたかに利用してきたと言えましょう。 

 民間信仰において愛される神、いじめられる分だけ慕われる神、障害をもつゆえに人と共生する神、そうした庶民神は、21世紀の宗教生活において、外的事物・現象と人間との仲介役にふさわしいのです。 

2.正義と悪の交互性 

 前近代人のおおらかな性格と対照的に、現代人の多くは一面的に正義を愛し排他的に悪を憎みます。例えば、ファシズムを一面的に非合理主義に結びつけます。けれども、そのファシズムは民主主義の時代に民主主義を必要条件にして成立したのです。そのように、合理主義=正義、非合理主義=悪、という分断的発想は必ずしも成り立たちません。あるときには合理主義が悪とみえ、あるときには非合理主義が正義とみえることは自然な成り行きだということです。私の研究テーマからしますと、ものごとは関係論的に観察されます。正義も悪も、普遍で不変の実体や本質があると考えるのでなく、さまざまな個人間や組織間、国家間において交互的・相関的に決定される概念なのです。 

 かつてイギリスでは、主権者の国民は国内では同質的個人として政治的自由を分有していました。けれどもその同じイギリス国民は、インド等海外植民地住民に対しては民族的同質性の外におき、政治的自由を与えないでいたのです。すなわち、国内という関係では民主主義であるものが国外との関係では排外主義として機能します。また、一九三〇年代四〇年代のドイツ国民は、同一国内からユダヤ人を排除してゲルマン人の内部で国民投票を実施しました。すなわち、ゲルマン人の内部では投票率百パーセントに近い理想的な民主主義であるものが、ユダヤ人や侵略相手国との間ではファシズムとして機能したのです。ある制度や理念は、ある関係ではポジティヴに作用し、またある別の関係ではネガティヴに作用する。そのどちらか一方を切り離しては当該の制度や理念は認識不可能です。 

 二〇〇一年ニューヨーク九・一一以後、アメリカ政府は欧米=キリスト教=正義、アラブ=イスラム教=悪の分断を強調しました。その姿勢は二一世紀にふさわしくありませんね。他者のアイデンティティを尊重する精神がせつに求められます。 

3.二一世紀に求められるアイデンティティ 

 アイデンティティには、個人的なものと集団的なものがあります。人は、あるときは集団のなかに安堵をもとめ、またあるときはそれを個人のなかに求めます。このように、集団的アイデンティティと個人的アイデンティティは交互に行きつ戻りつしています。問題は、双方のどちらかに加勢することではありません。双方を行きつ戻りつする運動のなかに浮き上がってくるアイデンティティ、あるいは、個人=人格を基本単位とした上での、そうした個の連合としての集団的アイデンティティ、すなわち「間主観的アイデンティティ」を獲得することです。 

以上で、私のコメントを終えます。的外れな饒舌ではなかったかと危惧しますが、どうぞご容赦ください。

            目次に戻る