諸子百家の思想

 

1礼樂復興と仁


 

古の礼楽復古行ひて天下整へ夷狄払はむ


 

先生:いよいよ源流思想も大詰めです。中国三千年の文明を支えた春秋(前770〜前403)・戦国(前403〜前221)時代の諸子百家の思想に入ります。


 

太郎:古代中国はすごく興味があるので、僕に説明させてください。周は王室の親族や重臣に代々各地を治めさせる封建制度をとっていました。代を経るに従い、各地の諸侯と周の王室との関係は疎遠になり,各地は独立国の様相を示します。そして各国は互いに覇権(ヘゲモニー)を競って争い,国の内部では下剋上の傾向が見られました。しかも周辺の異民族の侵入が激しくなっていたのです。前770年異民族犬戎に都を落とされ、洛邑に東遷しました。それ以後が東周です。そこで中国の統一を回復し,異民族を斥ける為には何をなすべきかが問題になり,諸子百家と呼ばれた思想家達が活躍しました。


 

先生:その中で儒家も,@(  )を尊び,中国の統一を回復し,攘夷を行う「A(    )」の立場に立っていたのです。春秋の覇者たちのように武力を持たない儒家たちは,A(      )の為には周代のB(   )を復活させ,普及することが大切だと考えました。その事によって伝統的な身分秩序に則って安定した社会に戻ると考えたのです。そこで孔子(孔丘)は塾を開いて,六芸つまり禮(儀式・礼儀作法全般)・樂(儀式に伴う歌舞音曲)・射(弓)・御(乗馬)・書(読み書きから文献研究まで)・數(計算から会計まで)を教えていました。特にB(   )が重視されましたから,盛んに歌舞音曲のお稽古をしていたんです。


 

花子:へえー孔子は歌や踊りや演奏を教えていたのですか。


 

先生:特に儀式に関しては民家の葬儀まで一手に取り仕切ろうとしたところに儒家の社会集団としての存在意義がありましたから,芸能的な側面は大切だったのです。でも礼楽を形だけ整え,人間に位だけ与えても,そのB(  )に精神が籠もりません。君子に徳が備わらなければすぐに駄目になってしまいます。そこでB(   )の精神とは何かが問題になります。


 

花子:それがもちろんC(  )ですね。


 

人ふたり支えあって生きるには、相手の気持を思ひやりたし


 

先生:釈尊は相手に応じて法を説く「D(       )」を行いました。孔子も礼楽を学ぶ弟子の個性に合うように仁を教えています。「E(             )(言葉巧みでハンサムなのは仁が少ないものだ)」「F(           )(がっちりしていて素朴で口下手なのが仁に近いのだ)」等は,ぶきっちょで真面目な男に自信を付けさせる言葉です。


 

太郎:仁とは愛のことでしょう。


 

先生:樊遲には「仁とはG(        )ことだ」と答えています。彼は決して英才ではなかったのですが優しくて誠実だったのです。相手がいつも考えていることを見抜いて、それを答えてあげるのです。そうすると「わが意を得たり」ということで、尊敬されるのです。


 

花子:それじゃあ樊遲が冷酷なので諭す意味で「G(     )のが仁だ」と教えたのではなく、樊遲のよく分かっていることを教えたわけですね。知らないことではなく、知っている事を教えるというのは面白いですね。


 

先生:「H(   )(まごころとおもいやり)」に常に心掛けるように曾皙に諭していたのは,曾皙が冷たい男だったからではなく,その反対に大変真心と思いやりに溢れた人柄だったからなのです。だからH(   )の道を貫くことが一番大切だと言われると,我が意を得たりと,師に対する尊敬は強くなります。人間は心の何処かに自分が一番分かっているつもりでいますから,自分と同じ考えを述べてくれる先生は最高だと思ってしまうものなのです。


 

太郎:そういえば、克己心が強く,求道的でしかも「一を聞いて十を知る」逸材だった顔淵(顔回)には,「I(     )」が仁であると教えましたね。


 

先生:そして顔淵への期待を籠めて「一日I(      ),天下歸仁焉」と唱えたのです。つまり普通の人間なら自分のわがままを克服して,きちっと行うべきことを行っても,天下がどうなるものでもありませんね。腰の座らない遊び人だった男が,いい嫁さんをもらったので,途端に真面目に働くようになっても,世間はほっとするだけです。ところが顔回のように,孔子でもとても真似が出来ない程「I(     )」してきた男が,なお己のわがままを克服しなければと励んでいるのですから,もしそれが成就できたら,みんな感動してしまって仁に外れたことは恥ずかしくてできなくなります。つまり「天下は仁になつく」のです。

太郎:師の期待にもかかわらず,願淵は夭折(若死に)してしまいますね。その時,孔子は「J(             )(ああ天我を滅ぼせり,我を滅ぼせり)」と号泣したのです。


 

先生:ホッブズが自然法の中でも特に重視した「万人の法」にあたる「K(                )(己の欲っせざるところを,人に施すことなかれ)」や,「バイブルの黄金律」にあたる「L(                     )(それ仁者は己立たんと欲すれば人を立たす,己達せんと欲すれば人を達す)」も仁の説明に使われています。自分が相手の立場にいたら自分はどうしたいだろう,どう人にしてもらいたいだろうと,自分の身に置き換えて考えて,相手の為になるようにしたいと思う心が仁なのです。 


 

花子:有若の言葉「M(                          )(孝悌なるものは,それ仁の本たるか?)」について説明してください。


 

先生:中国で発達した家父長家族制の伝統に立脚して,「孝」を重視する儒教の根本を示しています。家で両親を大切にし,両親に仕える気持ちで,勤めで君主を大切にし,君主に仕える,また家で兄を尊重し,兄に従順であるように,勤めや社会で先輩や目上の人を尊重し,従順にすれば,世が乱れるような心配はないとしたのです。  


 

問.@(    )〜M(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
夫仁者己欲立而立人,己欲達而達人  周室 尊王攘夷 対機説法 噫天喪予,天喪予 
克己復礼  巧言令色鮮矣仁  孝弟也者,其爲仁之本與 剛毅朴訥近仁       
己所不欲,勿施於人  礼樂  仁 人を愛する 忠恕
 

3徳治主義 


 

刑罰で人の心は縛られぬ、己修めて手本示せや


 

太郎:孔子は君主が徳を磨いて、その徳で治める@(     )をかかげたのでしょう。


 

先生:孔子は「A(                               )(これを導くに政を以てし,これを斉うるに刑を以てすれば,民免れて恥ずることなし,これを導くに徳を以てし,これを斉うるに礼を以てすれば恥ありて且つ至る)」と徳による支配を説きました。そのためにも君子が先ず身を修めるべきだと「B(      )」を説いたのです。そして本当に徳治政治実現への道に通じる真理を究めることが出来たら,何時死んでもよいと「C(               )(あした道聞かば,夕べ死すとも可なり。)」と洩らしたのです。


 

花子:それで孔子は道を究めることができたのですか?


