新宗連結成55年記念シンポジウム

やすいゆたかの発言

やっとシンポジウムから三年たって『よみがえる宗教ー新しい役割を探して』の記録が本になりました。しかしこれは新日本宗教団体連合会が発行した非売品なので、一般に目に触れることが出来ません。ですから広くこのシンポジウムの内容を知ってもらうためにここで紹介したいのですが、他の方の発言まで無断で紹介するわけにもまいりませんので、私の発言の部分だけ転載させていただきます。

 

コメント

 私は長い間、哲学を勉強してきました。哲学は、やればやるほどわからなくなる。昔はソクラテスよりもプラトンの方がすごいと思ったり、カントよりもへーゲルの方がすごいと思ったりしたのですが、結局「無知の知」ということで、「何もわかってないということがわかっている」ことが、一番わかっているのだなと、ソクラテスが一番偉いと感じてきました。  

 ソクラテスは「無知の知」を悟った。その教えは、すべてが無知だというゼロのところに達したところから一緒に積み上げていきましよう、みんなが納得できる知を積み上げていきましようということだと思います。宗教についてはまったく無知の素人ですが、たくさん申し上げたいことがありますので、今回コメンテーターを引き受けることにしました。

生命を創造し直す営み

 中江さんは、生命の尊さを非常に強調されておられますが、生命の原理に返って、一から生命を創造し直す、そういう営みが宗教である、と考えれば別に宗教を特別なことと考えなくてもよいのです。

 商品社会の中で、現代であれば資本主義社会の中で、すべての人間の営みは魂が失われている、生命が失われているという状況にあります。その中で、もう一度最初の原点に返って、感じる力、生み出す力、作り出す力を喚起していくのが宗教ではないでしようか。  

 「感じる」という営み、一番原始的なことで言えば、「食べる」こと、あるいは「祈る」「生む」「作る」といった活動が、日常生活のいろいろな疎外状況の中で失われている。そして、作り出す喜びなどをなかなか感じられない。どうやったら感じられるようになるか、宗教はそれを取り戻す場であるべきだと思います。

 たとえば、いっしよに日の出を拝むことも、純粋な気持ちに返ればそこに感動があります。また最近、胸にぐっときたのは『千の風になって』という歌です。  

 この歌で日本中の、世界中の人が涙を流しました。それから、テレビでも紹介された「フリーハグズ」といやのをご存知ですか。街かどで見ず知らずの人と抱き合う運動です。  

 もともとはアメリカのジェーソン・ハンターさんが始めました。彼のお母さんはすごく優しい人で、他人に対して「あなたのことが大切なのよ」という気持ちを伝えたいと、すぐ抱き締める癖があったらしい。  

 息子さんは、側でそれを見ていても、それが持つ意味をほとんど感じなかったのですが、お母さんが亡くなってから、お母さんに抱きしめられたことにすごく感動している人が多かったので、その大切さに気づき、「フリーハグズ運動」を始めたのです。 

 この運動が世界で有名になったのは、ユーチューブというインターネットのサイトで紹介されたからです。ジュアン・マンというオーストラリアの芸術家の青年がプラカードに「フリーハグズ」と書いてストリートに立っています。そうすると、見ず知らずの人がそれを見て彼と抱き合うだけのことなのですが、これはすごいことだと思いませんか。愛というものを信じていなかったらそんなことはなかなかできません。  

 中国でそれをやったら警察官に呼び止められて怒られたらしい。でも、愛を信じているからこそできるので、そのことがすごく素晴らしいことであると感じられます。これはやはり宗教ではないでしようか。

 先日、このシンポジウムの準備会のときに、うちのワイフにどら焼きを作ってもらい持参しました。うちのワイフはどら焼きを作るのもケーキを作るのも上手です。もともと貧しかったから、手作りだと安上がりだということもありますが、手作りすることによって、子どもに愛情を食べさせることができるからです。  

 このように、どら焼きを作って子どもに食べさせたり、お客さんに出すことがすごく宗教的な行為なのです。愛情を何かものの形にして提供することで、自分の心、気持ちも魂もみんな伝わる。「いのち」と「いのち」がつながっていきます。食べものは、直接「いのち」を伝えるので特にそうです。  

 よく考えると、服を作るのも、他の品物を作るのでも同じことです。われわれは社会に出て、仕事をし、働き、ものを生み出している。学校の先生だったら教えている。そういうことも宗教です。 