 

太郎:孔子自身の晩年は挫折に終わってしまいます。何故なら儒家が広めようとした礼楽の復興は,周の時代の秩序に則ったものですから,下剋上が進んでしまった時代には合いません。孔子が権力の中枢に近づけば,新勢力によって排除されざるを得ないのです。魯の国で失脚した孔子は諸国を渡り歩くことになってしまいました。


 

先生:それに儒家を宰相にしますと礼楽に乱費され,君主の徳を磨くように干渉されて,煩わしいことになると警戒されました。ですから最も高潔で優秀な人材であった顔回は,どこからもお呼びが掛からず,「D(                   )(人知らずしてうらみず,また君子ならずや)」と孔子から慰められていたのです。孔子にすれば道が行われる可能性の無い国で,認められて徳治政治をしようとすれば必ずあやめられてしまいます。「E(           )」です。無道の国で権力を振るっているのは悪い奴なのです。孔子のねうちは徳が通じなくなった時代に敢えて徳を高く掲げたところにあります。             


 

太郎:しまいにしびれをきらして権謀術数で権力を握ってから,自分の理想を実現すればよいという考えに傾きがちです。でも力で取った権力は力で奪われます。いったん徳を投げ捨てて信頼を裏切った為政者に対して,信頼して協力する臣下や人民はいません。徳治政治は君主の徳に人民がなつくことによってはじめて成り立つのですから,まごころとおもいやりを「F(      )(いつもってこれをつらぬく)」他なかったのです。


 

問.@(    )〜F(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
道之以政,齊之以刑,民免而無恥,道之以徳齊之以禮,有恥且格  徳治政治 修己治人
朝聞道,夕死可矣  一以貫之  君子危うきに近寄らず  人不知而不慍,不亦君子乎


 

4兼愛非攻


 

汝が親の世話を頼むはいずれなる別愛の人兼愛の人


 

先生:儒家は『孝経』に代表されるように両親に対する「@(  )」を特別に重視しました。これは家父長家族が発達し,強固な門閥支配が形成されていた中国で儒教が以後二千年もの間,支配的思想となった最大の理由です。しかし愛情をA(     )で差別する事によって,私的利害の為の争いが正当化され,あらゆる社会的な矛盾が生じたのです。その結果が、家族間、集団間、国家間の戦争になるのです。そこで儒家の説く差別愛を「B(  )」と呼んで斥け,墨家は「C(  )」を説きました。自己と他者,自分の親と他人の親を分け隔てなく愛するのがC(  )です。このC(  )によってはじめて全ての争いや矛盾が取り除け,みんな仲良く暮らせるというのです。

太郎:でも実際に家族といっしょに共同生活しているのに、自分の親と他人の親を分け隔てしないというのは無理があります。墨家は共同生活していたのですか。
 

先生:その推理は当たっているでしょう。『D(  )』では隣家の柿を盗んだだけで,手を切られたりする重罰に課せられるのに,隣国に侵略し,大量に人を虐殺し,財宝を略奪しても英雄視される戦争の理不尽さを告発しています。敵国の河の上流に毒を流し,混乱に陥れて国を奪うなど当時の戦争の残酷さもリアルに表現されています。墨家のC(  )は,城砦を築き、防衛戦を指揮して、小国を大国の侵略から守り,平和を実現しようとした「E(   )」の実践と一体だったのです。墨家集団は防御のスペシャリスト集団として大活躍しましたから,しっかり守ることを「F(   )」というようになったのです。
 

花子:小国を大国の圧倒的な戦力による侵略から守ろうとして小国に乗り込むなんて、すごい英雄的ですね。何か秘策はあるのですか?
 

先生:一つは土木技術が優れていて、難攻不落の城砦を工夫しました。そして小国の人々を作戦中は既成の身分に囚われずに、再編しました。その上で徹底的に防衛戦の駒として訓練しなおして戦ったことです。
 

太郎:そこまでできるのは墨家の人々に戦災孤児が多かったからではないのですか。
 

先生:それは鋭い推理です。当時は戦災孤児が多かったので、墨家集団が彼等を組織し、反侵略戦争の戦士に鍛え上げたことは想像できますね。自分の親と他人の親を分け隔てしないというのも、戦災孤児なら共感しやすいでしょうから。
 

花子:儒家の人々からは、この「親不孝者め」ということで反発が強かったでしょうね。
 

先生:『孟子』には「自分の親と他人の親を分け隔てしないというのは、G(       )」と激しく非難されています。儒家にとっては墨家が最大のライバルだったので、余計に感情的に反発していたのでしょう 。
 

花子:しかし、B(   )でいけば戦争になり、人類の共倒れだという危機意識からC(   )の必要を説いているのですから、反論になっていませんね。
 

先生:そしてH(   )(節約のこと)や葬式を簡素にするI(    )そして音楽を禁止するJ(   )、また献身的労働を説き,王が先頭に立ってもっこを担ぎ,ひとりの餓死者も出さないように連帯することを呼び掛けたのです。「みんなは一人の為に,一人はみんなの為に」というのがC(  )精神なのです。

 

花子:ところで墨家が小国を大国の侵略から献身的に防衛することによって,天下は平和になったでしょうか?

 

先生:かえって大国による天下統一の妨げになり,戦国時代が終わらないという自家撞着に陥ってしまったのです。そこで墨家の中には秦の平定した土地に要塞を築いて,秦の天下統一を手助けするK(   )まで現れ,分裂しました。もちろん秦にすれば天下統一が成功すれば,墨家は不要で邪魔なだけですから,墨家は結局滅亡させられてしまいます。
 

問.@(    )〜K(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
節用 親縁の度 別愛 非楽 孝 秦墨 墨守 兼愛 禽獣にも劣る 墨子 非攻 節葬 


 

5五倫の教え


 

血を分けし息子に鞭を振るふのは立派に育ての親心なり
    義のために君に従ふ臣なれば不義を行ふ君を諌めよ
    雌鳥が鳴けば社稷の滅びたり夫婦の別は忘れまじきを
    若輩の上司が部下を横柄に扱ふならば人は得られぬ
    友思ふ信(まこと)の心ありしなばなどて語らぬ血吐く言葉で    


 

先生:戦国時代には儒家の中で@(    )とA(    )の対立が見られました。@(     )の代表が孟子です。孟子は大切な人倫のあり方として「B(    ),C(    ),D(    ),6(    ),F(    )」の五倫を重視しました。

花子:B(    )というのは、父と子は親しみがあるというのは当たり前じゃないですか?

先生:「父」という文字は,鞭で子供を躾ける姿に由来していますが,それだけ子にとっては怖い存在だったのです。でも憎くて鞭打つのじゃない,子に立派に成ってほしいという愛情からです。そこで父と子は本当は親しみで結ばれているんだと諭しているわけです。
 

太郎:C(    )は、君臣関係ですから義より忠ではないのですか?
 

先生:家臣は君主から封禄をいただいているものですから,君主の命令ならどんな事でも従うのが当然のように思われがちですが,本来は君主が義を行うことに共鳴して,それを助ける為仕えている筈です。君主がもし不義を行おうとすれば,身を挺してでも諌めるべきなのです。また人民に害を及ぼすようなら,そんな君主は追放すべきなのです。それで君臣は本当は義で結ばれているという思想は,謀叛を容認する思想として日本の江戸時代にはG(     )などの国学者から評判が悪かったのです。
 

花子:夫婦は一心同体だというのに、「別あり」では淋しいですね。
 

先生:夫婦はつい馴れ馴れしくしがちですが,夫は社会的仕事があり,妻は家庭を守るというようにはっきり区別すべきだということです。妻が夫の仕事に口を出しますと縁故・情実で仕事が左右され,公正な仕事が出来なくなり,国を滅ぼす原因になりかねません。中国の古い諺に「雌鶏が鳴いたら国が滅びる。」というのがあります。

 

太郎:E(     )の「序」は年上と年下は順序があるから、年長者を敬い立てなさいということですね。
 

先生:そうです。年下の上司が年上の部下に横柄な態度をとって,顎で使っているのを見掛けるのは厭なものですね。たとえ部下でも年長者には丁寧な言葉で話し掛け,何かにつけて経験豊富な年長者に相談し,大切に扱えば,年長者は惨めな思いをせずに済み,ますます若輩の上司を慕い,献身的に貢献しようとします。そういう上司の下には安心して働けるので人材が集まるのです。これが「E(     )」です。
 

太郎:友達は友情というので「情あり」かと思いましたが。
 

先生:友達を無くすのは淋しいので,つい相手の嫌がることは言わないで,遊興の相手ばかりしてしまいがちです。でも本当の友達なら包み隠さず,相手の悪い所も含め、言うべきことを言わなければなりません。そして共に義を行う誠の心で結ばれているべきです。真実を言うのが「信」なのです。信は「誠」の意味を持っています。それで「F(   )」と言います。
 

花子:それで五倫は孟子が考え出したのですか?
 

先生:『孟子』には五倫が出てきますが、その解説は出てきません。ですから『孟子』が書かれたときには既に儒家の良識として通用していたのでしょう。

問.@(    )〜G(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
父子有親 本居宣長 朋友有信 性善説  君臣有義 性悪説 夫婦有別  長幼有序 


 

6仁義に基づく王道政治


 

助ければいくらくれると母親に掛け合う暇に子は溺れ死ぬ
万引きの功を誇りて見せ合いし、子らにはありや羞悪の心


 

太郎:儒家の孟子の性善説は「@(     )説」と言いますね。この場合「端」というのはどういう意味ですか?

先生:「端緒」というのは「始まり」という意味なのです。人間であれば皆@(        )があり,それを拡張すれば聖人の徳であるA(       )に到達できるとしました。人間にはだれでも他人が不幸になるのをみて,放っておくのを忍びなく思う「B(        )の心」が起こります。この心を大切に育てれば,聖人の徳である「C(       )に到達できるのです。

花子:具体的に説明してください。ピンときません。

先生:今まさに井戸に落ちそうになっている子供を見たとき、だれでもとっさに助けようとしますね。つまりこれが他人が不幸になるのをほうっておけない思いやりの心、「B(        )の心」なのです。この心は誰にでもあるのだから、そういう心を大切に育てていけば、進んでみんなの幸福の為につくすC(     )の徳を持った聖人になれるということです。

太郎:子供を助けようとする動機に不純なものがあるかもしれません。子供を助けてたっぷりお礼をいただこうとか、その両親に恩を作って何かと両親を利用しようとか、そういう場合でも「B(        )の心」はあるのですか。

花子:とっさの場合でも自分の利益のことを考えられるかしら。相当の打算家ですね。

先生:反射的に行動するのだから、その場合は相手が井戸に落ちたら大変だということで、助けますから、一切打算は働かないと孟子は思いました。そういう場合に見殺しに出来るような人は人間じゃないと思ったのです。ところが現代中国でとんでもないことが起こったのです。今まさに川で子供が遊泳中に溺れています。それを観ていた母親が、泳ぎができなかったのか、「だれか息子を助けて!」と叫びました。するとどうでしょう。子供を助けに行く前にその母親のところに人だかりが出来まして、「助けたらいくらくれるか」の交渉が始まったのです。そうしている間に可哀想にその息子は溺死してしまいました。孟子に言わせれば、そういう行いは人間とは言えないのです。

太郎:次の「D(       )の心はE(    )の端である」というのはどういう意味ですか?