 ものを作って与え、それで「いのち」がつながる。そういう宗教の原点のようなものを常に意識して生きていければよいのでしようが、それは難しい。資本主義社会の中では、金勘定ばかり気になってなかなか純粋な気持ちになれません。 

 「いっしよにしよう」という目的意識を持って集まってきて、「いのち」を作り出す、「いのち」を生み出す、そういう場所が教団であり、それを実践するのが宗教ではないでしようか。 

 そういうふうに考えますと、禅宗の臨済宗などには、精進料理やお茶とか華道があります。天理教にも「ひのきしん」というのがありまして、お掃除をします。ごくあたりまえの家事とか、ものづくりを原点に戻って行う場所が宗教であり教団です。そういう位置づけがあれば、宗教は普遍的なものと言えるのではないでしようか。 

 

平和や環境問題への貢献

 現在、平和の問題では、文明の衝突が言われています。その根底にあるのが宗教的な対在です。  

 近代国家はもう限界になってきたので、近代国家によって抑えつけられてきた宗教対立、文明の違いが表面に出て、それが戦争につながってきたと言われています。  

 ですから、宗教的な和解がなされなければ本当の平和は来ないのです。宗教的対立はなぜ起こるか、表面的な違いばかりにこだわって、共通であり根本である、生命、あるいは魂の関係、魂の営みというものを忘れているからです。  

 ものを作ることでもあいさつをすることでも、ありがとうと言ったり、「いのち」を「いただきます」と言って食べたりする営み自体が宗教です。そういう点ではどんな宗教でも同じです。

 心と心がそうしたことで通い合えば争いになるはずがないでしよう。エルサレムのユダヤ教神殿跡の中に「岩のドーム」というイスラム教の神殿があります。いわばユダヤ教の心臓部にイスラム神殿がある。そのために、ユダヤ教とイスラム教は絶対に和解できないと言われています。  

 しかし、もともとユダヤ教とイスラム教は同じ神様を信仰し、そんなに違う宗教じゃない。ただ、歴史的にいろいろなもめごとがあったので和解できないだけです。

 「いのち」の原点に立ち返れば平和は絶対に可能です。環境問題でも、「いのち」の循環というものをしっかりとらえるのが宗教であるなら、どんな宗教でも同じようなアプローチができるはずです。

 宗教界がリーダーシップをとって、問題解決のプログラムをきちんと作って、具体的にやっていただければよいのでないかと思います。

対極的ではない祈りとものづくり

 それから「『祈り』の価値を伝える」という中江さんのテーマにあります「祈り」ですが、これを「内面的な呪文を心の中で唱えている行為」としてだけとらえるのではなく、いろいろな形で、生きる営み、生産とかものづくりというものの中で、祈りを込めて掃除をするとか、祈りを込めて話をするという形でも表現可能だと思います。

 祈りを、生命を尊重して原点に返ってものごとを行おうとする営みだととらえますと、日常生活における生産の働きとか、いろいろなパフォーマンスなど仕事やサービスも、大切な役割を持っています。  

 自分の祈りを込めてやっていくと、そこに心がこもりますから、いろいろなアイデアが浮かんできて、創意工夫ができるのです。 

 教団でいっしよになって原点に返ってものごとを考え、取り組んでいくことができれば、それが生活に反映していく中で、祈りの価値がわかってくるのではないでしようか。  

 だから、私は、祈りとものづくりを対極的にとらえるのではなく、むしろ活性化する営みとして祈りをとらえてほしい。そうすれば宗教を、日常的な生産活動、ものづくりの活性剤としてとらえられるのではないでしようか

「共苦」がなければ

 熊野さんのお話には、普遍的な話がかなりありましたので重なりますが、いまのお話を踏まえて、信者さんの多様な悩みにどう対応するか考えてみます。 

 一つのできあがった教義に、信者の多様な悩みに対する答えが書いてあるわけではありません。ですから、まず一人ひとりの悩みを聞くことです。聞いて、いっしよに考えなければなりません。  

 たとえば、息子さんが自殺され、すごく悩んで落ち込んでいる人がおられました。私の親友の故藤田友治さんは、コメントのしようがないから、ただいっしよに肩を抱いて泣いてあげたそうです。  

 そうしたら、「いろいろな人に相談したり話を聞いてもらって、皆さん言葉でいろいろ励ましてくれたけど、ひとつも心が癒えなかった。でも、いっしよに泣いてくれ、抱いてくれたので、それで自分の気持ちが伝わったと思って癒やされた」と言われたそうです。  