先生:人間にはだれでもさもしい行いをすれば,悪い事をして恥ずかしいという「D(       )の心」が起こります。この心を大切に育てれば,聖人の徳である「E(     )」に到達できるのです。

花子:
「さもしい」とは辞書で見ますと「1 品性が下劣なさま。心根が卑しい。意地汚い。「・い行為」「・い根性」2 見苦しい。みすぼらしい」ですね。

先生:「万引き」は窃盗の一種で恥ずべき犯罪です。人間ならばだれでも盗みはいけないという良心がありまして、万引きしようとするとき、手が震えるものだと言われてきました。

花子:最近は、主婦がストレス解消で万引きのスリルを楽しむという話ですね。

先生:それは孟子が聞いたら腰を抜かしますよ。戦国時代より人心が乱れていると嘆かれるでしょう。私も30歳代の時に腰を抜かすような事件がありました。少人数制の小中学生向きの学習塾を営んでいたのですが、中学二年生定員10名のうち6名が休憩時間に近所の駄菓子屋や文房具屋さんなどで万引きした成果を自慢しあって楽しんでいたのです。まるっきりD(     )の心なんてゼロですよ。孟子も真っ青でしょうね。

太郎:「F(      )の心」というのはお年寄りに席を譲ろうとする気持ちを人間ならだれでも持っているということですか。この心を拡張していけば,聖人の徳である「G(       )」に到達できるのですね。
先生:席を譲るのはもちろんですが、儒教では我先にライバルを押しのけて出世しようとするのは見苦しい行為なのです。「夫仁者己欲立而立人,己欲達而達人」の気持ちが大切で、自分のことを謙遜して、とてもその器ではありませんと遠慮し、先輩やライバルの才覚をたたえて推奨するのがマナーなのです。そうしますとなかなか出来た人だということで、かえってみんなから推されて出世することになるということなのです。

花子:なるほど醜いポスト争いをなくし、派閥の勢力争いを防止するのに効果があったでしょうね。
先生:このF(     )の心を風刺した落語がありました。尾張の殿様徳川宗春が八代将軍に推挙されたのですが、すんなり引き受けるのは礼に失するということで、とても将軍の器量ではないからと辞退したわけです。辞退しても紀州の徳川吉宗のところへ回って、吉宗が辞退し、もう一度話が回ってくれば受ければいいと思っていたのです。ところが吉宗は、私は将軍の器量ではないけれども、尾張の殿様が断られたのなら、幕府の為にお受けいたしますと、あっさり引き受けてしまったので、尾張の殿様は大変悔しがったという話です。
 

太郎:そして四つ目は「H(  )の心」ですね。これを拡張すればI(     )の徳が身につくというものです。「H(     )の心」というのはどういう心ですか?

先生:
自らの行いが「是か非か」つまり道徳的に観て、肯定されるべき行いか、それとも非難されるべき行いかを常に反省する心です。『論語』には曾子の言葉で、「吾日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交はりて信ならざるか。習はざるを伝ふるか」とあります。

四端

拡張

四徳

惻隠の心

拡張

羞悪の心

拡張

辞譲の心

拡張

是非の心

拡張

花子:孟子が性善説を唱えた根拠は何ですか?

先生:人間の心はみんな共通であって,みんなが共通の価値観を抱き得るという確信からです。仁は,真心や思いやりであり,他人の不幸を忍びがたい心ですが,そうした心やそれに基づく行動は,だれしも共感を抱くものです。仁義礼智忠信孝悌はどれもそのような普遍妥当性を持つ価値です。それらは人間としての誰でも持っている良心を育てていけば,誰だって身に着けることができる徳なのです。聖人だってだから誰でも努力次第で成れるのです。つまり庶民も聖人も同じ人間だという自覚があります。この聖人と庶民の共通性,相互理解の可能性に基づいて,J(                      )の現実性を主張できたのです。

太郎:でも戦国時代ですから、そのようなK(               )
な価値が次第に通用しなくなったはずです。それぞれが自分勝手な価値観をもち,行動様式を取るようになっていたでしょう。

先生:そうなりますと後は力で為政者の制定した法に服従を強制して,無理やり従わせるしかなくなりますね。それでは心から為政者を尊敬して,為政者に従うことにはなりませんから,平和は長続きしません。

花子:つまり戦国時代の力ずくのやり方では、破綻してしまうので、やはりJ(                        )
実現という道義こそ普遍性があり,その為にこそ人間は生きるべきだという道義主義的な人間観を抱いていたのですね。


 

太郎:ところで徳の衰えた天子を退位させ徳のある者が天子になることによって王や皇帝の姓が変わるL(         )の説を孟子は本当に唱えたのですか。

 

先生:L(        )という言い方は『M(     )』にはありません。ただし天子が位を世襲させずに有徳者にゆずるN(    )は立派なことだとしていますしと、悪逆非道な天子を追放するP(     )は当然のことと考えています。つまりQ(     )の徳を備えていないものが君主になっていても、それは本当の君主とは言えないのです。ゴロツキにすぎないということです。そういう意味では革命を認めていたわけです。あくまで人民本位の政治を追及していたのです。
 

問.@(    )〜K(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
礼 禅譲 四徳 仁義に基づく王道政治 羞悪 君子 是非 孟子 惻隠 智 辞譲 義 普遍妥当的 四端 放伐 仁 易姓革命


              
7荀子の性悪説


 

欲望で動くが人の性ならば、礼を定めて矯むにしかずや


 

先生:性悪説を説いたのは@(     )です。彼は孟子が亡くなってから活躍していますから、直接論争したわけではありません。彼は「A(                                    )」と説きました。これを「人の本性は悪である。人の本性が善であるというのは偽りだ。」と解釈してはいけません。「偽」は「偽り」という意味ではなくて,「B(         )」という意味なのです。「C(       )はうまれつきは欲望のために動かされるで悪なのだが,聖人が礼や法を定めたので,教育や環境でD(       )的に善になったのだ」という趣旨なのです。

花子:それじゃあ生まれつきは悪いけれど教育や環境次第でよくなるということですね。どうして生まれつきは悪いのですか、赤ちゃんなんて何の罪もない、純粋無垢だって言うじゃないですか。

先生:荀子によれば人間は生来,欲望に衝き動かされて,「E(   )を好む」だから「F(    )生じて辞譲滅ぶ」、「G(         )」だから「H(     )生じてI(     )亡ぶ」、「耳目の欲,J(     )を好む」だから「K(     )生じてL(            )亡ぶ」からなのです。

太郎:なるほど、一理ありますね。欲望と理性のうち、はじめは欲望しか機能しないので、どうしても放っておくととんでもない方向にいってしまいますからね。

先生:そこで聖人が出て,M(   )を定めて人民を矯正しなければならないのです。「N(    )の化・O(    )の道(みちびき)」によって、「辞譲に出で,文理に合し,治に帰す」という論理です。性善に信頼せずに,M(   )を定めて人民を教化して,支配するという発想は,戦国時代の厳しい治安状態を反映しているのです。この荀子の現実主義は,古典的法治主義を唱えたP(    )に引き継がれることになります。

花子:荀子は、人間を突き放して冷静に客観的に捉え,その上でどうすればそれを良い方向に変えられるかを科学的合理的に捉えきろうとしたのですね。

先生:ええ、そうです。人間をQ(          )として規定しているところはアリストテレス的ですね。環境や教育の影響を重視し,呪術等のR(     )を退け,S(     )の意義を強調したのです。それで古代における中国最大の唯物論者として新中国では高い評価を受けてきました。

問.@(    )〜S(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
啓蒙 人為 礼義 社会的動物 憎しみあう 荀子 師法 人之性悪、其善者偽也 礼
忠信 迷信 利 法家 声色 残賊 人性 争奪 淫乱 礼義文理


 

8『老子道徳経』


 

兼愛も別愛もなし無為の道、自然のままに生きるにしかず


 

太郎:つぎは道家ですが、道家にはどういう人がなったのですか?

先生:道家には春秋戦国の@(         )たちが含まれます。彼らは諸侯には仕えず、山野に篭って、ひっそりと生活していました。その人々の言葉を集めたのが『A(            )』だと考えられます。

花子:道教という宗教と道家はどうかかわるのですか?

先生:道教は道家たちの教えを基にして,それに様々なB(      )が混ざり合って、後世に出来てきた中国独特のかなりオカルト的な民間宗教です。

太郎:孔子の「朝、道聞かば、夕べ死すとも可なり」の道と、『A(       )』の「道」とはどう違うのですか。

先生:道家の代表的な書物は『老子道徳経』と『C(     )』です。『老子道徳経』に「D(         )」とありますが,本当の道が廃れたので「仁義」というこれが「道」だいわれるものが作られた,という意味です。ですから儒家の「道」は贋物だと排斥したのです。排斥したのは儒家だけじゃありません。E(   )も「義」を盛んに説いて,「兼愛・別愛」論争が盛んでした。博愛主義に徹する墨家に対しは,F(   )が「自分の為でなければ髪の毛一本も動かさない」という極端な利己主義で対抗します。これを楊墨論争と呼びます。こうした「道」にまつわる様々なかまびすしい議論自体が,無用の対立を生み不毛の議論に終わるのです。それが結局は世の中の争いと結びつきます。
 そこで本当の「道」というものは人間がG(    )にこうだと規定できるものではないと主張して,「道」自体をH(   )すべきものとして捉えたのが道家の立場だったのです。

花子:対象的に捉えないで,体得するとは例えば「水練」みたいなことですか。

先生:強いて訓練的に体得しようというのではありません。「I(       )」を強調しますから,怖がらずに自然に身を任せれば泳げるということです。自然と自分を対峙するのじゃなくて,自然と融合すれば良いのです。J(     )に何かをしようと身構えないことが大切なのです。孔子の場合,周礼の復活を目指して,どうしたら各人を礼に到達させられるかという目標がありました。その意味では人為的だったのです。道家は文明それ自体を人為として退けて,自然にかえり,自然のままに生きることにテーマを見出したのです。「ありのままに生きようとしたありは、ありのままだった」

太郎:自然のままに放置していたら、人間は欲望の動物だから、奪い合いになり、戦争になってしまうのではないのですか。

先生:自然のままに生きている獣たちは儒家のように家族愛を教えなくても,家族で仲良くしたいものは仲良く助け合っているし,家族を大切にする余り共食いするなんてこともありません。自然の摂理によって種の保存をはかっています。それを別愛か兼愛かの二者択一の問題にするから,無用の争いが起きるのです。

問.@(    )〜J(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
人為的 対象的 老子道徳経 隠世家 無為自然 体得 墨家 大道廃有仁義 荘子
神仙思想 楊子 


 

9大道廃有仁義


 

大本の自然の道が失われ賢しらの道かまびすしいや


 

先生:『老子道徳経』は大変簡潔なテキストなので、原文に触れながら勉強した方が印象的で分かりやすいのです。ではその箇所を見てみましょう。「@(                                                                                                                                                               )」を訳してみます。「本当の道が廃れてしまったので,仁義などというでっち上げの道が説かれるようになった。さかしらな智恵が幅を効かして大嘘が罷り通っている。親族が仲違いをするから孝行息子が殊更に褒めそやされる。国が下剋上等で乱れてしまったので,忠臣が立派だと思われる。」

花子:先生、荀子の説明では「偽」は「A(     )」だと言われたのに、どうしてここでは「B(      )」なのですか。老子は荀子より古いのでしょう、だったら「B(     )」ではなくて,「A(      )」の筈ですね。

先生:でも文脈からみて「B(     )」としかとれません。春秋戦国時代に流布した資料は現存していないのです。みんな漢代以降の資料なのです。盛んに加筆訂正が行われたと見られていますから,後代に「大道廃有仁義」の後に「C(              )」を充実させたのだろうと推測されます。

太郎:「D(     )」や「E(     )」という儒家の型に嵌まった人為的な人の道が間違っていると言うのでしょう。そういう言葉によって「D(      )」の為,「E(      )」の為と人は「善行」に励み,F(        )に基づく人為を重ねて文明や国家を築き,揚げ句の果ては果てし無い醜い争いを繰り返すようになったと嘆いているのですね。

先生:だから,「G(                                                                                                                                                             )」(聖人君子など根絶して,彼らが説いたさかしらな智恵など棄ててしまいなさい。そうすれば人民の利益は百倍する。仁者と呼ばれる善人ぶった連中を根絶し,正義を振りかざすのをやめなさい。そうすれば人民は自然に両親を大切にし,人を慈しむようになるんだ。文明を生み出す技術者を根絶し,富を生む基になる儲けを棄てなさい。そうすれば盗賊なんかでてこない。)と続けています。