 やはり魂の問題なのですね。いっしよに苦しむ「共苦」が大切です。悩んで落ち込んでおられる人に、適当なことばかり言っても通じないわけです。個別の人に、教義からそのまま心を持ってきてもよいわけではありません。教義がいかに正しくても、まず、苦しんでいる人と同じように苦しむことができなければ、どんな立派な教義も適用できないと思います。  

 私が言いたかったことの一つに「『いのち』のつながりを想起させる働きとして『いのち』を与える」ことが宗教では重要ではないか、ということがあります。

 キリスト教の教会の儀式で聖餐式(せいさんしき)というのがあります。日曜礼拝の全体を聖餐式と言います。聖餐式は、「いのち」を与える、イエスの肉と血を与える儀式です。これを読み替えますと物を作って与える、「いのち」を与えることが宗教の原点にあるということです。

教団の社会進出の意義

 それから、熊野さんが社会進出という形でとらえておられますが、医療、教育、生産といった生命活動の原点を、教会あるいは教団は踏まえていなければなりません。それをどう示すか、社会進出をして見本を示すことが非常に重要です。  

 世界を平和にしたいとか、教育をよくしたいとか、医療をよくしたいと本当に思っているのなら、教団が、大きなものを作らなくても、小さくてもいいから、そういう組織を立ち上げ、心のこもった教育をする、社会事業をする、医療をするのです。 

 原点に立ち返っている宗教者がすれば、すそれは社会の活性化に大いに役に立つはずです。世界の平和とか環境問題をリードするつもりなって、ぜひともやっていただきたいと思います。

 

以下はディスカッションでの発言です。

ものづくりの中にある祈り

 「日本的霊性」ということに少し触れたいのですが、日本の近代宗教は西洋の宗教観の影響を受けて、ものと心という二元論になってしまうことがあると思います。ですから、宗教というのは唯物論よりも観念論というように考え、心の中に閉じこもってしまいがちです。  

 しかし、振り返りますと日本の宗教はもともと自然宗教でした。飛鳥時代の物部氏は武器を持って国の軍事にあたるとともに、祭祀を仕切っていました。  

 ということは、ものというのは同時に魂でもあり、結局ものが神なのです。仏教が日本に入って来てからも「心」と「もの」を対極的にとらえるのではなく、どちらかと言えば一つとしてとらえるという方向にあった。

 だから仏像やものづくり、茶道、華道など心をものとして表現したのです。ところが近代になってから、西洋的な宗教観念に染まってしまって、日本的霊性とはどういうものだったかが忘れられてしまっている面があると思います。  

 そうした点をもう一回見直して、ものと心を二元的にとらえるのではなく、その結び付きを考え直すことも大事ではないか。それと、ものを作っていくということの中にも祈りがあるということを言いたかったのです。

改革について

 宗教の歴史を見てみると、法然さんの考え方でいけばお寺も、塔も、経典も、お坊さんも要りません。「南無阿弥陀仏」を唱えるだけでよいのです。それは、それまでの仏教をめちゃくちゃ変えています。  

 新宗連に集まっている教団も百年近く経っているかしれませんが、長い歴史から見たら新しい。ということは、それまでの宗教に比べればすごく変えている。ですから、変えてはいけないところもたくさんあると思いますが、根本に返ることは、常にどんな時代でも魂ですから、きれいに洗い流して、ゼロからガラガラポンでやり直すのだという開き直りも必要です。  

 しかし、ゼロから考え直すといっても、参考になるのは過去にガラガラポンをやった偉大な人がいるからです。それを考えると宗教は、常に新しいし、常に古いのです。そうした視点をしっかり持っていれば、そんなにめちやくちゃな方向には行かないで大胆な変革も可能ではないかと思います。

マルクス主義も宗教か

 宗教の存在理由と言われた場合、結局、生きていることをどう感じるかです。そこに何か生きる意味みたいなものを求めているわけです。  

 その人その人によって感動の仕方とか生きがいとかが違ってきますが、その人なりに自己実現といった何かを求めるものがある。それを形にしていったときにそれぞれの宗教があると思います。

 宗教を否定している人には、唯物論とか無神論とか、考え方はいろいろありますが、そういう人たちも自分の原理を宗教的な原理として生きているわけです。 

 マルクス主義を研究している人に「マルクス主義も宗教と違うか」と聞くと、「そんなはずない」と 言っていましたが、最近は、「マルクス主義も宗教だったのでは」と言うようになってきました。  