花子:聖人や仁者や技術者を殺して、文明をなくそうなんていうことになれば、余計に争乱になるのではありませんか。

太郎:道家の人々は世を捨てた隠世家ですから、実際にテロを組織したりするわけではありません。ですから聖人君子などは有害無益だと嘆いているにすぎないのです。

先生:文明を否定し,その元となるH(     )を少なくすることを説いて,「I(         )
」を良しとしています。現実の戦国時代は戦争を終わらせ,天下を統一させる方法を求めていたので,『老子道徳経』のような隠世的な思想はやる気を失わせるので,排斥されると思われるかも知れませんが,実際は『論語』などでも隠世家にはかなり好意的です。隠世的な思想は,義や智を争うのではなく,義や智そのものを相対化する働きを持っています。必死になって守ろうとしている義をいったん無意味なものとする事によって,発想の転換や局面の打開が可能になるんです。

 

花子:それに道家の思想の中心はJ(          )ですから、建前によって見失われていた,自然のままの本音の解放も可能になります。K(           )に物事へ対応しなければならない時には,隠世的な思想が大いに参考になります。だから同一人物が口では儒家の言を唱えながらも,実際の心の内や行動では道家の言に従う場合もあり得るのです。特に浪士は,一方で学問や武芸に励みながら,他方で精神安定の為に道家に親しまないとやり切れなかったでしょう。

問.@(    )〜K(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
人為 無為自然 忠孝 慧智出有大偽 融通無碍 欲望 小国寡民 賢しら 仁義 偽り
大道廃有仁義,慧智出有大偽,六親不和有孝子,国家昏乱有忠臣   
絶聖棄智,民利百倍,絶仁棄義,民復孝慈,絶巧棄利,盗賊無有


 

10道(タオ)とは?


 

欲ぼけは上っ面しか見えぬもの欲を離れて妙を知るなり
言の葉で言い表せば嘘になる一つになりて体で知れるや


 

太郎:ところでそもそも「道(tao)」とは何でしょう?

先生:『老子道徳経』の書き出しを注目してください。
「道可道,非常道,名可名,非常名,無名,天地之始,有名,万物之母,故常無欲,以観其妙,常有欲,以観其徼,此両者,同出而異名,同謂之玄,玄之又玄,衆妙之門」とあります。

花子:先ず最初から読めません。「道の道とすべきは,常の道にあらず」ですか?

先生:「道の言うべきは常の道にあらず。」と読む解釈もあります。「道」は動詞だと「言う」という意味にもなります。どちらも主旨は同じ様なものです。「道はこれが道だと語れるようなものではない。語ってしまえばそれはもう不変の道とは言えない。」続く「名可名,非常名」も同様に「これが正しい名だと名付けられるような名は不変の名とは言えない。」という意味でしょう。

太郎:なんのことかピンときません。

先生:正しい名を付ける事が世の秩序を正しくする根本だと考えた荀子のような人々は,名実一致を追求しました。しかし道家では対象化され,@(           )事物は,事物の本来の姿ではないんです。本来の姿は主・客未分化な事態としての「A(    )」だというのです。だから対象化できず,従って名付けられもしないものです。ですから,名実一致を巡って言い争うのはナンセンスだと主張しています。

花子:みんなが正しい言葉を使えば誤解に基づく争いがなくなるわけですね。ところがそもそも事物の本来の姿は客観的に対象化したとたん本来の姿ではなくなるので、言葉で表すことは出来ないのだというのでしょう。そしたら言語によるコミュニケーション自体が不可能になりませんか。
 

先生:言葉で伝えられるものというのは限られた表面的なものでしかないというのです。「無名,天地之始,有名,万物之母」は「名状しがたいカオスから天地が出現した。物事を対象的に区別し,名付ける事によって万物が生まれる。」と解釈します。 
「故常無欲,以観其妙,常有欲,以観其徼」はこう解するのが正しいでしょう。「だから常にB(    )によって主観・客観の区別を去って始めて,A(   )を感得して,『C(   )』を観ることができる。常に欲があって支配すべき対象として物事を外から捉えようとすると,その外面(そとづら)である『D(     )』しか観ることが出来ない。」

太郎:たしかに欲望の目で道具や手段にならないかということで自然を見ていますと表面的なことしか見えませんから、人間が身勝手なことをして自然を破壊してしまうことになりますね。欲望を離れて、ありのままの自然を捉えれば、驚くべき不思議の世界が広がっているということでしょうか。


 

先生:「此両者,同出而異名,同謂之玄,玄之又玄,衆妙之門」はこういう意味です。「主・客未分化な無名も,客観的に物事を区別する有名も,同じものの働きから出ている。その働きの違いによって名を異にするのだ。この同じものを,何が何だか名付けようがないから『玄』つまり『真っ黒け』としか呼びようがない。その玄が出てくる元の玄からありとあらゆる『妙』が出て来るんだ。」


 

花子:なんだかブラックホールからコスモスが誕生するみたいなイメージですね。


 

先生:「A(   )」は,何もかも其処から生じ其処に帰るE(     )であると同時に,現実に様々に起こっている出来事の総体でもあります。人間はそれを己のちっぽけなさかしらや浅ましい欲望から,あれこれと解釈して,自分の都合のよいようにと考えるから,ああでもない,こうでもないと議論して争うことになります。「道」はそんな思惑や期待などは全くお構いなしで「F(     )」です。王たる者は,この「道」に逆らわずに,欲望やさかしらを去って,「無為自然」に振る舞えばよいのです。そうすれば,人間の本来の自然である「道」のままに,その雄大な営みを楽しむ事が出来るということです。


 

太郎:道は大いなる生命と言ってもいいのでしょう。ところで「無為自然」に振る舞うというのはどういう事でしょう。


 

先生:欲望を否定的に扱っているので,何もしないでぼうっとしているのが良いような印象も受けるかも知れませんね。欲は「道に逆らって,勝手な欲望を実現させようとする事」を意味すると解釈すべきです。「G(                 )」なのです。何もしないのではなくて私心なく,皆のために尽くしてしかも,人と争わないで,人の下に回る。これを「H(            )」と言います。そういう人こそ政治を善く行い,物事を立派になし遂げることが出来るといいたいのです。だから決して消極的な人間を理想化していたわけじゃないんです。

問.@(    )〜H(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
名づけられた 上善は水の如し 不争謙下 道(tao)
 大本 不仁 徼 妙 無欲 


 

11『荘子』


 

生忘れ身の束縛を捨て去りて無心になりて道に遊べや


 

太郎:「老子道徳経』と戦国時代末に活躍した@(    )の『荘子(そうじ)』では同じ道家でも道(tao)に関する捉え方はどう違うのでしょうか。


 

先生:司馬遷の解釈では本体としての道の把握は同一です。でも福永光司の解釈では次のように違っています。老子の道は、自然のままの全ての存在の本来の姿としての道です。太古樸素の道への復帰が説かれていて後ろ向きなのです。荘子の道は、刻々流転してやまぬ変化そのものが道です。道と共に往き変化に乗って遊ぶ「A(        )」が理想の境地です。ですから今をいかに生きるかが説かれていて前向きです。

花子:とするとB(      )についての捉え方にも違いがあったのでしょう。

 

先生:老子は、外に対する態度としての無為を説きます。無為が保身に最上だというのです。荘子の無為は内なる心の無為です。つまりC(    )を説いています。生きているということを忘れ,身の束縛を捨てて自然のままに生きる解脱の智恵としての無為を説いているのです。いわば「絶対的な生」の立場なのです。

 

太郎:荘子の特徴はD(               )だと言われますが,万物は皆等しく同じだというのはどのように解釈すればよいのでしょうか。

 

先生:物事や行いの是非についてかまびすしい議論がE(      )間でなされていました。これに対して現実の矛盾や対立,是非,善悪はより大きな立場から見れば,どちらでも良いことで,その違いなど好悪愛憎の妄執による狭い了見から生じたF(        )の産物に過ぎないのです。


花子:具体的に例を挙げて説明していただきませんと、漠然として分かりにくいのですが。
 

先生:荘周はスケールの大きい例えで話しています。G(       )が三千里もの大きさのH(     )になって遙か上空に舞い上がるとすべての事物の区別,是非の相対性が明らかになり,I(              )が実感されるでしょう。これが燕雀には理解しがたい「J(      )」の境地なのです。あれとこれ,大小,生死,可不可,是非は相関的で相対的だから根源的には同じものです。だから「K(                                   )」と説かれます。あらゆる妄執は自分および自分の身体に固執していることから生じます。それらから自由になることを荘周は,次の「胡蝶の夢」の詩に託しています。

 

問.@(    )〜K(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
鵬 万物斉同 荘周 分別知 絶対的な一 逍遥遊 無心 無為 儒墨 鯤 真人
天地一指也,万物一馬也
 

12胡蝶の夢
 

わが夢で胡蝶になりて楽しめり人の身なるは胡蝶の夢かは
 

先生:「昔者荘周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與。不知周也。俄然覺則遽遽然周也。不知周之夢爲胡蝶與。胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶則必有分矣。此之所謂物化。」「昔は荘周,夢で胡蝶だった。ひらひらとして胡蝶だ。自分で楽しんで志に適っていた。自分が荘周だということも知らなかったのだ。俄に目覚めればまぎれもなく周だ。周の夢で胡蝶になったのか,胡蝶の夢で周なのかは知らない。それが周と胡蝶とは必ずけじめがあるとされているのだ。こういうのを物化というんだ。」
 

花子:「夢で胡蝶になって楽しんでいた」というのはありそうな夢ですが,「@(        )で荘周」という発想は凄いですね。A(          )の区別も,胡蝶と荘周の区別同様相対的なものになっています。ところで「B(     )」というのはどういう意味ですか。
 

太郎:本来一つのC(     ),道であるのに胡蝶や荘周という物に分けて,その区別に固執する事を意味しているのでしょうか。
 

先生:荘周という主観と胡蝶という客観の区別を克服して、D(             )的な認識の図式を乗り越えようとしていますね。現代哲学でも一つのC(       )を荘周や胡蝶という物同士の関係として捉える「B(     )」を批判する議論があります。でもここでの「B(     )」概念は,むしろ正反対です。荘周は,「B(     )」を「いっさいの存在が常識的な分別のしがらみを突き抜けて,自由自在に変化する」事と肯定的に捉えています。

問.@(    )〜D(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
物化 主観・客観 夢と現実 事態 胡蝶の夢
 

13無用の用


              節くれた樗伐られず大木に木陰に憩ふ無可有の郷


花子:「万物斉同論」と並んで,荘周は「@
(          )」を説きましが、これは無用なものでも使い途が有るという意味よりも,むしろ無用と思われているからこそ真の用がある,という意味ですね。
 

先生:大き過ぎて使えない瓠(ひさご=瓢箪)をA(     )は棄ててしまいますが,荘周なら江湖に浮かべて船にして遊ぶ,節くれだって材木として使えなくて大木になってしまった樗(あうち)は何にもない郷に植えて,その下に憩う。B(            )は若くして伐られるがC(             )は永らえて真に有用なものになるんです。
 足切りの刑をうけた者や無類の醜男,びっこでせむしでみつくちを登場させ,形骸やD(        )にとらわれない生き方に共鳴しています。戦国の世の中に自分の徳や才覚を示し,物事の是非を論じてE(   )を貫こうとすることほど殆い事はありません。隠世家の生き方こそが@(          )
に適っているのです。
 

太郎:でもせっかく戦国の世に生まれてきたのだったら、長生きするより、華々しく自分の才能を発揮して、夭折した方がかっこよかったのではないのですか。
 

先生:それもひとつの生き方ですね。F(         )という隠世家に孔丘(孔子)が次のように警告されています。すごい名文ですから,よく味わって下さい。

「鳳兮鳳兮,何如徳之衰也。來世不可待,往世不可追也。天下有道,聖人成焉。天下無道,聖人生焉。方今之時,僅免刑焉。福輕乎羽,莫之知載。禍重乎地,莫之知避。已乎已乎,臨人以徳。殆乎殆乎,畫地而趨。迷陽迷陽,無傷吾行。吾行郤曲,無傷吾足。山木自冦也,膏火自煎。桂可食,故伐之。漆可用,故割之。人皆知有用之用,而莫知無用之用也。」
 

 現代文に直してみましょう。「鳳よ鳳よ,(治世には現れて乱世には隠れる瑞鳥の筈なのに,こんなに不用心に現れてくるとは)何とお前の徳の衰えたことか。将来に望みを託したり,過去の追想に耽っても仕方がない。天下に道があれば,聖人は王道政治を成し遂げるが,天下に道が無ければ,聖人は隠れて一人で生きたものだ。まさに今の争乱の時代は,刑罰から免れるだけでよしとしよう。そう悟れば,幸福は羽より軽いのに,これを拾い上げる術を知らない。禍いは地より重くのしかかるのに,これを避ける術を知らないのだ。止しなさい,止しなさい人に徳を示し,教えるのは。殆いよ,殆いよ,地面を区切って,その中を走るというような規範主義の考えでは。馬鹿に成れ,馬鹿に成れ,そしたら怪我をすることはないだろう。後退し迂回して進んで行けば,自分の足に傷はつかない。山の木は有用なので伐り倒されて自ら禍を招き,膏火は明るいので自ら身を焦がす。肉桂は食用になるから伐採され,漆は塗料となるから割かれるのだ。人はみなG(          )のみ知って,@(           )を知る者は誰も居ないのだ。」