 だから、自分の生きる原理、生きる軸みたいなものをしっかり持って、一貫してそれを追求すればそれは立派な宗教であって、その時代その時代に大きな役割を果たしている。マルクス主義も大きな役割を果たしたと思います。  

 そういう意味で、二十一世紀もいろいろな共生の原理とか共苦の原理というものの中に、宗教否定の人であっても、宗教的なものを原理として持っていて、それをどう評価するかです。  

 現在、哲学・思想関係で言ったらニーチェが圧倒的に人気があります。なぜそうなのかと言えば、大胆な生き方のチェンジ、自分を超えていく追求があって、それなりの一貫した原理を持っているからです。だから、そういうのを宗教者もどんどん学んでいけばよいと思います。

宗教の果たす役割

 毎日の食事を数えますと、日に一食作くるとしましても、一年に三六五回、十年で三六五○回になる。人は何十年生きるかわかりませんが、一生に一○万回以上の食事を食べるわけです。そのたびに、おいしかったらすごく幸せです。

 食事は、夫が作っても、時間のある者が作ってもよいと思います。ともかく毎日の食事をおいしく作ることは、幸せと大きくかかわる。そうした日常的なことに大きな意味があると思います。

 毎日の生活で、食事を作ることも、仕事をすることも同じです。自分の仕事に一生懸命になって、創意工夫をして楽しんでいるかどうかが問われます。  

 楽しんで仕事をしていたら一生幸せですが、嫌な気持ちばかり持って働いていたら生涯とても不幸です。それはわかりきったことですが、宗教は楽しんで生きるということを教えてもらえるし、教団というのは、それが素晴らしいことだと体験できるところだと思う。

 宗教があることによって生きる喜びを知ることができたら、すごく幸せだと思う。そんなことは宗教とは関係ない、家庭は家庭、あるいは仕事は仕事、それぞれの常識に任せてやっておけといったら、だめです。

 世の中にはいっばい嫌なことがある。だから、宗教の存在理由とか社会的役割といった場合、教団に行ったら、生きる意味とは何かとか、ものを作るということはどんなことなのかということがわかればよいわけです。  

 教会や教団がそういう場所なら、そこに通うことで、いままでの惰性的な態度を転換できるのではないでしようか。また、家庭生活や職場生活で何かチェンジするものが生まれてくるような気がします。  

 お寿司屋さんとか料理屋さんが、お客が来たときにお客が満足するようなものを出そうと思ったら、お店の人はお客の気持ちに合ったものをどう作るか、真剣勝負になります。宗教だってそうだと思う。 

 真剣勝負でいかないとだめだ。儀式が全部決まっていて、この本を読め、こういう話を聞けと言っても、一人ひとりの人生はマニュアルどおりにはいきませんね。  

 宗教は「いのち」のやり取りです。そこに行ったら本当に心が洗われて生き方の原点に返れるという教団になるべきです。「いのち」の原点に返るというのが宗教の教義だから、宗教こそ、それができなければいけない。それができなかったら世の中もよくならないという気持ちになってもらわないと、と思います。

いかに社会とつながるか

  先ほど言いましたように、原点返りの場所としての教団と宗教というものがあって、家庭や職場などどんな領域にいるときも心の中には宗教がある、教団があるという気持ちになれることで、社会をリフレッシュさせる力があると思うのです。

 ただ、そういうことは一般論ですから、具体的にいまの時代においてどういう活動が求められているかということは、ある程度その時代の状況次第です。  

 たとえば、教育問題では、教育再生について宗教はどうかかわっていくのか、社会に目に見える形で示さなければいけないと思う。教団に入っている先生方が教育問題をいっしよに考えて職場でやっていくべきでしょう。  

 平和の問題、環境の問題も宗教者は熱を込めて語られるのですが、その場合、具体的な案を提起する。もちろん教団の組織とか力量から、できることは限られると思いますが、創意工夫をしていけばそれなりにやれることは出てくるでしよう。

 それを話し合って作り出し、この教団は平和に対してこういう活動をしているし、環境問題についてはこういうことをやっていると、それなりに頑張っていると感じられるような姿で示す責任があります。

 現状は、社会批評とか政治批評ばかりやって、形になってない場合もある。世間のことをいっばい批判するけれども、その教団はいったい何をやっているのかということです。  

 宗教の社会的役割として世間はそれを見習いますから、リーダーになれなくてもリーダーになるような意気込みでやってください。そうなるとわれわれも頼もしいと尊敬します。

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