問.@(    )〜G(     )に適語を次から選んで記入しなさい。
有用の用 正義 狂接與 無用の用 有用のもの 恵施 無用のもの 有用性


                 14坐忘問答


           仁義すら礼すら忘れ顔回は肢体やぶりて吾を忘れり
 

太郎:荘子は理想的人間像として,聖人君子に代わって「@(    )」を説いています。道に一体化した人格が@(    )だということですが。

先生:ええ、世間の塵にまみれても,精神は超絶しています。天と地が渾然と融和している人格です。


花子:荘周は,また禅に通じるような「A
(     )」や「B(     )」という言葉を考え出しましたね。


先生:ええ、「A
(     )」とは心を清めるという意味で、自らの欲望に囚われずに天地自然と一体化することです。「B(      )」も身体的なこだわりを捨てることです。これは「B(      )問答」として知られています。それは顔回と仲尼(孔子)の問答になっています。儒家が道家の神髄のような事を語るのはイロニーとも取れますが,建前の部分をC(    )が,本音の部分はD(      )が代弁したとしますと,孔子の本当に言いたかったのはこれだというのが,荘子の孔子への思いかもしれません。


「顔回日。回益矣。仲尼日。何謂也。日。回忘仁義矣。日可矣。猶未也。它日復見日。回益矣。日。何謂也。日。回忘禮樂矣。可矣。猶未也。它日復見日。回益矣。日。何謂也。日。回忘坐忘矣。仲尼蹴然日。何謂坐忘。顔回日。堕枝體。黜聰明。離形去知。同於大道。此謂坐忘。仲尼日。同則無好也。化則無常也。而果其賢乎。丘也請従而後也。」


 顔回「回は進歩しました。」 仲尼「どういう意味だ。」 顔回「回はE
(      )を忘れました。」仲尼「よろしい,でも未だ足りない。」他日又会って 顔回「回は進歩しました。」 仲尼「どういう意味だ。」 顔回「回はF(      )」を忘れました。」仲尼「よろしい,でも未だ足りない。」他日又会って 顔回「回は進歩しました。」 仲尼「どういう意味だ。」 顔回「回はB(      )しました。」 仲尼改まって真剣に「B(       )とはどういう意味だ。」 顔回「G(             )を棄て,H(               )を斥け,形を離れてI(          )を去ります。そしてJ(                        )するのです。これを坐忘というのです。」

 仲尼「道に合一すれば物事を対象的に捉えて好んだり憎んだりすることはない。また自分の身体的な限界を越えて他のものと一つに化することができるなら,囚われことはなくなる。而(なんじ)は果たして賢者だ。私は而の教えを請うことにしたい。」  


問.@(    )〜J(     )に適語を次から選んで記入しなさい。

大いなる道と合一 坐忘 儒学 礼楽 真人 心斎 道家 仁義 聡明 分別知 身体への拘り  

 

諸子百家 解答

1礼楽復興と仁 @周室 A尊王攘夷 B礼楽 C仁 D対機説法 E巧言令色鮮矣仁 F剛毅朴訥近仁 G人を愛する H忠恕 I克己復礼 J噫天喪予,天喪予 K己所不欲,勿施於人  L夫仁者己欲立而立人,己欲達而達人  M孝弟也者,其爲仁之本與

3徳治主義 @徳治主義 A道之以政,齊之以刑,民免而無恥,道之以徳齊之以禮,有恥且格 B修己治人 C朝聞道,夕死可矣 D人不知而不慍,不亦君子乎 E君子危うきに近寄らず F一以貫之

4兼愛非攻 @孝 A親縁の度 B別愛 C兼愛 D墨子 E非攻 F墨守 G禽獣にも劣る H節用 I薄葬 J非楽 K秦墨

5五倫の教え @性善説 A性悪説 B父子有親 C君臣有義 D夫婦有別 E長幼有序 F朋友有信 G本居宣長 

6仁義基づく王道政治@四端 A四徳 B惻隠 C仁 D羞悪 E義 F辞譲 G礼 H是非 I智 J仁義に基づく王道政治 K普遍妥当的 L易姓革命 M孟子 N禅譲 Oはない P放伐 Q君子

7荀子の性悪説@荀子 A人之性悪、其善者偽也 B人為 C人性 D人為 E利 F争奪 G憎しみ合う H残賊 I忠信 J声色 K淫乱 L礼義文理 M礼 N師法 O礼義 P法家 Q社会的動物 R迷信 S啓蒙

8『老子道徳経』@隠世家 A老子道徳経 B神仙思想 C荘子 D大道廃有仁義 E墨家 F楊朱 G対象的 H体得 I無為自然 J人為的

9大道廃有仁義@大道廃有仁義,慧智出有大偽,六親不和有孝子,国家昏乱有忠臣 A人為 B偽り C慧智出有大偽 D仁義 E忠孝 F賢しら G絶聖棄智,民利百倍,絶仁棄義,民復孝慈,絶巧棄利,盗賊無有 H欲望 I小国寡民 J無為自然 K融通無碍

10(タオ)とは何か@名づけられた A道 B無欲 C妙 D徼 E大本 F不仁 G上善は水の如し H不争謙下 

11『荘子』@荘周 A逍遥遊 B無為 C無心 D万物斉同 E儒墨 F分別知 G鯤 H鵬 I絶対的な一 J真人 K天地一指也,万物一馬也

12胡蝶の夢@胡蝶の夢 A夢と現実 B物化 C事態 D主観・客観

13無用の用@無用の用 A恵施 B有用なもの C無用なもの D有用性 E正義 F狂接與 G有用の用

14坐忘問答@真人 A心斎 B坐忘 C儒家 D道家 E仁義 F礼楽 G身体への拘り H聡明 I分別知 J大いなる道と合一 

 

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